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第17話

家政夫から泡姫に転落した悦巳の仕事ぶりは前途多難だ。  「はあっ、はっ、くっ……」  「どうした、もう降参か」  手が震える。  息が上がる。  高い湿度のせいばかりでなく頬に血が集まり行く。  傲慢にして注文の多い主人を喜ばそうと拙いながら懸命に努力するも残念ながら力至らず、広く逞しい背中に縋りついて弱音を零す。  「も、むり……限界っス……勘弁してください誠一さん」  「まだ始めたばっかりだぞ、もう諦めるのか情けない。無駄口叩く暇があるなら手を動かしたらどうだ。上から下へ上から下へ、そう、リズムをつけて」  「だってもう無理っすよこんなん、腕が痺れて……はあっ、はっ、ふ……」  力をこめて摩り下ろす手が小刻みに震える。  変に力んだ腱が強張る。  湯気が取り巻く浴室にて、タオル一枚で腰を覆った他は素っ裸という羞恥心の限界に挑戦する格好の悦巳は、無理難題をふっかける誠一に対し目一杯精一杯奉仕する。  息を浅く荒げ目を潤ませ、生まれたての子鹿の如くけなげに震えながら腕突っ張る悦巳の拙く不器用な愛撫に身を委ねた誠一は、プラスチックの台座にどっしり跨ったまま、模造タイルで覆った正面の壁を鋭い視線で貫く。  「……ダメ、攣る……ギブ、リタイアっす、スタミナ切れっす、俺じゃとても誠一さん満足させらんねえ」  「リタイアはなしだ。俺を満足させるのがお前の務めだ」  「わかってますけど、あんたただでさえ人よりでっかいんだから使う力も倍というか……」  「なら倍頑張れ」  「ものには限度ってもんがあるんす、俺だって精一杯やったんだからいい加減許してくださいよ、だいいち擦っても擦ってもちっとも立たねえじゃねえっすか!!」  「ボディーソープが足りないんじゃないか?頭を使え」  けんもほろろな対応を恨みつつ、ボディーソープのポンプをしゃこしゃこ連続で押し込んで泡立ちの少ないスポンジに大量の液体を受ける。  基本的に雇い主の命令には絶対服従を義務づけられているし契約書にもその旨は記載があったので、たとえば酔っ払った誠一に余興の腹芸を披露しろと命じられたら悦巳に断る権利はないのだが、一緒に風呂に入れという命令は完全に想像の範疇外で折れて従いはしたが釈然としないものが残る。  「ちくしょー、どうして俺がこんな……」  報いの少ない労働の辛さに泣けてきた。  涙がこぼれないよう上を向き、ツンと鼻腔をさす刺激が薄れるのを待つ。  誠一の無体な仕打ちにも神経が麻痺し慣れてきた今日この頃だが、お互い裸で背中を流せというのは別格だ。  言われたとおりスポンジを濡らし上から下へと背中を擦りまくっているのだがやめてよしとの許しが一向に出ず延長戦に縺れこみ、しかも誠一ときたらおそろしく注文がうるさく悦巳が少しでも休憩しようものなら「とまってるぞ」「サボるな」と檄がとび、破れかぶれやけっぱちになれば「もう少し弱く」「俺の背中に恨みでもあるのか?」とねちねちイヤミ攻撃をくりだす始末できりがない。  渾身の力でもって背中を泡立て擦る悦巳に、誠一がため息まじりの揶揄を放つ。  「まったく使えないな、お前は。ひとの背中ひとつ満足に流せないのか」  「生憎……っすけど、自分よかでけえひとの背中洗うなんて体験今までなかったんで」  自慢じゃないが子供の頃父親と一緒に風呂に入って背中を洗った思い出もなし、年上の男性の完成された肉体を見る機会は滅多にない。  息切れ気味に言い返しながら、自らの手で泡立てた誠一の背中を後ろめたげに観察する。  悔しいが、惚れ惚れしてしまう。  ジム通いで絞った体には贅肉など一切見当たらず、左右対称に翼を広げた肩甲骨と臀部にかけて引き締まった腰から成り立つ逆三角が理想的なバランスを保つ。脱いで見せるのを前提とした誇張された筋肉ではなく、スーツを着た状態で映えるようスマートに絞り込まれた筋肉とそれを釣り支える骨格は全体としておそろしく均整が取れている。  おなじ男として羨望と憧れをかきたてずにはおかない背中、絶倫な精力を漲らせ水を弾く肌。  いやでも劣等感を刺激されてしまう。  「サボるな。減棒するぞ」  「わかりましたよ、誠心誠意努めさせていただきます」  ふてくされて憎まれ口を叩く。  誠一の裸を過剰に意識してしまうのも背中に触れるだけで妙に緊張してしまうのも昨日あんなことがあったせいだ。昨日の事件さえなければ一緒に風呂に入ろうと誘われたところでみっともなくうろたえなかった、誠一をただの男として以上の特別な何か、雇用主と雇用人、主従の一線を越えた性的な存在として特別視せずにすんだのに……  つくづく隙を見せた自分が恨めしい。  内心の動揺を封じ背中を流しつつ、漂う沈黙に居心地悪さを覚え話題をさがす。  思いつき、ぱっと顔が輝く。  「今日はみはなちゃんと公園に行ったんですよ。一緒に砂場で遊びしました」  「そうか」  「風邪ひいちまうといけねーからしっかり厚着させて、毛糸の靴下履かせてジャンパーでくるんでエスキモーの子供がいっちょあがり。あとで裏目にでてしまったーと思ったんすけどね、ほら、動くうちに汗かくから。みはなちゃん肌弱いからすぐ皮膚かぶれてあせもができちゃうから親御さんも気をつけてあげてくださいて連絡帳に書いてありましたよ。読みました?」  「ああ」  「さやかちゃんのママがアトピーに効く塗り薬紹介してくれました、メンソレータムの。冬場だから大丈夫だとは思うんすけどね、念のため……近所のドラッグストアで普通に買えるみてえだし。そんでみはなちゃんずっと一人で遊んでました。一人遊びが好きなんすね、家でも大抵お絵かきか積み木遊びに熱中してるし。友達とワイワイ騒ぐより一人でじっとうちこんでるほうが性分に合ってるっつか……うん、それも個性っすよね」  「そうだな」  「昨日見たサスペンスドラマの影響かな、すっかり鑑識係になりきって死体さがしに励んでました。俺はちょっと離れたベンチに座ってみてたんすけどね、脇目もふらずざかざかざかざか、手え振ってもぜんぜん気付かねーでやんの。すっげー集中力でした、寄らば斬る、話しかけたら殺すって感じの殺気を放ってました。末は大物になりますよ」  「なるほど」  「もちろん後に使う人のこと考えてちゃんと埋めてきましたんで心配なさらず。みはなちゃん一人で埋め戻すのはさすがに大変だから不肖俺もお手伝いしましたよ、背中合わせにざかざか。おかげで泥んこ、砂坊主。誠一さんは俺がけしからんロリコンだって決めつけましたけどね、風呂場に直行したのはそーゆーのっぴきならねー事情が……」  「そうか」  プチンと何かが切れる。  「あんたさっきからそうかそうだななるほどのみっつっきゃ言ってねーっしょ!?」  「ああも言ったぞ」  不真面目な返事に逆上、手ぬぐいを叩きつける。  娘の行動について話してるのに反応がつれなすぎる、そもそもみはなの一日の行動を詳細に報告するよう義務づけたのは誠一ではないか、なのにこのやる気のない対応はどうだ、もう少し興味をもっていいだろうに……  沸騰する怒りに駆られすっくと立つや、泡立ち水流がうねる誠一の背中にびしりと人さし指をつきつける。  「自分の娘のことなんだからもっと真剣に聞いてください、それでも親ですかあんた、さっきから人が一生懸命話してんのにそうかそうだななるほどて無関心つーか無神経すぎるっしょ!?」  「お前の話が下手な上につまらんからだ」  一刀両断切り捨てられ、話が脱線しまくりで要領得てない自覚は既にして十分ある悦巳はぐっと押し黙る。  「詐術の才能は電話口でしか発揮されないのか?よくそんな冗長で散漫な語り口で人を謀れたものだ」  続けざまに皮肉を浴びせられ唇を噛む。  「それは……すいません。けど……俺の話が下手なのは認めるけどつまんないってことはないでしょ、子供の話なのに。そもそもみはなちゃんの一日の行動について詳細に報告するよう言い渡したの誠一さんじゃないすか」  「最低限の事だけ把握できればそれでいい」   「じゃあなんで毎日俺を呼び出してみはなちゃんが起きてから寝るまで朝食ったもんから見たアニメの内容まで復唱させるんすか」  「いやがらせ」  「………っ」  「だったらどうする?」  猛烈な反発を抱く。  冗談とも本気ともつかぬ台詞と人を舐めくさった態度に腹が立つも、手は甲斐甲斐しく働き続けるのが家政夫改め召使いの哀しい性だ。  誠一の言動は矛盾だらけだ。  考えてる事がわからない、この男が理解できない。  どんなに夜遅く帰っても必ず連絡帳に目を通し、みはなを風呂場に連れ込めば幼女を剥いて悪戯を働こうとしてる変質者と決めつけ殴り飛ばす親馬鹿の一面と、みはなの事などどうだっていいと嘯き、実の娘じゃないと冷たく吐き捨て、会社とマンションの往復で終わる毎日の中自己中な放任主義を貫く暴君ぶりとが上手く結びつかない。    一体どっちが本当の誠一なのだろう。  悶々と苦悩覆う悦巳の心中を見透かしたか、誠一は冷たく笑う。  「お前は頭が悪くて話を整理するのが致命的に下手だ。自己採択で要点を抜き出させるより初めから時系列に沿って話させたほうがまだしもわかりやすい。手間はかかるが仕方ない、まずい紅茶を飲む間の暇潰しになるしな」  暴露された真相に全身の血が逆流、頭が沸騰、スポンジを握り潰す。  「―ざけんなよ、じゃあ何か、俺は毎日眠いの我慢してあんたの暇つぶしに付き合ってたのか?!」  「騒ぐな。風呂場は声が反響する」  「あんたの冷たい心にも届くようにわざと大声だしてんすよ!というか心配じゃないんすか、みはなちゃんあんな可愛くていい子で外出したら誘拐されちゃうんじゃねーかとか父親なら心配するっしょ、とーぜん」   「その点は抜かりない、尾行と監視は部下に一任してある。仮にみはなが誘拐されそうになったら可及的速やかに犯人を処理し奪還するだろう」  遊具の影や花壇の茂みにアンディの部下が多数待機していた光景を思い出す。  「処理」という物騒な単語は心の平安を保つため聞かなかったふりをし、床に落ちた手ぬぐいを取り直し、不服げに口を尖らす。  「それはそうとしてもうちょっと子供に興味もったっていいでしょうよ、公園に遊び連れてくのだってホントは俺じゃない、父親の役割なのに……」  仲睦まじい親子連れが目立つ公園でひとり砂遊ぶに耽るみはなの姿は浮いていた。  孤立したみはなの周囲では親とともにやってきた子供たちがはしゃいで遊びまわり、ごく近くにありながらけっして埋めようのない溝の深さに悦巳の胸は痛んだ。  「せっかくの休みなのになんで相手してあげないんすか……可哀想っすよ、みはなちゃん」  やっぱり実の娘じゃないから?  血が繋がってないから?  喉元にまでせりあがってきた疑問を苦労して飲み下し、しんみり呟く。  「いつも忙しいのは知ってますけど、ジム行く時間あるならほんの少しでいいから遊んであげてください。みはなちゃん、いつもひとりぼっちで……お父さんいなくて……ただでさえ広い家なのに、広すぎて……俺、そういうのヤっス」  「お前がいるだろう」  「俺じゃだめなんすよ、残念ながら」    どうしてこんな当たり前のことがわからないのだろう。  どうしてこんな当たり前のことを上手く伝えられないのだろう。  悦巳は親の愛情を知らない。  物心ついた頃から施設にいた。  よく憶えてないが、四つか五つの時に施設の前に置き去りにされたのだという。  連帯保証人となって多額の負債を抱え込んだ両親は幼い悦巳を置き去りにして以来音沙汰がない。両親が残した分の借金まで負うはめになった父方の叔母が、小学生の悦巳を名指しして罵詈雑言の電話をかけてくるほかに親族との行き来はなかった。  漠然と、「家族」というものに憧れを抱いている。  家族とか絆とか、どんなに欲しくてたまらなくても自分にはけっして手に入らなかったそれらの価値を認めずあっさり切り捨てようとしてる人間が目の前にいれば放っておけない。  「代わりに遊んでやれ。その為の家政夫だろう」  「代われるものなら代わりたいっすよ、ホント……」  このわからず屋め。   ため息まじりにぼやくも共通の話題がみはなの事しかない現実を今さらながら痛感し、歯痒さと寂しさが入り混じりやきもきとした感情がこみ上げて、湯気に乗じ風呂場に垂れ込める沈黙が沈鬱な重みを増す。  今だ。     無意識に握力こめスポンジを圧縮し、機嫌を損ねぬようおそるおそる口を開く。  「誠一さん、あの……」  続けようとして、とまる。  悦巳が手を置いた場所、手ぬぐいを当てたすぐ上。  ちょうど肩甲骨の間に赤く、なにかの痕が残っている。  「なんすか、これ」  泡に隠れて気付かなかった。  泡が流れて今初めて気付いた。  「火傷だ」  「やけど?」  「子供の頃のな」  「へえ……」  歪な形状の火傷のあと。  その部分の皮膚だけが赤黒く変色し、ビニールのようにてらてらした感触を与える。  「痛くはないっすよね」  「当たり前だ、とっくに治ってる」  あきれた声を出す誠一。  しげしげと古い火傷を見つめる。  肩甲骨が左右対称に張った鍛え抜かれた背中にあって、赤黒く色素が侵蝕した皮膜は油を塗ったように不自然に水滴を弾き、なおさら痛々しく目を引く。  「なんで火傷したんすか」  「………どうでもいいだろう。ささいな事だ」  なんとなく言いたくなさそうな口ぶりだった。  不機嫌さを増して黙りこむ。  背中を洗い流す手が完全に停止、泡に濡れた火傷を食い入るように凝視。  「気色悪い、人の背中をじろじろ見るな」   「すいません。……って、思わず謝っちまったけど昨日俺にもっと気色悪ィことしたくせに」  「言いたいことがあるならはっきり言え」  「え」  「なにを考えてた?」  肩越しに振り向き誠一が睨みを利かす。  手を上げて下ろし、二回それをくりかえしてから俯いてしまう。  正直に言おうか言うまいか、胸の内で駆け引きが繰り広げられる。  くだらないことを言って怒られるのも軽蔑されるのもいやだ。  悦巳の思いつきなど誠一にしてみればすべてくだらないことだ、絶対そうだ、そうに決まってる。  後ろめたげな上目遣いで誠一をうかがい、日本列島に似た形状の火傷をそっとなぞる。  「煙草のあとじゃなくてよかったなあ……と」  「は?」  ほら、やっぱりくだらないことを言ってると思われた。  露骨にバカにした様子で聞き返す誠一に恥ずかしさと後悔が募り、火傷をつつく指を引っ込める。   「俺がいた施設にそういう子たくさんいたんです、親に煙草でジュッと焼かれた子供……風呂入るときとかいやでも目について。俺のダチが……その」  「続けろ」  「……幼馴染がやっぱりその手の火傷だらけで。……脱衣所で自慢大会するんです、そういうガキが集まって。誰が一番火傷の数が多いか競い合うんです。あいつはいっつも一等賞だった……やりぃ一番ってはしゃいで浮かれてたけど俺は……正直どんなカオしていいかわかんなくて困った」   施設の脱衣所で毎日行われていた子供たちだけの秘密の遊び、親に灰皿にされた子供たちの哀しい自慢大会。  悦巳の一番の親友で施設一の問題児と悪名高かったあいつは体の裏も表も服から見えない部位は殆ど煙草の火傷だらけだった。  思い出したくもない記憶を掘り起こし、顔が歪む。  「嘘でもはしゃがねえとやってらんなかったんじゃねえかなって、今なら思います」  親に灰皿にされたなんて哀しすぎるからそれを茶化して遊びにでもしないと耐えられなかったんじゃないかと、今の悦巳なら思う。  可哀想な被害者、虐待の犠牲者として同情を一身に受けるんじゃなく、こんな事は全然普通なのだと、自分は両親に嫌われてるんじゃない、「ちょっと」機嫌の悪かった両親に「たまたま」お仕置きされただけだと、火傷の意味を偽りでもしなければ耐えられない子供があそこにはなんと多かったことか。  親から受けた理不尽な折檻の理由が憂さ晴らしや八つ当たりじゃあまりに哀しくてやりきれないから、施設の子供たちは死にたくなるほどの惨めさから自分を救うため各々違う理由をこじつけていた。  だから。  子供の頃から他人の体の傷を見慣れた悦巳には一目で虐待の傷かそうじゃないかが分かる。  「一瞬ぎょっとしたけど………勘違いでしたね、はは」  もう痛まない火傷を思いやり、丁寧に湯をかけ泡を流す。  笑ってごまかす声には間違いなく安堵の念が滲んでいた。  誠一が親に虐待された子供じゃなくてよかったと、自分を虐待した人間の傷が心にまで響かずにすんでよかったと喜ぶ声。  とんでもないお人よしだ。  救いがたい。  「俺はむかし事情があって祖母の家に預けられていた」  調子よく笑ってごまかす悦巳が凍りつく。  誠一が相変わらず背を向けたまま、虚を衝く唐突さで切り出す。   「背中の火傷はそこで負った。原因は俺の行き過ぎた悪戯……ちょっとした手違いだ。最初に気付いたのは祖母。俺の泣き声を聞きつけて、床に倒れてるところを見つけた。夜中だった。だけど祖母は時間帯なんて関係ない、救急車を呼んで待つより近所の病院に直接運ぶほうが早いと判断して俺をおぶって連れて行った。大丈夫よ誠ちゃんすぐお医者さんが診てくれるから、おばあちゃんがなんとかしてあげるから……息を切らして夜道を走りながら病院に着くまで、いや、俺を医者に渡すまでずっと力づけてくれた」  『誠ちゃん』。  ばあちゃんは、児玉華は、孫を愛称で呼んでいた。  祖母との思い出を回想し、一切の感傷を切り捨てた冷徹な声音で述懐に徹する。  「応急処置が的確だったのと迅速な皮膚移植が行われたのとで大事には至らずに済んだ。肩甲骨の間のは移植した皮膚に馴染みきれなかった名残りだ。……祖母は私の皮膚を使ってと医者に頼んだが結局臀部から切り取ったヤツを使った」  「……結構酷い火傷だったんすね」  「キレイに回復したのは奇跡だと医者に言われた」  「そっか……」  「軽傷ですんだのは祖母の機転のおかげだ。俺一人で留守番してたら最悪命を落としてた」  淡々と話す。  責めるでも詰るでもなく事実を事実として過去を過去として、ありのままに淡々と。  それが一番悦巳にこたえると知りながら、故人がどれだけ優れた人物だったのか、どれだけ優しく愛情にあふれた気丈な人物だったのか、肉親の繋がり以上に命の恩人ともいえる特別な存在だったのかを言葉の裏に秘め隠して伝える。  「…………、」  言葉を失う。  手の行き場に迷う。  生前の児玉華とは面識がない。  誠一から聞いて初めて知るエピソード、より鮮明さを増した児玉華の人物像、悦巳が詐欺にかけた人間の本質に心がざわつき波立つ。  「俺………」  口を開き、また閉じる。  言葉が出てこない。  喉元までこみ上げた自責の念が声帯を絡めて縛り上げる。  馬鹿だ俺。  火傷の理由なんか聞くんじゃなかった、そんなつもりできたんじゃないのに、最初の目的と違う。  ごめんなさい。  たった一言そう口にできたらラクなのに。  だけどそれじゃ何も解決しない片付かない、孫に謝ったところでばあちゃんにした事が許されるわけじゃない、俺が安い謝罪なんか口にするのは間違ってる、本当に申し訳ないと思ってるなら態度と行動で示すべきだ、言い訳も謝罪も一緒だ、喉元すぎれば忘れてしまう。  ごめんなさいを言ったところで死んだ人が戻ってくるわけじゃないのに  「………知らなかった………」  誠一が子供の頃祖母の家に滞在していたことを?  児玉華が火傷した孫を自らおぶって夜道を走り病院に駆け込むような行動力ある女性だったことを?  児玉華と児玉誠一の絆の深さを?  誠一が今元気に健康に立派に生きているのはその時の華の英断によるものだと、華は賢明で気丈でユーモアにあふれた素晴らしい人間だと、それに比べて悦巳はどうだ、たくさんの年寄りを騙して不幸にして死に追いやっておきながら今もこうしてのうのう生きながらえて  『みはな嘘をつくひとはきらいです』  『お前は犯罪者で詐欺師で人殺しだ』  『児玉華を殺したのはお前だ』  のろのろと口を開きぎくしゃくとまた閉じる。  スポンジが歪みひしゃげ指の股をぬるつく泡が伝う。  ぐらつく心、見失う心。  自分をソファーに押し倒し好き勝手した男を華の身代わりに見立て謝罪を口にするほどできた人間じゃないにしても、誠一への反感と憤り、加害者の孫に含む罪悪感とに折り合いをつけられないのは事実でだからこそ言葉をなくす。  比較し卑下し打ちのめされて自己暗示と自己欺瞞を塗り重ねて同じ場所をぐるぐるとしっぽを追いかけて回り続ける学習能力のない犬のように  だってしかたないじゃないか知らなかったんだから、電話の向こうにいる一人一人の人生に立ち入るのは避けて十把一絡げに被害者のレッテル貼った、彼等が産声を上げ学校へ行き就職し結婚し子を産み育て孫を抱くに至るまで築き上げた人生の悲喜こもごもなんて知ったことか、俺なんかにだまされるジジィやババァが悪いんだ  悦巳は自分自身が騙した相手を「被害者」としか見ていなかった。    「知らなかったんだ、ほんとに」  「知らないで許されるのか?」    果断なき断罪の響き持つ声が均衡を破る。  同時に放心状態から覚めた悦巳の手を引っ張り、自分の方へと引き倒す。  「!?っ、」  バランスを崩し突っ伏す悦巳、泡で滑って誠一の正面に跪く。  まともに正面から見上げた誠一の顔に息を呑む。  冷酷な目。無表情。  本能的な恐怖に痺れ腰が引ける。  肌にあたる空気の変化を敏感に感じ取り、性懲りなく二度目の逃走を企てるも誠一はそれを見越し、悦巳の手を乱暴に掴んで引き止める。  手首が軋む程の握力に苦鳴を零す、足裏が滑って尻餅をつく、腰に巻いたタオルがほどけて萎えた股間が晒される。  「前って嘘、」  悦巳の手をスポンジごと掴んで吊るし、もう片方の手で顎を固定し、視線の高さを調節する。  「薄汚い詐欺師らしくせいぜい俺の前に這いつくばって奉仕しろ」  物理的な圧力さえ伴い眼底に抉りこんでくるかのような視線の威力にたじろぐ。  「―っ、く、放せよ、手え砕ける!」  イヤだ―違う、こんなつもりじゃない、確かにイヤな予感はしていた昨日の今日で風呂だなんて最悪の事態に繋がる危険性は十分あった、だけど信じた、そんなはずないと懸命に言い聞かせ納得させたのは華の孫を名乗る男の最後の良心を信じたかったからだ、悦巳と違い誠一は正真正銘血の繋がった児玉華の孫、あのばあちゃんの孫が自分に酷いことをするはずないと心のどこかで楽観していた、安心しきっていた、信頼という言葉を被害者遺族に対し使うのが許されるなら  ばあちゃんの孫が俺に酷いことするわけないと、真実愚かしい事に本当に手遅れになるまで今の今まで思い込んでいたのだ。  酔っ払った誠一に押し倒され無理矢理快楽を覚えこまされたのに昨日のアレは何かの間違いだと自分を欺いて信じたいものを信じた、素面の状態なら誠一が自分に危害を加えるはずない性的ないやがらせを仕掛けてくるはずないと根拠もなく信じきっていた、いや根拠はある、だって誠一は華の孫じゃないか、あんなに優しくて物知りで電話越しの悦巳を本当の孫のように扱ってくれた華の孫じゃないか  信じる理由なんてそれで十分だろ?  俺はただ、自分に優しくしてくれた人の孫を信じたかっただけだ  どんなに嘘を重ねて演技してもとうとう成りきれず成り代われなかった、ただ一人悦巳が騙しきれなかった人の孫を  なれるものならなりかわりたいと電話をかけながら心の底から望んだその人を  「放せ、マジ痛いから痛いってふざけんなよ、昨日のアレは酔っ払ってたからしかたなく……っ、冗談だろ?」  「俺は本気だ」  間近に迫る誠一の眼光と声はどこまでも真剣な成分を含有し  「お前は自分のしたことの愚かさをその色気のない、貧相な体で償うべきだ」  悦巳の顎を掴む手を力ませ、締め付ける激痛でもって口を開けさせるや、キスというには余りに野蛮な―捕食よりはむしろ獲物を服従させ蹂躙するのが目的の肉食獣の如きくちづけを与える。  強く強く舌を吸い上げ  深く深く貪り  獲物を窒息させてからゆっくり咀嚼して味わうように濃厚な接吻を与えてから透明に濡れ光る唾液の糸ごと突き放す。  「みはなと同じ子供だましの手口が使えると思うなよ」

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