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第48話

鞄の基底部に付いたキャスターがガラガラと音をたてる。 搭乗手続きを終え、あとは便が出るのを待つばかりとなった女が物憂く吐息をつく。 「やっぱり最低な国。ご飯はまずいし車は多いし子育てには向いてないわ」 そう言う口調はさばさばとして未練はかけらもなかったが、少なからぬ負け惜しみの感は否めない。 美香はごくプライベートな友人や身内にすら今回の帰国を告げていなかったらしく、時間ぎりぎりになって空港に姿を見せたのは誠一のみ。 ガラス張りの開放的なロビーからは太陽を燦と照り返す滑走路と流線形の旅客機、きらめく東京湾が一望できる。 搭乗までの残り僅かな時間を軽食や用足し、見送りに来た家族との談笑にあてる乗客たちの中にあって、かつて夫婦だった男女の間には疎遠な空気が流れていた。 距離の取り方は関係性を如実に表す。 友人としてやり直すには双方ともプライドが高すぎ、他人になりきるにはお互い多くを知りすぎている。 「当分もどってこないでしょうね。せいせいする?」 「いや」 「安心するでしょう?」 「ああ」 髪をかきあげつつ美香がくすりと笑う。 「……いいのか」 「いいも悪いもずっぱり断られちゃったんだもの、仕方ないでしょう」 凛々しいメイクが似合う優雅な微笑みが寂しげに翳る。 みはなの親権を巡る面談の数日後、再び一堂に会しとことんまで話し合いを持った。不本意な形で打ち切られた家族会議の仕切り直しだ。 そこで交わされた会話と意思確認の結果を遠い眼差しで思い返し、呟く。 「心のどこかでわかってたし覚悟もしてた。けど、実際言われるとこたえるわね」 一緒には行けません。 「……勝手よね。いちど子供を捨てた女がショックを受けるなんて」 ごめんなさい。 そう言ってみはなは頭をさげた。 そう、と美香は呟いた。 そうなの、日本にいるの。 女はそれしか言えなかった。 「………軽蔑する?」 緩やかな仕草で窓ガラスに手をあてがう。 誠一は否定も肯定もせず、自嘲するように歪む美香の顔を無言で見詰めるばかり。 子供を捨て仕事を選んだ女。 家庭を顧みぬ夫に愛想を尽かし単身日本を発った女。 仕事と家庭を秤にかけ誠一の前から姿を消した女が、当時の判断の是非と選択の正否を自らに問うよう呟く。 「……私の両親ね、小さいころから喧嘩ばかりだった」 その選択がもたらした結果を負いかねて―身勝手な人生の報いを受けて。自分が捨てた子供に捨てられる皮肉な仕返しに笑うしかないといった痩せ我慢の笑みを見せる。 「顔を合わせばお互いの粗探しばっかりで何で結婚したのかふしぎだった。でもね、私がコーヒーを淹れてあげると、コーヒーを飲み干すまでのちょっとの間だけ静かになるの。ごく普通の、仲のいい家族みたいに。美香はコーヒーを淹れるのが上手いって父さんが褒めてくれたわ。普通のインスタントのコーヒーなんだけどね……お世辞かもしれないけど、うれしかった。コーヒーを飲んでるあいだだけ、もう離婚よとか別れてやるとかううるさく罵り合ってた両親が長年連れ添った老夫婦みたいに満ち足りた顔をするの」 「だからバリスタを目指したのか」 「ええ」 「夢が叶ったな」 「紅茶党とコーヒー党じゃ最初からあわなかったのよ。結婚前に気付くべきだった」 「性格と嗜好の不一致が離婚の原因だな」 「自分の旦那と子供に美味しいコーヒーを淹れてあげるのが夢だった。……どこかの誰かさんは筋金入りの紅茶党で私が買ってきたコーヒー豆捨てちゃったけど」 「わざとじゃない、ごみと間違えたんだ。紙袋に入れっぱなしにしとくから」 「ブランド豆よ。高かったのよ」 空気が険悪に軋むも長くは続かず、さきに美香が音を上げる。 「あー、やめやめ。こんな時まで口げんかなんてばかみたい。ほんっと相性悪いわね私たち」 「同感だ」 「結婚したのは何かの間違いよきっと」 「レモンティーとミルクの組み合わせだ。成分分離は自明の理だ」 「愛してたのはホント」 不意打ちに絶句する誠一をいたずらっぽい流し目で一瞥、肩をすくめてみせる。 「……からかうんじゃない」 「いつからつまらない謙遜なんかするようになったの?私が惚れたのよ、イイ男なのは間違いないんだから自信持って」 咄嗟の切り返しがわからず憮然とする誠一に朗らかに笑い、よいしょと鞄を持ち上げる。 元夫をやり込め溜飲をさげたのだろう、髪を揺らし振り向いた顔には前向きな明るさがあった。 「みはなを……あの子を可愛がってあげてね。言っとくけど、あなたの子よ」 「あたりまえだ」 「ふうん、今はそういうのね。彼のおかげかしら」 『彼』がだれを指すのかはわかっていた。新しく増えた家族だ。 「そろそろ行かなくちゃ」 ガラガラと旅行鞄を引っ張って歩き出す。 吹っ切った演技で自分を欺いても誠一の目は誤魔化せない。 こと気丈な振る舞いにかけては美香の演技は完璧で、数年間夫婦としてともに暮らした誠一でなければ哀しい虚勢を見抜けなかった。 美香は無理をしている。 自分たちは似た者同士で、だから上手くいかなかった。 お互い愛されることばかり求めて相手を愛する努力をおこたっていた。 夫婦間の反発を生んだ原因の一つは同族嫌悪の感情だろうと、今なら冷静に分析できる。 「むこうでやっていく目途はついたのか」 「まあ一応ね。あなたには偉そうなこと言ったけど実をいうとまだ修行中の身なの。つい見栄張っちゃってね……今回は無理言って休みを貰っちゃったから大目玉くらうわ、きっと。でも子供のころから夢だったんだもの、がんばるわ」 「こりない女だ」 「まだ若いもの」 「人生充実してるな」 皮肉とも羨望とも感想を夢に向かってまっしぐらに突き進む魅力的な笑顔で肯定する。 後ろ姿になんて声をかけたらいいか悩んだすえ、友人にも家族にも使える一番無難なセリフをえらぶ。 「元気でな」 「誠一さんも」 常に人目を意識してるのだろう完璧な歩み方でもって人が行き交うロビーを横切っていた美香がおもむろに振り向く。 「言わないでおこうと思ったけど特別に教えてあげる」 お茶目な悪戯を企むように唇だけで微笑み、雑踏にかき消されそうな声を張り上げ秘密をうちあける。 「二年前もみはなに聞いたの、お母さんと一緒にくるかって」 初耳だった。 二年前といえばみはなはたった三歳、美香は幼い娘に何も言わず黙って日本を去ったとばかり思い込んでいた。 「バリスタを目指すために日本を去るとは言えなかった。さすがにうしろめたくって……間接的な聞き方しかできなかった」 「なんて言ったんだ」 「お父さんとお母さんどっちが好きって。……答えられるわけがないわよねそんなの、私があの子の年で同じ質問をされても困るもの。馬鹿なことしたって反省してる。今も目に焼き付いてるわ、あの時の困った顔。あんな無茶な質問の答えをだそうと一生懸命悩んで、考えて。ちょうど今のあなたとそっくりの眉間の皺だった。親子ね」  美香はみはなに選択肢を与えた。 たとえ聞き方に問題があったとしてもけっしてひとりよがりな判断で子供を置き去りにしたわけではなかった、彼女は彼女なりの筋の通し方で娘の意志を尊重しようとしたのだ。 かつて見慣れた誠一の眉間の皺を愛おしげに眺めつつ、頭の中で散らかった言葉に整理をつけ、途切れ途切れに続ける。 「思い上がってたの。あの子は私に懐いてたから絶対母親を選ぶだろうって……ろくに家にいない父親よりおかあさんの方がいいに決まってるって。優しくてお料理上手で……私だっていいお母さんになりたかった、なれると思った、努力だってしてた。でも違った。いいお母さんは子供を試すようなまねしないもの」 「美香」 「だから聞き方を変えたの」 美香が笑う。 誠一が今まで見た中でもっとも哀しい笑み。 「お父さんのこと好き?って」 妻が今まで見せた中でもっとも寂しい笑み。 今も彼女の目にはよだれかけをした幼いわが子が映っているのだろう、よわよわしく伏せた眼差しにもはやどこにも注ぎようのない愛情が滲む。 「あの子、今度ははっきりと頷いた。それでわかっちゃったの……つれていけないって」 懺悔するように後悔するように、微笑みの皮をかぶった泣き顔でかつての夫にこいねがう。 「みはなをしあわせにして。今度こそ、ちゃんと家族をやり直して。今のあなたならできるから」 女が去っていく。 もうけっして振り返らず余裕をもった足取りで、ガラガラと鞄を引いて、既に行列ができはじめた搭乗口へと― 「おかあさん!」   行列の最後尾に並んだ美香が驚愕に目を剥く。 どう転んでもそこにいるはずのない人物がいた、聞き間違えるはずのない声が天井高く響いた。 行き交う人々が一斉に足を止め振り返る。 ひとりの少女がいた。 どうにか間に合うようにと全力で走ってきたのだろう、浅く息を切らせ仁王立つのは幼稚園の支度をしたみはな。ひよこを思わせる黄色い帽子が背中の方におちている。 肩で息をしつつ、小さい体に目一杯の貫録をきかせ立ちはだかる眼差しの先には美香がいる。 「おしごとがんばってください!みはなコーヒーは苦くて苦手ですけど、おとなになるころにはがんばって呑めるようになります!外国までおかあさんのコーヒーを呑みに行きます!いまがんばって練習してるんです、まだ三個お砂糖いれちゃうけど、牛乳もいれちゃうけど、十年後にはきっと飲めるようになりますから待っててください!」 小さな体のどこからこんな声を出しているのか、去りゆく母へと投げかけるみはなの声が殷々とロビーに反響する。 どこまでもどこまでも一途で真っ直ぐな眼差しに見据えられ、気丈に振る舞う美香の顔が歪む。 「きみ、そこから先は入っちゃいけないよ!」 「お母さんとお父さんはどこかな?はぐれたの?迷子センターは……」 「ちがいます!」 突如として紛れ込んだ子供を捕獲もとい保護せんと警備員が寄ってきて、数人がかりでコンコースを仕切るロープから引き離しにかかる。 ロープを両手で握り締め必死の踏ん張りを見せるみはなだが大人と子供の力の差は歴然で、背後に回り込んだ警備員によってあえなく捕まってしまう。 警備員の腕の中でもがくみはなを突如として飛び込んできた青年がかっさらう。体当たりをくらわせはずみで転倒、警備員と縺れあいつつ床を這う青年はもちろん…… 「悦巳お前どこから湧いて出た!?」 「誠一さんのいるところならどこへでもどこにでも、ってのは冗談っスけどね!」 トレードマークのヘアバンドがずれてなかば目を覆うが底抜けに陽気で不敵な笑みは健在、誠一の声がする方角を振り仰ぎ真剣に叫ぶ。 「別れの挨拶くらい言わせたげてください、それとも誠一さんは奥さんにさよなら一つまともに言わない言わせられない度量が狭いヒトなんすか、見損なったっす!」 大好きな悦巳の腕に守られ、お姫様のように抱き上げられたみはながちぎれんばかりに両手をぶん回す。 悦巳の肩に尻をもたせその腕に支えられ、目標に辿り着く意志と目的を叶える意志とをこめた凛々しい顔で言い募る。 「待っててください!」 自分を捨てた母親に必ず会いに行くと約束する。 「…………っ、」 泣きそうに歪む美香の顔、口元を手で覆い嗚咽を堪える。 「……ごめ、なさ……」 「泣くな!」 俯く美香に叱責がとぶ。悦巳だ。 係員の制止もなんのそのとにじり出て、くぐもった嗚咽を洩らす美香に苛烈な檄をとばす。 「あんたが言わなきゃいけねーのはごめんなさいじゃないだろ、他に言わなきゃいけねえことがあるだろ、しっかりしろおかあさん!!」   ーおかあさんー もういちどそうよんでもらえるなんておもわなかった。 大きく息を吸って顔を上げ、こちらを見詰める眼差しを受け止め、叫ぶ。 「美味しいコーヒー淹れて待ってるから……!」 「ちゃんと並んで、後ろの人の迷惑になりますから」 係員の誘導に従い、みはなの声に背を向け列に並び直した美香が、ロープを挟み対岸の誠一に告白する。  「私、いい母親じゃなかったわ」 「俺もいい父親じゃなかった。おあいこだな」 誠一は笑っていた。 結婚していた時でさえ見せた事がない優しい笑み。 「……そうね」 「でも、俺たちのみはなはいい子だろう」 思いがけぬ返しに目を瞬く美香に誠一は微笑む。振り返る。 行き交う雑踏に見え隠れするツーショット、悦巳の肩にちょこんと座ってこちらを見詰める興奮に上気した顔、言いたい事を言い切った満足感と見送る寂しさとに揺れる顔。 「そうよ。自慢の娘よ」 時間切れだ。  係員の誘導に従い搭乗口に吸い込まれていく老若男女の人波、最後まで名残惜しそうに振り返り振り返りつつ流され歩いていた後ろ姿がとうとう見えなくなる。 旅客機が滑走路を徐行する。 地上に接続された階段を、もはや個人識別が不能となった豆粒大の人々がのぼっていく。 ガラスのように透き通った瞳で滑走路を見詰めつつ飛び立つ飛行機に手を振るみはなにつられ、のほほんと手を振る悦巳の背後にぬっと影がさす。 「……事情を説明してもらおうか」  「さっき言った通りっすよ」 「どうしてここにいる。バレないよう一人で出たのに……尾行したのか?」 「じゃなきゃここにいませんねー」 悪びれたふうもなくそらっとぼける。 ついさっきまでお騒がせしてすいませんと警備員に平謝りしていたが、頭を下げる角度だけはご立派でもいまいち誠意と反省の色が感じられないのは彼が持つゆるみきった空気感のせいだろう。美香を叱りつけたときの厳しさと激しさを併せ持つ迫力はすっかり消し飛び、世界で一番能天気な笑顔とエプロンが似合う青年にもどってしまった。 ……エプロン? 「まさかその格好できたのか?」 「い、急いでて取るヒマなかったんス!」 さもいやそうに咎められば、国際的な人々が行きかう空港で一際目立つエプロンの胸元をつまみ弁明する。いや、これは悪目立ちだろう。 それが証拠に向き合う誠一と悦巳を避け流れゆく人々がすれ違いざまこちらに一瞥くれて笑ってるではないか。通行人の生あたたかい反応によってどれだけ自分が場違いかつ非常識なファッションをしてるか思い知らされたのだろう悦巳が、一躍注目の的となったいたたまれなさにもぞつきつつエプロンの裾をこね回す。 「TPOの概念に喧嘩を売ってるのか?どれだけ恥をかかせれば気が済む」 「わざとじゃないんだから怒んないでくださいよ、まーた目が三白眼になってますって!」 「ほーお開き直るか、いい度胸だ」 「このかっこが馴染みすぎてうっかりとりるの忘れてたんですって別に誠一さんに恥かかせて酷い仕打ちの数々復讐しようなんて腹黒い計画考えてたわけじゃ」 真ん中にみはなをみ犬も食わない痴話げんかを繰り広げるふたりのもとへ硬質な靴音が近付いてくる。 「遅かったか」 「父さん」 悦巳が口を閉ざす。誠一の視線の先……すなわち悦巳の背後にたたずむ思いがけぬ人物。充。 今日も今日とて仕立ての良いスーツを着こなしてガラスの前に立ち、高音域の金属音を曳いて空の彼方へ吸い込まれていく機影を見送る。 「……会社のはずでは」 「渡したいものがあってな」 他人行儀な澄まし顔で分厚いガラスが隔てる滑走路に凝視を注ぐ。 充の視界に入らぬよう悦巳とみはなを背に庇いつつ、猜疑的な目つきで警戒する。 充に会うのは電話での暴言に激怒し一方的に縁を切った夜以来。 あれから仕事に支障がでない範囲でスケジュールをずらし会社でも顔を合わせるのを避けてきたというのに、美香の帰国日程を把握し空港に姿を現すとは全くの誤算だった。 普段の充ならこの場に溺愛する孫のみならず息子の愛人疑惑が浮上した家政夫がいる件について確実に眉をひそめるか苦言の一つも呈すだろうが、今日はなぜか大人しい。 息子を無視するかのようによそよそしく振る舞うのは一方的な絶縁宣言に腹を立てているからか、眠たげな眼をガラスに据えた不感症的態度からは推し量れない。 大人げなさでは誠一もいい勝負、負けず劣らずの無愛想さで牽制するかの如く父の背中を睨んでいる。 父と息子の間に通う殺伐とした空気に気を揉み、誠一の背中に引っ込みつつ様子を窺う悦巳のエプロンにかじりつき、みはなが不安げに瞳を揺らす。 「こいつを美香に渡すつもりだった」 窓に向かい立つ充が背広の懐から封筒を取り出す。やけに分厚い。 その封筒が意味するところを察するが早く、激烈な拒絶反応に駆り立てられ発作的に手を払う。 「あんたって人は……どうしていつもそうなんだ!」  充の手からはたき落とされた封筒から札束が滑り出る。安く見積もっても百万はくだらないだろう。 太い怒号にびくつきエプロンですっぽり頭を覆うみはな。 エプロンのふくらみを庇いつつ生唾を呑む悦巳。 何事かと足を止めた人々が険悪な形相で向かい合う親子と床の札束とを見比べ一様に目を剥く。周囲のどよめきも意に介さず憤激と軽蔑とがないまぜとなった表情で充を睨みつけ、冷ややかな声を出す。 「手切れ金というわけか。金を渡すからもう会いに来るなと?はっ、あんたのやりそうなことだ。あんたはいつもいつもそうだ、人の話を聞かず金で解決しようとする!昔からちっとも変わってない、金で人の心を買えると思い込んでる。あんたがそんなんだからお袋も愛想を尽かす、婆さんだってさんざん思い煩ったっていうのに……」 罵りに一言も言い返さず、静かに腰をかがめ封筒を拾い札束をしまう。 「そのとおりだ。なにからなにまでお前の言うとおりだ」 封筒を背広にしまった充が淡々と言う。 「見栄っ張りの意地っ張りでおだてに弱い。無駄遣いが多くて女に弱い。人にちやほやされるのが大好きですぐ調子に乗る、実際より自分を大きく見せようと大言壮語を吐く。お前の母親はそんな俺に嫌気がさして出て行った。実際の俺は小心者で……親父から継いだ会社を維持していかねばならないプレッシャーがこたえて夜遊びに逃げた。俺は親父やお前と違って経営の才能がない、そんなこと自分が一番よくわかっている。お前は俺に似ず出来がよい、爺さんによく似ている。隔世遺伝という奴だ。……俺はな誠一、お前が怖かったよ。子供のくせになんでも見通してるようなその目が、俺の事を責めるようなその目が。お前を喜ばせるにはどうすればいいか考えた、婆さんの家を訪ねるたびにプレゼントを贈った、最新作のゲームやおもちゃ、だけどちっとも喜ばなかった。どうすればよかったんだ?会社を立て直すのに必死で会いに行けない分埋め合わせしようとしたんだ、形だけでも父親らしく振るまおうと努力をした、でもがんばればがんばるほど空まわって情けなくなる。ちょっとでも関心をひきたくて歓心を買いたくて……普通の、どこにでもいる子供みたいに笑った顔が見たくて必死に取り入ろうとした。息子に貢ぐ父親なんて聞いて呆れる。どうすればよかった?お前は俺を軽蔑してたんだろう。婆さんちを訪ねるごとに視線が冷たくなってくのがわかった、嫌われているのがわかった。婆さんに借金を頼む姿を見られて、俺は……」 急激に老け込んだかのようにかぶりをふり、ガラスに映る呆け顔を見詰める。 「疲れてしまったんだ」 懐かない息子に媚びる事にも、無理に無理を重ね理想の父親を演じる事にも。 「疲れて、逃げ出した」 それは努力が報われぬ無力感から来る一種の現実逃避、父親の義務の放棄。 息子の尊敬を受けるに値する理想の父親たらんとした男がその高すぎる理想に押し潰され、幻滅と徒労のくりかえしで荒んでいく過程。 「妻に逃げられて息子に疎まれて……いっそ恨んでくれた方がらくだった。いや、恨んでたんだろうな……口に出さなかっただけで」 ガラスに映る顔が悲哀に翳る。実の息子に父親不適格と烙印を押され、自らの行いを一つ一つ思い返す内省的な目に、居丈高に怒鳴り散らしていた頃の面影はない。 「親にとって何が一番こたえるかわかるか?子供に同情される事だ」 自らの非を認め、強迫観念に憑かれた饒舌で釈明する。  「軽蔑されるならまだいい、嫌われるならいい、だが同情は耐え難い。俺は尊敬される父親になりたかった、爺さんのように立派な人間になりたかった。だが無理だった、どだい無茶な望みだったんだ、爺さんとははなから器が違った。実の息子のくせに俺は爺さんの器を受け継がなかった。結局は身の丈に合わぬ高望みが身を滅ぼしたんだ」 老いた母に金をせびりにくる父親が息子の目にはどのように映っていたか。 プレゼントの山を抱え小学生の息子のご機嫌をとりにくる父親を、誠一がどれほど大人びてさめた目で見詰めていたか。 「お前の目が怖かった、大人のように俺を見るその冷ややかさにいたたまれなかった」 「被害者づらして責任転嫁か。どこまでも卑劣な男だ」 漸く喉から絞り出した声は低く軋んでいた。 憎しみ滾りたつ視線で近くて遠い背中に切りつけ、殺気立つ手振りで激した感情を表現する。 「はっきり言ったらどうだ、新しい家庭の方が大事だったと。邪魔者は婆さんに押しつけ自分は愛人とよろしくやってたんだろう、会いに来なかったのは忘れていたからだろう」 「ちがう」 「俺に構うのが面倒くさかったんだろう。たしかに俺は可愛げない、面倒くさい子供だった。厄介払いしたくなっても無理は」 「息子の前でかっこつけてなにが悪い!」 誠一の自嘲を遮ったのは冷静沈着なポーズをかなぐり捨てた充の怒号。 息子とすれちがうもどかしさにやきもきと顔を歪め、戸惑う誠一に向かい合う。 「父親がかっこつけたがるのはあたりまえだろう、お前だってみはなにはいいとこ見せたいだろう。俺もそうだ、男手ひとつで育てるのが不安だから婆さんに預けたがせめて会いに行ったときくらい気前のいいところを見せたかった」 眉間に寄った皺に苦悩と葛藤が滲む。こんな充は初めて見る。 誠一が知る充はいつだって自信家で余裕たっぷりで、自らの狭量な価値観を正当化しはばからぬ傲慢な男だったはずだ。 その充が今や完全に取り乱し体裁を繕うのも忘れ喚き立てている。 相手の人格を卑下し攻撃し意地を貫き通すのではなく、どこまでも不器用に愚直に、みっともないまでの必死さで、二十数年誤解とすれ違いを重ねてきた息子との距離を縮めようとしている。 興奮をなだめるように深く息を吸い込み、遣り切れなさげな眼差しで大人になった息子を見る。 「俺が捨てたんじゃない、お前が拒んだんだ」 「詭弁だ」 「そうでも思わなきゃやっとれん、実の息子に軽蔑されてると認めたら自信を失ってしまう。幹子は……あいつはダメな俺がいいと言ってくれた、見栄っ張りで意気地なしな俺が好きだと言ってくれた。楓は俺に懐いてくれた……優しい、いい娘だった」 「愛人の家庭の方が居心地よかったろう」 「……否定はせん。だが、お前の事を忘れてたわけじゃない。俺は……恥の上塗りをしたくなかっただけだ」 たとえば自分は一度として父にやさしい言葉をかけたことがあっただろうか、プレゼントを喜んでみせたことがあっただろうか、不器用な愛情表現に好意を返しただろうか。 「お前は俺の訪問を喜ばない。お前と婆さんの間にはたしかな信頼があって……実のところ、嫉妬していたんだ」 自分にはできぬことを易々と成し遂げた華に どんな魔法を使ったのか、自分があれだけ手こずっていた息子の心をいともたやすく開かせてしまった母に。 「こんな身勝手な親父が、行事の日ばかり父親づらするのはおかしいだろう。お前だって婆さんがきたほうが喜ぶだろう」 『その日は楓の運動会があるから行けん』 児玉充はどこまでも世間体を気にする男だった。 体面と体裁を第一に重んじる充が、どうして愛人宅に入り浸り息子を見捨てるようなまねをしたのか? 長男に対しそんな振る舞いをしていれば必ず噂になるはず、児玉充は息子を実家に押し付けろくに会いにも行かず愛人の娘を贔屓してると非難されたはず。 しかし充は運動会にこなかった。 運動会だけじゃない、誠一の小中高時全ての行事にだ。 年に数回、特別な行事の日にだけ子煩悩な父親のフリをすることもできたのに、その欺瞞をよしとしなかった。 「ばあさんに嫉妬してたのか?」 「……くさっても父親だぞ、俺は。あれ以上情けないまねをして見損なわれたくなかった」 「いっそ会わなければ嫌われずにすむと思ったのか」 会いにこなければ、自分の中の理想の父親像を守れると思ったのか。 息子の中の父親像はとっくに壊れてしまっていて、年齢以上に聡い息子が今や自分に対し何の期待もしてないとわかってしまったから、自分がこうありたいと望んだ父親像だけでも守ろうとしたのか。 「……欺瞞だ」 床に落ちた呟きには理不尽な怒りがこめられていた。 「何故もっと早く言わなかった、そんなこと考えてたなんて初めて知った、俺はずっとずっとあんたを」 「ばあさんは再三話し合いをすすめた。少しの時間でいいからお前と会って話すように、素直な気持ちを話してやれと……だが俺は、お前の口から俺を責める言葉がでるのが怖かった。そうなったら立ち直れない、眼差しだけで死にたくなったのに……」 「だからこそこそと逃げ回っていたのか?ばあさんに俺をあずけっぱなしにしてろくに会いにも来ず、大学を卒業して使えると踏んだら借金まみれの会社をぽんと投げ渡してしらんぷりで、俺はいったいあんたのなんなんだ!?」 「息子だ!」 間髪入れず叫び返し、悔恨の念に満ちた眼差しでひたと誠一を見据える。 「俺なんかには出来すぎた息子だ。ダメな父親の尻拭いを文句一つ言わずしてくれた……そんな立派すぎるお前に、今さらどう謝ればいい?」 「…………」 「父親らしいことを何一つしてやれなかった。ならいっそ、上司として接するべきだと思った。経営のノウハウを教えようとはりきった、昔してやれなかったぶんも俺が持てるスキルすべてを叩きこもうと色々口出しした」 祖母と共に玄関に立ち見送った背中と、眼前の意気消沈した背中とが時を超え重なる。 「おせっかいだったな」 息子の前ではかっこよい父親でありたかった、息子に尊敬されたかった。 かっこ悪い姿を見せるくらいならいっそ、会いに行かぬほうがいい。 言い合いをやめた二人の間に沈黙が漂う。みはなを抱いて見守る視線の先、よく似た親子が歩み寄る。 封筒をしまった背広の胸を軽く押さえ、背後に立つ誠一へとガラス越しに語りかける。 「お前は勘違いをしている。これは手切れ金じゃなくて慰謝料だ。あの女には随分と酷い事を言ったからな……一応、反省している。お前たちが離婚したのは俺がうるさく口出ししたせいだろう」 「わかってるじゃないか」 「誠一さん!」 「おなじ轍を踏ませたくなかったんだ。みはなは俺にとってもはじめての孫だ、せめて物心つくまでは母親には家にいてほしかった。あの女は外で働きたがっていたがな」 背広の胸を軽く叩き、疲れ切った顔に少しだけ冗談めかした笑みを覗かせる。 「お前ならわかるだろう誠一。俺はこのやり方しか知らない。物事を丸くおさめるなら金を出すのが一番だと思ってる」 それが児玉充という人間の生き方。 虚栄心と自尊心ばかり肥大した男の、ひどく偏った金への信仰。 「ばあさんの遺産が欲しくて俺を利用したんだろう」 「欲しかったさ。俺は息子だ、当然相続の権利がある。だが、俺が手にした金はいずれお前とみはなが受け継ぐ。大きくなったみはなの為に使える」 自分の身勝手が歪めてしまった息子への罪滅ぼしにも。 「……みはなはお前にそっくりだ。あんなに小さいのに既に俺の本質を見抜き始めている。せめて孫には嫌われたくなかったんだがな」 力なく苦笑し、悦巳のエプロンにしがみついて離れないみはなと誠一とを感慨深げに見比べる。 「俺はダメな息子で父親だった。せめていい祖父になりたかった。お前とよく似たみはなには俺の事を好きでいてほしかった」 息子の分まで甘えてほしかった。 だから息子と同じようにプレゼント責めにして、また過ちを重ねた。 成長しない男だ、本当に。 いやになるほど。 「……殴ってすまなかった」 充が頭を下げる。誠一は何も言わない。 ゆっくりと上体を起こしつつ固唾を呑んで見守る悦巳をちらりと見、肩をすくめてみせる。 「遺産の件は好きにしろ。親戚連中は俺が説得する。あいつにくれてやるのもいいだろう」 衝撃の発言に動揺が走る。 「どういう変わり身の早さだ、遺産が欲しかったんじゃないのか?だからさんざんまどろっこしいまねをして悦巳をさがしだして監視を命じたんじゃないのか」 「幹子と楓に怒られたんだ」 かすかにばつ悪げな色を浮かべる。 「俺の行動に不審を抱いてたんだろうな、正座で三時間問い詰められて一切合財吐かされたよ。俺の対応次第では楓を連れて出ていくと脅された。『誠一さんはもうとっくに成人してる、あなた以上に立派に社長をなさってる、これ以上迷惑をかけるな』と……『誠一さんは高潔な人よ、二十年越しの慰謝料なんて受け取らないわ』と」 二十年越しの慰謝料。 漸く理解が及ぶ。 充が興信所を経由し悦巳の身元を調べさせたのはすべて華の遺産を手に入れるため、悦巳を懐柔し相続の権利を放棄させるためだった。 しかしその背景には父親の務めを果たせなかった息子への罪悪感と後悔が沈殿していた。今回の一件は失われた誇りを回復するための計画、誠一への賠償行為だったのだ。 どこまでもどこまでもすれ違う父と息子。 似た者同士の親子。 「覚えてるか、誠一。お前が子供のころ運動会に行かなかったことがあったろう」 愛人の子の運動会とブッキングしたのを理由に息子の運動会を欠席した父親が、自分の臆病さを恥じて弱弱しく視線を伏せる。 「あとでバレて幹子に叱られたよ、どうして行ってやらなかったんだと。俺はなにも言い返せなかった。寂しい思いをさせるな、たった一人の息子なんだからと……」 「のろけか」 「自分は愛人だ、日陰暮らしの覚悟は出来てる。自分も楓もそんなことして貰ってもちっとも嬉しくない、誠一さんを不幸せにしてまであなたを独り占めしたくないと言われた。あんなに声を荒げた幹子を見るのは初めてだった。……正直に言うとな、最後まで行こうかどうしようか迷った。だが俺が顔を出しても喜ぶお前の姿を想像できなかった。ただでさえ嫌われてるのに余計なことをして……お前は高学年にさしかかって難しい年頃だったし、嫌ってる父親を友達に見られたらますますへそを曲げるんじゃないかと……俺がいなくて寂しがるなんて、ばあさんの世辞だと思って流してしまった」 充と誠一が見つめあう。 勘違いと誤解を重ね開いてしまった溝を埋めようにも埋めきれず、もう取り戻せぬかけがえのない過去の残滓を互いの目の中にさがそうとする。  「すまなかった」 誠実な謝罪。 誠一は何も言わない、何も言えない。 許すとただ一言言ってしまえば楽になれるとわかっていても、子供時代に体験した孤独感や寂しさを帳消しにはできなくて、父親に捨てられた哀しみは癒えなくて、潔く頭を下げる充を途方に暮れて見下ろすしかない。 充の口から息子への謝罪を聞く日がくるとは夢にも思わなかった。 「充さん」 慎ましげな声にそろって振り向く。 視線が流れた方向には心配そうに寄り添う女性がふたり……充の愛人と誠一の異母妹。 誠一と目が合うや下腹部で手を組んで丁寧に頭をさげる。 思いやりにあふれた美しい動作。 ゆっくりと顔を上げ、今度は充と見つめ合う。 「……話は終わりだ。俺は行く」 充が背を向ける。革靴で床を叩く音を響かせ誠一の横を通り抜けざま、耳元でささやく。 「……お前の子じゃなかったら可愛がったりせん」 別に子供好きというわけでもないからと皮肉っぽく付け足しロビーを突っ切って母子と合流、言葉少なく会話をかわす。母と娘が誠一たちに向き直って深々と頭を下げる。 ロビーで落ち合って三人が去っていく。 どこにでもいる普通の家族のように寄り添いながら賑やかな雑踏に紛れ消えていく。 三人の姿が雑踏にのまれて見えなくなるまで見守っていた誠一の隣に、いつのまにか悦巳がくる。 「苦手と嫌いはイコールじゃないんですよ」 悦巳と出会う前の誠一がそうだったように 「子供の事が嫌いじゃねーのにやさしくできねー人はたくさんいます。一つボタンを掛け違えちゃっただけで、あとはどんどんずれていく。物でしか愛情を表現できない人だっていますよ。充さんが誠一さんを嫌ってるなんて絶対ない、たしかにわがままでへそまがりでめんどくせー人だけど……」 そう言って朗らかに笑う。 「だれかさんにそっくりっしょ?」 「みはな、おじいちゃんのこときらいじゃないですよ」 こちらもいつのまにか悦巳のエプロンから抜け出したみはなが、誠一の足にしがみついてじっと見上げてくる。 「おたんじょうびかいのときだっこして言ってくれました。せーいちにそっくりで賢そうな顔してるって。でも気が強いところまで似るなよって。あいつはそれで敵を作るから」 あんたは俺の敵じゃなかった、父さん。 憎まれ役を演じて、本当の敵を遠ざけてくれたのか。 充が矢面に立ち一切合財の調査を請け負うと確約した事によって華の遺産を狙う親戚連中は矛をおさめた、もし充が他の親戚連中を牽制しなければ華に可愛がられていた誠一こそ悦巳に次ぐ相続人候補と見なされ様々な思惑が交差する骨肉の争いの渦中に巻き込まれていた。 既に見失ってしまった父の背中にかけるべき言葉を失い立ち尽くす誠一の横に、悦巳とみはなが無言で並ぶ。 「いつか仲直りできますよ。親子ですもん」 悦巳がにっかり白い歯を見せる。 「……ふん」 親子げんかを能天気な一言で締めくくられ、きまり悪げにそっぽをむく。 素直になるには今しばらく時間がかかりそうだが、もはや誠一は父と父が選んだ家族のカタチを否定はすまい。 物思いにふける誠一の手にふっくらした手がもぐりこむ。もう片方の手を悦巳と繋いだみはながはにかみがちに囁く。 「かえりましょう」 彼にも家族ができたのだから。 東京湾に面した埠頭に貨物船が停泊する。 太い汽笛を上げて港を離れていく船を見送りながらたたずむ男が二人。 「今日は助かった。礼を言う」 「よせよ気持ちわりい」 斜めに傾いだ大型バイクに身をもたせ、吹きつける潮風に髪を遊ばせているのはパンクルックの青年。 蹴られたらさぞ痛そうな厚底ブーツを履き、黒い革ジャンのそこかしこをシルバーアクセサリーで飾り立てた青年の隣にはサングラスをかけた寡黙な男。 頬骨の高く張り出たタフな風貌に黒いスーツが異様に似合う。洋画にしばしば出てくる傭兵上がりのボディーガードを地で行く格好だ。 青年は大志、男はアンディ。海を眺める二人の背後には一台の車がとまっている。 「おかげで飛行機が発つ時刻に間に合った」 「いっときはマジやばかったけどな、どうにか切り抜けたぜ。首都高のブラックパンサーと恐れられたドライビングテクはまだまだ錆びちゃねえな」 「白バイに囲まれた時はどうなることかと思ったが」 「あんたのフォローのおかげだ」 何を隠そうこのふたりが悦巳とみはなを空港に送り届けたのだ。 妙なところでばかりプライドが高い誠一は最初美香の見送りに行くことを家族に秘密にしていた。 秘書兼ボディガード兼運転手として誠一に仕えるアンディだが誠一とて免許はもってるし運転できる。 仕事前に寄るつもりだったのだろう、「たまには気分転換もいいだろう」とプライベート車に乗った誠一を見送りすぐ悦巳を叩き起こした。 「いけね寝坊した朝メシ作んなきゃ」とエプロンを結んで台所に立たんとした後ろ襟ひっ掴み、おりこうさんに早起きして幼稚園の支度をしていたみはなをかっさらい、みはなの方は丁重にもう一台の車にエスコートし、悦巳の尻をどやしてあらかじめ待たせておいたバイクの後ろに乗せた。 そのバイクを操縦したのが大志だった。 どうにか間に合わせんと高速をふっとばしたが、仮に大志の協力を得られなければみはなは母と別れの言葉を交わすことなく飛行機を見送っていただろう。 途中スピード違反で白バイに追われる一幕もあったが、巧みにバイクを駆る大志の先導によって見事に振り切った。暴走族上がりの経歴は伊達じゃない。 颯爽と先頭を飛ばす大志と共同戦線を組み、ぴったり呼吸の合った連携プレイで白バイ軍団の執拗な追跡を振り切ったアンディが真新しい煙草の封を切る。 「喫うか」 「サンキュ。意外に太っ腹だな、あんた」 見直したように笑い、一本頂戴する。薄い唇に煙草をくわえた大志に無言でライターの火を貸す。二筋の紫煙が遠く汽笛響く空へと立ち上っていく。 「警察はなんて言ってた」 「保護観察処分だとさ。自首がプラスに働いたのかね。一応未成年だし……ギリギリだけど」 御影の逮捕後、大志は怪我の治療もそこそこに警察に出頭した。 御影が計画した振り込め詐欺の実態を洗いざらいしゃべり積極的に捜査協力した姿勢が評価されたのか、あくまで勧誘がおもであって大志自身は実行犯として動いてなかった点が考慮されたのか、刑務所には行かずに済んだ。 誠一やアンディの証言も役に立ったが、暴行事件の被害者にあたる悦巳が大志を庇った事実が大きい。 自分の立場が悪化するのを承知で友人を庇い半殺しにされた行動とその勇気は十分更正に繋がるものとして、情状酌量措置が適用された。 が、せっかく刑務所行きを回避しシャバの空気を吸っているというのに顔色は浮かない。沖に浮かぶ船舶を見詰める眼差しは無気力で腑抜けている。 「これからどうする」 「さあね。とりあえず調理師免許でもとるか。そうすりゃちょっとはつぶしがきくし」 短く笑って首をすくめてから、まだ喫える煙草を弾いて捨て靴裏でにじり潰す。 「……美味いカレー、腹いっぱい食わせてやりてえし」 そんなんで自分のしたことがちゃらになるとは思わねえけど。 独白じみて呟く口調は乾いた寂寥を孕み、瞳の奥には拭い切れぬ罪悪感と後悔の念が見え隠れする。物思いに沈む大志の隣に立ち、静かな述懐に耳を傾けるアンディ。 「アイツとバイク二人乗りなんていつぶりだろうな。気持ちよかった。頼む大志、ひとっ走りしてくれって……調子いいぜったく」 「頼りにされて嬉しかったろう」 革ジャンが覆う背中にはまだ悦巳のぬくもりが残っている。 まだ悦巳に頼りにされていることが嬉しかった、してやれることが残されている事実がうれしかった。 だけど 「いい加減ダチ離れしなきゃな」 悦巳のしあわせを一番に考え姿を消す。 それが悩みに悩み抜いた末辿り着いた最善の結論、大志が出した答えだ。 自虐と諦観に翳り、鬱屈した眼差しで海を眺める横顔にアンディが呟く。 「悦巳が哀しむ」 「アイツになにしたか忘れたのかよ」 「命令されて仕方なくだろう」 「フツ―てめえを強姦した相手を許せねえだろ」 「悦巳なら許す」 「俺ならごめんだカオも見たくねえ、唾吐いて追っ払ってやる。アイツはとんでもねえお人よしだからそうしねえだけだ、クズに情けをかけてくれる」 悦巳は優しいから、どうしようもなく馬鹿でお人よしで優しいから、たとえ自分を強姦した相手といえど見離せないし見限れない。 しかし大志にはその優しさに甘える資格がない。バイトを掛け持ちして生活を支えていた悦巳にもっとウマい仕事があると囁きかけたのも大志なら御影と引き合わせたのも大志、悦巳の人生をめちゃくちゃした張本人は他でもない一番の親友だった大志なのだ。 「一緒に被害者に謝りに行くんじゃなかったのか」 「しゃべったのかよ?」 「いや、お前ならその場の空気に呑まれ口当たりいいことを言いそうだという予想だ」 「るっせえ見抜いてんじゃねえ!」 「友達との約束を破るのか」 「誠一サンがついてったほうがあいつも喜ぶだろ」 アンディが片眉を跳ね上げる。 「妬いてるのか」 「……砂場で抱き合うとこ見せつけられてシラケねーほうがどうかしてるぜ。オーディエンス全無視じゃねえか」 もう手助けは必要ない。あいつには頼れる人間がいる。大志の出番はない。  潮風になびく髪を手でおさえつつ、誠一としあわせそうに抱き合う親友の姿を回想する。 「あいつの足ひっぱりたくねえ」 「逃避とどう違う」 「あいつといたらだめにしちまう」 「お前如きにだめにされる悦巳ではない」 「てめえに何がっ!」 拳を振り抜きざま額に衝撃が炸裂。 「ーっう!?」 デコピン。 いや、額を穿孔しかねぬ凶悪な一撃をはたしてデコピンと呼んでいいものか。大志もよくふざけて悦巳にデコピンしたがあれとは比べ物にならぬ威力、全く別物の破壊力。喧嘩で鍛えた動体視力をもってしても残像しか捉えきれず敗北感に打ちのめされる。 「ーっでめえ何すんだ今の確実に頭蓋骨にひびいったぞ、味噌でたらどうしてくれんだ!?」 「好きなんだろう」 殺人的威力のデコピンを大志の額のど真ん中めがけ放ったアンディが、サングラス越しに冷えた眼差しを打ち込む。 「潔く姿を消す、か。言うことだけは立派だが痩せ我慢は見苦しい。本当にすまないと思ってるなら逃げずに立ち向かえ、償いの仕方を考えろ」 まだひりひりと痛む額を庇い威勢よく言い返そうとしたものの、妥協を許さぬ眼差しにぶつかって悔しげに唇を噛む。 「償いって……どうすりゃいいんだよ」 「さっき自分で言ったろう、カレーを作れ」 「はあ?」 カモメ舞う水平線に感情の読めぬ瞳を据えたまま、渋く錆びた声音で淡々と諭す。 「今日も明日も次の日も次の日もカレーを作れ。瑞原悦巳はまだまだ主夫として未熟だ、奴に手料理を教えてやれ。悦巳はお前の手料理が大好きだ、心の師と仰いでる。どうしたら大志のようにコクがあってまろやかなカレーが作れるのかと日々工夫を重ね研究してる。お前の手料理を恋しがってる」 「あの馬鹿……」 「お前のとりえは料理の腕前と喧嘩の強さくらいのものだろう。個人的にはそのはねっかえり根性も捨てがたいが」 アンディが渋く含み笑い、どんな顔をしたらいいものか迷い、頬を赤く染めそっぽを向く大志に一瞥くれる。 「お前がいなくなれば悦巳が哀しむ」 どっちが好きだとかどっちといたほうが幸せだとか、 「だれもだれかの代わりにはなれん」 「……カッコイー。惚れちまいそ」 口笛吹いて茶化せばサングラスの下で不本意そうに顔を顰め、二本目の煙草を唇に銜える。 背中を預け合った信頼感が口を滑らかにする。 顔を近付け煙草を貰い、上に向かって紫煙を吐き出す。 「ろくでもねえ人生だけど、アイツとダチんなれたのだけは自慢だ」 「ならダチでい続けやれ。これからもずっと」 「キッツイなあ、それ。フられた相手とダチでい続けろって?いちゃいちゃ見せつけられながら?」 「はたちそこそこで人生を見切るのは早すぎる」 「保護司みてえなこと言うなよ」 「少年よ大志を抱け」 「嫌いなんだよその名前。くそったれな親がつけたくそったれな名前だ」 「俺は好きだ。未来に広がるいい名だ。希望と野心に満ちている」 真っ向から名前を褒められ、面映ゆさとこそばゆさとで貧乏ゆすりを始める。水平線を舞うカモメに視線を投げかけ、アンディがおもむろに爆弾投下。 「お前の手料理が食いたい」 大志が硬直、半開きの唇からぽとりと煙草が落ちてアスファルトの地面で燃え尽きる。 「……プロポーズ?」 「悦巳が絶賛する腕前に興味がある」 「いや……あのさ、あんたにメシ食わせる義理ねえんだけど……」 さてどこから突っ込もうか。 「………くっくっ」 やめた。馬鹿らしい。 喉を鳴らして含み笑い、やがてそれが青空へとこだまする爆笑へと変わる。 空を仰いで笑い続ける、紫煙が目にしみて涙が出る、煙が気管に入って噎せて咳き込んで苦してそれでも笑って笑い続けて腹の中に鬱積したマイナス感情を濾過する。 吹っ切るのにはまだまだ時間がかかりそうだ。 なんたって十年越しの片思いだ、簡単にはいくまい。 だけど大丈夫、俺は平気だ。だって 『すげー、やっぱ大志は世界一カッコイイぜ!』 目を輝かせてそう叫ぶ、子供のころの悦巳の面影を覚えてるから。 「そうだ、渡すもんがあったんだった」 忘れてたと言わんばかりの脈絡なさで呟き、革ジャンの懐から取り出した物を無造作にアンディに投げて寄越す。 みはなから取り上げた銃だ。 「ガキの手が届く所にンなもん置いとくなよ」 キツい口調で注意する大志をまじまじ見て、サングラスに隠れた表情をふっと和ませる。 「……いい奴だな」 「んだよさっきから気色わりぃ……もう行くぜ、バイトとアパートさがさねーと」 「あてはあるのか」 「ねえよ。けどま、なんとかなるだろ。安いキツい汚いの3Kだって文句は言わねーさ、体力にだきゃ自信あるしな」 バイクに跨ってエンジンを吹かす。ヘルメットを被りながら笑って言う大志をよそに、倉庫前にとめた車のもとへと戻っていく。 カモメの糞が付着したボンネットを見、車体に手を添えたアンディが、高鳴るエンジン音にかき消されまいと太い声を張り上げる。 「ところで洗車係をさがしてるんだが……」

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