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続・山手マングース
新宿駅近くの喫茶ルノアールにて、自分に人生最大の屈辱を舐めさせた宿敵と対峙する。
入り口のドアを開けて見回せば携帯で指定されたとおり、観葉植物の鉢植えに隠れた奥まったボックス席に、あえて特徴を消すような地味な背広姿の男が控えている。
細いフレームの眼鏡の奥で微笑む目は切れ者特有の知性を感じさせるが、その印象を口元に刷いた笑みが打ち消し一見どこにでもいそうな公務員風の風貌を与える。
「ようこそ羽生さん。お待ちしてましたよ」
男は禁煙席に陣取っていた。
選択権も拒否権もこちらにはない。
席替えを提案しようにも目配せひとつで竦みあがり不利な立場を意識させられる。
チノパンの尻に突っ込んだセブンスターに指を伸ばしかけ、舌打ちとともにくしゃりと握り潰す。
手首を持ち上げわざとらしく腕時計の文字盤を一瞥、良識ぶって非難する。
「五分三十秒の遅刻。困った方ですね、時間厳守だと前もって言っておいたのに約束違反とは……」
「うるせえな。寝起きなんだ」
「自由業は気ままで羨ましい」
「朝っぱらから叩き起こされたこっちの身になれ」
「それはすいません。しかし待ち合わせに遅れた言い訳にはなりません。羽生さんのルーズな性格はそのはだらしない身なり、より詳しく言えばボタンをひとつふたつ掛け違えても気にしない服の着崩し方で薄々察しがついていましたが、せめて約束の時間くらいは守っていただきたいものです」
「五分の遅刻でねちねちイヤミ言いやがるどっかの刑事さんの粘着気質にゃ負けるよ」
目が合いしな獲物を狙うマングースの如く瞳孔が細まる。
本性の一端をさらけだすサディスティックな眼光。
なぶるように絡みつく露骨な視線をぐっと口元を引き結び振り払い、チノパンにポロシャツという砕けた格好の羽生は、ポケットに両手を突っ込んだ怒り肩の不良スタイルでもって目的の席に近付いていく。
喧嘩を売り歩くような大股でのし歩く様子は控えめに言ってもガラが悪く、すれちがう客やウェイトレスが眉をひそめる中、落ち着き払って椅子に掛けた玉城が含み笑いで評する。
「牙を抜かれたハブの精一杯のいきがり、というところですか」
ゴングも鳴らないうちから駆け引きが始まる。
喰うか喰われるかふたつにひとつの勝負が幕を開ける。
先制攻撃を繰り出すは玉城。
羽生がどっかと椅子を引いて席に着くのを見計らい、同情めかし諭すような口調で言い募る。
「去勢済みが虚勢を張っても哀れを誘うだけです。身の程を知ったほうが賢明かと」
「誰が去勢済みだ。まだ現役だっつの」
忠告を装った貶め工作を鼻で笑い、ポケットから抜いた右手をひらつかせる。
玉城が口を窄めわざとらしく感心してみせる。
「ほう、あれに懲りてとっくに引退したものと思ってましたが……案外骨があると見直しました」
「山手のハブをなめちゃ困るな、何年右手頼みで喰ってると思ってやがる。まだまだ一線を張れる年、むしろこれから脂がのってくる」
「前も後ろも裏も表も私に弄ばれて半べそかいてた人が抱負を語りますか。お仕置きが足りなかったようですね」
「痴漢の説教に耳貸すくれえなら両方揃えて質に出した方がましだ」
両者一歩も譲らず冷ややかな笑みと火花散る眼光で牽制しあう。
そもそもが不義理を詫びて和やかに挨拶を交わすような間柄ではない。
犬猿の仲ならぬハブとマングースの仲、天敵にして宿敵にして商売敵というこじれにこじれた関係であるからして人情が介在する余地はない。
本音を言えばこいつの顔など二度と見たくなかった。
斜に構えて頬杖つき、人畜無害と温厚篤実を掛け合わせたエセ紳士の仮面を睨みつける。
聖人君子も一皮剥けばただの迷惑で人騒がせな変態だ。
羽生は玉城の本性を骨の髄まで知り抜いている。
電車内でのおぞましい体験は忘れ得ぬトラウマとして刻みつけられ、あれからしばらく自律神経を失調し、改札をくぐっただけで眩暈胃もたれ胸焼けを伴うフラッシュバックに襲われた。
今ではすっかり回復し仕事場に復帰できたが、男に尻を好き放題まさぐられたあげく後ろを開発されてしまった記憶は叶うことなら綺麗さっぱり抹消したい。
不本意にも男にイかされてしまったのは山手の羽生唯一にして最大の汚点だ。
「まあいいでしょう、私も鬼ではない。今回は特別に大目に見ましょう」
「くどい前置きは抜きにして本題に入れ」
「早漏は嫌われますよ。社交上のマナーを飛ばしては話し合いが円滑に進みません」
相手は羽生の天敵マングース。
一瞬たりとも隙を見せるな、気を引き締めてかかれ。
ただ相対してるだけでプレッシャーを与える男に対しだめもとで聞く。
「あのさ、煙草吸っていい?」
「禁煙席ですが」
「移っていいか」
「却下」
「なんで。がら空きじゃん」
顎をしゃくって周囲を示すも玉城の返答はつれない。
「私は煙草を喫いませんのでわざわざ席を移る必要がありません」
「……あーあーさいですか」
やっぱりだめだった。席の移動を提案するも許可されず、撃沈。
「眠そうですね。二日酔いですか」
「別に。どうでもいいだろ」
無愛想に頬杖ついてずずっとコーヒーを啜りこむ。
カフェインで眠気を払う羽生を目を眇め観察、考証を経て結論に至る。
「徹夜麻雀ですか……どうりで全体的に煙草くさいと思いました。あまりガラのよろしくない雀荘に入り浸ってるご様子ですね」
口に含んだコーヒーを吹き出しかける。
「なんで知ってんだよ」
「刑事の情報収集能力をなめてもらっては困ります」
「国家権力の横暴。プライベートにまで口だすな」
「犯罪者の私生活を監視するのもまた公務の一環です。将来起こり得る犯罪を未然に防ぐのが税金で食べさせていただいてる者の使命ですので」
いけしゃあしゃあのたまう。
「お上に絶対服従の犬ころのくせに」
「新宿駅前に石像建つまで頑張りますよ」
嘘かまことか冗談か本気か、カップに口をつけついでに言う。
「そうそう、あなたが最近いれこんでる新宿三丁目の雀荘『娘娘』ですが十五日に手入れが入りますよ」
「はあっ!?」
ぎょっと仰け反る。
跳ね起きた勢いで危うく椅子ごと後ろに倒れかけた。
すっとんきょうな声を上げる羽生をしてやったりの満悦顔で眺め渡し、事務的に報告を補足する。
「風営法違反です。裏でヤクザと繋がっていましてね……荒稼ぎが仇になりました」
笑顔で摘発をリークする刑事に凍りつく。
「というかなんで俺の行きつけの雀荘まで知ってんだよ!?」
「言いましたでしょう、犯罪者のプライベートを監視するのは公務の一環だと。とくに羽生さん、あなたは反省が足りない。お灸を据えられてからも懲りずに商売にご精をだしてらっしゃるとかで、もう一度会って話す必要があると判断した次第です」
そう言って無念そうにため息をつく。
演技だけなら名人級だ。
「説得が通じず大変残念です。更正のお手伝いができればと名刺をお渡ししたのに一度も署に立ち寄ることなく界隈を避け続ける始末」
「あたりまえだ、誰が敵の本拠地に乗り込んでくか。留置所でザコ寝して二丁目のオカマに股間まさぐられんのなんざごめんだね」
伝法な口調で啖呵を切る羽生をよそに、愛撫に似てなよやかな手つきでカップを口に運び、つけあわせのトーストをかじる。
「署の留置所にその手の嗜好の方が多いのは否定しません。歌舞伎町と二丁目、盛り場とハッテン場を擁す特殊な土地柄ですからね。ヤッたヤッてない挿れた挿れていないいや寸止めだと酔っ払って少々派手な痴話喧嘩をやらかすゲイカップル、サウナでのお見合いを経ていざことに及ぼうとしたらビール瓶で頭を一撃、財布を奪って逃げる強盗の常習犯。はては映画館で居眠り中の男性に痴漢を働くオカマ、手術済みから手術前のニューハーフの方々に至るまでよりどりみどり個性的な顔ぶれがそろってます。退屈はしないと請け負います」
「ぜってえ近寄らねえ。半径50メートル内に近寄らねえ」
「羽生さんはオカマにモテそうですけどねえ」
「ぞっとする」
「泣きぼくろが色っぽいし……ぱっと見ヒモくずれとでも申しますか、あなたのようなスれた優男を好む方も意外と多いんですよ」
えらい言われようだ。全然褒められてる気がしないのがすごい。
玉城の指摘は正鵠を射てる。
羽生は昔からやけにオカマにモテる傾向にあるのだ。
ひとたび二丁目に踏み込もうものなら「お兄さんいま暇あ、そこの映画館でいいのやってんのよちょっと寄らない?」と野太い声で語尾を甘ったるく伸ばしたガタイのいいオカマにしがみつかれケツを狙われた。
自分では並の容貌だと思っている。
オカマをひきつけるフェロモンでも出てるのだろうか?
……あまり考えたくない。
結果的に羽生の貞操を奪ったのは、二丁目にたむろう積極的なオカマたちではなく、たまたまあの日おなじ電車に乗り合わせたこの男……
玉城であった。
「で、用は何だ。山手線と警察署以外であんたと会うはめになるなんて思わなかった」
「ドッキリ成功ですね」
そんな可愛いもんじゃねえと心の中で反駁する。
「携帯アドレスいつのまに……」
「接近挿入、否、接近遭遇の瞬間です」
すまし顔でコーヒーを飲む。
一応は強姦の被害者と加害者なのだが良心の呵責などは全くないのだろう。
トイレの個室で働いた行為については謝罪言い訳一切なく、フォローなど不必要だと断じるが如く、羽生の携帯番号を入手した経緯をにこやかに説明する。
「あなたが財布をスッた瞬間です。攻撃は最大の防御?いえいえ、最大のよそ見です。攻撃に転じた瞬間が一番懐が疎かになるのが戦法の鉄則です」
「手が早いな」
「職業病です」
「スリより手癖が悪い刑事ってどうなんだ」
「善を倣うもの先達を越えず悪を倣うものは先達をしのぐという諺があります」
刑事の台詞とは思えない。
「銭形平次の例を出すまでもなく刑事たるもの反射神経が優れていなければ逃亡者に手錠をかけるなど不可能です」
「銭形平次は銭を投げる。いまどきの刑事はワッパを投げんのか?」
「そういうこともあります」
玉城はそらっとぼける。
本来ならそう、不倶戴天のハブとマングースが喫茶店で呑気にお茶を飲み合うなどあってはならぬことだ。
美人なお姉さんやぴちぴち女子高生なら大歓迎だが相手は刑事で男と来た。
今こうしているあいだも玉城との密会現場を知人に目撃されあらぬ噂を立てられはしまいか周囲をちらちらうかがう癖が抜けない。
ジト目で用心深く見回す。
朝と昼の中間の半端な時間帯とあって客は少ない。
羽生の席からふたつ隔てたテーブルでは外回りの途中に寄ったサラリーマンが新聞を広げがてら軽食をとり、そのひとつ向こうでは制服姿のOL二人組がブランチのついでに芸能人の誰それがくっついた別れたと姦しく盛り上がってる。
さいわい近隣に見知った顔はないが、玉城が手札を晒さぬうちは楽観できない。
羽生にとって玉城は自分に痴漢を働いた上強姦口封じまでした最悪の男、刑事の風上にも置けない卑劣漢、山手線の厄災、スーツを着たタイフーン。
山手線内が縄張りで活動範囲の狭い羽生は知らなかったが、新宿署生活安全課の玉城、別名山手マングースの伝説は新宿界隈に広く知れ渡っていた。
いわく、マングースが歩いたあとにはガムの水玉模様と煙草の吸殻さえ残らない。
マングースは一度狙ったえものは絶対逃がさない。
どこまでも執念深く喰らいついて必ずおとす。
以前怖いもの知らずにもマングースの追跡を巻いて逃げようとしたひったくりがいたが揉み合いの末パンチが炸裂、マングースが毎日手入れを欠かさず一点の曇りなく磨き抜いている眼鏡にひびが入った。
眼鏡が割れるやそれまで余裕ありげだったマングースの顔色が豹変、新宿歌舞伎町の路上で背負い投げ一本。哀れひったくりは頭から風俗店の立て看板に突っ込んで、パトカーと救急車が一緒に到着するまで「ヤり逃げごめん また来て早漏」の宣伝文の上に晒し首を余儀なくされた。
「……山手マングース伝説はどっからどこまでホントなんだ。眉唾もまじってんだろ、かなり」
「九割がた事実ですがね。ああ、看板に書いてあった文句は『ヤリチン歓迎 また来て早漏』だったかも」
訂正すれども否定はしない。おそろしい男だ。
その看板のセンスはどうなの、というまっとうなツッコミはさておき。
いい加減迂遠な腹の探り合いにも飽きてきた。
「……きなくせえ匂いがする」
「そうでしょうか」
「第六感がびんびんに勃起してる」
刑事とスリの密会が穏便に終わるわけがない。
玉城は何か目的があって羽生を呼び出したのだろう。
ここらで一発がつんと言ってやろう。
「こないだはみっともないとこ見せちまったがアレが山手の羽生の実力だと思うなよ刑事さん」
ぬるまったコーヒーを一気に飲み干し、険悪な顔つきで凄む。
「あの時たあ状況が違う、ここは喫茶店だ。恥知らずなあんただってさすがに喫茶店でお粗末なブツを引っ張り出して事に及ぶほどばかじゃない、んなことしたら逮捕されるのはそっちだ」
「妄想逞しい」
「んだと?」
「羽生さん、あなたまさか私が呼びつけた理由が体めあてだとでも思ってらっしゃるんですか」
ぐっと押し黙る。
「喫茶店に呼び出して不埒なまねを働くと?ルノアールで待ち合わせてそれからホテルに?ポルノ小説の読みすぎですよ」
「脅迫するつもりだったんだろ!?」
肩透かしをくい、思わず声が上擦ってしまう。
「スリやってるのバラされたくなきゃ言うこと聞けって……変態に理屈が通じねってのはわかってる、なんたってお前は超ド級の変態略してド変態だ、電車ん中で俺のケツさわりまくって中に指入れてあげくトイレに連れ込んであ、あんなことっ」
「セックス?」
「強姦だ!」
席を蹴立てテーブルを叩く。
周囲の客がなにごとかと振り返るも、注目を跳ね返すように赤面し怒鳴り散らす。
「笑ってごまかしたってだめだ、こちとらあんたの本性がっちり掴んでるんだからな、俺にやったこと忘れたなんて言わせねーぜ」
「もちろん覚えてますとも、感触までしっかりと。お疑いならご説明しましょうか?」
まずい。
冷や汗が背筋を伝う。
「羽生さん、あなたの尻は十年に一度の逸材だ。外の形はおろか中の締まりと狭さも申し分ない。健康的に引き締まっていながら固すぎず手に心地よく、それでいて鞣したような筋肉の張りは若く緊張感を保ち柔よく剛を制すエロスの奥義を体現する。括約筋が収縮するごと大臀筋の浮かぶ様は非常にエロティックで劣情をそそりビデオ映え間違いなし」
「うわーっ!あーっ!」
テーブルに乗り上げ必死に口を塞ぐ。
「なに考えてんだばか真っ昼間に喫茶店で!?」
「何とは何ですか、あなたの尻を品評してるのに」
「尻フェチの尻談義なんかよそでやれ変態!」
むがむがくぐもった声でなおも話し続ける玉城の口を両手で塞ぐ。
窒息寸前、羽生の手を振り払った玉城がネクタイの根元を掴んで正す。
「見損なってもらっては困ります。正直それも魅力的な提案ではありますが公私混同は主義に反する。あなたをお呼び立てした用件とは……」
一拍おき、ずばり言う。
「おとり捜査です」
羽生の呆れ顔をしげしげ見、すらりとした人さし指を立てる。
「最近山手線に痴漢が出没してます。被害者の証言をまとめるとどうやら同一人物らしい。狙われるのは二十代前半から三十代の男性。私はこの痴漢を逮捕したいのです」
「ああそう。がんばれよ」
「なにを他人事のように。手伝ってもらいますよ羽生さん」
どうしてそうなる。
まったくついていけない。
おいてけぼりをくらった羽生はこめかみをつつき唸る。
「たんま。どうして俺が刑事さんのお仕事を手伝わなきゃなんねーんだ?だいいち痴漢がお仲間の逮捕に血道上げるって」
「私のはあくまで更正の手伝い。正義感からスキルをふるってるまで、けっして下心から行ってるわけではありません」
「男のケツ揉みしだくのが更正の手伝いか?ふざけんな」
きつい三白眼で文句をつけるも玉城はいたって堂々と振る舞う。
自分の行為はあくまで世のため人のためと凡百の痴漢と一線画す正当性を主張しつつ、義憤に燃えて一席ぶつ。
「最近山手線で噂の痴漢……仮に『エロティカトリガー』と呼びましょうか」
「何その恥ずかしい仮名」
「エロティカトリガーの犠牲になって途中下車するはめになった被害者は数知れず、大事な会議に遅刻したり大事な試験に遅刻したりとその被害は深刻甚大。その手口は極めて卑劣悪質狡猾、好みの男性の背後にそっと忍び寄って下手に動くと周囲にバレると脅し慰み者にする」
「誰かさんと一緒じゃねえか」
「エロティカトリガーに狙い撃ちされた被害者は現時点で三十九人。ほうっておけば今後もっと増えるのは確実、やがて山手線はエロティカトリガーの猟場となります」
「三十九人て……どんだけ欲求不満の女だ」
「男ですよ?」
「え?」
「よく聞いてください、『痴女』ではなく『痴漢』と申したはずですが」
もとからなかった真面目に聞く意欲が著しく減退していく。
「悪い、帰らせてもらうわ」
「あなたにはエロティカトリガーを逮捕するお手伝いをしてほしいのです」
あくまで慇懃に落ち着き払い、しかし有無を言わせぬ口調で、これ以上なく顔を顰め椅子をがたつかす羽生を鞭打つ。
片手をポケットにひっかけもう片方の手をテーブルにつくや、口の動きが玉城にもよく見えるよう極端に接近し、滑舌よく区切って発声する。
「い・や・な・こ・っ・た。どうして俺がてめえを強姦したド腐れ外道の手伝いしなきゃいけねえんだよ、おとり捜査なら仲間を使え、よそに頼む時点でおかしいぜ」
顔面にしぶいた唾をナプキンで拭いつつ玉城は言う。
「もちろんその作戦も試みました。が、いずれも失敗……どうやらエロティカトリガーの方で替え玉と察知するらしく成果が上がりません。残念ながら、わが署にはエロティカトリガーのタイプの人材がいないのです」
「タイプって?」
顎をしゃくり椅子に掛けろと促す。
羽生はしぶしぶ席に戻る。
玉城はかいつまんで説明する。
「エロティカトリガーの好み。身長170~175センチ、中肉中背、髪質は柔らかでやや癖あり、泣きぼくろあり。ポケットに片手を突っ込む肘の角度は正確に七十五度、吊り革に掴まる後ろ姿がエロい人です」
「マニアックだな……というか泣きぼくろならメイクでどうにだってできんだろ」
「エロティカトリガーは本物しか狙いません。偽の泣きぼくろなど一発で見抜かれます」
「話はわかった。断る」
「即答ですか」
「男にケツさわられる悪夢は一度っきりでたくさんだ」
「私に恩があるでしょう」
目だけで笑い羽生の反応をうかがう。
テーブルに散らばったパンくずを几帳面に掃き集め、あっさり切り札をだす。
「逮捕せず見逃してあげたのを忘れましたか。ルノアールで呑気に茶をしばけてるのはだれのおかげですか」
「今さら脅す気か。むだむだ、スリは現行犯逮捕っきゃきかねーよ」
「盗聴器の存在をお忘れですか」
まずい。
「トイレでの独り言、ちゃんと録音してありますよ」
完全無欠の笑顔で羽生を追い詰める。
既に言質はとられている。
羽生が今回の依頼を蹴れば盗聴テープを証拠として逮捕に踏み切るつもりだろう、まったく抜け目のない男だ。
俯き苦悩する羽生の姿をサディスティックな喜悦が滲む目で眺め、ナプキンの角をきっちり合わせて折り畳む。
「インベーダーゲームにふける不良のように無視しないでください」
「たとえが古い。何歳だお前」
「答えを聞かせてもらいましょう」
眼鏡の奥で双眸が細まり、針のように冷徹な眼光を放つ。
マングースに睨まれた羽生はもうどうにでもなれとやけっぱちで嘯く。
「~あーあーわかったよわかりました、お釈迦様の手の上で踊らされる悟空か、いや違うマングースの手の中で踊らされるハブだ!煮るなり焼くなり好きにしろよもう、今回の依頼を受けるっきゃ商売続ける方法ねーんだろ?上等だ、やってやるさ。一度されるのも二度されるのもおなじだ」
「そうこなくっちゃ」
羽生を口説き落とした玉城の顔がぱっと輝く。
羽生とて忸怩たるものを感じないではないが背に腹は代えられない。
マングースに目をつけられたら最後息絶えるまで鋭い爪で嬲りものにされるのがハブの宿命なのだ。
[newpage]
ルノアールの代金は玉城もちだった。
喫茶店を出た二人が新宿の雑踏を抜けて向かったのは最寄りのドンキホーテ。
「電車に乗るんじゃないのか?」
「まあまああせらず。色々準備がありますので」
疑問に思いつつも玉城のあとについていく。
案内されたのは紳士服売り場。古着だろうスーツがハンガーに掛けて吊るされている。
「うーん、迷いますね……どれがいいですか羽生さん」
「どれって……なんでスーツ選んでるんだよ」
「これなんかどうでしょう」
羽生の質問には答えず、ハンガーごとスーツを体に当てて首を捻る。
「もう少し肩幅に合ったスーツをさがしましょう。羽生さんはてろんとしたなで肩だからブランドものをえらぶと服に負けます」
率直なコメントがぐさりと刺さる。
「どうせ一山いくらのワゴンセール品がお似合いの安い男ですよ、スーツを着たってカタギに見えねーよ、いいとここキャッチどまりさ……」
「いじけてないで、ほら」
言われるがまま腕を水平に広げ寸法をとらせる。玉城は眉をひそめ次々とスーツを取り替えていく。
紺、灰色、黒。
着せ替え人形を耐え忍ぶ羽生に一着を押しつけカーテンで仕切られた更衣室へと追い立てる。
数秒後、再びカーテンが開く。
「私の目に狂いはない。お似合いですよ羽生さん」
「世辞より自賛が先か。ほんっといい性格だな」
渡されたスーツに袖を通した羽生が、落ち着かなげにそこに立っている。
玉城が見繕ったスーツは紺地の無難な代物で、大量生産の既製品らしくほどほどに安っぽい。
交差点を渡るサラリーマンの群れに投げ込めばあっというまに見分けがつかなくなるだろう。
「どういうことか説明しろ」
「敵を騙すにはまず形から。エロティカトリガーはスーツフェチなのです。……着慣れてない感じですね」
「あたりまえだ、スーツなんて着るの初めてだからな」
「浮かれてますね?」
安く売られていたスーツに袖を通してはしゃぐ羽生。会社勤めと無縁の自由業故これまでスーツを着用する機会がなかったのだ。
「成人式はどうされたんですか。羽織袴ですか」
「サボり」
「不良ですねえ」
「式帰りで懐緩んだ連中が多かったからな……稼ぎ時なんだよ」
スーツに着替えた羽生と向き合い、頭のてっぺんからつまさきまでじっくり入念にチェックする。
羽生は腰に手をあてふんぞりかえる。
「サラリーマンに見えるか?」
「マンション住まいの主婦に美容製品を売りつけるインチキセールスマンに見えます。さあ、これを持って」
仕上げに小道具の鞄を持たされどうにか格好がつく。
その後ドンキホーテを出た足で新宿駅に向かい、ホームで電車を待つ。
妙な事になった。
着慣れないスーツに居心地悪さと面映さを感じつつ寄り添う玉城をちら見。
「……あの……おとり捜査って今から?」
「そうですが」
「そのー、心の準備がまだ」
「ぶっつけ本番のほうが上手くいくものです」
「いや待てよ、そんな都合よくそのなんとかトリガーが現れるわきゃねーだろ?常識で考えりゃわかるだろ。俺をエセリーマンに仕立てて山手線に送りこんだところで会えなかったら折角のスーツがむだに……ドンキに返す?」
「プレゼントしますよ」
「マジ?ラッキー」
「……スーツ一着で手懐けられるなんて安い人ですねえ」
「ボランティアで協力してやるんだから見返りは貰っとくさ」
袖口をつまみ現金に喜ぶ羽生に不憫なまなざしを向ける。
実際、ドンキで買ったスーツ一着で幸せになれるお手軽な自分が少し哀しい。
人ごみに紛れ電車を待つあいだ、隣り合う玉城がスーツの懐から何かを取り出す。
「羽生さん、これを」
「なんだ?」
「小型通信機です。胸ポケットにつけておきます。さ、こちらを向いて。じっとして。顎を上げて、そう……」
言われたとおりにする。
てきぱきした指示にそって顎を上げるや右胸に機械を取り付けられる。
「敵と遭遇次第指示をだします。車内で不審人物を発見したらただちに教えてください、小声で囁けば聞こえますから」
「わかったわかった。……あんま近付くな、息かかる」
イヤホンの片方を耳に突っ込み、二つ返事で請け負う羽生に念を押す。
「責任重大ですよ。痴漢を取り逃がしたら最年少警部と呼び声高い私の将来、ひいては桜田門の威信が傷つきます」
「お前よく警察試験通ったよなあ」
審査のザルさ加減にはいっそ感心してしまう。
「けどさ、そー都合よく現れるか?行き当たりばったり偶然頼みで山手線何周する気だよ」
「ばっちりリサーチ済みです。奴はこの時間帯のこの線に必ず乗り込みます」
「そこまでわかってて捕まえられないのかよ、無能め」
「なんとでもお言いなさい」
「不能め」
「絶倫ですとも」
周囲のくすくす笑いが耳につく。
ネクタイを直すふりで通信機を仕掛ける玉城だが、成人した男が面突き合わせているだけで十分目立つ。
「離れろ、顔が近すぎる」
「少しくらい我慢してください」
「ひとが見てんだろ!」
こっぱずかしさに喚く羽生とは対照的に、自覚のない玉城は器用な手つきで通信機をセットし終え、一歩引いて満足げに頷く。
『四番線に電車が到着します お乗りの方は白線の内側まで下がってお待ちください……』
「……お前、近くにいるんだよな」
「少々離れた場所から見守っています」
「え?」
「ばれたら困るでしょう。ドアの近くで待機してます」
羽生の顔を不安の色が掠める。
戸惑う羽生にいつになく優しく微笑みかけ、聞く。
「怖いですか?」
「見捨てて逃げねえって保証はないからな」
「私は刑事ですよ?信用してください」
「冗談。強姦犯を信じるほどお人よしじゃねえよ、酸いも甘いも噛み分けた山手のハブをなめるな」
「ならよろしいのですが」
電車が減速して滑りこみ、気圧音と共に開いたドアから乗客がおりてくる。いやな緊張を味わう。
玉城に痴漢されてからというもの乗車の際にかすかな抵抗を感じるようになった。
トラウマをひきずったまま今またおとり捜査の一環でサラリーマンに仕立て上げられ、痴漢の釣り餌として山手線に乗り込もうとする羽生をだれかが呼ぶ。
「羽生さん」
一瞬の事。
無造作な大股で乗り込もうとした羽生の肘がぐいと引かれ、肩が触れ合う。
「健闘をお祈りします」
耳元での囁きにかっと血が上る。
なにか言い返してやろうと思った。
が、上手く舌が回らない。
すっと手が離れる。
雑踏に紛れて流れ引き離される。
どさくさ紛れに電車にのりこみ、中ほどで吊り革を掴む。
深呼吸で落ち着きを取り戻し、さりげなく目を配って自分の位置とドアに寄り添い立つ玉城との距離を確認する。
「聞こえるか?」
『聞こえますよ。よそ見しないで普通に振る舞ってください』
「むずかしい注文」
『前に座った女性の膝でも見ていてください』
言われたとおりにする。
即座に閉じられた。
「……ものすっごい軽蔑されたぞ」
『実行したんですか?ばかですねえ』
こいつ殺してえ。
ドアが閉じ電車が動き出す。
慣性の法則にのっとって揺らぐ体を吊り革を掴んで支え、怪しい人物がいないか眼球をぎょろつかせる。
「なあ、そのエロ……エロいトリガーのツラとかわかってないのか」
『残念ながら』
「~じゃあ警戒しようねーだろ!」
『敵は慎重です。おとり捜査にはすぐ勘付く。何度かニアミスはあったんですが……被害者の話によるとジャニーズ系の美少年だったそうです』
「じゃあモンタージュ作って配れよ、俺を引っ張り込まずに!」
『いえ、ほら、経費がもったいないですし?』
……本音が出たぞ今。
なんだかどっと疲れた。
次の駅で降りてしまおうかと誘惑に駆られる。
吊り革を握りなおし悪態をつく。
「似顔絵作る金は惜しいくせにスーツにぽんと出すのはいいのかよ」
『喜んでくれましたし』
「…………」
なじるつもりが言葉を失う。
賄賂で強姦をちゃらにするつもりなら人として刑事としてどうかと思う。思うのだが、ほだされてしまう。
「……お前ってさ、女にモテるほうだろう」
『何故おわかりに?』
否定、もしくは謙遜しろよ。
苛立つ一方の会話を打ち切り、むすっと黙り込んで人ごみに揉まれる。
ドアが開き再び人がのりこんでくる。
過密状態とまでは行かないにしろ電車が揺れるつど隣り合う人間とぶつかるほどの混み具合だ。
「……おとり捜査ってどうすりゃいいんだ?黙って突っ立ってりゃいいのか」
『そうですね、肘を曲げて……』
「こうか」
『片手をポケットに突っ込んでください』
少しずつ肘を曲げ、小脇に挟んだ鞄を抱え直す。
七十五度まで曲げたところで待ったがかかる。
『はい止めて。じっとして。お尻に力を入れてスーツから溢れるストイックな色気を演出してください』
「お前俺に何を求めてんの?」
ドア近くにいるはずの玉城を見失う。
ひとり放り出された不安から通信機に口を寄せて囁く。
「いるか、玉城」
『いますよ、ご安心を』
「お生憎さま、今日はハズレっぽいな……」
さわり。
背後に異様な気配。
臀部の違和感が既視感に結びつく。
後ろに忍び寄った何者かが羽生の尻をさわっている。
「!ひ」
悪夢再来。
『どうしました?』
耳に突っ込んだイヤホンから問う声に返事をしかけ、ぎゅっと唇を噛む。
なんて言やいいんだ?例の痴漢に襲われてます?いくら小声で大丈夫だからって、もし聞かれたら変人じゃねえか。
「………っ、」
羞恥心と体面がせめぎあう。
羽生にも周囲の耳目を押し憚り平静を装う程度の理性は、ある。
電車という走る密室においてまわりを人に囲まれた八方塞がりの状況下、被害を報告し助けを乞おうにも時機を読んで慎重になる。
細心の注意を払いわずかに横に移動する。
が、体をずらしても相手はぴったりついてくる。
痴漢。
決定だ。
「……玉城……聞こえてるか」
もぞつく感触が尻を這う。
悩ましく衣擦れの音立つ中、生理的嫌悪感と不快感を必死にこらえて囁く。
「ヤツだ」
『釣れましたか。ではしばらくそのままで』
「はあっ!?」
『痴漢は現行犯でしか成立しない犯罪です。ぎりぎりまでひきつけて証拠を掴んでください』
むちゃくちゃだ。
「じゃあ耐えろってのか?話が違うじゃねえか、なにかあったらすぐ助けに来るって……―っひ、い!?」
ざわりと背中が総毛立つ。
羽生はノーマルだ。
男にケツをさわられ悦ぶ趣味など誓ってない。
だからといって満足に身も捻れない状況下でできる抵抗は限度があり、度を越した悪戯を働く手をはねのけようと精一杯肩肘突っ張ったところで神経を逆なでする失笑が返る始末。
「くそっ……!」
舌打ちひとつ、恐怖心と生理的嫌悪をねじ伏せ乗り切り反撃にでる。
やられっぱなしで終わっちゃ山手の羽生の名が廃る。
自ら望んで名乗り出たわけじゃないが一度引き受けたのは事実、こうなったら徹底的に……
痴漢ごときに敗北してなるものかとプライドに火がつく。
体をずらし執拗につきまとう手から逃げようと試みるも、邪険にされればされるほど燃えるとばかり次第に大胆さを増し、ついにはぴったりと背中にくっついてしまう。
危険な体勢だ。
一つ間違えば手遅れになる。
現に羽生の太股には固く柔らかく熱い膨らみがぐいぐい押しつけられ、目で確かめるまでもなくおそらくそれは勃起した股間で、こんなにヤる気満々な状態でさわるだけですむとは思えない。
ツラを一目見たいと欲求が騒ぐ。
が、振り向くのは体勢的にむずかしい。
「……野郎に痴漢なんて悪趣味……」
「泣きぼくろがセクシーだね。もっと抵抗してよお兄さん」
なんですと?
女を酔わせる甘くセクシーな声。
声の主は若い。推定二十代前半か?学生っぽい。
無防備な耳朶に湿った吐息が絡みつき、気持ち悪さに背筋が強張る。
「あっちいけよ……!」
耳朶は弱い。
むき出しの急所をあんまり刺激してくれるな。
「可愛いお尻が無防備だよ。さわってくれって誘ってる」
ひいっ、声にならない悲鳴をやっとの思いで飲み込む。
電車の中で騒ぐのはまずい、余計な注目を買う。
耳朶から首筋にかけ、若者の吐息が触れた範囲に鳥肌が立つ。
迫り来る貞操の危機に平常心がぐらつき、胸ポケットの通信機に噛みつかんばかりに怒鳴る。
「玉城、玉城さん、聞こえてますか玉城さん応答どうぞ!」
小声で叫ぶという器用な真似がすっかり達者になった羽生である。
応答はない。
電波の調子が悪いのか?
通信機の向こうの男に何度呼びかけても沈黙が返るばかりで役に立たない。
話が違うじゃねえか、危なくなったらすぐ助けにくるって約束したのはだれだ、刑事が嘘ついていいのかよ、ああそうか嘘つきは痴漢の始まりか……
『私は刑事ですよ?信用してください』
一瞬でも信用しちまった俺が馬鹿だった。
所詮はハブとマングース、喰うか喰われるかの間に信頼も友情もない。
気前良くスーツをくれて一瞬でもこいつひょっとしたらいいヤツかもなんてほだされてしまった貧乏性な自分が恨めしい。
オカマにモテやすい上に痴漢に狙われやすい二重苦の体質を呪う。
脳裏に思い描いた食えない顔に百通りの罵倒をぶつけてもまだ怒りがおさまらず、役立たずの通信機をもぎり捨てんとして泡を食う。
「!ちょ、やめ」
足の間に立て膝が割りこんでくる。
まずい。
次なる展開を予想しさっと顔が蒼ざめる。
「―んんっ、んっ、く」
一回侵入を許してしまったら拒む術はない。
羽生の足をこじ開けて挟まった膝は、意地悪く律動を刻んで股間を刺激してくる。
唇を噛んで快感の呻きを殺す。電車の中で喘いでしまったら男として終わりだ。
汗ばむ手で吊り革を掴み、縋り、股間のふくらみを円を描くようにぐりぐり圧迫したかとおもいきや上下に押してくる膝の責めを上擦る息で耐え忍ぶ。
畜生、どこで油売ってるんだ玉城。
てめえが引っ張り込んだんだから責任とって早く助けにこい。
想像の中ですかした顔をおもいっきりぶん殴って溜飲を下げるも、現実の羽生は絶体絶命危機一髪のピンチのまま、膝でぐりぐりといじめられて自分の意志を裏切って固くなりつつある股間に絶望する。
「固くなってきたね。ぐりぐりされるのが好きなんだ。いやらしいなあ……」
俯き加減の顔が上気しつつあるのを認めた痴漢は、ますます自信をつけ勃起し始めた股間を強弱自在に膝で按摩する。
腰がかくんとおちる。
耳朶まで赤く染まる。
噛み締めた唇からは熱く湿った息が零れ、吊り革を握った腕ががくがく震える。
『どうしました羽生さん』
「!―おま、え……なんで答えなかったんだよ」
『すいません、電波の調子が悪くて……声の調子がおかしいですが』
通信が復活し、大嫌いな天敵の声がおっとり聞こえてくるや安堵のあまり泣きが入る。
途切れ途切れに聞こえてくる玉城の声にしゃにむにしがみつく。
「さっさと助けに来い……!」
通信アウト。
というか、勝手に切れやがった。また電波障害?
快感と恥辱に抗う羽生の姿に次第に興奮してきたようで、うなじにあたる息が危険な感じに浅くなりつつある。
「……っ………ふ……」
何をやってる山手のハブ。
威勢いいのは口だけか。
痴漢ごときに好き勝手されてどうする。
玉城の到着を待つまでのあいだ何もしないで手をこまねいてるのか?
その右手は飾りか?
スリ師の本懐を遂げてみろ。
自らを挑発し、苦しい体勢から無理して振り向いてみれば後ろにいたのは学生風の若者。
涙目で睨まれても怖じるどころか爽やかに微笑み返し、あまつさえこんなことを言い放つ。
「そそるね、その顔。もっと泣かせてみたいなあ」
ズボンの後ろ、隠れた窄まりのあたりに異物の感触。
「!?なっ………」
愕然とする羽生。
若者が扇情的に唇をなめる。
羽生の位置と体勢からでは見えないが、尻に何か球状を連ねた異物が押し付けられているのは感触でわかる。
「アナルパールは初体験かな」
するりと前に手が回る。
抵抗むなしくベルトを抜かれズボンをずりおろされる。
「おいこら痴漢、痴漢ってのはてめえの右手にプライドもって右手でイかせるのがプロだって聞いたぞ……それは反則だろ」
なにやってんだよ玉城早く来いよ早く、時間稼ぎをむだにする気か!!
貞操の危機に直面してまで義理立てする必要はないと作戦を暴露し保身に走る。
「オーケー、ぶっちゃける。実はサラリーマンじゃないんだ。見ればわかるだろ、な。サラリーマンにしちゃ胡散臭いだろ、いかにもスーツ着慣れてねえかんじだろ?それもそのはず、リーマンじゃないんだから似合うはずないっての!スーツフェチには残念なお知らせだけどわかったらとっととほかあたって」
「泣きぼくろは本物なんでしょ?なら問題なし」
泣きぼくろフェチかよ……!
読み間違えの失点に舌打ち、形勢を立て直すより早く双丘の窄まりをぐりっと球が抉る。
「いや、だ……待て、しゃれになんねえぞ、電車ん中で変なおもちゃ使いやがって。アナルパールなんてマニアックなチョイスぜってえ認めねえぞ、大人のおもちゃの分際で市民権得やがって!?」
泣き笑いで罵る羽生の後孔につぷつぷひとつずつパールが沈んでいく。
あらかじめローションを塗されたパールはさしたる抵抗もなく肛門をこじ開けて狭い体内へと飲み込まれていく。
「……っ!―うっあ、あっ、ひ」
ひとつ沈むごと背筋が撓う。
冷たく固い異物に直腸を犯される気色悪さに仰け反る。
「ひとつ……ふたつ……みっつ……よっつ」
「抜け、頼む……―っ、きもちわり……」
呂律の回らぬ哀願を楽しみながら柄の部分を持ち、体内に挿入した部分を小刻みに回す。
襞を巻き込んで回転したパールが敏感な場所に当たり、腰砕けに座り込んでしまいそうな快感の波が襲う。
「あう……あっ………」
ぞくぞく悪寒と快感が駆け抜ける。
パールがこりっと内壁をこするたび未知の快感が生まれ喉がひくつく。
若者がほくそえみつつリズムをつけ抜き差しを始める。
体内に突っ込まれたパールが襞に絡んでぐちゃぐちゃ卑猥な水音を立て、ぐちゃりと泡が潰れ、前立腺のしこりの上を連続でローリング。
「ふあ………―っ、やめ、抜け…………」
口の端から涎がたれる。
下半身ががくがく震える。
「今五つ入ってるのわかる?奥まであたるでしょ、こりこりって」
しっかりしろ。どうにかしろ。どうすりゃいい?
「たまぐすくっ………」
「お呼びでしょうか」
仰天する。
いつのまにか目の前に玉城がいた。
「おま、お前、えっドアの近くにいたんじゃ!?」
「混んでたので到着に時間がかかってしまいました」
羽生を道具で責め立てる若者は自身の行為に夢中で小声で交わされる会話に気付かない。
チャンス。
今ばかりは玉城が後光を背負った天使に見えた。
「たのむ、限界だ、早くやっちまってくれ……!」
拝み倒さんばかりの勢いで急かす羽生に慈悲深い微笑を投げかけるや、ポケットから颯爽と手錠を取り出し―……はせず。
痴漢の手によって既に寛げられた羽生の前、トランクスから覗くペニスをぎゅっと掴む。
「な………!?」
「限界なんでしょう」
「早くやっちまえってのはそっちの意味じゃねえ!」
どう曲解すればそうなる。わざとか、わざとなのか?
前門のマングース、肛門、もとい、後門の引き金。
周囲の人々は羽生が投げ込まれた異常な状況に気付いてない。
吊り革に掴まって不機嫌そうに居眠りするサラリーマン、音楽を聴く学生と、それぞれ周囲には無関心に自己閉鎖してる。
「んっ、あっ、ふくっ……」
アナルパールが勢いづいて回る。
ぐちゃぐちゃ潤滑な水音伴う抜き差しのつど粘膜がほぐれて感度が良くなっていく。
「待て、スーツが汚れる……」
淫蕩に潤う体内でパールが蠢き、茹だり始めた頭でうわ言を口走る。
飲み干しきれず一筋滴る唾液を人さし指で拭い、眼鏡の奥の目を細めて囁く。
「我慢できない子にはお仕置きですよ」
刑事と痴漢の挟み撃ち。
逃げ場はない。
皮肉にも痴漢の位置からは玉城の手の動きは見えず、正面に立ち塞がる男が見えるだけ。
それでなくても行為にのめりこみ、羽生を後ろでイかせる以外の事は頭から消えている。
玉城の手が亀頭の下の括れに這い、鈴口からあふれた先走りを丹念に塗り広げていく。
「ふたり、がかりは、卑怯だ……!」
前と後ろ、競い合うようにして高みに押し上げていく。
痴漢もさすがにもう一人の存在に気付き、ほんの一瞬パールを操る手を止める。
「誰ですかあなた」
「痴漢です」
「彼は僕の獲物です」
「前は私が頂戴するのであなたは後ろで手を打つ、というのはどうですか」
短いやりとりで相互理解が成り立つ。
目配せと笑みを交わしただけで変態同士通じるものがあったのだろう。
「俺の意見は無視か……!」
「スリに人権などあるわけないでしょう」
「痴漢の人権は尊重されるのか!」
酷すぎる扱いに抗議するも不用意に口を開くや喘ぎに取って代わり、前と後ろと同時にラストスパートに入る。
「あっ、あっ、あっ、あっ!」
玉城の手が先走りでぬるつくペニスに絡みつきしごきたて、後孔に沈んだパールが腸を穿孔し滑走する。
前と後ろから同時に襲い来る快感の波に揉みくちゃにされ吊り革を掴んで仰け反る。
パールが前立腺にこりっと当たる度びくんと腰が跳ね、玉城が睾丸ごと手のひらで包んで揉みほぐせば脊髄から脳天へと電流が駆け抜ける。
「も、でる……!」
限界に近いのを素早く察した玉城がさっと紳士的な動作でハンカチを抜き放ち、ペニスに被せる。
玉城の用意が整ったのを確認後手首に絶妙かつ微妙な捻りを加え、奥まで突っ込んだアナルパールを一気に引き抜く。
「――――――――――あああああああっあ、あ」
ローションの糸引くアナルパールが潤んだ粘膜を一際強くかき混ぜて肛門から排泄される。
絶頂を迎えて前傾、ちぎれんばかりに吊り革によりかかって不規則な痙攣に耐える羽生。
勢い良く放たれた精を一滴漏らさずハンカチで受け止め、改めて若者に向き直る。
「なかなかやるじゃないか、あんた」
爽やかな汗をかいた若者がすっと手をさしだす。
互いを労い褒め称える感動的な握手の場面……
ガチャン。
「逮捕です」
たった今まで羽生を苛んでいた右手に金属の手錠を打ち、宣言。
「?な……え、刑事だったの!?」
「刑事ですがそれがなにか」
「刑事が一緒に痴漢……!?」
「彼はあなたを捕まえるためのおとりです。観念なさい、山手のエロティカトリガー。余罪を含めてたっぷり署で追及させていただきます」
罠に嵌まった若者が豹変、逃走を企てるも未遂に終わったのは羽生の機転あってこそ。
体当たりで玉城を突き飛ばし逃げる行く手にトランクスだけ申し訳に引き上げ滑り込み、底も抜けよと靴の先を踏んづけ一喝。
「ぼけっとすんな、鍵!」
刑事が手首を返して投げた鍵をはっしと掴み、スリ師の面目躍如たる神速でカチリと施錠。
「一丁上がり!」
ハブとマングースの見事な連携プレイに喝采が沸く。
逮捕劇において担った活躍にやんややんやと喝采を送る大衆からそそくさ顔を背け、股間が今にもぽろりしそうな状態で見栄を切った本人は猛烈な羞恥の一念でズボンを引き上げ、とにかくもうここにいるのはいやだとよたつきホームへ脱出。
プラスチックのベンチにどさりと身を投げ出し呼吸を整える羽生の視線の先、痴漢を従えて出てきた玉城が携帯でどこかに連絡をとる。
ほどなく制服警官二名が到着し玉城に丁寧に一礼する。
玉城は鷹揚に笑い、痴漢の身柄を引き渡す。
「あーあ、ひっかかっちゃったなあ」
羽生の前を通り過ぎざま警官に引っ立てられた若者がぼやく。
「けどさ、お兄さんの演技大したものだったよ。本気で感じてるみたいだった。また会えたらいいね、山手線で」
「ホームから蹴り落としてやる」
「おお怖」と首を竦め去っていく若者を見送り、どっと脱力。
目の前の地面に磨き抜いた靴が一対現れる。
「捜査協力ありがとうございます、羽生さん」
ハンカチで手を拭きながらやってくる玉城をぎろりと睨み、毟り取った通信機を力一杯ぶん投げる。
「すぐ逮捕すりゃよかったじゃねえか、痴漢と一緒にお楽しみなんて最悪だ」
「公私混同はしない主義だと言ったでしょう。敵を騙すにはまず味方から、相手が完全に油断して心を開いたタイミングでないと逃がしてしまうおそれがある。念には念を入れるのが玉城流です」
あっけらかんと釈明し、ベンチに座り込んだまま立ち上がる気力も尽きたスリ師を苦笑で見下ろす。
「立てませんか?よろしければお送りしますよ」
「行き先は署だろ?」
申し出をきっぱり却下、はみ出たシャツをきちんとズボンにたくしこんで立ち上がる。
「お前とは金輪際会いたくねえ。ハブとマングースの腐れ縁もこれっきりだ」
「はたしてそうでしょうか?」
眼鏡の奥の目が面白そうに光る。
「マングースの執念深さをお忘れなく。羽生さん、あなただって……やられっぱなしで終わるようなタマじゃないでしょ。リベンジ期待してます」
「次会ったら警察手帳スッてやる」
揶揄とも挑発ともつかぬ発言に闘争本能ぎらつく不敵な笑みを返す。
足元に落ちた通信機を拾い、跨線橋の階段へと憤然たる大股で歩いていく羽生の背中に高く声をかける。
「そのスーツよくお似合いですよ」
「うるせえよ!」
きっと振り向くや中指を立て、その指と人さし指とで空を薙ぎ払う。
あたかもマングースの喉笛に鋭い牙突き立てかぶりつく獰猛なハブの如く。
「……ハブにゃ毒があるってことをお忘れなく」
捨て台詞を吐いて階段を上っていく後ろ姿が消えるまで見送ってから、署に連絡を入れようと携帯を開いた玉城は、眼鏡の奥の目に紛れもない喜悦の色を浮かべて呟く。
「望むところです。あなたの毒になら殺されてみたい」
次こそは必ず現行犯で逮捕してやると
違う意味でもしとめてやると決意し。
「山手線で会いましょう」
宣戦布告か求愛か、マングースはハブへの秘めたる思いを募らせるのであった。
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