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第6話

「お帰りなさい誠一さん。カレーにしますか、ご飯にしますか?」  「選択権はないのか」  ドアを開けるや、よく躾られた笑顔で控える悦巳に鞄を託す。つい足元に目が行ってしまう。  「……スリッパか」  「妥協案っす」  胸を反らして威張り、ピンクのスリッパをちょいと蹴り上げる。  海外生活が長い誠一にしてみれば靴を脱がずに上がる洋式スタイルはごく自然な事だが悦巳はやっぱり抵抗あるのだろうと、顔には出さず価値観の違いを実感する。  胸に抱くようにして鞄を受け取った悦巳がいそいそあとをついてくる。  左手のドアを開けてリビングへ入り、一人掛けソファーに身を投げ出す。  「食ってきてないっすよね?ご飯作っちゃいましたよ。温めるんで待っててください、なんなら風呂が先でもいっすよ、ちょうどいい時間になるし」  台所に立つ悦巳はご機嫌な鼻歌を口ずさみつつ緩慢な動作でとろみのついた鍋の中身を回す。  誠一の位置からは後ろ姿がちらつくだけだが、この頃すっかり家政夫が板についてきた。肩の力みがとれてリラックスしている。  悦巳は昨今の若者には珍しくファッションに無頓着で、いつも安上がりなスウェットかジャージを着ている。どちらもややサイズが大きめで、貧弱な悦巳が着ると余分な生地の中で手足が泳いでだぶつき身に染みついた自堕落さが漂う。  腰回りがらくなゴムのズボンからは下のシャツがだらしなくはみ出し、軽薄に脱色した髪はヘアバンドで偽装しても隠せぬ寝癖がつき、しぶとい雑草のように跳ねる。  充満するカレーの匂いに食欲が減退していく。  「カレーは好きじゃない」  「えっ」  「茶漬けでいい」  「どうして、なんか食ってきちゃったとか?」  「取引先の人間とフレンチを。こってりしてたからな、口直しにあっさりしたものが食いたい」  「……そっすか……」  げんきんなほど気落ちし、鍋をかきまぜる手をとめて俯く。  「ま、まあ、カレーは二日目が一番美味いっていいますもんね。保存きくし……タッパーに詰めて冷蔵庫詰めとけば長保ちするそっすよ。食べる時は流水で溶かしてレンジでチン。便利っすねー」  「そういうのどこで覚えてくる?」  「おもいっきりテレビさまさまっす。みのさんはいつ見てもてかってますねー」  コンロの火を消し振り向くや眦を決し、めげずに食い下がる。  「ちょっとでも食べれません?今日のカレー、みはなちゃんと作ったんすよ」  「みはなと?」  眉をひそめる。  悦巳は頷き、温め直したカレーを舟形の器によそり、コップに一杯汲んだ水に匙を漬けてやってくる。  「じゃがいもの皮剥きとたまねぎ剥くのとぽちゃぽちゃルーをいれるの手伝ってくれました、本日の花まる功労賞っす」  大して役に立ってじゃないかという皮肉が口元まで出かけるも、慎む。  その代わり悦巳に嫌味をなげつける。  「見た目は普通のカレーだな。先週はスープだった、極薄味の」  「あ、あれはルーの数間違えたんす。三人だから三個でいいかなと早合点して……今回は大丈夫っすリベンジっす!」  確か先週の月曜日もカレーだった。  しかしあれをカレーと認めるのは誠一の美意識と味覚が許さない。  あれはカレーのふりをした液体状の何か、あえて分類するならカレー味がついたスープだ。見た目は泥水に酷似していた。  初挑戦だから加減がわからなかったんすと弁解する悦巳をリビングに残し、一口で席を立った事を思い出す。  「前回の失敗と経験を踏まえ今回は基礎の基礎から固めましたから味は保証つきっす!ま、だまされたとおもって一口どぞ」  「詐欺師がどの口で言う」  「元っすよ、今は家政夫っす」  「見習いをつけろ失敗ばかりのくせに。いくつ鍋をだめにすれば気が済む」  痛いところをつかれた悦巳は不服そうに口を尖らし、コップの水で匙を洗う。  「社長のくせにケチっすね誠一さんは。んな事いうけど捨てんのもったいねえしこがした鍋は洗って使ってますよ、底の焦げ目は根気良くタワシでこすっておとして……こないだなんか大変でした、いくらこすっても汚れがおちなくて全部終わったの午前二時。誠一さんとみはなちゃんがぐっすり寝入って静まり返ったマンションの明るい台所でひとりぼっち、すっげーわびしかったっすよ。気のせいか背後に視線感じるし……俺むかしから苦手なんすよね、気配とか幽霊とか怖い話だめだめで。振り返ったら黒い影がぬぼーっと突っ立ってるんじゃねえかって妄想スイッチオンして首の後ろがぞくぞくしたし……けどがんばってぴかぴかに鍋磨き上げたっす!そういう努力ちっとは認めてくれたってばちあたんないと思いますけど」  「気配に敏感なら色々気付きそうなものだが」   「?」  霊感が強いと自分で主張する人間はえてして鈍感なものだ。  「で?俺が食わんと言ってるのに何故もってくる」  「俺が食うんすよ、温め直してたら腹減っちゃって」  「夕飯食ったろう」  「美味いカレーは何杯でもイケます。育ちざかりっすから、俺」  ちゃっかり誠一の対面席に腰掛け、「いただきます」と匙を持つやいきなり突っ込み、五分五分の区分のルーとご飯を混ぜ返しかき回す。  突然の行動に面食らう。  悦巳は鼻歌をなぞりつつ、ご飯を混ぜ返しルーと和えてぐちゃぐちゃの混沌を生み出していく。  「何してるんだ?」  「え?カレーはこうして食ったほうが美味いっしょ」  「汚い。やめろ。不愉快だ」  「手遅れっふよー」  反省の色なく笑い、幸福そうな顔で匙を咥える。  誠一は汚物でも見るような視線で悦巳ががっつくカレー、もとい、ところどころ形の不細工な異物が浮き沈みする茶色いペースト状のものを遠ざける。  「そんないやがんなくても。ガキの頃からこうやって食ってたし、癖なんすよ」  「食べ方に育ち方がでる」  辛辣な嫌味さえ美味しそうにカレーを頬張る悦巳の前ではあっけなく消し飛ぶ。  コップに口をつけ水を呷りつつカレーをすくう。  匙が皿と口とを忙しく往復する。  白い湯気に乗じて漂うスパイシーな香りが鼻の粘膜と胃に染み、下品で意地汚いが豪快で気持ちよい悦巳の食べっぷりが食欲を刺激し、舌の表面の分泌線が開いて生唾が湧く。  「よそってきましょうか」  正面の誠一の様子を上目でうかがい、してやったりとほくそえむ。  「……ああ」  顎をしゃくる。  悦巳は「らじゃっす」と快活に頷き、しっぽを振りたくって台所へすっとんでいき、湯気立つカレーとコップ一杯の水とを盆にのせ戻ってくる。  給仕のように慣れた手つきで食器とコップを並べ、皿と平行になるよう匙を置く。  「どぞ」  押し黙って匙をとり、すくう。運ぶ。  「どっすか?どっすか?」  「………なんだこれは」  「口に合いませんか」  「甘いじゃないかカレーのくせに」  だまされた。  「みはなちゃんでも安心して食べられる甘口っす。お子様は辛いのと苦いの苦手っすからねー」  悦巳の発言に虚をつかれる。  「誠一さん?」  みはなはカレーが嫌いだと思っていた。  まだ三人で暮らしていた頃、料理にこっていた妻が各種スパイスを調合して本格的なカレーを作った事があったが、みはなは最初の数口で匙をおいてしまった。  そのせいでカレーが嫌いなのだろうと先入観が根づいていたが、悦巳の指摘で真実を知る。  「……好き嫌いじゃなくて食えなかったのか」  「え?」  本格的なスパイシーカレーは子供にはきつい。  どうしてそんな単純な事実に気付かなかったのだろう。  大人にはきつい甘口のカレーを仏頂面ですくって食べる。  匙をご飯にもぐらせ、ルーを被せて口に運ぶ。  胸がむかつく甘さに顔を顰めるも、喉仏を動かしむりやり嚥下。   「……味はともかく、見た目は普通のカレーに近付いたな」  「恐れ入るっす」  皮肉を真に受けて悦巳が頭をかく。バカだ。  悦巳は嬉々として身を乗り出し、誠一が匙にすくったいびつなじゃがいもの一欠けを指さす。  「よくできてるっしょ?みはなちゃんが剥いたんす。俺よりよっぽどしっかりしてて感心しちゃいました、みずはらさんお鍋が吹き零れますよって服引っ張って教えてくれなきゃどうなってたか……台所炎上大惨事っすよ!にんじんも切りたいって言ったけど小さい子に包丁使わせんの危ないかなーっておもってやめときました、過保護かもしれないすけど」  甲斐甲斐しいお手伝いぶりを回想、笑み崩れて惚気る。  実際悦巳は誠一より余程過保護で、みはなに対し愛情をもって接する。  薄ら寒い風が胸の内にすさぶ。  悦巳は手振り身振りをまじえみはなの頑張りぶりを克明に伝えようとするが、どんなに熱心に言葉を重ね微に入り細を穿ち説明したところで平行線だ。  誠一の関心はみはなにないのだから。  悦巳の言葉はむなしく耳を素通りしていく。  「そんでですね、みはなちゃん袋持つって言ったんすけど、さすがに一人じゃむりなんで二人で持ちました。試しに一人で持たせてみたら右に左によろけてあっぷあっぷ、危なっかしくて見てられねっす。転ばなくてよかったっすよ、ほんと。女の子が膝すりむいちゃ可哀想っすもんね……誠一さん?」  匙にじゃがいもをのせたまま、悦巳の処遇と今後の対策について綿密に思案を巡らせていた誠一が我に返る。  訝しげな様子の悦巳に鼻を鳴らし、じゃがいもを咀嚼。  「仲が良くて結構。すっかり手懐けたな」  「………犬猫みたいに言うのよしてくださいよ。自分の子供っしょ?」  「女子供に好かれるのも詐欺師の才能か。どうでもいいが、もう少し料理のレパートリーを増やせ。これから毎日カレーを食わされたんじゃ胸焼けする」  「言われなくたって今猛勉強してます。まあカレーさえ作れりゃあとは完璧っす、シチューも肉じゃがも似たようなもんですし」  「自炊はどうしてた?一人暮らしだったんだろう」  カレーひとつ作り上げただけで得意満面、饒舌にしゃべりたてる悦巳に疑問を呈す。  悦巳がどもり、目を伏せがちにして無意味にカレーをかき回す。  「……高校中退と同時に施設とびだして暫くダチと暮らしてたんす」  スプーンと食器が触れ合いかちゃかちゃ音を立てる。  伏せた目に湿った感傷が膜を張る。  「そのダチが料理上手で、毎日作ってもらってました。そっち方面の才能あったんすよ、そいつ。特にカレーが絶品で……にんじんじゃがいもたまねぎ、使ってる材料はそこらのスーパーでも買える全然普通なもんなんですけどちょっとした隠し味でぐんとコクとまろやかさ引き立って。調理師の専門行けって何度もせっついたんすけど、どこにんな金あるんだよって笑い飛ばされて……懐かしいな」  友人の才能を語る悦巳は自慢でもするかのように誇らしげだ。  「カレーも教えてもらったのか」  「うす」  幼い悦巳と隣り合う写真の少年が脳裏に像を結ぶ。  癇気の強そうな顔立ちで、他人を押しのけても前に出ようとする少年と悦巳はふしぎと相性がよさそうに見えた。  「施設の友達か」  「はい。ガキの頃からどこ行くのも一緒でした。マブダチってヤツっすよ。ひとつ上だから兄貴代わりかな?」  間違いない、写真に写っていた少年の事だ。  悦巳が振り込め詐欺に手を染め裏社会の深みに嵌まることになった元凶。  悦巳は先ほどとは違い丁寧にカレーを味わう。  友人と食べた思い出の味をしみじみ反芻してるのだろう、まなざしが和む。  「ヨーグルト一匙とかチョコひとかけとか、え、んなもんいれるの?って引いたんすけど、騙されたと思って試してみたら癖んなって。なに作らせても上手かったけど……飢えずに済んだのはあいつがいたからっすよ」  「まるでヒモだな」  「返す言葉もありません」  「カレーの材料は買出しか?冷蔵庫にあるものを使わなかったのか」  「ルーねっすもん」  「カレーはパプリカとスパイスを調合して作るものだろう」     「……はいはいセレブセレブ」  どうやら誠一と悦巳の間には埋めがたい価値観の断絶、育った環境の相違が存在するらしい。誠一にとってカレーは数十種類のスパイスとパプリカを調合しじっくり時間をかけ煮込むもので、悦巳にとってはどこの家庭でも手軽にできる庶民の味代表格だ。  「ご馳走様っした」  綺麗にたいらげた皿に匙を投げ、両手を揃えて言う。  誠一は片頬で笑う。  「躾がいいんだな、詐欺師のくせに」  「施設ん時の癖がぬけんねーんすよ。……ところで、誠一さん。ずっと気になってたんすけど、ひとついっすか」  声色が低まる。   「……誠一さんの奥さん……みはなちゃんのお母さんて料理研究家かなんかっすか」  「何でそうなる」  発想の飛躍に脱力。  誠一の露骨な呆れ顔に悦巳はむきになって推理の根拠を明かす。  「あんなばかでけー冷蔵庫普通んちにありませんよ、中身も充実だし。世界の食材見本市ってかんじで。セレブな奥様御用達高級スーパーでしか売ってない、庶民は見たこと聞いたことねー調味料香辛料何十種類と揃ってるし……」  「形から入る女だったからな。見栄っ張りなんだ。冷蔵庫も自分で選んだ」  悦巳がもう少し注意力に恵まれてれば、棚を埋め尽くす輸入品香辛料の瓶の中身が殆ど減ってない事実に気付いたはずだ。  あの女はコレクションだけで自尊心を満たし満足する、そういう女だ。  空疎な中身をごまかすため外側を麗々しく飾り立て虚飾の悦に酔う女。  「みはなちゃんの母親ってどうしてるんすか」  そのうち聞かれるだろうと覚悟していた質問だった。   予め用意していた答えを舌に乗せる。  「星になった」  「……………」  絶句。  「どうした?」  「いや……その……誠一さんの口からんなロマンチックな台詞を聞くとは」  既にからっぽの皿からカレーをすくおうと匙を動かし動揺、下唇に匙を押し当てしんみりする。  「マンションに仏壇見当たらねえし離婚かなって思ったんすけど、そっか、やっぱお星様になっちゃったんすね……すんません」  「仏壇は飾らん。インテリアにそぐわん」  「料理中みはなちゃんに聞いてみたんすよ、お母さんどこにいるんすかって。曖昧にしとくのも気持ち悪ィし……誠一さん、なんも教えてくんないじゃないすか」  「必要ないだろう。お前はただ与えられた仕事をこなせばいい」  「そうはいかないです、みはなちゃんの面倒は俺が見てるんすから」  「家政夫になれとは言ったが母親代わりになれとは頼んでない」  「似たようなもんでしょ?」  「みはなはお前の種じゃない、お前が腹を痛めて産んだ子供でもない。過剰な感情移入はよせ」  悦巳がいきりたつ。  「過剰な感情移入って……一緒に暮らし始めて一ヶ月たつのに母親の話でなかったら気になるのが人情ってもんでしょ、大体誠一さんが何も教えてくれねーから俺みはなちゃんに余計な事聞いちゃって……」  「みはなはなんて言った?」  「……お母さんはスタアになりましたって……」  星とスタア、どちらも同じ意味だ。  「俺、初耳だからびびって。誠一さんに聞いてはっきりさせたくて」  「それで待ってたのか?」  「下心なくたって起きて待ってますよ、先に寝たら蹴り起こすじゃないすかあんた」  憤然と口論を打ち切り腰を浮かせ食器をシンクに運ぶ。  嫌な事があると台所に避難するのが悦巳の習性だ。仕切り壁で区切られた台所は誠一の目が届かないため、安心して愚痴や不満をぶちまけられる利点がある。  瑞原悦巳は単純で短絡的な男だ。  浅薄で軽薄、実に行動が読みやすい。  遊びたい盛りの十代の若者が拉致同然でマンションに軟禁され家政夫として酷使されているのだ、不満やストレスが鬱積し暴発してもよさそうなものだが誠一との言い争い以外で反抗的になる事は滅多にない。  最近は初めて会った時と比べ目元の険がとれ、表情が生き生きしてきた気もする。  思い過ごしか。  台所から食器を洗う水音が響く。  『結婚したのは間違いだったわ』  女の顔は下半分しか思い出せない。  丁寧に口紅を塗った唇は艶やかに光り、華奢に尖った顎と高慢な気質を表わす鼻梁とが華やかな美貌を予感させる。  肉感的な曲線を描く唇が開き、鮮烈な対照を成す白い歯が零れる。  『あなたは誰も愛せない。夫として父親として義務だから役割を演じてるだけ、自分の事しか大切じゃないのよ』  『あの子の誕生日覚えてる?』  『仕方ないわよ、お義父さまを見てればわかるわ。あの人の息子だものね』  血は争えないとでもいうふうに勝ち誇って、蓮っ葉に開き直って、唇が弧を描く。    『あなたは人を愛せない人間なのよ。肝心の親に愛し方を教えてもらえなかったんだからしかたないわ』  頭蓋の裏に直接響く声の湿った余韻。  精一杯虚勢を張り平静を装っても、か細く脆く張り詰めた糸は今にも切れそうに震え、神経を病みそうに陰鬱な余韻を帯びる。  わかった口をきくなと腹の底で激情がうねり荒れ狂う。  薄情な人間だという自覚はある、酷薄な人間だと客観視する、今まで出会った人間は男も女も最後には見限って離れていく、今も誠一のもとで働いてる連中は誠一の権力に従っているだけでもし自分が社長でなくなれば途端に離散するだろう。  今まで交際してきた女たちに男の生理として劣情を刺激されることはあったが、一生守り抜きたいという情熱的な愛情は抱けなかった。  ただ一人そう誓った女の心さえ、本当は理解できていなかった。  子供のことだって  「誠一さん?」  顔を上げる。悦巳がいた。いつのまに帰って来たんだろう。  「……だいじょぶっすか。顔色悪いっすけど」  お人よしな間抜けづらを見つめ返せば、血が逆流し不穏にざわつく。   詐欺師の癖に、どの口でそんなことを言う。  偽善ぶった言動が気に食わない。  俺の機嫌をとろうと下手にでる卑屈な態度に虫唾が走る。  こんなガキに華は騙されたのか、騙され抜かれたまま死んでしまったのか。  晩年の華は孤独だった、苦労を重ね育て上げた子供たちは成人して家庭を持ってからは滅多に顔を見せず広壮な屋敷にひとりきり薔薇の栽培だけを心の慰めにして質素に暮らした、園芸と紅茶だけが数少ない趣味で生き甲斐だった。  その生き甲斐を、こいつが奪った。  瑞原悦巳はとんでもない悪党だ。  児玉華に嘘を吐き、児玉華は下心を隠した偽善者の見せかけの優しさに感激し、信用する価値のない人間を信用した。  おかげで本来なんら関係ない誠一が、多忙な仕事の合間を縫って面倒な後始末に追われる羽目になったのだ。  十数年来疎遠だった祖母が死のうがどうなろうが知ったこっちゃない。  俺も所詮、あの親父の息子だ。  深呼吸で偽りの冷静さを吸い込み、身の内で燻る危険な衝動を宥める。  自宅ではできるだけ平静に、ぼろをださぬよう振る舞っていたが、昼間充と交わした会話のせいか神経がちょっとしたきっかけで発火しかねぬほど昂ぶっている。  普段落ち着いて振る舞っているほど反動は大きく、揺り返しは激しい。  自分を偽りまわりを欺き続けるのは容易い事じゃない。  心配そうに覗き込む悦巳の顔、間近に迫る口元にカレーがこびりつく。    「……子供みたいだぞ」    無意識に手を伸ばし、指を触れる。  ソファーに凭れた誠一の方へと中腰で屈む悦巳、無防備な半開きの唇にほんの一瞬指をかすめ、汚れを拭う。  「え」  悦巳の目に動揺がさざなみだつ。  「………シャワーを浴びてくる。皿を洗ったら寝ていい」  困惑して礼も言えない悦巳をリビングに置き去り、不機嫌な足音をたて廊下へ行く。  どうしてあんな事をしたんだ。  たまたま顔が近くにあったから、近くにいたから、あまりにも無防備に油断しきっていたからからかうつもりで?  こじつけようと思えばいくらでも理由は思いつく、本当の所は自分でもわからない、鼻の先に迫った目は年寄り二十人を騙し大切な金を奪った男とは思えぬほど澄んでいて、子供がそのまま大人になったようなやんちゃっぽさと斜に構えた皮肉っぽさとが同居する顔に奇妙にひきつけられ手を出していた。  悦巳はみはなのために、みはなでも食べられる市販の甘口カレーをわざわざ歩いてスーパーに買いに行った。   自分にはとてもできない行為だ。  まねしようという発想さえない。  子供の為にそこまで手間を払いたくない。  これから復讐しようという相手に対し、評価の底上げは控えたい。  児玉誠一の目的は復讐だ。  児玉誠一の目的は瑞原悦巳を破滅に追い込む事だ。  違う。  復讐は建前で口実、本当の狙いは別にある。  しかし、どちらにせよ、目的を達するためには瑞原悦巳の存在が邪魔で目障りな事実に変わりない。  初心を忘れぬよう心に刻みつけ、飴と鞭を巧みに使い分け、みはなをだしに使ってあの男を篭絡していく。  俺が気まぐれに与える優しさに縛られ毒され、懐くみはなに情をほだされ、天涯孤独の悪徳詐欺師がくだらん家族ごっこに居心地よさを感じ始めた時こそ狙い目だ。  それまではせいぜい夢を見させてやる。

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