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第33話
悦巳が帰ってこない。
追い出したんだから帰ってくるはずがない。
児玉家のリビングは無駄に広い。
帰宅の不規則な父親とまだ幼稚園の子供の二人暮らしでは持て余してしまう広さだ。
リビングの片隅、コの字型に配置されたソファーの一角に座り物思いに沈む。
本来なら会員制スポーツジムで汗を流してる頃だが、外出するのも億劫で気が乗らない。
みはなは寝室にいる。
週の前半は発熱と扁桃腺の腫れで苦しんでいたものの、医者の診断を受けさせ抗生物質を投与したら容態も安定し、半日だけ休みをとって小児科に付き添った誠一は安堵した。
みはなが快方に向かうのを確認したのち部下にあとを頼んで仕事復帰、遅れを取り返そうと努めた結果、貴重な丸一日の休みに何をする気もおきないほど燃え尽きてしまった。
みはなの安眠を妨害するのを恐れ、早朝のリビングに場所を移しここ一週間の出来事を整理する。
居候の気配が絶えたリビングは妙に静かでがらんとしている。
誠一が今座ってる場所はもともと悦巳が寝床にしていた場所だが、ぬくもりはすっかり失せ、隅には用済みになった毛布が畳んである。
散らかり放題の私物を処分したのも殺風景の一因か。
悦巳がネット通販で大量購入した漫画やDVDやゲームなどの娯楽グッズは、退職金を与え追放した以上取りに戻る可能性は限りなく低いだろうと判断しまとめて処分する方針を決め、即実行に移した。
不要品の烙印を押したダンボールを部下が運び出すのを監督していた誠一のもとへ、最後のダンボールを抱えたアンディがやってきて苦言を呈す。
『本当に捨ててしまってよろしいのですか』
『くどい。いらん』
『しかし社長』
『もう帰ってこないヤツの荷物を預かってやる義理はない。目障りだから捨ててこい』
ぐっと唇を引き結び、苦いものを飲み下すようにして一礼する。
『……かしこまりました』
そうしてリビングから瑞原悦巳の痕跡は一掃された。
誠一が与えたカードで悦巳が買った物は全て捨てられた。
「……馬鹿らしい」
がらにもない感傷に耽る己に失笑をもらす。
喪失感とは断じて認めないし認めたくない虚無感が胸に巣食って週末を楽しむ意欲を奪う。
悦巳は釣り餌だった。
本命をおびきよせるための擬似餌にすぎなかった。
家政夫として雇ったのはその方が監視に都合がいいからで家族ごっこをしたいからじゃない。
カウンターの向こうに視線を飛ばす。
片付いたキッチンに音痴な鼻歌の余韻が漂ってるようで。
おもむろに席を立ちキッチンへ向かう。
悦巳がいなくなってから仕事が立て込み家には仮眠をとりに帰るだけの毎日で、この一週間というもの冷蔵庫の扉を開けたことさえなかった。
久しぶりに冷蔵庫の扉を開け放つ。
中段にりんごが一個ぽつねんと転がっている。
なにげなく手にとったものの持て余してひねくりまわす。
悦巳の最後の願いを思い出す。
『誠一さんだってりんごくらい剥けるっしょ?』
「……馬鹿にするな」
実践したことはないが、見よう見まねで何とかなるだろうと高をくくる。
そばに立てかけられた包丁を抜き放ち、表面に刃を当てる。
「フェシングとおなじ要領だろう」
サーベルを扱う感覚を思い出して手首を返し握力を調整、果肉に深々突き刺さった包丁を右に左に動かす。
が、上手くいかない。
悦巳を見返したい一念で、手こずりながら刃を斜めに立て皮を切断する。
「……くそ……想像より厄介だな」
むりやりねじ込んだ刃が果肉にひっかかり、それを力づくで引く。
「!?っ、」
危ないと思ったときには遅く、手が滑って指を深々と切っていた。
刃の先端が指の腹に食い込み、傷口から大粒の血が溢れる。
りんごと包丁を放り出し指を止血、虚空に向かって怒鳴る。
「救急箱をもってこい、悦巳……」
無意識に口走った台詞にハッとする。
咄嗟に名前を呼ぶも返事はなく、キッチンはひっそり静まり返っている。
救急箱をひっさげ騒々しく走ってくる足音も聞こえない。
馬鹿か俺は。
何をしてるんだ。
救急箱をひっさげ大騒ぎするだろう悦巳の慌て顔を振り払い、ばつが悪い思いを味わいながら床に落ちた皮をつまんで拾い、生ゴミ専用のダストボックスに捨てる。
出血は止まらない。
だいぶ深く切ったらしい。
指を吸いつつ目を上げるや冷蔵庫の扉の真ん中に貼られた一枚の絵がとびこんでくる。
扉の真ん中にカラフルなマグネットでとめられた画用紙。
一度くしゃくしゃにされたのを丁寧に伸ばし直したのだろう痕跡が縦横斜めに走る皺に窺える。
血が滴る指を押さえて扉に貼られた絵を睨む。
笑顔が印象の全てのような絵。
画用紙いっぱいにクレヨンで描かれた男は大きな口をかっぴろげばかみたいに笑っている。
むずかしいことなど何ひとつ考えてないのがまるわかりの底ぬけに明るい笑顔が黒い感情を刺激する。
「……笑うな」
むらなく丁寧に塗られた肌色、ヘアバンドの似合うにこやかな顔。
灼熱が脳髄を焦がす。息を吸って吐くつど腹の底で不快感が渦を巻く。
憤然たる大股で歩み寄り、へたくそな絵と対峙する。
「馬鹿にしてるのか」
『誠一さん!』
耳の奥で声がする。無邪気に能天気に誠一を呼ぶ声が。
やり場のない衝動に駆り立てられ絵をひっぺがす。
マグネットが勢い良く弾け飛んで床で跳ね、激しい怒りに支配され絵を引き裂き破り捨てる。
縦に裂いてから横に裂きさらにちぎり、原型を留めなくなるまで破り、無数の紙片に変わり果てたそれをゴミ箱に捨てる。
かつてみはなが悦巳にプレゼントし、一人前の家政夫になるまで目標として貼り続けると宣言した似顔絵を。
無意味かつ不条理な行動だと自覚する。
しかしこうせずにはいられなかった、あの絵を目撃するや狂おしい衝動が膨れ上がって勝手に体が動いた、何もできない誠一を嘲笑っているようで被害妄想の虜と化してプライドが傷ついて、りんごの皮ひとつ剥けないくせにいばるなと蔑まれた気がして、いや、違う、それ以上に
こんなものがあるから思い出してしまう。
名前なんか呼んでしまう。
もういないやつをいるように錯覚し醜態をさらしてしまう。
どこへ行こうが知るか。好きにしろ。
所詮赤の他人だ。児玉華という故人を介した薄い縁でしか繋がれない関係だったのだ。
いなくなったところで不自由はない、みはなの世話は部下が見る、それがむずかしくなったら新しい家政婦か家政夫を雇えばいい、悦巳の存在価値は所詮その程度のものだった、他のだれかと代替がきく程度のものでしかなかった、出会いも契約も計算づくだ、遅かれ早かれ理由をこじつけ追い出す予定だった、ハプニングが起きて時期が速まっただけで計画通り進んでいる。
もっと有能で気の利く家政婦ならいくらでもいる、余計な口出し手出しをして誠一を煩わせるようなまねはしない分を弁えた家政婦、子供の扱いに慣れた家政婦だって……
『肉じゃがのお味はどっすか?』
『あまじょっぱいです、おいしいです』
『よかった~誠一さんは?』
リビングはだだっ広い。
テーブルはやけにすっきりしている。
最後に食卓についたのはいつだ?一週間前の朝?自然と目は悦巳の席に行ってしまう、一週間前まで悦巳が座っていたもう誰も座ることはないだろう椅子を凝視してしまう。
ティッシュで傷口を押さえ血がとまるのを待つ。静寂が身に染みる。
ドアを隔て遠慮がちな足音が耳につく。
緩慢な動作で顔を上げる。小さくドアが開き、パジャマ姿のみはなが顔を出す。
土曜日は幼稚園がない事を今さらながら思い出す。
「……起きたらパジャマを着替えなさい」
さらさらストレートのおかっぱが寝癖でぼさぼさだ。いつもいない父親の姿を見つけ意外そうな顔をする。
音をたてぬよう静かにドアを閉じ、はだしでぺたぺた歩いてリビングにやってくる。
まだ寝ぼけているのだろうか、眠たげな顔をしている。
誠一のところまで歩いてきて、静まり返ったリビングを不思議そうに見回す。
「………みずはらさんは?」
「………」
「おうちにいません」
みはなには悦巳が消えた事情を話してなかった。
風邪が完治したのは二日前だ。週の前半はずっと幼稚園を休んで寝込んでいた。回復次第改めて話すつもりだったが、仕事に忙殺されずるずる延期していた。親子で向かい合うのも実に一週間ぶりだ。
どう説明したらいいものか言葉に迷い、膝の上で両手を組み合わせおもてを伏せる。
「悦巳は辞めた」
ぼさぼさの髪に包まれた小さい顔に怪訝な表情が浮かぶ。
「どこですか」
「辞めたと言っている」
「お買い物ですか」
「だから辞めたんだ」
「昨日も昨日の昨日もいませんでした」
「クビにしたからな。見てわからないか、どこにもいないだろう」
飲み込みの悪い娘に苛立ち、視線でもってリビングのぐるりを示す。
いくら幼くても悦巳の私物が一切見当たらない事にいい加減気付いてよさそうなものだ。
みはなは無言で立ち尽くす。
黒目がちのつぶらな瞳がじっと誠一を見詰める。凝視する。
無垢に純粋に、どこまでも一途に透き通ったまなざし。
くるりと背を向けテーブルの方へ走っていく。
椅子を引いてテーブルの下にもぐりこみ手探りでなにかを捜す。テーブルの下から這い出すやお次はキッチンへ、冷蔵庫の扉を開け放ち中を覗きこむ、戸棚の扉を開けて顔を突っ込む、愛用の椅子の上で爪先立ち背伸びして頭上の棚を覗く。キッチンから廊下へ駆け出しトイレへ、玄関へとんでいって靴入れの中を見る、寝室にもどってクローゼットに吊られた服をかき分けかくれんぼする悦巳をさがす。
「やめなさい」
がちゃ、ぱたん、がちゃ、ぱたん。
一定のパターンで届くドアを開閉する音、ぱたぱた忙しく走り回る足音、一生懸命ひたむきに大好きな家政夫の姿を追い求め家中どこもかしこもあらいざらいひっくり返す、洗濯機の中も浴槽の中も少しでも可能性があるところは儚い希望に縋ってチェックを徹底する、がちゃ、ぱたん、がちゃ、ぱたん、ぱたぱた……
ひょっとして、誠一がいない間ずっと?
毎朝これを繰り返していたというのか?
台所で朝食を用意してるはずの悦巳の姿がないのに子供心に不安を覚え異常を察し、だけど悦巳が自分を捨てて出ていくはずない、自分に黙ってどこかへ言ってしまうはずがないと信じて家の中を捜し続けたのか?
―「やめろ!!」―
肺活量いっぱい一喝する。
待ち呆ける誠一の叱責を受け捜索を断念、最後のドアを閉ざす音が力なく響く。
足をひきずるようにリビングに帰ってきて無表情に報告する。
「どこにもいません」
繰り返す。
「……気がすんだか」
気が抜けたように立ち尽くす娘に不器用に声をかける。
ぼんやりと焦点の合わない表情で虚空に視線をさまよわせる反応は鈍い。
悦巳がいなくなった現実とその理由を理解してるのか、理解に至らなくても直感してるのか、パニックをおこして泣き喚いたりはせず、ただじっとそこに立ち尽くす。
過酷な運命に耐えるように。
「……お前が寝てる間にクビにした」
「どうしてですか」
「役立たずだからに決まってるだろう。あいつには愛想が尽きた」
大人はずるい嘘をつく。
胸をぶつ衝撃に驚く。
立て続けに両方のこぶしを振り上げ振り下ろし誠一の胸を叩く。
「みはな?」
連続で胸を叩く。
正面に立つみはなが寝癖で跳ねた髪に俯く顔を隠し、右と左の握りこぶしで交互に殴りつける。
「やめなさい、なにをするんだ」
何かに憑かれたように思い詰め切羽詰まった様子でこぶしを振り上げ振り下ろす。大袈裟な動作に合わせてしゃくりあげるように肩が上下し、風圧で前髪がめくれ、悲痛に強張った素顔があらわになる。
「どこに隠したんですか」
「隠してない、出ていったんだ」
「だしてください」
「ないものは出せない」
「いじめたんですか」
きゅっと引き結んだ唇がかすかに震え、聞き取りにくい声を紡ぐ。
「いじめたんですか」
強い力をやどす目で貫くように誠一を睨みつける。みはなが放つ気迫にたじろぎ、言い返そうとして弱弱しく俯く。
「いじめたんですか?」
厳しく追及しつつも手はとめず、ひどく強情な顔つきで無抵抗の父親をぶちつづける。
子供の力だから大して痛くはない。
振り払うのは簡単だが、物理的には一笑に伏すこぶしが胸を叩くごと心臓を抉るような鈍痛を伴い、身動きを忘れる。
静かに責め立てられながら降り注ぐこぶしを胸に受け止め、諦念の表情で目を瞑る。
「そうだ」
一際強いパンチが胸に響く。
「きらいです」
押し潰した嗚咽にも似てくぐもった糾弾が、絶え間なく降り注ぐ拳よりなおいっそう強く痛く胸を抉る。
「大嫌いです!」
交互に振り下ろすこぶしに合わせ髪振り乱し叫ぶ。
体いっぱい使って自分勝手な誠一を否定し拒絶し抗議し、自分の方が痛いだろうに我慢して、シャツが覆う逞しい胸板を一生懸命殴り続ける。
「返してください」
みはなは泣かない。
この子は泣けない。
本当に哀しい時にどうやって感情を発散すればいいか、誰にも教えてもらってないから泣きたくても泣けず、やり場のない怒りを込めたこぶしをめちゃくちゃに振り上げ振り下ろし父親を責め立てるしかない。
次第に強くなりつつあるパンチを受けながら思い返す断片的な光景、悦巳と笑い合うみはな、幼稚園の鞄から出した絵を恥ずかしげにさしだす姿、目玉焼きをのせたトーストを一生懸命頬張るあどけない顔……
殆ど体重の乗らないパンチが胸を打つ。
体格のいい成人男性には殆どきかない子供だましの、しかし本人にとっては子供だましなんかじゃない自分の全てを賭けてもいいと思える切迫した愚直さで現実には無力で非力なこぶしを振り上げ涙ぐむ。
唇を噛んで耐え忍ぶ誠一をよそにとうとう力尽き息を切らし、その胸に凭れかかるようにして顔を埋め、余力を振り絞って叫ぶ。
「えっちゃんを返してください……!」
駄々をこねるように。
縋りつくように。
震える体を抱きしめようとしてためらう。
抱きしめ返す権利も資格もないと思い直し、上手く泣けない娘が嗚咽とも唸り声ともつかぬものを喉から発するのを聞き、寝癖のついた頭にそっと手を置く。
りんごの皮を剥く時よりはるかに危なっかしく、壊れ物を扱うような気後れすら感じさせる手つきで、うってかわって大人しくなったみはなの頭をなでる。
初めて父親になでられたというのに顔を上げず、スーツの胸に顔を伏せて唸り続ける娘を無表情に―そのくせどこか困り果てた面持ちで見おろす。
喉が渇く。唇が乾く。
ごくかすかな嗚咽とささやかな衣擦れだけが響くリビングで娘と向き合い、沈黙を壊すのを恐れる慎重さで訊ねる。
「……お母さんに会いたいか?みはな」
涙で潤んだ眼差しに動揺が広がる。
誠一の顔を食い入るように見詰めるみはなの顔に徐徐に理解の色が広がり、眼球の表面を濡らす涙が引っ込んでいく。
誠一に取り縋ったまま深呼吸をひとつ、力強く頷く。
「はい」
「そうか……」
重い吐息に乗せて一言呟く。
瞼の裏側に映写された庭園の情景が急速に色褪せていく。
みはなと悦巳と誠一と。三人おそろいの手袋をして、寒空の下中庭で手を繋いだ思い出を胸の内に折り畳みしまいこみ、体の脇になげだした手を強く握り締める。
ティッシュをあてた指にじわりと血が滲み出す。
「………わかった」
みはなのぬくもりに甘えつつ誠一はひとつの決断を下した。
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