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貴方とキスの飽和量
「甘い」
俗にしかめ面の事を苦虫を噛み潰したようなと喩えるが、憤懣やるかたない仏頂面で誠一がこう呟いた時、奥歯で噛み潰したのは砂利に似た溶け残りのザラメの食感と、口内に滲み広がる濃縮された甘味。
「えっ」
口端を微痙攣させ振り返る悦巳。
軽薄に脱色した髪はそろそろ黒に戻りかけたツートンカラー、自堕落に着崩したジャージと相俟ってだらしない事この上ない。
お世辞にも整っているだとか美形だとか二枚目だとかの形容は振る舞えないが、よくよく見れば案外愛嬌がある童顔で、これは母性本能をくすぐる手合いと踏んでいる。
「何を入れた?」
「飲んでわかりません?砂糖っすよ、フツウの」
あっけらかんと言い放ち、悪びれた様子もなくアンティークな砂糖壺を掲げてみせる。
いやがらせで買い与えたピンクのエプロンが妙に似合っているのがますます腹立たしい。ファッションセンス皆無のくせにエプロンの着こなしだけはどこに出しても恥ずかしくない仕上がりで、内心悦巳のエプロン姿を独占できる事をひそかに自慢に思ってる誠一だが、今それとことれは関係ない。断じて関係ないとともすればノロケに流れそうな自らを戒める。
生意気なアヒル口をつねりあげたくなる誘惑と葛藤しつつ深呼吸一つ、どうにか落ち着き払って尋ねる。
「どうして砂糖を盛った?」
「盛ったってそんな、毒物じゃあるまいし大袈裟な」
「いやがらせか復讐か殺人未遂かどれだ」
「糖尿病で自然死に見せかけて殺るにしても遠大すぎる殺人計画っすね!?三択形式で出題されたけどそん中に正解ありませんて!」
打てば響くように切り返されるリアクションに苛立ちが再沸騰、無意識に貧乏揺すりを始めようとする膝頭をじかに掴んで制する。
再び深呼吸、沸々と滾る怒りを自制心を総動員し押さえこんで畳み掛ける。
「俺は紅茶に砂糖を入れない主義だ。既に知ってるはずだと思ったが……」
異物を混入するなど紅茶への冒涜だ。
悦巳だってそれは十分承知してるはずだ、何を隠そう誠一自身がそう躾けたのだから間違えるはずないと今の今まで思い込んでいた。
ーが、買いかぶりだったか。
悦巳の物覚えの悪さを見くびっていたのか。
一日の激務を終え帰宅した主人に粗相をしでかすとは即刻解雇処分にされても文句は言えないだろう。
誠一の顔と声が不穏なトーンに落ち込んでいるのを察したか、エプロンの裾をいじくりつつ気の進まぬ足取りでリビングへ出てきた悦巳が、さも心外そうに唇を尖らせる。
「知ってますよ。俺を誰だと思ってるんスか」
「家政夫だ」
「わかってるじゃないスか」
「開き直るな。わかってるならイマドキ小姑でもやらん世知辛くせこい嫌がらせをするな、言いたいことがあるならはっきり言え」
「だーかーら、嫌がらせじゃねっすって!むしろその逆!」
「逆だと?」
ばつが悪そうにそっぽを向き、人さし指で頬を掻きつつとうとう白状する。
「疲労には糖分がいいって聞いたから……誠一さん、ここんとこお疲れ気味だし。だからまあこっそり砂糖を投入してみたんスよばれないように」
後半は気恥ずかしさと居直りを足して割った早口だった。
「……余計なことを」
片手に預けたカップを持て余し、相変わらず不機嫌な顔で黙り込んでしまう誠一。その前でうなだれる悦巳。
よかれと思ってしたことが裏目にでた。
誠一が紅茶にこだわりあるのは知っていたのに、つい出来心で砂糖をいれてしまった。
「みはなちゃんはお砂糖いれたホットミルク大好きっすよ、よく眠れるんですって。あ、もちろん寝る前にちゃんと歯磨きさせるけど」
「五歳児と同列に語るな。いくつだと思ってる」
「おっきなコドモでしょ」
「俺のどこがコドモだ」
「~そういうところがガキくさいって言ってんすよオトナコドモ、いちいちヒトの言葉尻掴まえてねちねちと!」
ああまたこれだ、この繰り返しだ。
余計な事なんかしなけりゃよかった、この人は俺のやることなすこと気に入らないんだ、俺がこの人の為を思ってした事ぜんぶ余計な事で片付けられちまうんだ。
でもその余計な事を取っ払っちまったら別にこの人の家政夫が俺じゃなきゃだめな理由もなくなるわけで、それは何かうまく言えねえけどすごくいやで
「誠一さんにとっちゃ余計な事でも、俺は大真面目なんスから」
うまく言えねえけど、ほんとうまく言えねえけど。
額を覆うヘアバンドをぎゅっと掴み、情けない顔を見られないよう俯く。
「誠一さん、俺が無理しないでって言っても全然聞かねえし。シゴトシゴトでいっつも遅いし、俺だってうまい紅茶呑ましてえって頑張ってっけど、その紅茶の味だってホントにわかんのかよってくらい疲れきってるし」
「悦巳」
「たまに目ェ開けて寝てるし。あれすごく怖いっす。まかり間違ってみはなちゃんが目撃したら一生物のトラウマになります、一回素で叫んじゃったし」
「寝てない」
「寝てますって」
「白目で天井を見ているだけだ」
「そっちのほうが怖えっすよ!?」
「寝てたとしてもうたた寝だ」
「寝てるじゃねっすか!」
「今それはどうでもいい」
「別にいいでしょ砂糖くらい、減量中のボクサーじゃあるまいし。カロリー制限あるんスか?」
「俺を肥満させたいのか?死因は多臓器疾患か?」
「もうちょっと太ったって愛せますし死因は飛躍しすぎっス、さらりと被害妄想混入しないでください!それに幼稚園じゃ太ましいパパが人気ですよ、トランポリンできるから」
「殺す気か」
「贅肉って弾力あるし。とにかく……誠一さん、特にここ最近は俺が台所で支度してる間ソファーで寝オチだし。疲れてんのわかってるからうるさい事言いたくねえし言わねえようにしてきたけど……」
大好きな人に真心尽くして淹れた紅茶を飲んでもらいたい。
ただ、それだけ。
ただそれだけの願いさえも報われず、口すら付けて貰えぬカップの中身を毎晩捨てる虚しさを知ってもらいたくて。
「紅茶の味が違っても気付かないんじゃねえかって、そんなんじゃ別に俺が淹れる意味もなくて、それはそれでムカツクし、だからちょっと試してみたんすよ」
紅茶の味が違っても気付いてくれるのかどうか
気が付いて叱ってくれるのかどうか。
「だってそれじゃ、あんまり紅茶が可哀想じゃねっすか」
この人の喜ぶ顔が見たい一心で、味もわかってもらえない、飲んでもらえない紅茶を淹れ続ける俺が可哀想じゃねっすか。
「すいません……」
胸の内の不安をごまかすため大匙一杯の砂糖を盛った。
この人の体を心配して、なんてのは嘘じゃないけど詭弁で、ただの建前で、その本音はただただ気を引きたかっただけなのだ。
褒めてもらうのが無理ならせめて叱ってほしい。
紅茶を淹れる習慣がマンネリ化して、俺はヒトのカタチをした紅茶を出す機械になって、でも俺も人間の端くれだから、ちょっとは頑張りが報われてほしいなとか、お小言でもいいからコメントが欲しいなと期待しちまうわけで。
じゃないと、「この人の為に」淹れる甲斐がねえ。
「それとも……『特別』が『普通』になったら価値ってなくなるんスか」
まるで専業主婦のジレンマ。
ガキはどっちだよ。
心の中で吐き捨て、情けなさと恥ずかしさに潤んだ目をヘアバンドを下げて覆い隠す。
独りよがりでわがままで、あきれられても仕方がない。
誠一の体が心配なのも彼の疲れを癒したいのも本当だが、きっとそれは本音じゃない。
この人ほど大人になりきれない自分の本音は煮詰まった砂糖のようにドロドロと汚くて、「こう在りたい」と「こうだったらいいのに」のバランスが崩れた時、胸の裡に濾せない不満が溶け残る。
本音じゃ頑張った分だけ報われたい、地味で目立たず忘れられがちな頑張りを見て知って褒めて欲しい。
悦巳にとっての家族や家庭がもはやこの人なしでは語れず成り立たないようにこの人にとってもいちばん身近で特別な存在であり続けたくて、待ちぼうけの子供が指切りをせがむように愛情の持続を証立てる何かをねだりたいのだ。
目隠しの闇が降りた視界に威圧的な足音を伴い接近する気配を感じる。
ぶたれると早とちりし、ヘアバンドの向こうできつく目を瞑る悦巳の唇を熱くざらついた被膜が包み、驚きのあまり引っ込み忘れた吐息を食むようにして湿り気を移していく。
他人の唾液で口をすすいで気が済んだのか、薄く整った唇があっさり離れていく。
「口直しだ」
「……口移しの間違いじゃ」
砂糖をまぶした唇は誠一の言うとおり甘すぎて、唾液で多少は薄められた甘みが口内に滲み広がって、これでは本格的に胸焼けしてしまいそうだ。
あせりもたつく手で苦労しつつヘアバンドをずり上げて、薄目で怖々反応を窺う。
「………ごめんなさい」
「わかればよろしい」
誠一がわざとらしく咳払いする。横を向いた顔がほんのり染まっている。
何事もなかったようにソファーに戻り腰掛けた誠一が、飲みかけのカップをまじまじ見詰め、意を決したように一息に嚥下。
「あ」
急激に襲う胸焼けを意地で堪えきったと見るや、おかわりを宣言する代わりに空のカップを突きつける。
「まずいが普通に出世したな」
「……褒めてるんスか、それ」
「……譲歩したんだ。察しろ」
ああ、そうだったと思い出す。
この人はひとを褒めるのがとても下手くそだった。
そんなどうしようもなく不器用な所に恋をした。
「味がわからないと決めつけるな。手を抜けばすぐにわかる。手を掛けてるなら尚更だ」
お前の事は俺が一番知っていると言外に仄めかし、偉そうに鼻を鳴らす。
悦巳もおそろいと言いたい所だがこちらは顔全体が酷く火照っていて、真正面から目を合わせる勇気はまだなくて、名残惜しげに唇をなぞるしぐさを物欲しげと誤解されまいか変に空回りとんでもないことを口走る。
「砂糖入りの紅茶のあとだと、その……ざらざらしてお互い柔らかさがわからなくなりますもんね、ってあ痛ッ、なんでぶつんすか!?」
「馬鹿」
この後もう一度淹れ直しを命じられたのは言うまでもない。
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