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遥か、彼方 前

初めて『弾かれた』のは13の時だ。 恨んではいない。 気持ちいいことを教えてくれて逆に感謝している。 「このリズムで弾くんだよ彼方くん。やってごらん」 固く骨ばった指が、椅子に掛けて鍵盤を見詰める俺の太腿を軽快に叩く。 相手の顔はよく覚えてない。 男のくせになよやかな猫なで声をした、気弱そうな中年だった。 親父の知り合いとして推薦されたピアノ教師で、俺が10歳の時から家に通っていた。 息子の才能を伸ばすのに熱心な両親は、現役のピアニストをしばしば家に招待しては教えを乞うたのだ。 両親は遅くできた長男を溺愛していた。 俺の為なら手間とカネをを惜しまず、一流の教師を招いた。 権威ある指揮者と声楽家の間に生まれた俺は、幼い頃からピアノに頭角に現し、数々のコンクールで表彰されてきた。 学校行事に参加した経験より、金のトロフィーを抱いた回数の方が多い位だ。 「トン・タタ・タンね、わかったかな」 固く太く逞しい指が制服のズボン越しに太腿を叩く。 俺は内心の退屈を隠しもせず、正確な三拍子のリズムに合わせて鍵盤を叩く。 実地で身体に覚えこむのが彼の方針だった。聡明な息子を演じ慣れた俺は、素直に指導に従った。 やがて男の手が素肌にすべりおり、付け根をさかのぼって股に至るまで時間はかからなかった。 「さすが翔一さんと深雪さんの息子さんだ、飲み込みが素晴らしく早い。完璧にマスターしたね」 「先生のご指導の賜物です」 楽譜をめくりながら、親の顔を立てて一応は丁重に礼を述べる。 世辞かどうか声音で聞き分けられる程度に俺は鋭い、男は本心から教え子の技術を称賛していた。 ピアノの演奏中も男の手は俺の太腿におかれていた。 わざと邪魔するようにいやらしく蠢き、股を捏ね回す手が煩わしいが無視をする。 俺はピアノに愛されていた。ピアノは常に俺を気持ちよくしてくれた。 誰でもわかる単純な理屈。俺は気持ちいいことが好きだ。 気持ちよくなるための努力なら惜しまないし、自ら率先してやる。ピアノを弾いている時は重力から解き放たれて自由になれた。 男の手は五月蠅く集中力を削ぐ。最初はなでるだけだった。次になでまわすようになった。服に忍んでくるのは時間の問題だ。現に好色な手は、ズボンの中に潜りこむチャンスを執拗に狙っている。 ピアノには楽譜が立てかけられているが見ずとも弾ける。指一本一本に至るまで、身体が隅々まで覚えている。 演奏は呼吸と同じくたやすい。 一度もミスをせず第三楽章にさしかかる。ベートーヴェンのピアノソナタ第23番「|熱情《アパショナータ》」の佳境、俺が最も好きなパートだ。 「そういいぞ、躓かないで」 鍵盤だけ見て羽音のようにうるさい雑音を閉め出す。この曲は楽聖ベートーヴェンの最高傑作の呼び声高い。 作曲時彼の難聴は悪化の一途を辿っていて、ゲンシュタットの遺書を書くまで思い詰めていたらしい。 他にも面白い逸話がある。「熱情」の楽譜を書き上げて帰る途中、雨に降られたベートーヴェンは新作を濡らしてしまった。それを優れたピアニストであるマリー・ビゴーに見せたところ、初見で完璧に弾きこなす。ベートーヴェンは甚く感動し、この楽譜をビゴーに贈った。 偶然が呼んだ出会い。粋な贈り物。 劇的な情熱の表現を重視する傍ら、正確なリズムを維持する技巧が求められる至難の曲。|二律背反《ダブルバインド》の調和。 「ゴールが見えてきた、もう一息だ」 男が無責任に応援する。衣擦れと鼻息がうるさい。太腿をまさぐる手が邪魔だ。 鍵盤に両手を滑らせ激しい旋律を紡ぐ、音のうねりに陶酔したいのに雑音が集中力をかき乱す。 「わずか13歳で難関と知られる熱情をここまで弾きこなすなんて……よく頑張ってるってご両親にも伝えておくよ。将来が楽しみだ」 うるさいな、黙って聞け。この俺が弾いてるんだぞ。 耳たぶに湿った吐息が絡む。阿る笑みとザラ付く声、不愉快な手の動きを意識の外に追い出そうと努める。 恩着せがましく腰を這う手に辟易し、その目をまっすぐ覗き込む。 「俺を弾きたいの、先生」 教師が凍り付く。男の目の中の俺が、我ながら食えない微笑みを浮かべる。とても中学生とは思えない、大人びてふしだらな笑みだ。 「だったらそう言えばいいのに」 どう首を傾げどう囁けば虜にできるか、あらかじめわかっていた。 正解の角度。正解の流し目。あとは選び取ればいい。 この手の眼差しには慣れていた。両親に音楽界の著名人らしい大人と引き合わせされるたび、何人かが向けてくる目だ。両親の意向に沿って通学している私立校でも、何人かの教師や級友が向けてくる眼差し。 教師と関係を結んだのは、俺を弾きたがっているのがわかったから。 あるいはただの気まぐれ。 五月蠅い雑音を止めたくて。 「君が誘ったんだよ彼方くん。悪い子だ。誰に教わったんだ」 防音仕様の練習室には他に誰もいない、気が散らないように人払いしてある。男が俺をピアノの蓋に座らせ、股間に顔を埋める。俺は両脚で愚かな男の頭を挟み、生まれて初めてのフェラチオを悦ぶ。 「あっあぁ、ぁッうあ」 「夢精の経験は?ピアノを汚すのは本意じゃないが」 「後始末すれば、バレません、よ。ウチのピアノは高い分丈夫にできてるんです」 一応ピアノの心配をするのは音楽家の矜持が残っていたのか、それとも壊した場合の弁償代を案じたのか。どちらでもいい、どちらでも構わない。俺はズボンを脱ぎ、ピアノの蓋に両手を付いて、フェラチオに狂喜する。男の口がまだ幼く未熟なペニスを含み、吸い立てる光景に欲情し、防音仕様の壁が阻むソプラノで喘ぐ。 それから男は何度も俺を犯した。否、一方的に非があるように言うのはアンフェアだ。俺はこの行為を楽しんでいたし、自分から誘うようになったのだ。 「あッ、ぁっあ、そこっ」 「ピアノの上で抱かれるのに興奮するのかい、はしたない。蓋の上で大股を広げた今の君をご両親が見たらどう思うか……ああ、幼いのにちゃんと反応してるね。見てごらんほら、蓋の上に白い音符が滴っている」 黒光りする蓋に俺からでた白濁が滴る。 綺麗に磨き抜かれた表面に、官能に震える顔が映る。 華奢な脚をこじ開けて抱え込み、夢中で腰を揺する教師。二人分の体重がかかるピアノが不規則に軋む。ギッギッギッ、まるで歯軋り。頭の中のメトロノームで軋み音の拍子を区切り、心をどこか遠くへ飛ばす。 「可愛いよ彼方。どこもかしこもとても綺麗だ」 彼の言うとおり、ピアノの上で犯されるのに背徳的な興奮をおぼえなかったといえば嘘になる。別の場所なら身を委ねようとすらしなかった。俺はピアノの上で何度も達し、ある時は椅子にふんぞり返った男を果てさせた。 息子と教師が関係を持っていた事実に両親が気付いてたかどうかは定かじゃない。俺が中学2年になる頃には男は来なくなり、心おきなくピアノを弾ける時間が戻ってきた。 早い話、俺を上手に弾けなかったのだ。 時任彼方を弾けると自惚れた、身の程知らずな思い上がりが破滅を招いたのだから、同情には値しない。 俺は不幸じゃない。むしろ恵まれた部類だ。教師の虐待が道を誤らせたというのは実にわかりやすいストーリーだが、事実は少々異なっている。あの男は指導者としては凡人だったが、セックスは退屈しない程度に上手かった。初体験が枯れた中年男だったせいか、その後は相手が男だろうが女だろうが、年下だろうが年上だろうがタブー視しなくなった。楽しみの幅を広げてくれて彼には感謝している。 中学の頃から奔放に遊んだ。男でも女でも誰とでも寝た。セックスは気持ちいいから好きだ。 嫉妬するヤツ、敵視するヤツ、追従するヤツ。気が向けば皆寝てやった。 高校に上がると同時に、本格的にピアニストとして活動を始めた。 世間は俺の演奏をもてはやした。ファンの熱狂には当然ながら容姿も一役買っている。父方の祖父は北欧出身で、そのせいか生まれ付き色素が薄く、澄んだグレイの瞳をした俺はミステリアスに映るらしい。 『ノーブルな美貌とスノッブな言動のちぐはぐさが物珍しくて受けるんじゃないか』と、アイツにはよく嫌味を言われた。 アイツは俺以上に俺の本質をわかっていたと、ある意味ではそう言えるのかもしれない。 音楽界のメフィストフェレスなんてキザったらしい異名を付けられたのは愉快だった。マスコミ連中ときたら本当にセンスがない。聴く麻薬、悪魔の再来、美しい狂気……恥ずかしくないのか?もちろん恥ずかしい。 ピアノを傅かせるのは快感だった。鍵盤を従わせれば世界の中心になれた。ピアノを弾いている間、俺は無敵で全能だった。指先一本一本まで同化し、激情に駆り立てられて先走り、あるいは完璧に制御して蠱惑の旋律を紡ぐ。 ピアノとセックスするのは、他の誰とするより気持ちよかった。 「音大に行かない?本気か彼方」 「問題あるかな」 「本格的にピアノをやってくなら音大は必須だぞ、考え直したらどうだ」 「人から借り物をした知識と技術は夾雑物だ。俺の演奏の純度を下げるだけだ」 「傲慢すぎるぞ、お前のピアノはほぼ独流じゃないか。今はよくても基礎を疎かにしたらいずれボロがでる、十年後二十年後も現役としてステージに立ちたいなら謙虚になれ」 「先の事はわからない。今しか興味ないんだよ、俺は」 「彼方!」 「いいじゃない貴方、この子の意見を尊重しましょうよ。音大では音楽の知識と技術しか学べない、それも一理あるわ。もっと広い世界に目を向けてもいいじゃない、母さんは賛成よ。若いうちしかできないこと、たくさんあるんだから」 物分かりのよい母親を演じる母。厳格な父親を演じる父。 「今までピアノ漬けだったんだ。フツウがどんなものか、ちがう空気を吸いに行ってもいいだろ」 毎日の練習の成果で、皮膚が固く変化した五指を見せびらかす。 親父は漸く折れて、俺は四年間の執行猶予を勝ち取った。 親元を離れて自由に羽を伸ばせる解放感はすごかった。両親の過干渉にはうんざりしてたのだ。 音大を蹴ったのにたいした意味はない、ただの気まぐれだ。音大へ行ってピアニストになる、そんなありきたりな道にそそられなかったのだ。時任彼方が音大へ進まず一般の大学へ行くと知った周囲は騒いだ。「なんで行かないんだよ」「俺達への当て付けか」と詮索してくる暇人も沸いたが、自分の好きにしただけで反感を買うのは解せなかった。 否。 心の底では、嗤っていた。 俺の一挙手一投足にキリキリする連中が痛快で、わざと神経を逆なでする振る舞いをしていたのだ。 メフィストフェレスを気取る俺の目に、流行りと見れば無節操に飛び付く俗物が闊歩し、狂騒に沸く世間は実に滑稽に映った。 長いものに巻かれるのは人の|習性《さが》だ。人間は常に情熱を捧ぐ対象を追い求める。俺は連中の手近な偶像だった。俗物どもに施してやるのは気分がいい。俺が求めれば皆喜んで芸をした。咽喉が渇いたと一言呟けば缶コーヒーを貢ぎ、底の雫をこぞって回し飲みする。 大学に入ってしばらくすると、俺は大勢の取り巻きを侍らすのが日常化した。その日もキャンパスで取り巻きとしゃべっていたら、ふと視線を感じ顔を上げる。 渡り廊下の窓の向こうに細身の青年がいた。 アースカラーのポロシャツとジーンズ、こざっぱりした服装。ベリーショートの黒髪と銀縁眼鏡が理知的な印象を強める。切れ長の一重瞼が凛々しい塩顔で、シャープな輪郭が際立った。 癖がなく整った顔だな、と思った。身長はさほど高くもないが全体のバランスがよく、なにより姿勢が綺麗だ。何にも寄りかからず独りで立っている。 窓ガラス越しに一瞬目が合ったが、ルーズリーフを小脇に抱えた青年は、すぐに顔を逸らして行ってしまった。俺の事など興味ないと態度で代弁して。 どこへ行っても注目されるのに慣れていたから、自分が空気になった錯覚が新鮮だった。 次に彼を見かけたのはキャンパス内、学舎裏の暗がりだ。 その時俺はゼミ棟の二階を歩いていた。夏場でたまたま窓が開いていた。 「どうして怒んないの?」 眼下から金切り声が響く。何事だと思ってひょいと覗けば、あの青年と見知らぬ女が向き合っていた。雲行きが怪しい。小声で言い争っているようだ。 「私のことなんてどうでもいいんでしょ」 「そんなことない」 「じゃあなんで何も言わない訳」 「君が本当にそう思ってるなら止める権利ないよ」 「またそれ?全部私の言うとおりなわけ、私まかせでうんうん物分かりよく従うだけ、自分がないの?ただ流されて生きるのは楽よね、相手が勝手に決めてくれるんだから」 「俺はただ……君が一番いいようにしてほしいだけだ」 自慢じゃないが、俺は悪趣味な方だ。他人の痴話喧嘩にも嬉々として首を突っ込む。成り行きを面白がって眺めていたら、突如女が平手打ちを決める。 「斑鳩くんなんかもう知らない!」 乾いた炸裂音。窓から乗り出し、反射的に口笛を吹くまねをした。 男は無抵抗だった。非力な女の細腕、躱そうと思えば余裕で躱せたのにあえてそうとせず頬を張られた。 女の子が泣いて駆け去った後も彼は無言で突っ立っていた。赤く腫れた頬をさすり、ずれた眼鏡を億劫げに直す。 再び上げた目にはしらけた表情、自分を含む世の中すべてがどうでもよさそうな韜晦が浮かんでいる。 すべてに対し平等に冷淡で無関心な眼差し。なにもかもを受け流す立ち姿。 『あらゆる階級を通じて、目立って気高い人は誰か。どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わない人だ』 ゲーテの名著、「ファウスト」の一文を心の中で引用する。 俺から見た青年の第一印象は、ぴたりとこれにあてはまった。 俺は読書家じゃない。たまに暇潰しに読むくらいだ。 「ファウスト」を手に取ったのは馬鹿なマスコミ連中が「音楽界のメフィストフェレス」と持ち上げたからだが、道化者の悪魔にのせられた凡人が、世間知らずの田舎娘を孕ませた挙句に捨てる陳腐なストーリーに食傷した。 彼女に頬を張られても動じないあの男が、表情を歪める瞬間があるのだろうか。 木漏れ日を透かす青年の瞳には静かな諦念が沈んでいた。絶望とさえ言い換えていい。 突然強い風が吹いて青葉生い茂る木々を不吉にざわめかす。 髪を押さえて窓枠を掴んだ俺は、名前も知らない青年の去り行く背中に、カラスの羽ばたきが重なる瞬間を目撃する。 最前フラれた恋人への未練など一切感じさせない踵の返し方。本性を見せた無表情。 今まさに地面から飛び立ったカラスの黒翼を背負い、青年は悪名高いメフィストフェレスに見えた。 「斑鳩?あー知ってる、珍しい苗字だもんね」 一度聞いたら忘れられないっしょ、と友人が笑い、男女とりまぜた仲間と噂話を咲かせる。 俺の周囲には社交家が多いから良い情報源になる。 「下の名前なんだっけ。ハルカ?」 「女みてー」 「有名人なのか」 「っていうかねえ……」 中庭のテーブルを陣取って休憩していた俺は、彼女がもたらす斑鳩遥の情報に耳を傾ける。女の子たちは何故か含みありげに顔を見合わせ、近くの男も巻き込んで笑いだす。 「告白されたら絶対断らない変人。どんなブスでも美人でもブレずにオールOK」 「なのに実際付き合ってみたら拍子抜け。優しいしよく気が付くけどそれだけ」 「ウチの友達がアイツと地元同じだけど、高校ン時からあんな感じなんだって」 「とりあえず付き合ってみるけど後が続かない。てかデキない。ウケるー」 女の子たちが楽しそうな矯声をあげる。若いとは残酷だ。 いない人間の陰口で盛り上がる女性陣に、別の男が半笑いで注意をとばす。 「嗤っちゃ可哀想だろ、好きな子前にして緊張で勃たねーとか童貞あるあるじゃん。経験ないんだよ、許してやれって」 「まあそだね、それは仕方ない」 「ハルカちゃんは繊細なのよ」 「いやいや、彼女がリードしてあげてもダメだったって話。恥のかき損じゃん、男なら一発でしゃんとキメろっての」 派手な茶髪の女の子が蓮っ葉にまぜっ返し、友達がしたり顔で頷く。 「好きじゃないならなんでオーケーだすのか謎だよね、マジ意味わからん。何考えてるんだか」 「遊んでる雰囲気でもないのにね。ギャップ萌え?顔は悪くないのにもったいない」 「よくもないっしょ別に」 「塩顔派だから全然アリでしょ美咲は」 「その斑鳩ってヤツは不能なのか」 際限なく脱線しそうな話題に割り込み、軌道修正を図る。 俺の直截な発言がおかしかったのか、テーブルに菓子を広げた連中の間に笑いが巻き起こる。 「ばっさり言うねー。まあホントのトコはわかんないけどね、噂よ噂」 「斑鳩くんがフラれるのは勃たないからじゃないっしょ」 ベンチに座って枝毛をいじっていた女の子が、突き放すように呟く。 「私の友達がこないだ別れたんだけど……彼女が浮気しても全然怒んないし何も言わないの、おかしいでしょフツーに」 「浮気がバレたのか」 「でもなーんも言わない、気付かないふり知らんぷり。波風立てるのが嫌ったって、あんだけ露骨にいちゃ付いてんのにシカトってありえないし。結局やきもち焼かそうとして自滅だよ、浮気相手の事なんかちっとも好きじゃないのにーって泣いてたわその子」 茶髪の子が一気に紙パックのジュースを吸い上げ、詰まったストローが不快音をたてる。 イカルガハルカ。名前はわかった。 最初は単なる好奇心だった。 二階の窓から偶然目撃した光景が瞼に焼き付いて離れず、斑鳩遥に接近した。 カラスの黒翼を背中に生やす、メフィストフェレスさながらの青年の正体に迫ろうと、アイツがとった心理学の講義にまぎれこんだ。 天井から床まで切られた窓からさす陽射しの中、階段教室の中段に席をとった遥は、熱心にノートをとっていた。 背後から忍び寄ると綺麗に刈り込んだ襟足がよく見える。思わずさわりたくなる、形よいうなじだ。 「ここいいか」 「どうぞ」 堂々隣に座れば一瞬迷惑がるも、固辞は大人げないと譲歩する。彼の反応は計算のうちだった。情報源の話を整理して像を結んだ斑鳩遥は、周囲の目をひどく気にし、体面を重んじる男だった。 俺がちょっかいをかけると上品に眉をひそめてシャーペンを止める。嫌そうに睨まれるとぞくぞくした。思った通り、コイツの歪んだ顔は絶品だ。サディスティックな悪戯心が騒ぎ、ますます頭にのって話しかける。 「遥でヨウって読ませるのか、面白いな」 「逍遥って言葉を知らないか?あちこちをぶらぶら歩くことだ」 「漠然として掴み所がないな、徘徊とどうちがうんだ」 「語感だろ。お前こそ本名か」 「覚えやすくていい名前だろ、上と下好きな方で呼んでいいぞ」 「席を移ってくれないか時任」 「断る」 小気味よい毒舌にとびきりの微笑みで切り返す。 「よろしくな|遥《はるか》」 以来、俺は遥に付き纏うようになった。アイツが行く場所ならどこへでも同伴し、昼食や勉強も一緒にした。 遥は露骨に迷惑がって避け始めたが、その潔癖な顔が歪めば歪むほど、俺の中には奇妙な執着心が芽生えていった。 遥が外に見せている顔は偽物で擬態だ。コイツの本性は決して無害なだけの男なんかじゃない。周囲が非難する遥の主体性のなさは、コイツがひた隠す本質の裏返しに見えた。 だがなぜ隠すのか、それがわからない。 たとえコイツがどんな危ない性癖を持っていても、それはそんなに隠さなければいけない事か。 セックスにほぼタブーを持たない俺は、セックスができない遥にどんどん関心を傾けていく。 遥が俺の狂信者たちに嫌がらせを受けていることは知っていたが、大事にならない限りはほうっておいた。度をこした悪さはもちろん牽制した。遥は俺のおもちゃだ。他人が傷付けるのは許さない。せめて俺が飽きるまでは、傷なんて付けさせるものか。 「この程度気にするな、斬新な模様と思えばなかなかイケる」 「参考にならないアドバイスどうも」 遥は渋い顔をする。俺が嫌がらせの犯人を知っていると、本人は知っていたのだろうか。正直な所どうでもよさそうだった。 シャツを掴んだ瞬間、遥の視線が爪に吸い寄せられた。わずかに見張られた瞳の奥で感情が動くのに勘付く。コイツの表情の変化は珍しいから印象的だった。 遥はクラシックに造詣が深い。それは話していて自然とわかった。 親の影響で幼い頃からクラシックに慣れ親しんでいた事、高校に上がると同時に離婚して去った母親の置き土産のレコードが実家にたくさんある事も知った。 「血の繋がった他人でも、ふしぎと好みは似るんだな」 遥はすべて淡々と話すから、自分を捨てた母親をどう思っているかはわからない。自分の家庭環境を必要以上に卑下する訳でもなく、ありきたりな不幸と割り切っていた。 家を出た母親に言及する瞳には、徹底して冷めた達観が浮かぶ。 俺の努力が実る時が来た。 講義を終えた身体で取り巻きの誘いを断り遥をさがしにいく。アイツが昼食を食べる場所は決まっていた。食堂は混み合って落ち着かないからと、売店で買ったサンドイッチを中庭のベンチで食べるのだ。 放任されて育ったというわりに遥の食べ方は綺麗だ。咀嚼は十回、そして嚥下。アイツの横顔を観察してるうちに、メトロームの正確さで覚えてしまった。 ベンチに遥が座ってる。スマホにイヤホンをさして音楽を聴いてるらしい。すっきり伸びた背中へ気配を消して近付いていく。途中で様子がおかしいのに気付く。 遥は何か陶酔しきっていた。心ここにあらずといった調子で虚空を見詰める横顔の無防備さが虚を衝く。 端正な横顔に見とれる。 次いで驚く。眼鏡の弦が横切る、切れ上がったまなじりから透明な涙が滑り出たのだ。 俺としたことが、束の間言葉を失った。遥は見られているのに気付かない。完全に無防備な状態をさらけだし、心を裸にしている。 「何聴いてるんだ」 ある予感に突き動かされて片耳のイヤホンを奪い、自分の耳に嵌める。 予想通り、流れてきたのは俺の昔の演奏だ。ベートーヴェンの「熱情」第三楽章。 まだ粗削りな自分の演奏に苦笑い、悦に入ってひやかす。 「泣くほど感動したか」 「人のことを考えてない、独りよがりな演奏だな」 照れ隠しをかねてぶっきらぼうに吐き捨てる。涙を一粒零したまなじりはもう乾き、元の不機嫌な表情に返ってしまった。 人の為にピアノを弾いたことなど一度もないと断言する。 生まれてこのかたずっと、自分が気持ちよくなるためだけにピアノを弾いてきた。気持ちよくなくなればすぐやめる程度の思い入れしかなかった。 ピアノはただの道具、時任彼方の隷属物。愛着はあれど執着はない、そのはずだった。 俺が主でピアノは従、その絶対は覆らない。 負け惜しむ遥の態度に、ごくまれな気まぐれを引き起こす。 ベンチの背凭れに寛いで寄りかかり、意地っ張りな遥の耳元で得意げに囁く。 「部屋に来い。お前のために弾いてやる」 最高の殺し文句を完璧なタイミングで吹きこめば、遥の顔に逡巡の波紋が広がっていく。 あの時任彼方がたった一人のために弾く特別なピアノ。 そんなおいしい餌をチラ付かされ、即座に断れる人間がはたして何人いるだろうか。 なるほど、俺は独りよがりを極めている。ずばり本質を衝かれてますます気に入った。少なくとも飽きてどうでもよくなるまでは、コイツを手放したくない。 遥にちょっかいをかける傍ら、俺は大学の内外で色んなヤツと関係を持った。 その日マンションに連れ込んだのは、よく遊ぶジャズバーで知り合った自称シンガーソングライターだ。 「時任彼方がバイセクシャルってのはホントだったんだな、男も女もおかまいなしか。こないだのコンサート見たよ」 「チケットとれたのか?すぐ完売したはずだが」 「動画サイトにアップされてた」 「なんだただ見かよ」 「今日は生で聴かせてくれるか?それか俺の曲弾いて、お前のCD出してるトコに紹介してくれ」 とるにたらない軽薄な男だ。俺の顔と身体、コネめあてに近付いてきたのは明白だ。別にそれでかまわない、気持ちよくしてくれれば文句はない。 独り暮らしのマンションの部屋、練習室を兼ねたリビングには実家から持ちこんだグランドピアノがおいてある。物心付いた時から一緒だった、兄弟のような存在だ。 音楽を虚栄心の踏み台にする人間には邪魔でしかない。 「すっげ高そー。いくらすんの?」 「さあな。四桁か」 「マジ!?」 リビングに足を踏み入れた男の第一声だ。語彙の少なさに反比例し感嘆符が多い。俺は先行して椅子に座り、シャツのボタンを上から外していく。 「どっちが上になる?」 「じゃあ俺が。時任彼方を抱けるチャンスなんてめったにないからな」 男が生唾を飲んで歩み寄る。コイツに俺を弾きこなすのは無理そうだな、と頭の片隅の冷めた理性で惜しむ。男が俺を立たせて椅子に座り、シャツをはだけて脇腹をまさぐる。汗で湿ったてのひらが胸の突起をひっかいてぞくぞくする。 「ピアノでヤるなんて初めてだ、すげー興奮する。いい趣味してんな」 「汚したら弁償だぞ」 「おっかねえ」 抱かれるほうも抱くほうもどちらもこなす。男役も女役も柔軟に対応する。俺はわかりやすい快楽主義者で、気持ちいいか否かが行動の全てを決定する。男の手が身体に伸びてあちこちをまさぐりだす。 薄く目を瞑り前戯に集中、瞼の裏に今まで寝てきたヤツらの顔を思い描く。最初の教師、同級生、担任、ファン……『お前が誘ったんだ』『君が悪いんだ』『演奏を聴いてると昂って』『おかしくなる』 俺の演奏は麻薬だ。素人には刺激が強すぎる。 「あッぁ、あッはぁ」 熱っぽい吐息をだしてよがる。椅子に掛けた男の膝に跨り、背中をピアノに打ち付ける。赤黒い怒張が尻に埋まり、頭の中の五線譜が真っ白になっていく。 やっぱりピアノの上でするのが一番感じる。コイツと俺は一心同体だ。壊れたってかまうもんか所詮同じ穴のむじなだ、気持ちよければそれが全てだ。 「ッふっ、ッあぁっ、そこ、気持ちいい。もっとしてくれ」 「イイ声だすな、中もドロドロだ」 ピアノの蓋に乗り上げて快楽をねだる。俺の股間に屹立するペニス、鈴口から迸った精液がぱたぱたと蓋に飛び散る。目の前の男の顔が何故か遥にすりかわり、アイツを犯しながら犯されているような、奇妙な錯覚に興奮がいや増す。 「あっ……ふ」 「っ、すごい締まる……気持ちいいか彼方?」 「ああ、あっ、そこ、すごくいい……おかしくなりそうだ」 男と遥が二重になる。 繋いだ腰の動きがまた速くなりピアノがギシギシ軋む。気持ちよすぎて思考が濁る。 「こんな姿、ファンやマスコミには見せられない、なっ」 「リベンジポルノはよせよ、炎上する」 「ピアノの上で抱かれるのが好きなのかよ、変態め」 「こっちの方が興奮するだろ」 視線を感じて振り返る。廊下に遥が立っていた。愕然としている。そろそろ来る頃だと思っていた。ドアの嵌めガラス越しに流し目を送り、視線を絡めとって唇を引っ張る。不敵な弧を描く口元と眼差しに遥がうろたえ、あとじさった拍子にスリッパ立てに蹴っ躓く。 「誰だ!?」 「友達だよ。まざるか」 「時任!」 遥が苛立たしげに叫ぶ。第三者の介入にさすがにバツが悪くなったか、そそくさと服を着替えた男が逃げ出していく。 「またメールするわ」 すれちがいざまの男を冷ややかに見る遥。俺はジーンズ一枚だけ身に付けてピアノにもたれる。 「9時には行くってメールしたろ」 「生憎取り込み中でな」 「嘘吐け」 遥が怒るのは当たり前だ。そろそろ来る頃だろうと思ってあらかじめ鍵をかけずにおいたのだ。 「女役なのか」 「どっちもイケる。今日はたまたま抱かれたい気分だった」 男同士のセックスを初めて目撃したにしてはすぐ平常心を取り戻し、俺の非常識を咎める遥が面白く、軽い口調でからかってやる。 憤然とリビングに来た遥がピアノを一瞥、ポケットからティッシュをまとめて掴みだすや、さも忌々しそうに蓋に点じた白濁を拭いとる。 「ピアノの上で……汚したらどうするんだ」 少し驚いた。 他人の精液なんて汚い物を、コイツが拭き取るとは想像しなかった。同じ立場なら俺すら拭くのをためらうのに。 ピアノを粗末に扱ったのが恥ずかしくなるほど、遥の手付きは丁寧だった。ガラスの結露を拭うような、意図せずあざやかな自然さ。 「こんなのはただの道具だ。大事なのは弾く人間」 ピアノに嫉妬する心の働きが不可解だった。本心をごまかす雑さでピアノを叩けば、ティッシュをくずかごに捨てた遥が複雑そうな顔をする。 「機嫌を直せ。聴いてくだろ」 飄々とうそぶいて蓋を開けると、納得しきれないものの立ち去りがたい表情で遥が隣にやってくる。 「……ああ」 逃げる恋人を追いもしなかった癖に、俺が弾くピアノには未練たらたらな様子がおかしくもいじらしく、心をこめて一曲弾いた。 それからというもの、遥にセックスを見せるのが癖になった。 俺がしてるところを見せると遥はいい顔をする。とてもそそる顔だ。演奏とセックスは常にセットだった。遥が部屋を訪れる都度、俺は誰かを抱いていた。たまには抱かれることもあった。 倒錯した情事を見せ付けられた遥はどんな顔をしたらいいか迷い、帰るべきか居残るべきか悩み、事が終わるまで廊下に延々立ち尽くす羽目になる。 ドアの向こうで待ち惚ける遥が可愛くて、俺の遊びはどんどんエスカレートしていった。 俺のことが嫌いなくせにピアノを聞かせると言えば黙って付いてくる遥。ご褒美がほしいのだ。動画サイトの演奏じゃ物足りない、一度生で聴けば虜になる、それが時任彼方のピアノの本質だ。何回もくり返しピアノを聴かせるうちにアイツの耳はすっかり俺好みに調教され、精神からどっぷり毒されてしまった。 「これが本物の『熱情』だ」 「動画とは別物だな」 「当たり前だ、もっと近くにこい」 「パーソナルスペースはいいのか」 「俺とピアノは一心同体だからな。お前が蓋に座っても構わない」 「蓋に座ったら開かないだろ」 「言えてる」 演奏中はお互い言葉少ない。余計な会話はせず、俺は弾くのに集中し遥は聴くのに集中する。 遥に演奏を聴かせるのは官能的なひとときだった。心地よさそうに目を閉じて部屋を満たす旋律に身を委ねる遥。大学では見せない顔を独り占めする優越感。たまにごく淡く微笑が浮かぶ自覚があるのかないのか、そんな時はとても優しい顔をしていた。 会話はいらない。演奏中は鍵盤だけを見詰める。なのにくり返し隣を盗み見るのをやめられない。 遥の顔に微笑が過る貴重な瞬間を見逃したくなくて、その瞬間はまるでこっちがご褒美をもらえたみたいで、演奏が陽気に弾んだ。 『知ってる?斑鳩くんて勃たないんだよ、どんな子と付き合ってもデキないの』 『ホントに人を好きになったことないんだよ、きっと』 『心が冷たいんだ』 本当だろうか。取り巻き連中は好き勝手に言うが、隣で安らぐ遥を見ているととてもそうは思えない。俺のメフィストフェレスは穏やかな表情で演奏に聞き入り、一番気に入りのパートでは、無意識に指で脚を叩いてリズムをとる。 キスがしたいと思った。 だが演奏を途中でやめられない。プロが演奏を途切れさせるなど失格だ。演奏が終わるまで鍵盤から手を離せない代わりに、今この瞬間一番近くにいる遥を目の端で堪能する。 俺だけが知ってる、俺だけの遥。 ある日女を連れ込んで犯していると、玄関の扉を開けて遥がやってきた。 「あっあぁ、彼方ァすごいい、ィくっ、あぁっあ――ッ!」 気まずそうに顔をしかめ、ドアの向こうにたたずむ遥に一部始終を見せ付ける。 はしたない声を上げて果てた女に興味を失い、ミネラルウォーターのボトルを持って廊下にでれば、小一時間待ち惚けをくらった友人に早速皮肉を言われる。 「出直した方がいいか。あれじゃ身支度に時間がかかるだろ」 「いや。すぐ追い出す」 事が済んだら邪魔なだけだ。遥が何か言いたそうに口を開き、諦めて黙り込む。嫌な予感がした。毎日のように待ち惚けを食らい続けて溜め込んだ不満が沸点に達し、遥が踵を返す。 「やっぱり今日は……」 帰したくない。今帰したら意味がない。 咄嗟に手が伸びて、遥のズボンの中心をまさぐっていた。 「勃ってないな」 「ふざけるな!!」 普段の遥からは想像もできない過激な反応を示し、凄まじい勢いで手をふりほどく。 「怒るなよ、あんまり平然としてるから試したくなったんだ」 「覗きで興奮するわけないだろ」 「不能なのか?」 侮辱を受けて耳たぶまで赤くなる。 ああ、いい。 もっとコイツの顔を歪めたい、ぐちゃぐちゃにしたい、どうしようもなく辱めたい。 もっと狂え、もっとあがけ、俺と俺の演奏でおかしくなってしまえ。 感情を出した遥の顔はいい色に染まる。とてもそそる顔だ。 廊下で対峙した遥を底意地悪く嘲弄する。 「お前と別れた女たちが言っていた。大事な時に勃たなかったんだろ」 露悪的で嗜虐的な気分に拍車がかかる。一瞬だけ遥の顔が泣きそうに歪み、すぐまた鉄面皮の下に感情のブレを閉じ込める。 「……ほっといてくれ」 「待てよ」 きっぱりした拒絶を放ち、玄関へ赴く遥を引き止める。 「からかったのは謝る。例の噂を聞いて、本当かどうか気になったんだ」 「だったら直接聞けよ、なんでわざわざ見せ付けるようなまねしたんだ。お前が男や女と手あたり次第にしてるところを見て、ちゃんと勃ったら満足なのか」 眼鏡の奥の切れ長の瞳が揺れる。やりきれない表情にたまらなく嗜虐心が疼く。俺のメフィストフェレス。 「気付いてないのか遥」 「何をだよ」 「俺の演奏を聞いてるとき自分がどんな顔してるか」 おもむろに間合いを詰め、背けようとした顔を手挟んで固定する。 眼鏡のレンズの奥の気弱な瞳を覗き込み、囁く。 「すごくそそる顔だよ」 これまで抱いてきたどんな女よりも、あるいは男よりも欲情をかきたてる顔。すぐさま手を振りほどき玄関から駆け去る背中を黙って見送る。 自分が不毛な恋をしていると、この時初めて気付いた。

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