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第32話

 カン、カン、カン。  「ちょっと待ってな、いま開けっから」  鍵穴にさした鍵をひと捻り、悦巳を担ぎ直してドアを蹴り開ける。  部屋には饐えた空気が停滞していた。脱ぎ散らかした衣服や雑誌、鉄アレイやエレキギターが無秩序に散乱した六畳の和室は足の踏み場もなく、そこで寝起きする人間の放埓ぶりと自堕落な生態を暗示する。  カオスという形容が似つかわしい退廃的生活空間で特に目立つのは洋楽CD、ざっと見300枚はくだらないだろう膨大な量のそれらは高性能コンポを中心に放射線状に堆積し、円盤投げでもしたのかという乱雑さで毛羽立つ畳一面を埋め尽くす。  踵を履き潰したスニーカーを大志にならってもたつきながら脱ぎつつ、大袈裟なしかめっつらを作る。  「相変わらずきたねー部屋……」  「お前がいた頃よかちょっとマシだろ。懐かしいか」  「まあな」  正直、懐かしさに戸惑いが勝る。  部屋を離れていた期間は数ヶ月なのに痕跡が残ってない。悦巳が姿を消してからどうしてたのか、悦巳の私物は処分してしまったのか押入れの奥にダンボールにでもいれて保存してあるのか聞きたかったが自重する。  悦巳が消えたあとに買ったのだろう見慣れない服やCDコンポが増えているのもよそよそしさを感じる一因か。  床を覆うシャツや雑誌を蹴りどかし大股にのし歩く大志に続く。壁に貼られたポスターが目にとびこみ漸く懐かしさがこみ上げてくる。  「あのポスターまだ貼ってんだ」  「ああ」  「大志が酔っ払ってエレキ振り回して穴開けたんだよな」  大志は酒癖が悪く、泥酔するとエレキギターを振り回し大暴れしては悦巳にさんざん迷惑をかけた。  一度など隣の住人と喧嘩になって警察を呼ばれかけた事がある。ロック歌手を目指すと息巻いて買ったエレキギター自体は三日坊主だった。悦巳に笑われ大志はばつ悪げな顔をする。  「いい加減自腹切って塞いだらどうだよ。隣から苦情こねえ?」  「引っ越した」  「え?」  「隣のやつ。引っ越した」  「うそ、いつ」  「もう三ヶ月くらい前」  「そっか……知らなかった」  隣に住んでたのは喧嘩っ早い鳶職人で、大志と似た系統だった。  大志が酔って騒ぐたび殴りこんできて掴み合いの喧嘩をくりひろげ、悦巳がその煽りをくってひどい目にあった。しかし大抵の場合相手も酔っていて、心ゆくまで殴り合ってストレス発散したあとは友情が芽生えるのか、大志の肩を抱いて飲み直しとなるのが常だった。  悦巳がいない間に住人の顔ぶれも変わった。  「お前がいなくなって随分たつからな。結構入れ代わったよ。立て壊し寸前のボロアパートでいろいろガタきてっし雨漏りするし、長居したくねえだろ」  「だよな……」  さばさばと乾いた口調で大志が言うのに曖昧に相槌をうつ。  引っ越した隣人の顔を思い出し一抹の感傷にひたる。  そういえば隣の部屋の電気が点いてなかった。  大志と遊んで帰宅する頃にはいつも窓からあかりがもれていたのに。  なんとなく取り残されたような寂しさを覚え、エレキギターをかき鳴らしヘドバンする歌手のポスターをしみじみ見つめる。酔っ払った大志たちに深夜も開いてる近所のコンビニに缶ビールを買いに行かされたのもいい思い出だ。  パシリ体質治ってねーな、俺。  山と堆積した雑誌を蹴りどかし座る場所を確保する大志を悦巳も手伝う。大志は悦巳を手荒に扱う。弛緩しきった腕を肩に回して担いで歩く。無造作だがけっして無神経じゃない手つきに生来の世話焼きぶりが表れる。  悦巳をどさりと投げ落とす。巨乳モデルがポーズをとる雑誌の上に尻餅をつく。  「すっげえ匂い。何日風呂入ってないんだ」  「わかんね……一週間くらい?」  「うげ」  曜日の感覚が判然としない。誠一に追い出されてから記憶は断線し混線している。嗅覚も麻痺したのか自分の体臭にも無頓着になっていた。悦巳の曖昧な答えに大志はおもいっきり顔を顰め、わざとらしく鼻をつまむ。  「どうりで臭えはずだ。洗って来い」  大志に追い立てられのろのろと腰を上げる。  勝手知ったる元自分の部屋、風呂の場所は把握済み。アパートの家賃は折半で払っていた。  上着の裾をもって捲り上げる。  襟ぐりの部分が首にひっかかる。  脱いだスウェットを洗濯機に突っ込み、曇りガラスを嵌めた引き戸を開ける。  大量生産品のタイルを壁と床に敷き詰めた風呂は三畳の広さしかかない。  プラスチックのふたを持ち上げて中を覗けば案の定浴槽はからっぽ。  悦巳も大志もカラスの行水ぎみで備え付けの浴槽を使う事はあまりない。湯が溜まるまで待てないというのがせっかちな大志の言い分だ。悦巳も以前はそうだった。湯を溜めるのはもちろん掃除すら面倒くさく、シャワーでさっと済ませていた。  きちんと肩まで沈めて入浴する習慣がついたのは誠一の家で働き始めてから。  せっかく自分で掃除した風呂に入らないなんてもったいねえという貧乏性が騒いで、それに風呂はあの家でリラックスできる貴重な場所、入浴は息抜きの時間、入る順番はみはなが一番先で誠一が二番目、しかしこれは誠一の帰宅が早ければの話で、誠一の仕事が深夜までかかる場合は先に風呂を貰っていた。  今夜の誠一さんは機嫌がいいといいなあとか明日の献立とか弁当のオカズとか風呂に浸かりながら考えた日々が懐かしい。  手ぬぐいを風呂に持ち込んで、上手くふくらむかどうかで誠一の機嫌の良し悪しを占い一喜一憂するのが悦巳の日課だった。  アパートの風呂はマンションの風呂と比較にならないほど狭い。  タイルもずっと安物で、しかもひび割れて角が欠け落ちてる。  ここにあそこを思い出すものなんてなにもない、あの人を思い出すものなんて何もないと確かめ言い聞かせる。  フックに吊られたノズルをとり温度を調節、シャワーに切り替え蛇口を捻る。  大志は相変わらずシャワーしか使用してないようだ。ぬるめの湯を体にかけて一週間分の汚れと垢を洗い流す。  シャワーが放つ湯がタイルを打つ。水が渦を巻いて排水溝へ吸い込まれていく。  蛇口を捻り、少し熱くする。  次第に湯気がこもりはじめる。  脂でべとついた髪にシャワーをかけてわしゃわしゃかきまわす。シャンプーを借りようとして、なんとなく気が咎め、伸ばしかけた手を引っ込める。  悦巳がいた時とは違うメーカーのシャンプー。大志が自腹で買ったのだろう。  代わりにちびた石鹸を借り、頭皮をごしごし痛いほど擦って泡を立てる。  だけど石鹸じゃどんなにがんばっても大量の泡が出ず、ますますむきになって頭皮を掻き毟る。  マンションの風呂場にはみはな専用のお風呂グッズがあった。  中でもミッフィーのシャンプーハットとスポンジが大のお気に入りだった。  いい加減女々しい自分がいやになる。断ち切りたくても断ち切れず、未練の泥沼に絡めとられていく。  いい加減忘れろ、忘れちまえ、関係ないだろうもう。  頭を掻き毟る痛みで未練を振り払う。石鹸を使って体の裏表を雑に洗う。袋叩きにされた体はあちこち擦り傷だらけで打撲の痣ができ、肘には血が滲んでいる。鬱血と内出血の痣がちりばめられた汚い体を恥じて俯く。ふと正面の壁に固定された鏡が目に入る。  首筋に赤い痣を発見する。  虫刺されの痕にも似た一点の赤。  「!―っ、」  カッと顔が火照り、慌てて首筋を押さえる。  シャワーで体温が上がったせいか、服を着てる間はそれほど気にならず、存在自体忘れていたキスマークが仄赤く浮かび上がる。  血の寄り集まった痣を隠し、首を竦めてあたりを窺ってから手のひらをどけ、おずおずと鏡に映して観察してみる。  「………こんなとこにあったんだ……」  不安が胸を塞ぐ。  「大志……気付かなかったよな」  一週間たつのにまだ消えてなかったのか。  むしゃくしゃしてその部分を強く擦る。赤くなった肌がひりつく。  いくらこすりつけても消えずあせればあせるほど空回って、手の中の石鹸は悦巳を嘲笑うかのようにどんどん縮み、しまいには泡だけになって指のあいだをすり抜け、既に実体をなくした石鹸で執拗に首筋をこすりながら呟く。  「……っくしょ……」  こんなものがあるから忘れられないんだ。  いつまでもあとをひいちまうんだ。  シャワーが床に落下、ノズルがのたうち回って湯を撒き散らす。  壁に手をついて少し泣く。  壁に反響するシャワーの音が嗚咽をかき消してくれるから、ここでなら安心して泣ける。  こすりすぎた首筋が痛い、ひりひりする。どうして消えないんだ。未練を残してるみたいでいやだ。もう誠一さんなんてどうだっていいのに、あんなわがままで自分勝手で親の風上にもおけないような人くたばっちまえばいいのにどうして上手く忘れられねーんだ。  忘れるのは得意だったのに。  毎日のようにかかってくる伯母からの嫌な電話も学校の先生の小言も職員の叱責も同級生のからかいの言葉もぜんぶぜんぶ忘れて馬鹿みたいに笑ってるのがとりえだった、忘れるのが得意だから振り込め詐欺をやってこれた、ずるずる罪悪感をひきずってたら次の仕事にとりかかれない、さあ気分を切り替え年寄りを騙そう、騙して騙して騙しまくろう、じゃんじゃん稼ごう……  「ほんと、ろくでもねえ」  ろくでもない生き方しかしてこなかった自分がやり直そうだなんて甘かった、最初からむりだったのだ。  誠一といる間は夢を見た。  みはなに懐かれ頼りにされ、ひょっとしたら自分だってやりなおせるのではないかとおめでたい勘違いをした。  こんな自分が。  ろくでもない自分が。    俺なんか幸せになっちゃいけなかったのに。家族なんてほしがっちゃいけなかったのに。ぬくもりなんて知らなくてよかったのに。  これが復讐?  手に入るとおもわせてから取り上げるのが誠一の復讐ならそれは見事に成功だ。  お望みどおり、悦巳は絶望のどん底でもがいてる。  お前はしあわせになるなという呪詛が耳にこびりついてはなれない。  子供心にこたえた伯母の電話、実際言われたのかそれとも妄想が作り出したのか区別がつかない呪いの言葉が耳の奥にしつこく絡みつく、俺がしあわせになろうとするとだれもかれもがよってたかって邪魔をする、ならいっそ諦めりゃいい、すっぱりさっぱり諦めちまえばいい、高望みさえしなけりゃそれなりに面白おかしく過ごせるんだ、こんな俺だってそこそこ楽しくやってけるんだ……  シャワーを元に戻しがらりと戸を開ける。すっかりのぼせてしまった。  「ほら、着替え」  ひょこっと顔を出した大志がなにかを投げてくる。大人しくそれを着る。  「だせ……」  髑髏の眼窩に巣食う毒蛇を描いた悪趣味なプリントTシャツ、下は灰色のトランクス一丁。  化学反応を起こしそうな組み合わせにげんなりする。  「お前のスウェットのほうがだせーよ。文句ゆーなら素っ裸でいろ」  火照った体にしっとりとシャツがはりつく。石鹸で洗った髪はごわついて落ち着かない。洗濯機に手を突っ込み、ゴムのヘアバンドで前髪の生え際を押さえつける。  食欲そそる匂いに鼻がひくつく。  シャツの裾を引っ張りがてら台所をのぞきこめば、大志がお玉で鍋をかきまわしている。  「腹へってんだろ。すぐできっから待ってろ、昨日の夕飯が余ってんだ」  料理に挑む大志は真剣だ。  邪魔しちゃ悪いと座敷に移り、折れた脚を接着剤で補修したちゃぶ台の前に座る。  手持ちぶさたで貧乏揺すりを始める。  「ちゃぶ台拭く。フキン貸せ」  「はあ?」  大志が手を止め振り返る。聞き間違いを疑う怪訝な表情。  「どうしたんだ、そんな気のきいたこと言い出すなんて」  「食う前に拭くのはあたりまえだろ」  「俺と住んでたとき一度だって自分から言い出したことなかったじゃん、いくら口うるさく拭いとけって言っても寝転がってテレビ見るか漫画読んで馬鹿笑いしてた使えねーヤツが一体どういう心境の変化だよ」  「いいから貸せよ早く」  手を突き出して急かす。大志が降参して台拭きを投げてよこす。  それをキャッチし丸い輪郭にそって丁寧に拭く。  「あ~やっぱ動いてると落ち着く……」  「……………」  コンロの火を消した大志がなんともいいがたい顔で悦巳の働きぶりを見つめる。  「なんか……変わったな。前はもっと食っちゃ寝食っちゃ寝のぐうたらじゃなかったっけ」  飯をよそった皿を両手にもってこっちにやってくる。ちゃぶ台の向かいに座り、ことんと皿を置く。  「たんと食え」   「大志のカレー久しぶり」  「二日目だから煮込まれて味がでてるぜ」  「カレーって二日目が一番おいしいよな」  「わかった口きくじゃんか」  質素なちゃぶ台を囲んで遅い夕食が始まる。  残り物を温め直しただけのカレーもコンビニ飯とカップ麺に慣れた悦巳にとってはご馳走だ。  コップに匙を突っ込んですすいでからいざ皿を持ち凄まじい勢いでがっつく。  大志が作るカレーは大味でにんじんじゃがいもは大きめ、市販のルーを使いながらも一手間の工夫が生きて大いに食欲を刺激する。  「落ち着いて食えよ、逃げねーから」  「冷めんじゃん」  「それもそうか」  「相変わらず、はふ、んまいな!」  「食べるかしゃべるかどっちかにしろ」  「………」  「食べんのかよ」  「具が大きい、そこがいい。じゃがいものごろごろ感たまんねー」  「一人じゃ余っちまうからあんま作んねーけどひさしぶりに食いたくなって……お前がくるの予感してたのかな」  カレーをつつきながら大志が笑う。  悦巳は匙でカレーをすくい口に運ぶのに忙しく、夢中で咀嚼しながらコップを干す。  「なんか甘いな」  「わかるか?隠し味は」  「すりおろしりんごとチョコレートをひとかけ」  先回りして答えを言えば目をまん丸くする。一本とった痛快さに笑いながら自慢する。  「びっくりしたろ?俺もちょっとはくわしくなった」  「嘘だろ?前は食うの専門で作り方にゃぜんぜん興味なかったのにいつから料理に目覚めたんだ」  すりおろしりんごとチョコレートを加えて煮込んだカレーはコクとまろやかさが引き立ち、どんどん匙がすすむ。  あっというまにたいらげて、からっぽになった皿を大志に突っ返す。  「ごちそうさん。うまかった。お前やっぱ料理の才能あるよ、調理師免許楽勝だって」  「そんな上手くいかねーよ。俺のは素人の横好き」  「ギャップ萌え?」  「気持ちわりー」  「家庭科の授業でも包丁握ったことない女子の代わりにたまねぎ剥いてやってたよな。あの頃からモテモテだったよな~」  思い出話に花が咲く。久しぶりに会った大志は前とおなじように悦巳に接する。  その事がたまらなく嬉しく少しだけ後ろめたい。  小中高と一緒だった施設時代の友人、腐れ縁の悪友。  高校中退し施設をでてからずっと安アパートで一緒に暮らした大親友の顔をまっすぐ見る度胸がなく、核心を避けて迂回する。  膝を崩し和気藹々軽口叩きあいながらタイミングをはかり顔を上げる。  「大志、さ。なんであそこにいたんだ」  「ダチのピンチにヒーロー見参ヒーロー見参なんて都合いい話あるかっての」  ちゃぶ台に頬杖ついて意味ありげな目配せをする。  唇の片端を釣り上げる皮肉っぽい笑い方は大志の癖、大志に最高に似合う笑い方。  俗っぽく悪ぶった笑い方に憧れまねしてみたら歯痛を堪えてるみたいだと笑われた。  卓上の百円ライターをひったくり口にくわえた煙草に着火、けだるげに目を細めて食後の一服を堪能する。  「お前をさがしてたんだよ。あのへんうろついてるの見たってヤツがいたからさ」  やっぱり。  心のどこかで予期していた。偶然にしてはあまりにできすぎている。  「突然いなくなったダチが生ける屍みてえに夜の繁華街徘徊してるって噂聞いちゃじっとしてらんねーだろ?やばいクスリでもキメたのかと思ったぜ」  「……ごめん……」  悄然とうなだれ、そろえた膝に手をおいて詫びてから下唇を突き出す。  「階段の踊り場で待ち伏せてたのは?」  「演出」  すぱーと紫煙を吐いてあっさり回答する大志に顔筋が痙攣する。  「殴っていいか」  「もーどうにもならなくなるぎりぎりまでじらしたほうが有り難味増すんじゃねえかって」  「フツウに突っ込んでくりゃいいじゃん。袋叩きにされんの高みの見物なんて趣味わりー。昔からかっこつけたがりだったよな大志って」  「助けてやったんだから文句ゆうな。で?どこでなにしてたんだ」  煙草をふかしながら大志が問う。   「……ちょっと家政夫を」  「ああん?」  盛大に煙を吹かれ激しく咳き込む。  悦巳の顔面めがけ煙を吹きつけた大志がはずみで腰を浮かし、ごつい指輪を嵌めた手で胸ぐら掴み、ちびりそうに険悪な形相を近づけてくる。  「そらっとぼけてんじゃねえぞ、悦巳と悦子でひっかけてんのか」  「嘘じゃねえよマジまじマジだって、俺家政夫やってたんだって、車で拉致られて知らねえマンションつれてかれてさ!」  「わけわかんねーよ、どうしててめえが家政夫なんだよ、ピンクのエプロン着て背景に花を散らしておかえりなさい旦那さまお風呂にしますお夕飯にしますそれともア・タ・シ?ってギャグか」  「なんでエプロンピンクだって知ってんだよ」  噛み合わないやりとりがしばらく続いたあと、悦巳が口走ったセリフに衝撃を受けてその胸を乱暴に突き放し、呆然と呟く。  「……ピンクだったのか」  「……ピンクだった。ちなみにフリルつき」  「正気か?」  「俺が?雇い主が?」  「両方」  行儀悪く片膝立て座りなおす。  不機嫌げにそっぽを向き、目を鋭く尖らせいらいらと煙草を灰にする大志をびくびく見守る。  煙草の先端の灰をビールの空き缶に落としながら憮然と促す。  「最初から話せ」  深呼吸で覚悟を決める。  被害者の孫を名乗る児玉誠一との出会い、持ちかけられた交換条件、警察に突き出されるのがいやなら家政夫となって一人娘の面倒を見ろと言われたこと、そして始まる奇妙な同居生活……大志を信頼してぜんぶを話す。一生懸命たどたどしく、時につっかえつまずきながら、喉を詰まらせながら、自分がこの数ヶ月間どこでどうやって暮らしていたかつまびらかにする。  誰かに話して気持ちを整理したかった。  相談できる相手は大志しか思いつかなかった。  誠一にされた事の仔細は伏せ、ある箇所は省き、それでもできるだけ事実にそってこの数ヶ月の出来事を話し終える。  「……で、色々あって追い出されたわけ。退職金もらって」  「退職金?」  大志の目の色が変わる。煙草を口から放し、にわかに興味津々身を乗り出す。  「どんくらい?」  「あ……やべ、スウェットのズボンに突っ込んだまま」  「馬鹿野郎!」  脱兎の如く走り出した大志を正座で見送る。  十秒後、皺くちゃの万札を手掴みにしてもどってきた大志がにやけそうな顔を必死に引き締めそれを頭上高く撒き散らす。  「そういう大事な事は真っ先に話せよばか、うっかり洗濯しちまうとこだった。干して乾かすの大変なんだぜ、印刷落ちちまったら使えねーし」  「俺の話聞いてました?」  「聞いてたよもちろん。親友の話を聞き流すわけねーじゃん」  ひらひら降り注ぐ紙幣を虚空にパンチをくりだしキャッチする。  動体視力の優れた大志はこの程度の芸当なんなくこなす。  「つーまーり。お前は被害者の孫を自称するゴーマンワンマン社長に拉致られてこの何ヶ月間かがらにもねえ家政夫業をおしつけられてたと、こういうわけか」  「うん」  「携帯の契約切れてメールもできなかったと」  「うん」  「うんじゃねーよ」  軽く頭をはたけば生渇きの髪が逆立つ。紙幣を握り潰した大志が目を据わらせ急接近、ドスのきいた声音で囁く。  「どんだけ心配したと思ってんだ」  「悪ィ……」  「十九にもなって家出なんかすんじゃねーよ。ガキか」  「…………」  「お前がいなくなってからどんだけ大変だったか。行きそうな場所片っ端から当たっても見つからなかったのはそういうわけね、そりゃ漫画喫茶渡り歩いてちゃ見つからねーわ。とんだ無駄足」  「だから悪かったって、こっちだって連絡できねー事情があったんだ、元傭兵のボディガードに二十四時間体制で見張られて盗聴器まで仕掛けられてコンビニに立ち読みいくだけでそっこーチクられっし」  「傭兵上がりのボディガードが常駐してるってどんなご家庭だよ。外交官の邸宅か」  「誘拐と狙撃を警戒してたんだと思う」  「後者の可能性あんの?」   「3パーセントくらい」  「……金持ち?」  「フツウよりだいぶイイめのマンション住んでた。貿易会社の社長だってさ」  「せっせとちゃぶ台拭いてたのも家政夫として調教された成果なわけ」  「誠一さんちにあったテーブルはもっと豪華でどっしりしてた。檜っぽい」  「粗大ゴミ置き場からかっぱらってきた脚の折れたテーブルで悪かったな」  「脚は大志が折ったんじゃん、酔っ払ってぶん投げてさ」  「流せよそこは」  「面積狭い方が拭くのらくで助かるけど」  「はあ……どんなやつだったんだ、雇い主は」  「唯我独尊傲岸不遜暴虐無人、俺をさんざんこき使って用が済んだらぽいって放り出す極悪非道性格破綻の俺様社長」  「国語の成績悪かったのによくそんな四字熟語ぽんぽん出てくるな」  「むかつくやつ。親としても人としても最低。俺に何杯も紅茶を淹れさせちゃ一口も飲まず匂い嗅いだだけで捨てやがんの、いやがらせだよっとに」  「もったいねー」  「だろ?」  「ティーパックは十杯余裕でいけんのに」  「缶入り」  「自販機で売ってる?」  「俺も初めて知ったけど英国王室御用達とかの高級ブランドの茶葉。ロイヤルなんとかって名前の会社の高そーな缶に入ってるんだ。それをちまちま匙ですくって湯を沸かして、きちんと手順を踏んで紅茶を淹れんの」  「なんだよそれ、どこで売ってるんだ?」  「取り寄せだって言ってた」  「一匙ン万円もする紅茶を一口も飲まずに捨てやがったのかブルジョワジーが!」  「俺をいじめて楽しんでたんだ、一児の親のくせに大人げねえ。娘に対する態度もひでーのなんのって、父親失格の太鼓判おすね」  「太鼓判はおすなよ」  「けどさ、子供はすっげー可愛かった。まだ幼稚園の女の子でさ、ちょっと無口だけど素直でおりこうさんで可愛くてお絵かきが得意ですっげーいい子だった」  「悦巳ってロリコンだっけ?」  「ちげーよ!みはなちゃんていうんだけどイマドキいないよあんなイイ子。俺が何も言わなくても皿もったりテーブル拭いたりお手伝いしてくれっしお行儀いいし……なんたって可愛くて!口数少ないんだけど目は口ほどにものを言うってかたまに見せてくれるはにかみ笑いが母性本能じゃねー父性本能くすぐりまくりで、最初は避けられまくってへこんだけど今じゃすっかりうちとけて、幼稚園の行き帰りはお手てつないで歌唄うんだ。俺の手作り弁当気に入ってくれてさ、から揚げがいいとかベーコンのアスパラ巻きがいいとかリクエスト書いたメモをもじもじしながらそ~っとさしだしてくれた時なんてずっきゅーんて心臓狙い撃ち。マジやばかった、萌え死ぬかと思った」  「ロリコンだろ?」  「家政夫バカと言え」  「むかしっからガキと年寄りの受けだきゃ抜群だったもんな」  のべつまもなくまくしたて、鼻の下を伸ばしてのろける悦巳を苦笑がちに眺める大志。  でれでれにやけまくりみはなの可愛さを熱烈にアピールしていた悦巳だが、語るにつれ楽しかった日々が甦り、とりかえしのつかない喪失感が胸を抉って語尾が萎んでいく。  力なく俯く悦巳に忍び寄り、立ち上がりしな大きな手で頭をおさえこむ。  「泣くな。帰って来たんだろ」  「……聞かねーのかよ、ここ出た理由」  同い年に子供扱いされふてくされる。  箪笥の上から救急箱をとって帰って来るや胡坐をかき、偉そうに顎をしゃくる。  言葉にだすまでもなく通じ合い、シャツの袖をめくりあげて腕を突き出す。大志が救急箱のふたを開け、脱脂綿に消毒液をたらす。  「昔と逆だな」  「昔?」  「施設にいた頃。喧嘩のたんびべそかきながら手当てしてくれたろ」  消毒液を染ませた脱脂綿で肘の擦り傷を拭い絆創膏を貼る。大志の顔にふっと笑みが過ぎる。  「覚えてるか、小学校の遠足。弁当ばかにされてとんずらこいたこと」  「……覚えてる」  施設の皆とおなじ弁当の中身をばかにされ林に逃げ込んだ悦巳がさんざん泣き明かして帰ってみれば、山頂にシートを広げた児童と引率の教師がパニックに陥っていた。  喧嘩っ早い大志が悦巳の弁当を笑った生徒に殴りかかり、鼻血をたらし四つん這いで逃げるその生徒の尻を、教師ふたりがかりで羽交い絞めにされながらまだ蹴り上げていた。  弁当箱は取っ組み合いのさなかに蹴散らされ、色とりどりのおかずがシートの上や地面にむざんにぶち撒かれ踏み潰されていた。  「あとで大目玉くらったっけ」  「遠足どころじゃなかったな」  「お前が殴り倒したヤツ、あれからトラウマ刻まれて廊下ですれちがうたびびびりまくってたな」  「ざまーみろ、ひとの弁当ばかにするからばちがあたったんだ」  「あてたんだろ」  勝手にいなくなった悦巳と騒ぎの主犯の大志は教師に叱責され、施設の職員にもたっぷりお小言を頂戴した。  帰り道のバスの中、弁当を食い損ね空腹の悦巳のもとに絆創膏だらけの大志がやってきて握りこぶしを突き出した。  『やる』  「……チロルチョコくれた」  「おやつののこりだよ」  「自分だって腹へってたくせに。喧嘩の最中に弁当ぶちまけたってあとで聞いたぞ」  「俺はいーの、メシ抜き慣れてっから。食いしん坊でいやしん坊のえっちゃんはおなかと背中がくっついちまうだろ」  懐かしい思い出が甦り自然と顔が和む。柔和な笑みを浮かべる悦巳と向かい合い、救急箱のふたを閉じた大志が言う。  「おかえり、悦巳」   あの時とおなじぶっきらぼうな顔で。照れ隠しのポーズで。  しばらく忘れていたあたたかな感情が胸を満たしていく。  行くあてなくさまよっていた数時間前が嘘のように孤独が癒され、泣き笑いに似て情けなく崩れた表情で告げる。  「ただいま……」    俺にも帰る場所があった。  待っててくれるヤツがいた。  ひとりぼっちなんかじゃ、ない。  「悦巳?おい」  大志の声が遠のく。安心したら急に睡魔が押し寄せてきた。この一週間ろくに眠れなかった、ソファーベッドの寝心地に慣れて漫画喫茶の硬いリクライニングチェアに馴染めなくて、だけど大志の隣でなら  「今度カレー食わしてやる……上手くなったんだから……」  傾きかけた体をしっかり支えてくれる、力強い腕に凭れて目を瞑る。  極限まで嵩んだ疲労と睡魔がなだれを起こし、大志の胸に凭れて深い眠りにおちる。  大志はしばらく身動きせず悦巳の体を受け止めていたが、規則正しい寝息をたてる間抜けな寝顔をのぞきこみ、ちっと舌打ち。  「……人の気も知らねえで……」  正体をなくした悦巳を背負い、隅に丸めた布団のところまでつれていく。  足で蹴って布団を敷きそこに横たえる。  悦巳はすやすや眠りこけている。子供の頃と変わらない馬鹿っぽい顔が徒労と苦笑を誘う。  笑っていられたのは寝言を聞くまでだった。  「せいいちさ………」  布団に横たわった悦巳の口元が伸び縮み、知らない男の名前を呟く。  瞼に閉ざされた目尻に一粒涙が浮かび、透明な筋をひいてこめかみを伝っていく。  独占欲じみた凶暴な衝動が腹の中で膨れ上がり、熟睡する悦巳の両手を顔の横でおさえてのしかかる。  大志が貸したシャツは少し大きく、たるみきった襟ぐりから控えめに浮いた鎖骨が覗く。  生唾を飲む。  「……引っ張って伸びちまったな」  どうでもいいことを呟き、こめかみを滑る涙を指ですくって舐める。塩辛い水が舌の上で溶ける。  無防備すぎる寝姿に火がつく。悦巳は大志が押し被さったことにも気付かない。シャツの裾からこっそり手をさしいれ痩せた下腹をまさぐる。首元に浮かぶ痣に気付き、シャツを巻き上げようとした手がとまる。  尻ポケットの携帯が鳴る。  隙のない動作で携帯をとり、ふたを開いて耳にあてる。  「はい、大志です。……はい、いました。ガセじゃなかったみたいっすね。近日中にそっちにつれていきます、御影さん」  飢えたぎらつきを放つ目でしどけない寝姿を凝視、長々と吐息して上体を起こす。  「わかってます。こいつには稼いでもらわねーと」  報告を終えて切った携帯を放り投げ、寝返りを打つ悦巳に毛布をかけてやる。  「……抜け駆けは許さねえぞ」  誠一とやらの夢を見ているのだろうか、時折寝言を呟きながらふやけきった笑みを浮かべる悦巳の頭をなで酷薄な笑みを刷く。  「逃がさねえからな、悦巳」

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