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第15話
「ただいまーっす。ってだれもいねーけど」
元気良くドアを開け放てばたちどころに横をすり抜け、軽快な足音を響かせ廊下を駆けて行くみはな。
「待ってみはなさん、ちゃんと砂を落としてからじゃないと……あーもう、いわんこっちゃねえ」
「じゃりじゃりが気持ち悪いのでお風呂に入ります」
いつもお行儀良くお利口でどちらかといえばおっとりしたみはながいつになくせわしないのは全身砂だらけで気持ち悪いからだろう。
砂と靴跡で点々と廊下にマーキングし脱衣所へ吸い込まれていく背中を見送り、慎重にあたりを見回す。
「……誠一さんはいねーか」
もし玄関先で腕を組んで待ち受けていたらどうしようとノブを握りながら緊張の汗をかいた手前拍子抜けする。
スウェットにこびりついた砂粒をざっとはたいて落とし、靴底の溝に嵌まった砂を踵を叩いて零してから脱衣所へと入る。
「まだお風呂ためてねーから待っててください、みはなさん」
みはなに付き合って砂遊びに半日費やし夕方遅くくたびれはて帰宅した悦巳は、当然ながらまだ風呂の掃除もお湯ためも済ましてない。しかし元から清潔好きで若干神経質な傾向のあるみはなは服の裏表に付着した異物の不快さに気が急いているのか、スカートの裾にたまった砂を足踏みでぱらつかせる。
「じゃりじゃり気持ち悪いです」
「でもお風呂が」
「先にシャワー浴びます」
「……了解っす」
普段大人しく聞き分けがよい反動が来たか一度こうと決めるととことん頑固だ。けっして自分の意見や意志を曲げず、それが叶えられるまで梃子でも動かぬ踏ん張りを利かす。
仕方ない、ちょっと早いが風呂にしてしまおう。
「一人でお着替えできます、手伝わなくていいです」
「今日は特別っス、手伝いますから。たくさん汗かいて気持ち悪いっしょ?」
恥ずかしがるみはなを説き伏せて正面に跪き上着を脱がせていく。
洗濯機は既に準備万端、浴槽には湯をためている。
摺りガラスを嵌めた引き戸のむこうには早くも濛々と湯気が充満し、浴槽を打つ水音が反響する。
砂遊びを終えたみはなは全身砂だらけで酷い有様だった。
余談だがみはなが穴ぼこだらけにした砂場は二人背中合わせの共同作業で元どおり平らにならしてきた。おかげで悦巳も砂だらけ、汗を吸ったスウェットはすっかり冷え切ってついでに風呂に入ってしまおうと思いつく。
平行な視線の高さで向き合い、ジャンパーと噛み合わさったジッパーを下ろしていく。
「死体みつかりませんでした……鑑識失格です」
「よかった、殺されて埋められた人なんていなかったんすね。頑張ったから警察から表彰状もらえますよ」
「瑞原さんにあげます」
「マジっすか?嬉しいなあ」
「きんいっぷーじゃなくてすいません」
子供に気を遣わせてどうする。
「あとは自分でやります」
三分の一ほど下ろされたジッパーから悦巳の手をどかして代わるも、最後まで行かずにひっかかり手こずるみはなを見かね、幼女の裸に性的興味があるなどという不純な動機ではもちろんなく、純粋な親切心、お節介から手伝ってやる。
仕事を優先し家庭を顧みぬ身勝手な父親に似ず、その一人娘のみはなは一人でお着替えお風呂歯磨きなんでも完璧にこなすいい子だが今日ばかりは特別だ。
案の定、予想通り。いざ服を脱がしてみればぽっこり突き出たおなかにもぺたんこな胸にもさらにはパンツの中、靴下の中に至るまでじゃりじゃりと砂が入り込んでいる。
皮肉にも風邪予防の厚着が裏目にでた形になった。
「みはなさん、お鼻に砂が」
「一人でできます」
「ご遠慮なくっす」
鼻の頭にこびりついた砂をタオルで拭う。タオルが行きつ戻りつするごと歪む顔が笑いを誘う。
ジャンパーのジッパーを一番下まで下げて脱がし、自ら両手を上げて演じてみせる。
「バンザーイ」
「こうですか?」
「そう、そのままちょこっと両手を上げててください」
素直に従う。
悦巳を模倣しバンザイした隙をついて首を潜らせ上着をすっぽ抜き、ついで防寒対策のため二枚重ねたシャツをすっぽ抜く。思ったとおり、みはなは汗をかいていた。シャツは蒸れて湿っている。
パンツ一枚にまでひん剥かれた状態でへその窪みを覗き込み、大発見に驚く。
「おへそにごまじゃなくて砂が詰まってます」
「はいはい」
このままにしとくのも気持ち悪いだろうとタオルでざっと体を拭く。
片足ずつ上げさせ靴下をすっぽ抜く。
片足立ちでバランスを取り、腕を水平から斜めに傾げ面白がる。
「フラミンゴです」
「バレエダンサーじゃなくて?」
「フラミンゴさんです。ばっさばっさお空を飛びます」
腕を上げ下げ羽ばたく。言動がいちいちあどけなく愛くるしい。
マンションに帰り着いた頃には既に日が暮れていた。殆ど半日砂場遊びに費やしたのだから子供の集中力は凄い。
スウェット一着でふらりとでかけた悦巳のほうが先に音を上げて、途中から「いい加減帰りましょうよみはなさんー凍死しちゃうっすよー」と貧乏揺すりで駄々をこねていた。
二人手を繋いで帰宅し、ドアを開け放ち、まず真っ先に玄関とそこから続く廊下に目を配り、誠一の不在を確認する。
よかった、まだ帰ってない。
顔をあわさずにすんでほっとする。できれば今日は帰ってこないでくれと祈る。
結局朝も顔をあわさずじまい、昨日の今日でどういう態度をとったらいいか心の準備ができず悩んだ。
公園にいる間よっぽどアンディに相談し助言を乞おうか検討したが、酔っ払った誠一に襲われその手に出してしまったなど羞恥心の抵抗もあって口外できず、葛藤に負け、結局誠一との間に起きた出来事は秘密にして抱え込んだまますごすご逃げ帰ってきた。
だってどう説明すりゃいいんだよ。
言えるかよ、酔っ払いに押し倒されて手も足もでなかったなんて。
「みずはらさん?」
みはなの不思議そうな声で我に返る。
「どうしたんですか、おっかない顔してますよ」
「なんでもねっす。最後はパンツ……」
パンツに手をかける。
一瞬の躊躇、既視感。
以前も似たような状況で踏み込まれて誤解され酷い目にあった。
待て、何を迷う必要がある瑞原悦巳よ。
残念ながら幼女はストライクゾーン圏外だ、やましい気持ちなどさっぱりない、そうだ下心などさっぱりあるもんか。俺は家政夫で保護者代わり、今からみはなちゃんを素っ裸にして風呂に入れるところ、不埒な悪戯を働こうとしてるわけじゃない。
しかれども手の動きが鈍ってしまう。
俺は断じてロリコンじゃない。ここまではオーケー?……オーケー。よし。だから別に誠一さんがいない間にまだ幼稚園児で幼児体型の一人娘を素っ裸に引ん剥いたからといって他意も下心もございませんとなんなら法廷で証言してやる……たんま、法廷はいやだ。出廷拒否。訴訟ダメ絶対。
パンツに手をかけたまま硬直する悦巳の脳裏に契約初日に直筆サインした書類の一項目が浮かぶ。
『条項1、過失で怪我を負わせた場合は死をもって償う』
続く誠一の声。
『事前に確認しておくが幼女に性的な興味はないな』
契約書に具体的な記載はなかったが、もし今悦巳が誠一の許可なくみはなのパンツを脱がしたとして契約違反に抵触するのでは?
たとえばふざけて背中を押し転ばせかすり傷を負わせた場合でも悦巳は死刑に処されるわけで保身のためにも事は慎重に運んだほうがいい。ロリコン疑惑をふっかけられクビが飛ぶのも性犯罪者予備軍として白眼視もごめんだ、オレオレ詐欺の前科は事実だがその上幼女に対する性的な悪戯の冤罪まで被せられたんじゃ本格的に人生終了の合図だ。
砂場を手当たり次第掘り返し埋め直し遊び疲れたみはなは、裸に剥かれながらでも関係なく立ちっぱなしでうとうとまどろむ。案外神経が図太い。いや、自分に危害を加えるはずないと悦巳を信頼しきった上での無防備さか……
「おててが止まってますよ」
「ちょ、たんま!すぐ戻るからここでじっとしてて!」
迅速に身を翻し廊下へ駆け出すやビングに飛び込んで電話の子機をとる。
予め覚えこまされた番号をプッシュし待つも、回線が繋がる直前に己の行動の本末転倒な愚かさに思い至り、子機をなげつけんばかりに絶叫する。
「俺のばかっ、今からあんたの娘のパンツ脱がすけどいいですかって父親に電話で確認するヤツあるか!!」
くるくる巻いたコードごと充電器からバンジーした子機をそのままに、腕を組んで行きつ戻りつ高速で頭を回転させる。
「別にいいよな場合が場合だし、みはなちゃん泥んこだし自分で背中と頭洗うの大変だしさ……いや待て、だけどまた誠一さんに誤解されて殴られんの俺だぞ?殴られ損じゃね?あのひと人の話聞かねーし……」
慎重に言葉を選んだところで語彙が貧弱な悦巳によるしどろもどろ支離滅裂な説明では誤解と身の破滅を招くのがおちで、みはなちゃんが砂場で遊んで泥んこで仕方なく服を脱がして風呂にいれることしましたなんて事実通り能天気に報告したところで文脈のどこに地雷が埋まってるかわからず、現状誠一に連絡をとるのはあまりに危険すぎる。
命の危険と引き換えてまでみはなを風呂に入れる必要性があるかと自分に問う悦巳の脳裏に、先日貰った連絡帳の記述が閃く。
『先日の検診でお医者さんがおっしゃっていました。近頃はアトピー性皮膚炎のお子さんが増えてます。みはなちゃんはアトピーではないですが、体質的に肌がかぶれやすいので保護者の方が気をつけてあげてください』
何をテンパる瑞原悦巳。
今のお前は誠一から一人娘の世話を託された保護者代わり、ばっちいばい菌からかぶれやすい子供の肌と健康を守る責任をもつ。
宙吊りの子機を充電器に戻し引き返してきた悦巳を、半裸で待ちぼうけをくらったみはなが後ろ足を床と平行にしたフラミンゴのポーズを維持して見上げ、くしゃみを一発。
「ぐちゅん」
「………よし」
覚悟を決める。
どうせ誠一はいない、誰も見ていない。
恥を捨てろ、躊躇するな、風邪をひいたら大変だ……
パンツ一丁で帰りを待っていたみはなのいじらしさに感激しつつ肩を掴んで微笑む。
「俺とお風呂入りましょ。指の股の間までごしごししてあげます」
パンツに手をかけ一気にずり下ろしたまさにその瞬間、玄関のドアが開け放たれ乱暴な足音とともに人の形を取った悪夢が再来。
「……………」
予告なく背後のドアが開け放たれる。重すぎる沈黙。うなじに突き刺さる鋼鉄の視線。
「今すぐ、一緒に……なんだと?」
「………お風呂に……」
「どうして裸なんだ」
「だから風呂に……」
「何をしている?」
「みはなさんのパンツを脱がそうと」
大股に乗り込んできた男が絞り上げるようにして肩を掴み、みはなと向き合う悦巳を強引に振り向かせる。
一瞬、誠一の憤怒の形相を視界に捉えたかとおもいきや、次の瞬間脳を揺さぶられ吹っ飛ぶ。
「瑞原さん!」
みはなの悲鳴がこだまする。
背中から洗濯機に激突、肺に空気の塊がぶつかる。
「痛てててててて……ちょ、待て、たんま。いくらなんでもこれはないんじゃねっすか、言い訳、もとい説明くらい聞いてくださいよ!誠一さんがいないあいだにこっそり風呂場に連れ込んで素っ裸にして悪戯とかアヒルさん浮かべたお風呂で一緒にちゃぷちゃぷとかそんなんじゃねっすよ、酷い誤解っすよ、俺は無実っス!」
殴られた拍子に口の中が切れたらしくしゃべるたび鉄錆びた味が広がる。
洗濯機に背中を預けへたりこみながら、突如殴りこんできた誠一に懸命に身の潔白を訴える。
「パンツを脱がして一緒に風呂に入ろうとしてたくせにか?この変態が……」
「あ、あんたにだけは言われたくねーよ!?」
昨晩から引き続き度重なる無体な仕打ちに積もり積もった怒りが爆発、わななく人さし指をつきつける。
「服を脱がしたのもちゃんとワケあんだよ、聞けよ人の話!」
「詭弁だな、理由があれば服を脱がしていいというのか」
「服着たままドボンって意味わかんねーよ、着衣入浴かよ!」
「股を……ごしごし……?地獄を見たければ続けてみろ」
「なんっ……」
昨晩の謝罪ひとつなく一方的に決めつける男に対し完全に自制心が蒸発する。
殴られた頬の痛みに顔を顰め立ち上がるや、人の身たる暴君の域を突破し魔王級の邪悪なオーラを放つ誠一の方へ一歩を踏み出し、無理矢理イかされた恨みつらみ踏みにじられた男のプライドと恥ずかしさ、それら全てを怒号の塊としてぶつける。
「俺のナニをしこしこしやがったくせに責めんのかよっ」
大喝の余韻が消えた後に訪れる耳に痛い沈黙。
「え?……や、ちが……」
パンツ一枚のみはなが人を疑うことを知らぬ無垢な目に純粋培養の疑問を宿す。
「ナニってなんですか?しこしこするんですか?」
「………ほう」
「曲解ッス!邪推ッス!股は股でも指っス指、砂がじゃりじゃり気持ち悪いっしょ、それを洗うってだけの話!」
「しこふんじゃったんですか?」
「幼児に卑猥な単語を吹き込むんじゃない」
「一部だけ都合よく聞き逃すなよ、どっちが卑猥だ!」
どうしてただ子供を風呂に入れるというだけの話がこじれてねじれて脱線してくんだ?大人って汚い。
「やめてください!」
詐欺の前科に猥褻罪も追加された今となっては同情と釈明の余地なし、社会的制裁を下す前に鉄拳制裁で抹殺せんと親指を内に握りこんでにじり寄る誠一の行く手に素っ裸の幼女が敢然と仁王立つ。
反感と怒りも露にまなじりを吊り上げ叱責を飛ばす。
「瑞原さんをいじめないでください、瑞原さんは砂場で泥んこになったみはなをキレイキレイしてくれようとしたんです」
勇気凛々、悦巳を庇い父親と対決する。
文字通り体を張った娘の弁護に気圧されたか、問答無用で悦巳を殴り飛ばした拳をおろし胡散臭げに確認をとる。
「………本当か?」
連続で頷く。
殴られた頬が腫れてひりつく。
「………早く入りなさい。風邪をひく」
すっぽんぽんで立ち塞がるみはなへ苦言を呈し、ガラス戸を開ける。みはなは躊躇う。誠一と悦巳を交互に見比べ、自分がいなくなったら誠一がまた悦巳に危害を加えるのではないかと疑いながら浴室へ入る。
みはなが桟を跨ぐと同時に戸を閉め湯気の漏出を防ぐ。
「………詫びとかさびとかなしっすか、一切」
徒労で体力を使い果たしぐったりする悦巳に対し何も言わず出て行こうとする、その背を呼び止める。
「待ってください!」
廊下に出る寸前に立ち止まる。
誠一を追って床を這い、ガラス戸を隔て風呂に浸かるみはなに聞こえぬよう用心深く声を落とし、囁く。
「あとで聞きたいことあるんです。……昨日の事、奥さんのこと。ごまかさねーでちゃんと教えてください」
誠一が振り向く。
床に這う悦巳を見下ろす目は冷え冷えとして、決心が揺らぐ。
「いいだろう」
緊張が解ける。
それだけ言い捨て、さっさと廊下に出て寝室に吸い込まれる。
ひとまず交渉に成功し詰めていた息を漏らせば、床に落ちたお子様サイズのパンツが一枚目につき、無言で拾って洗濯機に落とす。
「んだよ……自分はもっとエロ酷いことしたくせに」
悦巳の呟きは稼動を始めた洗濯機の轟音に紛れて、誠一の耳はもちろん入浴中のみはなの耳にも届かなかった。
さいわいなるかな。
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