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メフィストフェレスの心中 後

俺は時任の部屋に行くのをやめた。 すごくそそる顔だと囁いたアイツの顔が、熱っぽい目が忘れられなくて、再びあの部屋に行くのが躊躇われた。大学でも時任を徹底的に避け、無視をした。時任もさすがに少しは気に病んでいるのか、露骨な不快感を顔に出せば近寄ってこなくなった。 俺が心から望んだ平穏な大学生活が戻ってきた。 中庭のベンチに座り、ハムサンドのビニールを剥がしていると、唐突に声をかけられた。 「すいません、今いいですか」 正面に知らない女学生が立っている。大人しそうなセミロングの美人だ。 「何か用かな」 「斑鳩遥さん、ですよね。彼方と親しい」 「ただの腐れ縁だよ」 また時任のファンかと内心ウンザリする。この手の人種に絡まれるのは慣れていた。中には時任の好みのタイプをさぐってほしいとか、代わりに気持ちを伝えてほしい、返事をもらってほしいと頼みこむ猛者もいる。 「アイツの知り合い?」 「彼女です」 「そうなんだ」 時任の好みからは少し外れてる気もしたがどうでもいい。 「あの……最近彼方の様子がおかしいのって、やっぱりあなたが原因なんですか」 女学生の目がにわかに険を帯びる。 「人聞き悪いな。おかしいって言われても、具体的に説明してもらわなきゃ答えようないよ」 「なんだか上の空っていうか……どこがどうとは言えないけど、あんまり笑わないし。失礼ですけど、あなたが何か彼方を傷付けるようなことしたんじゃないですか」 「憶測で語るのはやめてほしい、どちらかというとこっちが被害者だ。そもそも俺とアイツの間になにがあったって、他人に説明する義務はないね」 一方的に決め付けられて不愉快なので、わざと意地悪に冷笑を浴びせる。 女学生の眉間が皺を刻む。 眇めた目に嫉妬の火花が散るのを見逃さない。面倒だ。 「彼方は繊細なんです、面白半分にプライベートをひっかき回すのはやめてください」 「ご忠告どうも。アイツとは絶交したよ、もう近寄ることはない」 「そうなんですか?だって帰りは一緒で、部屋にも頻繁に上がり込んでるって」 「誰が言ったか知らないけど、アイツとはただの腐れ縁以上でも以下でもない。部屋に通ってたのはピアノめあてだ。クラシックが好きだって言ったら気を利かせて……感謝はしてるけど、そこまでしてもらっても迷惑だ」 「ひどい」 女学生が批判がましい顔をする。 「君の目は節穴だな」 ハムサンドを一口かじって嚥下、嘘偽りない本音を呟く。 「時任彼方ほど厚かましい男は知らないね。俺にかまってたのは悪質な暇潰しだよ、漸くちょっかいかけるのに飽きてくれてせいせいする」 「彼方を悪く言わないで、何も知らないくせに」 「ピアノをどう扱うかは知ってる」 「きっと丁寧に」 「手荒だよ。心がないんだアイツは」 「嘘!」 皮肉に甚く憤慨し、その場を駆け去る女学生を黙って見送る。 時任と俺の関係はとてもこじれていた。傍から見たら歪で不健全だ。 俺は時任の引き立て役で、おまけで、主と従なら従なのに、他の人間には何故か俺が束縛している誤解を受ける。 何故時任が俺なんかにかまうのか、どれだけ考えてもわからない。天才特有の気まぐれに尽きるなら、考えるだけ無駄だ。 時任の部屋に行かなくなってから、俺はずっとアイツの動画を聞いていた。 スマホの動画をくり返し再生し、それに飽き足らず音源をダウンロードし、移動中や休憩中に常に聞いているようになった。 時任の音楽は俺をゆっくり毒していく。 アイツが俺のためだけに弾くピアノを聞きたくて、渇望に似た衝動が沸き上がる。 時任に付き纏われない平和な日々が過ぎ、アイツの不在に物足りなさを覚え始めた頃、俺は自ら時任のマンションに足を向け、入口に佇んでアイツの部屋の窓を見上げるようになった。 ひょっとしたらアイツが弾くピアノの演奏が聞こえてくるんじゃないかと期待して。 しかしどんなにか目を閉じて夜に耳を澄ませても、防音仕様の壁は無慈悲に演奏を遮断する。 時任彼方が嫌いだ。 迷惑だ。 でも、アイツの演奏は嫌いじゃない。 時任の部屋を訪れ、傍らに立って音に身を委ねる時間は、俺にとってかけがえのないものになっていた。 時任のピアノが聞きたい。 もっと欲しい。 麻薬のような中毒性に鼓膜を毒され、やがて精神までも犯される。頭の中じゃ常に時任のピアノが鳴っている、目を閉じても開けても頭の中に演奏が流れ続け、日常に支障をきたす。 アルコールや薬物の禁断症状に似た猛烈な飢餓感に苦しめられ、残響の幻に縋り付く。 俺の精神は、知らないあいだに時任彼方に調教されていた。 もし世界に聞いただけで人を狂わす音楽があるなら、時任彼方の奏でるピアノがそれだ。アイツの演奏は凶器だ。睡眠薬のように処方量を守って摂取しないと身を滅ぼす類の。 「……何をしてるんだか」 寒いのを我慢して部屋を見上げたところで得られる物は何もない。 いい加減帰ろうと身を翻し、向こうからやってくる時任と恋人を見付ける。 その場にしゃがんで花壇に隠れる。 時任が連れているのはあの女学生だ。様子がおかしい。何か口論している。 「……どうして?ここまで来たのに」 「今日は気が乗らないんだ、出直してくれ」 「こないだもそう言ったじゃない。部屋に上げるのは嫌?」 「勘繰るなよ」 時任が面倒くさそうにあしらい、彼女が諦め悪く食い下がる。 「いいでしょ、時任くんのピアノ聞きたいのお願い」 「安売りはしてない」 「付き合ってるんだから変じゃないよね?」 灰色の目の温度が急低下し、ぴたり密着する彼女の肩を軽く押し返す。 「別れるか」 「え?」 半笑いの彼女の口から疑問がもれる。 「誰の為に弾くかは俺が決める。干渉されたくない」 「そんな……あの人には弾いてたじゃない」 「遥に会ったのか」 「あの人言ってたよ、時任くんのピアノめあてで通ってたって……友達なのに酷くない?ねえどうして部屋にいてれくれないの、私たち付き合ってるのに」 時任はウンザリと顔をしかめ彼女の手を振りほどく。力はさほど強くないが、不意を衝かれて尻餅付いた彼女の目が見るまに潤んでいく。ショックを受けた表情。 時任は手を貸しもせず、マンション共用のゴミ捨て場の前にへたりこんだ彼女を無視して入口へ赴く。 「おい」 さすがにどうかと思って腰を浮かす。ゴミ捨て場の不燃物置き場に捨てられた空き瓶を彼女が引っ掴み、地面に叩き付けるのは同時。 「待ってよ!」 鋭い断面をさらす瓶の切っ先を時任に向け、怒鳴る。 「どうして?好きって言ったらOKしてくれたのに」 「誰でもいいからそう言ったんだ」 「何それ……意味わかんない。私の事好きじゃないの?なんとも思ってないの?だから一回も部屋に上げてくんない訳。ずるいじゃないそんなの、あの人の事は何回も上げてピアノまで聴かせてるのに」 「アレは特別だ」 ジーンズのポケットに指をひっかけ、無防備に身をさらした時任が告げる。しらけた表情で、冷たい目で、一方的に最後通牒を突き付ける。 「私は時任くんの何?」 「穴埋めかな」 メフィストフェレスが残忍に微笑む。 夜闇を切り裂く甲高い奇声を上げ、空き瓶を構えた彼女が突っ込んでくる。 時任は動かない。 マンションの入り口を背に悠揚迫らぬ物腰で構え、恋人のヒステリーを観察している。 彼女の切っ先が狙っているのは、時任の手だ。腱が傷付いたらピアニスト生命が終わる。 反射的に身体が動く。 視界の端にチラ付く彼女の驚愕の相と時任の動揺、二人の間に割り込むように手を広げる。 「遥っ!!」 切迫した絶叫が耳を劈く。余裕をかなぐり捨てた声が時任のものだとは、最初気付かなかった。 右手に走る激痛。次いで瞼の裏が真っ赤に染まる。 「痛ッぐ、」 瓶の先端がざっくりてのひらの柔肉を切り付け、アスファルトに真っ赤な血が滴る。 全身の毛穴が開いて噴き出す脂汗とずれた眼鏡、歪んだ視界に棒立ちの人影を捉えて華奢な手を地面に捻じ伏せる。 「きゃあっ」 悲鳴に構わず締め上げる。緩んだ指から瓶がすりぬけ、アスファルトを滑っていく。 「遥、大丈夫か?なんでここに……手を怪我したのか」 「たいした事ない」 「あ……」 「しっかりしろ。聞いてるか」 血を見て正気に戻った女学生ががたがた震える。時任に助け起こされた俺は、努めて冷静な口調で半ば放心状態の彼女を宥めすかす。 「警察は呼ばない。ただの不注意が起こした事故だ、忘れろ」 「わ、わたわたし、なんてこと……」 「いいから。人が集まる前に帰ったほうがいい」 「時任くん……」 急かす俺から視線を切り、泣き崩れる寸前の滑稽な顔で、縋るように時任を仰ぐ。 時任は終始無言無表情だ。 短い間でも交際していた彼女への関心を一片残らず喪失し、沸騰する激情を封じた苦々しい声で吐き捨てる。 「二度と近付くな」 それが決定打だった。 彼女が走り去ったあと、マンション前には俺と時任だけが残された。 「とりあえず部屋で手当てを」 右手の傷は思ったより深そうで、さっきから血が止まらない。時任がカードでスリットに入れてドアを開け、エレベーターで11階へ行く。 久しぶりに入る時任の部屋は、相変わらず殺風景なほど片付いていた。ドアを開けてリビングに入り、俺をソファーにおいてから救急箱をとってくる。 「手を見せろ。少ししみるぞ」 「っ」 「いわんこっちゃない」 時任が苦笑いする。 消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を拭き浄め、不器用に包帯を巻いていく。至近距離に迫る、真剣な表情に目を奪われる。 自由自在にピアノを弾きこなすあの手が、たかだか包帯を巻くのに手間取っているのは不思議な光景だった。 「お前にもできないことあるんだな」 「人に包帯を巻くのは初めてだからしょうがないだろ」 「それもそうか」 「一応処置はしたが、あとでちゃんと病院に行け。パッと見縫わなくてよさそうだが素人判断を信用するな」 片手で俺の右手を持ち、片手でてのひらに包帯を巻き付ける。 なんだか狐に摘ままれた心地でまじまじ時任を見る。 コイツの焦った顔はレアだ。 時任にも人間らしい感情があったのか、と頭の片隅で妙に感心する。 「さっきの子は彼女か」 「ああ……まあな。もう終わったが」 「泊めるんじゃなかったのか」 「気が変わった」 「酷いヤツだな。こんな男に惚れるなんて見る目がない」 「憎まれ口は健在か。通報はいいのか?慰謝料はともかく治療費は請求してもばち当たらないぞ」 「警察沙汰は後々面倒くさいからごめんだ」 「傷害で立件できそうだがな」 「やけに落ち着いてるな。刃物を向けられるのは初めてじゃないのか」 時任が不敵に唇をねじる。 「厄介なファンやストーカーがいると待ち伏せや脅迫は日常茶飯事だ。示談で済めば楽なんだが」 「嫌な言葉だが、有名税ってヤツか」 「俺と俺のピアノを独り占めしたい、他のヤツに聞かせるなってナイフで襲ってきた女がいた。コンサート直後なんで警備員に取り押さえられたが、ヒヤヒヤしたよ」 住む世界がちがうと改めて痛感する。この手の体験を何度もしているなら落ち着き払った態度も頷ける。 時任が人間臭い表情を見せたのは、俺が刺された時だけだ。 「今度はこっちが質問、なんでマンションの前にいた。ストーカーか?」 「久しぶりにお前のピアノが聴きたくなった」 「ピアノだけか」 「ずっと頭の中で流れてるんだ、いい加減打ち止めにしたい。実物を聞いたら止まるんじゃないかって」 「バイト帰りに寄ったのか。ご苦労様」 切り付けられた手がズキズキ疼く。中間に微妙な沈黙が立ち込める。久しぶりに顔を合わせたせいか、少し気まずい。 結果的に時任を庇い助けた訳だが、手当てしてもらった礼を述べるべきだろうか。 「すまなかった」 耳を疑った。 あの時任がうなだれて、心からの謝罪を口にする。 「怪我のことなら気にするな。お前のせいじゃない……わけじゃないけど、終わった事を蒸し返したって意味ない」 「ああ……」 「さっきの少しグサッときたぞ」 「どれだ」 「『誰でもいいからそう言ったんだ』って、少し前までの自分を見てるみたいだったよ」 こんな時任、俺は知らない。 惨めで脆く弱々しく、すっかり自信を喪失している。 なんだか調子が狂い、ソファーに深くもたれて開放的な天井を仰ぐ。 「お前の言うとおりだよ。俺は勃たないんだ」 できるだけ、さりげなく告白する。 「彼女とうまくいかないのもそれが原因だ。せっかく好きって言ってもらって付き合っても、最後までできなくて駄目になる」 「そうなのか」 「本当のこと言い当てられてカッときた」 時任の悪ふざけはまだ許せない。 だからといって、ずっと遠ざけておけるほど潔癖じゃない。 認めるのは癪だが、俺は時任彼方の演奏で腑抜けにされてしまった。聴覚に効く麻薬のような演奏の虜と化し、一日たりとて忘れられない。 時任が珍しく遠慮がちに聞く。 「昔からなのか?」 「ああ。そのうち普通にできると思って、何人も付き合ってきた。いい所まで行くんだ。そこから続かない」 「そもそも抱きたい欲求はあるのか、好きでもないヤツに勃たないだろ」 「最初はぴんとこなくても、付き合ってからだんだん好きになる事あるだろ。俺は……正直にいうと、好きっていう感覚がわからないんだ。恋愛的な意味で誰かを好きになったりその子としたいと思ったり、一度もないんだよ。誰かを本当に好きになった経験がない。まだ出会ってないだけだって思い込もうとしてきたよ」 「ちがうのか」 目を瞑り深呼吸、無感動に告げる。 「アセクシャルって知ってるか。無性愛……他者に対して恋愛感情を抱かない人間のことだ。多分、俺もそれだ」 「医者に診せたのか」 「どこへ行けっていうんだ、精神科か?心と体どっちに異常があるんだよ。男も女も誰も好きになれない俺はおかしいんですか、結婚はおろか子供も作れず一生独りで過ごすんですか、なんとかしてください先生って縋ればいいのかよ」 刺々しい口調で噛み付いてから後悔、痛々しいほど白い包帯を巻いた右手と左手を組む。 「……思春期に入ってからその手の情報をあさった。一口にアセクシャルと言っても色々いる。普通に誰かを好きになるけどしたくないできない人間、誰も好きにならずできないしたくない人間……俺は後者だ。どんな子と付き合っても、その子がどんなに露骨なことをしても、全然ヤりたくならないんだ。身体が反応しない」 生まれて初めて他人に秘密を話す。 異常者扱いされるのが嫌で、こんな事だれにも相談できなかった。 アセクシャルの概念を知るまで、普通になりたくてもなれない疎外感と孤独感に日々苛まれ続けてきた。 自分がそれに該当するとは知らず、知った所でどうしようもなく、生まれ持った性質故に矯正は絶対不可能だ。 一生だれも好きにならない。 セックスもできない。 パートナーを喜ばすことはおろか、子供を作ることもできない。 「もともと結婚や子供に興味はない。幸か不幸か一人が苦にならないタイプだ。だけどな時任、自分の意志でそれを蹴るのと、最初から選択の権利が奪われてるのは全く別だよ」 もし俺が他者に愛情を抱ける人間だったら何か違ったのか。 セックスに及ぶのは不可能でも、誰かに愛情を持てる人間だったら家庭を築ける可能性があったのか。 狂おしく焦がれた、「普通」の仲間入りをはたすチャンスはあったのか。 「求めには応じる。望まれたら与える。ずっとそうやって生きてきた、そうする以外ほかなかった。俺自身が他人に何も望まず求めないなら受け身でいくしかないじゃないか、それがそんなに悪いことか、誰とでも寝れるお前やフツウにご立派な世間に嗤われなきゃいけないことなのか」 包帯を巻いた手の疼きに呼応し、思春期に自覚してから胸で育て続けた劣等感がジクジク膿む。 抱かれる時任に勃たなかった、抱く時任に勃たなかった、勃起に至らないまでも生理的な反応を示していい筈の身体にまで裏切られた。 「普通じゃない。おかしいんだきっと」 少しだけ彼女が羨ましい。 時任に刃を向けるほど愛していたのだ。 一途に、ひたむきに。 そんな感情、一度も駆り立てられたことないのに。 身体が心に依存する現実を認めたくない。機能的には問題ないのに、心なんて不確かなモノがセックスの邪魔をする。 「遥」 時任が限りなく優しく俺を呼ぶ。 愛情と勘違いしそうな声で。 「マスターベーションの経験はあるか」 唐突な質問に自嘲の笑みが浮かぶ。 「俺も一応男だからな。あるよ」 「ちゃんとできたのか」 「ああ……刺激すればちゃんと反応する、生理現象さ」 「何を想像しながらやった」 「何も。目を瞑ってひたすら手を動かすのに集中する、ただの作業で苦行だよ。普通なら好きな子の顔を思い浮かべてするんだろうな。芸能人でもいい、理想の異性を……同性を思い描いて」 一時期は真剣に悩んだ。勃たないのは機能に問題があるのではと疑って、自分で試したのだ。 人を好きになる感情がわからない。抱きたいという欲求もない。そのせいかわからないが、勃たせるのに時間がかかった割に得られた快感は少なかった。 「手伝ってもらった事は」 「話聞いてたか?言える訳ないだろ」 時任の距離が近い。俺の隣に座り、ズボン越しの太腿に片手をのせる。手がどんどん遡り、遂に付け根に達する。 「本気で怒るぞ」 「怖がるな。目を閉じてリラックスしろ。一人でするときは何を考えてるんだ」 「何も考えてない」 「本当か?」 メフィストフェレスが囁く。 「完全に頭をからっぽにするのは難しい。何も考えない為に何かしてるだろ」 太腿の手があやしく蠢いて、くすぐったさとこそばゆさが沸き上がる。 「……頭の中で音楽を流してる」 「俺のピアノ?」 「そうだ。お前の演奏をリピートして」 彼方の曲。彼方の指。俺の股間を掴む大きな手。何も考えないための口実、理性を本能に切り替えるトリガー、快楽を追い求める建前。 時任が、俺をおかしくした。どうしようもなく狂わせた。 この部屋を訪れるたび時任は誰かと寝ている、倒錯したセックスに溺れている。ある時は男に抱かれ、ある時は女を抱いて、ピアノの上で奔放な遊戯に耽る。 時任のセックスを見ても勃たないのに、その後アイツが弾くピアノをそばに立って聞いているとどうしようもない昂りを押さえきれない。 瞼に焼き付いた光景が勝手に反芻され、身体に刷り込まれた感覚がぶり返し、股間にどんどん血が集まっていく。 「目を瞑れ遥。俺の手だけ感じてろ」 「離せ」 他人との接触に嫌悪感が膨らむ。時任の囁きに、コイツの声が孕む魔力に飼い馴らされ抵抗心が奪われていく。 「動くと傷に響く」 俺が右手を怪我して使えないのをいいことに、時任はねっとり股間を蹂躙する。ズボンの上からこねくり回して竿を摩擦、変化を報告する。 「気持ちいいか」 「……ッぐ」 「固くなってきたぞ」 キツく目を瞑って辱めに耐える。時任の手がもたらす混乱と腰の奥から沸き上がるモヤモヤした快感に翻弄される。 何をされてるんだ? 何をしてるんだ? 時任の目的は? 全部置き去りに目を閉じて快楽を貪るのに集中する、他人の手に身を委ねて快楽を追い求める、浅ましく息を弾ませて形だけ拒む。 「時任っ、よせ、も……」 「勃ってるじゃないか」 時任が嘲弄し、器用な手付きでジッパーを下ろしていく。 「頭の中で音楽を流しておけ」 俺のズボンの前を寛げ、下着を脱がしてペニスをさらす。 火照った手が直に敏感な部分を掴んで愛撫し、呻き声を漏らさないように下唇を噛み縛る。 「あっ、ぅっく、ァあ」 他人の手で感じさせられるのは初体験だ。 彼女に手や口でしてもらった時も反応しなかったのに、時任に蹂躙されていると思うと、下半身に熱が集まってくる。 時任の手。 ピアノを弾く優雅な手。 白と黒の鍵盤を支配する天才の手が、俺の一番卑しく浅ましい部分に奉仕している事実に倒錯的な興奮が燃え上がる。 「もっ、許せ、だす」 目を閉じたまま切れ切れに訴えるが、時任は少しも手を緩めず、かえってラストスパートに突入する。亀頭から根元へかけ強くしごきおろされた次の瞬間、俺は爆ぜた。 射精の快感は強烈だ。薄く目を開ければ、ぼやけた視界に時任がのしかかっている。俺が出した白濁に塗れた手。 「偉いな遥。たくさん出たじゃないか」 時任がティッシュで手を拭い、俺の頬を包んで褒めてくれる。 「……こんな……異常だ」 弱々しく首を振って否定するが、時任は恍惚と微笑んだまま、ファウストをたぶらかすメフィストフェレスの甘言を弄する。 「おかしくない。ちゃんと勃ったんだぞ、喜べよ。お前の身体は俺の手に欲情するんだ。俺ならお前を最高に気持ちよくしてやれる、何度だって絶頂にいかせてやれるんだ」 俺は音に欲情する変態だ。身も心も時任に調教されてしまった。 時任の音楽に耳から犯されて、条件反射さながらコイツの手に劣情する。 「もとめてない。マトモじゃない。ただ普通にできるようになりたいんだ」 射精直後の虚脱感と倦怠感にも増して、凄まじい自己嫌悪が募り行く。時任の手で無理矢理イかされてしまった屈辱と怒り、なのに否定できない圧倒的な快感。一人でやるよりずっと気持ちいい、彼女にされてきたことよりずっと気持ちいい、その事実を認めざるえない。 時任が俺のこめかみにキスをする。 「落ち着け遥、もっと割り切って考えろ。俺はお前が気持ちよくなる手伝いをしたい、お前は普通になりたい。じゃあいいじゃないか、俺の手なら問題なくイケるんだ。わかるか、反復練習だよ。ピアノだって基礎の繰り返しが大事だ、身体に条件反射を覚え込ませればいずれ他の子ともできるようになるかもしれない」 股間を揉まれている間拳を握り込んでいたせいで、真新しい包帯に血が滲みだす。 一点赤く染まる包帯を見て、彼方が痛そうな顔をする。 「傷が開いたな」 その日から、俺と時任の関係は決定的に壊れてしまった。 バスルームを出て洗面所へ行く。綺麗に片付けられた洗面台の前に立ち、鏡に顔を映す。 長方形の鏡が映しだすのは精彩を欠いた三十路前の男。ベリーショートの黒髪と銀縁眼鏡、神経質そうな薄い唇。第一印象はインテリ気取りの堅物。顔色が優れないのは最近よく眠れてないからだ。時任の死後、体重は5キロ近く落ちた。 職場では白衣で多少体型をごまかせるが、喪服代わりの黒いスーツになると窶れたのがハッキリわかる。 時任を恋人の襲撃から庇った日以降、俺と時任の関係は歪んでしまった。 時任の部屋に行きピアノを聞くまでは同じだが、その前や後に必ずすることが追加された。 「服は脱がなくていい、全部まかせろ。目を閉じて座ってるだけだ、簡単だろ」 「早く終わらせてくれ」 ある時はソファーに座らせ、ある時は床に寝かせ、ある時はベッドに連れ込んで、時任は俺を弄ぶ。 挿入はしない。 一線はこえない。 その約束で一方的に俺の身体をもてあそぶ。 「はぁっ……時任それ、変な感じだ」 「顔を隠すな」 片手で目元を遮ろうとしたら、容赦なく引っぺがされる。 時任は誰とでも自堕落に関係を結ぶ。俺に手を出したのは興味本位だ。拒もうと思えば拒めたのにそうしなかったのは、コイツの求めに一筋の希望を見出していたから。 時任の手は俺に惜しみない快楽を与えてくれる。 あの時任彼方の手が。自由自在に鍵盤を弾きこなす素晴らしい演奏を紡ぎ出す手が、俺の身体の裏表をまさぐって奉仕を施す。 俺は今、コイツを独占している。優位に立っている。 誰もが天才と憧れ羨む時任彼方のこんな淫らでぶざまな姿を見れるのは世界に俺だけ、俺の特権だ。 「今日は趣向を変えてみるか」 時任が黒い布を持ち出した時も、頷くよりほかなかった。 「お前は理性が強いからなかなか正直になれない、目を閉じても途中で開く癖がある。なら目隠ししてしまえばいい」 「変なことするんじゃないだろうな」 「疑うのか?心外だな、これまで尽くしてやったのに」 「それはそうだが」 「もっと気持ちよくなれるんだぞ、遥」 「…………」 「嫌なら帰るか。別に止めない、好きにしろ。だがよく考えろ、俺たちの関係がばれたら困るのはどっちだ。今さらスキャンダルの一個二個どうでもいいんだ俺は、お前はどうだ、吹っ切れるか?就職にも障るかもな」 「脅すのか」 「諭してるんだよ」 時任は俺の操縦法をよく心得ていた。時任との関係がばれて不利益を被るのは願い下げだ。 時任は主、俺は従。 二人の間には歪な主従関係ができあがっていた。 行為中の時任はひたすら俺に尽くし、俺は快楽を享受するが、一方で保身の弱みから脅迫まがいの頼みを断りきれず、どんどん倒錯の色を強めていく要求に応じざるえない。 ずるずると関係を続け、ずぶずぶ泥沼にはまっていく。 「……終わったらすぐとれよ」 視界に布裏の暗闇が被さる。視覚を奪われ不安が兆す。自由意志で開け閉めできる瞼と違い、光を遮断された心許なさはすごい。 時任が頭の後ろで布を縛り、俺の腕を掴んでどこぞへ誘導する。躓かないようゆっくりと歩き、腕を引かれて椅子に掛ける。ピアノの前に連れてこられた。 「時任、何を」 「力を抜け」 「ここでやるのか」 椅子の脚が床をひっかく音。時任が椅子を移動させ、ピアノの前面にぴたりとくっ付ける。背中にピアノの冷たく固い感触。時任の手が裸の股間にもぐりこみ、萎えたペニスをまさぐりだす。 「ッ……は……」 背中にピアノを感じる。 ピアノを弾く時任の幻影が瞼裏に浮かぶ。 現実と妄想、二重に犯される。 シャツとズボンの前をはだけたまま、椅子を掴んで時任の舌と手に乱される。爪先を窄めて開き、胸板を舐め回す舌に仰け反り、股間をもみほぐす手に息だけで喘ぐ。 床に跪いたらしい時任が、股に顔を突っ込んで舌を使いだす。 「!よせ」 「気にしなくていい、好きでやるんだ」 熱く潤んだ粘膜がペニスを飲みこむ。革張りの椅子に白く強張る指が食い込み、身体が硬直する。 目隠しの向こうでしめやかな衣擦れの音と荒い息遣い、唾液を捏ねる淫猥な水音が響く。 「強情だな、掴まる物が間違ってるぞ」 「いい、から、早くしてくれっ、もたない」 目隠しされた目が蒸れて気持ち悪い。 闇が閉ざす視界に発狂しそうになる。 時任の椅子で、時任のピアノの前で、時任に犯されている。その事実が俺をたまらなく興奮させ、ペニスを固くさせていく。 「じらすなよ、さっさとイかせてくれ」 汗と涙で薄っぺらい布が不快に湿り、べっとりと顔に張り付く。 嗚咽するような声でねだり、椅子に手を食いこませて懇願すれば、時任がやっと動きを再開しラストスパート。 「っぁあ」 「目隠しした方が反応いいな。次からはこうするか」 時任。 俺のメフィストフェレス。 洗面台の鏡を覗いても肩越しに亡霊が映りこんだりはしない。 壁に嵌め込まれた鏡に手をかざし、窶れた顔をなでて呟く。 「どっちが死人かわからないな」 葬儀の日を思い出す。棺の中の時任をまともに見れなかった。見る資格がなかった。 洗面所を抜けてリビングへ戻れば、蓋が開いた棺にも似たグランドピアノが待ち受ける。 壁際に片膝立て座り込み、目を閉じて回想を続ける。 大学を卒業してからも俺達の関係はずるずる続いた。 「お前はピアノ一本でやってくんだろ」 「そうだな。他にできることもないし」 「謙遜だか卑下だか。ああ嫌味か、気付かなくてすまない」 「毒舌だな。遥は心療クリニックのカウンセラーか」 「ちょうど空きがでてな、拾ってもらえてよかった」 「たまにはコンサート聴きに来い、チケットは友人割引でくれてやる」 「殆ど海外だろ、費用が馬鹿にならないよ」 大学四年間、俺と時任は関係を持ち続けた。 傍目にはただの不似合いな友人同士に映ったろうが、時任の部屋を訪れる都度俺はアイツに手ほどきを受け、何度もイかされるはめになった。 が、卒業してからはそうもいかない。 時任は世界中を股にかけコンサート活動を行い、俺はクリニックの仕事が多忙で、顔を合わせる機会はどんどん減っていた。 それでよかった。 それがよかった。 正直俺は怖かった。 大学を卒業してからも時任と関係を持ち続けることが、アイツのわがままに振り回される事が、気まぐれに人生を食い潰される事が。 このまま距離をとって自然消滅すれば、若い頃の過ちとして忘れ去れるかもしれないとまで考えた。 腐れ縁を断ち切りたい。 時任の束縛から逃れたい。 『久しぶりに帰れそうなんだ。会えないか』 「すまない、都合が悪くて」 『またか。半年ぶりだろ』 「スケジュールが詰まってるんだ、人手が足りないからシフト交代も頼めないし」 『うまい店があるんだ、おごるぞ』 「悪いな、埋め合わせはまたいずれ」 社会に出ると時任の求めはどんどん重荷になっていった。 俺には俺の生活がある、職場で地盤を固めなければいけない。時任は海外を飛び回って熱狂的なファンを獲得する。 俺たちは物理的にも心理的にもすれ違い年々距離が開いていく一方だった。 全く交渉がなかった訳じゃない。 頻度が減ったとはいえメールのやりとりは続けていたし、たまには電話で声を聞くこともあった。 時任が帰国時のコンサートの招待には応じたし、終わったあとは飯を食ったり居酒屋で飲んだりもした。 時任の演奏は年々円熟し、天才を超えた領域に到達していた。 「部屋に寄ってくか」 「仕事があるんだ」 「ツレないじゃないか、明日にはアメリカ行きの飛行機に乗るのに」 「お互い十代の頃みたいにいかないだろ、ちょっとは落ち着けよ」 誘いを断る回数は次第に増えていき、会っても飲んで別れるだけが暗黙の了解となった。 時任が密なスケジュールからどうにか時間を捻出し、俺と会っていたのはわかっていたが、アイツの執着は重かった。 時任とするセックスのまねごとは気持ちいい。 だからこそ、憂鬱だ。 あんなことをしたからといって自分の傾向がどうにもならない現実は、この年になればさすがに受け入れざるえない。 時任はどんどん遠くへいく。 さらなる飛躍が期待される天才と一般人が、こんな出口のない関係を続けていいはずがない。 時任と久しぶりに会ったのは、親友に報告したい事ができたからだ。 「いい店だな」 「だろ?日本に来たら絶対寄るんだ」 二人で食事を終えたあと、時任に連れていかれたバーで飲み直す。 時任は機嫌がよかった。二人で食事をするのは2年ぶりか、見た目はさほど変わっていない。 間接照明を取り込んだ灰色の瞳が悪戯っぽく光る。 「乾杯するか」 「何にだよ」 「悪友との再会に」 「大袈裟なヤツだな」 「まともに応じてくれるの何年ぶりだよ」 「色々忙しかったんだよ」 落ち着いた雰囲気のいい店だ。カウンターに並んで座り、しばらく近況報告を交わす。 カクテルを一口飲み、時任に質問する。 「しばらくこっちにいるのか」 「まあな。働き過ぎたから休みたい」 「その方がいいかもな、最近露出が多すぎだ。無理してるんじゃないか」 「とんでもない、俺が目立ちたがりなの知ってるだろ。遥は?先生って呼ばれるのいい加減慣れたか、白衣着てるとこ見たいな、内緒で借りてこいよ」 「規則違反だよ。バレたらクビだ」 時任は酒に酔うと饒舌になる。カクテルグラスを干すなり乗り出して、なれなれしく俺の肩を叩く。 「お互い三十路前か。時の流れは残酷だね」 「お前は変わらないな」 「お世辞は嬉しくないぞ、学生時代に比べたらくたびれたさ」 芝居がかった動作で両手を広げておどけてみせる。 甘いカクテルで唇を湿して糸口を探る。間接照明が照らす時任の横顔を一瞥、世間話の延長の自然体を装って告げる。 「報告したいことがある」 「なんだよ改まって。クリニックに有名人がきたか」 「結婚するんだ」 カクテルを口に運びかけた手が宙で止まり、時任がゆるやかに向き直る。 「突然だな。相手は?俺が知ってるヤツか」 「職場の同僚だよ、年は二歳上だ。式は来年の二月を予定してる。お互いの親族にも紹介済みだ」 淡々と予定だけを述べれば、冗談だろうと半笑いで構えていた時任の顔に徐徐に当惑が広がっていく。 「本気なのか?だってお前……」 「本気だよ。彼女は真面目でいい人だ、結婚後も仕事は辞めずに続ける方針で一致してる。話してて価値観もあうし、変に気負わずにいられるから居心地がいい」 「そうじゃないだろ」 時任がグラスの底でカウンターを叩き、琥珀の飛沫がはねる。吊り上げた目には苛立ちの色。 「相手はお前のこと知ってるのか」 「アセクシャルかどうかって?もちろん」 あっさりと答えれば、完全に虚を衝かれた時任が俺の顔を見て先を促す。 グラスの残りを一気に干し、やけっぱちに続ける。 「誤解してるよお前、俺たちは何も好き合って結婚するんじゃないんだ。人として好感もてるし同僚として尊敬もしてるけど、結婚するのは別の理由だ。しいて言えば利害の一致、共犯関係だ」 「わかる言葉で言え」 「彼女もアセクシャルなんだ」 時任の顔が凍り付く。 「俺と同じだよ。誰も好きにならない、性欲を感じない人間なんだ」 今の職場に入って、初めて同類に出会えた。 からのグラスをひねくり回し、心の整理を付けるように途切れ途切れに話す。 「お互いそうだと気付くまで少しかかった。気付いてからは早かった。初めて会った時からひっかかってはいたんだ、自分と似たものを感じたっていうか……うまく言えないけど」 「ゲイの偽装結婚みたいなものか」 「交際を始めて確信した。初めて泊まった夜、おもいきって告白したよ。俺は勃たないんだって……誰も好きじゃない、好きになれない人間だって。彼女は一言も責めず、自分もそうだって言ってくれた」 「なんで好きでもないのに付き合った、破綻してる」 「わからないのか?生まれて初めて『同じ』だと思ったから、本当の所を確かめたかったんだよ」 時任にはわからない。 俺がどんなに孤独だったか、たった一人で苦しみ続けてきたか。 時任が今まで聞いたことのない、ひどく冷たい声音で吐き捨てる。 「誰も好きになれないくせにひとりぼっちは嫌だなんてわがままだろ」 「好きに言えよ。俺はお前みたいに強くない」 「傷をなめあって満足か?その為に結婚するのか?」 「彼女は俺を許してくれた。自分もアセクシャルだって告白して、できない俺を受け入れてくれた。恋愛感情はないけれど、一生一緒に暮らしていきたいと思える程には尊敬してる」 「日和ったな。幻滅したよ。そうやってパートナーを不幸にするのか」 「彼女も納得してる、合意の上の結婚だ。どっちが犠牲者かなんて短絡な話じゃない。出世や世間体を考えたのは否定しない、もうすぐ三十歳だ、ここで決めてしまえば結婚はどうした相手はいるのか余計なお世話な面倒くさいこと聞かれずにすむんだよ、さんざん回り道した挙句やっと普通への近道を手に入れたんだ。俺は彼女を幸せにできるように努力するし、これからは誰にも何にも恥じず普通にやってくんだ」 二十九年間積もりに積もり、澱みに澱んだ心の澱を吐き出すように捲し立て、空のグラスでカウンターを叩く。 「俺との関係は、回り道か」 「……そうだよ」 空のグラスを壊れそうに握り締め、かすれた本音を絞り出す。 「お前が好きだったんじゃない、お前のピアノが好きだったんだ。それだけだ」 力尽きてカウンターに突っ伏せば、時任が二杯分のカクテルを追加で頼み、俺の鼻先へ滑らせる。 「おめでとう遥」 「……怒っていいぞ」 「なんで怒るんだよ?ちょっと裏切られた気はしたけど、もともと遊びみたいなもんだろ。年齢を考えたら身を固めたくなるよな、わかるよ気持ち」 「お前もせっ付かれるのか」 「結婚は?お相手は?取材じゃ毎回聞かれる」 「本命はいないのか」 魔性の微笑みではぐらかし、俺のグラスに自分のを打ち合わせる。 その夜は時任のおごりで飲みまくった。 意識を失うまで飲みまくり、目覚めたのは時任の部屋のベッドの上だった。 最後の夜に起きた事は、断片的にしか覚えていない。 時任に肩を抱かれてマンションに来た「ほら、着いたぞ」上下に傾ぐ視界。玄関に入った「服は脱げるか」「ああ……」寝室のベッドに投げ出された、身体がやけに気だるく頭が朦朧として働かない「首元を寛げた方が楽になる」「手間をかけるな」「気にするな、腐れ縁だろ」時任の手が器用にネクタイを解いてシャツの襟元を開く。 カクテルに薬を盛られたのか「待てよ時任」時任がベッドに飛び乗って服のボタンをむしる、首筋に噛み付くようなキスをする「はなせ、人を呼ぶぞ」「防音設備は完璧だ。第一助けがきたところでどう説明する、俺とお前の関係を全部暴露するのか、痴話喧嘩で片付けられるな」胸板をなめて唾液の筋を描く。 わけもわからず抵抗するが瞬く間に背広を脱がされる。 時任が俺の顔の横にスマホを投げ、嘲笑と共に挑発。 「婚約者にSOSを送るか?代わりに通報してくれるかもしれないぞ」 「頭冷やせよ、たちが悪いぞ」 「どうして?傷付けたくない?汚点を知られるのが怖いか」 泥酔した身体は言うことをきかず、体格と腕力で上回る時任にいともたやすく押し倒される。 「俺とやったこと、相手にばらされたくないだろ」 耳元に吹きこまれた脅迫が気力を削ぐ。 「学生時代からずっと時任彼方のおもちゃにされてたなんて、相手が知ったらどう思うだろうな」 「俺は悪くない、そっちが勝手に」 「合意の上だ。共犯だ。一人だけ逃げるな」 独りだけ逃げるのは許さない。 「一回でいい、これっきりにする」 どうしてだ時任お前はこんな惨めで脆くて滑稽で情けない人間じゃなかったはずだ、傲慢なほど自信にあふれて俺や皆を見下してたはずだ、なのになんで取るに足らない俺なんかに縋り付く、抱かせてくれと懇願までする。 「頼む遥」 時任が俺の右手のひらを唇でなぞる。酒瓶で裂かれた傷痕がちりちりひり付く。 時任がCDをかける。時任の演奏が室内を大音量で満たす。そんな中、時任の寝室で犯される。アルコールが回って弛緩しきった身体はろくに抵抗できず、時任の指と舌でどこもかしこも蹂躙される。 「痛ッぐ、ぁぐ」 挿入の経験のないアナルに指が突き立ち、中を掘り進めていく。 「やめてくれ、吐きそうだ……気持ち悪い……」 痛い。痛い。痛い。頭が真っ赤に焼け付く、何も考えられない。生理的な涙が滲んで視界がぼやける。時任の顔が醜く歪む。 「痛ッぐ、やめ、ときとっ、あぁッぅ」 力ずくで脚をこじ開ける。時任が容赦なく入ってくる。大きく逞しい手が俺の目を塞ぎ、慈悲深い暗闇がおりてくる。 「なんっ、で、汚いいやだ時任」 わけがわからない。何も考えたくない。時任は怒っているのか。俺が抜け駆けしたから、裏切ったから、暴力的で理不尽な仕打ちをするのか? 大音量のクラシックが喘ぎをかき消す。挿入は拷問に近い激痛をもたらす。死に物狂いにシーツを掻き毟り辛いだけの時間をやりすごす、アナルが裂けてシーツに赤い飛沫が散る、拒絶する心と裏腹に前立腺を執拗に刺激された身体は昂り、強制的な絶頂へと駆けあがる。 体感時間では永遠に続くかに思われた責め苦。 実際は数時間に過ぎないはずだが、時任は夜明けまで俺の身体を離さず凌辱し、体奥にぬるい精を放った。 身体の中から汚されていくおぞましさに胃袋が痙攣する。 意識は小刻みに何度も途切れた。悪夢にしては生々しい残像がチラ付いた。時任はぐったりした俺の腰を抱え上げ、萎えきったペニスを無理矢理にしごいて勃たせ、まだ飽き足らずアナルを犯した。 「気持ちいいって言えよ」 助けてくれ。 許してくれ。 気に障ったなら謝る。 「言ってくれよ、頼むから」 全てが終わった夜明け。 俺は全裸で這いずってトイレへ行き、便器に顔を突っ込んで吐いた。人さし指と中指を束ねて喉に突っこみ、激しくえずいて嘔吐する。 「大丈夫か」 「くるな」 ジーンズだけ穿いて追ってきた時任を鋭く制し、便器に取りすがって吐き続ける。 痛くて気持ち悪くて最低に最悪だ。腹の奥には抉れたような鈍痛がこごっている。 レイプされたショックにも増して、身体の裏も表も中も外も汚された不快感が膨れ上がる。時任が事前にかけたCDはとっくに切れて、寒々しい静けさが部屋を浸す。 「遥……」 「気持ちが悪い」 胃液の糸引く口元を拭い、あらん限りの憎しみこめた呪詛を浴びせる。 「痛いだけだ」 こんな事がしたかったのか? その程度の俗物か? 学生時代に部屋に連れ込みピアノの上で犯した連中みたいに、俺の事もそういう目で見てたのか。 腹の底から恥辱と軽蔑に震え、全身で時任を拒絶する。 「力ずくで気が済んだか」 傍らに跪いて背中をさすろうとする時任を振り払い、真っ直ぐに糾弾する。 「目を背けるな。お前がしたことをちゃんと見ろ」 髪の毛はぐちゃぐちゃに乱れ、全身乾いた白濁に塗れ、唇で食まれた鬱血のあと。 一晩中抱き潰された足腰は立たず消耗しきり、目の下には憔悴の隈が浮いてるはずだ。 「お前がブチ壊したんだよ、時任彼方」 時任が絶句する。 涙は枯れて出てこない。胃袋の中身は空だ。苦い胃液が満ちる口を漱ぎたくて、時任を無視してバスルームに閉じこもる。 シャワーを浴びていると漸く思考が働きだし、最初は弱く、次第に力を込めて壁を殴り付ける。 俺の中の虚像が壊れた。時任は誰もが憧れる天才なんかじゃない、俺を騙して連れ込んで犯した俗物だ。 学生時代からずるずる続けていた関係のツケを最悪のカタチで払わされた。 俺はアイツを、友達だと思っていた。 「ッ……」 俺達の関係は歪みすぎて今さら後戻りできない。 後戻りしたところで正解なんてわからない。 時任はどうして俺を抱いた?好きだったのか?性欲を抱いて?一夜を共にする相手に不自由しないあの男が、どうして俺みたいな取るに足らない男に執着するんだ。 そんなことあってたまるか。 時任彼方はそんなどこにでもいるありきたりな、誰かを好きになって空回る間抜けじゃない。 アイツは凄いヤツだ。凄いピアノを弾くんだ。誰も彼も腑抜けにするような、誰も彼もを虜にする天才なんだ。 「ッは、あ」 鋭い腹痛に身体を折る。時任が体内に放ったものが原因だ。壁に付けた片腕で身体を支え、反対の手で尻から精液を掻きだす。ドロリとした白濁が溢れて内腿を伝い、筆舌尽くしがたい気色悪さにぞくぞくする。 「時任っ、ぁ」 気持ち悪さに歯噛みして後始末をする。最低に惨めな気分だ。膝裏の痙攣を耐え、人さし指と中指でアナルをほじくって、時任が俺の中に出したものを一滴残らず取り除く。 悪寒と快感が絡まり合った感覚がぞくぞく背筋をはいのぼり、音程の狂った声を漏らす。 ずっと引き立て役でよかったのに。 俺みたいな人間を、時任彼方に好きになってほしくなかった。 濛々と湯気がこもるバスルームを出ると、脱衣籠に綺麗に畳まれた衣服が用意されていた。 職場に休みの連絡を入れなければと弛緩した頭で考え、機械的にシャツに袖を通す。 着替え終えてリビングに行くと、上半身裸にジーンズだけの時任がピアノに突っ伏していた。 俺に気付いて身体を起こし、その顔が切なげに歪む。 「遥」 何か言いかけた時任に無言で歩み寄り、頼む。 「アドレス消してくれ」 もうかけてくるなと暗に脅せば、時任は諦めたように目を閉じ、スマホのアドレス帳から俺の名前を削除する。 削除を終えるのを見届けたあと、同じようにスマホから時任の痕跡を消す。 「酷い顔色だな」 「無茶苦茶されたからな」 「すまなかった」 「これ以上惨めにするなよ」 今さら謝られても手遅れだ。時任に背中を向けると同時、縋るような声が追ってくる。 「一曲聴いてかないか」 「もうあきた」 そっけなく突っぱねる。時任が椅子から崩れ落ちるようにしゃがみこみ、咄嗟に俺の手首を掴む。 「行かないでくれ」 ああ、本当に。 「なんでも好きなのを弾いてやる、お前が好きだったベートーヴェンの熱情はどうだ、きっと気に入る。新しい解釈に挑戦したんだ、批評家筋の評判もいい、今度の公演で披露する予定だったが特別に」 こりずに縋り付く手を汚いもののように振りほどく。 時任が片手で顔を覆って未練がましく叫ぶ。 「俺はお前が」 「幻滅させないでくれ」 ピアノの上に立てかけられた楽譜を薙ぎ払い吐き捨てれば、時任が呆然とする。 「それでも時任彼方か?」 冷ややかな侮蔑の念が身体の内側で水位を上げる。強引に身体を繋いだところで何も変わらないし始まらない。惨めに媚びる時任に愛想が尽き、時任の演奏を評した過去の言葉を引用する。 「最後まで独りよがりだよ、お前」 時任はその後しばらくして命を絶った。 リビングの中央にピアノがある。 時任が俺に遺したピアノだ。 時任の部屋から帰ったあと、あの夜着ていた背広は見るもので嫌でクローゼットにしまいこんだ。 そのせいで、時任がポケットに託した手紙に気付くのに一か月以上かかった。 俺は時任の遺書ともいえるその手紙に目を通し、悩んだ末遺族に連絡をとった。 生前の時任が遺した唯一の手紙に自殺の動機はしるされておらず、ただ一言、「斑鳩遥にピアノを譲る」とだけ書かれていた。 時任はどの時点で自殺を決めたのか。 俺を騙して連れ込んだ時か、有無を言わさず犯した時か、初めて挿入して痛いと叫ばれた時か、どこまでもひたむきに尽くすキスを気持ち悪いと拒まれた時か、それとも…… いずれにせよ、俺の心ない暴言が時任の自殺の引鉄になった。 「……間接的な殺人だな」 真相は誰にも言えない。 不躾なマスコミは当然として俺の周囲の人間にも時任の遺族にもファンにも誰にも。 あの夜起きた出来事は一生死ぬまで胸にしまっておく。 俺は被害者だ。 真実を話せばきっと大半の人間は同情してくれる。 そして時任の熱狂的なファンに憎まれ、下手をすればパートナーまで脅迫を受ける。 時任は俺を共犯だと思っていたのに、俺は土壇場で裏切って突き放した。 俺は自分が可愛いから、時任と一緒に破滅してやれない。 こんな歪な関係ずっとは続かないと諦念し、清算に踏み切る口実をさがしていたのだ。 時任彼方はもういない。 俺が殺した。 俺があの、時任彼方を殺したのだ。 そうだ。この俺が。 唇の端が歪み、屈折した露悪の笑みを形作る。 時任彼方は特別な人間だった。ごく一握りの選ばれた天才。 本来俺と接点のない時任彼方は、何故か俺に惚れこんで執着し、遂には身を滅ぼしてしまった。 馬鹿な男だ。 自業自得だ。 アイツは俺のメフィストフェレスだったのに、ファウストに懸想して死んだのだ。 時任の遺言で部屋の所有権とピアノを譲渡された俺は、あの日以来初めて訪れた部屋をじっくり歩き回り、過去の残影と時任の痕跡をたどっていく。 ここで本当は何が起きたのか、知っているのは俺しかいない。 ピアノの前に座って蓋を開き、艶光りする鍵盤に片手を添える。生前は時任の手に馴染んだ鍵盤。 時任の死からこちら最低限の調律と手入れだけは済ませたが、遺言で表明されているのだから俺の好きにしていいと遺族に伝えられた。 時任の両親は話に聞いていたより遥かに冷静に息子の早すぎる死を受け止めていた。 人さし指で鍵盤を押すと一音が長く尾を引き、余韻が大気に波紋を描いて溶け込んでいく。 絶対音感なんて上等な才能を持たない俺にできるのは、せいぜい時任にならって弾くまねだけだ。 ピアノを背にして弄ばれた事を思い出す。 アイツは俺に呪いをかけた。 一生死ぬまでとけない呪いを。 『ピアノを教えてほしい?正気か遥』 『そんなに変か?お前が弾いてる所を見て興味がでたんだ』 『俺に憧れてピアノを練習するなんてけなげじゃないか』 『性格が悪いぞ。せめて一小節位なら』 『余計な事は考えなくていい、ただ聴いてろ』 『一応ピアニストだろ?無償で聴かせるのはどうなんだ、カネを払って聞きに来る人間にフェアじゃないぞ』 『ただ隣に立って聴いてくれるだけで十分だ』 日だまりの猫みたいに気持ち良さそうに目を閉じた、お前の顔が最大のご褒美だと在りし日の時任はうそぶく。 「時任」 名前を呼ぶ。 静寂に吸い込まれる。 両腕を突っ伏せば鍵盤が不協和音を奏で、部屋主の喪に服す静寂をめちゃくちゃにかき乱す。 アイツがいなくて虚しい。もう二度と演奏を聞けない。 絶望よりなお深い虚無が喉元を塞いで、瞼の裏の暗闇に回帰する。 「これがお前の復讐か」 俺にピアノを遺したのは、死ぬまで呪うためだ。 幻聴と残響で縛り付けるためだ。 ここに来る度時任を思い出す。アイツにしたこととされたことを思い出して死にたくなるほど自分を責め、悔やみ、今は亡き友人への憎しみと罪悪感に苛まれ続ける。 時任彼方は死んで漸く俺を手に入れた。 頭の中の音楽が消えることは二度とない。 メフィストフェレスの残響に殉じるのが、俺にできる唯一の贖いだ。 だれも愛さない。 好きにならない。 ただお前だけを憎み続ける。俺の一部を道連れに心中した、お前だけを。

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