12 / 64
第12話
話したいことがたくさんあった。
新しく憶えた料理のレシピ、ママ友に教わった砂糖一匙の隠し味、幼稚園の出来事、みはなと康太の喧嘩の顛末。一日の締めくくりに誠一と差し向かい、みはなの行動について口頭報告するのは今や悦巳のライフワークとなっていた。そしてやっと一日が終わる。
一日を朝と昼と夜と時間帯ごとに区切れば、誠一と顔を合わせ直接口を利く機会は夜しかない。
仕事が多忙な誠一は帰りの時間も不規則で会社に泊まりこむのもしばしばで、結果として悦巳が用意した夕飯はラップをかけられたままテーブルに放置され冷めていく。誠一から今日は帰らないと一言用件を告げる電話をとって、悦巳が腕によりをかけ作った夕飯は漸く冷蔵庫へとひっこむのだ。
悦巳は妙なところで頑固で律儀だった。
だからこそ昼間のゲーム疲れとアンディとの飲み会で摂取したアルコールがもたらす眠気の波状攻撃に耐えつつ、眠い目をこすり誠一の帰りを待つのだ。
待ちくたびれソファーでうたた寝するのは今夜が初めてじゃない。
だらしなく弛んだ口から涎をたらし眠りこけ、うっかり寝過ごしかけては連続で鳴り響くブザーに叩き起こされ、慌てて玄関へ向かう。鍵をもってるのだから自分で開ければいいだろうと意見したいのをぐっとこらえ、ドアを開け放てば不機嫌の極みの仏頂面で「ただいま」も言わず立ち尽くす誠一を「おかえりなさい」と、自分のとりえはこれだけだろう人懐こい笑顔で出迎えるのだ。
「いきなりなんすか誠一さん、酔っ払ってるんすか、息臭いっすよ!」
遅く帰宅した誠一のため、ただちに里芋の煮っ転がしをレンジでチンしようと腰を浮かしかけた悦巳は、逆に押し倒され狼狽する。
肩を押さえる手は熱く、間近で顔をなでる吐息にはアルコール成分が濃縮されている。
「……っと、重いっす、誠一さん……とにかく上どいて、潰れっから……」
混乱しつつ、降参の合図をするように肩を叩いて宥める。
スーツの上からでもしなやかな筋肉の躍動が伝わる。
誠一は週四のジム通いを己に課している。
過不足なく鍛え抜かれ引き締まった長身に組み伏せられたら、ひきこもり同然の生活を続けてなまりまくった悦巳がかなうわけがない。
どうにかどかそうと両手で肩を抱く。びくともしない。そもそも体重と体格が違う。
「酔っ払ってんならお茶漬け作りますから……梅干茶漬けなら入るっしょ?冷蔵庫ん中、まだ残ってたはず……」
手のひらが汗で粘つく。舌がもつれもたつく。
誠一は動かない。悦巳の上にのっかったまま電池が切れたように停止している。
中途半端にスウェットに手を差し入れた格好で膠着、しばらく互いに見つめあう。
しめやかな息遣いだけが静まり返ったリビングにかすかに響く。
どうしてこんな状況になっちまったんだ?
わからない。
因果関係が理解できない。
大きな物音に飛び起きたら誠一がいた、廊下を歩きながら悪態を吐いて壁に当たり散らしてた。会社でいやなことがあった?そうなのか?社会人だ、そりゃあいやなこともあるだろう。ましてや誠一は二十代で社長の肩書きをもつ、取り引きが上手く行かなかったりトラブルが起きたりしてへこんだっておかしくない。
だからつまりこれはそう「やつあたり」なのだと、ぐるぐると疑問渦巻く紆余曲折の思考回路を経て結論づける。
誠一はいま少しいらついてるだけ、じきシラフにもどる。
「っ……」
近すぎる距離に心臓が早鐘を打つ。
こんなに接近するのは初めてだ。やっぱり端正な、よくできた顔だと思う。意志の強そうな眉、高い鼻梁、酷薄げに薄い唇。頬骨の高い精悍な容貌。みはなとは似てないなと漠然と思う。母親似なのだろうか?いや、よく見れば眉の凛々しい濃さと頑固そうな口角の下がり具合が似てなくもない。
ひとつふたつボタンがはずれた襟元から鋭く尖った喉仏が覗く。顎にかけて引き締まった首筋から野性的な色気が匂い立つ。
「どうした?顔になにかついてるか」
「え?や、その……親子なのにみはなちゃんと似てねえなって」
俺の馬鹿。
ついうっかり正直に答えてしまう自分を呪う。
案の定、空白の沈黙が落ちる。
怒らせちまったか?
怒鳴り飛ばされるのを覚悟で目を瞑るも、予期していた叱責は飛ばず、おそるおそる薄目を開く。
「くっ………」
俯いた口元からくぐもった呻きがもれる。
「く………くっくっくっ」
「……ハトの真似っすか?」
誠一は笑っていた。
声を殺し喉を痙攣させ、まるでおかしくてたまらない冗談を聞いたというふうに断続的に笑っている。
「あいつは母親似だ。俺と似てるはずがないだろう」
「そ……っすか。でもでも眉の吊りあがり具合とか口元のあたりとかうっすら似てるような気が!」
慌ててフォローする。
「誠一さんもみはなちゃんも眉濃いめだし、睫毛は長いというより濃くて綺麗にそろってるし、鼻筋がすっと通って唇は薄くて顔の作りっつうかフインキがよく似てます。ほら、ふたりとも無愛想で無表情でいつもむすっとしてるとこがそっくり」
自分の眉をなぞり、こじつけた共通点をひとつずつ挙げていく。
そっくりだと念押ししても反応は鈍く、見上げる顔は電気の逆光になって影に沈んでいる。
「お前の目は節穴だ」
「え?」
「赤の他人とそっくりなわけがないだろう」
耳を疑う。
「……どういうことっすか?」
赤の他人?血が繋がってない?誰と誰が……誠一とみはなが親子じゃない?
酔っ払いの寝言の線を疑うも、悦巳を撃ち抜く目に冗談の成分は含まれてない。
「赤の他人て……誠一さんの娘っしょ?親子なんすよね?」
どうして?どういうことだ?まだ悦巳が知らないことがあるのか、だまされていたのか、でもなんで?どうして?
発言の真偽を怪しむ一方、パズルの空白にピースが嵌まるが如く誠一の行動に蓋然性が付与されていく。
誠一はみはなに冷たすぎた。
幼稚園児の娘を部下にまかせきりにし、お弁当の日には料亭の仕出し弁当を持たせ、育児については完全な放任主義を貫いた。
仕事を優先するあまり帰宅時間は不規則ですれ違い、穴埋めに休日をあてるでもなく、週末は悦巳とみはなに留守番をまかせ一人ジムに出かけていく。
一人娘に構わない理由が実の子じゃないからだとしたら?
「自分の子供じゃねえから他人にまかせっきりにして平気なんすか?」
肩に指が食い込む。
「だから料亭の仕出し弁当持たせるんすか、作ってあげないんすか。みはなちゃんあんな小せえのに洗濯機の使い方知ってて、俺に教えてくれて、でもそんなんやることねえのに、まだ幼稚園でしょ、五歳になるかならないかってちびっこが洗濯機の使い方を大人に説明したりしねえでいいのに」
ミッフィーの椅子によじのぼり背伸びして、渦巻く洗濯機をのぞきこむいたいけな姿を思い出す。
「お父さんが帰ってこねえから、ほうりっぱなしだから、だから憶えちゃったんですよ。ぜんぶ一人でこなさなきゃいけなくて、誠一さんが、あんたが何もしねえからたった五歳なのに自分でやるっきゃなくて、風呂の入れ方やタイマーのセットし方も俺に教えてくれたのぜんぶぜんぶみはなちゃんで」
支離滅裂に口走り、きつく肩を掴んで責め立てる。
「あんないい子をなんで」
後頭部が肘掛けにぶつかり背中がバウンド、長身の影が視界を覆う。
「黙れ」
低く凄味を含む脅しについで、巧みな愛撫を仕掛ける節高な指。
「!ちょ、やめ、」
主人と家政夫の上下関係も忘れ、ふざけんなと怒鳴りかけた。
どさくさ紛れに上着を毟られた憤りをごまかされた悔しさが上回る。
反射的に足を蹴り上げ鳩尾ねらうも、すかさず膝を掴んで固定し抵抗を封じてしまう。
「!ひ、」
不快な感触に目を剥く。
二人分の体重を支えるスプリングが揉み合うごと不規則に軋む。
「憂さ晴らしの手伝いも家政夫のつとめだ」
「んなの契約書に記載ねえし夜のお勤めこみなんて聞いてねえよ、俺は家政夫で愛人契約結んだわけじゃねえし第一男で男同士で……待て待てっ、ほんと勘弁してください悪ふざけたんま、あっちの部屋でみはなちゃん寝てるのに……」
「うるさくするとみはなが起きるぞ」
葛藤を逆手にとり、嗜虐に酔いつつ含み笑う。
「~ずるいっすよ……」
行為に伴う生々しい物音がみはなの眠りを妨げるのではと懸念し、振り上げた拳を罵倒と共に引っ込める。
「うあ、や、ふぁ」
上着に忍んだ手がしっとり汗ばむ素肌を性急にまさぐり、へその窪みをほじくる。
目の前の男の野蛮なまでの本気を感じ取り、背筋を戦慄が貫く。
「誠一さんくらいイケメンで金持ちなら女にモテモテなのにどうして俺なんすかっ……」
哀訴と懇願の間にも上着にすべりこんだ手は肌を蹂躙し、薄く貧相な胸板をなでまわす。
厚い手のひらが弱い脇腹をまさぐることによって生じるのは快感よりもむしろ違和感と生理的な嫌悪感、はねのけようとじたばたもがいて暴れるも圧倒的な体格差がそれを許さない。
ばたつく、あがく、非力な腕を叱咤し懸命に押し返そうと努める。
マンションに連れ込まれた初日に押し倒されたかけた記憶がフラッシュバック、瞼にこびりつく残像が恐慌に結びついて大量の発汗を促す。
「いい加減にしないと怒りますよ、大声あげますから!」
「ぐっすり眠ってる子供を起こしても構わないのか?ひどい家政夫だな」
「~その手はくいませんよ」
大口かっぴろげ深呼吸し、肺活量一杯叫ぶ。
「アンディ!!いるんなら返事してくださいっすアンディ、お願いだからこの酔っ払いどけてくださいっす、俺の貞操大ピンチっす!」
「あれは俺の部下だぞ」
しまった。
「それに表にはいなかった」
アンディと喧嘩別れした事をいまさらながら思い出し、冷や汗をかく。
すっかり忘れていた自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きる。
他力本願で期待していた虫のよさにいっそ笑い出したくなる。
いざとなれば大声をはりあげ助けを呼ぶつもりだったが、アンディの不在を知らされ望みも絶たれた。
そもそもマンションの壁は防音仕様で分厚く、大声で叫び暴れたところで漏れないだろう。
さあっと蒼ざめつつある悦巳の上着を胸までめくりあげ、上半身を晒す。
「さぶ……あっ」
背筋が弓なりに撓い、腹筋がびくつく。
横に動いた誠一の手が乳首を払ったのだ。
「感じてるのか?」
からかわれ、耳朶と首まで真っ赤に染まる。
右に左にかぶりを振り、首筋を貪る唇から逃れようと背中で這いずる悦巳を暴君の傲慢さで見下ろす。
「はっ、は、は……」
「どうしてお前なんだ」
見上げる。
「どうしてお前なんかが」
氷点下の憎悪を宿す目に、しどけなく服をはだけて寝転ぶ青年が映る。
「口を開け」
疑問を遮るようにして命令。
言われたとおりおずおずと口を開くや、待ちかねたように太い指をねじこむ。
「!?むぶ、」
太い指が口腔の粘膜を蹂躙し、ろくに息も吸えず酸欠の症状を来たす。
「あう、ひゃめ、ひゃにすんへふか」
「知ってるか?嘘つきは舌をぬかれるんだぞ」
口元に薄笑いを浮かべ目には冷徹に冴えた光をやどし、悦巳の口に指を突っ込んでかき回す。
「この舌で何人の年寄りをだましたんだ」
喉の奥まで突っ込まれてえづく悦巳に皮肉を言う。
すみずみまで暴いてから舌をつまみ、根元を押さえてぐいぐい引っ張る。
「いひゃい、いひゃいて!はなひへふははい、ぎぶ、ぎぶ……」
唾液の糸引き指が引き抜かれる。
生理的な涙を目尻に滲ませ激しくむせる悦巳、そのズボンに手をかけ下着ごとひきずりおろす。
「―っ!!」
体毛の薄い下肢を暴かれ顔があざやかに燃え立つ。
ズボンを取り返そうとさしのべた手は薙ぎ払われ、マウントポジションをとられる。
「あんた……正気か?なに考えてんだよ、こんな」
「児玉華を殺したのはお前だ」
鈍器で頭を殴られたような衝撃。
「は?」
俺がばあちゃんを殺した?
「ふざけ……んな。そりゃ俺は振り込め詐欺の常習犯で、たくさんのじいちゃんばあちゃんに嘘吹き込んで金騙し取ったけど、だからって殺したなんて言いがかり……」
『オレオレさんごきげんよう』
『お庭に綺麗な薔薇が咲いたの。見に来ない?』
受話器越しにしか知らない故人の声が、石灰質に固まって三半規管の螺旋をおちていく。
「お前は加害者で犯罪者、その上人殺しだ」
抑揚なく告げる声は真実の響きを宿し、断罪にも似て苛烈な容赦のなさで、良心の呵責に苦しむ悦巳を追い詰めていく。
「なら、俺に報え」
自分は人殺しじゃないと否定しきれず矛盾に押し潰される。
児玉華の孫を詐称し悪質な詐欺を働いたのは事実。
途中で音信不通になって結局金は騙し取れなかったが、数ヶ月間孫を演じて善良な老婆を欺き続けたのは事実で、だから悦巳は、本当の孫の無茶な要求に逆らえない。
「最初からこれが目当てだったんすか……?」
裏切られた痛みに胸が張り裂ける。
「俺を家政夫として雇ったのも、元の仲間や警察から匿ったのも、全部このつもりで、ばあちゃんの仇を討つために……」
仕返しするために?
へんなの。どうしてこんなショックを受けてるんだ、自業自得なのにさ。
被害者の遺族が憎い仇をただで匿うわけないと常識で考えてわかりそうなものに。
下心があるに決まってるのに。
悪ィのは俺だから、
自業自得だから。
だれも助けちゃくれない。
だまされてたと恨むのは筋違いだ、逆恨みだ。
みはなちゃんに懐かれて家政夫の自覚が芽生え始めて、朝起きて飯作って幼稚園に送り迎えする平凡平穏な日常にどっぷりつかる居心地のよさを憶え始めて、けれど所詮はケチで薄汚い詐欺師で、本当はみはなちゃんに慕ってもらえるようなヤツじゃないのだ。
心の底で薄々勘付いていた事実をつきつけられ、失意に呑まれる。
「あたりまえだ。他に利用価値があるか?」
誠一が邪悪に笑う。
「家事もろくにできない、紅茶も満足に淹れられない、料理はまずい。できそこないの半人前を家政夫として雇って何の得がある?お前は俺に尽くせ。尽くして、報え。俺の気が済むまで奉仕しろ」
下半身に甘い痺れが走る。
手が太股を這うつどくすぐったさにもぞつく。
「!ぁ、うあ」
「萎えてるな」
耳朶に半開きの唇を添え囁く。
誠一の手が悦巳の中心に至り、萎えてぶらさがったペニスを包む。
根元から先端へ、やすりがけるように手が上下する。
間違っても声など出さないよう唇を噛む、腕を交差させ顔を庇う、下半身からこみ上げるむずつく感覚に抗う。
誠一の方が体格が優れていても全力で抵抗すれば振りほどけるはず、しかしそうする気が起きない『役立たずめ』最初から冷たかった『まずい紅茶だ』悦巳が淹れた紅茶を一口飲んでシンクに捨てた『他に利用価値があるか?』……
なんだ。
俺、家政夫じゃなかったんだ。
「役立たずが」
ストレス発散用のサンドバッグ兼ダッチワイフだったんだ。
「あっ、あ、あふ」
そうだよな、そりゃそうだ、おちこぼれの役立たずでお荷物で厄介者で大志がいなけりゃなにもできない、精一杯がんばってみたけど家政夫なんかつとまるわきゃなかったんだ最初から、俺みてえにちゃらんぽらんでだらしねえ奴に子供の面倒見るの無理だったんだ
最初から信頼されてなかった。
信頼に足る根拠がなかった。
馬鹿だ、俺。
はなっから期待されてなかったのに勘違いして空回りして、やり直せるかもだなんて
「料理……たくさんおぼえたんすよ」
感じてる顔を見られたくなくて、腕の下に隠す。
「あんま上達してねえけど幼稚園で仲良くなったママさんたちにレシピ教えてもらって、本見て……味はいまいちぱっとしねえけど、みはなちゃんだけじゃなく誠一さんも褒めてくれるメシ作りたくて……毎日帰り遅えから、冷めても美味しいメシを作るのが目標で」
息を継ぐ。
吸って吐いてまた吐いて潤む目を瞬き、たどたどしく愚痴る。
「毎日どんな思いで誠一さんの分にラップかけてっか知らねえくせに……」
どんなにか誠一の帰りを待ち侘びていたか知らない癖に。
「っく……」
「俺の手にくちゃくちゃいじられて恥ずかしいのか?……勃ってきたぞ」
衣擦れの音がいやに耳につく。息を吸って吐くごと鼻の奥がつんとする。
くちゃくちゃと卑猥な水音立つ中、ヘアバンドがずれて前髪ばらつく羞恥の表情でぐずる。
「せいいちさ、や……も、きもちわりぃ……からだ熱くて、へん……」
弱弱しく喘いで訴える。体の変化に心が振り回される。腰が呼吸を合わせ上擦り始める。
アルコールの働きで頭が朦朧とし意識が拡散、快楽に巻き込まれ押し流されていく。
「淫乱だな。初めてで腰が踊るのか」
体がふわふわ浮ついて、下半身は意志を裏切って屹立していく。手足はふやけきってさっぱり言うことを聞かない。
少しでも射精の瞬間を引き延ばそうと違うことを考える、冷蔵庫の中身を賞味期限の迫った順にひとつずつ数え上げて気をそらす。
紅ジャケ、和牛、里芋の煮っ転がし、ポテトサラダ、福神漬け、梅干、果汁100パーセントのオレンジジュース、いちごジャム……
かすかな物音が雑念を払う。
「!」
動く誠一の肩越し、廊下との境のドアにぼんやりと影が映っている。
ドアにはめ込まれたガラスのむこう、寝ぼけまなこで立ち尽くすパジャマ姿のみはな。自分とほぼ同寸大だろうミッフィー抱き枕の耳をもってひきずり、うつらうつらした半眼でこちらを見つめている。
「誠一さん後ろ、みはなちゃんが!」
我を忘れて叫ぶ。
悦巳の分身をしごきたてていた誠一が硬直、振り返る隙をつき床へと転げ落ちる。
逃げよう、逃げねえと。
傍観者的立場の人物の登場により諦念の靄が吹き払われ、アルコールに濁った意識が冴え渡り、みるみる正気が戻ってくる。
かくんと泳ぐ膝を支え前のめりに走る、這うようにして台所へ逃げかけた悦巳に魔の手がのびる、腰を掴まれ押し倒される、視界に床が迫ったと知覚した次の瞬間衝撃が襲う、後ろから抱きつかれうつ伏せでもがく……
「どうした、みはな」
かちゃりとノブが回る。
「おしっこ、じゃなくておトイレです」
「う……」
「どうしたんですか瑞原さん。転んでお怪我しましたか」
「なんでもね……ちょっと……ドジして」
パニック一歩手前で焦燥し、立てた指で床を引っかき、口調だけは努めて飄々と普段の調子を装っておどけてみせる。
怪訝そうな視線を感じ、耐え難い恥辱と情けなさに顔が染まっていく。
肘を使い少しでも遠くへ這って逃げようと試みるも、誠一は悦巳の股間に手を回し、限界ぎりぎりまで張り詰めたペニスをぎゅっと握る。
「!ひっあ、あっ」
ズボンを引き上げた片手が震え、ぞくぞくした感覚が脊椎から脊髄へと駆け抜ける。
背筋が撓う、這い蹲る、奇妙に尻を突き出した格好で耐える。
両手で悦巳の股間を覆い耳朶を甘噛みし、毛繕いをまねて襟足に接吻。
「やめ……許して……―っ、見てる、ばれっから、お願いだからっ……」
首の後ろを中心にちりちり疼くような熱が広がっていく。
半泣きで懇願し許しを乞う悦巳を抱きすくめ、竿の根元を立てて持つ。
「声はだすな」
「――――――――――――ーーーーっあ!!」
尾てい骨ごと引き抜かれるような衝撃。
力一杯、先走りが糸引くペニスをもう一皮剥くような勢いでやすりがけるや瞼の裏で白い閃光が爆ぜる。
「―うっ、あくっ、ふ……はぁ、は……」
力づくで絶頂に押し上げられ、口の端から涎がたれる。
くたりと突っ伏す悦巳へと一瞥くれ、小首を傾げてみはなが聞く。
「なにしてるんですか?」
「……プロレスごっこだ」
「みはなもやりたいです」
「今日は遅い。早く寝なさい」
「………わかりました」
不満そうな返事をひとつ、小さい足音が去っていく。
「なに考えてんだよ、あんた!!」
沈黙を破ったのは悦巳の怒号。
振り返りざま突き飛ばし、汚れがついたズボンを引き上げ、恥辱と憤りに染まった顔で吠え猛る。
「みはなちゃんが、子供が見てる前であんな、信じらんねえ……よくもあんなことできたな変態野郎!!」
トレードマークのヘアバンドを苛立たしげにむしりとり投げつけるも、誠一はそれを少し身を捻ってかわす。
性的な辱めを受けた憤りにもまして幼い子供の前で行為に及んだ非常識が許せず糾弾する。
「もしばれたらどうすんだよ、小さい子供にどう説明すんだよ、自分の父親が男襲って押し倒してショック受けんに決まってんだろ、みはなちゃんなんも知んねえのに……どうしてっ、……フツーやめんだろ!?」
遣り切れず、顔が歪む。
唾とばし怒り狂う悦巳と対峙し、一児の父親は平然と言い放つ。
「子供にはわからないだろう?」
言葉を失う。
愕然と竦む悦巳に背を向け、ドアの方へと歩いていく。
「後始末をしておけ。痕跡が残ってたら承知しないぞ」
硬質な靴音が廊下を遠ざかっていく。
リビングに残された悦巳は、しばらく口を開け閉めし持て余した怒りの処理に困っていたが、はるか後方の床に転がるヘアバンドをのろのろと取りに戻る。
「………くそ………」
しゃがんでヘアバンドを拾い、そのまま立ち上がる気力を喪失しへたりこむ。
髪が乱れるのも構わず頭を振って膝に預け、手を捻り、百円均一で買ったヘアバンドをいまさっき誠一が出て行ったドアへと力一杯投げつける。
「ばあちゃん……」
ドアで跳ね返ったヘアバンドが床に落ちるさまを見もせず、抱え込んだ膝に額を預け、夜毎の電話に怯えていた施設時代に戻ってしまったようにべそをかく。
「あんたの孫、最低だよ」
ともだちにシェアしよう!