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第49話

ついにこの時が来た。 風呂上がりの体をスウェットに包み、ベッドの上で正座する。 いつもはカラスの行水の悦巳だが、今夜ばかりは来たるべきあれこれに妄想を膨らませるあまり一時間近く風呂に浸かってすっかりのぼせてしまった。悦巳と入れ替わりに風呂に入った誠一はまだ上がらず、控え目なシャワーの音が聞こえてくる。 「リラックス、リラックス……」 手のひらに人の字を書いて飲み込む。こうすると心が落ち着くと教えてくれたのは華だ。 言われた通り試してみたら確かに気休めにはなったが、それも長くは続かない。 「おっせえなあ……」 よっぽど気合いが入ってるのだろうか。気合いってなんだ、どこに入れる気だ。下半身?いや、落ち着け俺。ていうか誠一さんただでさえご立派なモノお持ち遊ばされてるのにあれ以上気合い入れてどうする気だこっちの身がもたねえぞ。労災きくのか?ていうか、これって労災おりるの?じれて貧乏ゆすりを始める。寝室に一人っきり、ベッドのど真ん中で今か今かと誠一の登場を待ち受ける悦巳の心中は早くも生殺しに音を上げて千々に乱れまくっている。 隣のベッドはもぬけのから。 みはなは今頃はリビングのソファーでぐっすり熟睡してるはず。 念入りに確認したから間違いない、今夜に限って途中で起きてくるようなことはないと祈ろう。 規則正しく寝息をたてるみはなを起こさぬようそっと毛布に包み、抜き足差し足忍び足で居間に運んだのは悦巳だ。もちろんミッフィーちゃん人形も一緒においてきた。 ミッフィーをだっこしてすやすや眠る顔の愛くるしさにニヤケて頭をなでたら「犯人はにんじんさんです……ニシンさんじゃありません……」と謎の寝言を返された。どんな夢を見てるのか気になるところだ。明日聞こう。 いつもより早く寝かしつけたのにはもちろん理由がある。 これから大人の時間が始まるのだ。 時を刻む秒針の音がやけに耳に障る。 ベッドの上でそわそわ身じろぎする。せっかく風呂に入ってキレイにしたのに自然と汗をかいてしまう。日頃見落としがちな指の股の間も爪の間も石鹸を泡立て念入りに洗って体中の垢という垢をこそぎおとした。それでもまだ不安で生乾きの髪を一房引っ張る。来たばかりの頃は茶髪だったが今や半分以上黒く戻ってしまった。 「変じゃねーよな……」 袖に鼻をあて匂いを嗅ぐ。 体臭がいやに気になる。 正座したままふと振り返れば、自分が座るベッドに枕が二つくっついて並んでいる。 夫婦枕。 膝這いでにじりよりそーっと枕を離す。 適切な距離を測りつつ近付けたり離したりを繰り返し、試行錯誤の結果10センチほど空けて両手で押さえつける。 「このへんかな……近すぎてもアレだし離れすぎててもわざとらしいし、けど寝返り打った拍子にごちんとやっちゃったら」 「なに一人でブツブツ言ってる」 「ひっ!?」 ドアが開く音に背中が強張る。凄まじい勢いで振り返りざま抗議する。 「ノ、ノックくらいしてくださいよ非常識な!」 「なぜ自分の部屋に入るのにノックしなきゃならない」 手前の廊下に全裸にバスローブを羽織っただけの誠一が立っていた。 「てゆーかそのかっこって……パジャマくらい風呂場で着てきたらどうすっか、ちゃんと拭いてきたんでしょうね、いやっすよ廊下にこぼした水滴拭くの!」 「どうせ脱ぐんだから問題なかろう」 「そりゃそうっすけど……」 誠一の裸を正視できない。なんというか、刺激が強すぎる。 別に誠一の裸を見るのは初めてじゃないし今さら驚くのも変だという自覚はあるが、湯上がりの状態でこうも堂々と振る舞われては目のやり場に困る。 一方の誠一はといえば、ウブな反応を面白がるかのように含み笑い、おもむろに手を伸ばし部屋の電気を消す。 悦巳の体が跳ねる。 静かにゆっくりとドアを閉じる。 密室となった寝室に二人の息遣いと衣擦れの音だけが伝う。 誠一が歩いてくる。部屋を横切り接近しつつある気配を感じとる。そろえた膝がもじつく。手のひらがじっとり汗をかく。落ち着け俺、止まれ心臓。いや止まっちゃだめだ、死ぬから。でも今リアルに恥ずかしくて死にそうなんだけど…… きつく目をつぶる。 間延びした呼吸を繰り返し膝の震えを押さえつける。 誠一がすぐそばにくる。 「みはなは」 「ぐっすり寝てます」 「そうか」 「あの……誠一さん」 「なんだ」 羞恥と緊張で声が上擦る。言葉が続かない。ベッドが沈み、力強い手が肩にかかる。 「別に今日じゃなくっても……ほら、明日の仕事に差し障ったら困るし。休みの日とかにしません?」  「だめだ。今週末はみはなを動物園に連れて行く」 「いや、それは知ってるし俺も行くけど……でも仕事も大事っしょ?腰とか痛めちゃったら大変っしょ、ね?いくらイスに座ってるだけの簡単なお仕事でも難儀しますよ」 「お前は社長の仕事をなんだと思ってるんだ?」 「基本イスにふんぞり返ってるだけなんじゃ」 なんか違う。想像と違う。 風呂に茹だりつつ繰り広げた妄想の中ではもっと甘いセリフを交わしたはずなのに、なんでこんな色気ない会話してんの? 悦巳とて本気で誠一の腰痛を心配してるわけではない、明日の仕事に差し障るだの何だのは全部ただの引き延ばし工作、要するに悪あがきだ。往生際が悪い。 土壇場で決心が鈍る。誠一に背中を向けたまま、着回してすっかり伸びきってしまったスウェットの裾をいじくりまわし時間を稼ぐ。 「……いや……そうだ、盗聴器?盗聴器とか仕掛けてるんじゃないっすか俺いやっすよアンディに聞かれるの、明日からどういう顔して会えばいいんすか!それに隣の人とかに聞かれたら明日買い物行く時とかやべーし」 「防音設備は完璧だ。盗聴器は気にするな」 「否定してよ!そこは否定してよ!」 「冗談だ」 「前科あるじゃねっすかー……」 くそ、おちょくられてる。半泣きの悦巳をなだめ、肩を掴む手に力を込めて押し倒す。背中でマットレスが弾む。バスローブ一枚羽織った誠一が上にのしかかる。 暗闇の中で視線が絡み合う。距離が近い。仰向けに寝転んだまま、熱っぽく潤んだ眼差しで誠一の顔のあたりを見詰める。 じっと目を凝らす。 徐徐に暗闇に目が慣れ、端正な顔の造作が浮き彫りになる。 「………その………」 飼いならされた体が期待値に比例し疼く。毛羽立つスウェットと擦れあう素肌が淫蕩な熱を生み出す。 ごくりと生唾を呑む。心臓の音がうるさい。無防備に四肢を投げ出し、乾ききった声で乞う。 「初めてじゃねえけど………優しくしてください」 「わかってる」 「……ほんっっとに手加減してくださいよ?」 「ああ」 頬を手で包んで顔を傾け、唇を奪う。 心の準備さえさせてもらえなかった。唇と唇が触れ合う。上唇を舌でなぞり、下唇のふくらみをついばみつつ、腋から腰にかけてスマートに片手を滑らせる。 されるがまま目をつぶる。誠一の手が滑った部位に甘い痺れが走る。スウェットの上から細腰を支え、悦巳に覆いかぶさって息を吸うのも忘れた唇を味わう。 優しいキスだった。 思えばこんなキスをされるのは初めてだ。 約束通り手加減してくれた。あるいは手加減しようと努力してくれている。 ああ、やっぱりそうだ。 この人は優しさを表現するのがとても下手だ。 「……やればできるんじゃん」 「あたりまえだ。今までしてこなかっただけだ」 拗ねた物言いに思わず笑ってしまう。 顎と首筋を唇が伝う。スウェットの裾からもぐりこんだ手が下腹を這う。仰け反る喉に唇をおしつけ、撓う体を抱きとめる。 「っ…………、」 熱い。怖い。掴まるものを求めて虚空を掻く、掻き毟る。その手を誠一が捉え自らの肩へ導く。 「ちゃんとつかまってろ」 悦巳が溺れないように見張る口調で、いや、底まで溺れても引き上げてやると誓う口調で裾を巻き上げはだけていく。 痩せた下腹と薄く貧相な胸板が外気に晒される。そこかしこにまだ消え残った痣が散らばっているのを見咎め、不愉快げに目を細める。 気配の変化を敏感に察し、誠一の首に手をまわした悦巳が消え入りそうな小声で呟く。 「……すいません……」 「謝るな」 不機嫌な声。まずい、怒らせた。反射的に首から手をはずし、裾をおろして痣を隠す。 羞恥と屈辱と哀しみとが胸の中で渦を巻く。 暗いから平気だと思った、バレないだろうと高を括った、もう随分薄れたし…… 馬鹿だ、俺。そりゃ萎えるにきまってるって。誠一さんプライド高いんだから、一番乗りじゃなきゃイヤなんだから、さんざんマワされたお古なんて願い下げにきまってる。 「……もうちょっとキレイになってりゃよかったんだけど……いや、痛くはないんですよ全然。そっちの方はピンピンしてます。見た目は派手だけど大した怪我じゃなかったし」 必死に言い訳をする、機嫌を損ねぬよう引きつりがちな愛想笑いでしらけた空気を繕う。 裾を掴む手が小刻みに震える。俯いた顔に朱が上る。目を瞑れば暗闇に甦る悪夢の情景、体を這い回る無数の手と手、自分を組み敷いて高笑いする男達…… 体が勝手に震え出す。 忘れたくても忘れられない、骨の髄まで恐怖が刻み込まれている。誠一に触られるのは嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに、体が勝手に拒絶反応を起こしてしまう。誠一さんとあいつらは違う、頭では分かっている、なのにどうして もう大丈夫なんだと自分に言い聞かせる、もう怖くないと繰り返し暗示をかける。 御影は逮捕された、悪夢は終わった、ここはもう安全なんだ、もう誰も追っかけてこないんだ。 わかってる、わかってるんだそんなこと。でも怖いんだ、怖くて怖くてしかたないんだ、好きな人に抱かれてても忘れられないんだ。 「………誠一さんに恥かかす気なかったんだけど…………」 「いつ恥をかいた」 裾を押さえる手を無理矢理掴んで引きはがし肩の横に固定、剥き出しとなった裸身をすみずみまで執拗に見詰める。 「………っ、待っ………」 消え残った痣一つ一つの輪郭を長い指でなぞり、控え目に唇をつける。 ぞくりと快感が走る。 色素が沈殿し青黒くなった殴打の痕も唇で吸われた痕も、悦巳の裸に散らばる暴力の痕跡を一つ一つ強く吸い、自らのしるしで塗り上げていく。 「お前が勝手に恥ずかしがってるんじゃないか。さんざん待たされたんだ、これくらいで萎えてたまるか」 低めた声音に激しい嫉妬と独占欲が迸る。生白い皮膚を蝕む痣を一つ一つ丹念についばむ傍ら、許可も得ずズボンに手を掛け引きずりおろす。 「こっちのほうが燃える」 「誠一さん、ちょ……」 ばたつく膝を体重かけておさえこむ。トランクスに手を通しずり下げつつ、扇情的に尖った恥骨にくちづける。 「ちょっとたんま、下はいいから!つーか誠一さんにンなことさせられませんて!!」 「洗ったんだろう」 「そりゃもー念入りに洗ったけどそういう問題じゃねっしょ!!なんていうか絵的にギリギリっていうか……」 「じゃあこっちでいい」 「ひあっ!?」 突如として乳首に吸いつかれ背中が撓う。 「……っ、あくっ、卑怯っすよ……!」 「言ってる意味がわからないぞ」 意地悪な忍び笑い。切なく尖った乳首を甘噛みされ体の芯から蕩けていく。 ソファーで寝ているみはなに聞こえてしまうと最後の一線を守って上擦る声を噛み殺す。 抵抗したくても腕に力が入らない。誠一の手が脇腹をまさぐり股間に移動、トランクスのふくらみを柔く揉み唇で乳首を転がす。 「……なん、かへん………体ぞくぞくする……」 「やめてほしいのか」 答える余裕がない。口を開けば喘ぎに変わってしまう。誠一が鼻で嗤い、さらに激しさを増して乳首を責め続ける。 重点的に嬲られ続けた乳首に血が集まる。トランクスの股間がきつい。 「やめてもいいんだぞ。自分でするか」 「……っ………、」  唇を噛んで首を振る。誠一が涼しげに笑い、トランクスの内へと再び手を潜らせる。 トランクスに手を通して膝までおろす。既に半勃ちの下半身が暴かれる。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。 汗ばむ首元に真っ赤な顔を埋め、震える声で呟く。 「最後まで責任とってください……」 「最初からそう言え」 どうせ最後までヤるつもりだったくせに。 腑に落ちないものを覚えつつもここで逆らったらあとが怖いので大人しく従う。首筋に唇がじゃれつく。下半身に忍び込んだ手が暗闇を手さぐりしてペニスを掴む。  「痛ッ」 もっとも敏感に勃ち上がった部位を掴まれ悲鳴を洩らせば、その痛みを紛らわすよう爪の先で内腿を掻かれる。 誠一の手がゆっくりと動き出す。手の中で脈打つ悦巳のものを上下にしごき、ぱくつく亀頭を親指でぐりぐりこねまわす。 「あっ、うあ、や」 「うるさい」 先走りでぬるつく指が抗う悦巳を容赦なく追い上げていく。技巧よりも情熱に勝った手の動きが先走りに濡れそぼったペニスをさらに成長させ性感を高めていく。 「もっ、そのへんでいっ………から、はなして……ひあっ、く」 「まだイッてないじゃないか」 口の端から涎をたらして喘ぐ痴態に劣情を催す。さらなる快楽を求めるように腰を浮かす悦巳を抱き直す。バスローブと脱ぎ捨て、裸と裸を密着させる。 「すごいことになってるぞ、見ろ。自分でさわってみろ、わかるだろう」 悦巳の手を掴み自分のものを触らせる、今の状態を無理矢理わからせる。弱弱しく首振る顎を掴み前を向かせ、まっすぐ目を見て吐き捨てる。 「変態」 「……お互い様……ああっあ、うあ、ひ!」 悦巳の手に手を重ね荒々しくしごき上げる。既に限界まで追い詰められていたペニスはひとたまりもなく爆ぜ、白い体液が高く飛び散る。 「う………」 薄い胸が呼吸に合わせ激しく上下する。ぐったりと四肢を投げ出した裸身を組み敷く。情欲と快感に潤んだ眼をけだるげに瞬き、かすれた声で切れ切れに頼む。 「ヘアバンドとってください」 願い事を聞いてやる。 前髪をまとめていたヘアバンドを奪う。汗でしめった髪が額に落ちて散らばり、朦朧とした眼差しを遮る。 しどけなく額にまとわりつく髪を人さし指で梳く。淫らに上気した顔がくしゃりと歪み、泣き笑いに似た表情が浮かぶ。 「キスしてください」 暗闇に手を差し伸べて、乞う。 目尻にキスをし涙を啜る。しゃくりあげるように呻き片手で顔を隠そうとするのを許さず、手首を掴みシーツに縫いとめる。 「ほかには」 他には? 願っていいのか、欲しがっていいのか、わがままを言っていいのか。 願い事を聞いてくれるのか。 欲張っていいんですか。 「聞いてくれますか」 ずっとずっと我慢していた、子供のころからずっとずっと気の遠くなるほどに。 ずっとずっと欲しくて欲しくてたまらなくて手に入らないと言い聞かせて諦めて、だけど本当はずっと欲しくって、手に入れるためならなんでもするって 「引かないでくれますか」 閉じた瞼の裏にばあちゃんの顔が浮かぶ、大志の顔が浮かぶ、アンディの顔が浮かぶ、今まで騙してきた会った事ないたくさんの人、優しくしてくれた人たちの顔が次々浮かぶ。 欲しいものがあった。 家族がいる奴がうらやましかった。施設の子供に家族が面会に来たとき、ドアに張り付いて聞き耳を立てていた。元気だったとかちゃんと食べてるとかなかなか会いにこれなくてごめんねとか、友達とは仲良くやってるかとか、そんな言葉をかけてくれる家族がいるヤツがひどくうらやましくって、おこぼれでいいから俺にくれよって叫びたかった。 寂しい。 どうして会いに来てくれないんだろう、ずっと待ってるのに。 どうして迎えに来てくれないんだろう、ずっと待ってたのに。 お父さんもお母さんも忘れちゃったの、どうしておいてったの?ねえおばさん教えてよ、俺ってそんなにジャマだったかな、そんなに足手まといだったのかな、そんなにいらなかったのかな、あの人たちにはどうでもよかったのかな。   さびしい 「ずっと一緒にいてくれますか」 怒らないでおばさん。 怒鳴ると耳がキンキンするんだ。ちょっとは俺にやさしくして、ちゃんと聞いてるから。 おばさんが大変だってわかってるから、がんばってるのにだれにも褒めてもらえなくて、それがつらくって俺にあたるしかないのわかってるから     優しくするから、優しくして。 ちょっとでいいから好きになって。   「見栄っ張りで意地っ張りでわがままでプライドばっか高くて、ムッツリスケベで俺様で料理の味にうるさくって、正直すっげー扱いにくくって、こんな面倒くせー人と付き合える物好き、きっと世界中さがしても俺だけっすよ」   好きになって。   「というわけで、よそ見しないで俺で手を打ってください。ぶっちゃけまだまだ未熟っすけどね、目玉焼きはよくこがすしスクランブルエッグは入り卵になるしオムレツひっくりかえすの苦手だし……だけどほら、これでもがんばってるんです。男だし、そりゃみはなちゃんのお母さんになるのはムリだけど、本当のお母さんにゃ逆立ちしたってかなわねえけど……」     『オレオレさんは本当に優しいいい子ねえ』 『きっとできるわ、大丈夫』 『あなたならやれる』 胸に根付いて咲く華の声、涙と一緒に溶けて広がる面影。 暗闇の中、大好きな人にむかって祈るように手を差し伸べる。   「寂しいのはやだ」   ひとりぼっちはいやだ。 「誠一さんと一緒がいい、みはなちゃんと一緒がいい」 涙に満ちた瞼の裏側、暗闇に一粒落ちた種が芽吹いて地平線が薔薇の花で埋め尽くされる。 華の裏庭で見た光景が眼裏にあざやかに甦り、わけもわからず誠一に縋りつき、突き上げる衝動のままに叫ぶ。 「ずっとずっとあんたと一緒がいい、誠一さんと一緒じゃねーと寂しくて死んじまう、ここ追い出されたあとなに見てもあんたとみはなちゃんの顔浮かんできて、ちゃんと食ってるかなとか、俺がいなくても大丈夫かなとか、だれが紅茶淹れてるんだろうとか、そしたら何かたまらなくって、短い間だったのに、たった何か月か一緒にいただけなのに頭ン中二人のことでいっぱいで」 涙で潰れた視界で叫ぶ、その体が乱暴に押し倒される。 「!あうっぐ、あ」 先走りでぬめった指が尻の窪みを押し広げる。逃げようとあとじさる体を捕まえしっかりと腰を抱き寄せる。  誠一の顔から余裕が消える。背中に爪を立てられる痛みもよそに指を使って丹念に後ろをほぐし、頃合いと見て膝を割り開く。 「うわ、やだ、誠一さ」 「怖がるな」 子供に言い聞かせるよう優しくなだめ、汗に湿った髪をなでつける。 「一緒に行くから」 怖い。きつくきつく目をつぶり誠一に抱きつく。勃起したペニスが窪みの粘膜を圧迫、体重をかけられ奥へ奥へと沈んでいく。 「あっあああああっあ、ふあっ、ぐ、あっあっ」 仰け反りもがく体に杭を打つ、膝裏に手をさしいれ抱え上げ勢い良く腰を叩きつける、腸を滑走するペニスが粘膜と擦れあうごと快感の波が来る、抽送が激しさをますにつれ変化が訪れる、体内で暴れ狂うペニスに前立腺を叩かれシーツを巻き込み蹴る爪先がびくびく突っ張る。 「あっ、や、せいっ、さ、ーッ、も」 一回り太くなったペニスが今ようやく目覚めた生き物の如く熱く脈打つ、追い上げる動きに窄まりが収縮し強く強く締め上げる、強すぎる快感が恐怖を呼んで裸の背を引っ掻く、苦しくて―熱くて痛くて何も考えられない、弾みがついた腰をまるでねだるようすりつけ細切れに喘ぐ。 「あっあっあっ」 背を爪が抉る痛みに誠一の顔が歪む、それでも悦巳を離さず抱きしめ自らの全てを注ぎこむ、快感にとろけきって目の焦点をぼかし始めた悦巳の頬に手を添え唇を合わせる。 「愛してる」 何の見返りも求めず、 「俺もお前と一緒がいい。二度と放したくない」 「……おれ、も……ふあっ、あああっ!」 同時に絶頂を迎える。 窄まりが収縮しペニスが震え精液を撒く。 硬直、のち弛緩。 ぐったりとシーツに身を投げ出す悦巳から名残り惜しげに自らを抜き、充足感に長々と息を吐く。  「大丈夫か?」 「……手加減するって言ったくせにー……」 ぺちぺち頬を叩きながら問えば瀕死の恨み言が返ってくる。 くしゃくしゃの顔でべそかく悦巳の頭を一つなで腰を上げ、机の方へと歩き出す。 ベッドに突っ伏したまま半ば瞼をおろして均整のとれた背を見送る悦巳。机の一番上の引き出しを開け中をさぐる誠一。 「なんですか?」 また悪趣味なおもちゃを取り出すのではと毛布で胸を覆ってあとじさる悦巳のもとへ、一通の封筒を携え誠一がもどってくる。 「こないだ見つかった婆さんの手紙だ。……お前あてだ」 「えっ」 驚きに目を剥く悦巳に手紙を渡し、ベッドの端に腰掛けそっぽをむく。 「……婆さん愛用の机の引き出しが二重底になっててな、そこに隠してあった。読め」 誠一の背と手の中の封筒とを見比べる。宛先には「オレオレさんへ」と万年筆でしるしてあった。 生前の華から歳月を経て届いた手紙に動揺を禁じ得ず、セックスの疲労感が抜けきらぬけだるい体を起こして封筒を破く。     オレオレさんへ。 電話では何回もおしゃべりしたけど、こうして手紙を書くのは初めてね。なんだか緊張しちゃうわ。若いころはよく恋文のやりとりをしたものだけど…… おばあちゃんの長話はやめましょうね。きっと退屈させちゃうでしょうし。 あなたがこの手紙を読む頃私はもういないかもしれません。 筆をとったのはそう、最後にどうしてもお礼を言いたかったから。退屈なばかりの長話に、あなたは文句ひとつ言わず付き合ってくれました。 最近よく記憶がとぶの。年だからかしらね。あんなに大好きだった薔薇の手入れもままならない……思い出の庭なのに。 オレオレさん、聞いて頂戴。 私の大事な家族の話。 夫はもうとっくに死んじゃったけど、私には子供がいるの。全部で五人も。みんな自慢の子よ。 そして私の孫。あなたが「フリ」をしてくれた子の事を少しだけ話しましょう。 その子はとっても気難しくて鼻っ柱が強くって、おじいちゃんにそっくりだった。だけど本当はとっても優しいの。この家に来たばかりの頃はよく隠れ家で泣いてたわ。 とっても頭がいい子なの。まだ学生のうちに結婚して海外に行って会社を作ったわ。なんでもできる自慢の孫よ。     ねえオレオレさん。 家族ってなんでしょうね。 私はこの家でしあわせだった。 好きな人と結ばれ子供を産み、愛し育て巣立ちを見守り死んでいく。それでいいと思っていた。     だけどね、やっぱりさびしいの。 あの人が作った会社は予想をこえて大きくなったけど、それがきっかけで子供たちはバラバラになってしまった。 今ではだれもこの家に寄り付かない、せっかくきれいに咲いた薔薇を見に来ない。   だからね、最後にちょっとしたイタズラを仕組もうと思うの。 手伝ってねオレオレさん。 あら、断る権利はないはずよ。か弱いおばあちゃんに何をしたか忘れたの?   私が死んだらどうせまた誰がどれだけ遺産を貰うかで喧嘩するでしょう。 まったく、しょうのない子たち。お爺さんの時と一緒。 私がお腹を痛めて産んだ子供たちがそんな馬鹿げたことで喧嘩する、お互い憎しみ合う。 そんなのはいや。 こりごりなのよ。 だからね、オレオレさん。あなたに遺産をもらってほしいの。 突然こんなこと言われて驚いたでしょう。会った事もないものね、私たち。でも悪い話じゃないでしょう? もらったあとはどうするもあなたの勝手、捨てるもスるもご自由に。      これは賭けよ。 児玉華、最大にして最後の賭け。 世の中にはお金よりもっと大切なものがある。 キレイ事に聞こえるかしら?でも本当にそう思ってるの。 だって私、しあわせだったんだもの。 あの人と結ばれて間もないころ、会社は小さくてお金はなくて、この家はあちこち雨漏りし放題のボロ家だった。 だけど私はしあわせだった。あの人がいて子供たちがいて、貧乏でもしあわせだった。 会社がどんどん大きくなって子供たちも自立して、あの人が遺してくれた資産は莫大なものになったけど、私はだれもいない家にひとりぼっち。お友達は薔薇だけ。     私がいなくなったらみんな目の色変えて遺産を奪い合うでしょう、憎しみ合うでしょう、骨の髄まで互いを憎しみ抜くでしょう。  だったらそんなものないほうがいい。 でも、捨てちゃうのはもったいないからあげるわ。       聞いて、オレオレさん。 私はあなたの人生に投資したの。 このお金を使って人生をよりよい方向に歩んでくれると信じて。     さっき話した孫には子供がいるの。みはなという名前もとっても可愛い女の子。私のひ孫ね。  オレオレさんには家族がいる? 守りたいものがある?   私にはある。 大事なのはお金じゃないって、遺産ほしさに私が死ぬのを心待ちにしてる子供たちに教えてあげたいの。 ごめんなさいオレオレさん。 ご迷惑をおかけするかもしれない、身内の恥をお見せするかもしれない。 それでもあなたにお願いするしかなかった、あなたにしか頼めなかった。 年寄りの最後のわがままを聞いて頂戴。 私の子供に、孫に、ひ孫に、世の中にはお金より大事なものがまだまだたくさんあるって教えてあげて頂戴。 世の中捨てたもんじゃないって、そう信じなきゃ生きる価値なんかないでしょう。    私が死んでも育てた薔薇は残る。 いつかまた私の子供や孫、ひ孫たちが遊びにきてくれる。 その日が必ず来ると信じてるの。 いつも。いつまでも。 さようなら親愛なるオレオレさん。お元気で。 「……婆さんの方が一枚上手だったな」  便箋を埋める筆跡には温かなだけでなく、お茶目でしたたかな人柄がにじみ出ていた。 手紙に目を落とす悦巳の隣に腰かけ、呟く。 「わかったろう?少なくともばあさんの件に関してはお前が気に病む必要はない、確信犯だったんだから」 長く長く息を吐き、折り目にそって丁寧に便箋をたたむ。 「俺、やっぱ会いに行きます。俺が詐欺にかけたじいちゃんばあちゃんにちゃんと謝りたい。電話じゃなくて、今度はちゃんと会って顔見て色んなこと話したい」   色々話したいことがある。 電話じゃなくて、手紙でもなくて、直接会って顔を見て、人のぬくもりを感じたい。     ばあちゃんが信じて賭けた俺の価値を、俺自身が信じなくてどうするんだ。 ベッドが軋む。距離を詰めた誠一が悦巳の手に手を重ね、手の甲にキスをする。 「なじられるかもしれん」 「それでも行きます」 「殴られるかもしれない」 「覚悟の上です」 「死ねと言われたら」 「受け止めます」 「泣き場所はとっておく」 きょとんとする。 悦巳の手を握り、指の峰に軽く唇を触れさせたまま、誠一の顔がみるみる赤らんでいく。 「……忘れてくれ」 「忘れません。たぶん一生」   悦巳が泣き出すように笑い、誠一の膝に飛び乗って顔を手挟み、上向かせた額に接吻する。 今や耳まで真っ赤に染めた誠一が身をよじるようにしてそっぽを向く。   「頼む忘れてくれ。どうかしてた」 「うわー照れる誠一さん超レア、顔真っ赤!記念に一枚写メっとこ……って、携帯居間だ。ひとっ走りしてくるんでどうかそのまま!」 「ええいうるさい、シャワーを浴びて頭を冷やしてくる!」 「今の盗聴されてたらヤバいじゃねっすか、絶対聞かれちゃいましたよー」 「南米に飛ばす!」 悦巳を膝から振り落とし出ていこうとした誠一だが、首に絡んだ手によってバランスを崩す。 「~っ、お前のせいだぞ……」 「もう一回しますー?息子さんはビンビン元気ですけど」 縺れあってベッドに倒れこめば悦巳が不敵に笑い、それを見た誠一の怒りも急速に萎んでいく。 「家政夫が生意気な口をきくな」 「ハイハイ旦那さま」 「普通に呼べ」 「誠ちゃん?」 なんともいえない顔で押し黙った様子がまたツボにはまり、無邪気に笑いながらその顔を手で包み見上げる。 「俺ね、思ったんすけど。ただいまとおかえりなさいを繰り返して人は家族になってくんすよ」 この人にただいまを言いたい、おかえりなさいを言いたい、ずっとずっと言い続けたい。 俺が年食ってじいちゃんになるまで、この人が年食ってじいちゃんになるまで、みはなちゃんがおっきくなって結婚して子供ができてその子供に子供ができてもずっとずっと 「ただいま」 「おかえり」 伸ばした手と手が組み合わさって、絡んだ指と指とに力がこもって、重なり合う唇と唇とが微笑みのカタチを刻む。 愛おしくてたまらなくて、名前を呼ぶだけで胸が一杯になって、激しく狂おしく互いを貪ってもまだ足らずただいまとおかえりなさいを言い続ける。 まるでそれは永遠に繰り返される愛の告白、刹那を積み重ね添い遂げる祈り。 誠一の手が背に伸びる。されるがまま無抵抗に身を預ける。キスにキスを返し、目と目で了解の合図を交わし、誠一と重なる瞬間を待― 「みはなもまぜてください」 「「!?」」 今まさにおっぱじめようとした体勢から高速で振り向けば、薄く開いたドアの向こうにミッフィー人形をひきずってみはなが立ってる。 おそらくトイレに起きたのだろう、寝ぼけまなこをしぱしぱ瞬いてこちらを見ている娘にほぼ全裸の誠一が泡を食って叫ぶ。 「大人になってからだ!」 「落ち着いて誠一さん大人になってもだめですって!」 大急ぎでスウェットに袖を通しトランクスを引き上げる悦巳、バスローブを拾って羽織る誠一。 二人のもとへミッフィー人形の片耳を掴んでトテトテ歩いてきたみはなが疑い深げな目でじーと二人を見比べ、意表を突く行動をとる。 「なっ、おいこら」 ベッドに跳ね起きた誠一の膝にちょこんと行儀よくお座り、目をこすりこすり悦巳を睨む。 「ひとりじめはだめですようー」 こくんと首が落ちる。再び規則正しい寝息を立てはじめた娘を膝の上で持て余し、情けない顔で助けを求める誠一に笑いながら肩を竦めてみせる。 「お預けっすね」 ミッフィー人形を抱いてすやすや眠るみはなを挟んで向かい合い、頬杖付いて囁く。 「川の字って夢だったんです」 「夢は叶えるためにあるんだぞ」 「知ってます」 何も知らず眠りこけるみはなの額にどちらからともなくおやすみなさいのキスをし、次いで自らの唇にふれた人さし指を誠一の唇におしあてる。 「俺の夢がひとつっきりだと思います?」   ただいまとおかえりなさいを数限りなくくりかえし家族になろう。     「ハンカチ持ちましたか?」 「おっけーです」 「歯磨きは?」 「おっけーです」 「お帽子が曲がってますよ」 「!」 台所で指さし確認、元気よく号令をとる。 頬にくいこむゴム紐を調節、ササッと帽子の角度を直しいざ出発。冷蔵庫の前を駆け足で通過する際、一度バラバラに千切り捨てたのをセロテープで修復した似顔絵が目にとまる。クレヨンででかでかと「ばかせいふ」の文字。ミミズのようにのたくるその字に苦笑一つ、みはなの手をひき廊下を走る。 「ばかせいふ」に見送られ玄関に滑り込みチェーンを外す。 「遅刻遅刻早くしなきゃ!」 「えっちゃんがお寝坊したからです」 ぷくー、とみはながふくれる。玄関の鏡をのぞきこみ寝癖がついた髪を手櫛でざっと整える。手首から抜いたヘアバンドをくぐらせ髪をなでつけ、満足げに頷く。 「完璧。行きますよみはなさんっ」 「朝からバタバタうるさい」 あくびまじりの不機嫌な声。珍しく寝坊した誠一がワイシャツにネクタイをひっかけただらしない風体で歩いてくる。 「お寝坊さんですかー」 「そうだ。だれかさんのおかげでな」  「俺のせいっすか!?ひでー」 「とぼける気か」 「いや、それを言うならこっちこそ誠一さんのせいで寝不足っす。ほら見てください瞼腫れてるっしょ?」 ほらほらとしつこく顔を指さす悦巳をうるさげに追っ払いネクタイを結ぶ。父がネクタイを結ぶ様を興味深げに眺めていたみはながおもむろに騒ぎだす。 「曲がってますよ」 みはなの指摘通り、ネクタイの長さが不ぞろいでしかもやや右に曲がっている。 「いわんこっちゃねえ。ったく手がかかるんだから」 まんざらでもない口調でぼやきつつ向かい合い手早くネクタイを結び直す。悦巳が誠一のネクタイを結び終わるまで、みはなは足踏みしながら待っていた。 ネクタイを結ぶフリで顔を近付け、耳元でささやく。 『みはなちゃんの前でヘンなこと言わないでください、バレたらどうするんすか。ただでさえ勘が鋭くてごまかすの大変なんですからね』 『真実だろう。お前がもっともっととしつこくねだってくるから大幅に睡眠時間を削られた』 『誠一さんが寝かしてくんなかったんじゃないっすか!なんすかその悪いのは俺一人みてえな言い方あったまくンな、大体俺は明日朝早いからイヤっていやがったのに大丈夫すぐ終わるってゴリ押しで』 『いつもそう言うわりには積極的じゃないか』 ネクタイを絞める手に余分な力がこもる。意地悪く笑う誠一を睨みつけ、みはなの手を引っ張って玄関をでる。 エレベーターで一階に到着、自動ドアを抜ける。既に車の傍らに立ち待っていたアンディと目が合う。 「ちゃっすアンディ―」 「社長は一緒じゃないのか」 「今頃玄関で咳き込んでるんじゃねっすか」 季節は春から夏に向け走り出している。 「悦巳!」 名を呼ばれ振り向けばバイクに乗った大志がいた。トレードマークの革ジャンを羽織りエンジンを吹かしている。「よー。これからガッコ?」 「まあな」 大志は現在調理師免許取得をめざし専門学校に通っている。正確には専門学校生兼洗車係だ。学校がない時間帯はアンディの部下としてこき使われている。 どういう経緯でそうなったのか今いちわからないがおそらく深い事情があるのだろう、大志とアンディが折にふれ見交わす視線には一種の連帯感が芽生え始めている。 「今日は早く帰ってこれそうだから酢豚教えてやる」 「マジで!?うまいんだよなー大志の酢豚」 「みはなも大志さんのすぶた食べてみたいです」 「教えるだけだからな?お前が作れよ」 何やら勘違いし、しまりない口元からよだれたをたらす悦巳に頭痛を覚える。 「んなことより急いでるんじゃねえのかよ」 「やべっ、遅刻遅刻!」 「しかたねえなあ、特別にのっけてってやる」 「え?でも」 「幼稚園だろ。行きに通るし」 顎をしゃくって頷く大志とバイクとを見比べ誘惑に心が動く。いやしかし二人乗りならまだしも三人乗りは交通ルール違反じゃ…… 「じれってえなあ、乗るか乗らねえかはっきりしろよ」 いかにもバイクに乗りたそうに目を輝かせるみはなに根負け、せめて彼女だけでも送ってもらおうと口を開きかけたその時。 「俺の娘を暴走族にする気か?」 「だれが暴走族だ」 誠一がいた。 手のひらでぺたぺたバイクをさわっていたみはなを抱っこしてひっぺがすや、いきがる大志を蔑みあらわに見下す。 「悦巳お前は……」 「人を見た目で判断するのはよくねっすよ誠一さん、大志はこんなナリしててもイイ奴なんです、クロネコヤマト並の安全安心発送っすよ!」   「お前には任せられん。みはなは俺が送って行く」 「んな殺生な!?」 みはなの手を引き大股に歩きだす背をこけつまろびつ追いかけ、後部座席のドアを両拳で殴りつける。 「みはなちゃんの送りむかえは俺の役目だって言ったじゃねっすか、契約書にもそう書いてあったのに今さらずるいっすよ!それに今日は康太くんとレアカード交換する約束しちゃったし、ひなたちゃんのママがうちで余ったゴミ処理券くれるって言うから楽しみにしてたのにぃいいぃい」 「一生やってろ」 朝っぱらから往来のど真ん中で醜態さらす幼馴染にさすがの大志もゲンナリ、背を向けてバイクのハンドルを握る。 窓ガラスを叩き涙ながらに抗議する悦巳の頭上に横柄な声が降ってくる。 「忘れものだ」 するすると窓ガラスがさがる。咄嗟の事で反応が遅れた。おもむろに伸びた手が悦巳の顎を掴み、呼吸の如き自然さで唇を奪う。 大志が振り返りぎょっとする。運転席のアンディがやれやれとかぶりを振る。 誠一の肩に掴まり立ちしたみはながぱちくりと目をまるくする。 「なにか言うことは?」 「………いってらっしゃい」 「よろしい」 立ち尽くす悦巳におもいっきり排気ガスを吹きかけ車が走り出す。十メートルほど離れ、ようやく我に返った悦巳がエプロンを颯爽とひるがえし車の尻を追いかけはじめる。   余談だが、華の遺産は被害者への返済分を差し引き全額みはなの預金口座に振り込んだ。 遺産で立て替えた分は悦巳の給料から棒引きされる取り決めだ。 また借金が増えた。 『本当にそれでいいのか。一生働いても返せんぞ』 悪い癖が出たのだろう、大袈裟に脅す誠一に三つ指ついてちゃっかり言い切る。 『ハイ、一生こき使ってください』 棚ボタ御曹司はかくして当面ただ働きの家政夫に逆戻りしたわけだが、謙虚にして賢明なる英断を下したことによって悦巳の待遇が少しでも改善されたかといえばまったくそんなことはなく、猛然と走り去る車を追って朝から体力を使い果たす羽目になる。 「誠一さんひどいっすよどうせなら俺も乗せてってくださいよ、どうしてそういう意地悪するんですか大人げねええええええ!大体いつんなったらママチャリ買ってくれるんすか、ちゃんと約束守ってくださいよ、いい加減にしねえと俺こんどこそ出ていきますからね、泣いて後悔したって遅いんすからー!」 急ブレーキをかけ車が停止、ドアが開いて小さな人影が転がり出てくる。みはなだ。 「えっちゃん!」 「みはなさん!」 走りながら広げた腕の中へとまっしぐらにとびこんでくるみはな、感動の再会。毬のように弾む体をしっかり抱きとめてしゃがみこみ頬ずりする。 「みはなさんはやっぱ俺のがいっすよねー、いばりんぼでおこりんぼのお父さんより優しくて料理上手でかっこいいえっちゃんのが断然いっすよねー!あ、ひょっとしてアレっすか、みはなえっちゃんのお嫁さんになるーとか例のセリフ言っちゃいますか?参ったなあ」 「えっちゃんは好きです。でも康太くんの方がもっと好きです」 「しっかりしろ悦巳、相手は幼女じゃねえか!ロリコンじゃなし本気でショック受けるのってダチとしてどうかと思うぜ!」 バイクを路上に投げ捨てた大志が血相変えてやってきて真っ白に燃え尽きた悦巳の肩を支える。 「みはな……正気か……?」 「ミッフィーのボールペンくれましたし。いとこのおねえさんから貰ったけど使わないからいらないって」 「買収とはけしからん!」 今すぐにでも幼稚園に乗り込んで娘をたぶらかした男の首を絞めかねん誠一をアンディが羽交い絞めにして制止、ふらふらと立ち上がった悦巳が悔し泣きして訴える。 「せーいちさん……みはなちゃんが、俺のみはなちゃんが」 「俺の娘だ馬鹿」 「ひどいっす、あんまりっす、お風呂できゃっきゃっうふふしながら『みはなえっちゃんのお嫁さんになるー』って言わせて先越された誠一さんを死ぬほど悔しがらせる計画がああ」 ダメだコイツら。早くなんとかしねえと。 ため息吐くアンディと大志をよそに、どん底のテンションで立ち尽くす悦巳と誠一の間に仔猫さながらもぐりこんだみはなが、真ん中に挟まって二人の手をきゅっと握る。 「だってえっちゃんはおとうさんのお嫁さんでしょ?」 「えっ」 「はあ?」 「お嫁さんのお嫁さんにはなれませんよ。ね?」 「……………式は挙げてないんだが」 「誠一さんみはなちゃんが本気にするからやめてください!」 「本気にされて不都合でも?」   ああ、しあわせってしょっぺえ。   「俺一応男だしお嫁さんってのは……わっ!?」 微妙な半笑いでごまかす悦巳を軽々と抱き上げて、目線が自分の上にくるよう調節する。 「病める時も健やかなる時もともにあると誓うか」 「えー……」 「ハイかイエスかウィで」 「ちょっとやめましょうってゴミだしにきた近所の奥さんがなまぬるーい目で見てますから、犬の散歩中のじいちゃんがヒューヒュー口笛吹いてますから!こんなとこ幼稚園のお母さん仲間に見られたらどうすんすか、恥ずかしくておくりむかえできねっすよ、って言ってるそばから駿くんと駿くんのママが自転車で駆けていったばっちり目があった!」 「人の腕の中で騒ぐな。身ぐるみ剥いでほうりだしてもいいんだぞ」 「脅迫じゃねっすか!」 誠一の腕の中でばたつきながらええいもうどうにでもなれとやけっぱちで絶叫する。  「誓う誓うから、誠一さんと一緒になるって神様に、じゃねえみはなちゃんと天国のばあちゃんに誓うから!」 「その言葉が聞きたかった」 この状況でその笑顔は反則だ。 誠一がはにかむように笑い、永遠を誓う儀式の真似ごとをする。 「愛してる。結婚してくれ」 ゲルダはカイの頬に接吻しました。 みるみるカイはぽおっと赤くなりました。 それからカイの目にも接吻しました。 するとそれはゲルダの目のように輝きだしました。 「………喜んで」 ただいまとおかえりなさいを数限りなく繰り返し、一日一日と人は家族になっていく。  生きとし生ける一瞬一瞬を愛おしむ行為を人生とよぶのなら、自分はいま人生の絶頂にいる。 ゴミ出しにきた主婦が、犬の散歩中の年寄りが、自転車の前と後ろに子供をのっけた母親が好奇の視線を注ぐ中、引き締めようとして失敗し、笑み崩れた顔に有り余る幸福と感謝を浮かべ誠実な抱擁に力一杯こたえる。 アンディが苦笑いで拍手を送り、やってらんねえやと肩を竦めた大志が仕方なさそうに笑い、みはなが真っ赤に腫れるまで手を叩く。 ただの真似ごとでもそこに託された気持ちは本物で、降り注ぐ祝福の中お互いの気持ちを確かめ合えただけで十分だ。 カイとゲルダは手をにぎりあいました。 ふたりはもうあの雪の女王のお城のさむいがらんとした荘厳なけしきを、ただぼんやりと重苦しい夢のように思い返していました。 カイとゲルダは、おたがいに目と目を見あわせました。 ばらのはな さきてはちりぬ おさな子エスやがてあおがん ちょうど夏でした。 あたたかい、みめぐみあふれる夏でした。

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