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魔法使いの夜

近所の商店街で行われたスタンプラリーは盛況のうちに幕を閉じた。 帰宅後風呂に入りみはなを寝かし付けた悦巳は、静かに絵本を閉じて微笑む。 「電池が切れるみてーに寝ちゃいましたね。一日はしゃぎまくって疲れたのかな」 「ちゃんとした仮装をするのは今年が初めてだからな」 ぬいぐるみに囲まれた子供部屋のベッドで、パジャマに着替えたみはながぐっすり眠っている。 子どもサイズのベッドにはカボチャを模したキャンディポットから零れたカラフルな包装のチョコやキャンディが散りばめられ、食いしん坊なお姫様のようだ。 一体どんな夢を見ているのだろうか、薄っすらと笑みを湛えた口元をむにゃむにゃと結び直す。 真っ直ぐな黒髪に縁取られたすべらかな輪郭には、小作りなパーツがバランスよくおさまっている。 綺麗な弧を描く瞼が時折微痙攣し、規則正しい寝息と健やかに上下する胸に合わせ、長い睫毛がかすかに震える様が庇護欲をくすぐる。 「あ~やっぱこのかっこが一番落ち着くっす、光の大魔法使いってガラじゃねっすよ」 大仰な衣装を脱いで元のスウェットに着替えた悦巳は、スタンプラリーの珍道中を振り返る。 「いっときはどうなることかと思ったっす、アンディがよその子にギャン泣きされて」 「まさか職質までかけられるとは」 「大志がフォロー入ってさらにややこしくなるし……サツ受け悪いんだからやめろって言ったのに、盗んだバイクで走ってた中坊の頃からおまわりは天敵だって忘れてんのか」 「無理もない、あのメイクはリアルすぎた」 「ちーっとぱかし力入りすぎてたっすね」 吸血鬼に化けた誠一を交え、意気揚々と商店街のスランプラリーに出発した一行だが、その道程は前途多難で様々なハプニングに見舞われた。 商店街で合流したみはなの友達がアンディの本格的すぎる仮装に怯えて泣き始め、「アンディさんは怖くありません、優しいいい人ですよ」「みはなちゃんの言う通りっす、みんな怖がらねーで寄っといで肩車してくれるっすよ~と必死に宥めて事なきを得たのだ。 「誠一さんの『コイツは俺の部下のいいフランケンシュタインだから怖くない、もし暴走したら伯爵の名にかけて止める』発言は傑作でした。最初は嫌がってたように見えて、実は結構ノリノリだったんですね~ぷくすす」 「気持ち悪い笑い方をするな、あの場は保護者の俺が出るしかないと判断したまでだ。自分の裾を踏んで蹴っ躓く魔法使いは頼りなくてとてもじゃないが任せられないからな」 「言いっこなしっしょそれは」 誠一が開き直って言い返せば、痛い所を突かれた悦巳が顔を赤らめて抗議を申し立てる。 アンディ、大志とは家の前で別れた。今頃は二人でハロウィンの続きを満喫しているだ。 一日の終わりの穏やかな空気が流れる中、みはなのベッド際に腰かけた悦巳は、冗談まじりの口調でやっかむ。 「誠一さんはモテモテで」 「やきもちか」 「はあ?ちげーっす、調子にのんねーでくださいっす」 誠一が不敵にほくそ笑み悦巳の隣に座る。 こちらも吸血鬼のマントは脱いで、風呂上がりのグレイのパジャマに着替えている。 髪をオールバックに撫で付け、貴族風のドレスシャツにリボンタイを結んで正装し、漆黒のマントを颯爽と羽織った誠一は、同性である悦巳の目から見ても惚れ惚れするような男前だった。 彫りの深い端正な容貌と均整とれた長身に、吸血鬼の仮装はとても映える。 調子に乗って盛り過ぎた自分に非があるとはいえ、誠一の人気は悦巳の予想を軽く通り越していた。 寛いで後ろ手付き、無造作に足を伸ばしてぼやく。 「俺もヴァンパイアハンターにすりゃよかったかなー、なんて。杭と十字架とニンニクもって、うおりゃーと誠一さん倒すんす」 「ニンニクは匂いが付くからやめろ」 「んじゃミサイルキックで」 「吸血鬼をなめすぎだ」 「ほんとイケメンは得っすよね、行く先々でママさんたちにちやほやされてたじゃねっすか。子どもじゃねーのにたんまりお裾分けもらっちゃって」 「みはなの序でだ」 「だったら俺にくれてもいいじゃねっすかケチ」 誠一は仕事が多忙でめったに幼稚園に顔を出さない。 故にミーハーなママ友たちの中には、誠一の顔すら知らない者が多くいる。 そんな彼が吸血鬼に扮し商店街のスタンプラリーなどというローカルな催しに参加したのだから、注目の的となるのは自然な流れだ。 子連れの主婦から熱いまなざしを注がれ、行く先々で井戸端会議に巻き込まれていた誠一を回想し、悦巳は少しむくれる。 「ずるいっすよ誠一さん、仕事仕事でろくに参観にもこねーくせに横からぽっと出で話題かっさらってくなんて。ママ友たちに顔売ってきた俺の立場ないじゃねっすか」 大人げなさ全開の膨れ面を横目に眺め、誠一がおかしそうに揚げ足をとる。 「アイドルの座を奪われて不満か」 「勘違いしないでくださいっす、見てくれじゃ負けてるかもしんねーけど構いたくなる可愛げじゃ俺のほうが断然勝ってるっすから。誠一さんがママさんたちにちやほやされてたのは出現率極低のレアモンスターだからっす、毎日送り迎えしてママさんたちと夕飯のおかずの相談やバラエティ番組の四方山話してたらみーんな誠一さんの顔面に慣れちまって物珍しがったりしませんから!そのへんくれぐれもお忘れなくっす!」 どうやら誠一がママ友たちの関心を独占していたのが気に入らなかったらしく、腕組みで不満をぶちまける。 悦巳には毎日みはなを幼稚園まで送り迎えし、弁当を手作りしてきた自負がある。 ママ友たちとも交流を深め、育児の悩みを相談し、時に助言を交わす仲になっていたが、ハロウィンの夜に邂逅した彼女たちはいずれも誠一の容姿にときめきを隠せず群がり、ポツネンと立ち尽くす引き立て役の悦巳などまるで眼中になかった。 「女の人は無口でドSな美形に弱いから仕方ねっすけどねー」 「ドSかどうかはわからないだろ」 「いや全身からぷんぷん漂ってますって隠しきれないSっけが、マントの下に魔性を飼ってるのお見通しっす」 これまでコツコツ土台固めをし、地道に積み上げてきた保護者の地位が脅かされたときたら、悦巳がへそを曲げるのも当然だ。 そんな悦巳を誠一は愉快そうに眺めていたが、遠い目をしてため息を吐く。 「この手のイベントははじめて参加した」 「そっすか」 「お前がいたから参加する気になった」 思わず向き直る。 「お前がいなかったらきっと今年も参加しなかっただろうな」 「……ふーん。そっすか」 そっぽを向く。 誠一が目を眇めて指摘する。 「口元が笑ってる」 「嘘っす」 「しまりなくニヤケてるぞ」 「~~あーそうっすよ盛大にニヤニヤしてるっすよ、で、俺のことなんかどうでもいいから誠一さんは楽しかったっすか!?」 「そこそこな」 「素直じゃねーっすね」 「何がだ」 「めちゃくちゃ満喫してたじゃないすか、みはなちゃんの手え握って最後は一緒にトリックオアトリート」 「あれは付き合いだ、ノリが悪いとみはなが哀しむだろ」 「はい嘘っす絶ってえ嘘っす、マントぶぁさってやってカッコ付けてたのばっちり見たっすよ!ママさんたちにキャーキャー言われて写メ撮られまくって、まんざらでもなかったんでしょ?」 「落ち着け悦巳、光の大魔法使いが闇堕ちしそうだぞ」 「あーあーいっそしてやりますよ、カーテン仕立て直して大魔法使い気取ってはみたけど康太くんにゃ一反木綿って訊かれるしやってらんねっす!」 「来年は黒いカーテン被ってまっくろくろすけか」 とうとう誠一が顔を俯けて吹き出す。 手で口を押さえてくぐもった笑いを漏らす、憎らしいのに憎めない同居人の姿に脱力を誘われた悦巳は、はしゃぎ疲れて熟睡中のみはなの頭を優しくなでる。 「みはなちゃん、来年はうさぎさんのかっこしたいって言ってました」 「イースターバニーみたいなのか」 「ミッフィーの仮装っす。今から仕立てりゃ間に合うかな」 「前倒しが過ぎるぞ」 「早いに越したことねっすよ、手提げ鞄とかも作ってあげたいしちょうどいい機会っす。そろそろアップリケのジグザグ縫いから卒業してえと思ってたし」 裁縫初心者だけど、と恥ずかしげに付け加える。 みはなの寝顔を愛おしむ悦巳の横顔を、どこまでも満ち足りて見詰める誠一。 「ミシン位買ってやる」 「そこまで甘えらんねっす」 きっぱり断る悦巳に鼻白み、誠一がやや斜に構えて皮肉る。 「婆さんのミシンは年代物だ、随分使ってないしちゃんと動く保証もない。親父たちが子どもの頃は服を縫ってたと聞いたが、前線から引退して二十年はたってるぞ」 「埃は拭けばいいし、婆ちゃんのミシンがいいんです」 主張を譲らない悦巳に折れたか、誠一が深々と吐息して負けを認める。 「婆さんが最後に仕立てたのは俺の小学校入学祝いの手提げ鞄だ」 「へー、どんなのっすか」 「言いたくない」 「もったいぶらねーで教えてくださいよ」 「当時流行ってたアニメのロボットの柄だ」 「小1なら普通じゃねっすか?」 「ださくて恥ずかしかった。婆さんは俺が喜ぶと思ったんだろうが」 「他にハンドメイド持ってきてた子いなかったんすか」 悦巳が怪訝そうに眉をひそめ続きを促す。 誠一は憮然とし、心の奥底に沈めた苦い記憶をすくいあげる。 「もちろん大勢いた。俺の場合はちっぽけな見栄だ、まわりの連中にはロボットアニメなんて子供向けだ、とっくに卒業したと威張ってたから」 「手提げ鞄で嘘ばれちゃったんすね……」 悦巳がニヤケそうになるのを我慢して突っ込む。 誠一は前にも増して気難しい仏頂面になり、掛け布団に顎から下を隠し、安らかな寝息をたてるみはなを覗き込む。 「当時から可愛げがなかったせいか、学校の行き帰りによく上級生に絡まれた。ある日の下校中3・4人に囲まれて手提げ鞄をとられた。最初は無視していたんだが、相手にされなくて苛立ったんだろうな。俺の家のことを親から伝え聞いたのか、父親に捨てられたくせに、婆さんと二人ぼっちで可哀想とからかわれて、衝動的に殴りかかってしまった」 「えっ」 誠一の口から子供時代の話が語られるのは初めてだ。 悦巳は瞬きし、興味津々身を乗り出して生唾を飲む。 誠一は抑揚のない口調で続ける。 「馬鹿にされるのはまだ我慢できる。同情は不愉快だ」 「昔から変わんねっすね」 「1対4じゃ勝ち目がない、しかも相手は上級生だ。即座に叩き伏せられて、手提げ鞄は中身をぶちまけられたあとドブに捨てられた」 「ひっでえ」 悦巳が大袈裟に顔を顰める。 否、彼にとっては決して大袈裟じゃないし他人事でもない。 悦巳は当時誠一が味わった痛みや屈辱、羞恥に共感し、本気で腹を立てているのだ。 「クソガキにしたってやりすぎっしょ人が縫った物ドブに捨てるなんて!大志はもちろん康太くんだってそこまでしませんよ!」 「その2人と比べるのもどうかと思うが」 悦巳も小学校の遠足で辛い体験をしている。 仏頂面の誠一と膝が付く距離まで詰め、間近で覗き込む。 「……で、どうなったんすか」 「何も。そのまま帰った」 「鞄は?」 「捨てた」 「は?」 「中身だけかき集めてランドセルに無理矢理詰めこんで、入りきらない分は手に抱えて」 「ちょっと待ってくださいっす、ばあちゃんがせっかく入学祝いに作ってくれたのに」 「家に帰った俺は、居間でミシン仕事をしている婆さんの所にまっしぐらに駆けていってこう言った」 時の感情を現在の自分に落とし込もうとするように深呼吸、華に放った決定的な一言を再現する。 「『余計なことするな』『あんな恥ずかしいのいらない』」 「誠一さん……」 「真っ赤になって怒る擦り傷だらけの俺を見て察したんだろうな。婆さんは何も言わず……めちゃくちゃに暴れる俺をただ抱き締めて、『ごめんね誠ちゃん、ごめんね』と繰り返していた」 祖母の気持ちを顧みない誠一はわがままだと非難するのは簡単だ。 孫に罵られた華に同情し、彼女の愛情が報われなかった事に憤るのも。 罪悪感のかたまりが胸に閊え、ニヒルに乾いた自嘲の笑みを吐く。 「鞄は取りに戻らなかった。俺の中で全部なかったことにした。後からでもドブに踏み込んで回収すれば美談で終わったんだが」 そんなことをしたらますます惨めになる気がした。 連中の思惑通りの「可哀想な子」に成り下がってしまいそうで、見栄っ張りな誠一は祖母から贈られた鞄を捨てたのだ。 他人の目にどう映るかを常に気にし、期待にこたえられない自分のちっぽけさを恥じ、心ない侮辱は孤独に戦って跳ね返そうとする。 誠一は膝の上で手を組み、指が白く強張るほど力をこめる。 「婆さんを責めるのは筋違いだと頭じゃわかっていた。でもどうしようもない。俺は婆さんが勝手に仕立てたみっともない手提げにも、それを嗤った低能な上級生にも、お父さんに捨てられてお婆さんと二人暮らしなんて可哀想ねと頼んでもないのに憐れむ偽善が好きな大人たちにも、あの頃の周りすべてに腹を立てていたんだ。洗えば元通りになったかもしれないのに、酷い孫だな」 華が台所で料理をしている間、ひとりぼっちの誠一は居間で大人しくテレビを見ていた。年相応にロボットアニメに熱中していた。 華はお玉で味噌汁をすくって味見する片手間にそんな孫の様子を見て、彼を喜ばせようと手提げを仕立てたのだ。 聡明な誠一は、手提げ鞄を仕立てるのが華の愛情からの行為だと十分理解していた。 華は長年子供たちにそうしてきたように、窓から薔薇が見える日当たりの良い角部屋にて、レトロな足踏みミシンを操作し、孫の入学祝いを仕上げたにすぎない。 幼い誠一は華の真心を理解していたからこそ文句も言わず、小声で礼まで述べて受け取って、何食わぬ顔で通学していたのだ。 「だれもなんも……少なくとも婆ちゃんと誠一さんは悪くねっすよ」 不器用なこの人が愛おしい。 悦巳には誠一の気持ちがわかる、気がする。 生まれも育った環境も何もかも違うけど、一年近くみはなを挟んで共に暮らし、身体と心が深く繋がった今なら、遅れてきた懺悔をもういない華の代わりに受け止めて、許すことができる。 「鞄をほったらかしてきたのにか」 二十年以上経過した現在もまだ、誠一は華を傷付けた自分の愚かさを許せずにいる。 瞼の裏にはドブに投げ捨てられた手提げ鞄が焼き付いて、悦巳やみはなと笑い合っている他愛ない日常の隙間に浮上して、心の一隅を突き刺すのだ。 「泥にまみれてもかまわない、汚れが落ちなくてもかまわない、拾いに行けばよかった」 見栄が邪魔して行動を起こせなかった過去が腹立たしい。 華を哀しませた幼稚さを憎み、呪い、罵り、大人になって自分もまた親になった誠一はごく小さく掠れた声をしぼりだす。 「全部婆さんのせいだなんて、本当は言いたくなかった」 「わかってるっす」 「お前なら絶対あんなことはしない、ケチなプライドやくだらない見栄にこだわって大事な物を手放したりしない、どれだけボロボロになろうが這いずってでも取り返しに行くはずだ。みはなだって泣きじゃくってお前を追いかけたのに、俺はそれができなかった。その事が今、漸く恥ずかしい」 「誠一さん……」 「こんなこと聞かせてどうするんだろうな。下手な慰めを期待してるなら重症だ」 親になって初めてわかる親の気持ちがある。 「みはなの欲しがるものはできるだけくれてやりたい。もちろん俺の力じゃ無理なこともあるだろうが……孫の入学祝にせっせと手提げを仕立てた婆さんの気持ちが、今になって漸く少しわかった気がするんだ」 独りよがりでずれていても、愛する存在のために出来る限りの事をしてやりたい。 来年のハロウィンを心待ちにするみはなの為に、華の足踏みミシンを譲り受け特訓を宣言する悦巳のように、今まで構ってこれなかった分も最愛の一人娘に何かをしてやりたい。 「あの鞄、どうなったんだろうな」 取りに戻ればよかったと悔やんでも仕方ない。 手洗いした所でドブの匂いと汚れが染み付いて、元通りになったか定かじゃない。 手提げを踏みにじったのは意地悪な上級生だが、華の真心を踏みにじったのは誠一自身だ。 償いたくても既に華はおらず、身内に不義理を働いた後ろめたさに呪われ続ける。 鬱屈した気持ちを汲んだ悦巳はおもむろに誠一の片手をとり、彼の胸の真ん中に押しあてる。 「ここにあるっすよ」 面食らうのをさておき、今度はその手を自分の胸へ移し、最後にみはなの胸へと乗せる。 「こことここにも」 当惑する誠一に向き直り、おどけた笑顔を見せる。 「誠一さんはとっくの昔に失くしちまったって思いこんでるけど、それ勘違いっす。全然失くしてねっす、ちゃんと覚えてるじゃねっすか。誠一さんの話を聞いて、足踏みミシンで鞄を縫ってるばあちゃんの背中ばっちり浮かんだっす。鞄を渡されたときの誠一さんのむず痒そうな表情だって再生余裕っす、魔女のかっこではしゃいでた今夜のみはなちゃんそっくりっすよ、親子だもん」 二十年前に失くした鞄、もはやどこに行ったかもわからない手提げの話を悦巳は笑顔で語り、誠一から引き継いだその記憶を胸の内で温めて孵すのに成功する。 「綺麗ごとかもしんねーけど、形が消えても思い出は残るんですよ」 心が感情を象った物を記憶というなら、華が誠一の為に手作りした鞄は、彼の中にたしかに存在し続けている。 大切な誰かに語り継ぐことで新たに接がれていく想いがある。 日当たりのよい角部屋、そよぐカーテンの向こうで咲き乱れる薔薇の香り、飴色の光沢を帯びた美しい床に敷かれたカーペット、足踏みミシンのペダルを踏む単調な音と丸まった華の背中。 『もうすこしでできるから待っててね誠ちゃん、うんとかっこいいの作ってあげる』 セピアに褪せた記憶が次第に色と輪郭を備え、理性が封じた情動を揺り起こす。 瞼の裏に仄めく残像に感傷が沁み渡り、決して近付けない故人の背中に憧憬の念が行く。 悦巳は部屋の入口にたたずむ幼い誠一と視点を共有し、在りし日の断片を鮮明に思い描く。 「ばあちゃんの手提げがどんなだったか一度も見たことねえのに、誠一さんの手ェ握って話聞いてると、不思議と思い出せそうな気がするんです」 「そうか」 あの時もし悦巳がいれば。 あの時もし誠一の隣にいれば。 「誠一さんはいい子っすね」 「どうしてそうなる」 「俺に家族をくれただけじゃなく、ばあちゃんとのしょっぱい思い出まで分けてくれたじゃねっすか。さすがは本物の孫、ニセモノはたちうちできねっす」 常なら反発を覚えたはずの言葉をすんなり受け入れたのは、悦巳の口調に滲んでいたのが同情にあらず、共感から来る労わりだから。 「もしかなうなら、ばあちゃんに謝ることができなかった誠一さんに付いていてあげたかったす」 ただ手を握るしかできなくても、1人じゃないと伝えたい。 「俺の中にも誠一さんの中にも、アンディや大志やみはなちゃんの中にだって、失くし物をしまっとく場所がちゃあんとあるんです。たまに虫干しするみてーに見せてもらえたら、やんちゃ盛りの誠一さんや元気な頃の婆ちゃんに会いに行けて、そのたび俺がちょっとだけ幸せになれるっす」 誠一の全てを理解しているというのは奢りでも、その哀しみや孤独に寄り添いたいと願い、自分の過去とも重なる幼き日の彼を守りたい衝動に駆り立てられるのは、見栄っぱりで強情っぱり、とんでもなく扱いにくいへそ曲がりな今の彼を、それでも、それだからこそ愛しているからだ。 「ホントに魔法使いになれたら時を巻き戻して誠一さんの手を握りにいくっす、嫌がられてもど突かれてもぜってえはなしてやんねっす。んで、泣きたくなったらスウェットの胸を貸してやるっす」 「汚いから嫌だ」 「失礼な、ちゃんと洗ってるっすよ!ま、寄りかかりたくなったら遠慮なくって事で」 静かに閉じた瞼の裏側、まだ幼い誠一と大人の悦巳が手を繋ぎ、窓ガラスをセピアゴールドに染め上げる陽射しに淡く濾されてミシン縫いにのめりこむ華の背中を見守り続ける。 繋いだ手から流れ込む人肌の温かみが過去と現在を跨ぎ、亡き祖母へ報えず意固地になった、誠一の罪悪感を慰めてくれる。 「話してくれてありがとっす」 面映ゆげに白い歯を見せて誠一の手に指を噛ませる。 指先で箒を踊らす魔法使いさながらに、朗らかな言葉と笑顔が解けない魔法をかける。 「俺はみはなちゃんに喜んでほしいから、みはなちゃんの笑顔が見てえ俺自身の為にハロウィン衣装を作るっす。序でに誠一さんも」 「俺も?」 「来年はみんなおそろいでハッピーハロウィンしません?」 尻をずらして誠一の方へ傾き、自分より上背のある彼の頭を実に自然な動作でなでる。 当然誠一は渋る。 「白いもこもこうさぎの衣装を着ろと?断る」 「まあまあそう言わずに」 「俺は社長だぞ?女子供ならいざ知らず大の男がうさぎ耳で跳ね回ったら不審者扱い、万が一職質かけられでもしたら会社の評判大暴落で最悪倒産だ」 「えー誠一さんのうさコス絶ってえ可愛いのに。みはなちゃんと並んだら似たもの親子でママさんがためろめろになりますって」 「うさ耳クロスで締め上げられたいか」 「じゃあじゃあ他の考えますから、たとえばそうだ、シルクハットで粋にキメたイカレ帽子屋は?俺は猫耳付けてチェシャ猫、今から作れば余裕で間に合うと思うんすけど!」 うさ耳と帽子を脳内ですげ替えて、束の間真顔で考え込む。 「……うさぎよりはマシか」 「やりぃ!」 勢いに押し切られ渋々妥協すれば、悦巳が指を弾いて快哉を上げる。 悦巳の手は華の皺ばんだ手と違い、若々しい張りとぬくもりを保っていたが、誠一には何故か重なって思える。 「それもいいな」 等身大のキャンディポットですやすや眠るお姫様を見下ろし、誠一と悦巳は微笑みをかわす。 一年先、五年先、十年先。 これから重ねていく歳月と過ぎ去りし日々に想いを馳せ、どちらからともなく絡めた手に力をこめる。 「誠一さん」 「なんだ」 「今までサボってた分もみはなちゃんに何かしてあげてえなら、まず手はじめに俺にしてくれたみてえにばあちゃんの話いっぱい聞かせてあげたらどっすか」 誠一が虚を衝かれ瞬きし、悦巳の目と口元が痛快な弧を描く。 「ぶっちゃけタダだけど、おばあちゃんの思い出語りはお父さんにっきゃできねえ特権ですよ」 「その発想はなかった」 さりげない助言を出発点に脳裏の華が生き生きと動きだす。 庭の薔薇を鋏で選定し如雨露で水を与え、昭和の流行歌をなぞってミシンを操作し、台所の深鍋でポトフを煮込む姿が鮮やかに甦り郷愁を呼び起こす。 「…………悪くない」 「んじゃ週末ばあちゃんちからミシンもらってくるっす、手伝ってくださいね誠一さん」 「俺も?」 「文句は言いっこなしっす、ハロウィンの衣装制作は共同作業っす!俺が衣装担なんだからタッパ生かして運び屋位務めてくださいっす、そうと決まれば善は急げで」 浮かれて予定を組む悦巳をよそに、誠一は枕元に転がったキャンディの包装を剥がし、艶々と丸くて赤い飴を含む。 「悦巳」 「え?」 肩におかれた手に釣られて振り向けば、誠一の顔がすぐ鼻先に迫り、唇同士が触れていた。 「むっ、」 下手に動いたらみはなを起こす。 誠一が悦巳の肩を掴んで舌を絡めてくる、ストロベリー味のキャンディを口移しで含まされ甘酸っぱい唾液にむせる、途中で抵抗の気力も枯れて大人しく応じる。口の中を行ったり来たり、混じり合い沸き立ち溶けていく 飴玉。 唇の表皮と粘膜を同時に刺激され、もたげる舌は即座に捻じ伏せられて、じれったい熱が全身へと拡散していく。 「は…………、」 透明な唾液の糸引く飴玉が舌を滑って口へと転げ込む。 熱で溶かされ一回り二回り小さくなり、遂には悦巳が飲み下す。 「トリックオアトリートしてなかったろ」 「……お菓子かいたずらか、選ばせてもくれねーんすか」 濃厚なキスに火照る身体を持て余し、悔しげに潤む上目遣いで睨めば、誠一が不敵な微笑みで切り返す。 「いたずらがよかったか」 「わかってるくせに、意地悪っすね」 飴玉一個で丸め込まれてしまうほど悦巳は子供じゃない。 再びキスを求めてくる誠一を頑として突っぱね、真っ赤な顔でおねだりする。 「あ゛ーーあ゛ーーちょっと待ってくださいっす、ここじゃだめっすみはなちゃん起きちゃうっす、続きは寝室でお願いしたいっす!」 「当たり前だ」 言うが早いが悦巳の身体を横抱きにし、誠一が呟く。 「来年も楽しみだな」 悦巳が誠一を突付いてみはなに近寄らせ、ミッフィーのぬいぐるみを隣に滑り込ませる。 「あとは頼んだっすよ」 お口ばってんのミッフィーと見守り役を交代し、満足げに頷く。 誠一が悦巳を抱き上げて去った後、暗闇に包まれたベッドでハロウィンの続きを夢見るみはなは、寝返りの拍子にミッフィーを抱き締めふにゃりと笑み崩れる。 「はっぴーはろうぃん……です」 みはなの夢の中ではうさぎ耳を生やした自分を挟み、しっぽの先端で器用にハートを描くチェシャ猫の悦巳と、シルクハットを被って仏頂面の誠一がお菓子を貰い歩いていたのだが、正夢になるかどうかはまた別の話。

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