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第16話

「ふふ………ふふふふ」 毒殺の誘惑に心傾く。 容量を守って使わねば危険な赤い液体入りの瓶をつつきまわし、病んだ目で含み笑う悦巳の姿は、ありていにいって怖い。 「一滴二滴なんてケチケチしねーでいっそ全部ぶちこんじゃおっかなあ……」 吐血と悶絶の醜態を思い描くだけで溜飲が下がるのだ、現実になったらどれだけ胸が透くか。 「誠一さんが悪いんすよ、自業自得っス、俺の話さっぱり聞かず一方的に殴り飛ばして謝罪ひとつなし……いやそれは百歩譲って許しますよ、みはなちゃんの身に危険が迫ってつい我を忘れちゃったってことで。暴君の代名詞、冷血漢の誠一さんに人の親らしい一面があって安心しました」 目の高さでひねくりまわし食い入るように瓶を凝視、悪魔に魂を売り渡す。 狂気に近い妄執の一念でゆらーりゆらーり瓶の中身を攪拌する様子はマッドサイエンティストかサバトの魔女か判断に迷うところだが、いずれにせよ清潔で近代的な台所には不似合いな怨念が充満する。 「だけどね……昨日のことに関して全くスルー、謝罪はもちろん言い訳ひとつなしで今日また紅茶を淹れさせるとか無神経にも程があるんじゃねーかな~……俺はなんっすか?召使いっすか?しゃべりはおまけで紅茶を淹れる機械っすか?見てろよ俺様冷血鬼社長め」 生唾を飲んでふたを取り、カップの上で逆さにする。 表面張力で盛り上がった最初の一粒が紡錘形に膨らんでいき、やがて重力に従い落下…… 「遅いぞ」 「うわっ」 卒倒せんばかりに驚愕、手の中で生き物の如く跳ねた小瓶を後ろに隠す。  「ぐずぐずするな。給金を減らすぞ」 「給金なんて貰ってませんよ!」 「カードを没収」 「それは困る発注済みなのに!」 瓶を背に隠しカウンターから身を乗り出した悦巳を冷徹に一瞥、釘を刺す。 「小細工を弄する姑息な悪知恵がお前にあるとは思えんが一応言っとく。紅茶に異物を混入したら色味の違いですぐにわかる」 「滅相もありません!」 さすが筋金入りの紅茶党、僅かな色味の違いや濃淡だけで異物の混入を見抜くのかと舌を巻く。 全く心臓に悪い。こちらの行動はすべてまるっとお見通しか。 「はあ……あと一歩だったのに」 タバスコの瓶を大人しく冷蔵庫の棚に戻す。 もちろん振りだけで実行する気など露ほどもなかった、誠一相手にそんな恐ろしい企みを実践したら報復が怖い。 悪ふざけはやめて紅茶の支度にとりかかるも、いつもより茶器を扱う手つきが荒っぽくなるのは否めない。 「だいたいなんで毎回毎回俺がみはなちゃんにおいたを働こうってタイミングで登場すんのさ、おかしいだろ、できすぎだろ?絶対盗聴器仕掛けてんだろ、脱衣カゴにカメラとか仕掛けてあんだろ。だよな?やっぱな?おっかしいと思ってたんだよな。アンディの言動もあやしいし……信用できねーならとっとと追い出しゃいいじゃん……」 高価な茶器一式が出し入れのつど騒々しい旋律を奏でるも、角が取れたりひびが入ったりなど些細な問題と開き直って盛大に愚痴る背後に影が近付く。 誰が来たか直感。 振り向かなくてもわかる。 今この場には自分と「奴」しかいない。 アンディは外で監視任務に就いていて雇い主の許可がなければ絶対入ってこないと実証済み。 その雇い主は今、悦巳の唯一の安らぎの場所にして聖域たる台所に勝手に踏み込んできた。 振り向くのにつまらぬ意地と見栄から抵抗が働く。 茶を注ぐのに集中するふりをして背後に寄り添う存在を無視し、無愛想に吐き捨てる。 「もうすぐ淹れ終わるから待っててください」 でてけと怒鳴りたいのを辛うじて堪え平静を保つも、低めた声の不機嫌さは隠しきれない。 昨日の仕打ちについてももちろん怒っているが、それに輪を掛けてみはなに目撃されても行為を中断しなかった非常識ぶり、無神経ぶり、鈍感ぶり、誤解で殴りつけておきながら謝罪ひとつない傲慢ぶり、三ヶ月近く同居する中で暴発寸前まで高まった不満や反感があたりを払う挙動の刺々しさに結びつく。 背後に立つ男が乱暴に茶器を扱う手元を観察してる気配を感じとる。 見張られてるようで落ち着かない。距離が近すぎる。 うなじを見下ろされるのは屈辱だ、ごくささやかな衣擦れの音さえ癇に障る。 タバスコ紅茶よりは慈悲深く許容範囲だろう仕返しのつもりで、立ち働くついでの事故と見せかけ脇腹を肘で小突く。 「くっつかないでください、邪魔っす」 「注意力が足りん。飛沫をとばすな。落として割ったらどうする」 耳元に湿った吐息を吹きかけ、口うるさく小言を言う。 怒りで小刻みに手が震え、ポットの口から弧を描いて迸る茶が飛沫を散らす。 「~金持ちのくせにケチケチせこいっすよあんたは小姑っすか、そうやって手ぐすねひいて俺の失敗を今か今かと待ち受けてるんすか?!割ったらドンキにひとっ走りして買ってきますよ、安物だろうが味は一緒」 「そいつは祖母の形見だ」 「!」  シンクのへりに当たってがちゃつくカップに硬直する悦巳を一瞥、呟く。 「というのは嘘だ」 「!!~っ、あんたね!」 「真に受けるな」 もう我慢できない、何がしたいんだこいつは。性格ひんまがってるにも程がある。 一旦手にしたカップを滴が飛び散る勢いでステンレスの台に置くや、主従の垣根を飛び越えて物申そうと決死の覚悟で深呼吸、敵愾心にぎらつく目で睨みつける。 台所にひりつく緊張が張り詰める。 今にも掴みかからんばかりの剣幕で立ち向かう悦巳、警戒心と敵愾心を剥きす目、反抗的な顔つき、それらと対峙しても全く動じぬ堂々たる貫禄を保ち、男は―……最前まで悦巳をこき使い紅茶を淹れさせ、自分自身はソファーでゆったり寛いでいた誠一は一方的に命じる。 「俺と風呂に入れ」 「はあっ?」 燃え盛る闘志に水をさされる。 間抜けに成り下がったファイティングポーズがひっこみつかず構えた拳を開いて結ぶ。 「なん……え、風呂?」 動揺し、思わず聞き返してしまう。 訂正か撤回を待つも誠一は至って真面目な顔をくずさず、飲み込みの悪さを憐れむ目で悦巳を見下す。 「二度言わせるな。風呂だ」 「え……俺もうとっくに入ってるんスけど」 「知るか」 服の内側に詰まった砂の不快感に辟易しみはなと入れ代わりでとっくに風呂を貰ったというのに「知るか」だと? 冷めるに任せて放置されたカップの柄をひっかけ中身をすべてシンクに捨てる。 突然の提案にあっけにとられ立ち尽くす悦巳も、戸棚からカップを出して揃えポットに茶葉を計って投入し蒸らしてというこまごました手順を一瞬で無に帰す暴挙に気色ばむ。 「一口も飲まないで……!」 「話を聞きたいんだろう、聞かせてやろうというんだ。気が変わる前にこい」 「話ならここでもできるじゃねっすか、なんで風呂なんすか、意味わかんねえ。風呂なんて狭いし、男ふたりでそんな……」 「みはなとは入れても俺とはいやか」 「んなこと言ってねえだろ、ひとロリコン扱いすんの大概にしろよ、俺は巨乳が好きなんだよ!!」 まずい、口調と態度に育ちの悪さ故の地がでている。 まんまと挑発に釣られ性的嗜好まで告白してしまい羞恥に顔が染まる。 呪い殺しそうな目つきで睨みつける悦巳を小馬鹿にするよう鼻を鳴らし、身を翻し立ち去る。 「来い」 ついてくるか振り向き確かめようともしない態度からは、召使いの反逆の意志など握り潰す圧倒的自信が窺える。 「……………」  ついていくのは癪だ。 が、この機を逃したら二度と本音を聞けないかもしれない。 みはなはは実の娘じゃないという発言の真意を、児玉華の死にまつわる真相を。 『社長の奥様は生きているぞ?』 元妻の消息を。 せっかくのチャンスをつまらない意地でふいにするのか? 誠一の妻が実は生きているという驚きの情報をもたらしたアンディは、己の失言が予備知識のない悦巳に与えた影響を遅ればせながら痛感し、あれからどんなに詰め寄っても社長に絶対服従の沈黙を貫き通した。 おかげで悦巳は消化不良のまま、誠一の妻は生きているが何らかの理由で同居はしてないという断片的な情報をどの角度で処理していいか決めかねて、誠一に対する態度は無論みはなに対する態度までぎこちなくなってしまった。 除け者にされている。 誠一さんは俺に何も話してくれない、教えてくれない。 俺は所詮部外者、書類上の契約で結ばれた雇われ家政夫なんだ。 『お前が消えたら次をさがすだけだ』 公園のベンチで呟かれた言葉が真実の重みを伴い胸に錨を落とす。 俺はいてもいなくてもいい存在なのか、俺がいなくなったら次を募集するのか、高級払いで補充がきくのか? 俺は選ばれたんじゃなかったのか? 俺は元詐欺師で、振り込め詐欺の常習犯で、児玉誠一の実の祖母に詐欺を働いたケチな悪党で、だから誠一さんは俺を名指ししてこき使ってるんだと…… 思い上がり? 勘違い? 本当はだれでもよかったのか? 俺じゃなくてもよかったのか? 俺じゃなきゃいけない意味も理由もこれっぽっちもなかったのか? 「…………くそ」 すっかり調子が狂う。 乱暴に剥ぎ取ったエプロンを腹立ち紛れにカウンターに叩きつける。 誠一の本音を聞きたい、真実を知りたい。 どうして俺に白羽の矢を立てたのか、本当に復讐が目的なのか、昨日の行為についてもちゃんと納得いく説明が欲しい。 お茶の準備を中断し、台所に並べた茶器をしまわず放置し、悦巳の意向など確認せず唯我独尊に振る舞う男を追いかけ脱衣所のドアを開け放つ。 「逃げるなよ!」 勢い良く桟を滑走したドアのむこう、こちらに背を向けシャツを脱いでいた誠一が物音に即応、振り向く。 ドアを閉める。 「……………」 跳ね回る鼓動を落ち着けようとくりかえし深呼吸、かぶりをふる。 「なに閉めてんだよ、男じゃん、男同士で恥ずかしがる必要ねえし大体あっちはもっと失礼なことやってんじゃんか」 どうしたんだ俺。しっかりしろ。 啖呵とともにドアを開け放って真っ先にとびこんできた誠一の裸、腕の先から垂れ下がったシャツ、しなやかに引き締まった背中。貧弱な悦巳とは違い日ごろから鍛えているのがわかる。 そういえば昨日誠一は服を脱がなかった、悦巳だけ一方的に脱がされたのだ。 昨夜無理矢理強いられた恥ずかしい行為が鮮明化するにつれ恥辱と憤りとが燃え盛り、再び意欲が湧いてくる。 「そっすよ、昨日のアレは間違い、なし、取り消し。誠一さんの裸なんてどうでもいい、興味ない、みはなちゃんの裸以上にどうでもいいし興味なし、大丈夫俺は冷静、クールクールクール……」 改めて勢い良くドアを開け放ち、つきまとう迷いを吹っ切って脱衣所へ乗りこむ。 顔を赤くしてやってきた悦巳をまじまじ見つめ、シャツを腕からたれ下げた誠一が露骨に不審がる。 「お前は馬鹿か?」 「馬鹿はあんただ」 横歩きで距離をとり、脱衣カゴの影に隠れるようにしてこそこそ服を脱ぐ。 顔が熱い。 体が火照る。 上半身を脱いだ誠一を目の当たりにしただけで戸を開け閉め、謎の動悸に襲われる自分が不可解だ。 誠一と背中合わせにもはや不可避の事態を少しでも引きのばさんと、なるべくのろくさく時間をかけて服を脱ぐ。 施設では他の子供たちと共同で入浴していたため人前に肌をさらすのにもそれほど抵抗を感じない方だと今の今まで思っていたが、耳につく衣擦れの音が妄想と結びついて妙な高揚を催し、背中合わせの誠一の存在をひどく意識してしまう。 だぶつく上着の裾を持ち脱ぐ準備をしながら横目で誠一を見、いい体してんなあと感心。 対する悦巳は……上着の裾をべろりと捲り、脇腹の肉を寄せて集めため息を零す。 「さすが家庭も顧みず週四のジム通いに精出すひとは違うっすね……」 「早く脱げ」 「脱ぎますって、あっち向いててくださいよ」 「どこを向こうが俺の勝手だ。俺は俺の見たいほうを見る」 「そんなに俺の裸見たいのかよ?」 「見て楽しいもんじゃないが暇つぶしにはなる」 とことんむかつく。 どことなく愉快げな様子で腕を組む誠一にまるっきり背中を向けて上着を首から通して脱ぐ。 外気に晒した背中に冷めた視線が刺さる。次は下着。 トランクスに手をかけ膠着、肩越しに振り向いて牽制するも誠一は余裕漂う腕組みを崩さない。 「退屈なストリップだな。色気がない。腰を捻りでもしたらどうだ」 堪忍袋の尾が切れた。 「ストリップが見てえならセスナチャーターしてラスベガス行けよ!どうせ生白いよ俺は、あんたと違って高い年会費払ってジム通いしてねーし毎日ゲームとゴロ寝三昧でなまってきたよ、今じゃ立派なひきこもりだよ!じっと見んなよ、先入ってりゃいいだろ」 「キャラ変わってないか、お前」 「素。あんたの前で猫かぶるのやめたんだよ、アホらし」 大胆にばさつかせ足に絡みつくズボンと下着を速攻蹴りどかす。誠一へのあてつけだろう、ストリップだったら間違いなく野次が飛ぶ色気もへったくれもない瞬間脱衣。 腰にタオルを巻き、監視ツールを仕掛ける場所としては最有力候補だろう脱衣カゴを仔細に点検する。 「カメラはねーか……」  先に入る誠一をタオルで前を隠して追えば、濛々と立つ湯気が顔を洗う。 児玉家の風呂は広く、男ふたりが入っても十分スペースが余る。 ドアに手をつき、肩幅に踏み構える誠一の下半身に視線をやる。 一応タオルは巻いている。息子と直面する事態を回避できたことに安堵。 「寒い。早く閉めろ」 さんざん迷った末葛藤を乗り越えて、決闘に赴く面構えでもって敷居を跨ぎがらぴしゃ戸を閉ざす。 「その………」 言葉に迷う。 目のやり場にも困る。 腰こそタオルで覆っているが他は包み隠さず生まれたままの姿で、いやそれは悦巳もそうなのだが、一糸纏わず野生に返って本能剥き出し欲望の虜、違う違うなに考えてんだ妄想が暴走気味だ、お互い一部を除いて裸という特殊すぎる状況下視界に漂う湯気がさらに倒錯した雰囲気を醸して非日常を演出、何故だか脳裏で危険警報が発令されこの先に進んだら大事なもの、そう、たとえば貞操とか男のプライドとかとりかえしのつかないものを永遠に喪失しそうな予感がすごくする。 というか話し合いに風呂場って場所設定からして間違ってね? 「いけね、なんか急にガスの元栓閉め忘れた予感が今すごくする」 まずい。やばい。逃げよう。 けっして、けっして脱いだ誠一が想像以上にいい体してるとか筋肉質だとか肉食系のフェロモン垂れ流してるとかに怯んだわけじゃないが、タオルに隠れた体の一部は萎縮した。  「そっこー元栓閉めてきます、誠一さんは先に風呂に!」 引き戸に手をかけ台所に飛んで返らんとした次の瞬間、肘を掴まれ体がぐらつく。 「ああっ」 足裏がつるりと滑り、助けを求め伸ばした手の先から無情にも引き戸が遠ざかっていく。 「逃げるな」 「逃げじゃねーっすよマジマジ大切な事思い出したんだって、家帰って砂落とさずそのまま上がっちゃったから早急に雑巾がけしてこなきゃ」  「うちに客は来ないから構わん」 「玄関は家の顔っしょ!?」 もがいてあがいてばたついて絶体絶命のピンチを脱しようと往生際悪く画策する悦巳に、既に準備万端待機プラスチックの台座に腰掛けた暴君がとどめをさす。 「背中を流せ」 家政夫危機一髪。

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