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第8話

「みはなさん、じゃね、みはなちゃんが喧嘩っすか?」   動揺のあまり呼称を間違う。  最近ではちゃんとさんの使い分けにも慣れ混同するようなへまはしなくなったのに、もたらされた報告の意外さに素で叫んでしまった。  悦巳とさして変わらない年齢だろう幼顔の保育士が、チューリップのアップリケがついたエプロンをいじくりつつ説明する。  「いくらわけを聞いても話してくれなくて……お絵かきの時間中だったんだけど、叫び声にはっと振り向いたら康太くんが号泣してて。まわりの子が言うにはみはなちゃんから先にひっかいたそうです」  「みはなちゃんが……冗談か見間違い、てことはないすよね……」  保育士が残念そうに首を振る。  「どうしたんでしょう、いつもはとってもいい子なのに」  信じられない。  みはなは元来大人しく温厚な性質で、お絵かきや積み木など一人での屋内遊びを好む。落書きや悪戯をして悦巳の手を焼かせることはないし、生意気な口を叩くこともない。無口無表情で愛想がなく時としててこでも動かぬ頑固さを発揮するが、それ以外では自発的にお片付けをし、洗剤の量をいちいち匙で測るのが面倒で目分量でぶちこむダメな悦巳を見かね積極的にお手伝いをする模範的ないい子だ。  そのみはなが幼稚園の友達に手を上げるなどにわかに想像できない。  当惑する悦巳の前で俯き、落ち着きなく言う。  「それで、喧嘩相手の……怪我をした康太くんのお母さんが興奮なさってて。あの、瑞原さん聞いてます?」  「聞いてます聞いてます、お兄ちゃん真面目な話してんだからあっち行ってろっす、しっしっ!」  「わーいえっちゃんが怒ったー」「えっちゃん怖ーい」と無邪気な歓声をあげ悦巳にじゃれついていた園児たちが散っていく。  日の丸弁当事件以降ミーハーなお母さん方のみならず園児にも大人気を博した悦巳は、持ち前の愛想のよさと面倒見のよさ、容貌こそ十人並みだがそこだけぱっと明るくなるような人懐こい笑顔とが相俟って、今じゃ送り迎えごとに元気いっぱいな園児に揉みくちゃにされる始末。  園児たちは悦巳を格好の遊び相手として認識し、悦巳もまた性格上懐いてくる子供を邪険にできず服を引っ張られたり膝にしがみつかれたり追いかけっこをくりかえすうちに「えっちゃん」の愛称で定着してしまった。  人の心を掴む社交性は詐欺師に有用な必須技能。  悦巳の場合相手の出方次第で柔軟に対応を変え、顧客―潜在的な被害者―にとって最も望ましい人物を演じる才能を買われスカウトされたといっても過言じゃない。育った環境に絡む必要に迫られ身につけた部分もなくはないが、子供への接し方に表れる屈託のなさは悦巳自身が生まれ持つ楽天的な性格によるものだ。  定時に習慣化した幼稚園への送り迎えは行動制限を課された悦巳にとって良い気分転換。お母さん方との他愛ないおしゃべりや園児たちとのじゃれあいで日ごろの憂さを晴らしてる面もあるのだが、本日出迎えた保育士は、みはなを引き渡す前に下駄箱の隅に彼を呼んで、冒頭の件を告げた。  下駄箱の角は教室の死角にあたり話を聞かれる心配もない。  教室と沓脱ぎを仕切るガラス戸には保育士お手製だろう動物の形に切り抜いた色紙が貼られている。フラフープやゴムボール、プラスチックのバケツやシャベルなどの遊び道具が所定の場所に積み上げられた様はやっぱり悦巳がいた施設に似ていて童心に戻ってしまう。  保育士から説明を受けてる最中も、もちろん真剣な態度と深刻な面持ちで聞こうと努めてるのだが、そんなことてんでお構いなしの遊びたい盛りの園児らが膝によじのぼり腕を両方から引っ張りと注意力を削ぐせいで著しく緊張感に欠ける。  「……ここだけの話、原因は康太くんにあると思うんです」  あたりを憚り声を落とし、悦巳に顔を寄せるようにして囁く。  「康太くん、問題行動が多くて有名な子で……順番を守らず水飲み場に割り込んだり砂場で山を蹴崩したり友達のバケツを横取りしたり、酷いケースだと他のお子さんのクレヨン全部折っちゃったり」  「将来有望な悪ガキっすね」  「先生の胸を揉んだり」  「けしからんっす!」  子供の特権を利用した役得、もとい悪質なセクハラに羨望まじりの義憤を抱く。  「私なんかホルスタインって言われました」  「着やせするタイプなんすね」  「ひっぱたきますよ?」  「スーパーカウじゃなくてよかったじゃないすか」  女心は複雑だ。  康太の悪戯にだいぶ参ってるらしい保育士の顔が憂いに沈む。  「スカートめくりは序の口、特に女の子への悪さが絶えなくて先生方も困ってるんです。要はガキ大将なんですよね。問題は康太くんよりお母さんの方で……」  さらに声を落とし、周囲に保護者の姿がないのを確認後耳打ち。  「康太くんのお母さん、少し神経質というか感情的になりやすいきらいがあるんです。康太くん、それに影響されてるんじゃないかと思います。ささいなことで苦情を申し立ててくるから園や保護者とのトラブルが絶えなくて……」  「たとえば?」  「スモックの端が汚れていた、ポケットにだんご虫が入ってた」  「だんご虫てつっつくと丸くなるあれっすか?」  「そう、そのだんご虫。そんなこと言われたってこっちも困ります、康太くんのポケットの中身まで知るわけないじゃないですか。預かってるお子さんは康太くんひとりじゃないし、目の届く範囲にも限界があるんです」  「ドンマイ先生、頑張ってるのちゃんとわかってますって」  理不尽な苦情の数々とこれまでの軋轢を思い出し興奮するも、親指立てる聞き役のフォローで度を失った事を反省し俯く。  「すいません、康太くんの事だって本当なら私がしっかり注意するべきなのに……」  「今流行のモンスターペアレントっすね。とにかくみはなちゃん呼んでください、直接話聞くんで」  隙あらば触ろうとしてくるちびっ子どもの攻撃をかわすうちにずれたヘアバンドをなおしつつ、息を切らして向き直る。  保育士が頷き、精一杯元気な声で呼びかける。  「みはなちゃん、瑞原さんが迎えにきたわよ」  教室の片隅で一人ぽつんと絵本を広げていたみはなが顔を上げる。  目が合う。  片手を挙げ、にへらっと擬音をつけたくなる笑顔を見せる悦巳を吸い込まれそうにつぶらな目で凝視、そっぽを向く。  絵本を閉じて本棚にもどし、壁に設置されたフックから鞄をとって肩に掛け、こちらに歩いてくる。  すのこの上で靴に履き替え、保育士に招かれ悦巳の前に立つみはなはいつにも増して気難しそうな面つきをしていた。普段への字に結んだ口元が糸こんにゃくのようにひん曲がってることからご機嫌斜めと察しがつく。  跪いて覗きこむ。  「先生から聞いたんすけど……喧嘩しちゃったんすか、みはなちゃん」  「………」  「相手の……康太くんだっけ?顔ひっかいて怪我させちゃったってほんとっすか」  「………」  「なんでそんなことしたんすか?」  むっつりだんまり。  聞き分けのよいみはなが口を閉ざすとは珍しい。  無口ではあるが、今まで質問には利発さを裏付ける明朗さで答えてくれていたのに。  「やっぱりだめかあ……」  最初から期待してなかったけどと保育士が落胆し、悦巳はぐっと黙る。  園児たちのおもちゃにされる悦巳は確かに頼りなく見えるだろう。  保育士の信頼を勝ち得てない気はしてたのだ、薄々。  「何があったか俺にだけこっそり教えてくんないかな、ね?」  「…………」  「俺とみはなちゃんの仲じゃねっすか、イケズな隠し事なしっすよ」  「…………」  「はい、耳にお口をくっつけて。心配ご無用っす、他の人には内緒っすから、みはなさんの秘密は家政夫生命に賭けてばらしません!」  おどけたり宥めすかしたり百面相、その場に屈んで懸命に説得するも、みはなは下唇をぎゅっと噛み締め、だれかがちぎり与えたクッキーの神輿を担いで地面を横切る蟻の行列を睨みつけている。  鞄の紐を握り締めつくねんと立ち尽くす姿がいやまして孤立感を深める。  一人道化を演じるも一向に手ごたえが得られず脱力、膝の間に頭を垂れてため息を吐く悦巳のもとへ、足音が近付いてくる。  「あなたがみはなちゃんの保護者ですか?」  男の子の手を引いてやってきた化粧の濃い女……みはなが怪我させた康太という子の母親だろう。右頬に派手なひっかき傷を作った男の子はいかにもないじめっ子タイプと言おうか、きかん気の強そうな顔が印象的だが、ふてくされた当人より母親の動揺の方が大きい。  案の定、彼女は我が子に危害を加えられた過保護な母親として典型的な反応を示す。  康太の肩を掴んで突き出すようにし、切れ上がった目尻を吊り上げる。  「見てくださいこれ、ひどいでしょう。うちの子、康太です。みはなちゃんとおなじチューリップ組の。なんなんですか一体、先生の話だとみはなちゃんの方からいきなり引っかいたっていうし……躾の悪いねこと一緒じゃない!」  なるほど。  「モンスターならメドゥーサって感じっすね……」  「なんですって!?」  まずい、本音が口に出た。  「すいません」  「みはなねこさんじゃありません」  頭を下げる悦巳の後ろに隠れ、みはなが憮然と呟く。  「なっ………」  生意気な口答えに逆上し康太の母親が一歩踏み出すのに合わせあとじさる。  母親が怒るのは当然だ、彼女の言うとおり康太が完全な被害者だとしたら。  みはなと康太の様子を見比べるうちに違和感が募りゆく。  「いただきます」「ご馳走さま」を毎日食卓で欠かさぬ礼儀正しいみはなが何の理由もなく友達の顔面をひっかくものか、そこには事情があるんじゃないか?  「たんま!本人たちの話も聞いたげてください、きっとわけがあるんすよ、みはなちゃんが理由もなくよその子に手を上げるなんて信じらんねえし……みはなちゃん、怖がんなくていいから言ってみ?」  「ちゃんづけはよしてください」  肩を掴んで勇気づけるも、けんもほろろな対応にたじろぐ。  自分を無視しみはなを気遣う態度に腹を立てたのだろう康太の母がつんけんと啖呵を切る。  「口先だけの謝罪は結構です。可哀想に……もう大丈夫だからね康太、一緒におうちに帰りましょう、やなことはおやつを食べて忘れましょう」  「康太くんのお母さん、瑞原さんの話も聞いてあげてください。みはなちゃんは大人しい子でこれまで一度も喧嘩なんかしたことないんです」  「じゃあうちの子が悪いっていうんですか、先生のくせに贔屓じゃないですか!第一先生がちゃんと見てなかったから康太がこんな目にあったんですよ、先生がよく注意してくれてれば顔に傷が残らずにすんだのにどう責任とるんですか?」   「申し訳ありません……」  喧嘩の原因をとことん追及し、むきになって応酬したところで実りはない。  保護者同士エゴ剥き出しの言い争いは子供に悪影響を与える。口論が過熱すればするほど、間に挟まれた保育士はどちらの味方にもつけずおたつく。  俺が頭を下げれば丸くおさまる。  それがわからぬほど子供じゃなく、それができないほどに子供でもない。  悦巳は誠一にみはなの面倒を託されてるのだから。  「ほんとすいません、気をつけます。みはなさ……ちゃんにもよく言って聞かすんでこのとーり勘弁してくださいっす」  「当たり前です、二度とこんなこと起きちゃ困るわ」  「康太くんだっけ?ごめんな。ほっぺ、ちょっと見せてくれる」  悪気はなかった。同情心と親切心からでたせりふだった。  母親が制すより先に、康太のほうから歩み出たのは、悦巳の語り口調がひどく優しかったせいか。  「先生に消毒してもらった?」  「……うん」  「泣いちった?」  「泣くもんか」  「偉い!男の子っすね」  ひっかき傷を検分し安堵のため息ひとつ、康太の顔に手を添えおこし、傷に唾をつける。  「なっ……」  「痛いの痛いのとんでけー」  唾をつけた傷口を手で覆いこぶしに結び、ぱっと解き放つ。  康太が目を丸くする。  我に返った母親が蒼白で康太を奪い取り、悦巳の手を邪険にはたく。  「汚い!!」  おっかない。  迫力に負ける。  「えっ……あ、すいませんつい。俺がいたとこじゃ怪我した子にはこれやんのがお約束で。癖になってたもんだから。効き目あるんすよ」  「なに考えてんのばかじゃないの不衛生よ、バイキン入って化膿したらどうするの!」  「大袈裟っすよ、ちょっとなめただけじゃねっすか」  興奮状態で喚き散らす母親から距離をとる悦巳、みはなは悦巳の後ろに隠れ服の裾をきつく握る、その強さから怯えと不安が伝わってきて守らなければと使命感が沸き立つ、もとはといえば刺激した悦巳が悪いのだが悪気はなくて悦巳がいた施設では膝をすりむくたび幼馴染がこれをしてくれ効き目は抜群でと言い訳したところで火に油を注ぐだけとわかりきってるから、矢面に立ち罵声を浴びつつ、最もか弱く不利な立場だろうみはなを守る事に専念する。  ぶつけられる悪意のつぶてを跳ね返すより壁となり塞き止める方が肝心だ。  「落ち着いてくださいお母さん、子供が怖がりますから」  「注意する人間違ってんじゃないの!?」  調停に入る保育士は経験に乏しいのか殆ど半泣きで、騒ぎを察した保護者や園児たちがわらわら集まり出して次第に収拾がつかなくなる。  自分の軽率な行動が波紋を広げるとは。思慮の足りなさを悔やむも遅く、康太の母親と保育士の間にむりやり割って入って引き剥がし、ヘアバンドでまとめた髪がばらけて浮く勢いでなんべんも平謝り。  「ほんとすいませんお母さん俺のせいで、俺そういうの鈍感で、だけど手え洗ってるから汚くねえしバイキンとか心配ねっす!」  「そういう問題じゃないでしょ、ばか!わかったわ、きっとあんたのせいね、あんたみたいな学生に毛が生えたような若い男の子が満足に躾できるわけないもの、だから子供が増長するの、やっぱりだめね母親がいないとー……」  両手をひらつかせアピールしていた悦巳が凍りつく。  膝の後ろに隠れたみはなの手、足にしがみつく小さな手にぎゅうっと力がこもる。  爪が食いこみ、痛い。  みはなはもっと痛いだろう。  『お母さんはスタアになったのです』  『みはなの母親は星になった』  耳に甦る二人の声。  「………な、何よ」  「謝ってください」  毅然とした態度で言う。  「冗談でしょ、なんであんたに謝らなきゃいけないの」  「俺じゃなくみはなちゃんにです」  膝にしがみつくみはなの手をやさしく叩く。  ひとつ息を吸い、険悪な形相でこめかみひくつかせる康太母に向かい脱力誘う笑みで弛緩しきった顔を引き締め、一歩も引かずに請う。  「俺が気に障ったんなら謝ります、家政夫として……保護者代わりとして未熟なのはホントだし、それで気が済むならどんどん罵ってくれて構いません。でも、だからって……お母さんがいねーからどうとか決めつけやめてください」  詰るでも責めるでも罵るでもなく率直に見つめ、感傷よりは諦念に近い共感を込めた声で、はっきり断言。  「いなくなっちゃったのはどうしようもねえのに、いない人の影響がどうこうこじつけるのは卑怯っす」  康太母が怯んだ隙に振り返り、うってかわった笑顔で促す。  「ほら、みはなさんも。康太くんに怪我させてごめんなさいしましょ」  みはなが唐突に駆け出し、小走りに康太のもとへと向かう。  面食らう康太へぶっきらぼうに手をさしだす。感動的なシーンに野次馬がざわつく。  「みはなちゃん偉いわね、自分から仲直りの握手だなんて」  「康太くんのお母さんもういいじゃない、許してあげなさいよ。みはなちゃんも反省してるみたいだし……所詮子供の喧嘩じゃない」  お母さん仲間に口々に諌められ、まだまだ言い足りぬ康太の母は爪を噛む。  「みはなさん……」  醜い大人の争いにも怖気づかず、康太へ手をさしのべるみはなの勇気に、不覚にも鼻がつんとする。  相変わらずのむくれ顔で康太と距離を縮めたみはなは、周囲の大人たちが固唾を飲み成り行きを見守る中、もう片方の手も突き出し―  「え?」  甲高く乾いた音が炸裂。  まさかの両手ビンタだった。

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