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メフィストフェレスの心中 前
『11月19日未明、東京都内世田谷区のマンションにてピアニストの時任彼方さん(29)が死体で発見された。
発見者は時任さんの知人の女性。時任さんと連絡がとれないのを不審に思いマンションを訪れ、浴槽に上半身を入れて死亡している時任さんを発見した模様。
検死の結果、時任さんの死因は睡眠薬の過剰摂取による自殺と判明。
時任彼方さんは国際的な指揮者時任翔一さんとその妻・深雪さんの長男であり、幼少時より数々の権威あるコンクールで入賞をはたしてきた天才ピアニストだった。
大学卒業後は世界を股にかけコンサートを行っていたが数日前に帰国、自宅マンションで自殺を図ったものと思われる。
音楽界のメフィストフェレスと呼ばれた時代の寵児。
彼を死に追い込んだのは凡人が与り知らぬ天才故の悩みだろうか。時任さんの自宅マンション前には献花が絶えず、彼を起用した広告を見てあまりに早すぎる訃報を悼むファンが続出した』
時任彼方が死んだ。
殺したのは、俺だ。
時任のマンションを訪れたのはアイツの死から一か月が経過し、世間がようやく落ち着きを取り戻し始めた頃だ。
連日メディアを賑わせた報道も徐々に沈静化し、誰かが誰かを殺し、誰かと誰かが破局した話題へと移り変わった。ショッキングで殺伐としたニュースが氾濫し、娯楽として日々消費される世の中では、彼方の死も過去形で処理されるのだ。
アイツの自殺以降マンション前に手向けられていた大量の花束も撤去され、エントランスは閑散としている。
金持ち向けの高級マンションだけあってセキュリティは厳重、身元の怪しい不審者は通れまい。
『どなたですか』
「先日お電話した時任彼方の友人の斑鳩遥です。時任の両親からも連絡が行ってると思いますが」
『少々お待ちください。身分証はございますか』
ドアの横手のパネルを操作し、四角い液晶に免許証を掲げてみせる。
『失礼いたしました、斑鳩遥さんでお間違いありませんね。時任さんのお部屋は11階です』
「ご丁寧にどうも」
管理人がロック解除、自動ドアがスムーズに開く。玄関を抜けると広大なロビーが迎える。落ち着いた臙脂色のソファーに観葉植物の鉢植え、奥にはエレベーターが四基並んでいる。
前に来た時と何も変わってない。
奇妙な既視感に囚われながら歩きだす。磨き抜かれた床と天井、吹き抜けの空間に硬質な靴音が響く。
振り返りしな化粧煉瓦の花壇を巡らすエントランスを確かめ、マスコミの姿がないのに安堵する。アイツとの関係を詮索されるのはごめんこうむりたい。
あなたが斑鳩さんですか?
誰ですかあなた。
申し遅れました、私こういう者です。知りませんか週刊✕✕。突然すいませんね、待ち伏せみたいなまねをして。斑鳩さん、あなたあの時任さんと随分親しかったみたいじゃないですか。
大学を卒業してからはたまにしか会ってません、今じゃお互い多忙で疎遠です……いえ、でした。
わざわざ過去形に直すなんて律義な人ですね。しかしおかしいな、関係者の話じゃ親友だったって話ですが。学生時代は常に一緒にいたんでしょ、キャンバスを連れ立って歩く姿が目撃されてますよ。
故人に対して冷たい言い方かもしれませんが、アイツとはただの腐れ縁です。実際大学出てからは年単位で会ってませんし、たまにメールをやりとりする位ですよ。
へえ、どんなメールを?保存してますか、見せてくださいよ。
プライバシーの侵害って概念をご存知ですか。個人情報にうるさい世の中で些か無神経すぎるのでは?
これは手厳しい。
迷惑です。帰ってください。
いいじゃないですか、あなただけが知ってる悲劇のピアニストの素顔を教えてくださいよ。
何でアイツの死が悲劇扱いされるのか理解に苦しみますね、勝手に死んだのに。
自殺は負け犬の選択だとおっしゃる?
誤解なさらぬように、自殺や安楽死は個人の権利の範疇と思いますよ、俺はね。自分で死のうと決めて死んだだけなんだから、その動機を世間が云々憶測するのは不毛と言いたいだけです。あなたにもわかりやすく言うと、実にくだらない。何故死のうとしたのか、本人にだってわからない場合もあるのに。
時任さんは希死観念に取り憑かれていたんでしょうか。ネットの履歴では国内では認められてない薬剤を購入していましたが……。
ピアニストは才能が物をいう世界ですから、俺みたいな凡人には与り知らぬ悩みがあったのかもしれませんね。
スランプに苦しんでたとか?その手の相談を受けたことは?
プロがアマチュアに助言を乞うんですか、面白い冗談だ。
そう卑下するもんでもありません、素人だからこそ別角度の示唆がもらえるかもしれないでしょ。
仮にスランプで悩んでたってアイツは独りで解決しますよ、ずっとそうだったんだから。俺個人としてはスランプに陥った時任なんて想像できませんがね。蝶は誰に教わらなくても飛べる、機能に問題なければ足を備えた人間の大半は歩ける、それと同じです。時任彼方であるというだけで天才としての絶対性が確立してるんです、演奏を聞いたならわかるでしょ。
解せませんな……私みたいなケチな記者から見ると、時任彼方にとって自殺は最も縁遠い所業に思える。世間の時任像と事件の本質が結び付かないんですよ。だからみんな躍起になって真実を知りたがる。自殺ってのは精神的肉体的に極限ぎりぎりまで追い込まれた人間がやるもんでしょ、順風満帆の時任さんにそこまで思い詰めるような悩みなんてありますか。一年先までびっしりコンサート予定が詰まってたのに……世界中で脚光を浴び、人が集まるのに比例して、私生活は荒んでいったようですがね。天才の宿命ってヤツですか。
アイツが自殺しても俺の日常には影響ありませんよ、うるさい記者に付き纏われる以外はね。
斑鳩さんはドライな方ですねえ。最近は離れてたとはいえ、大学からの友達が死んだんでしょ?さすがに薄情じゃありませんか。自分で死んだんだから同情に及ばないってのは否定しませんが、裏を返せばそれ以外考えられないほど追い込まれてた証でしょ。私は時任さんが自ら死を選んだ理由が知りたいんです。仕事は順調で世界中にファンがいる、おまけにルックスも上々ときちゃ女がほうっておかない。まあ、本人はなかなか奔放な性関係を結んでましたがね……異性同性問わず。
関係ありません。興味もない。干渉しないでほしい。
数日前、仕事帰りの不愉快なやりとりを思い出して顔が歪む。どうにか巻いて帰宅したが、執拗な取材に辟易した。
「……死んだあとまでどれだけ迷惑かければ気が済むんだ」
思えば大学時代から時任はトラブルメイカーだった。初めて会った時からそうだ。
エレベーターに乗り込んで11階のボタンを押す。点灯したボタンを見上げ、上昇感覚に身を委ねる。
時任彼方との出会いは大学1年の時。
「ねえ、うちの大学に時任彼方がいるんだって」
「誰それ」
「うそっ知らないの、ピアニストの時任彼方」
「親も有名な音楽家だとかでメディア露出も多いよね」
「芸能人ばりの美形だよ」
「子供の頃から国内外のすごい賞総ナメにしてるんだって」
「なんで音大行かないの、ウチフツーの大学だよ」
「そんなの本人に聞いてみなきゃわかんないよ、天才だから私たちとは考えること違うんじゃない?」
アイツと出会ったのは心理学の講義中の階段教室。たまたま隣に座ったのが彼方だった。
「ここいいか」
「どうぞ」
涼しげなテノールに目も向けずノートの整理を続ける。
隣からまたしても声がする。
「熱心だな、まだ始まってもないのに」
「前回の要点をさらってるだけだ」
興味津々、俺の手元を覗き込む。そこで初めて隣に目を向け、少し驚く。時任彼方の顔と名前はいやでも知っている、学内一の有名人だ。
音楽家の家系に生まれ、幼少時からピアニストとして活躍し、何故か音大を蹴って普通の大学に進んだ変人。
おまけに本人も彫り深い美形、言動は掴み所なくエキセントリックときて、話題性には事欠かない。時任に近付くのが目的で同じ講義を選び、隣に座りたがる女子もいるらしい。
そんな彼が珍しく一人でいる。俺はノートをとる手をとめ、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あとから誰かくるのか?」
「誰が?」
「……友達とか」
「取り巻きって言いたそうな顔だな」
時任が意味深にほくそえむ。そんな表情は本当に悪魔的だ。メフィストフェレスが受肉したらきっとこんな感じのはず。
「わかってるならいい。真面目に講義を受けたいんだ、邪魔しないでくれたら文句はないよ」
誰もが時任の隣に座りたがる。ただし俺は別として。コイツは常に場の中心で人に囲まれている。俺はなるべく一人でいたい。
学内に友人がいない訳ではないが、大勢で騒ぐのはどうも性に合わない。
それなりにソツなくやれている自負こそあれ、一人で本でも読んでるほうが余程気持ちが安らぐ。
初対面でギスギスしてしまった。時任に対しては良い印象をもってないが、だからといって皮肉ってどうする。
たまにキャンパスで見かける時任は男女問わず大勢を侍らし、ともすると自分の分のコーヒーまでファンに貢がせ、その姿は時として傲慢に映った。
否、貢がせるというと語弊がある。
実際はファンの女学生自ら、時任の関心を買いたいが為に献上したのだ。
女子大生が自腹を切った缶コーヒーを時任は至極当たり前のように受け取って、プルトップを引いて飲み終えた後、空き缶になったそれをわざわざ彼女の手に戻す。
女子大生は待ってましたと缶を逆さにし、底からたれた一滴をもったいなさそうに啜るや、間接キスゲットだと友達とじゃれあい騒ぎ立てる。
コイツの周りはそんな人間ばかりだった。
取り巻きが自分の挙動に一喜一憂するのを、時任は死にぞこないの蝉でも見るみたいな酷薄な笑みで眺めていた。
俺のように内省を好む人間からすれば、あまり近付きたくない人種だ。
「特技は人間観察。あたり?」
突然の指摘に怪訝な顔をする。
こちらに身を乗り出して時任が悪戯っぽく微笑む。
「よく俺を見ているだろう」
「自意識過剰だな」
「昨日目が合ったぞ」
「自販機の前に立っていてコーヒーが買えなかったのなら覚えているが」
「後出しはよくないぞ、一声かければすぐどいたのに」
「盛り上がっていたからな。邪魔したくなかった」
さわりたくなかった、というのが正直な所だ。
「自分を殺して空気を読むのが好きなのか。マゾか」
「内輪の空気を壊すのに快感を覚える趣味はないんでな」
「同調圧力に屈する日本人」
「好きに言え」
時任は万事この調子だ。ほぼ初対面の俺にもまるで遠慮なく話しかけてくる。
「神経質な字だな」
「邪魔するならよそへいけ」
「前回の講義出てないんだ、見せてくれ」
「もっと読みやすいノートをとってるヤツに頼んだらどうだ、みんな喜んで貸したがるんじゃないか。サインを入れてやればいい」
意趣返しにやりこめれば、時任が愉快そうに頬杖を付く。
「さっきから落ち着かないな」
「気のせいじゃないか」
「パーソナルスペースが極端に広いとか」
「殆ど初対面の他人とおしゃべりを楽しめるほど社交的じゃないだけさ。相手が有名人でもな」
時任が軽く頷いて受け流し、俺の手元のルーズリーフを素早く没収する。
「何」
「クイズをだしてやる」
「付き合いきれない」
「まあ待てって、俺の暇潰しに貢献したらいいことあるぞきっと」
あきれて移動しかけたら、申し分なく長い脚で通せんぼされる。
時任は威風堂々大胆不敵に、俺のパーソナルスペースを犯す。
シャーペンで何かを書き付けたルーズリーフを再び放ってよこす。反射的に受け止めれば、手書きの五線譜に音符が踊っていた。
「なんだこれ」
「俺の一番好きな曲。何だかあててみろ」
「ピアノもないのにどうやって」
「頭の中で弾け」
「無茶いうな、ピアノなんかさわったこともないのに」
「学校の音楽室にあったろ」
「誰も彼もお前みたいに頭の中に音楽が流れてるわけじゃない」
憮然と否定すれば、時任は喉の奥でおかしそうに笑ってだらけた頬杖を付く。
「凡人の証明だな。可哀想に」
「そっちこそ、素人相手に知識をひけらかして楽しいか」
「楽しいね、お前の怒る顔を見れただけで得をした。昨日はすぐに目をそらされたが、今日はちゃんとこっちを見てる。あんなに近くにいたのにキレイに無視して、眼鏡の度があってないんじゃないか心配したんだぞ」
「手のこんだ嫌がらせだな」
コイツと話してると疲れる。不快感と綯い交ぜの苛立ち。
キャンパスで見かけたことはあれど、まともに話すのは今日が初めてというのに、時任はとてもなれなれしくて距離の取り方がわからない。
指に挟んだシャーペンを器用に回しながら、時任が微笑む。
「名前を聞いていいか?」
「……イカルガヨウ」
「まさか本名?」
「ペンネームなんてないからな」
「出身は奈良か」
「ご名答」
断る理由を考えるのが億劫で正直に答えたら、時任は舌の上で俺の名前を転がしてさらに聞く。
「なんて字を書く」
仕方なくルーズリーフの下端に「斑鳩遥」と記す。
「遥でヨウって読ませるのか、面白いな」
「逍遥って言葉を知らないか?あちこちをぶらぶら歩くことだ」
「漠然として掴み所がないな、徘徊とどうちがうんだ」
「語感だろ。お前こそ本名か」
「覚えやすくていい名前だろ、上と下好きな方で呼んでいいぞ」
「席を移ってくれないか時任」
「断る」
反対側の列を指さし、できるだけ穏便に促すも、素晴らしい笑顔で即却下される。
「よろしくな|遥《はるか》」
「名前……」
「字は間違ってないだろ?こっちのほうが呼びやすいし響きが好きだ」
「現役ピアニストは音の好みがうるさいな」
それが時任彼方とのファーストコンタクトだった。
結局俺たちは二人並んで講義を受けた。
彼方は途中で飽きたのか、だらしなく頬杖を付いて俺の横顔をニヤニヤ眺めはじめ、集中力を欠いた俺はといえば、その日の内容がちっとも頭に入ってこなかった。
エレベーターがベルの音をたてて停止、静かにドアが開く。11階に到着、ドアを開ける。
時任の実家は裕福だ。このフロアはピアノの練習用と居住用を兼ねている。時任の両親から預かった合鍵を使ってドアを開け、室内へ入る。
玄関は薄暗くがらんとしている。インテリアは全て持ち出されたあとだ。時任の遺族はまだこの部屋を引き払ってない。
理由は明白、「アレ」があるからだ。
モルグのようにひんやりした空気が漂っているのは、ここが一種の保管庫だからだろうか。
時任の部屋は洋式だから、玄関で靴を脱ぐ必要がない。土足でフローリングを踏んでリビングへ抜けると、巨大なグランドピアノが中心に鎮座している。
黒い光沢帯びた荘厳なフォルム。持ち主が世を去っても変わらずそこに在る存在感。
「久しぶり」
なんとなくピアノに声をかける。
無機物と久闊を叙するなんて、意図せず感傷的になっているのだろうか。
事前の想像に反し、床には鑑識の検証を示す白線が引かれてない。
推理小説の読みすぎを恥じたものの、考えてみれば当たり前だ。時任はバスルームで死んだのだ。もしこれが殺人事件なら、ピアノから犯人の指紋が検出されるかもしれない。そうすれば時任の自殺に寄せる大衆の関心も、もう少し長持ちしたかもしれない。
不特定多数の恋人を部屋に上げ、倒錯したセックスに溺れた時任。
ピアノの上で抱かれた話を聞かされた時はどんな顔をすべきか迷ったものだ。アイツは俺をからかって反応を見るのを楽しんでいた。
結論から言うと、時任はとんでもない性悪だった。
あの日から時任はなにかと俺に付き纏い、ちょっかいをかけるようになった。
教室でも食堂でも図書館でも、アイツは俺の隣に座る。こっちが無視しようがまるで気にせず、嫌味も受け流して追ってくる。
「何がしたいんだお前は」
「友達になりたい、なんてこっぱずかしいセリフを言わせたいのか」
「俺と?友達に?利益がないだろ」
「利益の有無で友達を選ぶのか?変わってるな遥は」
「お前のまわりにいる連中にならったまでさ」
「アレは友達じゃない」
「じゃあなんだ」
「俺のファンかな。彼らは好きで尽くしてくれるんだ、期待を裏切る振る舞いはできないだろ」
「女の子に缶コーヒーを買わせて、挙句捨てに行かせた男が偉そうに」
「喉が渇いたって呟いたら拡大解釈されたのさ」
時任は万事この調子だ。話していると徒労感が募り行く。
一体俺の何がそこまで気に入ったのか皆目不明だ。
内心辟易していた。時任が俺に構いだしたせいで、ほっとかれたファンの僻みの矛先がこちらに向く。時任のファンは大学で一派閥を形成しており、男女とりまぜて数十人いたからとても困った。
最初はささいなことだった。
すれ違いざまわざと肩をあてられたり足をひっかけられる程度なら可愛いもので、ゼミの連絡網で俺だけ抜かされることもあった。
「どうしたんだその染み」
「コーヒーを零した」
「なんだ、案外間抜けだな」
時任は人の気も知らず笑い、濡らしたハンカチでシャツの裾を染み抜きしながら、俺はますます不機嫌になる。
俺の服にコーヒーをかけたのは、時任が以前遊んで捨てた女の子だったが、恨み言をいうのはやめにした。自分が惨めになるだけだ。
「見せてみろ」
時任が俺のシャツを掴んでじっくり見る。長い睫毛に沈んだ双眸は神秘的な灰色。確か北欧系のクォーターだと聞いた。白皙の肌と均整とれた長身はどこにいても目を引く。
モノトーンを基調にしたファッションは洗練され、モデルのような雰囲気を纏っていた。
だがなにより印象的なのは、手だ。
先入観に縛られがちだが、ピアニストの手は華奢ではない。毎日固い鍵盤を叩いてるのだから、どうしたって太く固くなる。
現に俺のシャツを掴む手は長く節くれて、逞しい靭やかさを備えていた。
努力なんてしたことなさそうなノーブルな美貌を裏切り、日々の研鑽の成果とプライドで鎧われた手。指先に冠した爪のカタチすら端正で、鍵盤を傷付けないように切り整えられている。
「この程度気にするな、斬新な模様と思えばなかなかイケる」
「参考にならないアドバイスどうも」
自分でいうのもなんだが、俺は至って地味な容姿だ。
和風の一重瞼に無個性な銀縁眼鏡、170センチの細身ときて、時任と並ぶと引き立て役にしかならない。
俺自身は時任を露骨に迷惑がっていたが、周囲はそうは思わない。人気者を独り占めする勘違い野郎と後ろ指をさされる。
その突出した容姿と才能に皆が熱狂し、誰も彼もが振り向かせたいと執着する時任をひそかに嫌っている事実がばれたら、身の程知らずと罵られ、さらに複雑な立場に追い込まれる。
いずれにせよ、俺の望む平穏な大学生活には終止符が打たれる。
彼方は周囲の反応と俺がおかれた立場を比べ、愉快犯さながら面白がっている節があった。なんとも美しく傍迷惑な疫病神だ。
時任と知り合って3か月後、図書館で勉強しているとアイツがやってきた。
相変わらず許可も得ず隣に座ると、人が借りた本を勝手にめくり始める。
「『近代ジェンダー論』『セクシャルの定義』……レポートに使うのか?」
「個人的な興味だ。心理学のテーマは別」
追い払うのも骨が折れる。時任と話しているだけで周囲の目が痛い。俺の隣の椅子を引いて座る時任とひと睨み、呟く。
「聞いたぞ。心理学の講義とってないんだってな」
「ばれたか」
「なんで専攻してない講義にまぎれこむ」
「別にかまわないだろ。とってない講義も自由に聴けるのが大学のいい所だ」
「暇人だな」
「向学心旺盛と言ってくれ」
「何で音大にいかなかった。ピアノをやってるんだろ」
「お前から俺の事を聞いてくるのは初めてだな」
前々からの疑問をシニカルに口にすれば、時任が何故か嬉しそうに答えをあかす。
「音大で学べるのは技術だけだ。既に完成しているものに雑音を入れたくない」
「自惚れが過ぎる」
あきれた。
この変人は音大で技術を磨くより、普通の大学で見識を広げる選択をしたのだ。
「ピアニストでやってくと決めているのに、それ以外の知識が必要か」
「大学は趣味みたいなものさ、幅広い人脈を培える。音大は音楽以外に無関心な人間が集まる場所だ。そっち方面のコネやツテなら間に合ってるから、ちがう刺激がほしいんだよ。じゃなきゃ面白くない」
時任を見る目が少し変わる。
変人の評価は動かないが、彼は彼なりに志を持って大学に来たのだ。専攻外の講義に出席するのも積極性の表れと評価できなくはない。
「ピアノに操を立ててる訳じゃないんだな」
「古風な言い回しが好きだな遥は」
時任がおどけて肩を竦め、ニヒルな笑みで付け足す。
「ピアニストは世間と寝る。有名になりたいなら営業の才能も求められる。そもそも俺は浮気性だから、ピアノに一途じゃいられない」
続いて時任が向き直り、わずかに身を乗り出す。
「お前、俺の演奏を聞いたことがあるか」
「いや……」
曖昧に濁せば、大袈裟に目を丸くする。僅かな幻滅とそれを上回る痛快さ。
「珍しいな」
「自分で言うなよ。クラシックは嫌いじゃないがテレビは見ないし、最近のヤツには疎いんだ」
「暇なら聞いてみろ、人生観が変わる」
この自信家がキャンバスライフを満喫する傍ら、企業のオファーを受けて様々なイベントに出演しているのは知っている。コンサート活動で忙しい時は平気で何週間も休む。時任が不在の大学は静穏で、俺の心に安らぎをもたらす。
「興味のない人間にまで才能の押し売りはやめてくれ」
眼鏡のブリッジを押さえ、時任のお薦めを丁重に辞退する。
元々親が好きでクラシックのレコードを集めていたせいか、子供の頃からよく聴いていた。が、現代のピアニストには興味がない。自ら調べることなく無関心に徹すれば、意外と情報は入ってこないものだ。いかに時任が有名人といえど、芸能人とは違うのだ。
「執筆中に大変恐縮だが、俺の暇潰しに付き合わないか」
時任の自己本位な誘いに鼻白んで適当にはぐらかす。
「レポートが終わったらな。さがしている本が見付からなくて」
その言葉を待っていたとばかりに、時任が一冊の本を俺の手元に滑らす。
「さがしているのはこれか?」
「どうして……」
「先回りで確保しておいた。少し目を通したが論旨がわかりやすくまとまってていいぞ」
「余計なことを。恩に着せる気か」
「そう噛み付くな」
俺の行動を先読みし、図書館で目的の本を確保する時任の直感力が薄ら寒くなる。あるいは俺以上の的確さで俺の探し物を把握してるのか?
余裕に構える時任に反発を覚え、ちょっとした意趣返しをする。
「前に言ってたクイズの答えがわかったぞ。ベートーヴェンのピアノソナタ第23番、『熱情』の第3楽章だ」
「お見事。簡単すぎたか?その割には時間がかかったが」
時任が情熱のない拍手のまねごとでひやかす。
「ベートーヴェンとは随分スタンダードな」
「いいものはいい、それが世界の本質だ」
飄々と言い放ち、続いて興味深そうにグレイの眼を眇める。
「どうやって調べた?家にピアノがあるのか。実際弾かなけりゃわからないだろうに」
「どうでもいいだろ?くだらない謎かけに付き合ってやったんだ、もうほっといてくれ」
「あててやる。彼女に頼んだな」
図星だ。
「なんで俺が付き合ってるって……」
「一部で噂だ」
時任が喉の奥でおかしそうに笑い、椅子を傾けて乗り出す。ミステリアスな灰色の瞳に、動揺も露わな俺の顔が映り込む。
「遊んでるのはお互い様だろ?付き合ってほしいと言われたら絶対断らない斑鳩遥」
「…………」
「そしてすぐ別れる。何故だ?多少なりとも好意があるからOKしたんじゃないのか」
「付き合ってくれと乞われたから付き合った、それだけだ」
冷たい言い方もしれないが本心だ。俺から望んだことや求めたことは一度もない。相手に告白を受け、交際を望まれたから応じただけだ。いちいち断る理由を考えるのが億劫というのもある。
時任のクイズに正解を出す為、ピアノ経験者の恋人に助力を仰いだことがいまさらながら悔やまれる。
実をいうと、答えならすぐに出ていた。今まで保留で引き延ばしたのは、直後に彼女と別れたからだ。
「クイズの答えを知ったら用済みで放りだす。薄情め」
「悪意がある言い方はよせ、たまたま彼女がピアノをやっていたから弾いてもらっただけだ。別れた理由は関係ない、性格のズレだ」
「本当にそれだけか」
おもむろに手がのびて俺の頬に触れる。
ひんやりした温度に胸が騒ぐ。
「お前は清潔そうな顔をしている。美形じゃないが目鼻立ちも地味に整ってるし、物事に深入りしない淡白さに惹かれる女は多い。そういう種類の女は自分にだけドライじゃない素顔を見せてほしいんであって、期待を裏切り続けたら必然離れていく」
「そうだな、お前の言うとおりだ。男として欠陥があるんだよ、だから誰とも長続きしない。せっかく好意を伝えてくれた相手ともうまくいかない」
これ以上相手をしたくない。時任は俺がひた隠しにしている胸の内を容赦なく暴き立て追い詰めていく。
初めて付き合った高校時代からそうだった。もって数ヶ月、付き合ってはすぐ別れるくり返し。相手に未練はないが、回数を重ねるごとに自分への嫌悪感は募っていく。
時任とは比べるべくもないが、俺の容姿はそこそこ異性に魅力的に映るらしい。集団の中ではソツのない振る舞いを心がけている為、好意を抱く子も多い。俺自身はどうでもいい、興味もない。
時任が素で疑問を述べる。
「なんで好きでもない相手と付き合うんだ、俺なら考えられない」
「好きと言われたらこたえるのが義務のような気がする」
「色恋沙汰において同情は最大の侮辱だぞ」
「お前には一生わからないだろうな」
自由奔放に生きる時任と、惰性で受け身に徹する俺の生き方は永遠に相容れない。求められたら与える、望まれたからこたえる。それはそんなに間違っているのだろうか?
「最初は断っていた。けど勘違いする子は後を絶たない。他に好きな子もいない、付き合ってる相手もいないのに拒否し続けるのはしんどい」
「嘘でも他に好きなヤツがいると言えばいい」
「誰だと詮索されて、はぐらかすのも疲れる」
本当の事を言うと、「好き」という感情がよくわからないのだ。だから偽れない。
そんな俺の葛藤もお見通しみたいに微笑んで、時任が憐れむ。
「不器用なヤツ」
時任の演奏を聴く気になったのは、ほんの出来心だ。
講義が休講になってたまたま時間が空いた。芝生を刈り込んだ中庭、通路の端のベンチに座る。
購買のサンドイッチと野菜ジュースを膝におき、『時任彼方 ピアノ 演奏』とスマホに打ち込み、動画サイトを検索する。瞬く間に何本も動画がヒットした。どれから聞こうか迷ってスクロールしていると、『ベート―ヴェン 熱情』の文字列が目にとびこんでくる。
時任彼方は何を考えているのかわからない。俺にストーカーまがいのまねをする動機も不明だ。
天敵を知るには相手のいちばん好きなものを知るのがてっとりばやい。
スマホにイヤホンをさし先端を耳に嵌め込む。
若干の好奇心と反発から動画をタッチ、演奏を再生する。
ステージ上にはスーツに着替えた時任がいて、優美なフォルムのグランドピアノと向き合っていた。
弾く前から手に視線が吸い寄せられる。
時任の手は女体を愛撫するようにピアノに触れていた。
透徹した静寂を従え、整然と並ぶ黒白の鍵盤を傅かせ、寛いだ表情でピアノを弾きだす時任。
最初の一音で衝撃を受けた。
自分が息を止めているのさえ忘れていた。
クラシックのピアノ曲はそれなりに聞いてきた。現代ピアニストの演奏を聞くのは初めてだ。動画サイトのアーカイブに保管されていた数年前の映像……このとき時任は高校生だ。
天才は実在する。
時任の弾く熱情はエキセントリックで、豊饒な叙情を波打ち広げ、俺の心の奥底に直に響く。
凄まじい演奏だった。ただの音の連なりが、物理的なプレッシャーさえ備えているような錯覚を抱く。ステージ上で孤高の演奏を続ける時任は、完全に他を圧倒していた。会場中が時任に注目し、彼が生み出す美しい旋律に聞き入っている。
音楽界のメフィストフェレス、時任彼方による『熱情』と、動画のキャプションに解説が付されていた。
スマホを支える手と全身から力が抜けていく。脇においたサンドイッチの存在も忘れていた。
世界に俺と音しか存在しないような、時任と俺だけしかいないような……ピアノを介して交感する濃密なひととき。
後ろに気配が忍び寄る。
「何聴いてるんだ」
目尻から一滴こぼれた水を人さし指がすくい、すかさずイヤホンの片方を奪って自分の耳に入れる。
彼方だ。
神出鬼没のメフィストフェレスは、スマホに流れる動画と放心状態から返り咲くのが遅れた俺とを見比べて勝ち誇る。
「泣くほど感動したか」
「人のことを考えてない、独りよがりな演奏だな」
涙を見られた羞恥も手伝い、咄嗟に憎まれ口を叩く。ベンチの背凭れに両手をかけた時任は、自分の片耳にイヤホンをねじこんだまま、からかうような声音で囁く。
「可愛いな、遥は」
腹が立って腰を上げれば、「まあ待て」と腕を掴んで引き戻される。
「どうして俺の演奏を聴いてたんだ。少しは興味がでたのか」
「アレだけうるさく前フリされたらいやでも気になる」
負け惜しみを呟いてサンドイッチのビニールを剥がす。
ようやくイヤホンを抜いた時任が、俺の顔の横で提案する。
「生で聞きたくないか」
不意打ちに手が止まる。すかさず時任が手をのばし、まだ一口しか齧ってないハムサンドをさらっていく。
「おい返せ俺の昼飯」
「鑑賞代だよ、ハムサンド一個で演奏一回なら安いもんだろ」
「聴きたいなんて一言も言ってないぞ、勝手に決めるな」
「動画の再生で満足か?本物はこんな物じゃない」
この程度に思われるのは心外だと、ハムサンドを咀嚼後に嚥下した顔が物語る。
正直、時任の誘いは魅力的だった。本人の言動には興ざめだが、ピアノの腕前は認めざるえない。
心はまだ衝撃冷めやらず余韻に震えている。
俺自身知らなかった、自分の内に在るのも知らなかった熱情を揺り起こすかのような演奏。
あれを生で聴けるなら……
「部屋に来い。お前のために弾いてやる」
魂を質に入れ、取引をもちかけるメフィストフェレス。
時任の部屋に通い始めたのは、詰まるところ誘惑に負けたからだ。
リビングをぬけて時任の死体発見現場となったバスルームに行く。
当然ながら自殺の痕跡は抹消され、バスタブやタイルは乾いている。
白く清潔な空間を見回し、バスタブのふちに腰かける。
時任のマンションで、シャワーを借りた事が一回だけある。
目を閉じて時任の死体発見時の様子と、彼を見かけた女性の反応を想像する。スライドドアを開けてバスルームを覗いた女性はさぞ驚いたに違いない。時任は湯を満たした浴槽に上半身を突っ込み、タイルには瓶と錠剤が転がっていたらしい。
「ピアノに突っ伏して死んでれば劇的だったのにな」
乾いた感慨を抱く。
バスルームを死に場所に選んだ事は少し意外だが、反面アイツらしいと言える。時任はピアノとの心中を是としなかった。
吐瀉物、あるいは血でピアノを汚すのを避けたとは思わない。アイツにそんな繊細さは皆無だ。目撃者が断言する。
時任に誘われ、アイツの自宅マンションを訪れた俺は、その広さに驚いた。
「居住スペース兼ピアノの練習用だ。防音設備は完璧だから多少騒いでも音は漏れない」
「大学から独り暮らしを?」
「実家は神戸だ。帰るのも面倒でな……一人のほうが何かと都合がいい」
「坊ボンなんだな。飯はどうしてる?殆ど外食か」
「まあな」
部屋の主役はピアノだった。居住スペースと分け隔てられたリビングを、グランドピアノが占領している光景はなかなか壮観だった。時任はピアノの演奏と愛人を悦ばす以外でほぼ手を使わない、自炊とも無縁な生活だった。
「お前は?奈良には帰ってるのか」
「いや……あんまり反りが合わないんだ」
時任が先を促すように振り返る。隠し立てることでもないかとため息、プライベートを打ち明ける。
「よくある話だよ。子供の頃に両親が別れてな……親父は再婚している。相手はよくしてくれるが、かえって気詰まりなんだ。親父は親父で負い目があるのか、微妙な距離感ができて居心地が悪い」
子供時代の出来事で覚えているのは、両親に殆ど会話がなかったことだけだ。親は俺に無関心で、いわゆる放任主義だった。彼らの夫婦関係は妥協と不干渉で成り立っていた。馴れ初めは知らないが、お互い好き合って結婚したとは思いにくい。
「ウチの親とは大違いだな。過干渉でまいってる」
「一人息子が心配なんだろ、大目に見てやれ」
この頃には大分時任への警戒心がとけていた。傍迷惑なヤツだが、話してみると意外と物知りで面白い。趣味でかじった心理学にも精通し、一緒にレポートをやると捗った。
「ちょくちょく休んで単位は大丈夫なのか?ただでさえとってもない講義に浮気してるのに」
「おかげ様で要領よくやれてる。落ちても別に問題ないしな」
時任はピアニストとして生きていく将来を決めている。コイツが歩む道には輝かしい栄光が約束されている。本人の言葉通り、大学は本道をそれた趣味でしかない。
時任には何も怖いものがない、少なくとも俺にはそう見えた。コイツは無敵で全能だ。優れた容姿と才能を生まれ持ち、将来の成功が予め約束されている男。対して俺はどうあがいても秀才どまりの凡人、時任の引き立て役にならざるえない。
心理学を学ぶのは子供の頃から苛まれていた周囲との違和感に折り合いを付けるため。卒業後は専攻を生かした職に就きたいと漠然と考えている。
そんな俺の人生は、時任の目にはさぞ退屈に映るだろう。
時任はたびたび俺を部屋に呼び、俺はそれにこたえた。
バイトや先約がある日は別として、時任が俺のためだけに弾くピアノを聞きに行った。誘いを蹴るには時任の演奏は素晴らしすぎた。
ある批評家が言っていた、時任彼方の演奏は聴く麻薬だと。非常に中毒性が高いと。
動画サイトの再生回数は数百万を突破している。現代ピアニストのクラシック曲としては異例だ。
ルックスによるところも大きいが、それ以上にコイツの演奏には人を惹き付ける何かがあった。
その何かの本質を知りたくて。
否、既にしてその何かに取り込まれて、時任の部屋に通い詰めた。
その日はバイトで少し遅くなった。時任にはメールで時刻を伝えてある。彼はドアの鍵を閉めず、俺を通すスタイルだった。
「入るぞ」
こちらもいちいちピンポンは押さない、時任が嫌うからだ。時任の部屋には時任が認めた人間しか入れない。ピンポンを押す行為自体が部外者の表明だ。そもそもマンションのセキュリティが厳重なので、郵便物や宅配便は管理人が預かる規則になっている。
施錠されてないドアを開けて靴のまま上がると、リビングで物音がした。時任と他の誰かの気配……人がいるとは聞いてない。不審におもってドアの嵌め込みガラスを覗き、愕然と立ち竦む。
時任がピアノの前で男に抱かれていた。
「あっ……ふ」
「っ、すごい締まる……気持ちいいか彼方?」
「ああ、あっ、そこ、すごくいい……おかしくなりそうだ」
リビングの中央、グランドピアノ前の椅子に見知らぬ男が座り、上に跨った時任を犯している。時任は切なそうに喘ぎ、身動きのたび背中がピアノの蓋を叩く。男の首に腕を回し、目も虚ろな淫蕩な表情で快楽をねだる。
「こんな姿、ファンやマスコミには見せられない、なっ」
「リベンジポルノはよせよ、炎上する」
「ピアノの上で抱かれるのが好きなのかよ、変態め」
「こっちの方が興奮するだろ」
ピアニストは世間と寝る。時任も例外に漏れず。
初めて目撃する光景にさすがにたじろぐ。時任が性別問わず奔放な性交渉を持っているのは知っていた、大学でも噂になってる。相手は見たことない顔だ。おそらく大学外の恋人……もっと即物的な表現ならセックスフレンドだ。
「あっ、あっ、あァっ」
俺が見たことない顔で時任が喘ぐ、乱れる、俺の知らない男の上で絶頂する。長く逞しい指が宙を泳ぎ、膝までずりおちたズボンが……
見てはいけないものを見てしまった後ろめたさに駆られ、倒錯した痴態から目を背ける。踵を返しかけ、ドアのガラス越しに視線が絡む。
呆けて立ち尽くす俺の視線を絡め取り、時任は淫らに微笑んだ。
確信犯だ。
「誰だ!?」
ガタンと音が鳴る。あとじさった拍子に、横のスリッパ立てに躓いたのだ。
「友達だよ。まざるか」
「時任!」
苛立たしげに声を荒げれば、気まずくなった男が素早く服を身に付けて出て行く。
「またメールするわ」
彼方はだらしなくピアノにもたれたまま男を送り出す。上半身は裸、下半身はジーンズだけだ。開け放たれたドアの向こうで悪びれず待ち受ける悪友に、今度という今度は心底あきれ返る。
「9時には行くってメールしたろ」
「生憎取り込み中でな」
「嘘吐け」
前もってタイミングを調整し、わざと見せたに決まってる。
彼方と見知らぬ男のセックスに巻き込まれた不快感も露わに、床に落ちたワイシャツを投げ付ける。
「露出狂かよ、早く上を着ろ」
言われるがままシャツに腕を通す時任。大股にピアノに歩み寄ると、体液の入り混じった生臭い匂いが鼻を突く。上蓋には白濁が滴っている。
「誰だあれ」
「よく行く店で知り合った。名前は」
「どうでもいい」
「そっちが聞いたくせに」
「人を呼び付けておきながらヤッてるところを見せ付けるって、性倒錯の極みだぞ?お前の人格が破綻してることには初対面で気付いていたが、少しは反省したらどうだ」
「男同士のセックスに初めて立ち会ったにしては冷静だな」
時任の嘲弄に心かき乱れ、毒々しい口調で切り返す。
「女役なのか」
「どっちもイケる。今日はたまたま抱かれたい気分だった」
「ピアノの上で……汚したらどうするんだ」
「こんなのはただの道具だ。大事なのは弾く人間」
反省の素振りなく堂々と開き直り、相棒にするみたいにピアノの蓋を平手で叩く。
説教は時間の無駄だ。
ポケットからティッシュを出し、時任のものだかあの男のものだか、蓋にこぼれた体液を素早く拭いとる。
何故だか俺は時任の行為そのものよりも、ピアノが汚れている事実が我慢ならなかった。
それを冷めた眼差しで見守り、いっそ感心した口ぶりで独りごちる時任。
「本当にピアノ以外興味がないんだな」
ピアノが取り持った腐れ縁。時任は俺のためにピアノを弾き、俺はただそれを聞く。感想を求められれば感じたままを答え、そしてあっさり去っていく。
ティッシュを握り潰してゴミ箱に投げ込み、時任に向き直る。
「なんで見せた」
「どんな顔するか知りたくて」
「羞恥心がないのか?性的嗜好はどうでもいい、男でも女でも好きに遊べばいい、けれど関係ない俺まで巻き込むなよ」
抑えた抗議を平然と聞き流し、服を着た彼方がピアノの蓋を押し上げる。
「機嫌を直せ。聴いてくだろ」
時任は俺の手懐け方を心得ていた。しなやかな両手が鍵盤の上で踊り、室内を演奏が満たし始める。
コイツがどんなに非常識な振る舞いをし、俺の神経をこれでもかと逆なでしたところで、一曲弾き終える頃にはすっかり情緒の安定を取り戻す。自作自演の自傷行為とカウンセリングの悪循環。
時任の情事の現場に居合わせる事はその後もたびたびあった。
相手は女の時もあれば男の時もあった。時任がピアノに手を付かせた女を後ろから犯している所や、ピアノの蓋に乗り上げてフェラチオされている所をさんざん見せ付けられた。
嫌なら帰ればいい、来なければいい。
時任に呼び付けられ、彼のセックスに無理矢理立ち会わされながらも部屋に通うのをやめなかったのは何故なのか。不健全な共依存に陥っていたのか。
リビングのドアを隔てた廊下に立ち尽くし、ピアノの上で男に抱かれ、女を抱く時任を盗み見る。
行為の最中に目が合うたび時任は嫣然と微笑み、指一本動かせずにいる俺を挑発した。
「あっあぁ、彼方ァすごいい、ィくっ」
今日もリビングで時任がセックスに溺れている。
嬌声を上げて悦ぶ女をピアノの蓋に座らせ、鍛え抜いた指の技巧で絶頂へと至らしめる。
息を詰めて気配を殺し、ドアのガラス越しに繰り広げられる、時任と見知らぬ女のセックスを観察する。
なんでここにいるのか。何がしたいのか。わからない、わかりたくない。そんなに時任のピアノが聞きたいのか、まるで麻薬じゃないか。動画では足りない、生で聴きたい。時任の演奏さえ聞けるなら何時間でも待ってやる……
「あぁっ、あ――ッ!」
一際高い声を上げて女が果てる。ぐったりピアノに突っ伏した女を放置し、上半身裸の時任がリビングを出る。
「なんだいたのか」
「よくいう。気付いてたろ」
「さあな」
ペットボトルのミネラルウォーターを呷る。時任の裸には彫刻のような筋肉が映えていた。
「出直した方がいいか。あれじゃ身支度に時間がかかるだろ」
「いや。すぐ追い出す」
一度寝た人間に時任は驚くほど薄情だ。性別問わず不特定多数と関係を持っているが、恋人と呼べる存在は今の所いないらしい。
なんだかひどく所在ない。面白がるような視線を避けて俯き、玄関へと戻りかける。
「やっぱり今日は……」
時任の手が伸びてきた。
「ッ!?」
突然股間をまさぐられる。
「勃ってないな」
「ふざけるな!!」
怒号と共に手をふりほどく。
リビングでばてていた女が「誰かいるの」と気色ばむ。手を引っ込めた時任が笑って謝罪する。
「怒るなよ、あんまり平然としてるから試したくなったんだ」
「覗きで興奮するわけないだろ」
「不能なのか?」
侮辱を受けて耳たぶまで赤くなる。
「お前と別れた女たちが言っていた。大事な時に勃たなかったんだろ」
殴ろうとした。
できなかった。
代わりに屈辱に震える拳を握り込み、怒りに煮え滾る声を絞り出す。
「……ほっといてくれ」
「待てよ」
踵を返して立ち去れば、時任が追ってきて肩を掴む。
「からかったのは謝る。例の噂を聞いて、本当かどうか気になったんだ」
「だったら直接聞けよ、なんでわざわざ見せ付けるようなまねしたんだ。お前が男や女と手あたり次第にしてるところを見て、ちゃんと勃ったら満足なのか」
「気付いてないのか遥」
「何をだよ」
「俺の演奏を聞いてるとき自分がどんな顔してるか」
時任が俺の顔を手挟んで急接近、まっすぐに目をのぞきこむ。
「すごくそそる顔だよ」
壁際に追い詰められる。時任の言葉を理性が拒む。コイツは一体何を言ってるんだ……
人間を堕落へ誘うメフィストフェレスの眼差し。
時任の手をふりほどいて部屋を出る。背後で時任が何か言うが無視をして、ひたすら歩く。
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