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第47話

奇声を上げて特殊警棒を振りかぶる若者の手首をアンディが軽くひねり、入れ替わり立ち代わり軸回転する大志の拳が宙を飛ぶ。悦巳は逃げる、逃げ続ける。砂を蹴散らし必死の形相で、ただ腕の中のぬくもりを守るためだけに、今にも折れ砕けそうな膝を気力のみで支え走り続ける。 「そっち行ったぞ捕まえろ!」 「みはなさんぐるじ、首締まってるっす!?」 くぐもった銃声が飛び交う、銃弾が肩を腕を足を掠めスウェットにこげ穴を穿つ、首ったまにかじりついたみはながぎゅううと力をこめてくる。 走れ、走れ、オニさんこちら手の鳴る方へ。追いかけっこは得意だ、施設や幼稚園では子供たちとよく遊んだし逃げ足には自信がある。捕まりっこない、絶対に。 『オレオレさんは優しいいい子ねえ』 「ちがうよばあちゃん、全然そんなんじゃない、悪いヤツだ」 『私にはわかるわ、あなたが優しいイイ子だって』 「でも、まっとうになりたい。ばあちゃんが褒めてくれたから、それをウソにしたくない。ばあちゃんまでうそつきにしたくない」 こみ上げる涙に視界が滲む。浅く荒い呼吸に胸を波打たせながら我知らず口走れば、腕の中でもぞもぞ身じろする気配。 「えっちゃんはやさしいイイ人ですよ。みはながいうんだから間違いないです。みはなもほかのひともえっちゃんが大好きですから」 門をめざしひた走るも退路を塞がれ舌打ち、園庭をぐるりと一周する形で追い込まれる。何があってもみはなだけは守らなければ、誠一さんと約束したんだ…… 「すべり台に上るぞ!」 双方泥だらけになって地面を転げまわる御影と誠一、銃把でしたたかこめかみを殴り付けられ意識が飛んだ一瞬に誠一をふりほどき、滑り台の傾斜の側を土足でよじ登り始める。 今まさに梯子をよじのぼる悦巳は最悪の敵が反対側から忍び寄る事にも気付かない、首に抱き付くみはなが視界を邪魔する。カンカンとせっかちな金属音、ぜいぜい息を切らしながら梯子を上り終え踊場でほっと一息― 足首を掴む、手。 「チェックメイト」 狭い踊場に引きずり倒れされ後頭部を強打。 「おいかけっこはおしまいだ、えっちゃん」 「「悦巳!!」」 大志とアンディが叫ぶ。めちゃくちゃに蹴りを入れてどかそうと企てる。至近距離での発砲、衝撃。上着の裾がしどけなくめくれ外気に晒された脇腹に灼熱が走る。  首に絡む腕。背後をとられた。 「なめられたもんだな俺も。どうやら事の最初から人質を見殺しにする気満々だったみてえだな。こいつの命なんかはじめからどうでもよかったんだ」 「どうでもいい奴の為にここまでくるか」 上と下とに分かれ対峙する御影と誠一、虚空で衝突した視線が殺意で研がれた鋭さを競い合うように火花を散らす。 「悦巳を返せ」 「死体でよけりゃ請け負うぜ」  殴り合いをやめた舎弟とアンディが、大志が、滑り台下の砂場に立つ誠一が、その場に居合わせた全員が戦慄に竦んで狂気に魂を売り渡した御影を凝視する。 「えっちゃん……」 か細く呟くみはなを胸に庇う。 たとえ次の瞬間に引き金が引かれたとしても巻き添えにせぬよう、胸におしつけた頭を手で覆う。 「なるほど、こいつになみなみならぬこだわり持ってんのはよーっくわかった。けどな、コケにされたまま黙ってちゃヤクザが廃るってなもんだ」 「強請りは独断か?ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったんだろうが……今夜の事が上にバレたら貴様もおしまいだ。欲を出して失敗したな。所詮貴様の器量じゃ馬鹿な子供を使って年寄りの年金をだまし取るのが関の山だ。分の能力を過信したのが敗因だ、せいぜい刑務所で反省しろ」 格の違いを見せつけるよう居丈高に言い放てば、図星をつかれた顔が憤怒と屈辱に染まり、引き金がゆっくりと絞られていく。 終わりがくる。 何一つ償えないまま、何一つ謝れないまま、何一つ守れないまま―   ―「何してるんですかおとうさん、えっちゃんはみはなとおとうさんの大事な人ですよ!!」― 敢然と行動を起こしたのはみはなだ。 悦巳の腕から伸び上がるように跳ね起きるや、両手を立ててがりっと御影の顔面をひっかく。 「!?痛っ……てめえこのガキっっ!?」 「えっちゃんをいじめるな!」 幼女の悲痛な訴えをきっかけに皆が動き出す。 雑魚を片付けた大志とアンディが間に合えと念じつつ滑り台に向かう、生々しい爪痕を顔面に刻んだ御影が銃口をみはなの眉間に固定したのを見た悦巳がすかさず頭髪を纏めるヘアバンドを抜き去って弾性の限界ぎりぎりまで撓め、御影の鼻っ柱に狙いを定め解き放つ。 「ぶふぉっ!?」 勢いよく仰け反る御影の手から銃を奪おうと頑張るみはな、片手で顔を庇いつつ悶絶していた御影が腕にまとわりつく子供を煮えたぎった目つきで睨む。 「~っ、ぶっ殺してやる!!」 発砲と同時にみはなの軽い体があっけなく宙を舞う。 「みはなさんっ」 ぐらつき倒れこむみはなに肩も抜けよと腕を伸ばす。 虚空を泳ぐ腕がみはなの手に触れ、互いを求めあう一途さで指と指が絡みつき、しっかりと握りあう。 後ろ向きに倒れこみつつある体を懐に庇い目をつむる、反転する視界に夜空が映り均衡を失う、猛然と風切り滑り台を滑走する体、風を孕んだ髪と裾がばたばたうるさくはためく。  まっさかさまに傾斜を滑走した体が終着点に至る。 そこに何もなければおそらくそのまま砂場に突っ込んでいただろう悦巳の体重はしかし、力強い抱擁によって受け止められる。 誠一がいた。 すぐ目の前に、鼻の先に。 狙い定めたように自分の胸に飛び込んできた悦巳と視線が合ったのも一刹那、衝突の衝撃でひっくりかえる。 上に下に縺れ合い転げ回り、それでもその腕はしっかりと悦巳を抱きしめている。 ちょうど悦巳がみはなを庇うのとおなじしぐさで、ぼろぼろになりながらもみはなを守り通した悦巳をかき抱き、上に下に跳ね転がり泥だらけになって、口に入った砂に難儀しながらぽんぽんと悦巳の頭を叩く。 「よくがんばった」 誠一が笑う。 笑って、褒める。 「あとはまかせろ」 へたりこんだ悦巳とみはなを背に庇うように立つや、後ろ腰に隠していたロッドを颯爽と抜き放ちフェンシングの型を取る。 悦巳に続き滑り台を滑り終えた御影が砂場に着地、銃を乱射。 「銃に警棒で立ち向かうなんて無茶っすよ!」 「黙ってみてろ」 砂を抉る銃弾にも怖気付いた様子は一切なく、静かな闘気漲る構えでもってロッドを振るう。銀にきらめく軌跡が虚空に交差、伸縮性に優れたロッドが鋭利に撓って御影の手首を薙ぎ払う。勝負は一瞬でついた。手を離れた銃に御影が目を奪われた隙に気配を立てぬ足運びで間合いを侵し、引きの動作でヒュッと空気を圧搾し鳩尾を刺突。 芸術の域にまで高められた華麗な剣技。 急所を突かれた御影がよろめき膝を付くのを無慈悲に一瞥、洗練の極みの滑らかさで片手をあげ勝利を宣する。 「作戦終了。残党の一掃を頼む」 「「ラジャー」」 夜空にぽんぽんと花が開く。 「おはなです!」 ぽかんとする悦巳の胸をよじのぼったみはなが夜空に花開くパラシュートに手を伸ばし目を輝かせる。 学び舎の切妻屋根に伏せっていた人影が虚空に跳躍、背中に装着したパラシュートを開いて静穏に着地・散開、委縮したパラシュートを素早く切り離して残党の撃退にあたる。  「地上が駄目なら上空から。敵の盲点を突くのは勝利の鉄則だ」 落下傘部隊の活躍を横目に歩み寄ったアンディは前にもましてぼろぼろになった大志に肩を貸していた。 「…………っ、はは……ばかげてる。こんなオチありっすか?」 砂場に尻もちついて笑う。腰が抜けて立てない。さっきまで銃をつきつけられていたのだから無理もない。銃をつきつけていた本人はアンディが持つ手錠で拘束された。 ロッドを収納して腰に佩いた誠一が踵を返し悦巳の前に立つ。 「まずまっさきに言うべきことがあるだろう」 どこまでも傲慢で尊大で横柄な聞き方に条件反射で身がすくみ、膝をそろえて謝罪する。 「幼稚園で悪い噂広めてすいません」 「ちがう」 「冷蔵庫の中身おきっぱですいません」 「そうじゃない」 ぐいと腕をひかれ、こけた拍子にごつんと胸に額をぶつけてしまう。 「『ただいま』だろう、馬鹿が」 拗ねたような囁きが耳朶をくすぐり、目の奥と鼻腔がツンとする。 常夜灯が冴え冴え照らす砂場に集った面々が、呆れたような当てられたような、さっそくのろけはじめた二人を持て余したような複雑げな表情で成り行きを見守る。 まるで一つの大きな家族みたいに強い連帯感で結びつき、どこまでも不器用な男と青年とを見守っている。 「……あの、その……」  迷惑かけてごめんなさいとか助けてくれてありがとうとか伝えたい事も言わなきゃいけない事もたくさんあって一つに絞れず、どれか一つを選んだら他の全部が泡となって弾けて消えてしまいそうで、炭酸をあおったように喉がちくちくして、駄目だ、反則だろうそれ、一番言いたかったセリフを先取りしくさるってオイオイどんだけ意地悪なんだこの人。 「ここ、うちじゃねえし。うちに帰るまでとっとこうと思ったのに先取りしちゃうなんてねっすよ、ずるいっすよ」 おかえりとただいまと。 「さっきのアレ、俺が銃つきつけられてんのにイケイケで挑発して……下手したら死ぬとこでしたよ!?」 「すまん。ついかっとして」 「ついうっかりで殺さないでください!」 「もしもの時は屋根に待機してる部隊が狙撃の準備を整えていた。ビービー弾で」 「法治国家ですから実弾は使用しません」 「~威張って言うことじゃねえって、大志もなんか言ってやってくれ!」 「諦めろ、この人のがうわてだ」 くそ、味方がいねえ。 誠一の腕の中でしばしむくれていた悦巳だが、上着の裾がずれ弾丸が掠めた火傷が覗いているのに気付き、慌てて手で隠す。  その手にそっと手が添えられる。 自分より一回り大きく逞しい男の手。 「………すまなかった」 「どの事っすか?」 「色々とだ」 「たくさんありすぎて絞りきれませんねー」 「仕返しか?」 「さあ」 誰かがくいくいと誠一のズボンを引っ張る。 そろって視線を落とせばみはながいた。よそ行きのワンピを泥だらけにし、自分も仲間に入りたさそうに見上げている。 誠一が膝を付き片腕でみはなを抱き上げる。みはながお姫様座りで肩に凭れる。どちらからともなく惹かれあうようなごく自然な動作。 リラックスしきって誠一に体を預けるそのしぐさに距離をおいて彼を拒んでいたころの固さはない。 誠一もそれが当たり前の事であるかの如くみはなを受け入れ、これまた当たり前の如く余った手は新しい家族のために残しておく。 「先着順だぞ」 「……だっこはできないっしょ」 「手だけじゃ不満か」 さりげなく差し伸べられた手におそるおそる触れてみる。 「……あったけえ」   真心の涙が凍りついた心を溶かすように 一度離れ離れになった家族がまためぐり合い、しっかりと手を繋ぎ合う。     その夜、家政夫は詐欺師を卒業した。   『次のニュースです。杉並区を拠点に活動していた集団振り込め詐欺グループが検挙されました。当該グループの被害者は推定三百人にも上り、被害総額は一億五千万。逮捕者の中には暴力団構成員ほか未成年も含まれていました。なお先日幼稚園で発砲騒ぎを起こし逮捕された我孫子会系三次団体白鷺組の若頭・御影雅臣(34)をこの事件の主犯と見る動きもあり、当局は暴力団の組織犯罪として捜査を進める方針との事です。さて次のニュースです……』 「みはな、なにしてる。でかけるぞ、支度なさい」 テレビの前にちょこんと正座し、女性アナウンサーが読み上げるニュースに聞き入るみはなを誠一が急かす。 電源を切ってぱたぱた玄関に駆けていけば、いそいそと足踏みしつつ既に悦巳が待っている。 「遅いっすよ誠一さん、アンディ表で待ってますよ」 「仕事の指示に手間どった」 「そんなん車ン中で携帯で話せばいいじゃないっすか」 「行きがけに電話がかかってきたんだ、仕方ないだろう」 フリル付き白いワンピと先端がまるっこいエナメル靴という春らしい装いのみはな、無愛想な黒いスーツの誠一、いつも通りのスウェット姿……ではなく、めっきり春めいてきた気候に合わせ薄手のシャツとズボンというカジュアルな格好の悦巳。てんで統一感のないファッションの三人がともに玄関をでる。 悦巳と誠一は相変わらず喧嘩している。シゴトがどうとかスケジュールがどうとかみはなにはわからない単語が飛び交って何だか面白くない。 「大体誠一さんはこの前だって休みとれたからみはなちゃんと遊ぶ約束したのにドタキャンで」 「得意先の専務がわざわざベルギーから来られたんだ、無視するわけにもいくまい」 「先に予約したのはこっちっす、みはなさんだって楽しみにしてたんすよ遊園地。ねーみはなさん」 「くどい、埋め合わせはしただろう次の日に。過ぎた事をいちいち根に持つな」 誠一はジムを解約し、土日はなるべく家で過ごすようになった。 年会費が馬鹿にならないというのが表向きの理由だが、向こう一年分は既にカードで一括払いしている事を悦巳は知っている。 今日は日曜、晴天。 マンションの玄関を出れば爽やかな青空が広がっている。 「お待ちしてました」 沿道に横付けした車の傍らでアンディが丁寧にお辞儀しドアを開け放つ。 悦巳に手伝ってもらいチャイルドシートに苦労しいしいお尻を滑りこませ、浮き立つ気持ちをおさえつつ助手席の父に問う。  みはな以外の全員が目的地を知っているのだろう証拠にエンジンキーを捻るアンディは微笑み、隣に座る悦巳はどことなく緊張した面持ちで前を向いている。 「どこへいくんですか」 「おばあちゃんちだ」       「ここがばあちゃんち……」 実際のところ、瑞原悦巳が児玉華の暮らした屋敷を訪れるのは初めてだった。 どこか懐かしい閑静な住宅街にあって異彩を放つ白壁の屋敷。屋根の上には風見鶏が立つ。門を戒める南京錠を専用の鍵で解除しアンディが横にどく。 最初に足を踏み入れたのは誠一、次にみはなと悦巳が続く。悦巳と手を繋いだみはなはきょろきょろと物珍しげに、好奇心の赴くまま雑草がのさばる庭を見まわしている。 「俺が子供のころ住んでいた屋敷だ。婆さんが死んでからは管財人にまかせきりだったが……さすがに庭は荒れてるな」 勝手知ったる何とやら、迷いない足取りで進む誠一の背中に隠れ歩く悦巳は、後ろめたい思いをひきずりつつちらちらと庭のそこかしこを窺う。 話に聞いた華の庭は見る影なく荒れ果てていた。しかし足を踏み入れるのを躊躇ったのはそのせいばかりでもない、どちらかといえば気持ちの問題だ。 南京錠と二重の鎖によって固く戒められた門は初めて訪れるものを怯ませるに十分な代物で、その向こうに広がる景観がいっそうの荒廃を印象づけた。 「おばけ屋敷みたいっすね」 「定期的に業者の手が入ってたからこの程度で済んだんだ。古い屋敷だからな、最悪台風で屋根が飛ばされていた。足元に気をつけろ、転ぶぞ」 門前で待つアンディを不安げに振り返る。 先頭を歩く誠一が手にした鍵束がじゃらじゃら鳴る。気おくれしているのはどうやら自分だけらしく、誠一はいつもどおりとっつきにくい仏頂面だし、みはなはスキップせんばかりにご機嫌だ。 「トトロにでてくるおうちみたいですー」 子供の感覚はよくわからない。 「親戚連中は婆さんの遺産にしか興味なかった。維持費ばかりかかるボロ屋敷なんぞ誰も住みたがらなかった。賢明な判断だ」 「そうなんスか」 「口数が少ないな。想像と違って幻滅したか」 「そういうわけじゃねっすけど……なんというか……俺、ここに来てよかったんすかね」 ポーチへと続く石段を上りかけて振り向く。誠一とまともに目が合い下を向く。  「つまらん遠慮をするな」 「遠慮とはちょっと違くて……うまく言えねーけど、俺みたいな赤の他人がばあちゃんの自慢の庭に土足で踏み込むのってどうなのかなー、いいのかなーと。親戚の人たちも気分悪くするかもしれねえし……」 自分を招き入れたことが公けになって、ただでさえ孤立している誠一の立場が悪くなるのはいやだ。 華にしたことを忘れたわけじゃない、けっして。 今や心を入れ替えたとはいえ、瑞原悦巳が華を詐欺にかけ貯金をだまし取った憎き仇である事実に変わりない。 今からでも引き返すべきか思い悩む。 大人しくマンションで留守番してればよかった。いってらっしゃいと二人を送り出したあとはゴロ寝してればよかったのだ。 華とその家族の思い出が詰まった屋敷に自分なんかが来てよかったのか、そんな資格ないだろうに…… くよくよ立ち尽くす悦巳の方へ長身の影が忍び寄るや、誠一がおもむろに手を振り上げ、彼の前髪をなでつけるヘアバンドを指でつまむ。 べちん。 「目が、目がああああああああああああ!?」 「ムスカのまねっこですか?」 ヘアバンドで両目を撃たれ悶絶する悦巳をみはながしゃがんでつつく。 「『マンションで留守番してた方がよかった』なんて懲りずに悩んでるのかお前は。『誰もいないリビングのソファでゴロ寝しながら昨日届いた最新映画のDVDを観たり通販サイトを見て回った方がよかった』と」 「~さ、さすが誠一さん。俺の休日の過ごし方よくご存じっすね……!」 「俺がついてこいといったんだから黙ってついてくればいい。仮にお前が渋ったところで力づくでつれてきたぞ」 往生際の悪い家政夫にあきれはて、管財人から渡された鍵を玄関ドアにさしこもうとしたその瞬間― 「せーいちふぁん?」 家の裏手から吹く風が運ぶ甘い薫り。 鍵穴から鍵を抜くのも忘れ踵を返す。雨水の滴った痕跡が轍の如く刻まれたくすんだ外壁を迂回、丈高く生い茂った雑草を蹴散らし裏庭へ急ぐ。 壁のむこうに回り込み見えなくなった誠一を悦巳とみはなが追いかける。地面を覆う雑草を踏みしだき均しつつ見失ってなるものかと後を追う。 「ちょっと待って、いきなり走り出してどうし」 天国があった。 信じられない思いで立ちすくむ。 赤、ピンク、白、黄、オレンジ。瞼の裏まで滲み透るパステルカラーの洪水。 春の麗らかな陽射しをたっぷり吸いこんで咲き乱れる薔薇、壊れかけのアーチに絡み付く蔓薔薇、花壇の敷居を乗り越えて芝生にまで蔓延る緑の蔦…… 華の死後、一年余りにわたって放置されていた裏庭にこれでもかと薔薇があふれている。 「すっげえ……これがばあちゃんの庭かあ」 「きれいです」 世話する人間などだれもいないー少なくとも、「生きてる人間」は―そのはずなのに 野生化した?そうなのか?華は薔薇の栽培が趣味だった、花壇の土はよく耕され肥えていた、その可能性も否定できない。だがこれは…… 『おかえりなさい誠ちゃん』 廃園に時の残像が回帰する。 祖母と暮らした白亜の屋敷、葉脈を透かす夏の陽射し、葉に漉された陽射しが斑に染め抜く秘密基地。 花壇の枠組みを壊し芝生に遠征する薔薇の姿はさながら国境を跨ぐ橋を架けるようで、侵略の猛々しさよりもむしろ雑草と共存する博愛の精神を高らかに謳い上げる。 大気に溶けた祖母の存在を感じる。 華はここにいる。 「…………みはなの名前は婆さんから貰ったんだ。妻と祖母の名前を合わせてみはなとつけた」 「そうだったんだ」 「妻のように賢く美しく、婆さんのようにだれからも愛される子になってほしくて」 「いい名前っす。ぴったりっす。センスに敬礼っす」 「みなに愛されて―……愛せるように」 ヒトにやさしくされたらやさしさを返せるように 不器用な自分にはできなかった在り方と生き方を名前に託して。 静かに目を閉じ感慨に浸る誠一に歩み寄るのに躊躇いを覚え、おずおずと手を引っ込めた悦巳の服をみはなが引っ張る。 意を決し一歩を踏み出す。 ざくざくと雑草を踏んで突き進む。誠一の思い出を土足で汚したくないとか庭を踏みにじりたくないとか、そんな弱気におさらばして自分の足で歩く。 「俺、決めたんです誠一さん。これまでだました人たちに謝りに行こうって。土下座しても何しても許してくんねえかもしれねえけどワビ入れたくて、そこからやりなおしたくて。みんなみんな、俺を信じてた。イイ人だった。盆栽好きのじいちゃんも足の悪いばあちゃんも、ホントの孫みたいに俺を心配してくれた」 オレオレ、俺だよ俺。 「俺をホントの孫と勘違いして信じて頼ってだまされて、御影サンはだまされるヤツらが悪いって言ってたけどンなの逃げだ、だます奴が圧倒的に悪いにきまってる。警察行く前に……ひとりひとりと会って……気が済むまでぶん殴ってもらう。それが俺のけじめのつけかただ」 一世一代の主張に黙って耳を傾けていた誠一だが、おもむろに懐から紙をとりだし項目を読み上げていく。 「『家庭の医学』『東洋の民間療法』『月刊盆栽の友』……覚えがないか?全部お前が購入した本だろう」 「!なんで知って」 「PCの履歴はちゃんと消しておけ」 誠一の目が細まる。 「本当に馬鹿だなお前は。相手はカモだろう。カモの身の上話に本気で同情して、話を合わせるためだけにわざわざ高い本まで購入して……いらん出費が嵩むはずだ。木の病気について相談されたら専門書を引いて、足の痺れに悩む婆さんにはミカンの皮を貼るといいとかアドバイスをくれてやって、まったく詐欺師の風上にもおけんお人よしぶりだ。そんな詐欺師モドキを人生の酸いも甘いも噛み分けた被害者が本気で恨んでると思ってるのか?」 「なんで……何言って、だっておれは」 「読め。手紙だ」 投げてよこされた封筒を慌てて受けとる。震える手で封を破き、丁寧に漉した和紙でできた、繊細な手触りの便箋を開く。 『どこのどなたさまか存じませんが親切にしてくれて有難う』『耄碌老人の長話に付き合ってくれたのはあんただけじゃ。感謝する』『よかったらまた話し相手になって』『だましとられた金は孫に小遣いをむしりとられたとおもってあきらめる』『まっとうになれ』『親を哀しませるな』『時期外れのお年玉じゃ、もってけ泥棒』…… 「被害者の声だ」 誠一が説明する。 「お前の身元調査のついでに被害者に会ってきた。世間体を慮って被害にあった事実を隠そうとするものや家族に追い払われたケースもあって全部は当たりきれなかったが、俺が調べた限りではお前を恨んでる人間はひとりもいない。ひとりもだ。信じられないといった顔だな?俺もだ。こんなばかげた話があるか、それどころかお前は悪くないと庇う奴まで出る始末だ。悦巳、お前は浅く広く比較的裕福な個人から少額をだましとった。総額は大したもんだが個々の被害額を見れば諦めきれん額じゃない。警察に持ち込まれんよう考えたのか?ちがうな。詐欺とは一種のサービス業だ。金を出させるのが最終目的だとしても、そこに至るまでの話術でボロがでれば電話を切られてしまう。お前には詐欺師の才能があった、だがそれだけか?お前がカモにした年寄り連中はそこまでめでたくもなければ馬鹿でもないぞ、中には孫じゃないと早々に気付いた上でくだらんおしゃべりを楽しんでいたものもいた」 寂しかったから。 話し相手がほしくて。 だから、おしゃべりに付き合ってくれた相手をうらむはずがない。 家族にさえ忘れ去られた年寄りの長話を根気よく聞いてくれた青年を、毎日電話をかけて体の調子を案じてくれた青年を、本当の孫よりだれより優しかった悦巳を…… 恨めるはずがない。 憎めるはずがない。 体の不調を嘆く老婆の為に民間療法の本を調べ、孤独な老人の為に盆栽の知識を仕入れ、いずれ自分が働く不義の分をいじらしいほどのひたむきさで埋め合わせようとしていた青年を憎めるはずがない。 彼としゃべれた時間を愛おしみこそすれ、その代価が少々高くついたと苦笑しこそすれ。   「……お人よしはどっちだよ……」 とっくに許されていた。 「彼らは詐欺の被害者である前にだれかの祖父で祖母だ。彼らは悪辣な加害者としてじゃなく自分にいたかもしれない孫として瑞原悦巳を見る事を選んだ」   くしゃりと便箋が歪む。筆ペンでしるされた達筆な文字が、ぽたりと落ちた水滴に滲む。 くしゃくしゃに歪んだ顔を見られたくなくてヘアバンドをずらし目を覆う。 ヘアバンドの覆う暗闇の中、大好きな誠一が近付いてくるのがわかる。 一歩、また一歩。 もっとも輝かしい過去の一日限りの再現のように薔薇の花が咲き乱れる裏庭の真ん中で、もとは他人だった男と青年が向かい合う。  「家族になってくれ」   プロポーズというにはそっけなく、へそまがりな子供がほしいものをせがむような偏屈な態度は矯正できず、しかし眼差しには胸が苦しくなるほどの切実さをこめて カイがゲルダにキスをする。   人差し指をくぐらせヘアバンドをずらし、首に手を添え軽く仰向かせ、目尻にふくらむ雫を啜り、塩辛い涙にしけった唇を慰めるようについばむ。   くすぐったさに身をよじりつつ面映ゆげに悦巳が言う。  「お父さんがふたりになるんですか?」 「年齢的には兄だろう」 「俺、児玉悦巳になるんすか。へんなの。みはなちゃんにお兄ちゃんってよばれるのは悪くねーけど、やっぱえっちゃんがいいや」 「無理に養子に入れとはいわん。瑞原悦巳のままでいい、そのままのお前がいい。お前と一緒に生きていきたい」 「よかった」   ありがとうばあちゃん、この人と会わせてくれて。 家族をくれて。 薔薇の薫りに昇天する裏庭にて誠一の腕に抱かれ、その首の後ろに手を回し靴裏を浮かせる。 「誠一さんのことお父さんってよばなきゃいけねーのかってあせった」   カイはゲルダにキスをして、ゲルダはカイにキスをした。   そろそろと伏し目がちに唇を離し、気になっていた事を聞く。 「いっこ質問していっすか」 「なんだ」 「なんで今日ここに来たんですか」 きつくきつく抱きしめられ、幸せで息も止まりそうという感覚を実体験しかけた悦巳がぷはっと息を吹き返して問えば、誠一がばつわるげな顔をする。  「そりゃばあちゃんの庭見たいって言いだしたのは俺だけど、急すぎてびっくりしました。草むしりってかっこじゃねえし……」 「……家の掃除だ。しばらく立ち入ってなかったかったら埃だらけで悲惨な有様になってるはずだ」 「定期的に業者がきてるんでしょ?庭は荒れ放題だけど」 「忘れ物をとりにきた」 「なーんか嘘ついてません?あやしいなー」 腹が立ちそっぽをむくや、石ころ帽を被ったかの如く存在感を消してしゃがみこむ背中が目に飛び込んでくる。 「いーち、にーい、さーん、しーい」 「みはな?」 ダンゴムシのように丸まった背中。両手で目隠しし、間延びした調子で数を数えていたみはながはたと振り向く。 「ごーお、ろーく………終わりましたか?」 「「え」」 「ちゃんと仲直りできましたか?」 悦巳の顔から火が出る。 誠一は咳払い。 途端によそよそしく背中を向けあいあらぬ方向を見始めた誠一と悦巳の間にトテトテ歩いてくるや、両者の手をきゅっとにぎる。 「素敵なお庭ですね。おうちもおばけ屋敷みたいでわくわくします」 「……引っ越すのも悪くない」 「え?でも幼稚園はここからだと遠くないっすか」 「ママチャリを買ってやる」 「俺が漕ぐんすか!?てか車で送ってくださいよ、自分ばっかずるいっすよ!」 「みはな康太くんとあそべなくなっちゃうのはいやですー」 「諦めなさい。ヤツに嫁いだら姑問題で苦労するぞ」 「おっとなげねえ……いたっ、ちょ、デコピンやめてくださいよおしめもとれねー娘の男友達に敵意バリバリってかっこ悪いっすよお父さん!」 「お前にお父さんとよばれる筋合いはない!」 「おしめはとれました!」     門を背に立つアンディのもとへ風に乗って賑やかな歓声が届く。 携帯灰皿に煙草の灰を落としつつ、今頃裏庭で元気に騒いでいるだろう顔ひとつひとつを思い浮かべ、どこまでも意地っ張りで愛情表現が下手な男に苦笑する。 『プロポーズは思い出の場所で』。 言わなくてもわかる。誠一の考えそうなことなどお見通しだ。 薔薇が咲いても咲かなくても、「家族」が生まれるのに此処ほどふさわしい場所はない。 此処は誠一のはじまりの場所、今日から彼らのはじまりの場所。 永遠の愛を誓うなら彼が唯一愛し愛された場所をおいてほかにあるまい。 笑顔でむかえてくれる祖母がいなくても、屋敷と庭が見る影なく荒れ果てていても、けっして色褪せぬ思い出が彼の心に根付くかぎり― 「ばらがさいた、ばらがさいた、まっかなばらが。さびしかったぼくの家にばらがさいた……」 あくび誘う麗らかな陽気にあてられ、ガラにもなく浮き立つ気持ちを抑えつつ、生前華が好んで唄っていた歌謡曲の一節をくちずさむ。 薔薇はどこにでも咲く。 さびしかった僕の家に、貴方の胸に、世界中に。   風が微笑んだ気がした。

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