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第21話
悦巳は夢を見ていた。
もう一度会いたい人や二度と会いたくない人、まだ見ぬ人の幻が入れ代わり立ち代わり枕元に立つ。
施設時代から一緒に修羅場をくぐった腐れ縁の悪友、ヒステリックなキンキン声で怒鳴りまくる伯母、悦巳を実の孫のように信頼しきって悩みや相談を打ち明けた老人たち……
高熱で朦朧とした意識の中を複数の面影が錯綜し、黒い靄のような罪悪感が膨れ上がって胸を塞ぐ。
呼吸は自然と浅く速くなる。
体温計を枕元に転がしたまま、タオルを取り替えるのも不精し途切れ途切れまどろむうちに時間の感覚が狂って今がいつかも判別つかなくなる。
寝込みながらしつこくつきまとう悪夢にうなされる。
罪悪感から来る悪夢は身も心も衰弱しきった悦巳を容赦なく苛み、まなうらに幻覚を炙りだす。
もう一度会いたい人やもう二度と会えない人、優しくしてくれた人してくれなかった人、懐かしい人たちの姿が時系列の脈絡なく錯綜し混迷の度合いを深めていく。
反りが合わない伯母。施設に置き去りにされた甥の面会に来た回数は片手で事足りるほど、顔の見えない電話では毎日いやというほど理不尽になじられ罵倒され人格を否定された。
両親が残した借金と高校までの学費は渋々払ってくれたが、その事でねちねちイヤミを言われ負い目を抱き、はては電話のベルが鳴り響くたび萎縮してしまうほど忌避感をすりこまれた。叔母が電話をかけてくるのは説教に見せかけた憂さ晴らしが目的だった。いつ耐えるともない罵声と愚痴を浴びながら幼い悦巳はうなだれ早く伯母の気が済んでくれますように、楽しみにしてるドラマが始まって電話を切ってくれますようにと切実に祈った。自分からは決して受話器を置けない。そんなことをしたら後が怖い。怒りを買えば一時間が二時間に延長されるのもざらだ。
伯母の家計が苦しかったのは事実だ。
そんなに苦しいなら電話代も節約すればいいのに毎日一回決まった時間帯に律儀に電話をかけてきては悦巳を呼び出し、悦巳がいかにお荷物で厄介者か、親戚にまで迷惑をかける薄情者か懇々と語った。
悪い人じゃなかったと思う。他人に優しくする心の余裕がなかったのだ。
扶養の立場を意識させずにおかない環境は人を卑屈にさせる。
ほんの数回対面した伯母は、所帯じみてやつれきったありふれた中年女だった。
悦巳にとっては近くて遠い存在。
高校まで学費をだしてくれたのだから感謝しなければ罰が当たると頭では分かっていても、電話が鳴るたびパニックの発作に見舞われた記憶があまりに生々しく、どうしても親愛の情を抱けない。
大志と一緒に施設を出てから伯母には一度も連絡をとってない。いまさらあわせる顔もない。伯母もきっと会いたくないだろう、最後まで迷惑かけどおしだった甥のことなど一日も早く忘れたいだろう。
結果的に無断で中退したことについては申し訳なく思う。
『まったくだめな子ねあんたは、誰に似たのかしら』
『本当ならあんたの面倒見る義理なんかないのに……うちだって苦しいのよ、わかってんの?どうして一緒に連れてってくんなかったのかしら』
ごめんなさい、おばさん。俺もっとしっかりするから。一生懸命勉強して偉くなるからおっかない声で怒鳴んないで、耳がばかになる。受話器を通したって耳に響くんだ、あんたの声は頭に響くんだ、頭痛がするんだ。どうすれば褒めてくれる、認めてくれる?どうすれば受話器をとるとき手が震えずにすむ、どうすれば声の震えをごまかせる、へっちゃらなふりできる?
誰か教えてくれよ、強くなる方法を。
物心ついてからというものずっと愚痴を吐き捨て掃き捨てるためのゴミ箱だった。
顔の見えない甥に当たり散らすことによって無関心な夫と反抗期の子供と意地悪な舅の板ばさみの生活の憂さを晴らしていると小学校低学年の頃には既に理解していたが、それを口に出して指摘するほど悦巳は愚かではなく、また伯母に対しては恐れを兼ねた遠慮もあった。
ごめんなさい、おばさん、はいしっかりします、勉強します。
悪夢にうなされつつ、むかしむかしの口癖を上の空でくりかえす。
電話口で何十回と復唱させられた反省文、謝罪の言葉、約束。
ただ上っ面をなぞるだけ、心なんかちっともこもってやしない口先の詐欺。
悦巳は嘘をつく。
伯母に気に入られたくて馬鹿な頭で必死に考えた、相手が次どうでるか行動を予測し意に沿う言葉を選んで口に出した、いつしか嘘をつくことになんら抵抗を感じなくなっていた。
自分を守る為に吐く嘘は正しいと、許されるだろうと、欺瞞と偏見に拠って肯定する甘えが生じていた。
本当に?
立ち止まって考えてみる。
来し方を振り返ってみる。
そこになにがある?
足元を見下ろす。
福沢諭吉がいた。
一枚ずつ万札を拾いつつ、来た道をたどってみる。
金の出所は明白、悦巳が今まで詐欺を働いた老人たちの懐、虎の子の年金貯金。
悦巳が歩いてきた道のずっと彼方まで、はしてしなく一万円札が落ちている。
悦巳が騙した人間の数だけ
『オレオレさんは本当に優しいいい子ねえ』
まるで呪詛のように響く称賛。
会った事もねえのにどうして優しいいい子だってわかるんだ、上っ面しか知らないくせに勝手に決めつけるな。ばあちゃんもあの人と、おばさんと一緒だ。俺のこと何も知らないくせに、俺に直接会いもしないで、なんもかんもわかった口をきく。週一の面会日他の子供たちには両親や親戚が会いに来るのに俺だけほっとかれて肩身の狭い思いをした、おなじ境遇の大志だけが拠り所だった、傷を舐めあうような関係でも寄りかかれる相手がいるのは本当に心強かった。
置き去りにしたきり会いにもこない家族より近くの友達のがよっぽど信頼できる。
どこで間違ったんだろう。
「…………ふ…………」
蜜の甘さと毒の苦さを孕んでじわじわ効く褒め殺し。
やりとりのつど自責の念をかきたてるのは他の年寄りの場合も同様だが、聡明な華が相手だとなおいっそう苦しくて、現行形の詐欺行為に罪悪感を抱くと同時に正体を見透かされそうな不安がついてまわった。
毛細血管の赤を鮮やかに透かして暈す瞼の裏に浮かぶまだ見ぬ華の面影、もう永遠に会うことはない故人の想像図。
悦巳は華の顔を知らない。華だけでなく、これまで騙して来た年寄りと誰一人として直接面識がない。
だけど声ははっきりと覚えている、忘れたくても忘れられない、今もまだ耳に響き続けて……
遠慮がちなノックに余力を絞って薄目を開ける。
ドアが小さく開き、隙間からひょっこりと幼女の顔が覗く。
「……そっか、もうこんな時間……おかえりなさいっす、みはなさん……幼稚園終わったんすか?うち帰ってたのぜんぜん気付かなかった……」
玄関のドアが開いたのにも気付かなかったなんて重症だ。
熱で意識が混濁してる。帰宅の気配に気付かなくても無理はないだろう。
体を起こそうとして失敗し、ベッドボードに背中を凭せて弱弱しく笑う悦巳に表情を険しくし、さらにドアを開けて一歩踏み入れようとしたところをすかさず制す。
「風邪が伝染るから入っちゃだめっす」
にべもない注意につまさきをひっこめ、不満げに口を尖らせる。
「……ちょっとだけです」
「ちょっとでもだめっす」
「みずはらさんこんこんしてません、こんこんしてないなら伝染りませんよ」
切り株で隠れんぼする仔兎のようにおかっぱ頭がひょこつく。心を鬼にして追い払う。
「だーめっす。瑞原は病気なんす、近寄ったら危ないっす、だいじょうぶ、ほっときゃ治るから心配しないで……」
とたとたと軽い足音たてみはながやってくる。
「お熱さがりませんか?」
「さがりませんねえ……」
夢うつつに生返事を返す。
きゅっと口元を引き結び、とたとた走り出て行く背中を見送る。
再び息を切らし戻ってきた手にはおやつのプリンと匙が握られていた。
ビニールぶたを剥がし表面を一匙すくい、寝たきりの口元へと近づける。
「あーんしてください」
「それみはなさんのおやつじゃねっすか」
「みはなはいいですから、あーんしてください」
食事もろくに喉を通らない悦巳をせっついて、少しでも栄養を摂らせようと自分の大好物でもあるおやつのプリンを与える。
根負けし口を開くやすかさず匙を突っ込まれる。
みはなはわずかに爪先立ち、甲斐甲斐しく匙を運ぶ。
嚥下するのを確かめてから新たな一口をすくい、雛鳥に餌を与えるように匙でもって口へと移す。
「ありがとうっす……うめえー。風邪の日に食うプリンは優しさでできてるっすー……」
「なにか欲しいものありますか?」
「大丈夫、大丈夫……幼稚園はどうでした?送り迎えアンディに頼んだんだけど」
「みんな怖がってました」
それはそうだろう。
悦巳が動けないあいだは緊急の措置としてアンディを代役に立て派遣したが、黒づくめに強面サングラスの不審人物が幼稚園に紛れ込めばいやがおうにも目立つ。最悪みはなに付き添っていつもの帰り道を歩いてるだけで誘拐犯と間違われ通報される可能性も否定しがたい。
人を見た目で判断するお母さん方や園児らにさぞかし敬遠されただろうアンディが想像できて吹き出してしまう。
「お薬飲みましたか?」
「ちゃんと飲んだっす。心配しないで、寝てれば治るから」
治る治ると気軽にくりかえす悦巳を疑わしげに見つめ、まるっきり子ども扱いの手つきで毛布をたくしあげ寝かしつける。
「お唄うたいますか」
「子守唄っすか?」
さすがに辞退する。
「ほんと構わなくていいから、みはなさんの気持ちは嬉しいけど瑞原いい大人だし赤ちゃん扱いされんの恥ずかしいっす!」
あらかたからっぽになったプラスチック容器と匙をことんとテーブルに置き、こわばった顔つきで尋ねる。
「……お熱がでたのあの人のせいですか?」
あの人と呼ぶ相手は思い当たる限り一人しかいない。
他人行儀な呼び方をし、つむじが見えるほどに俯く。
みはなは聡い子だ。
ましてや誠一は脱衣所で二度までも悦巳を殴り飛ばした前科がある。
皮肉にも、いや自業自得というべきか、みはなの中における誠一はすっかり悪者としての地位を確立している。もっといえばいじめっ子として認識されている。
悦巳が寝込んだ原因もまた父親の横暴にあるのではないかと知恵を回す賢さに舌を巻く。
実際悦巳が寝込んだ原因の大半は誠一が負っている。
みはなの推理はあながち的外れでもないどころか真実に近いところをついている。
みはなはじっと悦巳を見つめている。
父親と悦巳の関係について子供心に思うところがあるのだろう、辛抱強く答えを待つ。
八の字に閉じた眉と癇の強そうな眉間の皺、梅干のようにきゅっと窄んだ唇から、もしそうなら絶対に許さない、直談判に行くという固い決意が窺い知れる。
心の底から悦巳の体調を案じ気遣ってくれてるのが、わかる。
誠一の理不尽に腹を立てていることも。
「みはなさん……」
むっつり黙りこむみはなをおいでおいでと招き寄せ、こつんと額をぶつける。
「誠一さんはおっかねえけど、悪い人じゃないっすよ」
「………うそ」
「嘘つかねっす」
「だってあの人は……」
「あの人じゃなくてお父さんっしょ」
「………」
「呼んでごらん、お父さんて」
「あの人なんかあの人で十分です」
いくら悦巳の頼みでもそればかりは聞けないとふくれっつらで俯いてしまう、かたくなさに胸が痛む。
疎遠な親子仲を取り持ちたいという気持ちは健在だが、しかし誠一との関わりあって己の無力さを思い知るにつれなんとかできるかもしれないという自信が揺らぐ。
誠一はみはなを人質にしている。
悦巳がみはなに対し抱く愛着を利用し、あいつを傷つけたくなら言う事を聞けと脅し調教に手をつけた。
ローターを突っ込んで放置したのは手始めだ。居候を続ける限りもっと酷いことをされるだろうと予想はつく。
だがしかし真実は告げられない。
誠一の本性を暴いてふれまわったところで誰も得をしない、相談係として信頼を寄せるアンディとて厳密には味方ではない、もし上司に対し反抗的な態度を示せば即座に制圧にかかるはず。悦巳の友人である前に誠一の部下として任務に当たるアンディがどの程度上司の思惑を把握してるかは推し量れねど、下手にばらそうものなら契約に縛られた立場がますますもって不利になる。
なにより自分の失言が既にして冷え切った親子関係を決裂させる原因となるのは、いやだ。
みはなに暗い顔を見せてはなるまいと鬱々と沈みがちな気持ちをむりやり引き立てつつ誠一を庇う。
「……と・に・か・く。誠一さんは悪くねーから、俺が勝手に風邪ひいたんす。うっかり長湯して……湯冷めして……はは、だめだめっすねー。家政夫の自覚が足りねえって叱られちゃうっす。みはなさんやアンディにも迷惑かけて……面目ねっす」
ぺこりと頭を下げる。
「アンディは?」
目だけ上げて聞く。
噂をすれば影。
ドアが開き、大柄な男が入ってくる。黒いスーツの上にファンシーなピンクのエプロンを着用して入室した男は、右手の小皿にうさぎに見立て剥いたりんごを盛り、あっけにとられた悦巳に無表情に宣言。
「うさぎさんりんごだ。食え」
酸欠の金魚のように口をぱくつかせる悦巳の傍らに小皿をおくや、ごつごつしたりんごのひとつに爪楊枝を突き刺す。
皮剥き初挑戦なのだろう、じゃがいものように凹凸が目立つりんごをうさぎと言い張るのはちょっと、かなり苦しい。
剥いたというより削ったという表現のほうがしっくりくる痩せ細ったりんごをまじまじ凝視、驚く。
「アンディが剥いたんすか?」
「……ああ」
無愛想に呟いてそっぽを向き、ぼそりと付け加える。
「……みはなさまがどうしてもと聞かなくて慌てて包丁を奪い取った」
事の次第を理解した。
台所に踏み台代わりの椅子を持ち込み、つたなく危なっかしい手つきでりんごを剥こうとしていたみはなから包丁を取り上げたのだ。
「簡単そうに見えてむずかしいものだ。家事も馬鹿にできん」
アンディの指は絆創膏だらけだった。
その手からりんごを受け取り、しゃりっと小気味よく歯を立てる。
瑞々しい食感と果汁が口の中で弾け、咀嚼するごとしゃりしゃりといい音が鳴る。
「美味いっす!最高っす!人情の味がするっす!」
しゃくしゃくしゃくしゃく食欲に弾みがつき、歯を立てるつど濃縮された果汁が滲み出して喉の喉きを潤していく。
水分が汗となって蒸発しきった体に豊潤な汁気が染み渡る。
病気のせいかいつにもまして涙もろくなっている。
忙しない瞬きで潤む目をごまかし、今まで食べた中で文句なく一番美味しいと断言できるりんごをがっつく悦巳の傍らにしばらく立ち尽くし、絆創膏をべたべた貼った己が手を見つめひとりごちる。
「……料理ひとつ作るのも大変な作業なのだな。知らなかった」
悦巳が差し入れた手料理とそこにかかった手間ひまに思い馳せているのだろう、反省こめた独白だった。
らしくもなくしみじみ呟くアンディの様子にばつの悪さを覚え、しんみりした空気を払拭せんとりんごを次々頬張って笑う。
「いやマジで美味いっすこのりんご、見た目はこわもてじゃがいもだけど食感はしゃくしゃくで瑞々しく果汁がじゅわっと広がって絶妙っす、アンディそっくりっす!なんつーかあれだ、そう、真心の味がするっす!見た目は不細工で今いちだけど全然イケるっていうか噛めば噛むほど味がでる……」
「俺がこわもてでじゃがいもで不細工だと?」
「ぐふっ!」
塊が喉に詰まり、窒息の苦しみに白目を剥く。
「たいへんです、みずはらさんが死んじゃいます!」
激しくえづく悦巳にみはなが動揺し、手足をばたつかせベッドのまわりを走り回る。小さな手で一生懸命背中をさすり、それでもきかないと悟るや平手でばしばし一切の加減容赦なく背中を叩いて気管を塞ぐ塊を吐き出させようとする。
「ぺっしてください、はやく!」
「どいてくださいみはな様、私めにお任せを」
みはなと位置を交代するや、肩を掴んでうつ伏せにした悦巳の首の後ろに鋭く手刀を叩き込む。
「!?がほっ、げほごほけほっ」
手刀の一撃によって塊がとれ、大きく息を吸い込んで咳き込む悦巳にみはなが頬を緩めて安堵。
「よかったです……もう少しで死んじゃうところでした」
「別の意味で死に損なったって!つうかさアンディ怒ってるっしょ?」
「怒ってない」
「ホントにー?」
「くどい。怒っとらん」
断固として否定するアンディに苦笑し、意地汚く指先を舐めつつ言う。
「ひとつアドバイスっす。りんごは剥いたあと塩水につけとくとより甘みがひきたつっすよ」
「……そうなのか?」
「俺もさやかちゃんのママから教えてもらったから偉そうに言えねーけど……すいかに塩とおなじ論理じゃねえかな?今度ぜひ試してくださいっす」
「なるほど、そうするとより身が引き締まるのか。主婦の知恵だな」
アンディが興味深そうに相槌を打つ。
サングラスと黒スーツでかっこつけているが実はとてつもない世間知らずなのだ、この男は。
アドバイスを真に受け感心する様子が微笑ましく、にやつく悦巳に空咳ひとつ話題を変える。
「みんなお前を心配していた」
「みんな?」
「……幼稚園で会った保護者や園児だ。送り迎えがお前じゃないのはどうしてと聞かれ、簡単に事情を説明した。発熱で寝込んでいると聞いて何人か見舞いに来たいと申し出たが丁重に断っておいた」
「そっか……さんきゅっす」
心配してくれるのは有り難いが風邪が伝染っては困る。見舞いに来たいと言ってくれた気持ちだけで十分だ。
「人気者だな」
「はは……俺みたいなヤツいねえから珍しがられてるだけっす。まわり若いママさんばっかだし……」
「子供にも慕われている。お前がいなくて寂しがっていた」
「お迎え待ってる子とよく一緒に遊んでたから……戦隊ごっことか……」
「康太という子供から伝言だ。早く出てこいと」
そう言ってスーツのポケットから何かを取りだす。
アンディがとりだしたのは子供たちの間で流行っているトレーディングカード。
ディフォルメされたモンスターが印刷されたカードは、康太が以前宝物だと自慢していたものだ。
「康太くんが?」
「あげるんじゃない、治るまで貸すだけだ。元気になったら返すようにと」
「……………」
「返事は?」
「はい!」
肝に銘じ、背筋に活を入れなおして返事をする。
サングラスが似合う鉄面皮がふっとゆるみ、苦笑と親愛を織り交ぜた表情が閃く。
「……大事にするっす。明日、遅くてもあさってには返すから」
康太から貰ったお守りを大事にしまう。
喧嘩の仲裁に入ってからというもの康太は年の離れた悦巳を一方的にライバル視している。
みはなとの仲良しぶりにやきもきし、悦巳の脛を蹴とばし即座に逃げるヒットアンドアウェイ戦法でしばしばちょっかいをかけてくるが、周囲に人がいないのを見計らって「あいつの誕生日いつ」「血液型は」「好きな食べ物は」とちゃっかり情報収集を試みるあたり侮りがたい。園児といえど男である。
カードをしまった服の胸元に手をおき、笑いながら呟く。
「……早く元気になってうちの娘に手えだすなってとっちめてやんねえと」
冗談に聞こえない。
「先生は何か言ってました?」
「お大事にだそうだ。ついでにお前のせいでスーパーカウというあだ名が定着して大変迷惑してると苦情を申された」
「すいませんほんの出来心なんす」
「スーパーカウってなんですか?」
「牛さんのことです」
「先生は牛さんですか??」
「体の一部が乳牛なみというか……みはなちゃんの様子はいつもどおりでした?幼稚園で変わったことありませんでした?」
「今日は授業でお遊戯をし新しい歌を習った。アルプスいちまんじゃくを覚えた。休み時間は友達とままごと遊びをしていた。捨て猫から家猫に昇格したそうだ」
「ほんとっすか?」
みはなの方を向いて聞く。みはなは残念そうに呟く。
「……おうちがダンボールじゃなくなりました。前の方がよかったです」
「お前が治るまで送り迎えは俺が務める、家事は部下と分担する。余計なことは気にせずゆっくり休め。……欲しいものはあるか?」
「もーじゅうぶんっす。あ、ひとつ気になってるんすけど……」
「なんだ」
「このベッドずっと使ってていいのかなって……」
ベッドの横を叩き、不安げにアンディを見上げる。
「誠一さんのベッドっしょ?俺がふさいでちゃまずいんじゃないかな」
「社長はしばらく会社に泊まりこむ。みはな様は……」
「お隣で寝ます」
アンディが腰を落とし、同じ目線で説き伏せる。
「瑞原は病気です。伝染るといけないからしばらくソファーで我慢なさってください」
「一緒にいたいです。ベッドは別々だし大丈夫です」
「うぬ……」
勲章の如く絆創膏が輝くアンディの手と悦巳がたいらげた小皿とを見比べ対抗心が芽生えたか、本棚から一冊の絵本をとってきて悦巳が横たわるベッドにちょこんと腰掛ける。
「子守唄がだめならご本を読んであげます」
どうやらつきっきりで看病にあたるつもりのようだ。アンディは困りきって悦巳を見るも、悦巳はその時すでにダウンしベッドボードからずりおちていた。みはなやアンディとの短いやりとりでさえ消耗したのだろう、少しばかり呼吸が荒い。
「みはな様」
「ついてます」
守るようにして懐に絵本を抱えこみ、悦巳がかいた汗を優しく拭う。
「……みはながいないあいだにいなくなっちゃったらいやです」
まるで前にそうされたことがあるように。
どっかに消えてしまう事を恐れているように。
悦巳は熱が高く自力で出歩ける状態じゃないというのに、置き去りを恐れる子供特有の頑固さでそう思い込み、絵本を抱いてぴたりとくっつく。
枕元にきちんと正座し、本の表紙を開き、舌足らずな口ぶりで読み聞かせを始める幼女の姿をアンディは痛みを堪えるように見詰めていたが、説得を断念するや足音もたてぬ静けさで立ち去っていく。
悦巳に一途に懐く姿は年の離れた兄妹というよりも母親の身代わりを求めるいじらしさで。
後ろ手にドアを閉ざしたアンディの耳元へと、たどたどしい朗読が流れてくる。
「たくさんの家がたてこんで、おおぜい人がすんでいる大きな町では、たれでも、庭にするだけの、あき地をもつわけにはいきませんでした。ですから、たいてい、植木ばちの花をみて、まんぞくしなければなりませんでした。そういう町に、ふたりのまずしいこどもがすんでいて、植木ばちよりもいくらか大きな花ぞのをもっていました。そのふたりのこどもは、にいさんでも妹でもありませんでしたが、まるでほんとうのきょうだいのように仲よくしていました……」
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ゲルダとはアパートのてっぺんの屋根上の雨どいのちいさな花ぞのであそびました。
この夏はじつにみごとにばらの花がさきました。
女の子のゲルダは、ばらのことのうたわれているさんび歌をしっていました。
そしてばらの花というと、ゲルダはすぐじぶんの花ぞののばらのことをかんがえました。
そのさんび歌をカイにうたってきかせますと、カイもいっしょにうたいました。
「ばらのはな さきてはちりぬ
おさなごエス やがてあおがん」
ふたりのこどもは手をとりあってばらの花にほおずりして、神さまのみひかりのかがやくお日さまをながめて、おさなごエスがそこにおいでになるかのようにうたいかけました。
なんという楽しい夏の日だったでしょう。
いきいきといつまでもさくことをやめないようにみえるばらの花のにおいと葉のみどりにつつまれた、この屋根の上は、なんていいところでしたろう……。
屋根の上に小さい天国があるなんて素敵ねと言ったのはたしか他界した祖母だ。
幼い誠一にこれが私の一番のお気に入りよと言い聞かせ、何回も祖母が読み聞かせた話は「雪の女王」というタイトルだった。
むかしむかしあるところに仲良しの男の子と女の子がいた。
男の子はカイ、女の子はゲルダ。ふたりは隣同士の家に住む幼馴染で大の仲良し。
カイは元気な男の子、ゲルダは花を愛する優しい性格。
ともに貧乏人の子供であり、園芸を楽しむ庭など持たないふたりは、隣り合った家と家との雨どいに木箱を並べ、そこに土を盛って花壇にし、さまざまな植物の種をまいて世話をした。
春になれば種が芽吹いて青々と薔薇の蔓がのびる。
カイとゲルダはお日様の恵みを寿ぎ唄い踊る。
笑い声の絶えない平和な日々は永遠に続くかに思われたが、ふとした手違いで悪魔の鏡の破片が目と心臓に刺さったことによってカイの性格は豹変。
朗らかで優しい幼馴染の変貌を事情を知らないゲルダは嘆き哀しむも、その後の雪の日、ソリ遊びをしていたところを雪の女王に見初められてカイは連れ去られてしまうのだった……。
どうして二十年近く経ってから子供だましの童話のすじを思い出したのかといえば、たまたまその本が枕元に開かれていたからだ。
「……くだらん」
ばらのはな さきてはちりぬ
おさなごえす やがてあおがん。
亡き祖母はキリスト教徒だった。若い頃に洗礼を受けたのだという。近所の教会にも日曜日ごと通っていた。祖母と同居していた頃、誠一もよく説教を聞きにいった。
手を組んで敬虔に祈りを捧げる祖母の胸には色あせたロザリオが光っていた。
マンションには着替えをしに寄っただけ、用を済ませてすぐ戻る予定だった。
仕事はまだ残っている。
くだらないことにとられている時間も過去の感傷にとらわれているひまもない。
替えのシャツを掛けておくクローゼットは寝室にある。
寝室を訪れたのは家政夫の容態を心配したからじゃない、必要に迫られてのこと。部下にとりに行かせてもよかったがよほどの緊急時を除いてプライベートに立ち入らせるのは避けたい、ここには人に見せたくないものや見られたくない物も色々あるのだ。
入ってすぐ異状が目につく。
悦巳に明け渡したベッドをなにげなく一瞥、寄り添うようにして安らかな寝息をたてている娘に気付く。
その手の先には開いた絵本が。どうやら読み聞かせの途中で眠ってしまったらしい。
寝ているところにあとから忍び込んだのか。風邪が伝染るから入るなと言っておいたのに破ったのか。
「……逆らうところは母親似か」
どうでもいい。
誠一は忙しい、こんなところで足をとられてるひまはない、時間を無駄にしたくない。
クローゼットの扉を開けて新しいシャツを手に取り、素早く袖を通していく。背後ではかすかに規則正しい寝息が聞こえる。ふたりともよく眠ってるようだ。
主人が入ってきたのも知らずすやすやと。
「………」
部屋のあるじは俺だぞと子供じみた反発がもたげる。
背広をひっかけたまま、シャツのボタンを嵌めるついでに歩み寄って、動物の親子のように互いに温めあって添い寝するふたりをのぞきこむ。
「おい」
出来心で呼びかけてみる。返事はない。みはなともかく、雇われ家政夫の分際で無視とは上等だ。主人が一声呼べば熟睡してても即飛び起きるべきなのに躾が足りない。
鼻を鳴らし、額に手を翳して熱を測る。
昨日よりはだいぶ下がったがまだ少し熱い。
利き手で器用にネクタイを結び、もう片方の手を額に当てて馬鹿面を観察すれば、気配を感じて悦巳がもぞつく。
「うぅん……」
動物みたいだ、本当に。犬か。
悦巳が眠りながら反応し、少しだけ愉快になる。
わざわざ毛布を掛けてやるほど親切じゃない。そこまでしてやる義理はなかろう。
くしゅんと小さなくしゃみに目を転じれば、悦巳の懐にしがみつき丸まったみはなが鼻をむずつかせている。
舌打ちひとつ、悦巳の上着を掴む手を注意深くひっぺがし抱き上げる。
お姫様だっこでいつも使っている隣のベッドへ運び、胸まで毛布をかけてやる。
悦巳はどうなろうと構わないが、みはなを放っておくわけにはいくまい。
建前だろうがなんだろうが戸籍上は父親なのだから。
自嘲的に皮肉めいた気持ちを抱き、娘がよく寝入っているのをたしかめてから悦巳のもとへと戻っていく。
暴君を地で行く傲慢な歩みを止めたのは、むにゃむにゃと呟かれた寝言。
「おかあさん……」
振り返る。
みはなが親指をしゃぶっている。悦巳と引き離され不安がり、失ったぬくもりの代わりを求めるように赤ん坊返りして指を吸い、日常ではけっして恋しがってるふりなど見せないが忘れた事はない人間を呼ぶ。
「…………」
悦巳のもとへ帰る。
みはなのもとへは行かない。
娘が呼び求めているのは母親なのだから、父親が引き返したところで意味がない。
ベッドの端に腰掛ける。誰も見ていない状況が油断を誘い、自然とため息が口をつく。
ネクタイの結び目にしつこくさわって苛立ちをごまかす誠一の耳に、ふたたび寝言がとびこんでくる。
「大志……」
今度は悦巳。
呼んだのは、施設の友人の名前。
「なんなんだお前らは。俺じゃ不満か?」
腰を浮かすと同時にネクタイをふりほどき、おもいっきり床に叩きつける。
「……俺じゃ不足だとでもいうのか?生意気に」
なんならここで犯してやってもいいんだぞ。
やり場のない憎しみに駆られ悦巳の寝顔を睨みつける。その顔があんまりにもしあわせそうで憎たらしく、鼻をぎゅっとつまんで息を止めてやる。急に呼吸ができなくなり、寝息が詰まって濁って顔が歪む。ふがふがもごもご、鼻を詰まらせもがく悦巳の顔が面白くて不覚にも笑ってしまう。
ぎゅうぎゅうと鼻を引っ張りサディスティックな悦に入って寝顔の変化を観察、もういっそ息の根とめてやろうかという誘惑に抗えず……
「ひゃみぇへくひゃはいせいいちはん……」
「!」
反射的に手を離す。
「……寝言か。脅かすな」
赤くなった鼻で息を吸い、吐き、再び安らかな眠りへともどる悦巳に拍子抜け。
どうやら悦巳の中では誠一イコールいじめっ子で定着してしまってるらしい。
意識があろうがなかろうが自分に悪戯する相手は誠一に違いないと思っているのだ。
悦巳で遊んで溜飲をさげ、ほんの気紛れからずれた毛布を直してやる。
枕元に開きっぱなしで放置された絵本を閉じ、自分の手でほどいたネクタイを拾い出て行こうとして、キャビネットの前で金縛りに遭う。
『おかあさん』
「…………」
キャビネットに歩み寄って一番上の引き出しを開ける。
中にはコルクの裏側を見せる写真たてが。
引き出しに伏せられた写真たてを手に取り、表返す。そこに写っていたのは赤ん坊を抱いた若い女、その隣に立つ男。女は華やかに笑っている。男は無愛想に正面を睨んでいる。女の腕に抱かれた赤ん坊が男のネクタイを引っ張って、端をくわえて涎まみれにしているからだ。
しあわせな家族の肖像を無慈悲に一瞥、女の笑顔にむかって吐き捨てる。
「失敗は一度でたくさんだ」
顔が苦渋に歪む。写真たてをもどし、荒っぽく引き出しを閉める。今だに捨てずにいるのは未練か、感傷か?否、こうやってときどき思い出して己を戒めるためだ。瞼の裏にちらつく顔を強く念じて追い払う。
『冷たい人ね』
『あなたの心臓には鏡の破片が刺さってるのよ』
『娘の誕生日も結婚記念日も仕事仕事、私の父が危篤の時も仕事仕事……そんなひとに笑っていってらっしゃいを言えると思う?』
雪の女王は妻が好んだ童話。
夫婦生活の晩年、激しい諍いを繰り返すごと冷酷な人間と罵られた。
雪の女王にでてくる悪魔の鏡の破片が心臓に突き刺さってるにちがいないと、だから妻にも娘にも情を抱けないのだ、欠陥品だといわれて逆上し、まだ三歳だったみはなが抱いて寝ていた絵本を奪い取って床に叩きつけたことがある。
以来、誠一自らあの本を開くことはけっしてなかった。
おかしい。どうかしてる。どうして今さらぐだぐだとこんなことを思い出す。あんな女もうどうだっていいじゃないか、とっくに吹っ切ったはずなのに……自分の女々しさに嫌気がさす。神経がささくれだつ。いっそみはなが寝ているあいだに捨ててしまうか、祖母や妻の面影ごと手の届かないところへ捨ててしまうか、あとで泣き騒ごうがどうでも……
「だめっすー……」
振り向く。
せっかくかけてやった毛布を早くもはだけ、ベッドの端から片腕片足をぶらさげた悦巳が寝ぼけ声で引き止める。
「りんごはあ、剥いたあと、塩水につけなきゃだめっす……すいかに塩っすー……」
「何の夢を見てるんだお前は。夢の中でも家事か」
「誠一さんに塩かけたら食中毒おこすっす、隠し味のタバスコで中和……」
「しょうがないヤツだ」
体の半分がたはみ出た悦巳の寝言のせいで怒りは持続せず萎縮し、もう一度毛布を掛けなおしにもどるのも馬鹿らしく、今度こそノブを掴んで出ようとして
「いってらっしゃい……」
おかえりなさいに引き続き、二度目の不意打ち。
ノブが回って蝶番が噛み合う音にノンレム睡眠レベルで反応したのか、誠一の背中にむかって呟く。
複雑な顔で振り向き、ベッド際から転げ落ちそうな寝相の悪さにあきれる。
「………主人を追い出すとはいい度胸だな。治り次第返してもらうぞ」
断じてほだされてるわけじゃない。
ベッドを明け渡したのだってそう、作戦の一環だ。売った親切をあとで回収し恩を着せる作戦の一環。
いってきますは断じて言わず、乱暴にドアを開け放つもそれきり捨て台詞が思いつかず、幼い頃華に読んでもらった童話の中でそこだけ特に印象に残った一節を念仏の如くくりかえす。
「ばらのはな さきてはちりぬ
おさなごエス やがてあおがん……」
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