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第13話

アイボリーの天井がやけに高い。 「はあ……」 悦巳は床で目覚めた。 首にしこりを感じるのはいつのまにかソファーからずりおち体をくの字に曲げていたせいだ。 毛布はとっくにはだけ、ずれた上着からシャツがはみだし大胆にへそまで覗く。 「つってぇ……」 首の後ろに手を添え凝りをほぐす、ついでに錆びついた肩を回す。 準備体操終了と同時に今だ別れを惜しむ瞼と目玉とを引っぺがし、ぼんやりした表情でだだっ広いリビングを見回す。 なんで床に落ちてたのか? 答えは単純、うなされてたからだ。一晩中一睡もできず、朝方うとうとしただけで全く疲れが取れてない。 脳裏にちらつく断片的な映像。 ソファーに寝転ぶ悦巳を間近で覗きこむ体格のいい男、スウェットを引っぺがし貧弱な腹をまさぐる手のざらつき、ほのかに上気した顔とワイシャツの着崩れがすさんだ色気を感じさせる。 ひとつひとつ、ネガとポジを重ね炙り出しを行うように混沌とした状況を検証し整理していくうちに曖昧な像を結ぶ記憶が現実と連結、呟く。 「……夢………じゃねえよな」 夢にしては残った感触が細部まで生々しすぎるし、認めたくはないが現実だという証拠もある。 情けない気持ちで下半身を見下ろす。 スウェットの上下で色が違うのは粗相した下着ごと取り替えたからだ。汚れた下着は風呂場で入念に手揉み洗いし証拠隠滅後ベランダの隅にひっそり干してある。世間体、もとい悦巳の名誉と児玉家の風聞の為にもどうかご近所さんの目につかぬよう祈るばかりだ。 今日は土曜日で幼稚園もお休み。昼まで寝坊が許される素晴らしい日。 水を一滴たらしたストロー袋のようにふにゃけてのたくり伸び縮み、のそのそ肘で這って毛布から抜け出るや床に転がるリモコンを手に取りテレビの電源を点ける。 「……メシ……作んねえと」 人は習慣の奴隷だ。こんな時でも優先順位をつけて行動する癖が抜けない。 テレビをつけっぱなしにし頼りなくふらつきながら洗面所へ向かう。 冷たい水で思い切り良く顔を洗いようやく人心地がつく。   昨夜、泥酔した誠一に襲われた。 性的な意味で。 しかも男同士だ。 せめてもの救いというか不幸中の幸いというか最後までは行かなかったが剥かれていじくられてしごかれてついどぴゅっと出してしまった。 どぴゅ。 「エロ漫画かよ……」 がっくりとうなだれすぐさま復活、洗面所の中心で絶叫する。 「つうかさー、オカズだったら漫画よか実写派なんすよ俺は!」 以下、地団駄踏みつつ青年の主張。 「生身のがエロいし萌えるし興奮するし巨乳大好きだしDよりE、EよりFが好きってのが超本音。巨乳かつ美乳ならもー辛抱たまらんいただきますで谷間にダイブが野望のイマドキ男子だし……けどさ、漫画の単行本でサンドイッチしてアイドルの水着写真集レジに持ってく中坊の手口は卒業したわけよ。料理本に混ぜてエロ本買うとかさ~やっちゃだめっしょ。まんいち誠一さんに見つかったらやべーしみはなちゃんはもっとやべーし、人さまんちに居候させてもらってる身でしこしこヌきまくるのはどうかなーとエンリョするわけっすよ。こと終えてすぐトイレの窓開けて換気。風情がねっす、しまらねっす。いちいち便座カバーの染みを気にするみみっちぃ男に成り下がるのはオナニーマスターのプライドが許さねえわけよ。いっそガマンした方がマシじゃん?かっこよくね?オナ禁で溜めまくってたら男相手に勃つのもしょうがねえし、何が言いたいかっつーとつまり昨日のアレは不可抗力でギリギリセーフ!」 仕事の都合上エプロンに身を包んではいても男は男だ。しかもどちらかといえばむっつりな方で、中学の頃は河原のガードレール下で拾った使用済みのエロ本を悪友どもと回し読みするのが密かな楽しみだった。 健康な男子の証拠に俗に朝勃ちと呼ばれる生理現象とも無縁ではなく、むらむらを持て余すこともある。 しかし小さい子供がいるマンションに居候させてもらってる手前、おいそれと右手の本領を発揮できない。 したがって突発性むらむら症候群が襲ったらひとりトイレにこもってヌくというのが居候を始めてから自分との暗黙の取り決めになったが、誠一やみはなが日常的に使うトイレでやるのも痕跡や匂いを残しそうで気後れし、表に立つアンディに物音が聞こえてしまわないかと気が散り、せっかくの行為も身が入らず消化不良で終わってしまうのだった。 洗面台に両手をつき、爛々とぎらつく三白眼でにじり寄る。 「そっすよ、溜まってたのが悪いんす。ちゃんと一日一回のノルマをこなしてりゃくちゅくちゅどぴゅな痴態、もとい醜態なんか晒さなかったっす絶対。大体なんだよあんな、いきなり……誰でもよかったのか?女と見間違えたって線はねえだろうし……べろりとめくりゃ胸がないってわかるよな?」 タオルで顔を拭き、スウェットの上から貧相に薄く平らな胸をまさぐってみる。 自分の手で触ってもなんともない、あえて言うならくすぐったいだけなのに、熱を孕んだ誠一の手が置かれるや爆発せんばかりに心臓が高鳴ったのは何故だろう。 泥酔して右と左の判断もつかなくなった誠一が手当たり次第見境なく性欲を処理するために、たまたまそこにいた悦巳に目をつけたのだとしたら。 あるひとつの疑惑に突き当たる。 「本当にだれでもよかったのか?俺じゃなくても、たとえばドアの前でばったりアンディと会ってたらアンディ襲ってたのかよ?」 誠一がアンディに襲いかかる場面をリアルに想像し、顔面から血の気が引く。 昨夜の誠一ならやりかねない。 「俺は、俺は自分の身を盾にしてアンディの貞操を守ったんす……!」 ぐっじょぶ俺。 おかえりなさいといつもの調子でドアを開け放って誠一がアンディが襲う現場など目撃したら一生悪夢にうなされるだろう。いや待て、アンディなら返り討ちにするだろう。待て待て、相手は社長だ。報酬を払う雇い主だ。仕事熱心で忠誠心の厚いアンディならばぐでぐでに酔っ払った誠一のセクハラもまた眉ひとつ動かさず耐え忍んで…… 『ダメです社長、自分にはヤツの監視という重要任務が』 『俺の命令が聞けないのか?クビにするぞ』 『やめてください社長ああっ……』 「おえ」 豊かすぎる想像力を呪う。 洗面台に手をつき襲い来る吐き気に耐える。 『役立たずめ』 目を上げる。 鏡に映る冴えない顔。濡れた前髪が一房ヘアバンドからはみ出て垂れ下がる。 酔った勢いで襲われたという単純な話ならまだしも救いがあった。 あの場限りの関係、一夜限りの過ちなら酒にすべての責任をおっかぶせて本人を憎まずに済んだのに、最中に誠一が口走った台詞が淡い希望を打ち砕く。 自分をごまかすのは限界だ。 欺きとおすのは無理だ。 額に垂れた一房を軽く引っ張って、皮肉っぽく笑う。 「……詐欺師が詐欺に掛けられるなんて笑い話にもなんねえな」  毎日楽しくて忘れかけていた。 自分がここにいる本当の理由から目を背け、みはなと手を繋ぎ幼稚園まで送り迎えし、部屋に掃除機をかけ洗濯物を干し食事を作り、臭い過去にふたをしてのほほんと日常を楽しんでいたツケが回ってきた。 俺は加害者で犯罪者で詐欺師で誠一さんの大切な人を奪った仇なのに ばあちゃんを殺したのは俺なのに 沢山のじいちゃんばあちゃんを騙して不幸にした悪党が生きていて楽しいなんて、ちらりとでも思っていいはずないのに   『お前は人殺しだ』 『尽くして、報え』 最初から仕組まれていたのか? 仕返しが目的で復讐の為に、逃亡中の悦巳を匿ったのか? 誠一さんは俺が嫌いなのか。 憎んでるのか。 殺したいほど? 「………あたりまえだよな」 胸が痛い。 誠一を非難する資格はない、だまされていたとなじる資格はない。 遺族と加害者の間に信頼関係が成り立つはずなどないとわかりきっていたのに、ならどうしてこんなに胸が疼く? 体格や腕力の差にもまして抵抗を封じ妨げたのは冷酷に見下す男に対する恐れと怯え、この人に軽蔑されている、嫌われている、憎まれているという精神的ショックだった。 初めから愛人にするつもりで匿ったのか、家政夫の契約は嘘か、建前の口実にまんまとだまされたのか、ずっとずっと憎まれていたのに鈍感な悦巳は気付かずへらへら笑って誠一の怒りを煽り神経を逆なでしていたのか? じゃあこの数ヶ月、誠一の口に合う紅茶を淹れようと湯の温度を調節しタイマーをセットし茶葉を蒸らし試行錯誤し続けた悦巳の努力は何なのだ? 「俺、家族でもなんでもねえただの家政夫だし、仕事失敗ばっかで役に立たねえし、料理だって焦がしてばっかで、せっかくの高い食材も生かせなくて……掃除だってさぼってばっかでドアの桟とかうっすら埃たまってるし、愛想尽かされたって文句言えねえけど……」 鏡の中、情けない顔に向かい弱音を零すも傷心は癒せない。 行き場もない、帰る所もない、頼るあてもないと三拍子揃ったないない尽くしの詐欺師崩れを交換条件つきとはいえど厚待遇の居候として迎えてくれた措置には感謝してる。 彼が手をさしのべてくれなければいずれ路頭に迷って行き倒れるか元の仲間たちに捕まって半殺しにされていた。 「………」 寝不足で赤く腫れた目のふちをなぞり、めやにをこそぐ。   今朝、誠一は何も言わず家を出て行った。 「いってきます」の一言もなく、「いってらっしゃい」の一言も返せず、靴音の残響が消えた廊下には白々しい静寂が漂って昨日よりさらに遠のいてしまった距離を痛感した。 追いかけて問い詰める勇気も引き止めて激怒する度胸もなく、悦巳はといえばただただドアを隔てた気配の波及にびくつき毛布に隠れ、どうか早く行ってくれますように、もう帰ってきませんようにと他力本願に祈るだけだった。 夜毎の電話攻撃に怯えて部屋の隅で縮こまっていた施設時代に逆戻りしたように。 このままここにいていいのだろうか。 誠一に憎まれ蔑まれ弄ばれながらこれまでどおり一つ屋根の下で平気な顔して家政夫として働けるか? できないだろう。 無理だろう。 逃げてえ。 「……馬鹿じゃねーの。すっかり家政夫になりきったつもりで、足元見られてすくわれて」 『そんなことないわ、おれおれさんは頭のいい子よ。とても機転が利くしお話が達者で、おしゃべりしてて楽しいわ』 最終学歴工業高校中退。 児玉華は十代半ばからバイトの掛け持ちで生計を立て、ルートの計算もろくにできず馬鹿だ馬鹿だと罵られ、自分でもそうとばかり思い込んできた悦巳を利口だと言ってくれた最初で最後の人だった。 幼い頃からともに育った大志が何でも語り合える親友なら、児玉華は最大の理解者で良き相談相手だった。   『おばあちゃんの知恵袋っていうでしょ?年寄りは物知りなのよ』 茶目っけたっぷりに前置きし華は言う。 『おれおれさんに元気のでるおまじないを教えてあげるわ。いい?くりかえしてごらんなさい』  鏡に映るもう一人の自分と向き合い、華に教えてもらったおまじないを口ずさむ。 「バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが……」 昔、若かりし頃の華が好んだ歌謡曲の一節。 『薔薇が咲いたら花びらを一枚失敬して紅茶に浮かべてみるの。いつもよりちょっとだけ贅沢な気分が味わえるわ』 『ね、幸せって案外お手軽でしょう。地面に落ちた花びらと一緒で見落としそうなほど近くに転がってるのよ』 生前の児玉華はしあわせさがしの名人かつどんな時でも前向きに人生を愉しむ達人で、けっして説教臭くない口吻で人生を豊かにするいくつかの秘訣と役立つ教訓を授けてくれた。 そのひとつが、歌だ。 伸びやかで透明感あるソプラノで華が紡ぐ歌はどれも過ぎ去りし昭和の時代に流行った歌謡曲で、悦巳はタイトルさえ知らない曲が多く混じっていたが、ユニゾンすれば知らずリズムに乗って心が浮き立ちいやなことなんてたちまち忘れてしまう。 歌は誰もが使える世界で一番簡単で素敵な魔法だというのが華の信念で、音痴を恥じらう悦巳に喜んでその手ほどきをした。 豊富なレパートリーの中でもこの曲は華の青春の代名詞とも言える思い出の一曲で、音程を外してもバレにくいメロディと牧歌的で単純なフレーズを悦巳もまた好んで、よく一緒に歌ったものだ。 「バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが 淋しかった ぼくの庭に バラが咲いた たったひとつ咲いたバラ そのままで そこに咲いてておくれ……」 おまじないの効果は覿面だった。 「―っし」 両手で頬を叩き活を入れる。 首の後ろにひっかけたタオルで濡れ髪をかきまわし、鏡の中の自分に挑み、負けず嫌いの意地を踏み台にして根性を奮い立たせる。 方々に跳ね回る髪をヘアバンドでなでつけて元気を注入、強い意志持つ瞳で前を向く。 「逃げねえぞ」 まるで言い聞かせるように力強く、言う。 敗北を認めておめおめ逃亡するのは癪だ。 華との数ヶ月に渡る攻防の決着も持ち越しの末、今度は孫の誠一に勝ち逃げされたんじゃかっこがつかない。 深呼吸し鏡に映る分身と対峙、逆境を乗り越えていく不敵かつ不屈の意志に充ちて唇をねじる。 「ここが俺の戦場だよ、アンディ」 それに。 それにもし悦巳ひとり逃げ出したら、あとに残されたみはなはどうなる? 父親に無視され続け、作り置きの冷たい食事を一人でとり、黒服の部下に付き添われ幼稚園に行き。 わがままを言わない代わりに笑いもせず。 駄目だ、そんなのは。 誠一の本音を探ろう。 逃げずに立ち向かって話し合おう。 どうして悦巳を雇い入れ契約を結んだのか、本当に復讐が目的なのか、最初から体目当てだったのかについて……否、それだけじゃない。 『赤の他人と似てるわけがないだろう』 誠一がみはなに冷淡な理由、似てるわけがないという発言に隠された真実を知りたい。 思えば誠一は一人娘に冷たすぎた。 いつも仕事を優先し、育児は部下や家政夫に任せ無関心に放置した。 社長の責任を負う立場上やむをえないと口出しは控えてきたが、もし一人娘に構わない理由が実子じゃないからだとしたら…… 俺に何ができるんだろう。 わからない。 でも、何かできるはず。 できるって信じよう。 『子供にはわからないだろう』 「……わからなけりゃ傷つかねーとでも言うのかよ」 大人の理不尽から子供を守ると心に誓う。 もうこれ以上誠一がみはなを無視するのを放っておけない、家庭の事情に口を出すのは気が引けるが悦巳は今やみはなの一番近くにいる存在、保護者代わりなのだ。 施設育ちの悦巳は家族のぬくもりを知らない。 だからだろうか、おなじく肉親の縁が薄く、愛情が希薄な家庭に生まれ育つみはなに同情よりは共感が比重を占める割合で感情移入してしまう。 みはなとの交流を通し無垢さに癒されゆくにつれ一日一日と特別な感情が育つ。 責任感、使命感、義務感、向上心、包容力。 日を追うごとにしっかり根を張り成長し、やがて実を結ぶかもしれないそれら。 愛着を土壌にし芽生え始めた愛情。 長く辛い冬を越して芽吹き始めた良心。 種を撒いたのは、きっと、華。 ここで逃げたら何も変わらない。 天国の華がくれたやり直すチャンスをふいにするのか、瑞原悦巳。 とりあえず、今すべきことははっきりしてる。 「まずは朝メシをやっつけるっす」 洗面所を出るや台所へ行き、与えられた仕事をこなすためエプロンを結ぶ。 朝はトーストとバナナ一本で手軽に済ますのが児玉家流だが時間の制約がない土曜の朝は奮発し、調理に手間をかける。 二日酔いでグロッキーでも家事を手抜きしていい言い訳にはならない。 弱火で熱したフライパンに玉子の中身を流し、焦げないよう様子を見ながらフライ返しをくぐらせる。 「よっと」 手首を上げ下げフライパンを弾ませる。 あらかた固まったのを確認し、癒着した白身をフライ返しで切り分けて皿に移し、一仕事やり遂げた達成感に口笛を吹く。 「今日は成功、ツイてるっす」 余談だが、悦巳が作る目玉焼きは三回に一回の確率で黄身が潰れるか焦げるかで失敗してしまう。前は二回に一回、半々の確率だったことを考えると大進歩だ。 ミッフィー絵皿によそった目玉焼きをカウンターに置き、冷蔵庫から昨日の夕飯の残りを出しレンジで温める。 手を動かしてるあいだは余計なことを考えずにすむ。 誠一はどうせ今日の夕方か夜まで帰ってこない。 考える時間、悩む時間はたっぷりある。 どうせここを出たって行くあてはないのだ、なら当たって砕ける覚悟で真っ正面からぶつかってみるっきゃない…… あわてん坊な子猫の足音が廊下に響き、心臓が飛び跳ねる。 はたしてごまかしきれるか、隠し通せるか。 これまで何十人もの年寄りを騙してきたけっして誇れぬ詐欺師の自信がたった一人の子供相手にぐらつく。 「おはようございます瑞原さん」 内心の動揺を悟られまいか躊躇うも、意を決し振り向く。 「おはようございますみはなさん。今日は見事なアホ毛っすね」 「みはなアホじゃありません」 「でもアホ毛が生えてますよ?ぴょんて」 「どこですか?どこにありますか?」 触覚のように跳ねた寝癖をからかえば頭の横に手を添えて、右向き左向き最後に正面を向いて頑固に主張する。 「みはなアホの子じゃありません」 「知ってますよ、みはなさんはとーってもいい子っす」 「そうですよ、みはなはいい子です」 「いい子はパジャマでごはんしたりしませんよ?ちゃーんとお顔を洗ってから椅子に座ります」 それを聞くやとたとた軽い足音をたて洗面所へと駆けて行く。 どうにか上手くごまかせた。 魚肉ソーセージのビニールを剥がして包丁で薄切りにし、油を引いたフライパンで炒める。 魚肉ソーセージはみはなの大好物で栄養満点なため、殆ど毎日といっていいほど食卓に上る。 「生でも炒めてもイケるなんて魚肉ソーセージ万能万歳っす。ちょっと醤油たらしゃごはんのつけあわせにぴったりだしおにぎりと一緒にしてもイケる、ビールのつまみにも最高に合うし……今度アンディと一緒に食おう」 せっせと手を動かしながら去来するのは昨夜のやりとり。 誠一の声、手の感触、体温、鼓動。 『役立たずめ』スウェットをはだけて忍び込む手のひら、ストイックな色気漂う節高な指、貧弱な腹筋をまさぐって貧相に薄い胸を這い回る『淫乱だな、初めてのくせに腰が踊るのか』精悍に整った顔に似合いすぎて怖い冷笑『お前は俺に尽くせ。尽くして、報え』泥酔は演技?正気?忘れようにも忘れられない、別の事をしながら手を動かしながら悶々と考えてしまう、他人に無理矢理イかされるなんて生まれて初めての体験だった、死にたいほど恥ずかしくてだけど気持ちよくてうっかり勃っ 「あちっ!?」 フライ返しを持つ手がお留守になり手の甲に油が飛ぶ。 「……どうかしてるよ、俺……いくら溜まってたからって誠一さん相手に勃つとかありえねえし」 テーブルをフキンで拭いて皿を並べながら、お洋服に着替えたみはなが椅子を引き出してちょこんと座り、リモコンでチャンネルを替えていく様子を横目に窺う。テレビに夢中な横顔を注意深く観察、昨日目撃した破廉恥極まる現場についてはすっぽり記憶から抜け落ちてるらしいと結論づける。 トイレに行くついでに物音立つリビングを覗いたみはなは寝ぼけていたのだろう、あれからすぐ用を足して眠りについたのなら夢と現実を混同していてもおかしくない。  下手すれば一生のトラウマになりかねない体験を忘却してる事実に心の底から安堵、望まずといえど子供に見せてはいけない行為を見せてしまった罪悪感が多少は和らぐ。 「みはなさん、目が悪くなるからテレビは明るいところで離れてゆっくりと……」 『今年度のオレオレ詐欺の被害件数は1505万件、被害総額は22億8800円にのぼります。大変な数字ですねこれは』 皿を並べる手が止まる。 テレビではニュースが放映されていた。 女性キャスターがパネルを掲げ解説し、どこかの大学教授の肩書きを持つ評論家に話を振る。 『どう思われます、米山教授』 『嘆かわしい風潮ですね。振り込め詐欺の被害はとどまるところを知らず、食い物にされるのはいずれも一人暮らしのお年寄りばかり。貯金を全額騙し取られ自殺者もでています』 『取り締まりの強化に比例し、手口はますます巧妙になっているそうですが』 『最近は特にそう、組織犯罪化の傾向が目立っていますね』 『組織化……とおっしゃいますと、後ろに暴力団がついているケースですか?』 驚く女性キャスターに対し、カメラ映えを意識した角度で指を組み注釈を挟む。 『ええ、勿論それもあります。ですが一部ではまるでバイト感覚で詐欺に手を染める若者もいて……不況で就職できず、せっかく就職してもすぐ辞めてニートやフリーターに戻ってしまう怠惰で無気力な若者を釣り餌としてスカウトし、お年よりの家に電話をかけさせるんです。声が若ければ孫で通じるでしょう』 『信じられません、だって犯罪ですよ?』 『倫理観の欠如した若者が増えてる証拠です。最近では振り込め詐欺集団も会社化されてるんです。おかしな話、本当の会社のように部署が分かれてるんですね。第一に事故にあった、助けてくれと電話をかける釣り餌役がいる。その後に控えるのが嘘を補強する弁護士役、刑事役、もろもろ……そうやって何重にも罠を仕掛けてターゲットを嵌めるんです。一日何件とノルマが定められデコイ役の若者に支払われる給与は歩合制です』 『許せませんね、離れて暮らす孫を心配するお年寄りの優しい心を何だと思ってるんでしょう』 『ええ、全く。卑劣な犯罪です』 テーブルの傍らで立ち竦む。 みはなはお行儀よく膝をそろえて椅子に掛け、悦巳の注意を受けてテレビから一定の距離をとり、聡明に澄んだ目で女性キャスターとコメンテーターの議論を眺めている。 スタジオからVTRへと移行する。   『ええ、突然電話がかかってきて……バイクで事故をおこした、相手はヤクザですごく怒ってる、示談にもちこむにはお金が必要だって泣きつかれましてね……孫の頼みならなんとかしてあげたいじゃないですか。オレオレ詐欺?もちろん知ってました、でもまさか自分が狙われるなんて……もう随分会ってないから孫の声なんてうろおぼえだし、ほら、少し低くなってたのだって声変わりかと……子供の成長は早いからねえ……最初の電話だけなら信じませんでしたよ、後から弁護士が出てきて……早く手を打たないと困ったことになる、お孫さんに前科がついて将来に響くって言われて……あれも騙りだったんですねえ……』 画面が切り替わる。 被害者の次は加害者。 モザイクで顔を覆われた男がヘリウムを吸ったような甲高い調子の声でのたまう。 『反省?しませんよ。騙される方が馬鹿なんですよ。こんだけオレオレ詐欺がどうたら騒がれてるのにどうしてころっと信じちゃうのかなあ、ボケが来てんのかな。酷い言い草に聞こえるかもしれないけど、こっちだってそんな高額騙し取るわけじゃないんですよ。使うあてもねえ年金後生大事にためこんでる年寄りからほんの百万か二百万もらうだけ……』  元気?大丈夫?お金はおばあちゃんがなんとかしてあげるから、大学はどう、楽しい?勉強がんばって、お父さんお母さんに心配かけちゃだめよ、おお、俺に任せておけ、困った時はえんりょなく頼ってくれ。どうせ老い先短い身、孫が助かると思えば百万二百万安いもんさ……お年玉だと思ってくれてやる…… 発作的にリモコンをひったくり電源を叩き切る。 映像が途切れ、真っ暗闇に呑まれた画面にみはなと悦巳の顔が並んで映りこむ。 「ちゃんと離れて見てましたよ?」 力なく垂れた手にリモコンを預け、もう片方の手でテーブルに縋り、運動してもないのに乱れた呼吸を整える悦巳にみはなが聞く。 「オレオレ詐欺ってなんですか?」 「……とっても悪いことっす」 「悪いこと……」 「じいちゃんばあちゃんに孫じゃねえのに孫だって嘘吐いて、電話かけてだまして、嘘のお金をだましとるんです」 「それはとっても悪いことですね」 無邪気な言葉が胸を抉る。 五歳にも満たない子供がどこまで正確に理解しているのか怪しいものだが大雑把に端折った悦巳の説明で輪郭は掴んだのだろう、暗転したテレビに向かって断固として言う。 「みはな、嘘をつくひとはきらいです」

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