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第20話

 「悦巳が倒れた?」  改造済みステーションワゴンの中はちょっとした電脳要塞。  仕切りを取っ払って通常より空間を広くした車内、そこに昼夜交代で詰めた男たちはいずれも任務に忠実、いざ戦地に派遣されれば不眠不休飲まず喰わずで作戦に従事できる体力と持久力をもつ兵士ぞろいだが、生憎はここは法治国家日本で今は平時。  よって卓越した諜報・戦闘スキルを身につけた彼らの活躍の場は、個人の欲望を満たす範囲でおのずと限られてくる。  マンションを仰望する道路の端、人目を避けるようにして停まるワゴンの扉を開け放ち乗り込んだ誠一を迎えたのは、イヤホンを嵌めて周波数を調整していたアンディだ。  直属の上司に目礼を返すや、寡黙さの中に慇懃さ漂う口吻で簡潔に報告する。  「はい。今から五時間前に幼稚園より帰宅したのですが、玄関のドアを開けた途端に倒れこんでみはなさまが騒いでおられました」  反射的に腕時計に一瞥払う。時刻は夜八時をさしている。  「……一日ももたんとは根性なしめ」  もちろん誠一は悦巳が体調を崩し昏倒したその本当の理由を知っている。のみならず彼こそが気を失うほど悦巳を追い詰めた張本人だ。  今朝、出社前に家政夫を呼び出し下を脱がせ、ベビーオイルのぬめりが手伝ってもなおきつい後孔にローターを仕込んだ。  異物を受け入れるのに慣れてない後孔にプラスチックの卵を咥えこむ痛みに、いまだ飼いならされぬ若い体は新鮮な反応を見せた。  生理的嫌悪と不快感と恥辱とほんの少しの快感とがめまぐるしく錯綜する顔はほのかに紅潮し、一途に許しを乞う目は恍惚と潤んで嗜虐をそそり、いつもしまりなく馬鹿笑いしてる顔がどきりとするほど色気づいていた。  もとより誠一はそう悦巳と接触が多いわけではない。  朝早く家を出て夜遅く帰るルーティンワークの日常の中、まともに顔を合わせ言葉を交わすのは悦巳が淹れた紅茶を飲みつつ、みはなの行動報告を受ける一時間かそこらのみ。  誠一が知る悦巳は始終初日に買い与えたピンクのエプロン姿でどたばた落ち着きなく走り回っている。  今やすっかり他人の娘のみはなを溺愛し、日常にまつわるささやかかつこまやかな事件の数々―今日幼稚園の花壇でテントウムシを見つけた、ダンゴムシで玉転がしをしたなど―を、嬉しそうに目尻を下げて話す悦巳を醒めた目で観察しつつ、どうしてこんな馬鹿がオレオレ詐欺で成功をおさめたのか、あらゆる角度からその謎を比較検討するのがこの頃の誠一の日課だった。  ステーションワゴンは情報の集積と分析を兼ね、最新鋭の設備を誇る電脳要塞。実戦は言うまでもなく、諜報活動においても司令官と指揮官を兼任するアンディは、受信機のつまみを右に左に回しつつ言う。  「体調の悪化いかんによっては救急車の要請も検討したのですが、ソファーまで這って行くと本人が言い張ったため踏み込むのはやめて放置しました。現時点で盗聴の事実が発覚するリスクを負うのは避けるべきかと」  「ふん。……それでいい、おおごとにするまでもないだろう。俺に連絡しなかったのはお前の判断か?」  「お仕事の邪魔をするのは気が引けまして」  「賢明な判断だ。些事が発生するたび大事な取り引きから呼び戻されたんじゃたまらない」  悦巳の体調不良は誠一にとってあくまで些事。家政夫が倒れようが逃げ出そうがさほど不便は感じないし生活に支障は来たさない、壊れたら代わりをつれてくればいいだけだ。  金さえ払えばもっと有能で優秀な代用品はいくらでもあてがえる。  助手席のシートに身を委ねる誠一の横顔をアンディがちらちらうかがう。  「なんだ。言いたいことでもあるのか」  「……瑞原悦巳は盗聴器の存在に気付いているのですか」  「さあな」  とぼける。  盗聴器が仕掛けてあるのは悦巳の生活範囲内に限定される。  誠一とて露出狂じゃあるまいしプライベートが筒抜けになるのは好まない。  悦巳がベッド代わりに使ってるソファーを中心にリビングの数箇所、および廊下の数箇所に、コンセントの差込口に埋め込む形で盗聴器を仕掛けてあるが隠密行動の労力に反し収穫は少なく、アンディは曖昧に口を濁す。  誠一が今朝悦巳を呼び出し盗聴器の存在を仄めかしたことをアンディは知らない。アンディは優れたボディガードかつ工作員だが、手ごわい秘密の殻で覆われた上司の心を洞察するのは経験を積んだ彼をしても至難の業だ。  誠一は嘘をついた。  誠一のプライベートルームである寝室には盗聴器が仕掛けられておらず従ってアンディは今朝のやりとりを知らない、よって悦巳が倒れた理由は公園で長時間冬風に当たった為の風邪だと安直に思い込んでいる。  「みはなはどうしてる?」  「瑞原悦巳に付き添ってる模様です。風邪が伝染るといけないので隔離しますか」  「いや、それには及ばん」  「しかし子供は免疫力が低い、みはな様にもしものことがあったら」  「過保護だぞ」  上司の叱責にアンディが恐縮、閉口。自らの分をわきまえ一礼して引き下がる。  アンディからイヤホンを借りて片方の耳に嵌める。電波に乗じて届く室内の様子をうかがう。  「寝てるのか?リビングに気配がしないぞ」  「それが……本人はソファーでいいと言い張ったんですが、みはなさまたっての説得によりさきほど寝室に移動しました」  「なに?じゃあ俺のベッドで寝てるのか」  シートから身を起こし気色ばむ。  「枕カバーに涎がついたらどうする、クリーニングが大変だ」  あまりに身勝手で自己中な言い分。  悦巳の体調など一切に気にかけず、シーツの染み汚れを心配する誠一に対しても慇懃な態度をくずさず、重ねて申告する。  「みはなさまがどうしてもとおっしゃって聞かなかったので本人も断りきれなかったのでしょう。押しに弱いヤツですから」  「……知った口を聞くじゃないか。悦巳とはすっかり友人気取りか。いつのまに親しくなった」  「……いえ……いつのまにかそういうことに。面目ありません」  「責めてるんじゃない。部下のコミュニケーション能力向上を喜ばない上司がいるか」  言葉とは裏腹に不機嫌げな仏頂面のまま、耳からイヤホンを引き抜く。  「直接帰宅なされるんですか」  「俺の家に上がるのに誰に断りが入る?」  追ってこようとするアンディを背で拒絶、荒々しい挙動で扉を叩き閉め地上へ降り立つや並み居る黒スーツの配下を無視し、あたり払う大股で正面玄関へ突き進む。  自動ドアから中へ入るや清潔なタイルを敷き詰め観葉植物を配した広大なエントランスホールを突っ切って一路エレベーターへ乗り込み、目的の階のボタンを押す。  「社長」  操作盤のボタンに指をかけ、声の方向に向き直る。  自動ドアをくぐったところでたたらを踏んだアンディが、感情の読みにくい鉄面皮の彼にしては珍しくかすかな動揺と懸念とを浮かべ、今しも上階の自宅へ向かおうとする誠一を仰ぎ見る。  「なんだ」  一瞬の躊躇。  周囲の配下が怪訝そうに見守る中、アンディは一歩前に踏み出して疑問を述べる。  「どうして瑞原悦巳を雇われたので?」  忠実な部下の口からでた思わぬ疑問に、誠一は口角を挑発的に吊り上げて答える。  「みはなを世話する人間が必要だからだ」  「ならば別にヤツじゃなくてもよかったはずです、ちゃんとした紹介所なりなんなりを仲介して素性のはっきりした信頼できる人間を雇えばいい。よりにもよっておばあさまに詐欺を働いた悪党に一人娘であるみはな様の世話をさせる必要はない」  「上司の意向に背くのか?」  「まずその意向とやらをお聞かせください。この件における社長の考えは皆目不明です」  「晩酌を交わすうちに情が湧いたか」  「……敵を騙すには味方のふりをするのが得策かと」  「さすが元傭兵の台詞は説得力がある」  両者エレベーターホールの此岸と彼岸で一歩も引かず対峙、妥協を許さぬまなざしで睨み合う。  上司の真意を問い詰めるアンディの顔は真剣そのもので下がった口角に気迫が滲む。   「本当の狙いをお聞かせください。おばあさまの仇を家政夫として雇い入れるなど非常識です、ましてや子供の面倒を見させるなど……みはな様はまだお小さいのに……」  「悦巳がみはなに不埒なまねを働くと思ってるのか?あいつにそんな度胸はないと二度も実証済みだ」  誤解から風呂場に殴りこんだ男の台詞とは思えない。  あのタイミングで風呂場に殴りこんだのさえ悦巳の反応を観察する目的で周到に計算し尽くした上での演技とばかり落ち着き払って聞き返す。  「お前の目から見た瑞原悦巳という人間は信用できないか。幼女に性的な悪戯を働く変質者に見えるか」  「いえ……人懐こく子供好きな、どこにでもいる普通の青年に見えます」  「おつむは弱いが口は立つ。とりえは口の上手さと愛嬌だけ。……盗聴器を仕掛けたのは無駄骨だったな」  悦巳はとても警戒に足るような人間には思えない。  数ヶ月間悦巳と付き合った上での偽らざる評価を述べる口吻には、憎みたくても憎みきれない人物に対する複雑な心理が投影されていた。  係累のないアンディにとって、児玉華は肉親の情愛と錯覚するものを与えてくれたかけがえのない人。  憎い仇を憎みきれないのは、あっけらかんとした悦巳の笑顔が生前の華の笑顔と被ってしまうからか。  感傷に囚われまいと自らを厳しく律し、小さく息をついて誠一と向き合う。  「私が見た限り不審な行動は一切ありません。仲間と連絡をとってる形跡なし、逃亡を図る素振りなし、至って無害無邪気なものです。社長のお考えはわかりませんが……瑞原悦巳を手元において泳がせ、敵の中枢を暴き出そうというなら些か的外れかと。ことによると、ヤツは本当に何も知らないんじゃないでしょうか」  「何も?」  「組織の中枢や人事構成について何も把握してない下っ端ということです」  悦巳と接するにつれどうしてもそう邪推してしまう、あのお気楽ぶりが周囲を騙し丸めこむ演技だとは到底思えない、みはなに対し見せる包容力や誠一に対し見せる一途さこそ素顔ではないかと錯覚してしまう。  護衛を兼ねて監視任務に就く自分へと毎日決まった時間に手料理を差し入れる世話焼きぶりを思い出し、いつしか悦巳に肩入れしてしまってる事実に驚く。  誠一も同じ結論に達したか、皮肉っぽく笑って今度こそ身を翻す。  「餌付けの効果は抜群だな。手料理に飼いならされたか?俺の余りでよければいくらでもくれてやる」  不敵な宣言を放つ背中を追いかけ、やめる。  代わりに力強くきっぱりと、ひとかたならぬ自信を持って断言。  「料理に罪はありません。つけくわえるなら、あいつの料理は悪くありません」  「ファン一号というわけか」  「ファン一号はみはなさまです」  悦巳の手料理はどれも庶民的で懐かしい味がした。  意地悪く片頬笑む誠一に向かい律儀に言い直すや、冷笑が消えて渋面が取り代わる。  擁護してると誤解されたか。  アンディは正直な感想を言ったまでだ。  悦巳の料理は捨てたもんじゃないし、ひょっとしたら瑞原悦巳本人だって捨てたものではないかもしれない。  「まだ答えを聞いてません、社長。一体なんのために瑞原悦巳を囲ってるのですか」  誠一のことは尊敬している。  戦場で生きてきたアンディと仲間たちを拾い上げ、社会的な肩書きと人並みの暮らしを保証してくれた恩はけっして忘れない。  しかしそれでもなお腑に落ちない、主従の付き合い浅からぬアンディから見ても最近の言動は理解を超えている、自宅に盗聴器を仕掛けろという命令ひとつとっても目的を遂げるためなら手段を選ばず自暴自棄に走ってるようだ。  自暴自棄に走ったきっかけ。  思い当たるのは、ふたつ。  「なにをあせってらっしゃるんですか」  こちらに向けた背中がぴくりと動く。  「華様の死はもちろん……やはり原因は美香様」  「黙れ」  畳み掛けた名は激烈な反応を誘う。  人を見下すのが似合う倣岸な表情に広がる激情の波紋。  本性を覆う固い殻の一部に亀裂が生じて溶岩がふきだすかの如く憤怒が滾り、虚空を射竦める眼光の陰惨さが引き立つ。  底冷えするような声で無慈悲に遮り、自らに言い聞かせるように低く呟く。  「役立たずを匿う理由はひとつ。復讐だ」  硬質な靴音で会話に終止符を打つ。  緩慢にドアが閉まり視界を遮断、アンディを先頭にした黒スーツ軍団と誠一とを頑丈な鉄扉が隔てる。  矩形の棺が一揺れして上昇開始、上階に辿り着くまでのわずかな間に目を閉じてアンディの言葉を回想する。  「………あせってるだと?」  この俺が?  まさか。読み間違いもいいところだ。  「あせってるんじゃない。興奮してるんだ」  口に出して確信を持つ。  この後控える行為に対し、嗜虐のアルコールに浸した興奮と高揚を感じている。ベッドに組み敷いた悦巳がどんな顔で喘ぎどんな痴態を見せどんなふうに許しを乞うのか想像しただけで満悦の笑みが口元にちらつく。  ズボンをひん剥かれた際の泣き顔としどけなく悶える細腰を思い出し、腕を組む。  「抱くには物足りん貧相な体だがまあいい、暇つぶしにはなるだろう」  アンディも案外甘い、あんなヤツに肩入れしてしまうとは……  エレベーターの壁に凭れ、部下の再教育についてつらつら考える誠一の内耳に、冷ややかな侮蔑と諦念を帯びた声が響く。  『話し合いは無駄みたいね。どこまでいっても平行線。疲れたわ』  『あなたには愛情が理解できないのよ。むりないわ、あのお父様の子だもの』  突き放すような。諦めきったような。  児玉誠一は所詮その程度の人間なのだと、お前と結婚した自分が間違っていたのだと淡々と語る声。  誠一を全否定する女の、  『あなたとは家族を作れる気がしない』  断固たる訣別の意志が支える絶縁宣言。  目的地に近付きつつある密室にて平常心を保つ。  やがてドアが開き見慣れた外廊下が出現、硬質な靴音を高く響かせ歩く。  鍵をとりだしてさしこみロックを解除、ドアを開け放つ。  「なにをしてる」  寝室のドアの前、廊下にちょこんと正座するみはな。  おかえりなさいを言う代わりにきっと顔を向ける。  「ねずのばんです」  「………廊下でか?」  「風邪が伝染るから入っちゃいけないと言われました」  しゅんと俯く。悔しげに唇を噛み、大きな瞳を不安げに揺らす様子からドアを挟んだ攻防の報われなさがひしひし伝わる。  察するに、帰ってからずっと寝室のドアの前で正座して悦巳の安眠をじゃまするものがいないか見張っていたらしい。この季節、フローリングの廊下は冷え切っている。帰ってから着替えてないため幼稚園の制服のまま、下は当然スカートのままで、ぺたんと正座をすれば靴下からはみ出た部分が床にくっつく。   「みずはらさん苦しそうです。帰り道で顔真っ赤です。おててもすごく熱かったです。道の途中ですわりこんでしまって……」  「そうか」  「朝から様子がおかしかったです」  普段父親に対し無口なみはなが、珍しく急き込んだ様子で、たどたどしく病状を報告する。誠一を見詰める目には縋るように思い詰めた色が浮かび、きゅっと唇を引き結ぶ。  「お医者さん呼んでください」  「必要ない。寝てれば治る」  「…………」  「病気じゃない。甘えだ。お前が心配することじゃない。……リビングに行ってなさい」  不器用な口調で娘を宥め追い払う。  みはなと口を利く機会などめったにないため接し方に迷う。  みはなもまた父親が娘に無関心なのを薄々察して敬遠し、できるだけ顔をあわせないよう気配が擦ればすぐ部屋に引っ込むか隠れるかしていたため、これまで父娘が遭遇する事はなかったのだ。  しかし今日は事情が違う、瑞原悦巳の一大事なのだ。少なくともみはなはそうひたむきに信じ込んでいる。  きちんとそろえた膝に手を置き小首を傾げる。  「風邪ですか?」  「ばかは風邪をひかない。だから風邪じゃない」  調子が狂う。これまでまともに娘と接してこなかったツケが回った。もともと誠一は子供の扱いが大の苦手だ、否、子供という生き物自体になんとも言えない苦手意識を抱いている。すぐ泣くわ喚くわうるさいわ漏らすわ汚いわ、次の行動が読めず苛立つ。  「嘘ですか」  「嘘じゃない」  「ほんとうに風邪じゃありませんか」  「すぐ治る。まかせておけ」  「やくそくしてください」  「わかった、約束する。今度扉を開けた時には元気になってる」  しつこさに辟易し、まとわりつくみはなをどかしてノブを掴んで押し開けば、とたとた軽い足音つきで回りこんで目一杯両手を広げる。  「いじめないでください」  ……そんなに信用ないか俺は。  悪人顔の自覚はある。悪巧みしてるのも事実だが、年端もゆかぬ子供に見抜かれるほど浮かれていたか。  自嘲めいた気持ちを振り払い、両手を広げて立ちはだかるみはなを苦虫を噛み潰した面持ちで見下ろす。  悦巳を守り抜かんと小さな体を張って勇敢に立ち向かう姿は、頼もしさよりむしろ身の丈に合わぬ微笑ましさを誘う。  「……いじめないからそこをどきなさい」  「ほんとうですか」  「本当だ。様子を見るだけだ」  渋々と両手を下ろし横にどく。疑わしげな上目遣いで誠一を見上げる。  「リビングに行きなさい」   重ねて促され、後ろ髪ひかれつつとぼとぼと歩いていく。  リビングに通じるドアを開けてちょっとだけ振り返り、念を押す。  「いじめちゃだめです」  ぱたんと静かに閉ざす。  「入るぞ」  その必要もないが一応断り、中途半端に開けたドアをさらに開けて寝室へ。  呼びかけに返事はなく静寂が漂う。悦巳は……いた。誠一が使用している方のベッドにうつぶせ、頭から毛布をかぶって震えている。  わざと足音をたてそちらに歩み寄り、毛布のふくらみを観察しつつ無造作に手をかけ、めくる。  「はっ……うあ………ふっく……」  毛布を払いのけた下から露出したのは淫らな姿。  意識は朦朧として虚実の区別もつかず、シーツを掻き毟りうなされている。大量の寝汗を吸ってスウェットはぐっしょり湿り、濡れそぼった前髪が額に絡みつく。弛緩した口の端から涎をたらし、胎児の姿勢で膝を抱えた悦巳の下半身は今もびくびくと痙攣し、ズボンの股間は汗以外の体液で変色している。  「聞こえてるか。返事をしろ」  「……ふあ、あく……や、あっ、あ……」  間近で呼びかけても反応はない。平手で軽く頬を叩く。…駄目だ、完全にイッてしまってる。いや、違う。これは……  「………?」  尋常ならざる汗の量に違和感を感じ取って額に手をあてる。火傷しそうに熱い。体温が異常に高い。  「おい……」  試しに肩を揺する。高熱で意識は混濁してるようで、億劫げに薄目を開けるもすぐまた閉ざしてしまう。   おもわず舌を打つ。抱く気満々で帰って来たのに予定が狂った。まさか本当に熱を出してるなんて思わなかった。悦巳の事だ、仮病を使って逃げる可能性も考慮したがそれが現実になるなんて……  「本当に使えないヤツだ、ローターごときで音を上げるなんて」  無意識に苦しみ悶える悦巳に辛辣な毒を吐き、荒っぽくシーツを投げつける。そういえば今朝は少し風邪っぽかった、顔が赤く調子が悪そうだった。悦巳のことなど注意して見ないから気付くのが遅れた。  ただでさえ風邪の引き始めで体調が悪いところに一日ローターを突っ込んだ無理が祟って倒れたのか?  悦巳が自分のせいで体調を崩したと知っても罪悪感や負い目は抱かない。  「根性なしめ」  そう呟き、ズボンのポケットに手を突っ込んでリモコンを操作する。ランダムから設定を切り替え、一気に最強へ。  「!!ひっ、ぅあっ、や、うあ」  「一日中入れっぱなしにしてたのか。これが好きなのか。俺がいなけりゃ止めたってわからないのにどこまでばかなんだ、お前は」  ねちねちと叱りつつ小刻みにつまみを調整すれば、強弱をつけ次々と襲う刺激に翻弄され既にしてとろけきった腰が跳ね回る。  「あっ……あく、ふ………」  苦痛と快感とで濁りきった目は光を失い、どんより曇ってここではないどこかを見詰めている。  頼りなく焦点を失った表情が嗜虐心を疼かせ、リモコンを放り出し、ズボンの前をぎゅっと掴む。  「!―ッ、痛」  「………何回イッた?」  びくりとする。  「俺がいないあいだに何回粗相したと聞いてる」  耳元でくりかえし囁く。意識があるのかないのか、正気なのか正気じゃないのか、荒い呼吸をくりかえすばかりでいつまでたっても返らぬ答えに苛立ちますます酷くする。  ひりつく昂ぶりを意識しつつ、ズボンの中に手を突っ込んで勃起したペニスを掴む。  「ぬるぬるじゃないか。後ろにものを咥えこむのは初めてのくせに、あんなおもちゃでイッたのか」  「………っ………くふ……」  言葉で貶め辱め先走り滴るペニスをしごく。おそらく無意識にだろう、否定を兼ねて首を振る悦巳の頬は病的に赤く染まり、まなじりからおちた涙が透明な筋を描く。  まなじりから零れ落ちた一滴の涙を見た途端、箍が外れる。  背広を脱ぎ捨て、ネクタイを手荒く解いてむこうに投げ捨て、ぐったり衰弱しきった悦巳を押し倒し上着をめくり腹をさらす。  「体の中からかき回されて苦しいだろう。らくにしてやる」  自分がしたことへの謝罪は一言もなく、慈悲をくれてやるから有り難く思えと恩を着せ、乱暴な手つきで裸に剥いて痛みを伴う性急さでまさぐり始める。もとはといえば悦巳が風邪をひいたのは誠一のせい、冷たいシャワーを掛けて風呂場に放置したのが原因だ。だからなんだ?すぐにシャワーを止めて出てくればよかった、そうしなかったのは俺へのあてつけだ、自業自得じゃないか。  同情を買おうって魂胆か?  俺が駆け戻り謝ると期待して?  「薄汚い詐欺師崩れの分際で身の程知らずに思い上がるな」  『あなたには愛情が理解できない』赤い唇が囁く『冷たい人』断言する『あなたとは家族を作れる気がしない』憐れむふりで、蔑む。  自分のもとから去った女への憎悪を身代わりにぶつけるように悦巳の薄い体を手荒く抱き、ローターで弛緩しきった窄まりから指を引き抜き、怒張を挿入しようとして  思いとどまったのは、呟きのせいだ。  「…………い………」  悦巳が何かしゃべっている。  仰け反りながらぱくぱくと唇を動かし、行き先を決めかねた指でもどかしげにシーツをひっかき、懸命に何かを言おうと……誰かに伝えようとしている。  動きを止めたのはその続きが気になったから。ほんの出来心、好奇心。  眠りながら今まさに犯されようとしている男、高熱に浮かされ意識が混濁し抗う術もないまま陵辱されようとしている青年の寝言が興味を引いたから。興醒めして覗きこむ誠一の視線にも気付かず、荒く浅い吐息に掠れた声を途切れ途切れに紡ぐ。  「………な、さい……」  悦巳は夢を見ていた。  夢の中の悦巳は口八丁で年寄りを騙す詐欺師だった。  『最近腰が痛くてねえ。年とってるからしょうがないけど』  『シロがいなくなっちゃったの。ふらっといなくなることはよくあったけど今日でもう一週間、どこかで怪我でもしてるんじゃないか心配だわ。どうしたらいいのかしら……貼り紙しようにもこの足じゃねえ。頼めるお友達も近くにいないし』  不義理な家族の代わりに頻繁に電話をかけてくる悦巳に、老人たちはさまざまな悩みを相談し、体の不調を愚痴る。  飼い猫がいなくなった。腰が痛い。どこかの悪ガキが丹精してる盆栽の枝を折った。  そんな他愛ない日常の悩みをぼやく口ぶりから話し相手のいない寂しさがしみじみ伝わって、やりきれなくなる。  『小学校の通学路に面してるからな、どっかの悪ガキが犯人に違いねえ。最近のガキは悪知恵が回るからな、ちょっとよそ見したすきにすぐぽきりと。ったく油断も隙もねえ』  『ばあさんが死んでから何食っても味けなくってな。隣の山田さんがくれたかぼちゃの煮付けも余らしちまって……ったく、情けねえ。だけどな、どうしてもばあさんの味と比べちまうんだ。俺も早くあの世に呼んでくれんもんかなあ、まわりに世話かけてずっと生きてたってしょうがねえや』  『困ったことがあったらなんでも言って、少しは余裕があるの。だいじょうぶ、おばあちゃんはお金持ちだから。安心して頼ってきて。たまには元気な顔を見せて』  『学校の勉強は順調?部活は?友達は、彼女はできた?』  人に飢え話に飢えた老人たちを釣り上げるのは簡単だった。年寄りは地域から家族から孤立しやすい。家にいながら遠く離れた孫と話せる電話は、多くの老人たちにとって心の支えで救いだった。  あるときは将棋部だと嘘を吐いた。  『そうかそうか、じいちゃんに似たんだな!』  将棋好きな老人を喜ばせたくて。  大きくなった孫と一局指すのが夢だと呵呵と笑った。  あるときは野球部だと嘘を吐いた。  『巨人の長嶋はいい選手だなあ、こないだの引退宣言じゃ貰い泣きしちまった』  何十年も前にとっくに引退した選手を現役として語る老人を喜ばせたくて。  あるときはサッカー部だとあるときはバスケ部だとあるときは陸上部だと嘘を吐いた、実際の悦巳は小中高と部活に属してない、ずっと帰宅部で通したにも関わらず相手が望む嘘を吐き続け吐き通した。  老人たちは遠く離れて暮らす孫が、もう顔と声さえぼやけて思い出す事がむずかしい可愛い孫たちが良い友達に囲まれ充実した青春を過ごしてるのを期待し、悦巳は貧困な想像力を働かせその役割を精一杯演じきった。  すぐに電話を切ればよかった。口座を指定して振り込ませばそれで役割は終了するはずだった。ずるずる関係を持ってしまったのは罪悪感のせい、自分の弱さのせいだ。結果的にそれが裏目にでた。  『ねえ、今年のお正月は帰ってこれないかしら』  『ごめん、就職活動が忙しくて』  嘘だ。  嘘だ。  現実の悦巳は身分を偽り他人を欺く。  就職活動を理由に会えないと断る孫の為に神社へ行って採用祈願した老人がいた、電話口にて嬉しそうに『毎日神社にお参りしてるからきっと受かるわ』と報告されてひどく後悔した、その老婆は足腰が弱く玄関の敷居を跨ぎこすのさえ辛いとぼやいてたのに  次に電話をかけた時、老婆の代わりに知らない女性が出た。  『島津さんは入院中です』  『入院?どっか悪いんですか』   『神社の石段で転倒して右足を骨折、頭を打って全治三ヶ月………もしもし、あなたはだれですか?ねえ聞いてるの?』  おそらく荷物をまとめにきた介護士だろう女性の追及を遮り、即座に携帯を切った。    俺の嘘がばあちゃんに怪我させた。  俺の嘘は人を不幸にする。  当たり前だ。いまさらだ。オレオレ詐欺に手を染めた時点で世間を敵に回し人さまを不幸にしてる自覚はあったじゃないか。いまさらなにを迷う、ためらう、うろたえる?口先で誘導し金を振り込ませるまでが俺の仕事だ、後の事は知らない放っとけ、騙される方が悪いんだから……  『世の中利口なヤツ勝ちだぜえっちゃん』    事務所の椅子にふんぞり返った男がこめかみをつつく。  『派遣切りだ就職難だ世知辛い世の中だ。金はくれるもんだって思っちゃだめだ、攻めの姿勢で勝ち取りにいくもんだぜ、ここを使ってな。それが俺様の持論あーんど信念。お前らだってそれに賛成したからここにいるんだろ、なあ大志、悦巳』     ご高説を垂れつつ椅子を回し、窓の背景のビル群を従え両手を広げる男の名は御影。  不良時代に大志がつるんでいた三つ上の先輩で、高校中退でろくな仕事にありつけず六畳アパートで貧乏生活をしていた大志と悦巳をこの道に引き入れた張本人。  『世の中金だ。あるところから貰ってなにが悪い。どうせ相手は老い先短い年寄り連中だ、抹香くせえ懐で腐らせるよか将来ある若人が運用してやるほうがよっぽどいい、そっちのがお金さまも喜ぶってなもんさ』  大卒のインテリヤクザ気取り。  行き場をなくした若者を集め、振り込め詐欺の集団を組織し、組の資金を荒稼ぎして一躍名を広めた男。  きざったらしく頬杖ついて椅子を揺らしつつ御影は言う。    『年寄りは死んで若者の懐は潤う。老人は日本の癌だ、高齢化でこの先どんどん役にも立たねえ年寄りが増えてくんだ、そいつらからちょこっと小遣いせしめて何が悪い?罪悪感に足をとられて悩む暇があるなら電話をかけな、リップサービスで丸めこめ。どうせ十万か二十万のはした金だ、それで孫のピンチが救えるなら安いもんだろ?儲かって笑いがとまらねえや。ははっ、笑えよお前らも!今月もノルマ達成おめっとお二人さん。特に悦巳はうち一番の稼ぎ頭だ、ご褒美におごっちゃる、なんでも好きなもん食っていいぞ』  大志は御影に心酔していた。  悦巳は御影を恐れていた。  大志は御影に憧れ尽くし舎弟として扱われ、御影は便利な使い走りとして大志を採用し、稼ぎ頭の悦巳をたびたび外食に連れて行き可愛がった。  しかし悦巳は、  『オレオレさんは本当に優しいいい子ね』    良心の呵責に耐え切れずあそこから逃げ出した。    年寄りから金を騙し取るケチな詐欺師それが瑞原悦巳の正体だ『お前はデキるヤツだ悦巳、その調子でがんばれ、もっともっと儲からせてくれ』『すげえじゃんか御影さんに褒められて!やったな悦巳、お前も一緒に組に入れてくれるかも』全然嬉しくないよ大志、俺はヤクザになんかなりたくない、そんなつもりでお前についてったわけじゃなかった、俺にぴったりの仕事を紹介してくれるっていうからよく考えもせずとびついて……  『お前の天職は詐欺師だ』    カルビを網で焼きながらすこぶるご機嫌に御影がのたまう。  食欲旺盛に焼肉をつついて頬張りつつ、箸もとらず黙りこくる悦巳の皿へと苦手なレバーをたんとよそる。  『妙な気おこすんじゃねえぞ。ぜったい逃がさねえから』  『御影さん……』  『食え。おごりだ』  『おれやっぱこの仕事むいてねっす……』  『俺が焼いた肉が食えねえのか?殺すぞ』  むかし何になりたかったっけ。小学校の卒業文集ではたしかお笑い芸人と書いた、大志とコンビを組んで頂点を目指すつもりだった。   こんなはずじゃなかった。  どこで間違えたんだ。  『オレオレさんは本当に優しいいい子ね』どこが?『いつも気にかけてくれてありがとうね』所詮口先だけ『そうかとうとう部長に勝ったか、末頼もしい。プロ棋士めざすなら応援するぞ』嘘ばっか『最近腕が上がらなくて受話器をもつのもつらいの』孫のふりをしてても肩を揉んでやることさえできない、オレオレおれだよじいちゃんばあちゃん忘れちゃったの、あんたの孫の……  「う………」  浮きつ沈みつたゆたう膜のむこうに像を結ぶひとつの顔。  華か。   みはなか。  御影か、大志か。  おぼろな顔に向かい手をさしのべ、唇を小さく動かす。  「……………………誠一さん」    俯く頬に震える指先が触れる。  今にも泣き出しそうに歪んだ顔を見下ろす誠一の頬に、一瞬だけ指が触れる。  「おかえりなさい」   「…………」  完全に虚を衝かれる。  その一瞬だけ意識を回復した悦巳が潤んだ目で誠一を見据え、はにかむような笑みを浮かべてみせる。  悪夢にうなされていた子供が額におかれた手に息を吹き返すように     深まる一方の泥沼から救い上げてくれた人物に感謝するように。  不覚にも、見とれてしまった。  「………いま何時っすか………」  「夜九時だ」  「約束……セーフ……」  誠一の腕時計をちらりと見、力なく笑う。  「もうちょっと遅れたら特製タバスコ入り紅茶淹れに這ってったのに……惜しい……」  「ずっと入れっぱなしにしてたのか。なんで止めなかった」   「せいいちさんが入れたままにしとけって言ったんじゃねっすか……」  息も絶え絶え、舌足らずに言いつつ、泣き顔と見分けがつかぬ不細工な笑みを辛うじてこしらえてみせる。  「俺の『せいい』っす」   意外な発言に耳を疑う。理解不能といった誠一と向き合い、肉を切らせて骨を断つ、精一杯の強がりでにやつく。  「俺、うそつきだから……口先だけじゃ信じてくんねえって思って、それで……いちかばちか、体を張ったんす」   誠一の手に手を重ね自分の頬を抱かせる。  「………早く帰ってきてくれてよかった。……俺がいねえと、みはなちゃんひとりぼっちだから……」  こんなになってまでまだみはなを気にするのか。  約束を守り抜こうとするのか。  「……馬鹿だ、お前は。止めてもわからないのに。電池がだいぶ減ってる、放っておいても勝手に止まるだろう」  「………っ……、やだ、抜いてください、もギブ……限界っす、腹苦しい……前も後ろもぐちゃぐちゃのどろどろで……」  もし誠一が帰ってこなかったら?  それでもずっと抜かないで待ってたのか、約束に忠実に待っていたのか、一日でも二日でもローターがもたらす悩ましい疼きを耐え忍んでいたのか。   とっくに止めて抜いてるものとばかり思っていた。それを口実に罰するつもりだったのに  「………じっとしてろ」  生唾を飲む。   浅く湿った息を吐く悦巳の腰を抱え上げ、窮屈げに突っ張った下着をずりおろせば蒸れた匂いが漂う。  「!ちょ、やめ、みはなちゃんがいんのにっ」  「みはなはリビングだ。ドアが閉まってるから聞こえない、安心して喘げ」  「あえっ……げるわけないっしょ、こんなアホな体勢で!?―っひ、あ、ふあっ」  がくんと腰がへたれる。  抗う悦巳を後ろから抱きしめ密着、ローターは入れたまま手を潜らせ下着をずらす。  「ひっ、や、せい、さ、止めて……―ッ、イく、イきそ……」  「イかせてやる」  上着の裾がせりあがって貧相な腹筋と薄い胸板が露出、鼻を鳴らしてむずがる悦巳の耳朶を舌先で舐めて気を散らす、体内で巻き起こるローターの唸りが薄い腸壁を隔て前をも震わせる、ローターと指との二重責めにたまりかね哀願する。  「せいっ、さ、やめ」  びくびくとペニスが痙攣し誠一の手の中に白濁を搾り出す。  「――――ッ!!」  あっというまだった。  乱暴にコードを引けばひくつく肛門からずるりと異物が滑り出る。  腸液に濡れ光るプラスチックの卵が低く唸りつつシーツで跳ねる。  「はっ………は……………」  ローターのスイッチを切る。  ようやく電動の責めから解放されたというのに顔色は冴えず、不安げにさまよう目に怯えがちらつく。  「っく、」  無意識に這って逃げようとする体を足を掴んで引き戻し、腰を高く上げさせる。  「誠一さん……―っ、俺………」  きつく目をつぶり、来たるべき衝撃と激痛にそなえ身構える。  ローターに苛まれ続けた体は全身の肌を性感帯に造り替えられたかのように過敏になり、誠一の手が裸の背を這うつど悪寒と紙一重の快感がぞくぞく駆け抜ける。  体がだるい。瞼を持ち上げるのも億劫だ。本格的に風邪をひいてしまったのだろう。  「一人でヌかなかったのは褒めてやる」  労いつつ、くしゃくしゃに乱れた悦巳の頭を押さえつけもう片方の手でズボンを引き上げる。  自らを待ち受ける運命を諦観し、すっかり降参していた悦巳は困惑する。  片目を開け、身をよじり、複雑な面持ちで黙りこむ誠一へと問う。  「ヤらないんすか……?」  ベッドで身もがく悦巳をそのままに荒々しく部屋を出て行く。寝室のドアが閉まり足音が遠ざかっていく。  「…………んだよ、あれ……」  肝心の誠一がいなくなり拍子抜けする。  見捨てられたのか。そうなのか。ぐらぐら煮立つ頭で考えを追う。  風邪っぴきとは口も利きたくない、一緒にいたくないか。  「……男だし……脱がしても面白くねえし……やっぱ、がっかりしたのかな……」  結局なにひとつ要求にこたえられない、与えられた課題をこなせない。  家事炊事料理全滅、瑞原悦巳はなにをやらせても駄目で役立たずな家政夫だ。昼間はリビングでゴロ寝して掃除機がけも平気でサボる、みはなやアンディや誠一に迷惑をかけてばかり、めそめそ泣いてばかりの自分が家政夫を名乗るなどおこがましい。  なにをやらせても中途半端でダメなヤツ。  「………大志…………」  懐かしい友達の顔を思い浮かべる。  「ばあちゃん」  懐かしい声を思い浮かべる。  どうしたらいいんだ?  どうしたらここにおいてもらえる?  もっと料理が上手くなれば掃除をさぼらずちゃんとすればもっと美味い紅茶を淹れられるようになれば頑固で俺様な誠一さんだってきっと認めてくれる、本当の意味で居場所ができる、家族の一員にはなれなくてもせめてその端っこに腰掛けてさせてもらえる位には……  「………なんで上手くいかねーんだよぅ……」  どうしたら優しくしてくれる?  どうしたら好きになってもらえる?  みはなとの仲を取り結ぶというのは嘘じゃないけど建前で本当は自分の努力の成果を認めて欲しかったなんて、恥ずかしくて情けなくて、みはなへの裏切りに思えて口にできない。  鼻を啜って弱音を零す悦巳のもとへ、やがて不機嫌げな靴音が戻ってくる。  再びドアが開け放たれ、反射的に跳ね起きた悦巳のもとへと誠一が歩いてくる。  「俺たちに風邪を伝染すな」  たち、と。  確かに複数形で。  そこにはみはなも含まれていた。    寝室に引き返した誠一はベッドに近付くや、手に持ったタオルをべちゃりと悦巳の顔面に投げ落とす。  「ぶ!?なっ、いきなり」  「夕食は出前をとる。部屋からでるな」  毛布の端を掴んで呆然とする悦巳へと再び接近し、いかにもぎこちなく不器用な手つきでタオルを小さく折り畳む。  ひょっとして。  そんなまさか。  『あの』誠一に限って。  「………ひょっとして……熱冷ましに?」  看病の経験などないのだろう、絞りが足りないびしょぬれのタオルで悦巳の顔上半分を覆う。  「……明日は大事な会議がある。ミイラとりがミイラになるのは本末転倒だ」  「……今夜はお預けっすか?」  「期待してたのか」  ぶんぶんちぎれんばかりに首を振る。熱のせいばかりじゃなく顔が赤くなる。  誠一は微妙な顔だ。  自分の行動の理解に苦しむような、自分の命令を遵守しスイッチ入れっぱなしでローターに耐え続けた悦巳の馬鹿さ加減にほとほと呆れきったような、そんな顔。  華はかつて火傷した誠一をおぶって病院に走ったという。   「俺は祖母とは違う。熱を出しても病院にはやらん、面倒は見んから自力で治せ」  口とは裏腹にずれたタオルを直す手は意外に優しく、悦巳は今初めて、児玉誠一が児玉華の教えを受けた孫だと理解する。  「でも家事は……」  「風邪の菌をふりまくな。そんなもの一日二日ほうっておいても支障はない」  「……肩代わりするって発想はないんスね。誠一さんらしいや」  「いざとなれば部下にやらせる」  「アンディがピンクのエプロン着て皿洗いしたり目玉焼きひっくり返すんすか?ははっ……いや、意外と似合うかも」  フライパンと格闘するアンディを想像し吹きだす悦巳を一瞥、硬質な靴音を伴い歩き去る。  その背に声をかけてしまったのは、きっと出来心だ。  「誠一さん」  冷血漢の思いがけぬ優しさにふれて。  思いがけぬ一面を知って。  風邪をひいて脆くなっていた心からぼろぼろと虚勢が剥げ落ちて、無理矢理に笑おうとした顔がくしゃり、滑稽に歪む。  「俺……」      詐欺師こそ天職だと元上司に言われた。  他の何かがあると信じたればこそ逃げ出した。  「ここにいてもいいんですか」  役に立たなくても。  色気もなにもない貧相な体で、抱く楽しみなんてかけらもなくても。  「もっとがんばるから、料理も掃除も死ぬ気でやるから」  復讐でもいい、そばにおいてほしい  「みはなちゃんのこと可愛いくて……懐いてくれて……だけどそれだけじゃなくて、誠一さんとも仲良くなりてえし、もっとよく知りてえし……俺、まだ紅茶の淹れ方もちゃんと教えてもらってねえのに追い出したりしませんよね?前に言いましたよね、約束したの覚えてますか、ばあちゃんに負けない美味い紅茶淹れてぎゃふんと言わせてやるってのが俺の目標で……それまで出てくもんかってがむしゃらにやってきた、だけどこれからは前よりもっとがんばる。俺、おれ、口先だけじゃないって証明しなきゃならないんです」   「だれにだ」  「誠一さんに。ばあちゃんに。今まで騙してきたすべての人に」  深呼吸をひとつ、固い決意と信念を映した目でまっすぐ誠一を見詰める。  「俺自身に」  口から出た嘘を本当にする為に、悦巳はここから逃げ出すわけにいかない。  嘘から出たまことが存在するのなら、詐欺師が真人間に生まれ変わる奇跡も起こり得るとひたむきに信じて。  俺の嘘はきっとだれかを、俺を、幸福にできる。  始まりは嘘でも本当にしようと頑張り続ければいつかきっと報われると、ひとを不幸せにするばかりじゃない、本当の本気で現実にしようとひたむきに努力を続けた嘘にはそれだけで価値があると信じたい。  毛布の端を握り締め、一途に切実に思い詰めて訴える。  「だから………ここにおいてください」  「心がけ次第だ」  それを聞いて安心したのか、毛布を握る手からふっと力が抜けて倒れこむ。  顔の上半分をタオルに隠し、なかば睡魔に連れ去られまどろみながら呟く。  「……タオル、ありがとっす。ひゃっこくて気持ちい―……」    気の抜けた呟きを最後にドアを閉じ、寝室を出る。  「……なにをやってるんだ、俺は」   後ろ手にノブを掴んで立ち尽くす。  悦巳に同情したわけじゃない。じゃあどうしてわざわざあんな役立たずの風邪ひきのためにタオルをぬらしてきてやった?  『おかえりなさい』  悦巳がやってきてから、毎日欠かさずその言葉を聞いていたことに思い当たる。  玄関のドアを開け放つと同時に飛んでくる「おかえりなさい」、仕事で遅くなると電話で告げれば「気をつけて」。毎日必ずそのどちらかを貰っていた。  悦巳が倒れた今日は唯一の例外で、ドアを開けると同時に聞こえてくるはずのおかえりなさいがいつまでたっても響かなくて、しかし悦巳は酷い体調で寝込んでるにもかかわらず、熱と悪寒で混濁した意識がほんの少し覚醒し誠一の存在に気付くやいなや習慣的に「おかえりなさい」を口にしたのだ。  認めたくない。  この俺が「おかえりなさい」の一言でほだされてしまうなんて。  妻がいた時さえかけられたことのない台詞を毎日浴びせられるうちに、詐欺の加害者であり祖母の仇である瑞原悦巳に対し、憎悪以外のなんらかの感情が自然発生的にすりこまれていたなんて  「………くそ」  いじめないと約束したんだから仕方ない。  今晩は特別に許してやる。    苦りきった舌打ちはリビングでアニメ視聴中のみはなにも毛布にくるまってうとうとする悦巳にも聞こえず、こうなったら意地でもただいまだけは言ってやるものかと我慢比べの長期戦に挑む社長であった。 

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