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ああ迷い子よどこへ行く 後
新宿駅は無駄に広い。伊達にダンジョンの異名をとってない。おまけに人通りも多い。
「こん中で人探しってハードだな……」
効率面を考え玉城と二手に分かれる事にしたが早速立ち往生する。辟易として雑踏を見渡し、みーちゃんから聞き取った母親の人相の特徴を脳内で反芻。
「髪は肩まで、水色のシャツ、お花の模様の白いバッグ……」
たったこれだけの情報で人探しは無茶振りだ、新宿駅を一日に利用する人間は何万何十万にものぼる。名前さえわかりゃ駅員に交渉しアナウンスで呼びだしてもらう手もあるがそれもできない。積んでる。面倒な事に巻き込まれたと自分のツキのなさを呪いたくなるが、泣きじゃくりながらズボンの染みをナプキンで拭うみーちゃんを思い出し考えを改める。
「いっちょやるか」
小声で活を入れ、己を鼓舞して歩き出す。文字通り東奔西走、雑踏を突っ切るように大股で歩き特徴に合致する女をさがして注意深く視線を巡らせる。
だだっ広い駅構内を駆けながらみーちゃんを玉城に預けてきて正解だったと痛感する。ガキを抱えながらの人探しは疲労と手間が倍乗だ。みーちゃんも大人しく言う事を聞いてくれて助かった。別れ際、不安げに俺を見上げるみーちゃんの頭をぎこちなくなでてやった。子供の頭ってあったかいんだな、と妙に感心した。
まったく俺らしくもねえ。
ケチな小悪党が今更善人の真似事か?
柄にもねーことをしてる自覚はある。
ままならない反感というか、ガキ一匹に振り回されるみっともない自分を斜に構えて嘲笑いたくなる気持ちが心の片隅に燻ってる。
真っ当な人生を歩んでいたら今頃俺にもあれ位の子供がいたかもしれない。羨望と憧憬と焦燥と、手に入ったかもしれない「もしも」の可能性を想像すらしないといったら嘘になる。エリート街道驀進中で人生順風満帆充実してる玉城にゃわからねーだろうが……
『あなたに覇気がないと仕事のやる気がでませんので』
「アイツにも仕事の悩みなんてあるのかね」
好敵手なんて言われると尻がむずがゆくなる……この表現に他意はねえ。断じて。
手の中で携帯が着メロを奏でる。ジョーズのテーマソング。名前欄には「玉城(変態)」の表示。
「もしもし」
『進捗どうですか?』
「そっちは……聞くまでもねーか」
『今どのあたりです』
「南口の有料トイレの近くのコインロッカーって言やわかるか」
『私は山手線乗り場の近くの売店です』
こそこそ話し合ってる気配。
『みーちゃんが言いたいことがあるそうなので代わりますね』
携帯を渡しているのだろう間をおいて、初対面の印象を裏切る遠慮がちな、切迫した声音がもぐりこむ。
『……おかあさんいた?』
「まだ。さがしてるとこ」
『おかあさん……だいじょうぶ?おとうさんにいたくされない?つかまっていたいことされない?』
たった一言の「だいじょうぶ?」に万感の思いがこもっていた。この子は何度も父親が母親に暴力を振るう現場を目撃してきたのだろう、声音に隠しきれない怯えが混じっている。もし自分が迷子になったせいで母親がお仕置きされたらどうしようと心底案じて責任を感じている。沈黙に押し潰され不安のあまり今にも泣き出しそうなみーちゃん。呼吸がどんどん荒くなる。
『おかーさん、見つかる?』
『おかーさんだいじょうぶ?』
大丈夫と訊かれたら大丈夫と、嘘でも安請け合いするのが正しい大人の対応だろう。
でも俺はそうしなかった。
近くの柱に背を凭せ、浅く跳ねる息遣いが伝わる携帯を強く握り締める。
「……わからねえ」
正直にそう答える。みーちゃんが絶句する。
俺は正しい大人じゃねーから、母親の消息を不安がって今にもべそかきそうな小さい女の子に約束一つくれてやれねえ。
でも、一つだけ言えることがある。
行きがかり上で仕方なくでも、成り行きでイヤイヤでも、俺は今この子の為に走ってる。
この子を母親に会わせるために異世界のダンジョンに比肩する広さの新宿駅を駆けずりまわってるのだ。
「おかーさんはずっとみーちゃんを守ってくれたんだろ」
『……うん』
別れる前スカジャンの袖をまくりあげて確認したが、みーちゃんの身体には痣や傷がひとつもなかった。ドメスティックバイオレンスは母親にだけ向けられてた可能性もあるが、俺は母親が身を挺して庇った方がありえると踏んだ。理由は勘だ。俺の勘はよく当たる。
まだ会った事ないみーちゃんの母親の顔を思い浮かべる。長い間旦那の理不尽な暴力に耐えていたがとうとう守りきれねーと判断したら子供を連れてさっさと逃げた、その女は正しい選択をした。
アンタは間違ってねえよ。
だから俺は言う。
「あきらめんな」
携帯のむこうでハッと息をのむ気配。
「かくれんぼもおいかけっこも諦めたヤツのまけだ、殴られようが蹴られようが粘り勝ちしたヤツが最後に笑うんだ。べそかいてる暇あるならお前も必死こいておかーさんをさがせ、お前のおかーさんだろ」
四つかそこらの子供にキツいことを言ってるとは思った。だが事実だ。ぐすぐす泣いてうじうじ悩んでる暇があるなら足を使って捜し回れ、頭を使って体を動かせ。俺だってスリの仕事で何度も失敗した、でも諦めなかった、足を洗おうとは思わなかった。
現実はしょっぱくて、「大丈夫」なんて安請け合いできるほど物事は上手く運ばない。
世の中は理不尽が罷り通り、人々は不条理に泣く。
だがそれでも譲れないものがある。
世間様に顔向けできねー仕事だろうが人様に言えねー生業だろうが履歴書に書けねー前科だろうが、コイツが俺の天職と恃んだなら意地でもその誇りを貫き通す。
「俺も今必死にさがしてる。だからみーちゃんもさがせ、でかい声でおかーさんを呼ぶんだよ、気付いてもらえるように。おかーさんが心配なんだろ?だったら腹ン底から声を張り上げろ、ギャン泣きしてここにいるって主張しろ、玉城なんてほっとけ困らせちまえ、通行人の注目の的でいいザマだ。声を上げなきゃ誰にも気付いてもらえねーよ、人生行動あるのみだ。それに……」
『視姦される方は好みじゃないのですがね』
「代わったんならそう言えよ!?」
顔から火が出る。なにマジに語ってんだ俺恥ずかしい。危なく携帯をぶん投げてその場にしゃがみこみそうになった。
「ふざけんなよ!!」
突然の怒号に振り向く。コインロッカーの前、一組の男女がなにやら激しく口論してる。一人は会社員風の二十代の男、女性の腕を掴んで口汚く罵倒してる。対する女は……
水色のシャツ。花柄のハンドバック。ボブカット。
「……ご都合主義過ぎるだろ」
『どうしました?』
「……いたぞ。男と喧嘩してる」
コインロッカーに預けていた荷物を取りに来たらしい女は、男を無視してロッカーの扉を開けようとするが、男はそれを許さない。醜く歪んだ憤怒の形相で、猛烈な剣幕で女に食い下がる。
「美奈をどこへやった!」
「あなたには関係ないでしょ、放っておいて」
「俺は父親だぞ?それをお前、あんな薄っぺらい紙切れ一枚おいて消えやがって……馬鹿にしてるのか!」
「もう限界。あなたとやってくのは無理。今までずっと我慢してきた、でも無理。もっと早くこうするべきだった」
「わかるように話せ!」
「毎日毎日つまらないことで殴られて。ちゃんと掃除してないとか料理がまずいとか服に糸くずがついてたとか、小さい子が見てる前で……ずっと誰にも言えず我慢してきた、それが間違ってたのよ。このままじゃ私壊れちゃう、どうにかなっちゃう。あなたがこないだジュースを零して床を汚したって美奈を蹴ろうとした時わかったの、ここで逃げなきゃずっと同じことの繰り返しだって」
「俺が会社に行ってるあいだにこそこそ逃げ出してずるいぞ!メールも無視して!親にチクる気か!」
「子供みたいなこと言わないでよ!」
そうか。だからみーちゃんはジュースを零した時あんなに焦ったのか。
トラウマがフラッシュバックして
よくよく見たら厚化粧で隠しているが女の顔には青黒い痣が透けていた。薄手の長袖シャツに隠された腕には無数の痣が散らばっているのだろう、痛みを感じているせいで男を振りほどこうとする動作はぎこちない。日常的な暴力の痕跡を巧妙に隠そうとした努力のあとが痛ましい。
ここら一帯は人通りが少ないが、それでも痴話喧嘩に興味を引かれて物見高い野次馬が集まり始めている。スマホを構えて呑気に写メを撮る野次馬の輪の中心、怯えを虚勢に塗りこめて女が金切り叫ぶ。
「しつこくするなら警察に行くわよ!」
最後の切り札の脅し文句。幼稚な暴言をがなりたてる旦那にキレたのだろう、だがこれが裏目にでた。
「俺だけ悪者にしやがって」
妻に恥をかかされ理性が蒸発した男が、背広の胸からくしゃくしゃに畳んだ紙切れを取り出す。離婚届だ。
「こんなものこうしてやる!!」
「やめて!!」
派手なパフォーマンスに野次馬がどよめき喧しくスマホのシャッターが切られる。怒号と悲鳴が交錯した一瞬、野次馬の垣根をなめらかに掻い潜り体が動く。
妻の眼前に離婚届をつきつけ真っ二つに破り捨てようとする男、反吐がでそうなにやつき顔が視界の端を掠めたのは一瞬の事。突如として手の中の離婚届が消えて男が驚愕、女も事態を呑み込めず硬直する。
「な、ない?消えた?どこに」
男の当惑が野次馬に感染、手品に化かされたかのような驚愕と困惑が同居するざわめきが広がっていく。
「大丈夫か?」
「あ、あなたは」
「通りすがりのスリッパ職人だ」
付け加えるなら、少々手癖が悪い。
放心状態の女を抱き起こす。目元のあたりがみーちゃんと似ている。やっぱり母娘だ。母親似でよかったな。
「誰だあんた、関係ない奴は引っ込んでろ!」
「オリジナリティのねー台詞だな。俺の目に映る事で関係ねーことなんかひとっつもねーんだよ」
周囲で他人事と決め込んで物見遊山にスマホで撮影してる野次馬をでかい声であてこすってやれば、そのうち何人かはスマホをしまいこそこそと退散していく。ざまーみろ。
男は疑心暗鬼に苛まれて俺と女とを見比べていたが、その顔に唐突に理解の色が浮かぶ。
「お前……コイツとデキてるのか?」
「ああん?」
「子供を連れて駆け落ちする気だったな!?」
「あー……はいはい、この状況でそうなる訳ね」
キチガイに何を言っても無駄だ、理性的な会話が成立しない。
「いつからデキてたんだ?俺が仕事で死にかけてるあいだずっと浮気してたのか?何も知らない俺をベッドの中で嗤ってたのか?俺に内緒で、ずっとだまして、ずっとずっとずっと……」
完全に俺と妻の仲を誤解した男が勝手に妄想を暴走させ支離滅裂な戯言を述べ立てるのをうんざりと眺める。だが次に発した一言が、俺の理性を蹴っ飛ばす。
「美奈もそいつの子なんだろ!」
「……言っていいこととわりーことがあるぜ」
妻の不貞を疑うだけじゃ飽き足らず、自分の子供まで貶める発言をした男へと一歩詰め寄る。
男は既に自棄気味で、卑屈な笑みを顔一杯に貼り付け、手足をめちゃくちゃに振り回し唾とばし喚き立てる。
「どうもおかしいとおもってたんだ、ちっとも俺に懐かない、いやな目で睨んでくる。俺の子じゃない?どうりでかわいくないわけか、今までそうとは知らず他の男のガキを金かけて育てさせられてたって訳かははっ!だけど離婚はしないぞ絶対に、自分の種でもない子供のために高い養育費払い続けるなんて冗談じゃ……」
きゃあっ、と黄色い悲鳴が上がる。上げたのは傍らの痣まみれの女じゃない、最前列でスマホを構えてた茶髪の女子高生だ。高笑いしながら得々と喚いていた男のベルトが突如として引き抜かれズボンがずりおちる、
「やだっ何脱いでんの変態?」
「露出狂じゃない?」
「やだーキモい」
「だれかおまわりさんよんできたら」
「ていうか白ブリーフって笑えるし」
公衆の面前で下半身パンツ一丁の醜態をさらした男が笑顔のまま固まる、女子高生ははしゃいだ嬌声を上げ変態下半身露出男の股間のもっこりを撮り続ける。SNSで拡散炎上しないよう祈るばかりだ。
「クソ野郎、ぶっ殺してやる!!」
パンツ一丁の下半身と俺の手の中のベルトを結び付けまっしぐらに突っ込んでくる男。即座にベルトを投げ捨て女を突き飛ばす、最前列の女子高生がスマホを落とし寸手で女を抱きとめる。よくできました。
振り抜きが甘い。一発目は見切って余裕で躱す。だてにそこそこ修羅場は踏んでない。パンツ一丁の男がいきりたって襲ってくるのはシュールを通り越しなかなか笑える光景だが、今まさに襲われてる当人としちゃ笑ってばかりもいられない。野次馬が悲鳴を上げる。顔を右に傾けて拳を躱す。
「どうした腰抜け、やり返してみろ!びびってんのか!」
空振りが続いた男はますます火に油で激昂、嫁の間男と誤解した俺に調子に乗って罵倒を浴びせる。
―「羽生さん!」―
その声は構内の喧騒を貫いて、不思議とまっすぐに耳に響く。
わざわざ伸び上がり野次馬の頭越しに視認しなくてもわかる、玉城だ。繋ぎっぱなしにした携帯を頼りに駆けてきたのだろう、事の一部始終は当然把握済みだ。
「~来るのが遅えんだよ!」
注意が逸れた一瞬の隙を突かれる。横っ面に衝撃が炸裂、体が吹っ飛ぶ。薄情な野次馬どもが悲鳴を上げて避けた床にしたたか叩き付けられる。まともにパンチを食らった。殴られるのは久しぶり、懐かしい痛みだ。頬が熱を持って疼く。口の中が切れて喋りにくい。鉄錆びた血の味が広がっていく。起き上がってすぐに脇腹に衝撃、革靴の爪先が容赦なく抉りこまれる。
「ぐふっ、」
断水時の蛇口のように喉が詰まる。うつ伏せに倒れたところに続けざま蹴りを浴びせられる。腹を庇って身を丸める、肩を腕を背中を腰を尻を足を固い革靴でめちゃくちゃに蹴られる、死ぬかなコレ、ろくでもない走馬灯の中に紛れ込んだムカツク顔、銀縁眼鏡がイヤミなほど似合ういかにもエリートでございって取り澄ました面の男がにこやかに笑ってる。
『その程度ですか?笑えますね』
幻聴か。
上等だ。
「この!死ね!いい気味だ!恥かかせやがって他人のくせに、ひとの女に手を出しやがって」
「もうやめて、ほんとに警察を呼ぶわよ!」
「それにはおよびません」
女の悲鳴。落ち着き払った玉城の制止。ぱたぱたと軽い足音。
「スリッパのおじちゃんいじめちゃだめ!」
「みーちゃんだめっ!」
野次馬の足元からとびだしたみーちゃんが、よりにもよってぼろ雑巾の如くくたばっった俺のもとへ駆け寄ってくる。漸く娘と再会できた喜びも棚上げに、修羅場の真っ最中で取り乱した母親が凄い勢いで這いずって娘を押し倒す。案の定それを見て攻撃の矛先が転じる。凶暴性を露わにした男が必死の形相の女を力ずくで引っぺがしみーちゃんをひったくろうとする。
「全部お前のせいだ!」
男の腕が力強く振り上げられ、咄嗟に子供を抱き締めた女がぎゅっと目を瞑る。
燃えるような激痛に苛まれ指一本動かすのはおろか瞬きするのも億劫だったが、余力を振り絞って床に落ちたベルトを鋭く撓らせ投擲。狙い違わず鎌首もたげたベルトは男の足に絡んで縺れさせ、振り上げられた拳の軌道がブレる。
そして。
「断じて違います。あなたのせいですよ」
母娘の背後から進み出た玉城がサッと両者のあいだに割り込んで、男の胸ぐらに手をかけ、その体を背中にのっける。
それなりに上背も体重もある男の身体が、むしろ華奢ともいえる玉城の背を軸に弧を描く。
コマ落としの如く綺麗な一本背負い。
俺が玉城に惚れてたらもっぺん惚れ直しちまうところだったが、元々印象最悪だったのでほんの一瞬目を奪われるだけですんだ。
一連の騒動で人だかりを増した野次馬からわっと拍手喝采が湧く。
ネクタイを締め直し几帳面に襟元を正す刑事さんを、床に這いずったまま呆れて見上げる。
「……お見事」
「どういたしまして。ナイスアシストでしたよ」
二人のコラボレーションですね、といけしゃあしゃあ付け加える。まったくいい性格をしてやがる。
高揚感に包まれ野次馬が見守る中、玉城はあざやかに踵を返すと、一本背負いをキメられ軽い脳震盪を起こした男へと物柔らかな口調で告げる。
「さて、一部始終をこの目で見届けました。傷害と恐喝の現行犯として署にご同行願いましょうか」
「な、なんで俺が。コイツが俺の妻と浮気して」
「証拠は?」
「コイツが今ここにいるのが証拠だ!」
「なるほど。仮に彼が人妻に手を出す手癖の悪い節操なしだとして、刑法では浮気は裁けません。民事でもむずかしいかと。対するあなたは?無抵抗の人間に殴る蹴るの現場をここにいる全員が目撃してます、翻しここにいる全員が証人です。言い逃れの余地があるとでも?」
「ぐっ……」
コイツを殴り倒すのは簡単だった。でもそうしなかった。衆人環視の中、無抵抗の人間を一方的に殴り倒した事実が欲しかったから。慣例としてDVはじめ家庭の問題に首を突っ込むのに消極的な警察も、駅という公共の空間において、白昼堂々他人に暴行を働くパンツ一丁の不審者がいたら署に強制連行しないわけにいかない。
「被害届だします?」
「ああ」
計算通りだ。俺が出す被害届がコイツの抑止力になる。警察の世話になるのは業腹だが、この際わがままは言ってられない。事前に連絡していたのだろう、最寄りの交番の巡査が二人やってきてすっかりしょげ返った男を引っ立てて行く。
立ち去り際、抱き合い蹲った妻子に未練たらし一瞥くれるが相手はもう目を合わせようともしない。自業自得だ。
交代の巡査に現場報告と引き継ぎを済ませた玉城が戻ってきて、未だ腰が抜けて蹲ったままの女に優しく声をかける。
「詳しい事情を聴きたいのであなたもご同行お願いできますか」
「……はい」
「DVにお困りなら生活安全課の専門家にご相談をお勧めします、家庭の問題に強い弁護士を紹介してくれますよ。離婚をご希望なら今回の一件が有利に働くでしょうね」
そう言って背広の胸ポケットから出した名刺を渡す。如才なく警察手帳をチラつかせるのも忘れずに、だ。玉城が後処理を負ったなら安泰だ。コイツは変態だが仕事はキチッとこなす。
腫れた横顔に視線を感じる。みーちゃんを抱き締めた女がおずおずと俺を見上げ、会釈する。
「あの……ありがとうございます」
「別に」
「治療費はお支払いしますので……お名前とご住所をお聞きしても」
「ンなのどうでもいいから」
用は済んだ。みーちゃんは無事母親と再会でき、父親はお縄になった。めでたしめでたし大団円。顔を見合わせ再会を喜び合う母と娘。ケチな小悪党はさっさと退場するに限る。
みーちゃんはもう怖い思いをしなくてすむ。母親は旦那の拳に怯えず安眠できる。
いいじゃないか、それで。上出来の成果だ。
「ん」
ズボンの裾を引っ張られ視線を落とす。みーちゃんがいた。
「たすけてくれてありがと。スリッパのおじちゃん」
「……あー。うん。まあ、な」
「みーちゃんね、おかーさんもね、もうだいじょうぶになったよ。おじちゃんはだいじょうぶ?」
正直大丈夫じゃない。体中が痛い。関節が軋んで悲鳴を上げる。蹴られた脇腹と肩と腰と尻と殴られた顔が激痛を訴えて、壁に凭れて辛うじて立ってる状態だ。どうやら俺を心配してくれてるらしい小さい女の子に、何て切り返したらよいものか答えあぐねて視線を泳がせ……
なれなれしく肩に手がのる。玉城だ。
「大丈夫ですよ。私がおりますので」
ちっとも大丈夫じゃねえよこの野郎。
喉元までこみ上げた罵倒をぐっと嚥下、肩におかれた手を振り払って歩き出す。目指す先は漸く落ち着きを取り戻したみーちゃんの母親。
「これ返す」
尻ポケットに手を突っ込み、丁寧に折り畳んだ紙きれを母親に手渡す。離婚届だ。
「今度はなくさねーようにしろよ」
あっけにとられこくんと頷く母親に背を向けて、今度こそ潔く消えようとしたが、みーちゃんがそれを許してくれない。足早に雑踏に紛れる俺の背に追いすがり、行き交う通行人がおもわず二度見する大声を張り上げる。
「スリッパのおじちゃん、またねー!」
……みーちゃんの中じゃすっかりスリッパのおじちゃんで定着しちまったみてーだ。本業を明かす訳にゃいかねーからそれでいいか。どうせこれっきりだ。
振り向かずに立ち去れたら恰好よかったが、誘惑に負けて一度だけチラッと振り返ったら、両手をぶん回して全身でバイバイするみーちゃんと深々と頭を下げる母親がいた。どちらの顔にも乾いた涙の跡があったが、並んで俺を見送る顔には吹っ切れた清々しさこそあれ、涙は一粒も見当たらなかった。
あの二人なら大丈夫だろう、きっと。
[newpage]
隣に硬質な靴音が並ぶ。わざわざ見なくてもわかる、駅構内を雑踏に乗じて並んで歩くのは俺の疫病神だ。
「手を振り返してあげないんですか?」
「そんなサービス精神持ち合わせてねーよ」
「こっぴどくやられましたねえ。目のとこ黒くなってますよ」
「るっせえ。付き纏うな」
「用が済んだ途端これですか。本当ツレないですね」
「お前といるとろくなことにならねえ。今日だって」
「今日はあなたが持ちこんだんでしょうに」
……ぐうのねもでねえ。
「これからどうします?」
「家に帰って寝る」
「医者に行かないんですか」
「めんどくせー。騒ぎ立てるような怪我じゃねーよ、唾つけときゃ治る」
「なるほど」
つと腕を引かれる。乱暴に振りほどかなかった理由は単純、痛いから。ただそれだけだ。
玉城に軽く肘を引っ張られ、大判のポスターを貼った人けのない柱の陰に連れ込まれる。
「なにす」
顔の横に手をつかれ柱におさえつけられる。薄く汗ばんだ鼻の頭がぶつかりあう距離に端正な顔が迫り、心臓がひとつ跳ねる。身もがいて抜け出すより早く、口をこじ開けてぬるつく舌が忍びこむ。切れた口の粘膜を舌の先端が好奇心逞しくまさぐる、傷に唾液がしみて痺れるような疼痛が走る、柱に背中がぶつかる、口を口で塞がれ息ができず酸欠の苦しみに喘ぐ。
「-かはっ、やめ、んっふぐ!」
人に見られたらどうする?真っ昼間っからサカってる二丁目のゲイカップルと誤解される?のしかかる玉城をひっぺがそうと必死に身をよじりギブアップを訴えるよう肩を叩く、生理的な涙が目に滲んで視界が淡くぼやける、ポスターの下品な原色と目の端を通り過ぎる雑踏の色とがぐちゃぐちゃに混ざり合って撹拌されて酸欠の苦しみと相乗して頭がボーッとする。
「はっ……」
肩を叩く拳から力が抜けてしおたれる。ディープキスはした事もされた事もある。当然女にだ。男は勝手が違う。
羽生が俺の口の中に溜まっていた血を唾液と一緒に吸いだす。
透明な糸を引いて唇が離れ、柱に背中を凭せたまま腰砕けにずりおちる。
「消毒です」
これ見よがしに取り出したハンカチを開き、薄く血の滲んだ唾を吐きだす。
俺の唾は汚くて呑み込めねえってか。……いや、そうじゃない。そうじゃねーだろ。何か言い返したいが頭が朦朧として働かない。相変わらず体は痛い、二本の足で立ってるのも辛い状態だ。
膝から崩れて今にも倒れ込みそうな俺をサディスティックに眺め、玉城がニヒルな笑みを刻む。
「煙草くさいですよ」
「お前はレモン味だ」
「さっきまで飴をなめてましたので」
「みーちゃんにあげた飴か」
「悪くない後味でしょう」
「あまったりぃのはお断りだ」
今度という今度こそ玉城を振り払い、無造作に顎を拭いがてら鞭打って歩きだせば、ひとの神経を逆なでする呑気な声が背中におっかぶさる。
「みーちゃんがあなたに懐いた理由知りたいですか?」
少し行きかけて振り返る。
何の皮肉か痴漢撲滅を訴える大判ポスターを背に佇んだ玉城が、自分の目尻に人さし指を添えてあっさり種をあかす。
「羽生さんが大好きな戦隊ヒーローのイエローに似てたからそうですよ。特にその泣きぼくろが」
そういえば、みーちゃんのスカジャンには日曜朝に放送してる戦隊ヒーローの肖像がプリントされていた。たいして気にも留めなかったが……
「この人なら絶対助けてくれると思ったんでしょうね」
「強くてカッコイイみんなの憧れのヒーローってか。お生憎さまだな」
現実の俺はケチなスリ師だ。
玉城におさえこまれて手も足もでない、おちょくられてもやられっぱなしの情けない男。子供に人気のヒーローにゃ縁遠い。
唇をひん曲げて自嘲する俺へと、ポケットに手をさしこんだ玉城が何かを放り投げる。
「イエローならお笑い担当の三枚目でしょう」
玉城のコントロールは正確だ。
綺麗な放物線を描いたそれを反射的に手を伸ばしてキャッチすれば……
飴玉。
「ご褒美です」
「飴ちゃん一個が」
「不服なら口移しであげましょうか」
「断る。言ったろ、あまったりぃのは嫌いだって」
「喉に詰まらされても困りますからね」
なんとなく、どちらからともなく笑い合う。
今日はさんざんな一日だ。こうるさい迷子に振り回されて天敵におちょくられて殴る蹴るボロボロにされて、なのに妙に痛快だ。なるほど、俺の働きには飴玉一個分がお似合いかもしれない。その場で包装紙を開いて口にほうりこんだら、さっきの玉城の唇と同じほんのり甘酸っぱいレモンの味がして、ピリッと傷にしみた。
「羽生さん」
「んだよ」
顔をしかめて痛みをやりすごし、ガマンして飴玉をなめる。
雑踏を遮るように立ち止まった玉城が、コイツには珍しいはにかむような笑いを浮かべ、自分の手柄を自慢するように内緒めかして告げる。
「私ね、貴方のそういうところ、結構本気で好きですよ」
俺が飴を喉に詰まらせたのは言うまでもない。
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