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第44話
夜も更けた閑静な住宅街、何ら変哲のない無個性なマンションの前に減速した車が滑り込む。
「頃合だな」
「目撃者もいない事ですしね」
黒ずくめの運転手が厳かに首肯し、ストイックな優雅さでドアから降り立つ主人に無言で付き従う。
誠一と肩を並べ悦巳が捕らわれたマンションを見上げる。
ただでさえ長身で体格のいい二人が並べばそれだけであたりを払う威圧感を伴うも、付近の住民は寝静まっているか室内で思い思いの時を過ごしてるらしく、闇を従えた寡黙さで道路に佇む人影を顧みるものはない。
閃光の残像を曳航し車が走り抜け、一瞬露光した横顔に陰影が錯綜する。
車の接近と通過にも身じろぎせず、疎らに明かりのついた窓を一つ一つ挑むように睨めつける誠一に、通信を終えたアンディは簡潔に報告する。
「包囲完了、配置万端です」
「そうか」
「……本当にいいのですか」
「その話は済んだはずだ。打ち合わせどおりにやる」
「ですが」
「危険だとでも?」
「殴りこみではないのですか?」
「交渉決裂した場合はな」
心なし残念そうなアンディに鼻を鳴らしマンションへと顎をしゃくる。
「夜ふけに殴りこみをかけたら付近の住民が騒ぎだす。わざわざ警察沙汰にすることもない」
「作戦は迅速に遂行します。警察が到着する前に撤収すれば問題ありません」
「悦巳は振り込め詐欺に関わってる。足を洗ったとはいえ実行犯だ。警察に嗅ぎつけられたら?」
「……失念してました」
「武力行使による制圧は最終手段だ。話し合いで穏便にかたがつくならこしたことはない……が、保険はかけておく。悦巳に……いや、俺に危害が及び次第突入させる手筈を整えておこう」
「連中が何かしないとも限りません。せめてもう一人か二人同行させては?」
クールダウンした判断を尊重しながらも、誠一を護衛するアンディは慎重を期して懸念を示す。
「その時はお前が頼りだ」
アンディがついてくるのを今さら疑いもしない自然体の傲慢さで誠一が歩き出し、駐車場へ続くスロープを下っていく。照明が陰鬱に照らす広大な空間に整然と並ぶ車の間を通り抜けながら、一歩下がって従うアンディに意思確認をとる。
「お前は俺の秘書だ。ちがうか」
「ちがいません」
「ボディガードだ。ちがうか」
「おっしゃるとおりです」
「ならどこであろうと俺が行くところについてくる義務がある。俺に従うのが契約の制約だ。ちがうか」
「ちがいません……が、ひとつ訂正させてください」
暴君の如き振る舞いで忠誠を試す誠一に宣誓するように背筋を正し、実直な表情を引き締め申し述べる。
「先ほども申しましたが、社長をお守りするのは契約だからでも義務だからでもありません。それが私の信念だからです」
まっすぐ目を見つめ断言され誠一がかすかに笑う。
アンディの律儀さと頑固さにあきれはてたような、親愛の情と折半する苦笑だった。
ボタンを押し、自動的に開いた扉からエレベーターに乗り込む。
大志が告げた部屋番号を脳裏で反芻、昂ぶる心をしいて落ち着けようとする。
やがて扉が開き、青白い照明が照らす廊下へと吐き出される。
目的の部屋の前まで無言で歩く。分厚いドアに遮られ中からは物音ひとつ聞こえない。
誠一が前に出る。アンディが背中を守る。
ドアの横に備えつけのブザーを押して待つこと十数秒、チェーンががちゃついてドアが細く開く。
「誰っすか、あんた」
ドアの隙間から片目を覗かせ来訪者をうかがうのはにきびづらの若者。
非友好的な凝視といかにも胡散臭そうな誰何の声に、誠一は平然と切り返す。
「しつけが足りんな。お前の上司は客のもてなし方と目上への口のきき方も教えなかったのか」
「!?なっ、んだてめえ」
「瑞原悦巳の保護者だ」
即座にドアを閉じようとした若者の襟首をつかまえチェーンが伸びきるまで押し開く。
「悦巳ってだれだ、いねえよそんな奴、勘違いしてんじゃねえか!?ちょ待てぐるじ、首、首じまるはなぜ」
「うそをつくな、目の色が変わったぞ。開けろ」
「誰がこんな夜中にたずねてきた不審者通すかっ、いい加減にしねえと警察よぶぞ!」
「ほう、自首とは殊勝な心がけだな」
前のめりに倒れた若者がのしかかり、重りが食い込んだチェーンががちゃがちゃ撓む。
「ここを通せ、あいつがいるのはわかってるんだ」
応対に出た若者の言動から悦巳がいると確信するも既に手遅れかもしれない焦燥に駆られ、嫌な想像を振り払うよう語気強く命令する。
「だから知らねえってそんな奴、部屋間違えてんじゃねえかおっさん!」
「お前に用はない。悦巳をだせ」
拳の中でチェーンが軋り耳障りな金属音を立てる。
ドアに挟まれた上誠一に襟首締め上げられ窒息寸前、青黒く膨れ悶絶する若者のむこうから呑気な足音がやってくる。
「うっせえな、目が覚めちまったじゃねえか。隣近所の皆さんにご迷惑―……っと」
玄関に至る廊下を歩いてきたインテリじみた風貌の男が、若者と熾烈な攻防を繰り広げる来客に唖然とする。
「………児玉誠一?」
「ああ」
猜疑と不審を孕んだ視線が交錯する。
「……は、ははっ!おっでれーた、なんでここに?お初にお目にかかりまして光栄至極、汗顔の至りとでも言やいいか」
狡猾に笑う男を無表情に見返し、隙間に膝をめりこませてドアをこじ開けにかかる。
「どけ」
「いいんすか御影さん」
「いいんだよ。お前は茶ァいれてこい」
チェーンを解いて大きくドアを開け放ち、非常識な時間に訪問した二人組を渡りに舟と招じ入れる。
「ようこそ社長さんと黒くて巨大で根性入った略して黒巨根なその下僕。きたねえところで恐縮だが、ま寛いでってくれ。三回漉したティーパックの粗茶くらい出すぜ」
「前もって言っておくが俺の舌に粗茶は合わんぞ」
「下品な名をつけるな。俺はアンディだ」
「アンディ……本名かよそれ。あんた見るからに黒巨根って感じだぜ」
案内されたリビングは荒涼と散らかっていた。
ろくに掃除もしてないのだろう、スナック菓子の空き袋や食べかすが散乱した埃っぽい惨状に顔を顰める。
「そうやな顔しなさんなって、今日はいろいろ忙しくて手が足りなかったんだよ。誰かさんにへこまされた車は修理にださなきゃいけねえわ定例の会合はあるわで……別口の飛び入り参加もあったし」
アンディを振り返り、訊く。
「そういやあんた大丈夫か?車に吹っ飛ばされたんだ、肋の二・三本確実にイッたろ。今頃病院じゃねえのか?にしちゃあぴんぴんしてっけど」
「問題ない。貴様らとは鍛え方が違う」
「とかなんとか言っちゃって、防弾ベストでも着込んでたんだろ?」
「…………」
「ホントに着込んでたのか?」
「……狙撃に備えてな」
リビングの中央にはガラステーブルを挟んで対面式のソファーがあり、片方に御影が、片方に誠一が腰掛ける。
アンディは誠一の傍らに立ったまま、のらくらと掴み所ない言動で相手を煙に巻くこの男があるじに無礼を働かないか油断なく目を光らせている。
ソファーに座った誠一は、御影の腹黒さを推し量るように冷ややかな一瞥を投げる。
「俺の顔と名前を知ってるようだな。手回しのいい事だ」
「ヤクザの情報収集力なめるなよ。人海戦術は得意だ」
ゆっくりと足を組み値踏みするように上唇をなめる。
「可愛い舎弟が世話ンなったみてえだから一度きちんと礼を言っときたかった。そっちから出向いてくれて助かったぜ」
「悦巳が貴様の舎弟?ただのカモじゃなかったのか」
「辛辣だな」
「貴様は悦巳を食い物にしてきた。振り込め詐欺の仲間にひきずりこみ逃げても執拗に追いかけてきた。まるでネズミ講だな。最初に唾つけた舎弟に友人をひっぱってこさせ、身元が割れる前につぎつぎ使い捨てる。舎弟の肩書きに憧れる不良上がりの子供にはさぞかし魅力的な餌だろうな」
「入れ食いって言ってくれ」
御影が笑う。誠一の目つきが険を増す。先刻の舎弟がおずおずと茶をもってくる。
淹れたての茶には口をつけず御影を睨みつける。
「他の連中はどうした」
「24時間詰めてるとでも思ったか?残念。ここはただの事務所、仕事場。通いのバイトと舎弟はとっくにうち帰らせた。門限守ってハイ解散、ガキはクソしてマスかいておねんねしとけ。今んとこ囲いの女もいねえ独身貴族の俺様はよく泊まるけどな、日付け変わると帰んの面倒くせえし……独身貴族って死語か?やべえ、年バレる」
「大志は?」
たゆたう湯気にぬくむ顔に意地悪い笑みが浮かぶ。
「なるほど、あいつね。あいつがあんたに知らせたわけか。大事なえっちゃんが痛めつけられんの見てらんなかったか」
唄うような抑揚をつけて仄めかしつつ手の中の湯呑みを回す。
悦巳を痛めつけた。
さらりと投げつけられた言葉に怒気が膨れ上がるも、不感症的無愛想を演じて話題を変える。
「大志はどうした」
「殺してねえから生きてるんじゃねえか」
その言葉に顕著な反応を示したのは誠一よりもむしろそれまで直立不動で沈黙を保っていたアンディ。
「……あいつはどこだ」
ひりつくような殺気と滾りたつ覇気とを濃縮し、消息をはぐらかす御影に食らいつく。
「えっちゃん見捨ててトンズラこいたって怒ってんのかよ」
「あいつに限ってそれはない。絶対に」
「随分高く買ってんだな。拳を交えて友情が芽生えた?」
戯言は無視する。
「大志は頭を冷やしにいったよ、俺にあわす顔なくてそのへんぶらついてるんだろうさ。なめたまねしてくれたお礼に腕の一本二本もらってもよかったんだが、ごめんなさい痛くしないでって涙と鼻水どばどば垂れ流されちゃ興が殺がれんだろ?そのうち戻ってくんじゃねえか?会いたいなら待ってりゃいい」
アンディが拳を強く握りこむ。
「……少し気になっただけだ。会う必要はない」
「恋敵とガチでぶつかるのはいやか」
「どういう意味だ」
「一つ屋根の下でよろしくやってたんだろう。愛人として囲ってたって白状しちまえ」
「ゲスの勘繰りだな」
「おっかしいなあ、えっちゃんはそう言ってたぜ?誠一さんのアレはおっきかったってさ」
「あいつと話をさせろ」
「家政夫兼愛人。いいねえ、便利だねえ。家事と性欲処理同時に引き受けてくれるってわけか。あんたの婆さん、えーと……児玉華、だっけ。えっちゃんが前に詐欺にかけたカモだろ?それをネタに脅したわけか、言うこと聞かなきゃサツに突き出すぞって。図星?その顔は図星?ははっ、えげつねえ!えっちゃんはビビリでヘタレだかんな、そう言われちゃ断れねえ。なんでもあんたの言うなりだろうさ」
「悦巳をだせ」
「いじめ甲斐あったろ?」
「悦巳を渡せ」
「嫁さんに自分探しの旅にでられちゃ男に走る気持ちも理解できる、女運の悪さにゃ同情するよ。あんた、だいぶ若いときに結婚したんだな。学生結婚だったんだろ。ガキなんか作る予定じゃなかったんだろ。野郎なら安全牌、どんだけ生で中出ししたって心配ねえ……」
愉悦に酔って喋り散らす男の顔面に茶をぶちまける。
「まずい茶だ。こんなまずい茶は呑んだことない」
抑制の利いた動作で湯呑みを戻し、手の甲で顔を拭う御影を蔑む。
「悦巳を返せ。契約はまだ切れてない」
「愛人を取り返しにきたってか。けなげだねえ」
茶を浴びせられても人を食ったへらへら笑いは薄れない。誠一から反応を引き出したことでかえって気をよくし手を叩く。
「瑞原悦巳は児玉華が生前指名した遺産相続人。あんたはその後見人、悦巳が成人するまで遺産を管理する役目をおおせつかった」
調べはついてるんだぞと言わんばかりに身を乗り出す。
「そりゃヤクザにかっさわれちゃたまんねえよな。言うなりゃ悦巳は財布だ、見た目は貧相でも中は札束でぱんぱんに膨らんだ財布だ。あいつの身柄をおさえてる限りあんたは婆さんが残した金をいつでも好きに引き出せる」
「ごたくをぬかせ」
「最初からそれが狙いだったんだろ、めあてだったんだろ?若い体も家事スキルもおまけについてきたにすぎねえ、俺らに追われて路頭に迷った悦巳を拾ったのは下心があったからだ、結局あんたは金の亡者なんだよ、婆さんの復讐なんてでたらめの嘘っぱちだ。どうでもよかったんだろうそんなの、しこたま金がほしかったんだろ?」
饒舌に付き合うのに嫌気がさし席を立つ。大股にリビングを突っ切り廊下へ向かう。
「どこだ悦巳、いるなら返事をしろ!」
「聞けよ社長さん、必死な演技なんかすんなって」
「悦巳!どこにいる、ぐずぐずするな、帰るぞ!!」
「何やってんだ、ぶっ壊す気か!」
壁を殴って回る誠一を舎弟が止めに入るも見向きもされず突き飛ばされひっくりかえる。
悦巳は必ずこのどこかにいるはずだ。
ならば何故返事をよこさない、返事ができる状態じゃないのか?
切実に無事を祈る気持ちと手ごたえのない苛立ちとに引き裂かれ廊下の一面を占めるクローゼットを開け放ち浴室に殴り込んでシャワーカーテンを引き毟り床に壁に天井にその痕跡を訪ね歩く、片っ端からドアを開け放ち覗き込んでは裏切られいきりたつ。
突き当たりのドアをさしてアンディが叫ぶ。
「鍵が掛かってます」
ドアの表面に殴打の衝撃が爆ぜる。
片手でノブを引っ張りもう一方の拳でドアを乱れ打ち、擦り切れるまで声を張り上げ続ける。
「悦巳!悦巳!ここにいるのか悦巳、いるなら返事をしろ!」
どうして開けない、でてこない。
「さっさと出てこい、これ以上手を焼かせるな!俺は暇じゃないんだ、明日もスケジュールが詰まってるんだ、睡眠時間を削ってむかえにきてやったんだから感謝しろ!」
家ではみなはが待ってる。
お前が必要なんだ。
お前じゃなきゃだめなんだ。
「聞こえてるか悦巳!」
どうして何も言わないこたえない。
俺に愛想を尽かしたのか。
謝る?
なにを謝ればいい?
ずっと騙してたことか、利用していたことか。御影が言ったことは間違ってない、俺はずっとあいつを騙していた、契約書を盾に脅していいようにもてあそんでいた。
腹を立ててるのか。
だからでてこないのか。
俺のせいか。
お前が暗く狭く冷たい場所から一歩も出てこようとしないのは、無事だと安心させるただ一言の返事さえよこさないのは
「悦巳……」
狂ったようにドアを殴りつけていた拳が力尽き垂れ下がる。
「誠一さん……?」
「!」
顔を跳ね上げる。忘れもしない悦巳の声。
こみ上げる安堵に顔の強張りがほぐれ、しつこくつきまとっていた最悪の予感が氷解していく。
「……やっぱりいたんじゃないか」
惰性で振り上げたはいいが煮え切らず拳がほどけ、手の甲で軽くドアを叩くにとどまる。
倦怠感漂う鈍重さでドアを叩いたのち、戸惑いがちな沈黙が漂う。
「……なんでここに?」
「大志が電話をかけてきた」
「……」
「無事か?怪我はないか」
「……とりあえず生きてます」
次なる言葉をさがしあぐね、ドアの向こうで途方に暮れる悦巳をそっけなく促す。
「帰るぞ」
「いやっす」
断られた。
「何……」
「あんた俺になにしたか忘れたんすか?今日のことっしょ。どこへなりとも行っちまえって言ったくせに、その数時間後にいけしゃあしゃあやってきて帰るぞって何様っすか。あんたの身勝手に振り回されンのもううんざりなんすよ」
悦巳らしからぬ罵倒を浴びせられ絶句、拳のやり場をなくし立ち尽くす。
川べりの道で最後に見た悦巳の姿、みはなが泣き縋り追いかけても振り向かず道のはてへと去っていく背中が瞼に浮かぶ。
「もういやなんすよ、あんたの面倒みんの。びくびくしながらご機嫌うかがうの」
抑えた声音には虐げられたものの憎悪がこもっていた。
「何なんすかあんた。紅茶ひとつ自分じゃ淹れられねえくせにえばりくさってなんでもかんでも人におしつけて、それがいい大人のやることっすか。俺だって精一杯やりましたよ、褒めてもらいたくて。でもいいんです、もう。ぜんぶ嘘だって、あんたが俺の事なんとも思ってねえってはっきりしたんだから」
「悦巳、」
「ずっと利用してたんしょ?ばあちゃんの遺言の事黙って、俺に転がりこんだ遺産狙いでそばにおいて、本当にごくまれに気紛れに優しくて」
違うそうじゃないと反駁しかけて口を噤む。
何故ならそれは覆しがたい事実だから。
悦巳の指摘はどこまでも的を射ていたから。
「誠一さん、詐欺師になれますよ」
最初から最後まで計画されていた事。
「俺、すっかりだまされちまった。あんたの言うこと信じて、家政夫になりきって」
違うと否定しようとして言葉をなくす。
「……家族の仲間入りできて浮かれてイイ気んなって、ひとりでばかみたいっすね」
「悦巳、俺は」
「今さら来たって遅いっすよ。本性バレバレ」
これまで幾度も彼を躓かせてきたプライドの高さが今また弁明と釈明を阻む。
悦巳を騙していたのは事実だ、利用していたのも事実だ。
しかしそれだけじゃないと伝えようとして、それを伝えるには遅すぎると気付く。
悦巳を傷つけた。
どうしようもなく傷つけてしまった。
どうしてあの時あとを追わなかった、手を掴んで引き止めなかった、あの時ならまだ間に合ったのに。
悦巳の中にもう誠一の居場所はない。
「欲しいのは金だろ?俺じゃなくて」
疑心暗鬼がどす黒く渦を巻く台詞を悪夢のように繰り返す。
ひとつ違うのは御影のそれが心底愉快げなのに対し、悦巳の声はこみ上げる激情を辛うじて抑え込んだ震えを帯び、誠一を責めているということ。
「出て来い悦巳」
「嘘。うそうそうそうそばっか。ずっとうそついてたんだ。楽しかったっすか、俺があたふたすんの見て。坂道転げ落ちるみたいにあんたを好きになってく俺を見て、利用されてるのも知らずバカな奴だって腹の中で笑ってたんだろ」
「みはなが待ってる。約束したんだ、連れ帰ると」
「みはなちゃんをダシにすりゃなびくとでも?最低だよ、あんた」
「お前じゃなきゃだめなんだ」
「頼むから消えてくれ」
「お前が要るんだ」
「わかんねえ奴だな、言うとおりにしたのになにが不満なんだ。どこへでも行けっつったからここに来た、俺が目の前から消えるのがあんたの望みだったんだろ!?叶ってよかったなおめでとう、んなわけで消えてくれ、俺の人生ひっかき回すな!奥さんどうしたんだよ、何ほっぽってきてんだよ、しあわせになれるチャンスまた潰したのかよ!?」
「美香とは話し合った。結論は保留した」
「保留?」
「あいつについてくか俺と暮らすか、今日の話し合いではみはなの将来を決められなかった」
「なんで?奥さん戻ってきたら手放す必要ねえだろ、一緒に住めばいいじゃん、家族やり直しゃいいじゃん!」
「できない」
「なんでだよ!」
「お前がいるからだ!!」
「だから消えたんだろ!!」
慟哭のような絶叫が言葉足らずな説得を打ち砕く。
「俺がじゃまだから、俺さえいなけりゃ上手くいくとおもって、ちゃんとした家族のカタチになると思って、なのになんでぶち壊すんだよ察しろよ!!どうせ赤の他人だ、家においてもらう理由ねえよ。俺のせいでばあちゃん死んだ俺が殺した、けどばあちゃんは俺に遺産ゆずるって、わけわかんねえンだよそれ怒ってんじゃねえのかよ、頭ぐちゃぐちゃでこれ以上あんたと一緒にいられねえよ!もういっすよ、いらねっすよ、遺産なんか欲しけりゃくれてやるからほっといてくれよ!相変わらずダンマリでトボケてボケて……みはなちゃんみはなちゃんみはなちゃん、肝心のあんたはどうなんすか、あんたの気持ちはどうなんすか?わかってるんすよ、俺のこと嫌いだって、憎んでるって。ばあちゃんの仇っすもんね、みはなちゃんに悪影響与える犯罪者っすもんね、紅茶もまともに淹れられねえダメ家政夫っすもんね!わかってんだ、わかってるから」
頭突きをくれたようにドアが鳴る。
「もう会いたくなかったんすよ、あれっきりにしたかったんすよ、今じゃボロボロのどん底でせっかく来てくれたってあわせる顔なんかないんだよ!!」
頭突き、蹴飛ばし、拳を叩きつけ、嵐のように荒れ狂う。
「いっつもそうだ、ずるいっすよ誠一さん、みはなちゃんみはなちゃんみはなちゃんてみはなちゃんの名前さえだしゃ俺をしばりつけておけると思ってる!俺は誠一さんの気持ち知りたいのに、みはなちゃんダシに使ってほしくねえのに一体どんだけ幻滅させたら気がすむんすか!!俺の気持ち知ってるくせに生殺しでしらんぷりで」
ドアのむこうで鈍い音たて何かがずり落ちていく。
「そんな人と一緒にいけねえよ……」
儚げな泣き笑い。
「俺が要るって、相続人だからっしょ?」
ドアに手をつき悦巳がしぼりだした言葉に、誠一も中腰の姿勢で手をついて答える。
「ちがう」
「ばあちゃんの遺書にそう書いてあったからっしょ?」
「ちがう」
悦巳の体温をさぐるようにドアに手を這わせ、ことんと額を預けたのだろう、音がした方へ自らもまた額を合わせる。
「誠一さんにとって俺ってなんなんすか」
詐欺師でも御曹司でもない、家政夫以外の答えがほしい。
数呼吸の沈黙ののち、誠一が口にした答えは悦巳の期待を裏切るものだった。
「………家政夫だ」
絶望に呑まれ虚脱し、その場に沈み込む悦巳の耳へ面映げな声が届く。
「そして、家族だ」
プライドで出来ているような男がプライドを捨て跪く。
「お前の言うとおり、最初は利用するつもりだった。ばあさんの復讐は建前だ。親父にお目付け役を言い渡されてしかたなく同居を始めた。お前ときたら全くダメな家政夫で失敗ばかり、試しに淹れさせた紅茶は熱すぎるかさもなくばぬるすぎてとても飲めたもんじゃない。世界で一番まずい紅茶だった。そのうちそのまずさが癖になった、お前が淹れた紅茶しか受け付けなくなった。まだある、ほかにもある。土産の代わりにたっぷりと小言を用意してきた。ばたばた廊下を走るな。掃除機のかけ方が騒々しい。風呂で調子っぱずれの歌をうたうな、みはながまねする」
「……別にいっしょまねしたって、喉自慢でれますよ」
「俺は味付けが濃い料理が好みだ、もっと塩気をきかせろ。だけどまあ、お前の作った味噌汁も悪くはない」
お前がいる毎日もそれはそれで悪くないのだと、
「みっともないからスウェット姿でうろつくな、外へでるときは俺の服を貸してやる。クローゼットに入ってるだろう?」
「漫画とDVD捨てたくせに」
「ちゃんと片付けてでていかないからだ」
「横暴だ」
「そうだな」
「今までさんざん冷たくしといて今さら、二度と顔見たくないって言ったの忘れたのかよ」
「身勝手だと自分でも思う。思うがしかたないだろう、お前がいないとみはなは笑わない、俺は自分を見失う。お前の顔が瞼の裏にこびりついて離れない、おかげで仕事に集中できない、この俺がドジばかりする。どうしたらいいかわからないのは俺も同じだ、確実に言えるのはお前がいなくなるのがいやだということだ」
ちっぽけなプライドより大切なものを見つけた。
手が届かぬならせめても独白を届けようと、
一度断ち切れた絆を結び直そうと、
己が持てる全てを賭ける。
「お前についた中でいちばんの嘘は、お前と切れてせいせいするという嘘だ」
自分でも気付かない嘘がある。
自分が嘘と認めない限り嘘に成り得ない哀しい欺瞞と虚勢は澱のように沈殿し、毒となって確実に心を蝕んでいく。
誠一はたどたどしく訴える。
懺悔にも似て一途な真摯さで、虚勢を洗い流した無様な誠実さで、悔悟の苦痛を堪えるようにして。
すまなかったと、そのたった一言がどうしても言えない。
ささくれのように喉にひっかかってでてこない。
最後に人に謝ったのはいつだろう。
美香にさえ詫びずじまいで、謝り方なんて忘れてしまった。
児玉誠一は頭を下げるのがとてもヘタだ。
『かわいそうに。カイは心臓にかけらがひとつはいってしまいましたから、まもなくそれは氷のかたまりのようになるでしょう。もういたみはしませんけれども、たしかに心臓の中にのこりました』
誠一の胸には砕けた鏡の欠片が刺さっている。
その欠片はいつだって大切なものを奪っていく。
雪の女王にでてくるカイのようにひねくれもので乱暴者、心は冷たく人への思いやりを忘れた誠一は、心臓に深く突き刺さった欠片を抜く方法を知らない。
けれどもあの時、みはなの誕生パーティーが催されたホテルの中庭、冬枯れの廃園のベンチで白い息を吐きながら語り合ったひととき。
跪いて指を咥え、棘を吸い抜く悦巳の、祈るように伏せた面持ちを追憶する。
気恥ずかしさと初々しさが綯い交ぜになった俯き顔が白い吐息にかき曇る。
指を這う唇の熱が染み透り、遠く離れた胸の裡が疼く。
左手薬指と心臓は赤い糸で結ばれてると教えてくれたのは祖母だったか、美香だったか。
悦巳が接吻したのは人さし指だったが、傷口を包んだぬくもりが歳月を重ねやがて心臓まで届いたなら、誠一を冷たく高慢な男に変えた鏡の欠片もきっと、ゆるやかに溶けていくはずなのだ。
『ゲルダは熱い涙を流して泣きました。それはカイのむねの上におちて、心臓のなかにまでしみこんで行きました。そこにたまった氷をとかして、心臓の中の鏡のかけらをなくなしてしまいました』
誠一は訴える。
拒まれ閉め出されてもけっして諦めず、あの時手渡されたかけがえのない得難いものを絶望的なまでのひたむきさで伝えようとする。
彼を彼たらしめるプライドが掛けた枷に苦しみながら、悦巳の気持ちを代弁するが如く固く閉ざされたドアに手を添える。
こじ開けるのではなく労わるように、駄々をこねる子供を宥めるように、あの夜の悦巳が誠一の手を包んだように、ドアと触れ合う手を通じ孤独を溶かすぬくもりを注ぐ。
「いつのまにか、お前がいる生活があたりまえになっていた」
ドアのむこうで耳を澄ましているに違いない悦巳にできるかぎり正直になろうと努力し、しかし今の気持ちを言い表す上手い言葉が見つからず、もどかしさに唇を噛み、苛立ち、つっかえつっかえ言う。
「一つ屋根の下に赤の他人を住まわせるなんて冗談じゃない、しかも犯罪者なんて。そう思ってた、最初は。少しの間のガマンだと自分に言い聞かせ妥協した。気に入らなけりゃ難癖つけて追い出したってよかったんだ。なのにいつのまにかそれができなくなった。廊下をばたばた走ってくる音に慣れて、お前が言うおかえりなさいをまんざらでもなく思い始めて、お前に心を許し始めてる自分が許せなくて、許せないのにどんどん離れられなくなっていくんだ」
カイは凍りついた心を溶かしたゲルダに恋し、誠一は悦巳を慕う。
「気付いた頃には手遅れで、お前が他人じゃなくなっていた」
不覚にも、愛しく思い始めていた。
「家族はいつもひとつだなんてざれごとだ、俺が知ってる家族は最初からばらばらだった。ばらばらだった俺とみはなを結び付けてくれたのはお前だ、悦巳。お前がいてくれたから俺たちは家族になれた。俺はお前からみはなへの接し方を学んだ。お前が教えてくれた事の重さは、お前がついた嘘の重さと釣り合って余りある」
ドアをなでていた手をおろし、トイレの床に蹲る悦巳に言い含める。
「お前は俺の家族だ。俺がいま一番そばにいてほしいと望んでいる人間だ」
愛してるとすまないは同じ位気恥ずかしく言いにくい。
愛してるもすまないももう何年も口にしてない。
言う機会を失し続けたたった一言を告げる代わりに、ひとりぼっちで膝を抱えこむ悦巳に心を寄り添わせる。
「俺が必要としてるのは詐欺師じゃない、相続人でもない、ただの瑞原悦巳だ」
泣いて笑って怒って表情豊かで
いつだって誠一とみはなを包み込み支えてくれた
「ばかでお人よしでお節介でドジでうるさくて料理はへたくそで、紅茶の淹れ方はてんでなっちゃなくて、だけど誰よりみはなの事を考えてくれる。俺の事を真剣に怒ってくれる。……家政夫じゃなくたっていいんだ。そばにいてくれるならそれでいい。俺たちのところに戻ってきてくれれば」
身勝手だってわかってる。
都合がいいとわかってる。
児玉誠一は最低の男だとよくわかっている。
最低の男でも、恋をしたっていいだろう。
「そこをでて、顔を見せてくれ」
静寂。
「……らのはな、さきてはちりぬ。おさな子エス、やがてあおがん」
悦巳が口ずさむフレーズに心臓がひとつ鼓動を打つ。
「どこでそれを」
「雪の女王っす。みはなちゃんに読んでくれってせがまれて……お母さんが買ってくれた思い出の本だって……はは、なんか妙に印象に残っちゃって、このフレーズ。洗脳ソングっス。おさなごエスってなんなんすか?」
「イエス・キリストのことだ」
「あ、そっか。イエスがなまってエスか。頭いっすね」
「お前が馬鹿なんだ」
「誠一さんあの本にでてくるカイって男の子にそっくりっす。いばりんぼの悪ガキで、いつだって人ンこと馬鹿にしなきゃ気がすまないとこなんかうりふたつっす」
コン。ノックが響く。
「雪の女王のラストってどうなるんでしたっけ」
「忘れたのか。読んでやったんだろう」
「物覚えの悪さには自信があります」
「もつな、そんな自信」
「っかしいな、途中まで覚えてるんだけどなあ」
コン。
「俺の想像……つーか願望だけど、冒険を終えたカイとゲルダはさっさとうち帰って、ごくフツーの小市民としてまっとうに暮らすんです。屋根の上の薔薇にじょうろで水やって、さきてはちりぬるなんとかはって唄って踊って、ばあちゃんのむかし話を聞いて、おもしろおかしく遊んで暮らして……夫婦んなって。あの時は冷感症のヒス女に目えつけられて災難だったわねあんた、うるせえそんな俺を地のはてまで追っかけてきたストーカー女はだれだって喧嘩して、けれど助けてもらった弱みに勝てず女房の尻に敷かれて、目玉焼きがしょっぱいとかスープが薄いとかケチくせえ喧嘩しながら年とってくんです。子供できて、大きくなって、孫も産まれて。お互いビール樽のように太った中年になっても相変わらずで、ちょくちょく孫集めちゃ昔とったトナカイの角自慢したり、盗んだソリで走り出した武勇伝語ったり、そういうふうにしてしわしわになるまでそこそこ楽しくやってくんです」
コンコン。
「教えてください誠一さん。カイとゲルダはしあわせになれるんですか」
「……ハッピーエンドに決まってる。ぜんぶばらしたら興醒めだろう、あとは自分で確かめろ」
「……よかった」
それきりドアの向こうから届く声は絶えた。
とうとう最後までドアは開かなかった。
「えっちゃんは顔も見たくねえとさ。嫌われちまったな」
リビングの方からにやにや笑いながら御影が姿を見せる。
「俺はまだ諦めてない。明日むかえにくる」
「スケジュール詰まってるんじゃねえの?」
「どうにかする」
強行突破という選択肢もあったが、悦巳が自分の意志で出てこなければ意味がない。
苦悩の色濃く押し黙る誠一の背に御影が近付く。
「ただで帰すと?」
挑発にスッと目を細める。
「金か」
「ま、身も蓋もねえ言い方すりゃそんなとこだ。夜遅く人んちに乗り込んでうるさくした迷惑料こみでな」
「払う義理はない」
「義理とか仁義の話はしてねえんだよ、ビジネスの話だ。えっちゃんとデキてんだろあんた?バラされたら困るんじゃねえか」
「証拠はあるのか」
「あんだけ大声張り上げてりゃな。リビングまで筒抜けだったぜ」
耳をさしてからかう御影に不覚を悟り、苦りきった顔をする。
「仮にも社長さんともあろう人が若い男を一つ屋根の下に住まわせていちゃついてたんだ、世間さまはどう見るかな」
「脅迫は相手を見てしろ。もう一度言う、ヤクザに払う金はない。こばむなら実力行使にうってでるまでだ」
牽制を兼ね踏み出すアンディを両手を挙げていなす。
「もうお帰りか?車の修理費についちゃ交渉まだだぜ」
「俺は治療費を請求したい」
「んじゃお願いですから払わせてくださいって頼みたくなる秘蔵映像を見せてやる」
さりげなく回り込んで通せんぼし、ついてこいと背中で命じる御影の後に続く。
「見せたいもんがあるんだ」
椅子に掛けた御影がデスクトップパソコンの電源を入れマウスを操作、動画を表示する。
液晶に表示された動画に目を凝らす。どうやらこのリビングを長い尺で撮影したものらしい。
「粒子が粗いのは隠しカメラのせいだ。あそこに仕込んでおいた」
「事務所にカメラを仕込んでるのか?」
「留守中人の机をひっかきまわしたり売り物のクスリに手えつけるやつがいるんでね」
天井の一角へ顎をしゃくる。
動画の中を複数の人間が行き交う。若者たちが大勢集まって何かしてるらしいが、音が消されているせいでよくわからない。帰り際の誠一をわざわざ呼びとめ、謎の映像を見せた御影の意図が掴めず困惑するも、アンディがはっと息を呑む。
「社長……」
誠一も気付いた。
マウスをクリックし解析度を上げた映像の中、床の真ん中に組み敷かれているのは悦巳だ。
大勢の若者たちが笑いながら悦巳の手足を押さえつけ服をひん剥く。行き交う若者たちの間にちらつく悦巳の姿は悲惨の一言に尽きる。両手はガムテープで纏められ、ろくに抵抗もできぬまま上着とズボンを毟られ痩せた腹筋をさらけだす。酸素を貪るように大きく口を開け叫ぶ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で必死に助けを求める、くりかえしくりかえし切れた唇が同じ動きをする、瞬きもせず目を凝らし唇の動きを読む。
『せいいちさん、ひっ、ひぐ』
『せいいちさん、たすけ、うわっ、ひう』
「よく撮れてるしもったいねえからDVDに焼いといた。あんたんとこに送りつけようかと思ったんだけど手間省けてよかったぜ」
暴れ狂う両足で床を掻き毟り泣き叫ぶ悦巳に下半身を剥きだした若者たちが群がる。
「音も入れてやろうか?根詰めて作業してたら帰りそびれちまった。イイ声で啼くだろえっちゃんは、あんたならもう知って」
輪姦の模様を映し出す液晶に警棒の一撃で亀裂が走る。
力一杯振り下ろした特殊警棒で液晶を割り映像を止め、暗転したパソコンごと机上の書類を薙ぎ払う。
「……一言『殺れ』とお命じください」
怒り狂うアンディを手で制し警棒を振るう。書類が乱雑に舞う中御影が嘲笑う。
「残念、バックアップとってある」
「部隊を召集しますか」
「不法侵入と器物損壊、威力営業妨害で逮捕されんのそっちだぜ」
痙攣するように笑う御影の顎先に切っ先をつきつけ、凄まじい圧力で仰け反らせる。
「取り引きしようぜ」
警棒で喉を突かれてもなお笑みを絶やさず、液晶を破壊され床に横たわるパソコンを見やって提案する。
「残念、ほかにも焼いてある。市場に流したらいい金になるだろうな。さあどうする、おんもで待ってるお仲間よんで締め上げっか?そんなことしたってむだむだ、データはもう手元にないんだからさ。送っちまったんだよとっくに。今ここでトラブルおこすのは利口じゃねえ、あんただってそんくらいわかってんだろ、おとも一人連れてきたのがその証拠。最初から事を荒立てる気はなかったんだ、あんたは。脅してびびらせて穏便に解決すんのが一番、できるだけ自分が不利益被らねえ形でな。わかってんだよお見通しだ」
警棒を掴んだのとは逆の手で御影の頭髪を鷲掴み机に叩きつける。
「あんただって警察の介入は望んじゃない、世間体にキズついたら商売上がったりだもんなあ」
「悦巳になにをした」
「ナニ?見りゃわかるだろナニしたんだ、可愛がってやれっつったからな、暇つぶしにマワしたんだろ。えっちゃんがよがり狂う姿なかなかイけてたろ、勃っちまったか?」
狂った哄笑を放つ御影の額を机の角に狙い定めぶつける。
騒ぎを聞きつけ飛んできた舎弟が携帯でどこかに掛ける。
「別にいいだろ、何むきになってんだ。まさかホントにお手つきだったのかよ、デキてたのかよ?ははっ、こいつは傑作だ!いいじゃねえかもう十分楽しんだんだろ、えっちゃんのイき顔お裾分けしてやれよ、世にでたところで困るのあんたじゃねえんだしさ」
犯され喘ぎながら助けを求める悦巳の顔が目に焼きついて離れない。
悦巳がトイレに閉じこもって出てこないわけがようやくわかった、伸ばした手を握り返さない理由がようやく飲み込めた。
順番が逆だったら?
先にビデオを見せられていたら?
俺は悦巳になんて声をかけていた?
何も知らず悦巳を罵った自分の無神経を呪う、液晶の中に手を伸ばせたらどれだけいいだろう、時間を巻き戻し救い出せたらどれだけいいだろう、それができないなら今ここでこいつを殺すしかない。
今ここで、
『御曹司になんてなりたくなかった』
『あんたたちと一緒にいられたらそれでよかった』
『それでよかったのに』
べそかくような笑顔と諦めきった述懐が、殺人衝動に理性を売り渡しかけた誠一を我に返す。
「………いくら欲しい」
「社長!?」
視界の端で舎弟と組み合うアンディが叫ぶ。
抗い軋む指を深呼吸で回復した自制心を総動員しこじ開け、机に押さえ込んだ御影を腕の一振りで転ばせる。
「勘違いするな、手切れ金だ。受け渡しが済んだら金輪際あいつにつきまとうのをやめると約束してもらう」
机に寄りかかる御影の顎を警棒で押し上げ、鍛え抜いた意志の力で荒れ狂う激情をねじ伏せ、睨めつける眼差しに殺意を固めた弾丸を装填する。
「瑞原悦巳は俺が貰う」
宣言を受け、哄笑が破裂する。
「………くはっ。はっ、はハッ、はっははははははははっははっはははは!恐れ入ったぜ、すっかりイカレちまってら。あんたも大志も物好きだぜ、俺にゃまったくわかんねえよえっちゃんの魅力がさ!なあ待てよ教えてくれよ一体あのバカのどこに惚れたんだ?」
床でのたうつ御影に背を向け、アンディをつれて立ち去りつつ静かに言う。
「うそをつけないところだ」
意外すぎる答えに虚をつかれ哄笑がやむ。
「………はあ?なに言ってんだ、あいつがどんだけ」
「あいつはうそをつけない。ついてもすぐバカ正直に顔にでる、そういう難儀な体質なんだ。電話なら騙せるだろう、直接顔を見て話さなければ」
誠一は謝るのがヘタで、悦巳は嘘をつくのがヘタだ。
ひょっとしたら、自分たちはお似合いなのかもしれない。
「あいつは俺にうそをつかなかった」
『ずっと好きでした』
「俺たちにはできるかぎりうそをつかないでいようとした」
アンディに背後を守られ玄関に立ち、自分の心と向き合い決断をくだし、絶望の中で見つけた一握りの希望を、祈りにも通じる真摯さで今いちばんそばにいてほしい人物に届けようとする。
「だから俺は、あいつにおかえりを言おうと思う」
片手にさげたドラッグストアの袋ががさつく。
二十四時間営業のドラッグストアが歩いて行ける距離にあって助かった。中には包帯とバンドエイド、消毒液と栄養ドリンクが入ってる。歩くだけで体が痛む。服を脱げばそこらじゅうに痣ができてるだろう。レジの店員が目を合わせようとしなかったのはたぶん倍ほどにも腫れ上がった右目と切れた唇、顎の痣が原因だ。
清算を終えるや袋をひったくり、そそくさと自動ドアを抜け出す。
マンションまでの帰り道、ほとんど記憶がない。
どの道を通ったのかもさだかではないが、御影の命令を受けて使い走った道なので、足が勝手に覚えていたのだろう。
くたびれきり、熱と痛みを発する関節を押して、いつもの倍時間をかけて組が事務所を構えるマンションに辿り着く。
正面玄関の自動ドアを抜ける。御影はまだ事務所にいるのだろうか。いるのだろう、きっと。今日は帰らないつもりだ。他の連中はとっくに散った。居残りと見張りを命じられた大志は、袋の中に手を突っ込んでドラッグストアで仕入れた品物を雑にあさり、新品のバンドエイドの箱を開封する。とりあえず右手の甲にバンドエイドを貼り、箱は袋に投げ入れておく。
ほかにも大小の痣と酷い怪我はたくさんあるのに無視したのは、それが悦巳にひっかかれてできた傷だからだ。
右手の引っ掻き傷を見ると同時に悦巳の泣き顔が甦り、たまらない気分になる。
「……くそ」
悦巳は今どうしてるだろうか。まだトイレにひきこもってやがるのか。
裏切りを犯した大志に下された制裁は比較的ぬるいものだった。暴行と減棒。それだけで済んだのは御影がまだ使えると踏んだからだ。
ぬるいといっても医者に診てもらった方がいい程度の怪我は負っている。頭が正常に働かないのは熱と痛みと疲労のせいか。
最後の力を振り絞って誠一に居場所を知らせたが、上手くここへたどり着けただろうか。
足をひきずりつつ奥のエレベーターへ向かう。まっすぐ歩くのがひどく困難で、前の通りですれ違った車にひかれそうになった。頭がはっきりしてたならこんな時間に走ってる車を不審におもったかもしれない。入れ違いに走り去った車の存在は自動ドアを抜けると同時に思考野から消失し、ボタンを押す。
その時、初めて気付く。
「えっちゃんと一緒にいましたよね」
隣にちょこんと立ってる女の子の存在に。
いつどこから沸いてでたのだろう、白いワンピースを着たせいぜい五歳くらいの幼女がじっとこちらを見上げている。
「道の向こうに並んで立ってました。えっちゃんのおともだちですか」
「はあ?えっちゃんて」
「おともだちですよね。ここにいるんですよね」
このマンションの子か?……にしては見かけたことのない面だ。こんな夜ふけに子供が一人で徘徊してるのも妙だ。親はどうした。
えっちゃんてのは友達の名前か?悦巳のあだ名とおなじじゃねえか、胸糞わりィ。
「わけわかんねえ、なんだお前は。ガキはクソして寝ろ」
「つれてってください」
「うっせえな、けっとばすぞ」
「つれてってください」
押し問答に嫌気がさし、エレベーターが来たのを幸いと乗り込むも、追いていかれてなるものかと幼女もまた駆け込んでくる。
露骨に舌打ちひとつ、虫の居所の悪さも手伝い腰を屈めて怒鳴ろうとした大志の鼻先に固い銃口がつきつけられる。
「えっちゃんのところに案内してください」
ワンピースの下か背後に隠し持っていたのだろうピストルを胸の前にて握り締め、愛くるしい幼女がせがむ。
『えっちゃん』が自分の親友をさす可能性に思い至り愕然とする大志へと、重そうな銃を構えた幼女は口調こそ淡々と、どこまでも一途な瞳で懇願する。
「えっちゃんはいつもおむかえにきてくれるんです。幼稚園であったことおしゃべりしたりお歌を唄いながら帰るんです。だから……えっちゃんが帰ってこなくなったらみはながおむかえにきてあげなきゃいけないんです」
おかえりなさいをいうために。
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