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第10話

翌日、保護者と保育士と園児が活発に交流し賑わう幼稚園にて決戦に臨む。  「つーわけでさくっと仲直りしちゃいましょう!」  「いやです」  息子の手を強く引っ張り断固として身を翻す。  「即答っすか……」  無視されるのも覚悟の上で、色とりどりのペンキを塗った遊具を配した庭を突っ切って門へと向かう後ろ姿を追う。  「待ってください、お時間はとらせませんから、十分、いや、だめなら五分でいいんでちょっとだけ康太くん貸してください!大丈夫っす、身代金要求しねえから」  「当たり前よ!」  併走しつつついうっかり口走った台詞でさらなる顰蹙を買う。  「……しつこいわよ、あなた」  振り返りざま、怒りもあらわな般若の形相で冷たくはねつける。  「あの件はもう済んだはずよ。昨日の会話であなたが全然反省してないってことはよくわかりました、誠意のない人相手に話し合いなんて無駄だわ、後日電話で正式に抗議するって言ったでしょ?クビになるかもしれないからそれだけは阻止しようって魂胆?みはなちゃんのお父さんに直接話が行くのはまずいわけ?」  あくまで居丈高に振る舞う母の隣で康太は何か言いたげに口を動かすも、悦巳に寄り添うみはなと目が合うやたちまち俯いてしまう。  「今さら謝ってもらったって手遅れよ、謝るなら昨日の段階でしてよ」  康太の頬にはまだ絆創膏が貼られている。  何も言わずじっと、つぶらに澄んだ瞳でいきりたつ母とそれに倣う子を見つめるみはな。  批判するでも非難するでもない、さりとて怯えるでもない、人の本質を直感的に捉える透明な眼差し。  率直な凝視が反感を招いたのだろう、眦が急角度でつりあがる。  「……なによ、人の顔見て。言いたいことあるならはっきり言いなさいよ、変な子ね」  康太の母親が放ちかけたイヤミを広げた片腕で遮り、顔を引き締め一歩踏み出す。  「もう一回康太くんと話させてください」  「信用できないわ。うちの子に何するかわかんないし……」  「信じてください」  ずいずいにじり寄る悦巳の迫力に母親が引く。  「あなたやその子が康太に危害を加えないって保証はあるの?」  だしぬけに手を伸ばし、母親の肩を掴む。  狼狽する母親へ急接近し、真剣な顔つきで訴える。  「嘘は言いません、この目を見てくださいっす。嘘を言ってる目に見えますか、これが」  ほらほらと自分の目を指さす悦巳に母親は懐疑的だ。しかし悦巳はこの機を逃さず不審がる母親へぐいぐい詰め寄って、まるでキスを迫るかのような近距離で、切実なまなざしに乗せて説得を試みる。  「信じてください、康太くんのお母さん。もっかいチャンスくださいっす。お母さんだって本当はなにがあったかわからないままうやむやになっちゃうのやでしょ、俺だってそっす、康太くんの話をちゃんと聞いて両方ともちゃんと納得できる形で仲直りに持って行きたいっす」  「ちょっと、あんまり近付かないで」  「お願いしますお母さん、この通り」  悦巳は頭を下げる。康太母は頬を染める。  とりたてて美形ではないが、イマドキ風に髪を染めた若い男の子がなりふりかまわず頼みごとをする姿はミーハーな主婦の胸を打つ。  切羽詰まって潤んだ眼差しは母性本能を刺激し必死に懇願する姿は能天気にちゃらけた普段とのギャップも相俟ってより一途さが引き立ち、遠巻きに傍観していたお母さん方が一気に悦巳支持派になびく。  「いいじゃない羽賀さん、話ぐらい聞いてあげましょうよ」  「そうそう、減るもんじゃないんだから」  「な、なんですかいきなり……人の話に首突っ込まないでください!大体こんなどこの馬の骨ともわからない子信用できないわ!」  やんちゃそうな男の子の母親が、ぽっちゃりした顔に柔和な笑みを浮かべてフォローに回る。  「あら、えっちゃんはいい子よう。こないだ孝が転んで泣いてたらおんぶしてくれたもの」  「茉莉沙がボタンをおっことしたら一緒にさがしてくれたわ」  「すばるの靴紐結んでくれたもの」  「えっちゃんはね、超レンジャーのへタレ幹部オロンゴのものまねがすっげーうまいの!」  「とってもいいヤツ!」   「ジュンくんとケイくんとショウくんの次にすきー」  「お嫁さんになったげてもいいよ」  「えっちゃん大好きー遊ぼー超レンジャーごっこするからオロンゴの決め台詞『おらバッティングセンター行くべ』言ってー」  方々から悦巳を評価する声が上がり、そこら中を走り回っていた園児たちも無邪気に追随する。  悦巳に肩入れする保護者に宥められ、母親は悔しげに唇を噛む。  「ね、羽賀さん、あっちで一緒にお話しましょうよ」  「ひなちゃんのママが近所に素敵なスイーツのお店見つけたんですって。紅茶とミルフィーユが絶品で……」  康太母の背中をやんわり押して遠ざかっていくママ数名が、こっそり悦巳を振り返り、ウィンクしたり親指を立てたり合図を送ってくる。  意訳すると「こっちは任せておけ」だ。  「……心強いっす」  異性の同情を集め数を味方につけた悦巳の勝利。  見事の一言に尽きるママ仲間の連携プレイに窮地を救われ、歯を見せて親指を立て返す。  「さてと」  一息つき、ヘアバンドを前髪ごと押し上げる。  母親と引き離され、ひとりぽつねんとたたずむ康太に誘いをかける。  「場所かえますか」  何気なくさしだした手は無言で拒否された。馴れ合うつもりはないらしい。  苦笑しつつ手を引っ込め、みはなを伴ってブランコへ向かう。  康太もふてくされてついてくる。  すべり台やシーソーや砂場に群がって遊ぶ園児たちの歓声がこだまする中、花壇に隣接した隅のブランコは妙にひっそりしていた。  「座ってください」  顎をしゃくる。  康太は怪訝そうな上目遣いで悦巳を見、ついで用心深くみはなをうかがう。  みはなは素直に従う。  悦巳の正面、真ん中のブランコにちんまり腰掛けて錆びついた鎖を握る。  康太は迷った末、その隣からひとつおいたブランコに腰掛ける。  投げ出した足がぶらぶら頼りなく揺れる。   「だーめっす」  すかさず康太の後ろに回るや腋の下に手をさしいれ宙吊りにし、みはなの隣へ移す。  「よし」  「………」  康太は不満げに頬を膨らます。  と、再びブランコを降りてとことこ歩き、今度はさらに遠く、ふたつおいたブランコへと落ち着く。  母親譲りの頑固さでこちらを無視し大きく迂回する康太を黙って見守る悦巳だが、着席するや鷹揚な動作で後ろに回り込んで羽交い絞めに強制送還。  手を放すやいなや顔を真っ赤にし、素早く飛び降りるや一番端のブランコへと突っ走りどっかとふんぞり返るも今度もまたあっさり捕獲され、遂に我慢の限界が来る。  「気安くさわんな、はなせよ、どこに座ろうがジユウだろ!」  「そんな遠くに行っちゃ話し合いになんないっすよ―。それとも……ははん、康太くんは甘えん坊赤ちゃんなんすね?それなら俺がずーっとずーっとお膝に抱っこしてあげますよ、お友達みんながわー康太くん赤ちゃんみたい恥ずかしーって指さして笑いに来るけどそれでいいっすか?」  「いいわけない!はなせ、一人で座る!」  「逃げねえ?」  「わかった、逃げないから!やめろって、みんな見てるだろ!!」  じたばた暴れ訴える康太に念を押し、注意深く隣に下ろす。  悦巳に抱っこされる現場を友達に目撃され無念そうに俯く康太を探り見て、いつもよりほんの僅か得意げにみはなが呟く。  「………康太くん赤ちゃん、恥ずかしいです」  「―っ!!」  「はいそこまでストーップ」  喧嘩が勃発しそうな気配を嗅ぎ取って、両手を水平にして割って入る。  康太はしばらく忌々しげに悦巳を睨んでいたが、悦巳の浮かべる掴み所ない笑顔と、隣に座るみはなの取り澄ました無表情とに挟まれてボルテージが急低下し、やけっぱちに近いなげやりさでブランコをこぎだす。  ブランコの軋み音に合わせ短い足がぶらつく。  両者から等距離の鉄棒に腰掛け、前傾して膝に肘を置き、おっとり口を開く。  「康太くん、昨日はなんで喧嘩したんですか」  「知らない。こいつがいきなりひっかいてきたんだ」  「違う、みはなは」  みはなの反論を悪戯めかした目配せで封じ、つまらなそうに宙を蹴る康太に向かう。  「―俺の顔に落書きしたっしょ?ばかせいふって」  「…………」  重く軋んでブランコが止まる。  蹴り出す足が加速と上昇を断念したように垂れる。  こぶしを緩めて鎖を握り、憮然とそっぽを向く。  「見たんだ」  「ばっちりと」  「さっさとちくれよ」  虚勢を張りつつも内心は叱責に怯えているのだろう、惰性でブランコを漕ぎながら盗み見る目つきに不安がちらつく。ひねくれた物言いは可愛げとは正反対で生意気に映るが、不服げに口を尖らす様は子供っぽくて微笑ましい。  むくれた横顔に同じく意地っ張りで施設一番の問題児だった幼馴染がだぶる。  あいつも憎まれ口は達者だったっけ。  鉄棒から腰を浮かせ、悄然とうなだれた康太の正面にしゃがみのぞきこむ。  「俺はね、なんで康太くんがそんなことしたのか知りたいんす」  「…………別に。ないよ、理由なんか」  「理由もなくひとの絵に落書きするんすか?」  「悪いかよ。こいつの絵があんまりへたくそだからからかってやりたくなったんだ、そんだけ」  俯くといっそう頬の絆創膏が目立つ。  へそを曲げた康太を少し離れてためつすがめつ、やにわに手を伸ばし円を描くようにほっぺのマッサージを始める。  「むぶ!?」  「あーやっぱ子供の頬っぺは柔っけえや、むにゅむにゅ癖になりそ。この弾力、柔軟性、最高級のわらびもちっす」  康太の頬を縦に横に潰し、円を描くように揉みほぐし引き伸ばし、おもいっきり顔を近づける。  口元はにんまり笑っているが目は笑ってない。  「俺は確かに未熟者のばかせいふだけど、一日も早くばかせいふを卒業できるよう頑張ってるんす」  「ぶふ、ぶむふぅ?」  「だからさ」  横に潰れた顔の康太が窄まり口から疑問符を発する。  奇矯な振る舞いに戸惑う康太の顔をしっかり手挟み、ほんの少しばかり声を低め、真剣味を加えて宣言する。     「今度うちの子に悪さしたら怒るぞ」    漸く吹っ切れて解放する。  悦巳の手が離れていくや、一瞬ぽかんと口を開けた康太の目に大粒の涙が盛り上がる。  徐々に呼吸が浅く荒くなり、肩が激しく浮き沈みし、危険な感じにしゃくりあげ始める。  「だっ、だって」  「うん?」  俯き加減の顔がくしゃりと歪み、ひくつく瞼の下で大きな目が赤く充血して潤み、鎖を握る手が小刻みに震えだす。  「こいつのせいでママのお弁当、ほめてもらえなかった」   感情の堰が決壊し、天邪鬼な行動で上塗りした本音が氾濫する。  悦巳は辛抱強く耳を傾ける。  康太が泣くところを見たのは初めてなのだろう、みはなは目を丸くする。   鎖を握り締め、ブランコに腰掛け、こみ上げる嗚咽をどうにか堪えようと肩を上げ下げし続ける。  「ママにお弁当作ってもらったのに、俺の好きなからあげとハンバーグ、そぼろで超レンジャーの似顔絵描いて、みんなにすごいねって言ってもらえるはずだったのに……こいつばっかちやほやされて……」  お弁当の日、康太は母親自信作の手作り弁当を友達みんなに嬉々として自慢するつもりだったのだ。  しかしその日、みはなが持参した日の丸弁当が物珍しさ故に話題と注目をかっさらい、結果として康太の母が腕によりをかけた弁当はかすんでしまった。  泣いてるとも怒ってるともつかぬ遣り切れない様子で地面を睨みつけ、手の震えが伝わりかちゃつく鎖が命綱だとでもいうかのように握り直し、合間合間に息継ぎしつつたどたどしく言う。  「ママの弁当の方がすごいのに。うまいのに。あんな手抜き弁当、ちっともすごくないじゃないか。上に梅干のっけただけで……まっしろけで」  母子ともども嫌われ者から一躍人気者になるはずだった康太は、みはなにやきもちを焼いた。  似顔絵に「ばかせいふ」と殴り書きしたのは、母親が受けるべき称賛を横取りした憎き仇への報復でもあった。  「ママ、他のママに負けたくないって頑張ったのに……」  「悦巳さんだって頑張りましたよ」  いじらしい弁護にあるかなしかの良心が痛む。  悪さの動機が明らかになり、悦巳はしばらくその場にしゃがみ嗚咽する康太を見つめていたが、ややあっていたわりの手つきでくしゃりと頭をなでる。  「康太くんはお母さん想いのいい子っすね」  驚いて泣き止む。身内以外の人間に褒められるのは初めてだといわんばかりの反応だ。  悦巳は微笑んでいた。  小さい者への共感を含むいとおしげな笑顔は、目元の険がとれ、本来が朴訥と優しい造りの童顔に映えた。  不思議そうな康太をのほほんと人を癒さずにおかない空気をまとう笑顔で励まし、髪に指を通してかき回す。  「け・ど、お絵かきの時間にやりかえすのはルール違反っす。今度は正々堂々お弁当で勝負しましょう、どっちが美味しいお弁当作ってくるか競争っす」  「きょうそう……?」  「そ、競争っす」  もつれた髪の下で目を眇め鸚鵡返しに聞く康太へと、不敵にほくそえんで挑戦状を叩きつける。  「俺が勝つか康太くんのママが勝つか、ずるっこなしで白黒つけるっす。ほっぺた落ちそうに美味い弁当作ってくっから覚悟してください」  「でも……」  「康太くんはママのお弁当が大好きなんしょ?」  「……うん」  「世界で一番だって思ってるんすよね」  「あたりまえだ」  「なんと、俺もなんす。俺の弁当こそ世界で一番だって思ってるんす!」  対抗心むき出しで削り合う視線が苛烈な火花を散らす。  目に意志の力を取り戻した康太が睨んでくるのを正義の戦隊ヒーローを悪辣で姑息な手口でおちょくる悪役さながら受けて立つ。  「負けませんよ」  「こっちこそ」  ブランコから転落しそうなほど乗り出す康太へと再び近寄り、耳元でそっと、世界中の誰もが知ってるけど当たり前すぎて見落としがちな真実を囁く。  「でもね、これだけは憶えといてほしいんす。康太くんのお母さんが一番喜ぶのは、他のだれの褒め言葉より、康太くんから貰うごちそうさまの一言っすよ」  噛んで含めるように教え諭すまなざしは陽だまりのように凪いでいた。  康太は従順にそれを聞いていた。  ひとつひとつ真心こめて悦巳が手渡した言葉は、意固地に拗ねてこりかたまった康太の心をほぐして慰撫し、ゆっくりと染み込んでいった。  和んだ沈黙の内に見つめあう。心が通じ合い、幼い顔が俄かに引き締まる。  覚悟を決めた男の顔だと悦巳は思う。  そこからはもう誘導する必要も仕切る必要もなかった。  悦巳が背中を押さなくても、康太は自分がすべきことをちゃんと理解し行動に移した。  鈍重な動作で鎖を手放し地面に降り立つや、引っ込み思案に正面にやってきて、呟く。  「………ごめん」    酸っぱい顔で判断を仰ぐみはな。頷く悦巳。  鎖が金属質の澄んだ音をたて、小さな子供の手をすり抜ける。  洟を啜り上げる康太に向き直るや先ほどの悦巳をまねて、俯く頭に手を置く。  「よくできました」  「――――――っっ!!」  康太の顔が殆ど火が出そうな勢いで紅潮する。   康太の頭を犬にでもするようにわしゃわしゃかきまわしながら、ぺこりと頭を下げる。  「みはなもごめんなさいです」  謝罪を受け入れた一瞬、雪解けに似た淡さで口元が綻んでとびきり可憐な笑みが咲く。  抱きしめたくなるほど無垢で愛くるしい笑顔と至近で対峙し、康太は口を開け閉めスモックの裾を捏ね回す。  さてはと悦巳は勘付き、みはなの笑顔を目の当たりにして口も利けない康太の肩を抱いて引き寄せるや、あたり憚る小声で囁く。  「康太くん、ひょっとして……みはなちゃんが好」  「きなわけないだろっ!!」  鼓膜を破らんばかりに怒号し、悦巳を突き飛ばして颯爽と駆けていく。  その見事な逃げっぷりが答えとばかり、一度も振り返らず母親のもとへまっしぐらに駆けていく康太を地面に転がり見送って、はは、と力なく笑う。  「ませガキめ~……」    「大丈夫ですか、悦巳さん。痛いのとんでけしますか」  視界の片隅にみはなの心配顔がちらつく。  砂を払って起き上がるや、あどけなく見上げるみはなへと、まるでいつもそうしてるような習慣づいた自然さで手をのべる。  「帰りますか、みはなさん」  「……………」  急かすでも強要するでもなく、相手の意志を尊重する。  みはなに向ける笑顔は屈託なく、貧相で頼りない体格や軽薄な童顔とは裏腹に、信頼感や安心感と名付けたくなる素朴な温かみにあふれていた。  はにかむような面持ちで口元を引き結び、スモックの裾で裏と表を綺麗に拭いて、おずおずと悦巳の手を握り。  その日ふたりは初めて一緒に手を繋いで帰ったのだ。

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