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第43話

帰ってまず最初にしたのは汚れきった悦巳の体を拭くことだった。  タオルをよく絞り輪姦の現場となったリビングに引き返す。  もとからソファーとテーブルくらいしか家具が存在しない殺風景な部屋だが、テーブルから引き出された椅子があるものは背中合わせに、あるものは斜めにとばらばらな方向を向き、何ら統一性のないそれらの痕跡が尚更殺伐とした印象を強めている。  荒廃した観を呈すリビングには雄の体臭と体液とが入り混じった臭気が充満していた。  換気の必要性を感じるが窓の開錠は後回しにゴミが散らかったリビングを突っ切る。  失神した悦巳の傍らに跪き、ざっと容態を調べる。  目隠しを代用するヘアバンドに遮られ表情は読めないが、手を当てた額は早くも外気に馴染み冷え始めている。  ほうっておいたら風邪をひいてしまう。  汗で濡れそぼつ髪をかきあげ額にタオルをあてがう。  どんな些細な場所も見落とさず見逃さぬ執念で指の股の間までキレイにし、柔肌に刻みつけられた陵辱の痕跡を一つ残らず拭い去ろうとするも、指の形にくぼんだ赤い痣や歯型、大小の擦り傷まで消す事あたわずぎりっと唇を噛む。  自分でできない悦巳に代わりぎこちなくも甲斐甲斐しく後始末を行う。肝心の本人は朦朧として、大志の手を振り払う素振りも嫌悪を示す兆しもなく無気力無抵抗に従う。  首の後ろに手を添え上体を支え起こし、ぐったり弛緩しきった体を運ぶ。  肘掛けを枕に後頭部を安置、衝撃を与えぬようゆっくりソファーに横たえる。  悦巳は全身に汗をかいていた。顔と体の広範囲にむざんな行為の残滓が飛び散っている。  「うあ……」  「じっとしてろ」  気色悪さに身もがく悦巳を押さえつけ、中に溜まった精液をドロリと掻き出す。  事後の処理をちゃんとしないとどうなるか、最低限の知識は仕入れている。  体内に注ぎ込まれた大量の精液を鉤字に曲げた指で一滴残らず掻き出し、ついでに前の後始末もしてやる。  残念ながら替えの下着はないため、精液が染みついた不潔なトランクスで我慢させるしかない。  とくに汚れが目立つ内腿や性器の周辺を拭う手つきはストイックに徹し、下心など一切感じさせない。  いつもがさつな大志に似つかわしくない不器用な中にも精一杯の労わりを滲ます手つきでもって傷と痣だらけの肌を慰め、体の裏表を丁寧に拭き清めていく。  悦巳がぐずる。  「……痛くしねえから。しばらく寝てろ」  あやすように耳元で宥め、ばらけた前髪を梳いてやる。  吐息が絡む距離で覗き込んでも気付かない無防備さに腹が立つもこらえぬく。  邪魔なヘアバンドを引っぺがそうとし、一方的な接触と素顔を暴く行為に心理的抵抗が働く。  後始末と割り切って体を拭くのは平気だったのに、今頃になって逡巡がぶり返す。  伸ばした手が、届いた指の先が、それらが起こす波紋が自分と悦巳とをまだ辛うじて繋いでいる絆を断ち切ってしまいそうな切迫した恐怖に駆られ、悩ましい衝動と葛藤ごと強く強く手を握り込む。  渇望は絶望でできている。  渇きなんて癒えなくていい、飢えたままでいい。  さわりたい。  さわりたくない。  矛盾してるが、どっちも本音だ。  どれだけ強がっても性根は変わらずどこまでも臆病な自分に嫌気がさす。  きっと傷つけてしまう、怖がらせてしまう。  他のやつらをいくらぶん殴っても心は痛まないのに、こいつを傷つけるのも傷つけられるのもいやだと思う。  「調子いいの……」  間に合わなかったくせに。  手遅れだったくせに。  こいつのために怒る資格なんてもうなくなっちまっただろう。  俺だって共犯じゃないか、連中の仲間じゃないか、こいつを輪姦した連中とおなじじゃないか。  いや、もっとひどい、最低のクズだ。  衣擦れの音。  放心しきった鈍重さで目線を上げる。  ソファーに寝そべった悦巳が目を覚ましたようだ。  寝起き特有の極端に緩慢な動作でヘアバンド越しの視線を彷徨わせ、不安げに周囲を見回す。  「よ。ねぼすけ」  平静を装い声をかければ起き抜けの悦巳がびくりとする。  「大志?」  顔に走る怯えを見逃さない。  目を遮られていても表情の強張りで本音がわかる。  「声でわかるだろ?オレだよオレ。―って、お前のキメ台詞だっけか」  「俺………」  軽薄な調子でからかうも反応は鈍い。  完全に覚醒しきってないのか、自分がいる場所がどこかもよくわかってないようだ。  ……というのは大志の勘違いで。  「下半身寒いんだけど。パンツはかしてくんねえ?」  恥ずかしげな台詞に目線を下ろし、「あ」と呟く。気まずい沈黙。  悦巳を輪姦した連中はヤることヤってすっきりしたのか、後始末など一切せずに行ってしまった。とうぜん下着を穿かせてやったりもしなかった。結果、上着は大幅に捲れ上がって腹を外気に晒し、ズボンと下着は丸まって足首に絡んだ状態で放置されていたのだが、拭くのに都合がいい為そのままにしておいたのだ。  「勘違いすんな、最後に着せるつもりだったんだよ」  「ガムテープとってくれれば自分でやっけど」  「……いい、俺がやる。寝てろ」  不満げな悦巳をやや強引に制し、下着を足に通していく。  皺くちゃのズボンを引き上げ上着の裾をおろし、はみ出たシャツを中にたくしこむ。  いやにそわそわしつつ悦巳が再び口を開く。  「……あのさ」  「トイレか」  「シャワーでもいいけど」  「却下」  「……んでだよケチ。体べたべたして気持ち悪いんだよ」  「外は拭いてやったし中は掻きだしてやった、至れり尽くせり大サービスだろが」  「な、中って……」  「説明してやろうか」  リアルに想像してしまったのか、ちぎれんばかりに首振るわかりやすさについふきだしてしまう。  くつくつ笑う大志を目隠し越しに睨みつけ、疑心暗鬼に苛まれて問う。  「寝てるあいだに額に『肉』とか書いてねえよな?」   「油性マジックで」  「せめて水性にしろ!?」  手首の束縛も忘れ額の汚点を消そうとじたばたする醜態を十分堪能し、あっさりバラす。  「うそだよ」  「うそってうそ」  「ほんとにうそだよ」   「信じらんねえ、見えないからってテキトー言ってんだろ。怒んねえから言ってみろよ、やっちまったんだろ?済みだろ?」  「~っ、しつっけえな無実だっつの!」  「いばんな前科持ち。お前の行動の行動パターンが小学生ン時から成長してねえのはお見通しだ、忘れたとは言わせねえぞ、施設にいた頃だってひとの寝顔に落書きしやがって、油性マジックの犯行だからこすっても消えねえし、結局そのまま学校行って一日中晒しデコ!アパートいたころだって五日に一回はやってたろ!?」  「手が勝手に」  「重症だ!?」  「時々思い出したようにやりたくなるんだよな。内ハネの角度が結構むずかしくて、一度ためてからピッと」  「半紙でやれ!もしくはトイレットペーパーで!」  「紙もったいねえじゃん」  「俺の額トイレットペーパー以下!?」  「書いてねえから安心しろよ。見なきゃわかんねえだろうけど」  「……だよな、いくらお前でもいまどき『肉』なんて書かねえよな。芸がないし」  「わかりゃいいんだよ、わかりゃ」  「『中』だろ?」  「…………」  どんなキャラ設定だよ、俺。  言い争いに疲れ、やれやれと腰を浮かし台所へ行く。  指の先爪の隙間まで入念に洗い、冷蔵庫の扉を開けてミネラルウォーター入りのペットボトルを掴む。  悦巳が横臥するソファーの端に腰掛け、だらしなく足を投げだす。  「喉渇いたろ。飲め」   「至れり尽くせりお優しい大志くんに質問。おててが使えない可哀想な俺の為に口移しで飲ましてくれちゃったりしますか」  「お望みならな」  からかうように問いかける悦巳に気のない返事をし、きゅきゅっとふたを回して外す。  「嘘うそ普通に飲ませて」  「本気にすんなっつの」  あきれつつ飲み口をあてがえば美味そうにごきゅごきゅ喉を鳴らして水をがぶ飲みする。  人心地ついたのを見計らい、今度は自分が口をつける。  間接キスだなとつまらないことを思い、反動で自己嫌悪に陥ってしまう。  服の胸元にこすりつけて顎を拭いつつ、今までの流れから当然気になるだろう疑問をぶつける。  「御影さんは?お前ひとりか。他のやつらは……」  「さき帰ってきた。他のやつらはコンビニに買い出しと車の修理。つーか面倒だからそいつらにおしつけてきたんだけどな」  業者に車を引き渡すのは本来御影のお付きである大志の仕事だったが、途中ですれちがった居残り組にそれを投げ、一目散に部屋に向かった。もっとも車の修理はただの口実で、さきに帰らせくれと御影に談判した本当の動機と目的は伏せておく。  「とうぶん帰ってこねえよ。休んでろ」  「いまお前だけ?」  「そうだよ」  細く震える吐息をつく。  「……腹へったか」  「へった、かも」  「かもってなんだかもって」  「よくわかんねえ……でも減ったような気がするといえばするような?」  「どっちだよ、てめえの胃袋の話だろ」  「~あーはい減りました減りましたともおなかと背中がくっついちまうそうです!」  数箇所ある革ジャンのポケットの一つから黄色い箱を抜く。  封を破いて包装紙をむしり口元に近づける。  「食え」  「……なにこれ。やけにぱさついてっけど」  「やなら食うな」  くんくんと匂いを嗅いでから先端を咥え、ぱきんと乾いた音たて前歯で齧りとる。  口にしても安全な物と判断するやいなや食欲が目覚め夢中でカロリーメイトをがっつく。  「チーズ味?」  「正解」  「めーぷるがいちばんふき」  「飲み込んでからしゃべれ」  咀嚼と嚥下をくりかえす合間に軽口を叩く悦巳を注意する。  寝たままものを食べるせいで服の胸元に菓子くずが舞う。  悦巳に餌付ける傍ら簡単に食事をとる。半分に割ったカロリーメイトの片方を悦巳が、もう片方を大志が貰う。  半分こにしたカロリーメイトをあっというまにたいらげた悦巳が吐息をつく。  「カロリーメイトを発明した人って偉大だよな」  「同感」  「大志のメシのがうまいけど」  カロリーメイトを咥えたまま振り向けば、してやったりと小癪な笑みが浮かぶ。  「……ホゾンショクと比べられても嬉しくねえよ」  「だよなあ」  うんうんと一人頷く悦巳に目を眇める。  「……お前さ、ばかにしてね?」  「なんでさ」  「がらにもねえって思ってんだろ。料理が趣味で特技とか」  「とんでもない、ダチが料理上手なおかげで飢えずにすんだんだから」  「お前に任したら炭になる」  「今はマシんなったよ……一応、食える程度には。大志にはかなわねーかもしんねーけど」  「当たり前だ。誰の為に白いメシ炊いてやったとおもってやがる」  同居中は毎日飯を作ってやったのだ。いい女房じゃんか、とセルフ突っ込み。  「メシもだけど……器用だよな。自転車泥棒のプロだし」  「盗んだチャリで河原を走った。おまわりに追っかけられて尻に火がついた」  「追いつかれそうになると俺蹴落として時間稼ぎしたよな」  「そうだっけ?勝手に落ちたんじゃねえの?運動音痴だからなー、お前」  「お前はダチを見捨ててエロ本をとったんだ」  積年の恨みつらみを述べる悦巳から目をそらし、哀愁を帯びた口調で独白。  「あの頃の俺たち、河原の土手にエロ本を拾いにいくのが日課だったよな」  「青い春だったな……」  記憶を遡り、ふたりに共通する学生時代の酸っぱい思い出、少年時代の他愛ない思い出話に興じる。  「いやだってさ、荷台にエロ本積んだ状態でつかまったらかっこつかねえだろ?人として終わりだろ?」  「ひっでえ……」  「つみほろぼしに煙草やったじゃん」  「一回ベッドの横の隙間に隠してんのバレて叱られたろ?懲りろよ」  「ボヤだすようなヘマしねえよ」  「上で寝てる俺の身になれ。燻り殺すつもりか」   たくさんばかやった。  やんちゃがすぎて悪さもした。  風切り走る自転車の後ろではしゃぐぶかぶか学ラン姿の悦巳、曲芸乗りをやったらびびって抱きついてきた、おなじベッドの上下で漫画を交換しあいトランプを配ってババ抜きをし見回りを警戒し頭から布団を被ってくすくす笑った、消灯時間を過ぎても雑談のネタは尽きず嫌いな教師の悪口や気になる女の子の噂話に耽りながら眠りについた。  物心ついたころからそばにいて、友達のような兄弟のような家族のような距離感が心地よくて、それが物足りなくなる日がくるなんてあの頃は思いもしなかった。  「小二まで寝小便たれてたくせに。証拠隠滅に手え貸してやったんだから感謝しろ」  「おまっ、反則だろ……そういう自分だって中一ン時化学の皆元の車のタイヤに爆竹仕込んで停学になりかけたじゃねえか!」  「お前だって嫌ってたろ、赤点の答案貼り出されて。時効だから聞くけどカーニバル電流ってギャグだったの?滑って恥ずかしくねえ?」  「悪かったなカルバニー電流って書こうとして間違えたんだよ!!」  語り合う記憶はやがて関係性の原点へと収斂していく。  「初めて会った時のこと覚えてるか」  「覚えてる」  瞼の裏にちらつく懐かしい光景。  ブランコやシーソー、恐竜の骨格標本に似たジャングルジムなど、定番の遊具が並ぶ庭のどこからか嗚咽が響いてくる。  「児童相談所の職員につれてかれて、職員と園長が話してるあいだ待たされて、暇でしょうがねえから表をぶらついてたら、どっからか泣き声が聞こえてきて。不思議ンなって声のするほう行ってみたら、おなじ位の年頃のガキがすべり台の梯子の裏にしゃがんでた」  話すにつれ次第に記憶が甦ってくる。  だれもいない庭の片隅。そいつは錆びた梯子の裏に隠れ、ひとりぼっちで泣きじゃくっていた。  「あんまり情けねえつらしてるからどうしたのか聞けば、友達におやつ横取りされて逃げてきたとかぬかしやがって、こっちもだんだんむかついてきて、はぁ?んなもん取り返しゃいいだろって」  「胃の中のもんどうやって取り返すんだよ」  「ボディに一発、殴って吐かせる」  「言うと思った……」  そいつもびっくりしていた。あたりまえだろう。大志を見つめる目には新手のいじめっ子への恐怖が浮かんでいた。  そこで大志はいいことを思いついた。  「いつまでもべそべそ泣きやまずにうっとうしいから、とっておきを見せてやった」  当時子供たちの間で流行っていた特撮戦隊ヒーローの特徴として、全員が数箇所を繋ぐと星座の形になる痣をもっていたが、大志にもそれとよく似た痣があった。  裾を捲り上げて裸を見せた大志が、見て驚けとばかり痣をさして自慢すれば、悦巳はぽかんと口を開け、やがて興奮し、ばかの一つ覚えみたいにすげーすげーを連発した。  分別がついた今ならそれは親による虐待のあと、煙草をおしつけられた皮膚の引き攣れにすぎないと一目で判別できる。  しかし当時の悦巳には正義のヒーローとおなじ火傷のあとを持つ大志が特別な存在に思えてならず、それからも悦巳がべそかくたび公開してやった痣を猛烈にうらやましがった。  「単純だよな、ころりと騙されちまって」  「またまた照れ屋さんが。励ましてくれたんだろ?」  「からかったんだよ」  「うそつけ、結構本気でなりきってたくせに」  口の片端を皮肉に釣り上げ、唾棄するように笑みを吐く。  「そうでも思わねえとやってらんねーっつの」  世の中には人を傷つけるためじゃなく自分を守るためにつく嘘もある。  親の虐待による煙草の火傷の痕をヒーローの証だと言い張った大志の心情が、悦巳には痛いほど理解できる。  集団で風呂に入る時、プールの授業を控え更衣室で着替える時、大志がむしろ誇らしげに体中の火傷を見せびらかしていた理由は同情をはねのける男の子の意地に尽きる。  「……嘘で思い出したんだけど、俺と一緒に住んでた女の子の話したよな」  「そのみはねちゃんがどうしたんだよ」  「みはねじゃなくてみ・は・な!」  「どっちでもいいだろ、たいして変わんねえよ」  むっとした悦巳が一言一句区切って訂正するも馬鹿にして鼻を鳴らす。  「お前ってさ……みはなちゃんや誠一さんの話題だすたび不機嫌になるよな。なんで?」  「わかってて言うお前も相当ずぶといぜ」  「その子がさ、ある日聞いてきたんだ。うそつきは死んだらどうなるんですかって」  血の繋がらない子供にまとわりつかれていた頃を思い出し、口元に笑みがちらつく。  「俺は台所で皿洗いしてて、みはなちゃんはテーブルでお絵かきしてた。誠一さんは案の定帰りが遅くて……ああ違う、風呂だっけ。とにかくいなかった。くいくいエプロン引っ張られて下見たらいつのまにかみはなちゃんがいて、くりくりよく動くでっかい目で俺見上げて、おしえてくださいみずはらさん、うそついたひとはどんなおしおきされるんですか、死んだらどうなっちゃうんですかって……」  「バレたのか」  「最初はそう思った。なんかヘマやったっけ、誠一さんが余計なことふきこんだんじゃねえかってテンパって……でもさ、ふしぎとそういう感じでもねえんだ。たぶんテレビか幼稚園で地獄のこと聞いて……嘘吐いたらこわ~いめにあうんですよって先生にでも脅されたのかな?なんでなんでどうしてはあの年頃の子の口癖だろ」  ため息をつく。  「正直困っちまった。けどさ、コドモだからってテキトー言ってごまかすのはちがうよな。真面目に聞いてんだから、ちゃんと答えてやんなきゃダメだよな。で、教えたんだ。うそつきは地獄でエンマさまに舌ひっこぬかれるんですよって。そしたら今度は『エンマさまってだれですか?』とさ。地獄で一番えらくておっかない人ですよって口で説明してもぴんとこなかったみたいで……まあそれでも一応は納得してトコトコ走ってんだけど、甘かった。またすぐもどってきたと思ったら、スケッチブックとクレヨンずいと突き出して『描いてください!』っておねだり」  「はははっ!」  「笑い事じゃねえよ、俺がそっち方面の才能ねえの知ってんだろ?」  「で、描いてやったのか」  「みはなちゃん大喜び」  「大喜び?」  言い渋る。  「頭の横に生えてる角がさ、ほそ~くなが~くまるっこかったせいでこう、ウサギの耳に見えたらしくて……」  『エンマさまはウサギさんですか!』   「はははははっははははははははっははは!!!」  「俺的にはドリフのカミナリさまイメージしたんだけど、自分の画力がまさか三角を丸くする方向に進化してるなんて予測不能だった」  「進化じゃなくて退化だろ!」  「結局最後まで勘違い訂正できなかった……ミッフィー大好きっ子なんだ、みはなちゃん。誕生日にミッフィーの手袋買ってやったらすっげえ喜んで、毎日嵌めて幼稚園行って、誠一さんにもおそろいのプレゼントしてくれたんだけど……まだ持っててくれてんのかな。捨ててねえといいんだけど。あの人ヘンなとこでかっこつけの意地っ張りだから俺の前じゃ絶対はめてくんねーの。ケチだよな。減るもんじゃなし一回くらい嵌めてくれたってさあ……」  「なんでそんなのと住んでたんだよ、俺だったら一日もつかわかりゃしねえ」  「結構いいとこあるんだよ、アレで。親バカだし」  「親バカって褒め言葉?」  「バカ親と親バカは別モンさ」  「冷たくてわがままで紅茶と料理の味にうるさくて、だけどホントは不器用なだけで、みはなちゃんのこと一番に考えてて。ソファーにどっかりふんぞり返ってひとを顎で使う姿が異様に似合う人で、眉間の皺なんか迫力あって、パッと見威圧的でおっかねえけどホントは」  「~っ、もういいよ誠一サンの話は!」  誠一やみはな、ほんの数ヶ月間だけ擬似家族として過ごしたふたりについて語る口調はのろけとしか思えぬほど弾んでいて、ともすればすぐ隣の自分の居場所を見失いそうになる。  「……料理が上手くなるコツやっとわかったんだ」  「何」  「ひとに食べてもらう。そのあとの笑顔を想像する」   「ふうん」  「お前もそうなの?」  「……だれかさんがバカみたいによろこばなきゃ料理を作る甲斐なんてなかったよ」  「そっか……」  会話が途切れる。  ややあって、ぽつんと呟く。  「……ばちあたるってホントだった」  力ない独白。  「………にしたって……えげつねえ当て方……」  片頬が痙攣し、歪みに似た笑みを形作る。  「舌抜かれるのどんくらい痛いか知んねーけど、それに比べたらかなりマシな方だよな、これって」  卑屈に笑う。  「下手したらショック死しちまうっていうし、それに比べたら全然ぴんぴんしてるし、ばちにしたって軽い方だよな」  体中が痛い。  暗くて何も見えない。  顔も見えない男たちの手や舌が体中を卑猥に這い回る不快感が拭えなくて、無理矢理突っ込まれ揺さぶられたのに途中からわけわかんなくってめちゃくちゃに声を上げまくって、そんな自分がいやでいやでたまらなくて、凶暴に蹂躙する手の動きに誠一の手を重ね現実逃避を図った。別人だとわかっていても肌のすみずみまで揉みしだき蹂躙する手が誠一のものだと恣意的に錯覚すればそれだけで火がついた、体を引き裂く痛みを忘れていられた、こんなやつらにめちゃくちゃにされるのはいやだ、だったら誠一さんにめちゃくちゃに抱かれたいと浅ましくも願ってしまった。  「軽い軽い、全然オッケー、超余裕。ベロも無事だし命も拾えて超ラッキー」  悦巳は笑う。無理をして笑う。  大志に心配かけまいとして、いやちがう、そうやって笑ってないと心が壊れてしまうから必死に嘘をついて痛みに耐える。  とても大丈夫とは言えない状態で、やばい薬でもやったかのようにへらへら笑う悦巳を愕然と見下ろす。  「……なに言ってんだよ、悦巳」  そこは怒るとこだろう、責めるとこだろう、なじるとこだろう。    「気にしてねえよ俺は。御影さんに言われて嫌々仕方なくヤッたってわかってから、だからそんな死にそうな声だすなよ。命令だったんだろ?そうしないと痛めつけられるから。わかってるってちゃんと、恨んでねえよ、気にすんな……」  視界がぐらつく。激情が荒れ狂う。  口の動きがクローズアップされるも意味を伴う音として知覚できず言葉の意味を理解できない。  慰められてる?なんで?意志の疎通ができず困惑を深めるも勘違いの原因に思い至り断絶の深さに絶望する、憤激の発作で脳髄が灼熱、目隠しされ抵抗できない悦巳の胸ぐらを掴む。  「なに言ってんだよお前」  救いがたい鈍感さ。  救いがたい残酷さ。  うやむやにするのか。  逃げを打つのか。  「もっぺんいってみろ」  腹の底を憤怒の炎が炙る。  「バチだとか報いだとかそりゃぜんぶお前がこじつけた理由だろ、つまりこう言いてえわけか、俺がうそつきだからばちがあたったんだ、甘んじて受けよう、俺にヤられても他のヤツにヤられてもガマンしよう、だって悪いのは俺だから」  饒舌に代弁しつつも声の震え手の震えをおさえきれない、ずっとずっと腹の底に秘め続けた思いを感情をぶつけた行為をそんな一言で切って捨てられるのが我慢ならない。  スプリングが軋む。肘掛けに後頭部をぶつけ友人の豹変にとまどう悦巳に対し低く凄む。  「ばちがあたったの一言で片付けてひたってんじゃねえぞ、てめえさっき俺が言ったこと聞いてなかったのか、覚えてねえのかよ」  『楽しいよ。ずっとこうしたかった』  『お前が悪いんだぜ、悦巳』   「言ったろ、ずっとこうしたかったって。ずっとずっとずっと、おなじ二段ベッドの上と下で寝てた頃からずっとだよ。わかるかよ、俺の気持ちが。わかんねえだろな、はは、わかってたまるかよ畜生。お前が上でぐうすか寝てるあいだ俺が布団被ってなにやってたか」  「大志……?」  その声だ。  その顔だ。  うんざりだ。  俺がひどいことするなんて思ってもみない声、ダチだから幼馴染だからと甘えきった声、実際ひどいことされたあとでもあれは何かの間違いだったとご都合よく信じきってる。ああ、そういえばちゃんと言ってなかった、ばかだからちゃんと言わなきゃわかんねえのにいちばん肝心な言葉を言ってなかった、こいつを抱くのに夢中になって行為にのめりこんですっかり忘れていた。  「気にしてねえとか許してやるとか、なんだってこの俺がそんな胸糞悪ぃセリフ吐かれなきゃいけねーんだよ」  気にしてない。  嫌々仕方なく。  命令。  こいつはばかだ、大馬鹿やろうだ、勝手に決めつけてわかったつもりになってやがるけど大間違いだ。  「気にしろよ。許すなよ。怒れよちゃんと、なんであんなことしたのか聞けよ、ダチじゃねえのかよって」  「だから御影さんに……」  「お前じゃなきゃ抱くか!!」  絶叫する。悦巳が息を呑む。  上着の胸を強く強く掴む、渾身の力で胸ぐら締め上げのしかかる、革ジャンの鎖がじゃらりと耳障りな金属音を奏でる。  「ンな勘違いした優しさいらねえよ」  いつだっていつだって欲しいものは手に入らない。  「……なんで俺じゃねえんだよ」  すべり台の梯子の裏でべそかくあどけない顔が瞼にちらつく。  「ずっとつきっきり頼りっきりだったじゃねえか。悪さしたやつはこらしめてやった、ちょっかいだすやつ追っ払った、くりかえすうちに喧嘩つよくなった。いつもあとついてまわってうざってえときもあった、けどほっとけなくて、バカでノロマでグズで一人じゃなんにもできねえから」  『そう思いたがってるだけだろう』  「オレがいなきゃ駄目だよな、そうだよな?」  『なぜ足を引っ張る?』  「いつもみたく泣きつけよ、泣きついてこいよ」  こいつに頼られるヒーローでありたかった。こいつを守れる男になりたかった。  ガキの頃からちっとも変わんない能天気な笑顔、こいつが隣でしあわせそうにへらへら笑ってるかぎり俺がそうありたいと願う俺でいられる、強くてかっこいい大志でいられる。  狂い始めたのはいつからだろう。  「ガキの頃からなにかあるたび泣きついてきたじゃねえか、たすけて大志ってすっとんできたじゃねえか。くっついて離れなくて、面倒くせえやつで、あぶなっかしくてほっとけなくて、同い年のくせに弟みてえで。ちょっとどつきゃすぐ泣くし、怒るし、なのにすぐ笑うし、ころころ表情変わって見てて飽きなくて、ぎゃあぎゃあうるせえし、食い意地張ってるし意地汚えし、バカでアホだし」    懐いてくるのがくすぐったかった。  生まれて初めてだれかに頼られ、必要とされる喜びを知った。  目を輝かせて火傷に見入る顔も遠足で行った山の藪の中で泣いてたつらも部屋の隅でぽつんと膝抱えた顔もぜんぶぜんぶ覚えてる、こいつが俺にくれたたったひとつの存在意義、初めてかっこいいって言ってくれたやつ、すごいって褒めてくれたやつ、その眩しすぎる期待と無邪気すぎる全幅の信頼にこたえたくて  「きらいなやつの尻拭いなんかするか」  お前だから、  特別だから、  「御影さんの命令だって誰に言われたって、その場の勢いだけで好きでもねえやつ抱けっかよ」  お前だけなのに、  組み敷いた悦巳の顔に広がる驚愕の波紋、正気を疑うような表情、友達にそんな顔をさせてしまう自分の最低さに愛想が尽きて、一方でどこまでもとことん鈍い悦巳がやりきれなくて、その胸ぐらを拳で殴りつける。  「俺、もう、いらねえのかよ」  『……くんな大志、これ以上お前に借り作ったら破産しちまう』  『余計なお世話だっつってんだ』    「隣に立つ資格なくなっちまったのかよ?」  『自分のケツは自分で拭く。ひっこんでろ』    「ぼろぼろでかっこつけんじゃねえ、弱えくせに。俺がいなきゃダメなくせにいきがんな、ほらさっさと言えよ助けてください強くてかっちょいー大志さまって!」  あの時とおなじセリフを、血を吐くように、すがりつくようにくりかえす。  それしか存在意義ねえんだから、お前の隣にいていい理由が見つからねえんだから、その根っこまで否定されたら俺は  俺は、  「なんで………っ」  もうずっと長いこと持て余していた気持ちをどこへやったらいい?  どう始末をつけたらいい?  「なんで俺じゃねえんだよ!」  手加減忘れ揺すりたて、駄々をこねるように胸元を叩く。  相手が怪我人だって事も忘れ、隣や階下に騒音が筒抜けになるんじゃないかとかの些事は一片残らず頭から消し飛んで、荒れ狂う炎に呑まれ理性が焼け焦げて灰と散り、しまいには胸に額をぶつけもたれかかる。  「俺でいいだろ、手えうてよ、許さねえぞ畜生だったら何の為にガマンして嘘ついてきた意味ねえじゃんか、あんなポッと出にかっさらわれるなんて冗談じゃねえ、そいつ誠一とかつったな、お前ンことさんざこきつかって最後にゃ追いだしたクズじゃねえか、いっつもいばりくさって人顎で使ってむかつくやつだって言ってたじゃねえか、どこがいいんだよ」  親や大人、他人に虐げられる弱くちっぽけな存在に甘んじるのはうんざりだった。  こいつがそばにいたから強くなれた、こいつが俺を強くしてくれた。  より深く激しく依存してるのは大志の方だ、悦巳の明るさに助けられてたのは大志の方だ。  必要とされたいと狂おしく願うのもまた盲目的な依存の形。  互いに成長し大人になってもまだ大志は幼い執着と独占欲で練った依存の鎖に縛りつけられている。    ダチ離れできてないのは、俺のほうだ。  「いい加減気付けよ、気付いてくれよ」  わかってるよ、わかってるんだとっくに。  そばにいられるならダチでいいとおもった、ずっと黙ってるつもりだった、居心地いい関係を壊したくなくて  「お前が悪いんだぞ」  あいつさえでてこなけりゃ  こいつさえでてかなけりゃ  「何も言わずにいなくなってどんだけ心配したと思ってやがる、ひょっこり帰って来るかもわかんねえから夜でも鍵開けっ放しで寝て、なのにお前はその間しらねえ男とガキと仲良くテーブル囲んで家族ごっこか、俺が見てないところで男といちゃついてやがったのか」  触れ合う胸から響き合う鼓動が痺れるように体内に広がる。  「なんでだよ、畜生、なんで」  お前を守るには強くなんなきゃいけなくて、誰にも馬鹿にされねえ力をつけるにはヤクザになんのがてっとりばやくて、  あの人なら、御影さんなら、それを教えてくれると思った。  お前を本当の男にしてやるという言葉を信じた。  悦巳を傷つけないと約束したからだまし討ちに近い形で誘導してここへつれてきた。  その結果がこれだ。  このザマだ。  あの人は最初から約束なんて守る気なかった、悦巳を無事に帰す気なんてなかったんだ。  気付いた頃には後の祭り。  どうせ友達どまりだろうと自暴自棄になった大志の耳に、肩を抱きながらの御影の誘惑はひどく甘美に響いて。  『本懐遂げさせてやる。がんばんな』  あらがいきれず、そうと知りながら堕ちた。    「大志?」  うろたえきって名前をよぶ。  こんな時まで他人を心配する、笑っちまうほどお人よしの、声。  「好きだ」    喉の奥から、いや、それよりもっと深い胸の奥からくみ上げた言葉は、これから自殺に赴くような絶望の響きをやどし。    「好きだったんだ。ずっと」  いつからなんてわからない。  いつからかなんて思い出せないほどむかしから、お前だけを見てた。  「え……」  ヘアバンドを掴んで上にずらす。もう片方の手で、力のぬけきった腕をソファーに縫いつけておく。  抵抗を封じ唇を奪う。  「――!?んむっ、」  揉み合う。暴れる。鳩尾に蹴りをくらう。  縺れ合いソファーから転落、迅速に身を翻し駆け出す悦巳を夢中で追いかけ追いつき腕を掴んで引き戻す。  「はなせよ!頭どうかしちまったんじゃねえのお前、いきなりそんなわけわかんねえ、好きとか好きって、え?はあ!?」  「好きで悪いかよ」  「―っ、そんな……俺たちダチで、だって聞いてねえよそんなの、どうして言わなかったんだよ!?」  「言ったらどっかいっちまうだろ!!」  一番恐れていた事が現実になろうとしている。  大志と対峙、慄然と立ち竦む。  ドアをめざし走っていた足から完全に力が抜け、よろめき、背中から壁にぶつかってずりおちていく。   「好きって……男だろ?女に不自由してねえじゃん、お前。なんでよりによって俺なんだよ」  「お前じゃなきゃだめなんだよ」  「なんで……くそ……」  ガムテープが巻きつく両手を上げて顔を埋める。  「あんなことされたあとでそんなこと言われたって頭ぐちゃぐちゃでどうしていいかわかんねえよ!!」    大志は拒絶された。  おそらく、本人が一番おそれていた形で。  自分で自分を憎み軽蔑しなければいけないような、言い訳もできずさせてもらえない、自己嫌悪の塊が腹の中で膨れ上がって窒息しそうな局面に追い詰められて。  好きだった。  興奮に駆られ口走った告白の残響が白々しく大気に漂う。  「じゃあなにか、ダチがついてた嘘ひとつ見破れなかったわけか俺は。大した詐欺師きどりだな」  両手の指でくしゃりと前髪を握り潰し、乾ききった笑いをもらす。  喉から放たれる笑いはだんだんと大きくなり、ついにはヒステリックな哄笑となって部屋中に響き渡る。  足を踏み出した瞬間、黄色い残像が宙を切り裂く。  「うせろ」  力一杯蹴り上げられたカロリーメイトの空き箱が胸に跳ね返って落下。  「俺を守るとか口先だけじゃねえか、今さらどのつらさげてもどってきたんだよ、もう全部おわっちまったよ。お楽しみにまざれなくて残念だったな」  挑発的かつ露悪的に唇をねじまげ、鋭利な刃でもって容赦なく大志の胸を切り刻む。  「ずっとお前みてえな変態がそばにいたのかと思うと虫唾が走る」  悦巳らしくない、悦巳には似合わない、悪意の塊のようなセリフ。  「俺の寝顔にムラムラしてたんだろ?さっきだって体拭くふりでナニしようとしてたんだか」  「悦巳、」  「気安くよぶな。お前にくれてやるズリネタはねえよ」  前傾気味の肩で壁を擦り、びっこを引いてリビングを出て行く。   「どこいくんだよ!?」  「……トイレ。風呂でもいい。鍵かかる方。お前のつら見ずにすむならどっちでも」  「…………」    すれ違う。離れていく。  一度も大志の顔を見なかった。  そこにいないかのように無視をした。    自業自得だ。  轟音、衝撃。  「畜生………」  横手の壁を殴りつけ、さっきの悦巳を真似るように項垂れ顔を覆う。  悦巳が心配で帰ってきた。  ひどいことされてるんじゃないか胸が騒いで気が散ってドジばっかやらかして、あきれた御影から暇をかすめとってもどってきたら、自分が予想したどん底の底をいく最悪の事態がおこっていた。  一時間、だめならせめて三十分前に時間を巻き戻したい。  悦巳に手を出そうとした連中を一人残らずぶち殺すために、そして悦巳を助け出すために。  手遅れだった。間に合わなかった。とりかえしがつかない。  だけどこんなこと思うのおかしいだろう、腹を立てるのも間違ってるだろう。  俺はよくて他のやつはだめなのか、そうやって強姦を正当化するのか、間に合えば帳消しにできるとでも?  悦巳はトイレに閉じこもったままでてこず、凍えた静寂が支配するリビングで孤立する。  玄関で物音が立つ。  だれかが帰って来たらしいが迎えにでるのが億劫で、壁際にへたりこんだまま無視をきめこむ。  「やけにしずかだな……おい、だれもいねえのか。大志ィ、いるなら返事しろ」  間延びした声……御影だ。  やがてリビングにやってきた御影が、壁際にうずくまった大志を見つけてわざとらしく驚く。  「うわ。んだよ、びっくりさせんな。ジッと動かねえから置物かとおもった。てめえ車はちゃんともってったのかよ」  開口一番愛車の心配をする御影が滑稽で、口元に浮かんだ笑いを俯き隠す。  「……もってきましたよ。近日中には戻ってくるそうです」  「おーしいい子だ」  「会合の方は?」  「相変わらずのおためごかしの学芸会、肩こっちまった。峰岸のスケベ親父がタイで買った女の自慢してたぜ。六十すぎてバイアグラ頼みの絶倫ってのもどうかと思うよ、俺は」  ソファーにふんぞり返った御影が偉そうに顎をしゃくる。茶を淹れろという合図。  手を動かしてたほうが気が紛れるだろう。  震える膝を支え立ち上がり、躾が行き届いた手際でインスタントコーヒーを淹れる。  「きったねえなあ。ちゃんと片付けとけよ」  「すいません」  ぐるりを顎で示していう御影に詫びつつ、湯気だつコーヒーを給仕する。   外出の用向きはヤクザの定例報告会。  大志は運転手兼鞄持ちの下っ端ではなから勘定に入ってないため途中で抜けてもお咎めはなかった。  「えっちゃんはどこだよ。姿がねえけど」  「トイレっす」  「逃がしたんじゃねえのか、つまんねえ」  カップをもつ手が震える。  「てっきり帰って来る頃にゃ駆け落ち済みでもぬけのからだとおもったんだが、んな度胸もねえか。首輪つきのイヌだもんな」  コーヒーに口をつけ御影が意地悪くからかう。  「トイレにひきこもっちまうなんて根性ねえなえっちゃんも。いい経験になったろうに」  「どういうことっすか」  「ああ?別に。死なねえ程度に可愛がってやれって言ったからそのとおりにしたんだろ。あいつらも若いからな、見せつけるだけ見せつけてお預けなんてオチはちと酷だろ」  ああ、そうか。  知ってたんだ、この人は。  「おっかねえカオすんな。火ィつけたのはお前だろ?」  そして一人さっさと逃げ出した。  悦巳にあわせる顔がなくて、頭を冷やしたくて、イヌみたいにこの人についてった。  「見たところ消火活動は間に合わなかったご様子で。はは、同情するぜ。別の意味でまっちろになってたか?」    こんなやつのどこを尊敬してたんだろう。  こんなやつのどこに心酔してたんだろう。  ソファーに身を沈めコーヒーを啜りがてら一綴りのコピー紙のページをめくる。  「そういや面白いことがわかったぜ。失踪中のえっちゃんの足取りに調べがついたんだけどさ……あいつ、大富豪の婆さんの遺産相続人に指名されたんだってな」  「は?」  新情報に驚き、一瞬殺意を忘れる。  「聞いてなかったのか?ダチのくせに」  「遺産相続人って……ちょっと待ってください、悦巳がすっか?何かの間違いじゃ」  「本当だよ本当、真っ赤なホ・ン・ト」  手の甲で軽く資料を叩き、口笛でもふきかねないご機嫌な様子でうそぶく。  「故人の名前は児玉華。悦巳が失踪中同居してた男は児玉誠一、まだ二十代で大会社の社長さん。フクザツだからしっかり聞いとけ。故人とはなんと被害者と加害者の関係、悦巳がオレオレ詐欺を仕掛けた相手がこの華って婆さんだ。この婆さんは寂しい晩年をすごしてたみたいでな、死の間際まで話し相手になってくれた悦巳にぞっこんほれ込んで、身内にナイショでこっそりと遺産を譲る手続きしてやがったのさ。つ・ま・りだ、えっちゃんは自分もしらねえ間に棚ボタ御曹司になってたわけよ」  「できるんですか、そんなこと」  「デキる弁護士がついてたのは間違いねえな。生前に手え回しときゃ遺言執行力もばかにできねえ。書類上は養子縁組ってことになんのかね?本人が知らねえ間に手続き済ますって犯罪っぽいけど戸籍も切り貼り売り買いできる世の中だからなあ」  法律方面については広範な知識を誇る御影が感心する。  「立場上児玉誠一は後見人にあたる。成人するまで財布の紐絞めとく係が必要ってわけだ。これだから人生ってのはやめらんねえ、おもわぬところに掘り出し物がころがってる」   「悦巳を、あいつをどうするつもりっすか」  つっかえつつ問う大志をにやつく目でうかがい、読み終えた資料をテーブルに放る。  「詐欺で駄賃稼がせるよか儲かる使い道が見つかったんだ、のらねえ手はねえ」  風圧でページがめくれ、中にクリップで閉じこまれた写真がちらつく。  悦巳と、おそらく誠一だろう背広姿の男の写真。  「悦巳をどうするつもりか、ちゃんとこたえてください」  気迫を込め距離を詰める。  対照的にくつろいだ様子の御影は、まんざら演技でもなさそうに視線を上方に泳がせ、いくつか提案する。  「そうだなあ……定番だけど誘拐して身代金とるってのはどうだ?芸がねえか。でも悪くねえ、社長サンにだってうしろぐらいところがある。家政夫兼愛人囲ってたって暴露されるくらいならポンと一千万くらい払うかもな、口止め料」  「愛人って、」  「捏造だよ捏造。おもしれえじゃん。まあそれはおくとして、このさきも飼っとくほうが賢いよな。あいつ自身がいつでも引き出し自由な口座になるんだ、数撃ちゃあたる式の詐欺でちまちま稼ぐよかよっぽど……」  続けさせず猛然と腕を振りぬく、直情的な行動パターンを見抜いた御影はスッと顔をどけてこれを回避、即座に立ち上がるやカップがのったままのテーブルを蹴り上げる。  「!?っ、」  コーヒーの飛沫が腕と目にとびちって、憤激に乗じ振り抜く拳に一瞬の遅滞を生む。  時間にして一秒にもみたないだろう膠着を見逃さず、いかにも面倒くさそうに足を振り上げ鳩尾を的確に抉り、不意をつかれて言葉もない大志を壁際までふっとばす。  「ちっとは頭を使えや大志。インテリヤクザが弱いってな失礼なキメツケだぜ」   「―っ、なんで」  「何年飼ってると思ってる、来る瞬間は『タメ』と『にじり』の呼吸で大体わかる」  喧嘩屋の専門用語を使って大雑把に解説し、えずく大志に肉薄して胸ぐらを締め上げる。  「で、なにをいきなしキレてんのかな。俺様の言動が気にさわったか」  「え、つみを……えさにして……話、ちがうじゃねえか。無事帰すってうそじゃねえか!」  こうなるのがわかってたら引き渡す段取りなどつけなかった、どこか遠く御影や組の影響力が届かない場所へケツひっぱたいて逃がしていた、御影が大丈夫俺にまかせておけと肩を叩いて請け負ったから、俺とは全然ちがう頭がキレる兄貴分が笑って言ったから  「悦巳に酷いことしねえっつうから、俺と一緒に働かしてくれるっていうからつれもどすの承知したのに話ちがう、可愛がってたじゃねっすか、焼肉やラーメンおごってやったじゃねっすか、あいつのこと弟みてーに」  「思ってねえよ、気色わりィ」  吠え猛る横っ面に平手を見舞う。  「つれもどした理由?口止めだっつの。悪い子にゃおしおきしねえとな。いやさ、辞めるなら辞めるでいいんだよ、ちゃんと上納金払ってくれりゃさ。お前だってヤクザの端くれなんだ、こっち側の常識わかってんだろ?辞めるなら辞めるでスジとおさなきゃ、ブラックな商売してんだ、辞めますはいそうですかってふうにいかねーだろ?クビにしたやつがサツにバラすかもわかんねえし、そんな気おこさねえように舐めたマネしたやつは見せしめにしねえと」  最初から決まっていた?  御影の顔に泥を塗った時点で見せしめの嬲りものにされる運命は回避不能だったのか?  「捜索届けだすような身寄りも知り合いもねえガキなら見せしめにちょうどいい」  乾いた音が爆ぜて意識がとぶ、瞼の裏で赤い閃光が走る、この音が廊下を隔てたドアのむこう便器の上で膝を抱えてうずくまってる悦巳に聞こえてるかわからない、聞こえてたら早く逃げろ俺がひきつけてる隙にさあはやく、  「唯一例外として捜索届けだしそうなあては組の人間、もとから共犯だ。チクったりしねえよな?自殺行為だぞ?」  ばたつく大志のシャツをめくりあげ、引き締まった腹筋をさらし口笛を吹く。  「イイ体してんなあ」  盤上の駒を弄ぶのが似合う神経質で中性的な指が、腹から胸にかけての広範囲に散らばった醜い火傷のあとをひとつひとつ辿りゆく。  「おもしれえ。親にやられたのか」  戦慄が背筋を貫く。  背広から抜いた煙草の箱をわざと大志の眼前に翳し、尻を叩いて飛び出した一本を咥える。   ライターで火をつけ一服、ニコチンとタールを含有した有害な吐息を顔にふきつける。  拡散した煙に咳き込む大志の恐怖の匂いを嗅ぐように顔を近づけ、極端に緩慢な動作でオレンジ色に燃え爆ぜる先端をつきつけ、セットが崩れた前髪の先をちりちり炙る。  全身の毛穴が開いて脂汗が噴き出す『邪魔だ、どっかいけ』固い唾を飲む『目障りなんだよ』『押入れかベランダかどっちかえらべ』ちりちりと産毛を焦がし縮らす煙草の火から目をそらしたくてもそらせず二律背反の葛藤に苛まれる『あんたなんか産むんじゃなかった』罵倒、悪態、呪詛、頭を抱え身を丸め蹴りと殴打の嵐にひたすら耐えるも前髪を掴まれ腕の一振りでふっとばされ押し入れの襖を突き破る。  とうの昔に忘却の彼方に葬り去ったはずの過去を炙り出されトラウマが逆流し―……    「―――――っ、あぐ、アアアアあああああああああっあ!!」  絶叫。  二度焼き。    脇腹の火傷のあとへ再び煙草の穂先を押し付ける、圧力で潰れた先端から細く一筋の煙が立ち上る。  汗と涙とが流れ込んで歪曲する視界を嗜虐の悦びに蕩けきった笑みが埋め尽くす。   「とうぜん手伝ってもらうぜ。手始めにえっちゃんから色々聞き出して強請りのネタもってこい、できるだろうやれるだろうダチなんだからさ?」  濁流の如く流れる脂汗、塩辛い汗と涙と鼻水とが一緒くたに顔を濡らす、現実に襲う痛みとほじくりかえされた過去の痛みとの二重苦に悶絶、脂肪とたんぱく質が溶ける酸鼻な臭気が鼻腔に絡み吐血するように噴き上げる絶叫に喉を痛め悲鳴は耳汚くひび割れ意識が溶暗し遠ざかっていく。  「前よりもっとかっこよくなったぜ、えっちゃんにも見せてやれよ」  「あがっ、が……」  倒れるな、まだやることがあるだろう。  耳元で囁かれた名が瀕死の意地を呼び覚ます。  肩で押すようにして御影を突きのけ、できたての焼印が引き攣れる下腹を庇いながら廊下にまろびでる。  足がもつれ膝をつく、顎先で合流し大粒の雫となった汗が点々と床で弾け跡を残す、息も絶え絶え廊下を這いつつ革ジャンのポケットに手を突っ込み携帯を抜き放つ。  番号を登録したのはほんの出来心。  再会してしばらくのち、悦巳がいう「誠一サン」とやらがどんなヤツか知りたいという誘惑に負け、悦巳が席を外した隙に携帯を盗み見て番号を登録した。  声だけ聞いてすぐ切るつもりだった。  自宅と携帯とふたつ登録してあり非通知で後者に掛けたがでずじまい、しかし未練は拭い難くなんとなくそのままにしておいたのが役に立った。  空振りに終わった教訓を踏まえ、一縷の希望を託して自宅の番号を選択。  頼む、でてくれ。さっさとでろ。心に響く声が焦慮にまみれた懇願から悲痛に切迫した命令へと移行、頭を低め腹這いつつ念じる。  瞼の裏を過ぎる悦巳の顔、泣いて笑って怒ってくるくると忙しない、ああ畜生しあわせそうにのろけやがって、そんなに誠一サンが好きならいいさ、わかったよ……  『児玉ですが』  「悦巳を助けてくれ!!」  相手を確かめもせず、言う。  「あんた誠一だろ、あいつのことこきつかってたバツイチオレさま社長の……頼む今すぐ来てくれ詳しく説明してる時間ねえ、阿佐ヶ谷北一丁目マンションエーデルハイツ八階2号室にいっから!」  『お前……大志か?悦巳の友人の。どうしてうちの番号がわかった、悦巳は無事なのか!?』  「どうでもいいだろそんなこたあ、早く」   『どうでもよくない、せめて声を聞かせろ、あいつを電話にだせ!!』  「出せる状態ならとっくにそうしてるよ、できねえからしかたなく俺が代わりにやってんだろうが頭わりぃな気付けよそんくらい!!」  言い争う時間が惜しい、とりあえず最低限の情報は伝えきった、あとは……  「くそっ、なにやってんだ!」  「テーブルはお前の仕業か、御影さんに手ぇ上げたのか!?」  「!?くそっ、バレた!」  だしぬけに玄関のドアが開き、帰還した舎弟らが一斉になだれこむ。取り押さえられたはずみに床を滑走した携帯を取り戻そうと掻き毟る五指の先、蹴飛ばされたショックで通話が切れて最後の望みが潰える。  殴る蹴るの暴行から身を庇いつつ誠一がここへ来てくれるだろう僅かな可能性に賭ける、倍に腫れ上がった瞼が視界を塞ぐ、床に壁に頭を打ちつける、リビングから悠然と歩いてきた御影が突っ伏した大志の鼻先にしゃがみ反抗心旺盛なイヌをしつけるようにぼさぼさに逆立つ頭髪をかきまわす。  「次逃げたら目えつぶすぞ」   煙草の先端を軽く叩き、腫れ上がった瞼へと熱い灰を零す。  邪悪が結晶化した笑顔に眩暈と吐き気が襲う。  笑う御影を後ろ手つかまれた不自由な姿勢で仰ぎ、とうとう力尽きて俯く。    ごめん悦巳と、最後に心の中で詫びた。

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