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第11話

「カンパーイ!」  缶をカチリと合わせ祝杯を上げる。  「とと、こぼれる。もったいね」  プルトップをひくや空気が抜け、吹き零れる泡を慌てて吸う。  玄関の前、向き合い座る二人の間には紙皿に盛ったピーナッツやチーズ鱈スルメにおかきなど乾物を主とした肴が広げられている。すべて悦巳がスーパーにひとっ走りして調達してきたものだ。  その夜、児玉父子がワンフロアぶち抜きで暮らすマンションの外廊下は貸切の宴会場と化していた。  ただし二人ぼっちの。  「くあーっ、やっぱ一日の締めのビールは最高っす!」  有頂天な悦巳に対し、サングラスに表情の動きを完璧に隠したアンディは呟く。  「未成年じゃないか、お前」  「細かい事気にするのも固いこと言うのもなしっす、康太くんとみはなちゃんの仲直り記念、プラスみはなちゃんが初めてお手てぎゅうしてくれた記念なんすから!今日は無礼講っす、さ、アンディも遠慮せずぐぐいっと」  「仕事中だ。アルコールは摂らん」  「真面目だなあ……」  堅苦しく辞退するアンディに苦笑い、ごきゅごきゅ喉を鳴らしビールをかっくらう。  時間は夜九時を過ぎている。みはなはとっくに寝かしつけた。今頃はベッドの中で夢を見ているだろう。  基本的に悦巳の仕事にいつからいつまでという決まりはない。  あえて範囲を求めるならみはながベッドに入るまでだ。  仕事時間が短縮されればその分好きに使える時間も増えるわけだが、早寝早起きが基本のみはなが眠い目を擦ってベッドにもぐったあと、食器洗いや後片付けなど全ての雑務を終えればぽつねんと暇を持て余すのが現状だ。  みはなは遅くとも夜九時には寝る習慣が身についている。  むこうの部屋で幼女が健やかに熟睡してるのに銃声や爆音轟く大音量こそ醍醐味のカンフー映画DVDを鑑賞する気になれず、消音モードのゲームはなおさら味けない。安眠妨害の娯楽をひとつずつ潰していけば選択肢はおのずと絞られてくる。  主人を出迎えるのは家政夫の務め。  誠一の帰りは不規則で、仕事が多忙な期間は帰ってこないケースもままあり、帰ってきたらきたで大抵深夜になる。  どんなに帰宅が遅くなろうがベルが鳴ればただちに玄関に馳せ参じドアを開けるのが飼い犬、もとい家政夫の義務……というのは建前で、うっかり寝過ごせばイヤミ責めは免れない。誠一はとかく他人に厳しく、特に悦巳に厳しい。あるじをさしおいて先に寝入ろうものならソファーごとベランダに蹴り出しかねない。  以上の経緯で考えついた暇の潰し方がアンディとさしでの晩酌なのだ。  「アンディ尻冷えません?床固えしケツ痛くなりそう」  「構うな。そういうお前こそ、こんな時間にこんなところにいていいのか。やるべきことは終わったのか」  「モウマンタイっす。皿洗いも後片付けもばっちり、さっき確認したところみはなちゃんはぐっすり寝てました。これからはアルコール解禁で大人の時間っす、フリーダムなフリータイムっす」  シャワーを浴びた髪はしっとり湿り、素肌からほのかに石鹸の香りが立つ。  エプロンを外し、本人いわく一番らくちんだというスウェットの上下に身を包んで缶ビールを呷る姿からは一日の終わりの解放感が伝わってくる。未成年の飲酒現場を前に何か言いたげなアンディだが、自分が口を出すべき懸案じゃないと自粛したのだろう、重たげに口を閉ざしてしまう。  悦巳とアンディの交流はほそぼそ続いていた。  一日中ドアの前に立って監視を続けるアンディに悦巳はさしいれと称しまめまめしく手料理を運び、アンディもまた渋面を作りながら、悦巳の強引さと人懐こい笑顔とに負けて皿を手に取り、それらを完食した。  「どっすか?うまいっすか?」と参考の感想を求められるつど「辛い」「苦い」「まずい」「甘い」の単語の四択で評価していたらなぜだか懐かれてしまい、毒見役から味見役へ、味見役から相談役へと、自らの預かり知らぬところでアンディの地位は着実に昇格しつつあった。  夜毎酒盛りに付き合わされ愚痴の聞き手に徹しながら、不満ひとつこぼさずストイックな鉄面皮を保つ忍耐力は見上げたものだ。  黙々と缶ビールをなめるだけのアンディに、手振りをまじえ今日のあらましを説明する。  「―で、ですね、康太くんのお母さんていうのがきっつい性格で、あんた何よ!ってすっげえ剣幕で怒鳴りかかってきたもんだからちびりかけたけど幼稚園で仲良くなったママさんたちが間一髪助けに入ってくれて……やー、まじ怖かった。もつべきものはママ友っすね。お母さんが拉致られてるあいだにこっちはこっちで康太くん誘拐してブランコで話し合い。いっときはどうなるかと思ったけど、ホント……」  チーズ鱈の背皮を毟り、寂しげな翳り漂う笑みを虚空に放る。  「ちょっとだけ懐かしかったな」  「懐かしい?」  アンディが聞き咎める。  ビールに口をつけチーズを齧り、悦巳は言う。  「一生懸命ワルぶってるところがダチに似てて。まわりに舐められねえようについついいらない意地張っちゃうんすよね。あ、やべって思ったときには手遅れで……そのくりかえし。他人とは思えなくて頬をぐりぐりしちゃったっす」  「危害は加えないんじゃなかったのか」  「頬っぺたマッサージはぎりぎりセーフっす、こりもほぐれて美容に利いて一石二鳥」  リラックスして足を崩し、反省会を兼ねて今日の出来事をアンディに報告する。  児玉親子と悦巳が暮らす部屋はマンションを一階分独占してるため、多少はめをはずし騒いだところで近所迷惑にならない。どうして中に入らず玄関前の廊下に胡坐をかいているのかと言えばアンディが仕事場からの離脱を固辞したからだ。缶ビールをもって押しかけてきた悦巳に監視の延長―といえば聞こえはいいが実態はサービス残業と大差ない―としてしぶしぶ付き合いはしても任務の途中放棄はよしとしない、まさしくプロフェッショナルである。  もっとも邪険に追い返さないぶん悦巳がおかれた窮屈な環境に理解を示し仕事に支障を来たさぬ範囲で憂さ晴らしに協力してると評価できる。夜道を突っ走ってビールの調達に行く悦巳を大目に見るのはアンディなりの優しさかもしれない。  いや、断じて手料理のお裾分けに懐柔されたわけじゃなく。  「頑固っすねえアンディは。ちょっとくらい中入ったってばれませんよ、誠一さんだって怒んねっすよ」  「仕事場からの離脱は服務規定違反だ。持ち場を離れているあいだに泥棒が来たらどうする」  「ねっすよそんなん、こんなマンションの上までやってくる根性ある泥棒いませんて。気になんならちょっとの間だけ交代してもらえばいいじゃねっすか、一日中立ってんのしんどいっすよ」  「ヤワな鍛え方はしてない」  「息抜きは必要っす」  「監視は俺の任務。与えられた仕事と命令を完璧にこなしてこその傭兵だ」  「で、康太くんだけど」  聞いてない。  好物のチーズ鱈をぱくつき回転率を上げてビールを口に運ぶ。  「どうにかわかってくれました。早い話やきもちやいてたんすよ。俺がやっつけで作った日の丸弁当にママの弁当が負けたって……」  「なるほど。それで落書きを」  「少年漫画風にリベンジを誓って別れました。とーぜん背景は夕日っす」  「そうか」  「あ、や、嘘っす。言いすぎました。迎えに行ったときはまだ夕日でてなかったな」  「嘘なのか」  「……すいません……」  サングラスの奥から凝視さればつが悪くなる。  悦巳はアンディに親近感を抱いている。  人使いの荒い主人に虐げられる下僕同士、もっと仲良くなりたいのが本音だ。  自由に外出できず軟禁状態の悦巳にとって、一日中表に立つアンディは格好の話し相手だった。  頭を下げて詫びる悦巳を責めず、寡黙にビールを飲んでピーナツを摘む。飲み方も渋い。  「無事仲直りできてよかったっす。ほっとしました」  安堵の吐息をついて胸をなでおろし、顔の横に缶ビールを掲げてみせる。  「……康太くんもお母さんも不器用なだけだとおもうんすよね。人よりちょっと不器用なだけ」  缶をいじくりまわし、くさい台詞にはにかむ。  「不器用な人、嫌いじゃないんです」  身近に反面教師の幼馴染がいたからか、悦巳自身要領よく世間を渡ってるように見えて中身はひどく繊細で不器用だからか。  いつも悩み事などひとつもないかのように能天気に振る舞う悦巳が感傷とも郷愁ともつかぬ大人びた表情でひとりごつのが意外で、珍しくアンディのほうから口を挟む。  「居心地はどうだ。家政夫業には慣れたか」  「ひぃひぃ言いながらついてってます。誠一さん人使い荒いから大変だけどみはなちゃんの可愛さに救われてるっすね。居心地?そりゃもー上々っす!漫画喫茶の固い椅子に慣れた身にとっちゃふかふかのソファーベッドは天国っすよ」  「随分と所帯じみた天国だな」  「あ、馬鹿にしたな?アンディ俺のこと哀れなネカフェ難民だと思ってるんしょ?だったら一度漫喫の椅子で寝てみりゃいいんすよ、背中ばきばきになるから!筋肉痛で首寝違えて最悪の目覚めっす」  「朝には死体になってる戦場よりましだ」  ………アンディの過去が謎を呼ぶ。  つれないあしらいについついむきになり、口角泡をとばして主張する。  「でもでも作れる料理増えたんすよ!前は全然できなかったけどやっぱそれじゃあんまし情けねーじゃねっすか、みはなちゃんに栄養つくもの食べさせてえし……初めの頃は油がとんで火傷したり指切ったり失敗だらけだったけど今じゃ肉じゃがとカレーは鉄人級っす」  「三人家族なのに大量に作るから余るんだ。次から分量を考えろ」  「裾わけしてるじゃねっすかー」  「頼んでない」  「食べるくせに」  「俺は残飯処理機か?」  「とんでもない、毒見役っす。アンディなら殺しても死にそうにねえし」  悪びれずのたまう悦巳を無言で睨む。  「なーんて冗談だってば!水臭えな、マブダチっしょ!」  だいぶ酔いが回ってきたのだろう、アンディにもたれてばしばし背中を叩く。躁的に浮つく言動はいつにも増して子供っぽい。  並の人間と鍛え方が違うアンディはその程度でよろめいたりはしないが、サングラスはずれる。  「あれ?アンディてばつぶらなおめめでギャップ萌え~……」  とろんとした酔眼を眇めて近寄る悦巳を牽制し、サングラスの位置をすかさず直す。  「そもそも何故買い物にいく?食材は宅配で送られてくるだろう」  「気晴らしっす」  不服げに口を尖らし、二本目のプルトップを引く。  「一日中家にこもってちゃ欝るし、買い物とかこじつけでもしねーと外に出してくんねっしょ?それにさあ、冷蔵庫の中身偏ってんだよね。素人の手に余る高級食材ばっか。ぶっちゃけ霜降り黒部和牛とか鈍器になりそうな冷凍カジキとかどう調理していいか悩むし……だって黒部和牛っすよ、野菜炒めに混ぜたらばちあたりますって。大志の野菜炒めなんて毎回百グラムいくらの豚バラ肉っすよ?ならいっそ自分でスーパー行っていちから見て回ったほうが献立考えやすいかなって」  「なるほど。主夫の知恵か」  「みはなちゃんも喜んでくれますしねー」  買い物の行き帰り、食材を詰めた袋を持つのを一生懸命手伝う微笑ましい姿を思い出しにやけてしまう。  「あー……そういえば冷蔵庫ん中見て気になったんすけど誠一さんて酒やんないんすか?アルコールだめな人?ごそごそやったんだけどアルコール類見つかんなくてえ、しゃーねーからスーパーまで買いに行っちゃったっす」  「家ではやらん。乱れるのを嫌う」  「じゃあ飲める事は飲めるんだ?紅茶で出来てんのかと思ってた。誠一さんてなんか紅茶のションベンしそうっすねー」  最低だ。  同意を求めるも軽蔑され、しかしへこたれずしゃっくりの合間に続ける。  「誠一さんてなんであんな紅茶こだわるんすか?キャラ的に絶対コーヒー党なのに……小姑なみに口うるせーし。茶っ葉は先に入れろ十分蒸らして静かに湯を注げとかいちいちこまかく指図してさ、そんなん言われたってすぐに上手くなんねえよ、自慢じゃないけど俺ってば自販機の缶紅茶かインスタントっきゃ飲んだことねえ庶民よ?」  口調にどんどん地がでている。  ソファーベッドで寝起きする居候生活にもみはなの為に食事を作る家政夫業にも慣れてきたが、主人のわがままだけは我慢できないとばかり鬱積した不満をぶちまける悦巳に対し、アンディは言葉少なに告げる。  「紅茶は社長とおばあさまの思い出の味なのだ」  「え?」  急激に酔いが冷めて行く。  「それ、どういう……」  詳細な説明を要求するも、アンディは迂闊な失言を悔いてそれきり黙りこんだまま、悦巳に缶を突っ返し腰を上げる。  「……社長が話してない事実を部下が口外するわけにはいかない」  黒背広の背中を向け、立ち去る気配を見せたアンディをもつれた足取りで追う。  「いけず言わず教えてください、いまの俺が頼れるのアンディしかいないんす、誠一さんは毎日遅いし……」  エレベーターへと赴く歩を阻まんと苦し紛れに叫ぶ。  「俺たち戦友と書いてマブダチっしょ!?」  その言葉が逆鱗にふれた。  「小僧に戦場のなにがわかる!!」  大喝され立ち竦む悦巳を無視し、開いたドアからエレベーターに乗り込む。  「お前のさしいれをえり好みせずたいらげる理由はな、レーションと比べればどれも素晴らしいご馳走に思えるからだ」  「レ……レーション?」  「軍人に配給される携帯固形食糧だ。おそろしく、まずい」  あっけにとられた悦巳の前でドアが閉じ、低い稼動音を伴ってエレベーターが下降を開始する。  「…………どこの国から来た傭兵っすか?」  誠一がアンディをスカウトするに至った経緯を切実に知りたい。  アンディのプライドというかトラウマというか―ともかくそんなものをつついて怒りを買ってしまった悦巳は、悄然と肩を落として後片付けを始める。空き缶を拾ってビニール袋に放りこみ、肴ののった紙皿を持ち、塞がった手の代わりにドアを蹴り開け中へと引き返す。  「………怒らしちゃったかなあ……」  ため息が口をつく。  今夜は少し調子にのりすぎたようだ。誰にでも触れられたくない過去のひとつやふたつある。今後アンディの前で戦争とか戦場とか戦のつく単語は禁物。  台所にもどり、紙皿にラップをかけて冷蔵庫に突っ込んでおく。  凭れるようにして閉めれば扉に貼った似顔絵と目が合い、それを手本にして顔筋を働かせる。  「よし」  笑顔、笑顔。  口の中で呪文の如く唱え、今日康太にしてみせたように自分の頬で円を描いてマッサージしてみる。  アルコールを摂取したせいか体が火照り汗ばんでいる。  頼りない足取りでリビングに引き返し、ソファーに身を横たえる。風呂はすんだ。誠一の帰りを待って紅茶を淹れるだけ、そうすれば仕事も終わり、ぐっすり寝れる……  摂取したてのアルコールが泥のような睡魔を呼んでうつらうつらする。  「少しだけ……寝てもオッケーかな……」  一時間、三十分、いや十分。  誠一の帰りを待つ間ほんの少し仮眠をとるくらいなら許されるだろう。  「大丈夫、誠一さんが帰ってくるまでには起きっから……」  誰にともなく安うけあいし、身を丸め毛布をひっかぶる。  アルコールに浸された意識はたちまち闇に呑まれてしまう。  アンディとの仲直りは明日考えよう。  面倒な話は明日に棚上げしもぞつき、いつのまにか悦巳は安らかな寝息をたてていた。  「うぅ……」  反応は鈍い。  不承不承片目を開け、横着して毛布にくるまったまま、物音がする廊下の方を仰ぎ見る。  誠一が帰宅したのか?しかし、ベルが鳴らないのは不自然だ。  悦巳が開けなくても入れたということは合鍵を使ったのだろうが……  苛立たしげな足音が次第に近付きつつある。  右へ左へふらついて壁にぶつかっているのだろう物音にいらついた舌打ちがまじる。  「誠一さん………?」  轟音が鼓膜を叩く。  「っ!」  毛布をたくしあげ首を竦める。  見なくても想像はつく。誠一が廊下の壁を蹴りつけたのだ、おもいきり。  歩きながら手当たり次第に壁を蹴りつけ殴りつけているのだろう、轟音と振動が壁を伝うつどびくついてずり落ちつつ尻で摺るようにしてソファーに戻り、ドアの硝子に射す影を見つめる。  ドアを開け放ち転がり込んできた誠一を見て、準備していたおかえりなさいがひっこむ。  泥酔している。  兆候はあった。  何時に帰宅すると告げる電話がなかった、ベルが鳴らなかった。夜も更けてみはなが寝てるのに構うものかと、まるで強姦魔か強盗のように荒々しく足音をたてあがりこんできた。  じっとり汗ばむ手で毛布を握りしめ、できるだけ平静を装って、どう見ても普通じゃない誠一にいつもどおり接する。  「あの……夕飯できてますよ。今日は花梨ちゃんのママさんに教えてもらった里芋の煮っ転がしっす、砂糖多めにして甘辛く煮つけるのがコツっす。中までほくほくしてるか爪楊枝の通り具合で判断するんすよー、レンジでチンすっからちょっと待」  肘をついて上体を起こすやそれは起きた。  「えっ、」  悦巳の肩を掴んで無理矢理押さえつける。  肩に食い込む手の力に恐怖が募り、鼻先に迫った顔を見詰め返す。咄嗟の事態に頭は働かず体は動かない、遅ればせながら抵抗するも誠一の腕力は強く体格は大きく暴れたところでびくともしない、肘を付いて起き上がろうとするや影がのしかかる、衣擦れの音が耳につきぎょっと見下ろせば節高の手がスウェットの裾を捲りあげて中へ忍びこみ―……  酔っ払いの手は、ひどく熱かった。

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