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第2話

 俯く頬を手のひらが覆う。  「唇、開け」  藤馬の顔が近い。  甘い囁きが耳朶を伝い、むず痒さが這い上がる。  「はあ?何言って」  「もてる秘訣教える。最初はキスの仕方から」  至近距離で魅惑的に微笑む瞳に吸い込まれる。  電気をつけない部屋の中は暗く、互いの息遣いと衣擦れの音がひそやかに胸を騒がせる。  「お前、頭沸いてんのか。とっとと帰れ。男同士だぞ?」  「練習台さ、本番で失敗しないための」  藤馬は実にあっさり言う。  頬を包む手の温度に心臓が早鐘を打つ。  労働と無縁の王子様の手のひらはその癖俺より一回り大きく、しなやかな優美さと思わず身を預けちまう包容力とを兼ね備える。  練習台を自称する見慣れた幼馴染の顔が妙に気恥ずかしく視線をそらす。  「モテたいんだろう」  「モテたいけど……やっぱなし、へんだろ、酔ってんだろお前、な?ぜーったいそうだって、意味わかんねえし……アパート送ってもらって感謝してる、お前が肩貸してくれたから階段転げ落ちて頭割らずに済んだし、だけど無理矢理鍵奪って中まで押しかけるなんて話違う」  「巧はさ、女の子が相手の時もそうやってぐだぐだ往生際悪く文句言うわけ?興醒めするじゃないか」  言葉に詰まり、図星の間抜け面で藤馬を仰ぐ。  顔が、唇が近い。至近距離にある。  吐息の湿り気が顔をなでるたび、くすぐったさで毛穴が疼く。  追い詰められ体をずらせば背中がドアにぶつかる。  退路を封じられ身動きできず、せめてもの抵抗に後ろ手でノブをがちゃつかせる。   汗で滑る手でノブを手探りまさぐりロック解除で逃走を試みるも、それを察した藤馬が悪戯を咎めるように目を細める。  「幼馴染なんだから今さら恥ずかしがるな」  「幼馴染とか関係ねえよ、俺もお前も男だろうが」  「小さい頃は一緒に風呂入ったじゃないか。お前の裸なんて小学校の頃からプールや体育の着替えで見慣れてる」  「話すりかえんな。つうか、さ、俺もお前も男。ついてるの。わかる?可愛い女の子ならともかくどうして腐れ縁のお前相手にキスの練習なんてしょっぺー真似せなならんのかって話で、あ、そっかからかってんだはは、ふざけてんだろ藤馬?お前さては真顔で酔っ払ってんだろ?呑みすぎが顔に出ない体質なんだお前って、実は結構ぐでんぐでんだろ今、だからそういうワケわかんないこと言い出すんだ?」  頼む早く正気に戻ってくれと絶体絶命の危機に瀕して切に祈る。  俺の方の酔いは一瞬で冷めてどこぞに吹っ飛んだ、ドアを施錠すると同時に藤馬に抱擁され藤馬の手に頬を包まれるや無意識に硬直、予期せぬ接触に理性が蒸発し動揺で声が上擦る。  もともと部屋に上げるつもりはなかった、ドアの前で帰すつもりだったのにと一世一代の失態を呪う。  一人暮らしを始めてからめっきり行き来がなくなった幼馴染が今、部屋にいる。  脱ぎ捨てたシャツや雑誌やペットボトルで散らかり放題の部屋ん中に当たり前の顔して存在するという異常な状況に眩暈がする。  しかも今は夜で、電気もつけてなくて、部屋ん中は真っ暗で、俺は藤馬に抱きしめられている。  俺と藤馬はぴったり密着して、藤馬は俺より頭ひとつ身長高いから強制的に凭れかかる格好になって、もしこの場に第三者がいりゃ同性愛者の誤解を招くこと必至なフォーリンラブでホールドミータイトな光景が出来上がってる。  ……どんなだ、そりゃ。  過剰な接触に本能的危機感を覚え、藤馬の腕の中でじれったく身をよじりもがく。  「も、いい加減帰れ。な?真顔で酔っ払うなよ気色悪い、熱いし……」  「モテたいって嘘か」  「嘘じゃねえけど……」  「巧がモテない原因のひとつ。優柔不断。都合が悪くなるとすぐ逃げる」  「う……」  「女の子は押しが強い男が好きなんだ。まあ好みにもよるけどさ、ふたりきりでいい雰囲気になってさあこれからキスしようって時にのらくら逃げられちゃ幻滅だろ。部屋に二人きりって事は女の子だって相応の覚悟決めて来たんだよ、なのに男側が優柔不断なせいで恥かかされる。巧、今のお前の態度そのもの」  耳元で囁く低い声が、俺の欠点を的確に容赦なく挙げ連ねていく。  俺は心当たり大アリで、今までいいとこまで行った女の子たちに土壇場で逃げられ続けた苦い思い出を回想する。  思い返せば中学の頃から数えて何人か部屋に呼んだけど、三十分位で話題が尽きて気まずい沈黙が流れ、「漫画読む?面白いんだぜ、今ジャンプでやってる」「それ持ってるから」「あ、そうなんだ……」という核心を迂回する平行線の会話に終始してきた。  部屋に女の子を呼ぶというだけで思春期の男子にとっては心臓爆発秒読みの革命的大イベントであるわけでそれ以上を暗に求められてもご期待に添えないと言いますか、ガキに毛が生えた程度の中学生男子に不純異性交遊の第一歩たる接吻やましてやそれ以上の過激な行為に及べというのは酷な注文でありまして、手に触れるだけでドキドキもんなのに唇とか胸とかハードル高すぎてどうやって切り出したらいいかわかんねーしがっついてるように見られんのヤだしと悶々と葛藤するあいだに時間はすぎて、「また明日、学校でね」と彼女らは去っていくのだ。  哀しいかな、土壇場に弱いのだ俺は。  伊達にはたちになるまで童貞をこじらせてない。  「巧さ、今まで部屋に呼んだ女の子たちとどうやって過ごしたわけ」  一段階声のトーンが低まって、怜悧な双眸が追及の光を孕む。  「関係ねーだろ」  「一緒にCD聞いたり漫画読んだり共通の友人の話で盛り上がったりおばさんが用意した茶菓子食べたり」  「わかってんなら聞くな」  「いよいよ話題が尽きたら背中合わせでメールの寒い光景?」  「うわあああっ」  甦る過去の悪夢に頭を抱え込む。藤馬は冷静に尋問する。  「まさか大学生になって一人暮らし始めてからもCD聞いてるだけなわけ?女の子がせっかく部屋に来たのに何もしないで」  大げさに驚くふりに腹が立つ。きつい目つきで藤馬を睨みつけるも、本人はさも呆れた調子で首を振り、それだけは言っちゃいけないタブーを口にする。  「ユーはヘタレだ」  そうだとも。  そうですとも。  俺はヘたれですとも。  「なんで英語?」  「ほら、またそうやって話をそらす。悪あがきの骨頂だね。せっかく期待して部屋に来たのにさんざんじらされた上に曖昧な態度とられちゃ彼女だって見放すさ」  一息つき、端正な顔に似合いの爽やかな笑みで訂正する。  「あ、ごめん、彼女になるまで行かなかったんだっけ。彼女候補どまりか」  この野郎知った口を。同い年の分際でお説教か。  俺の頬を抱いて顔を近づけた藤馬が、教師じみて優しく包容力に満ち溢れた口ぶりで導く。  「言ってごらん、ぼくはヘたれです」  「言うか馬鹿」  「英語で」  「え、えいご?」  「中学生レベルの問題だ。答えられなかったらお前中学生以下の馬鹿だぞ」  既にして一杯一杯許容量限界の頭が予期せぬ難問に混乱を来たす。  中学高校と通ったものの英語なんか日常で使う機会さっぱりなくて、だからさっぱり物にならず、というか今この状況で酷な要求だろうそれは、藤馬の顔が近くて生ぬるい吐息が顔を湿らせ頬に触れた手はひどく熱くて心臓の音がうるさくて、でも待て今答えられなかったら俺ってば中学生以下の馬鹿の烙印おされちゃうわけ、まずいだろうさすがに、英語の授業中エレファントの意味を聞かれ自信満々マウンテンと返し失笑を買った中1のトラウマがまざまざ甦る。  エベレストだから、それ。  山だから。  しかも意味聞かれて英語で答えるって天然受け狙いかよと当時の俺の胸ぐら掴んで張り飛ばしたい。  愚か者はフール、嘘吐きはライアー。へたれは?  ドアを背に嫌な汗を垂れ流し呻吟し苦悩する、中学で叩き込まれた英語の文法と単語を音速で総ざらいし口を開く。  「アイ……アイ・アム・チキン……」  「認めたな?」  完敗。  すっかり藤馬の術中にはまっちまい、猛烈な敗北感に打ちのめされる。  藤馬が冷静に追い討ちをかける。  「正確にはチキンは腰抜けって意味だが、ニュアンスとしては正しい」  「ずっと不思議だったんだけどチキンってニワトリの事だよな、フライドチキンのアレだよな。腰抜けの代名詞がニワトリって失礼じゃねえ?」  「チキンにされるニワトリが羽を撒き散らして逃げるから」  「あー……」  思わず納得し感心の表情を浮かべた俺の耳に、藤馬は誘惑を吹き込む。  「キスのコツ教えてやる。本番で前歯がぶつかっちまったらかっこ悪いからな」  「!やめ、」  続く言葉は声にならず、喉の奥でくぐもり、泡となって消える。  抗う俺を押さえつけ唇を奪う藤馬、熱く柔らかく濡れた粘膜が唇を塞ぐ、息が吸えずパニックに陥る。  自分が今何されてるか相手は男で幼馴染でちょっと待て危険すぎるだろこのシチュエーションはとなけなしの理性が警報を鳴らすも血中に回り回ったアルコール濃度は正常な判断と対処を遅らせるほど高く、なんだか体が熱くてふわふわして、全然力が入らなくて、藤馬をどかそうと目一杯突っ張った手はしなだれ行き場をなくし、俺と藤馬の体の間に挟まれ潰れて、藤馬の胸に手を突いた半端な姿勢は抗うのでなく甘えて縋っているようで、羞恥を煽る。  「―むっ、ふむ!?」  色気のない呻きがふさがれた唇から湿った吐息に混じって漏れる。  藤馬の舌が唇を這う、つつく、窄めた舌先で機嫌をうかがうようにノックする。  「口、開けろ」  促されても頑として応じず、高速で首を振る。  俺の顎を掴み、むりやり顔を上げさせためつすがめつじれたように言う。  「巧、開けて。続けられない」  「…………」  無言で首を振る。俺は既に涙目だ。あんな濃厚なキス女の子とだってしたことねえのに反則だ、初めてのキスの相手が男で幼馴染とかしょっぱすぎる。  酸欠とショックとで潤んだ上目で、精一杯の怒りと反感を込めて藤馬を睨みつける。  手の焼ける俺を微笑ましげに眺め、藤馬が優しく呟く。  「北風と太陽の話、知ってる?」  「?」  口元を結んだまま頷く。  北風と太陽がどちらが先に旅人の外套を脱がせるか競争する童話で、北風が強く吹きつけるほどに旅人はますますきつく襟をかきあわせる。しかし太陽が顔を出しあたりを照らせば、汗ばむ陽気につられ自ら外套を脱ぐというオチがつく。  「……には……太陽のがいいかな」  巧には太陽のほうがいいかなと、聞こえた気がした。  「―!んっ、ふ」  再び唇が被さる。  親指で俺の顎を持ち、上向きに固定し、ゆっくり味わうように唇を重ねる。  さっきの性急で強引なキスとは違い、あくまで紳士的にリードしながら未知なる領域の感度を開発し高めていく。  粘膜同士が唾液を潤滑油にして触れ合う音が空気を攪拌する。  藤馬がキスの練習台を名乗り出たら面食い女が列を成すに決まっていて、藤馬相手なら金を払ってでもキスをしたいという女が尽きないというのに、どうしてこいつはよりにもよって俺を選ぶ?  男の、同性の、幼馴染の。  とりたてて魅力もない、平凡な容姿の俺なんかとキスしてるんだ?  藤馬にされて、自分が受身に回って、キスにも段階があると初めて知った。  段階を踏んでどんどん高まっていくものだと、嘘をつけない体の反応で痛感した。  「……っと、たんま、ふじま、俺が女役じゃ意味ね……」  男役ならいいって問題じゃねえけど、女にモテる特訓だって建前なのに翻弄される一方で、これじゃあ攻めのテクが身につかない。  藤馬の胸を力ない拳で殴りつつ息も絶え絶えに抗議すれば、藤馬が唇を放し、真面目な顔つきで言い含める。  「受身の方が共感できる。女の子の気持ちになって素直にキスを感じるんだ。どこが気持ちいいか、どこをどんなふうにされたらくすぐったいか体で覚えろ。たとえば、下唇のふくらみを吸われると気持ちいいとか」  慣れた風情で教え諭しながら、問題の部位を軽く吸う。  「……頬の内側って意外と敏感なんだな、とか」  もうやめろと叫びだしたいのを堪え抗うも、力が抜ける。  膝裏が弛緩し、不可抗力でシャツに縋りつく。皮膚の下を刷毛でなぞられるようなくすぐったさに姿勢を保てず、へたりこみかけては引き起こされる。  唇をこじ開け舌が入り、控えめに頬の内側の粘膜をさぐる。  「ふひま、ひゃめ」  唾液を捏ねる音がいやらしく耳につく。混じり合う吐息に溺れる。  判断力が鈍磨し、思考力が減退し、アルコールで加速した快楽に身を委ねてしまう。  体の内側から細胞が溶け崩れていくような恍惚。今まで意識した事もなかった歯の裏や舌の裏や舌の根元に喉の奥、自分で触った事もない領域を暴かれて思いもしなかった性感帯を開発される。  藤馬のキスは恐ろしく巧みで、その舌は情熱的な好奇心に突き動かされて俺の全てを貪欲に暴く。  唇をゆるく優しくなぞっていた時とは一転激しさを増し、ばたつく俺を制して積極的に舌を絡め、口移しで唾液を飲み干す。  舌だけは守ろうとした。  無理だった、無駄だった、ファーストキスと同時にディープキスまで奪われちまった。  「は………」  口の中がとろとろに蕩け、溢れかえった唾液にむせる。  前髪ばらけて消耗しきった俺を見つめ、藤馬が片頬笑む。  「な?口の中もちゃんと感覚あるだろ」  「…………悪ふざけがすぎるぞ」  足がぐらつく。膝が震える。手の甲でくりかえし唇を拭う。肩で息をしつつ、悪びれた様子のない幼馴染を牽制するも効果は無い。  おもむろに藤馬が屈みこむ。主人に侍る執事さながら跪くや、恭しく俺の足元に手を伸ばし、丁寧に靴を脱がす。  突然の行動に困惑し、動きが止まる。  「なにやってんだ」  「はいてちゃやりいくいから」  藤馬が俺の足を捧げ持つ。いっそ蹴飛ばしてやろうかと思ったが、後が怖いと引っ込める。選択を誤ったと悟るのは、この数秒後だ。  脱がした靴を玄関にそろえて置いて、改めて俺に向き直るや、腕を掴んで歩き出す。  引きずられるがままけっつまずきつつ歩く、藤馬を追いかける。  腕を払うという発想がなかったのはきっとアルコールのせいだ、さんざん口の中かきまぜられて骨抜きにされたからじゃ断じてねえ。  唇はまだ濡れて口ん中には舌が這い回った余熱と余韻が残り、背骨がふやけきって二足歩行も困難で、視界は不安定にぐらついて、漠然と不安に駆られ先に立つ藤馬に呼びかける。  「お前、キス、初めてじゃないよな……」  何言ってんだ、俺。  何聞いてんだ?  「とっくに経験済みだよな。キスだけじゃなくて、その先も……」  馬鹿、やめろ。藤馬の性体験の有無なんて聞いてどうする、へこむだけだ。どうせ俺は彼女いない歴イコール童貞ですよ。  経験豊富で落ち着きがあって、いつだって自信と余裕に満ち溢れた同い年の幼馴染の背中が、羨望と嫉妬をかきたてる。  いつだってこいつが目障りだった。なんでも俺よりできるくせして、いつだって俺につきまとって邪魔をするこいつが目障りで、憎らしかった。  いつ童貞捨てたなんて聞けるか、相手はだれかなんて聞けるか。  藤馬の初体験について詮索したい気持ちを必死に隠しつつ後を追えば、強く腕を引かれバランスを崩す。  あざやかに足をすくわれ倒れた先にはベッドがあった。  藤馬は王子さながらスマートな動作でもって俺の首の後ろと腰の後ろに手をあてがい、着地の衝撃をできるだけ減らし、ベッドに寝かせる。  背中が弾む。スプリングが軋む。  パイプベッドの上に仰向けになれば、藤馬が真上から覗き込む。  「レッスン第二弾だ」

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