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はりぼてつれづれ

 所有格で語りたい幼馴染がいる。  「あーなんでモテねーんだろ」  そんなことない。  巧は可愛い。  すごく可愛い。  何度強調しても足りないくらい可愛い。いつまで見てても飽きない。たぶん一日中見てたって退屈しないだろう、表情がころころ変わって面白い。こんなに観察し甲斐のあるヤツってそうはいないんじゃないかな。  なんでモテないんだろうがこの頃口癖の幼馴染が椅子に反り返って背筋の限界に挑戦するのを、はらはらしつつ見守る。  「そんなに仰け反ったら倒れるぞ」  「大丈夫、バランス感覚だけは自信あるから」  口にはストローを咥えている。行儀が悪い。  俺たちは今高校近くのファーストフード店にいる。  期末考査に備え二人で勉強中だ。  どちらかの部屋で勉強する手もあるけど、俺はともかく巧は飽き性で、まわりに漫画やゲームが散らばってると気がそれてしまう悪癖がある。  だからこうして放課後、衝立で仕切られたファーストフード店のテーブルで向かい合い範囲をつきあわせている。  俺は一組で巧は二組。一組の方が若干先に行ってる。  高校入ってからこっち俺を避けてる巧が背に腹は代えられず泣きついてきたのはアドバイスを乞うため。  俺を避けてる理由は想像つく。  クラスが分かれて内心安堵してる事も、その理由も知ってる。  巧はゲンキンだから思ってることがすぐ顔に出る。知らぬは本人ばかりなり。  鈍感は残酷だ。恋する人間を悪意なく追い詰める。  店内はざわついている。俺たちと同じ学校帰りだろう中高生のグループがテーブルを囲んで騒いでるほかはカップルやサラリーマン、親子連れも目立つ。  俺たちと同年代のグループは金がないのか、ポテトと飲み物だけで時間を潰すつもりのようだ。  しばらく真面目に勉強していたのだが、巧は集中力散漫で、二十分も経つころにはだらけきってしなびたポテトをぱくつく始末。  ノートと教科書をテーブルに広げ、巧が大の苦手な数式の応用問題について懇切丁寧に説明していた俺は奉仕が報われず肩透かしをくう。  「真面目にやれよ。数学の赤点やだって泣きついてきたのお前だろ」  「だってさー、ずっとxとかyとか見てると頭痛くなんだもん。息抜きは必要だろ」  「俺だって暇じゃないんだけどな。ほかならぬお前の頼みだから……」  さりげなくほのめかすも巧はあっさりと受け流し、俺のノートを開いてぱらぱらめくる。  「超キレイなノート。頭いいヤツってやっぱ違うな」  「お前のノートは落書きと涎の染みだらけだな。授業中なにやってんだよ」  「人間観察と昼寝とメール」  俺のノートをほっぽりだすや度は自分のを手に取り、真ん中あたりを開いてページの端を指さす。  「どう?英語のヤマシタ。くりそつじゃね?自信作」  そこには英語教諭ヤマシタの似顔絵が、特徴をユーモラスにディフォルメされ描かれていた。生徒の間じゃ何年か前の首相になぞらえて冗談の種になるゲジ眉におもわず吹き出してしまう。肩をひくひく痙攣させ笑いを堪える俺と向き合い、巧が満足げに笑う。  「他にもあるのか?見せてみろ」  「あ、待て」  巧の手からノートを奪いページをめくる。  欄外に描かれているのは漫画のキャラクターや教師の似顔絵、おもいっきり不細工にした友達のギャグ顔で手慰みの趣味の割に出来がいい。ぱらぱら漫画まである。  棒人間が走って転びまた走り出し、転石に押し潰されぺらぺらになって風に吹き飛ばされた挙げ句川に流され、洗濯バサミに挟まれて乾かされているところまで来て、ふいに手をとめる。  「もういいだろ、返せよ。ひとのノート見んな」  「……だれこれ?」  俺の声は低くなってたかもしれない。  気恥ずかしげに急かす巧をじっと見つめ、最後のページを開く。  そこに描かれていたのは女生徒の横顔。  シャーペンを握り、なにかを書き写してる最中らしい。巧が赤面する。  俺からノートを奪い返そうと腰を浮かせ両手を激しくばたつかせるも、その行動を予め見越した上で右に左に翳して回避。  「だれ?」  「だ、だれだっていいだろ関係ないだろ!返せよノート、勉強に使うんだから!」  「いまやってんの数学だろ?言えないわけ?……下心でもあるの」  「おなじクラスの子だよ!」  「二組の?名前は?出席番号は?」  「いいだろ、ほっとけよ!」  「教えてくれなきゃ返さない」  「おなじクラスの入江、入江真紀!これでいいかよ畜生、満足したんなら返せって!」  やけっぱちの勢いで宣言するや俺の手からノートをひったくり、息を荒げて胸に抱く。  巧自身、おそらく忘れていたんだろう。授業中の手慰みに、殆ど無意識状態、自動筆記状態で片思いの相手を写生してしまったのだ。  耳まで赤く染めて黙り込む巧と見つめあう。  「好きなのか」  「片思い……だよ。悪いか」  お前とは違うんだよ、と口の中だけで呟く。  入江。イリエマキ。  イリエを描いた時の巧を想像する。  教科書の記述をなぞる退屈な授業のあいだ、だるそうに頬杖つき、一抹の後ろめたさとときめきを感じつつモデルを盗み見、シャーペンをしゃしゃっと素早く動かして特徴を捉えていく。  真剣な顔。潤んだ目。  ああ、巧はその子のことが好きなのだ、授業中手が勝手に走ってしまうくらいに。  ノートの白紙に滾る想いをぶつけてしまうくらいに。  どうしてクラスが離れてしまったんだろう。  どこかのだれかの、たとえば神様の意地悪な采配を呪う。   どうして世の中にクラス替えなんてものがあるんだろう、だれがそんなつまらないことを考え出したのだろう、一体誰の陰謀だろう。  俺と巧の仲を引き裂く誰かの悪意を恨む。  一組と二組に分かれてしまったせいで俺は授業中の巧の様子を知ることができず交友範囲を把握しきれず、休み時間中クラスメイトとどんな話題で盛り上がってるのかさえ知る事ができない。  巧の全てを知りたい、独占したい、永遠に俺だけのものにしてしまいたい。  危険な考えだ。  願望は欲望に結びつく。  俺の知らないところで巧が友達を作りその友達とふざけあい弁当を食い芸能人の話で盛り上がる、俺の知らない誰かに恋をする、そんな事は許せない。  許せなくたって実際どうしようもない。  俺は自分の気持ちを告白してもないし、まだ当分カミングアウトする勇気はない。  ストローを咥えて振る唇に自然と視線が吸い寄せられる。  「………イリエ、ね」  上下するストローの先端を追う。  「どこが好きなの?」  「いいだろ別に、どうだって……関係ねえよ」  「フツウじゃん」  「フツウでどこが悪いよ」  「別に可愛くないし」  ストローの上下動がとまる。巧がむっとする。  机に身を乗り出し、ノートを平手で叩いて弁護する。  「俺の腕じゃ表現しきれなかっただけ。実物はもっと可愛いの」  胸の奥がざわつく。なんだろうこの感情は?  ああ、嫉妬だ。  俺をかきたてかきみだす、静電気のように炭酸のように胸でぱちぱち弾けるとても不快で不可解な感情。  「どうしてよく知りもしねえくせに悪く言うんだよ。お前、そんなヤツじゃないだろ」  巧がむくれる。本気で腹を立てる。むっつり頬杖つきそっぽを向く、その横顔さえたまらなく愛しく思ってしまうんだから重症だ。手遅れだ。後戻りできない。  無神経で鈍感な巧。  どうして俺の前で好きになった子を庇う、好きになった子の味方をする?  もとはといえば俺のせいだ、俺が無理矢理ノートを奪ったから、もとはといえば俺が悪い、巧の秘密を暴き立てた俺に非がある。  頭ではわかっていても感情は納得しない。   「………ごめん」  大人しく謝罪する。  本気で反省したわけじゃなく、ただ、巧に嫌われたくない一心で頭を下げる。  俺はずるいヤツだ。  「……応援してるよ。上手くいくといいな」  心にもないことを言う。  頬杖をくずし、こっちを見る。  自分も大人げなかったなあと思ってる事がまるわかりの決まり悪げな表情。  巧が笑ってくれるなら、嫌わないでいてくれるなら、いくらでも嘘をつく。ギゼンシャを演じる。恥ずかしながら認めよう、俺はいつだってこいつに構われたくてしょうがないのだ。高校生にもなってどうかと思う。幼馴染への依存とも執着ともつかぬこの気持ちに名前をつけるなら変……もとい、恋だろう。  問題なのは俺もこいつも男って事で、だけどそれはささいな問題って気もする。  少なくとも、俺は性別が障害とは思わない。  巧はどうか知らないけど……というか、引くだろうフツウに。  巧を困らせるのはいやだ。  いや、詭弁だ。よそう、キレイごとは。俺はただどうしようもなく、救いがたく、こいつに嫌われるのが怖いのだ。高校に入ってからただでさえ避けられてるのに、俺がもし恋してるとばれたら気持ち悪がって絶対一緒に帰ってくれなくなる。廊下ですれ違っても無視されるか駆け足で去られるかで、たぶん、そうなったらもう一生捕まえられなくなるのが怖いのだ。  もちろんどこまでもどこまでも追いかけていくつもりだけど、俺は臆病だけど鈍感じゃないし、相手にとことん嫌われてると自覚しながら報われぬ想いを抱き続けるのも追い続けるのも辛くて、そのうち耐えきれなくなってビルの屋上からダイブしそうだ。それならまだ、可能性は可能性のまま残しておきたい。そちらのほうが余程望みを持てる。  放課後、マックでポテトをぱくつきつつだべる他愛ない日常を俺は愛する。  どうかこの愛すべき巧がいる日常を奪わないでほしい。  現状、俺は巧と一緒にいるだけで息が詰まるほど幸せだ。欲を言うならもう一時間、だめなら十分、せめて一分でいい、蜜月の幸せを引き延ばしてほしい。  新学期のクラス発表では絶望した、一時は真剣に登校拒否を検討した。巧と違うクラスなんて耐えられない、一日の大半を巧の顔を見ずに過ごすなんてきっと窒息してしまう、他のだれがいてもそれが巧じゃなけりゃ意味がない、俺にとって全然なにひとつ意味なんかないのだ。  俺が毛布を被ってひきこもれば、お人よしな巧はきっとどっちゃりプリントをもって毎日律儀に家を訪ねてくれる。俺はドアを隔て巧と会話する。どうでもいいくだらないことを、まだ巧が俺を避けずにいてくれた頃、俺が巧を汚らしいいやらしい想像の餌食にせずにすんだ無邪気な子供時代の馬鹿げた思い出を、何時間でも。  素晴らしい思いつきに酔う。  お父さんお母さんごめんなさい、あなた達の息子はとんでもない変態だ。  せっかく高校まで行かせてくれたのに、輝かしい青春全てと引き換えても巧を独占したい気持ちが上回る。  「ごめん」  「え」  異次元に飛躍していた思考が現実の地平に舞い戻る。  テーブルを挟んだ対面で、巧は何故だかしおらしい顔をし、俺が返したノートを立てて持つ。  「……その、俺もちょっと言い過ぎた。せっかく勉強教えてくれてんのに。ホントは今日用事あったんだろ、生徒会の」  「気にするなよ、巧の頼みだし」  巧のほうが大事だし。  ちなみに、生徒会の用事といっても大した事はないのだ。  学園祭の資材調達についての案件が二・三たまってただけで、副会長の俺が抜けたところで働き者の書記がしっかりフォローしてくれる。まあ少しは心が痛むから、次顔出す時は駅前のワゴン屋台で売ってるクリームタイヤキを差し入れよう。  巧と水入らずで過ごす時間とひきかると思えば安いものだ。  「次期生徒会長最有力候補じゃん、お前……つまんないことにつき合わせて悪いと思ってる」  「巧の頼みをつまんないなんて思ったこと一度もないよ」  むしろどんどん頼って欲しいのだ、俺に。俺だけに。  他のヤツらに目移りなんてしなくていい、依存するなら俺一人で間に合うよう巧がいつなにを相談してきても対処できる完璧な優等生をやってるのだから。  「ごめん、俺がつまんなくてモテないやつだから」  主旨がずれてきてる。  どうやらネガティブスイッチが入ってしまった模様。  俺と自分を比較し欝に入るのが巧の悪い癖だ。というか、そんな必要全然ないのに。巧は巧だからいいんであってもし巧が巧じゃなかったらぜんぜん惚れなかった、尽くそうなんて思わなかった。  「自信もてよ、巧。自分を卑下するな。お前はいいところたくさんある」  俺は理想の友人を演じる。だけど巧はへこんだまま、冴えない顔でうなだれている。心なしか、ストローの先も力なくしなだれている。  「いいんだよ、わかってるよ、身の程くらい。フォローいらねえし」  ひねくれた態度でそっぽを向く。  次の瞬間、驚きに目を剥く。  「巧?」  素早くテーブルに突っ伏すや教科書を広げ顔を覆う。  「隣の隣の席。わかるか。女子四人」  しきりと顎をしゃくり小声で囁く巧に促され、そちらを向く。同じ学校の女子が四人、黄色い声で騒いでいる。テーブルに教科書やノート、カラフルなペンシルケースを広げてることから、考査にそなえ勉強会を開いてるのだろうと察しがつく。  「うちの生徒だな。どうかしたのか」  教科書の端から覗く耳朶が薄赤く染まる。  「………イリエがいる」  イリエ。巧の片思いの相手。  「……どの子?」  「右端の子。黄色いヘアピンさしてる」  「下ぶくれの子か」  「下ぶくれ言うな」  巧が指示する方向を横目でうかがう。  隣の隣のテーブルを占拠した女子四人組は、勉強そっちのけでハイテンションなおしゃべりに興じている。先生の悪口、誰と誰が付き合って別れた、好きな芸能人やミュージシャンと話題は多岐に移り変わる。  イリエは右端に座っていた。黄色いヘアピンで前髪を分けて額を露出し、ポテトをつまみ相槌を打ち、屈託なく笑い転げる。いちいちリアクションが派手で快活。クラスでは中心グループに属してそうな子だ。  「………ああいうタイプが好きなんだ。知らなかった」  できるだけそっけなさを感じさせないよう、注意しつつ言う。  ついで、教科書を盾に伏せる巧を冷めた目で見る。  「なんで隠れるの?」  「………なんとなく」   「見られて困るわけでもないだろ」  「いいじゃん、ほっとけ」  耳がますます赤くなる。  女子高生四人組は俺たちの存在に気づかず騒いでいる。  学校近くの店だから、学生が屯うのも顔見知りと会うのも別に珍しくない。視界にちらついたところでせいぜい「あ、同じ制服」くらいの注意しか払わないだろう。  巧が声を上げなかったら、俺だってきっと気づかなかった。  俺は基本的に巧以外の事柄はどうでもいいのだ。  「……可愛い、巧。恥ずかしいんだ?」  自分でも声が意地悪くなるのがわかる。  巧はテーブルにべたりと突っ伏し教科書に隠れたまま、息を殺している。俺の問いかけを無視する態度が癇に障る。そんなにイリエが大事なのか、イリエの話が聞きたいのか?  どうだっていいじゃないか。  どうして俺といるのに俺を見ない?  どうして教科書で視界を閉ざす?  イリエの向かいで二つ結いの女子が席を立ち、プラスチックのトレイを持ってカウンターへ歩く。  追加注文をしにいくのだろう。  巧の背中がびくりと強張る。すごくわかりやすい。  ウブな反応を笑いつつ教科書の横から手を伸ばし、学生服の肩をつっつく。乱暴に振り払われる。  「ずっと隠れてるつもりか」  「……いなくなるまで待つ」  「当分出て行きそうにないぞ」  けれども巧は頑固に教科書にしがみついたままこちらを見ようともせず、切れ切れに届くイリエたちの会話に耳をそばだてる。  面白くない。  テーブルの下、こっそりと足を伸ばし、巧の履くスニーカーの先をつつく。  「―っ、なんだよ?」  「別に?」  教科書をどかし噛みつく巧ににっこり微笑み返す。  巧は再び教科書に戻る。熱心に教科書を読む―ふりをする。  ド近眼の人間がそうするような猫背で教科書に顔を埋める巧を見るにつれ嗜虐心と悪戯心が騒ぎ、テーブルの下で伸ばした足を慎重に絡める。驚き、戸惑い、逃げようとするのを素早く制してするりと足首に巻きつく。  「ちょ、フジマ」  上擦る声に動揺が伝う。教科書がずれて顔上半分が露になる。  逃げ腰で引っ込もうとするのをつかまえますます強くきつく締めつけ、反対側の足でもって無防備な靴裏をくすぐる。  「―ふは、ちょ、たんま、悪ふざけやめろって!」  取り乱す巧の制止は聞かず、ズボンの裾を足でもって器用に捲り上げ、靴下をちょっとだけずらしてやる。  「いい加減にしねえと怒るぞ」  「怒れば?」  精一杯の脅しに余裕の笑みで報う。  テーブルの下で悪戯しながら笑みは絶やさずストローを吸う。  巧がむきになって蹴りを放つ。  椅子が不規則にがたつく。  だけど俺はやめない、嫌がる巧にしつこくつきまとう。巧がいらだつ。顔にあせりがちらつく。もうすぐイリエのつれがカウンターから戻ってきてしまう。俺の足を振りほどこうとばたつく一生懸命な顔を観察し優越感を味わう。  「騒ぐとばれる。大人しくしろ」  「ちょっかいかけんなよ、お前わざとやってんだろ!ええい鬱陶しいっつの、水虫伝染すつもりか」  「イリエさんに見つかっちゃうぞ」  耳元で脅す。  教科書の影で歪む顔に葛藤と逡巡がせめぎあう。  ああ、こいつほんといい顔する、いじめたくなる。サドの気はないつもりだけどいじり倒し甲斐あるなあ。願わくば、巧にこんな切ない顔させてる要因が俺だったら言う事ない。だけど巧の頭の中は今イリエさんのことで一杯で、俺はそれが腹立たしい。どうして目の前にいる俺を見てくれないんだろう?振り向かせたいと躍起になる。  「水虫なんかないよ」  「フジマ王子に水虫あったら女子が幻滅して暴動起こすぜ。ざまーみさらせ」  巧が茶化して舌を出す。  ああ、くそ、反則。可愛いな。  ついうっかり魔が差し、靴の先端で筋肉に守られてない膝裏を掠る。  保健の授業では確かここに迷走神経が……  「!―んっ、」  やらしい声。  俺のほうがびっくりしてしまう。  「あれ、タカハシ?」  ボードを持った女の子がこちらにやってくる。隣の隣のテーブルで女子の集団が立ち上がる。  「なんだ、いたんだ」  「つーかフジマくんじゃん!嘘っ、偶然!」  「やだー、フジマくんいたんなら早く声かけてよ気づかなかった」  甘ったるく語尾を伸ばしてわらわらやってくる女の子たち。中にイリエがいる。  「ごめん。勉強してたから邪魔しちゃ悪いとおもって」  「そうだよ、俺らは勉強に来たんだよ、珍獣の相手してる暇ねえの。しっしっ」  教科書を投げ捨てた巧が顔にさした赤みをごまかすように邪険に追い立てれば、女子たちが一斉にブーイングを放つ。  「タカハシやな感じ―。お前こそどっか行け」  「どっか……行けって俺は最初からこの席なの!お前らこそどっか行け、マックで勉強すんな、図書館行け!」  「自分だってだべってたくせにねえ」  「ねー」  女の子は口達者だ。押しに弱い巧は口の中でもごもご呟いて黙り込んでしまう。  俺はといえばテーブルを包囲する女の子たちなんて殆ど眼中に入らず頭の中はさっき一瞬巧が漏らしたやらしい声で一杯で、反芻するにつけ顔が危険な感じに熱くなって、ああ今考えてること巧に透視されたら絶交される軽蔑されるそれだけはやだ絶対と自己嫌悪ぐるぐるで突発性の眩暈と発汗とその他もろもろの症状が襲って  だけど俺は気づいてしまった。  気づかなくてもいいことに気づいてしまった。  きゃあきゃあ騒ぐイリエを上目遣いに窺い、いつもは絶対そんなことしないくせにズボンの上に散った食べかすを几帳面に払う巧の異変に。  俯き加減の顔はほんのり上気して、伏し目がちの瞳は微熱に潤んで、虫歯を堪えるみたいにむず痒げな表情で伸び縮みする口元を結んでほどいて、しまいには困り果て。  戸惑い揺れる一連の表情は切実に一途で純情に甘酸っぱくて。  今、巧の頭の中から、俺の居場所は蒸発してしまった。  「……トイレ。すぐ戻る」  いたたまれず踵を返す。  逃げるようにその場を去る。  トイレに飛び込んで個室に鍵をかける。  便座に座って深呼吸、ミントの芳香が混じる爽やかな空気を吸い込む。  「……馬鹿だ、俺」  頭を抱え込む。  ちゃんと手を洗って拭いてからトイレを出るや、そこで待ち伏せしていた人影と出くわす。  「「あ」」  どちらからともなく声を上げる。  イリエがいた。  「……どうしたのイリエさん、女子トイレならこっちだよ」   波立つ心を抑え、友好的な笑みを繕う。  突き当たりの壁を挟んで反対側に位置するドアを指させば、下腹部で手を組んだイリエがぼそりと呟く。  「フジマくん、私の名前知ってたんだ。クラス違うなのに」  「もちろん」  巧が教えてくれたから。別に知りたくなかったけど。  イリエがはにかむ。様子が変だ。用を足しに来たんじゃないのか?  「何か用?」  「うん、あのね……」  組んだ手をもじつかせ、尿意を我慢してるような内股で恥じらい、一息ついて口を開く。  「メルアド教えてくれない?」  イリエはついさっきの巧とおなじ熱っぽい目をしていた。  直感があった。  「イリエさん、俺のこと知ってるの。巧から聞いて?」  「え?うん、それもだけどそれだけじゃなくて……フジマくん有名だし。かっこよくて優しくて勉強もスポーツもできるし、ガッコで知らない女の子なんていないよ。人気者じゃん」  「巧はなんて言ってた?」  最大の関心事を聞く。  他人の評判なんて関係ないし興味もない、ただ巧が俺の人となりをどう評したかだけが気になる。  イリエは俺の質問を疑問にも思わない。  「なんでもできる凄いヤツ。幼馴染だけど、自分とは全然違う。当たり前だよね、比べるのもおこがましいってかんじ?」  多分、きっと、おそらく。その台詞に悪気はないのだ。  イリエと巧はたぶんそれだけ距離が近くて、砕けた軽口を叩く間柄で、イリエに巧を貶めるつもりなんてさらさらなくて、今のもきっと笑って流されるのが前提の冗談のつもりだったのだ。  「……前から気になってたんだ、フジマ君のこと。きょうお店で偶然見かけて、チャンスだって追いかけてきちゃった」  女の子って残酷だ。  女の子って馬鹿で鈍感だ。  どうしてあいつのよさに気づかないのだろう。  「だからその、メル友から初めて……ちょっとずつ仲良くなれたらいいなって」  「いいよ」  あっさり言う。  イリエがぶたれたように顔を上げる。  驚き見開かれた目に映る俺はセメントで固めたみたいな笑顔。  「俺も今日偶然イリエさん見て、あ、可愛い子だなって気になってたんだ」  「嘘っ」  「ホントホント。黄色いヘアピン似合うね。さっきからずっとちら見してたの気づかなかった?」  頬を両手で包んだイリエが嘘、うそと連呼する。  嘘はついてない。さっきからずっと盗み見してたのは事実だ。視線に恋愛感情が含まれてなくても嘘とはいえないだろう。  頬を上気させたイリエがはしゃぐのを冷めた気持ちで眺める。  メルアドを交換し席に戻る。  イリエの方はといえば、待ち伏せを示し合わせた友達にどよめきをもって迎えられ、やったね、よっしゃ、と口々に健闘をたたえられる。  「遅かったな」  「まあな。……俺がいない間どうしてた?」  「勉強してた」  「寂しかった?」  「ルーズベルトってだれだっけ?」  「合衆国三十二代大統領」  「あーそっか。しかしルーズベルトってメタボなネーミングだな~」  「いつのまに世界史に浮気したんだ?」  「二股は男の甲斐性」  「……それ女の子の前で言うなよ。顰蹙買う」  「二股かけるくらいの甲斐性欲しいぜ。ほら、俺モテねーし?おわっ」  テーブルにだらしなく突っ伏す巧の頭に手をおき髪に指を通してくしゃくしゃかき回す。  「……なんですか、フジマさん。やめてください。勉強中なんすけど」  ああ、上目遣い反則。  どうして女の子は巧の魅力に気づかないんだろう。  「ルーズなベルトの偉大なる業績について復習すんだからジャマすんな」  「一緒にやろう。フジマさまがわからないとこ教えてやる」  かちかちとシャーペンの芯をだしつつ文句を垂れる巧の頭から名残惜しげに手をどかし、二ヶ月だか三ヶ月だか先の事を漠然と思う。  「俺が思うにルーズ氏の功績はベルトの穴を一気にふたつぶっち抜いたことだな」  「違う。ニューディール政策」  俺は巧みたいに優しくないから、イリエをこっぴどく振るだろう。  見せかけの優しさを愛情と偽って欺いて、とことん惚れさせてから突き放すだろう。  「……フジマ?」  「なに、巧」  「お前、なんか怖えカオしてるよ。笑ってんの口元だけ」  鈍いようで鋭い巧の指摘に動揺するも、俺は再びノートと教科書を開き、大事な幼馴染にむかって極上の笑みを浮かべる。    こいつは俺のダイヤモンド。  こいつのよさも見抜けないくだらないヤツに傷なんかつけさせない、絶対。  「じゃ、45ページ開いて」  けれど、どうかもうしばらくは原石のままで。   他のヤツらが原石の真価に気づいてしまわないように、俺だけのお前でいてくれるように、祈る。

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