4 / 5

遥か、彼方 後

あれから遥はぱったり部屋に来なくなった。 大学でも避けられているのはわかっていたが、あえて深追いしなかった。 俺から追いかけたら意味がない。アイツに追いかけさせなきゃ駄目だ。 時任彼方はそんな事をしない。くだらないブランドイメージ。だが、絶対だ。 誰も彼もが俺を特別にしたがる。 「時任くんしばらく休んでたよね、どうしたんだろ」 「欧州コンサートだって」 「すげー、海外かよ」 「ニューヨークのなんとかホールでも公演したんでしょ?新聞で見たよ」 「講義休みまくってよく単位落とさねーよな」 「頭もいいんだよ、尊敬」 誰も彼もが褒めそやす。 「やっぱ俺たちとは次元がちがうよな」 「チケット完売だって~ネットでもとれなかったよ、5分前から待機してたのに悔しい」 「えー転売してない?」 「クラシックってよくわかんないけど彼方がすごいってのわかる、肌にビリビリくるもん」 俺は時任彼方だ。音楽界のメフィストフェレス、そんなこっぱずかしい名前で呼ばれている。誰も彼もが俺に時任彼方らしい振る舞いを求め、時任彼方であることを望む。 あせらずとも待てばいい、遥は必ずまたやってくる。麻薬中毒者が禁断症状に耐えかねてドラッグを求めるがごとく、アルコール依存症が酒を浴びるが如く、俺の演奏に恋い焦がれて自分から部屋を訪ねる。それまで好きに泳がせておけばいい、せいぜいじらして生殺しの苦しみを味あわせるのだ。 アイツは俺から離れられない。すっかり俺のピアノの虜だ。一日一日じっくり時間をかけてそう調教した、俺の演奏なしではいられないように躾けた。イヤホンなんかじゃ埋まらない、録音じゃ物足りない心の隙間を埋めに必ずまた足を運ぶ。 辱められた顔が瞼に浮かぶ。股間をまさぐった時の感触を手にまざまざ反芻する。 「時任くん、いま付き合ってる人いるの」 「フリーだよ」 「特に決まった人はいない感じ?じゃあ……どうかな、お試しで」 キャンパスの中庭に呼び出されて、どうでもいい女に告白された時も、頭の中ではピアノが鳴っていた。手軽な現実逃避だ。遥がいない毎日はとても退屈で張り合いがない。遠くに姿を見かけても無視される、手を振っても素通りだ。 「そうだな。悪くない」 「本当!?」 目の前の女がげんきんに喜ぶ。このあと友達にふれまわるのだろうな、と冷めた思考で考える。 「ずっと前から時任くんのファンだったの、動画の演奏聞いて感動で泣いちゃって……付き合えるなんて夢みたい、嬉しい……時任くんと釣りあうカノジョになれるようがんばるね」 当たり前だ。俺は時任彼方だ。俺の演奏には人の心を動かす力がある。 俺のピアノを聴いて泣いたと主張するファンに会うのは初めてじゃないが、その中で何故遥の泣き顔だけ鮮烈に焼き付いているのか。 アイツはきっと、俺なんかに涙を見せたくなかったはずだ。一人でただ静かに演奏を聴いて、たった一粒だけ涙をこぼした。処世術として鈍感に麻痺した心の水位が自然に上がり、その結果として一粒こぼれたような、どこまでも純粋な涙った。 他の百万人に泣いたといわれるより、アイツ一人を泣かせたことが誇らしかった。 人のことを考えない独りよがりな演奏だと俺の本質を見抜いた遥が、その上で泣いてくれたアイツが愛しかった。 取り巻き上がりの女の子と交際をはじめても上の空だった。遥はなかなか強情だ。自然とアイツの姿を目で追うことが増え、他のヤツと話していようものなら胸の奥をチリチリひっかかれた。 俺の新しい恋人は、時任彼方の彼女のブランドを手に入れて有頂天だった。 付き合いだしてしばらく経った頃、「泊めてほしい」と頼まれて何も考えずオーケーした。遥じゃないならだれでもよかった。 はしゃぐ彼女と寄り添ってマンションへの夜道を歩く。遥がいない道のりはやけに遠く感じられた。隣の女がうるさく囀る。雑音が膨らむ。耐えがたい不協和音、度し難い不快感。なれなれしく腕を組んだ女がうっとり独りごちる。 「時任くんのピアノが聴けるなんて楽しみ」 彼女は悪くない。 脊髄反射で想像したのは、少し前まで遥の場所だったピアノの傍らに顔のない女が立って、安っぽい拍手をしている光景だった。 マンションの前まで来て気が変わった。 「悪いけど帰ってくれないか」 「……どうして?ここまで来たのに」 突然の翻意に女が愕然とする。 「今日は気が乗らないんだ、出直してくれ」 「こないだもそう言ったじゃない。部屋に上げるのは嫌?」 「勘繰るなよ」 「いいでしょ、時任くんのピアノ聞きたいのお願い」 遥の為に空けた場所に、他人が成り代わるのが我慢ならない。 「安売りはしてない」 「付き合ってるんだから変じゃないよね?」 潤んだ目で食い下がる女はどうでもいい。急速に心が冷めていく。 「別れるか」 「え?」 「誰の為に弾くかは俺が決める。干渉されたくない」 「そんな……あの人には弾いてたじゃない」 「遥に会ったのか」 「あの人言ってたよ、時任くんのピアノめあてで通ってたって……友達なのに酷くない?ねえどうして部屋にいれてくれないの、私たち付き合ってるのに」 彼女の口から遥の本音を聞かされても傷付かない。俺がいないところで俺に言及してくれた事実が嬉しかった。アイツの頭の中には俺がいる、俺のピアノが流れてる。きっと今でも一日中、離れていても支配している。 面倒くさい女を適当に巻いてマンションへ向かえば、背後で悲鳴が上がる。 「遥っ!!」 思わず叫ぶ。 俺の恋人だった女が割れた酒瓶を構えて突進、花壇から飛び出した遥が立ち塞がる。華奢な手を捻じ伏せて酒瓶を奪い、顔面蒼白の女を押し殺した声で促す。 「遥、大丈夫か?なんでここに……手を怪我したのか」 「たいした事ない」 「あ……」 「警察は呼ばない。ただの不注意が起こした事故だ、忘れろ」 遥の右手のひらはざっくり切れている。俺を庇ったせいだ。 アスファルトに滴る真っ赤な血に動揺し、激痛に脂汗を浮かべた遥を抱き起す。酒瓶の切っ先は俺の手を狙っていた。 こんな時まで遥はひどく冷静だった。相当痛いはずなのに泣き言はおろか呻き声も漏らさず、俯いて耐えている。 右手のひらの痛々しい傷口を庇って突っ伏す遥を支え、夜道に立ち尽くす女を威圧する。 「二度と近付くな」 女の目鼻立ちがぐにゃりと歪み、決壊する寸前に踵を返して去っていく。 言い過ぎだとは思わなかった。どうでもいい。遥に肩を貸してマンションに入り、エレベーターで部屋へと連れて行く。 「ッ……ぐ……」 「すぐ着く、我慢しろ。頭の中でメトロノームを数えてろ」 「無茶いうなって、本当音楽ばかだな」 上昇するエレベーターの中、肩を抱いて励ます。脂汗に塗れた顔で弱々しく苦笑いする遥が愛しくて、肩を抱く手を強める。 久しぶりに遥が部屋にきた。リビングのソファーに埃を被った救急箱を持参、不器用に手当てを施す。 誰かに包帯を巻くのは初めてだった。 俺の手に他人を癒すこともできるという当たり前の事実が、何故だか不思議でしょうがない。 物心付く頃から漠然とピアニストを志し、あるいは物心付く前からさだめられていた。 手はピアニストの命だから大事にしろと、親をはじめとする周囲に言われ続けてきたせいで擦り傷すら作らず、絆創膏を貼った経験もない。 この手がセックスを介さず誰かと触れ合えるなんて、想像もしてこなかった。 「お前にもできないことあるんだな」 遥が面白がる。 「人に包帯を巻くのは初めてだからしょうがないだろ」 俺は拗ねる。 「それもそうか」 「一応処置はしたが、あとでちゃんと病院に行け。パッと見縫わなくてよさそうだが素人判断を信用するな」 「さっきの子は彼女か」 「ああ……まあな。もう終わったが」 しばらくどうでもいいことを話す。初夏に会ってから数ヶ月、遥が部屋に来た事は何度もあるが、お互いソファーに座って話すのは初めてだ。コイツはソファーに掛けて演奏を聴くのを是とせず、必ずピアノの傍らに立ち続けた。 それが時任彼方の演奏を聴く者の義務であるかのように。そして演奏が終わればさっさと帰ってしまうのだ。 ずっと引き止める口実をさがしていた。ピアノより近くに来てほしかった。 俺の遥。 可愛いメフィストフェレス。 「アセクシャルって知ってるか。無性愛……他者に対して恋愛感情を抱かない人間のことだ。多分、俺もそれだ」 遥の口から告白された時、どう返せばいいかわからなかった。仕方なく無難な回答をする。 「医者に診せたのか」 「どこへ行けっていうんだ、精神科か?心と体どっちに異常があるんだよ。男も女も誰も好きになれない俺はおかしいんですか、結婚はおろか子供も作れず一生独りで過ごすんですか、なんとかしてください先生って縋ればいいのかよ」 俺は何もわかっちゃいなかった。遥の苦悩の深さや孤独も、今まで耐えてきた疎外感すら本当の意味では理解していなかった。 俺の性的嗜好を分類するならバイセクシャルだ。 男でも女でも奔放に関係を結ぶし、セックスは最高の娯楽と定義している。遥はアセクシャルと自己申告する。両者の溝がどれほど深いか、この時は何もわかっちゃいなかった。 「……思春期に入ってからその手の情報をあさった。一口にアセクシャルと言っても色々いる。普通に誰かを好きになるけどしたくないできない人間、誰も好きにならずできないしたくない人間……俺は後者だ。どんな子と付き合っても、その子がどんなに露骨なことをしても、全然ヤりたくならないんだ。身体が反応しない」 俯き加減に訥々と語る遥。横顔に苦悩の翳りがさす。 友人が本気で悩んで秘密を打ち明けてくれたのに、その顔に欲情していたのだから手に負えない。 同情より劣情を。 愛情より欲情を。 くだらない世の中の輪をかけてくだらない常識に固執するこの顔が、歪むところが見たい。 俺の手で歪ませたい。 「もともと結婚や子供に興味はない。幸か不幸か一人が苦にならないタイプだ。だけどな時任、自分の意志でそれを蹴るのと、最初から選択の権利が奪われてるのは全く別だよ」 めちゃくちゃにしたい。 ぐちゃぐちゃにしたい。 お前の顔が歪むところをもっと見たい。 「求めには応じる。望まれたら与える。ずっとそうやって生きてきた、そうする以外ほかなかった。俺自身が他人に何も望まず求めないなら受け身でいくしかないじゃないか、それがそんなに悪いことか、誰とでも寝れるお前やフツウにご立派な世間に嗤われなきゃいけないことなのか」 遥は器用に見えて不器用だ、上手くやってるようで全然やれてない。 コイツは潔癖すぎてマジョリティに属せないことを罪悪のように考えている。 アセクシャルならアセクシャルでそれを認めて好きに生きればいい、自分を肯定して好きに生きればいい。後ろめたく思う必要なんて全くないのに。 「普通じゃない。おかしいんだきっと」 せっかく巻いてやった包帯が力の入れすぎで赤く染まる。 普通になりたがるくせに同じ磁力で特別に憧れる遥。 ただ一人秘密を打ち明けられた恍惚感に酔い痴れ、念願叶って弱みを掴んだ優越感に酔いしれ、生真面目な遥が不憫で、ままならなさがもどかしくて、俺は囁く。 「遥、マスターベーションの経験はあるか」 遥がぎょっとする。当たり前だ。 「俺も一応男だからな。あるよ」 「ちゃんとできたのか」 「ああ……刺激すればちゃんと反応する、生理現象さ」 「何を想像しながらやった」 「何も。目を瞑ってひたすら手を動かすのに集中する、ただの作業で苦行だよ。普通なら好きな子の顔を思い浮かべてするんだろうな。芸能人でもいい、理想の異性を……同性を思い描いて」 「手伝ってもらった事は」 「話聞いてたか?言える訳ないだろ、本気で怒るぞ」 「怖がるな。目を閉じてリラックスしろ。一人でするときは何を考えてるんだ」 「何も考えてない」 「本当か?」 メフィストフェレスに囁く。 「完全に頭をからっぽにするのは難しい。何も考えない為に何かしてるだろ」 遥の太腿にそっと手をおき、徐徐に付け根へと移していく。 とうとう遥は白状した。 「……頭の中で音楽を流してる」 言質をとった。叫び出したいほどの歓喜。俺の調教は実を結んだ、斑鳩遥は音に欲情する変態に堕とされた。 「目を瞑れ遥。俺の手だけ感じてろ」 「離せ」 「動くと傷に響く」 利き手が使えないのをいいことに遥を蹂躙する。ねっとり股間を捏ね回してズボン越しに摩擦すれば、切なげに眉間を歪め、次第に息を荒げていく。艶っぽい表情の変化に生唾を飲む。俺だけが知ってる斑鳩遥、本当の遥。 「気持ちいいか」 「……ッぐ」 「固くなってきたぞ」 「時任っ、よせ、も……」 「勃ってるじゃないか」 眼鏡の奥でぎりぎり眇めた目に苦痛と快楽が瞬く。額に滲む脂汗が髪の毛を濡らす。奉仕の継続を拒む片手の抵抗は弱々しすぎて、ねだっているようにしか見えない。 「頭の中で音楽を流しておけ」 お前の潔癖な顔を歪めたい。 ズボンの前を寛げ、下着を脱がしてペニスをさらす。 「あっ、ぅっく、ァあ」 遥。俺の遥。可哀想で可愛いお前。 潔癖な顔を羞恥と快楽に染めて喘ぐ、俺の手と幻聴に振り回されて悪あがく、眉間に寄る皺も仰け反る咽喉もズレた眼鏡も全てが愛おしい、愛おしすぎて壊してやりたい。手が離せないのが残念だ、ピアノを弾いてやりたいのに。 理性の箍がいともたやすく弾け飛び、遥自身を手掴みでしごく。 「もっ、許せ、だす」 遥が呻いてぱたぱたと白濁が散る。淡白な顔に似合わず濃い精液……相当たまってたのか。 「偉いな遥。たくさん出たじゃないか」 汗でしっとり湿った頬を手で包んで褒めてやる。 遥は呆然としていた。目は虚ろで身体は弛緩、自分の身体に裏切られた絶望の表情。 「……こんな……異常だ」 「おかしくない。ちゃんと勃ったんだぞ、喜べよ。お前の身体は俺の手に欲情するんだ。俺ならお前を最高に気持ちよくしてやれる、何度だって絶頂にいかせてやれるんだ」 身体の変化を持て余して途方に暮れる遥に接近、頭の中でメトロノームを鳴らして暗示をかける。 「落ち着け遥、もっと割り切って考えろ。俺はお前が気持ちよくなる手伝いをしたい、お前は普通になりたい。じゃあいいじゃないか、俺の手なら問題なくイケるんだ。わかるか、反復練習だよ。ピアノだって基礎の繰り返しが大事だ、身体に条件反射を覚え込ませればいずれ他の子ともできるようになるかもしれない」 大嘘だ。 遥はだれにも渡さない。 俺だけの物だ。 あの夜から俺達の関係は決定的に変わってしまった。 「部屋で待ってる」 「わかった。シャワーを浴びてから行く」 「うちのを使えばいい」 「線引きは大事だろ」 あの日から遥は何かを諦めた。体面を繕うのをやめた、と言い換えてもいい。 「身体は好きに使え。でも挿れないでくれ」 「どうして。怖いのか」 「汚いじゃないか」 その一点さえ守れば、遥はとても従順だった。 聡明なアイツが俺のでまかせを鵜呑みにしたはずがない。一方で詭弁にさえ縋りたいほど追い込まれていたのだ。 遥は普通になりたい。故に普通から外れることはしたくない。筋は通っている。 毎日大学で顔を会わせる遥がどんな色っぽい顔で喘ぐか他の誰も知らない、どんな艶っぽい声で泣くか誰も知らない、俺と遥だけの秘密だ。 約束を破ればばらすと脅した。遥は全部受け入れた。 どんなに忙しくても最低週一、部屋にやってくる遥を好きにもてあそんだ。 アイツは音楽に欲情する。俺の手とピアノに興奮する。 「あっ、ぁッあ、っく、ときとッよせ」 まるでパブロフの犬だ。もてあそんでいる間は手が離せないので大音量でレコードをかけた。遥がイくまで演奏が何回リピートするか、賭けて遊んだこともある。 「今日は3回。結構もったほうだな、喜べよ」 「っは……は……」 回数を重ねるごと遥の目と心が死んでいく。目隠しを持ち出せば冷静な顔が強張った。視覚を奪われる恐怖には慣れないらしい。 色んなことを試した。色んなことに挑戦した。目隠しをした方が反応がいいのがわかった。 「外せ時任……」 「もっと頑張れるだろ」 ピアノの上で犯すのが一番興奮した。俺と一緒だ。服は脱がさず椅子に座らせ、ピアノに寄りかからせてフェラチオをする。無理矢理開かせた脚の間に跪き、股ぐらに顔を突っ込んでしゃぶる。 遥はとても頑固だ。行為中も絶対に縋り付いてこない。俺の首ったまにかじり付いてこないか期待したが、革張りの椅子に白く強張る指をめりこませて耐えぬいた。 「っは……熱……」 爪先を窄めて開き、また閉じてこみ上げる快感の荒波をやりすごす。目隠しで顔の上半分を覆っていても、表情が切なく歪むのがよくわかる。 今すぐ目隠しをとって素顔を暴きたい。もっともっとめちゃくちゃにしたい。 コイツは俺の音楽に隷属してる。 「ピアノを汚しちゃだめじゃないか、遥」 「してないぞ……」 「嘘を吐け。蓋をさわってみろ、お前の出した物でぬれてるだろ」 宙をさまよう手をとって蓋に導き、わざと白濁を拭わせる。耳たぶまで赤らめて唇を噛むのが愛しくて、もっともっと酷くしたくなる。 「今日は賭けをしようか」 「ろくでもないこと企んでるな」 「よくわかるな」 諦めて立ち尽くす遥に歩み寄り、後ろ手に隠した布を見せる。 「まずは目隠しをする。俺がピアノを弾く。一曲弾き終わるまでにイけるかどうか賭ける」 「何をすれば」 「とぼけるなよ」 眼鏡の奥の切れ長の眸が揺れる。俺がさしだす布を大人しく受け取り、代わりに眼鏡を外す遥。 「性悪だな。ピアノの腕前と見た目以外に褒める所がない」 「尽くしてやってるじゃないか」 遥から預かった眼鏡をシャツのポケットにひっかける。受け取る間際、ちらりと右てのひらの傷痕が見えた。 自ら顔に布を巻いた遥が、床に直接座り込んで準備をする。 視覚を奪われた遥にも合図が伝わりやすいように、椅子に深く掛けて軋ませる。 「行くぞ」 軽く深呼吸して鍵盤に両手をおく。遥の白く繊細な手が股間へ伸び、おずおずとジッパーを下ろしていく。 俺は耳がいい。鍵盤と向き合っていても研ぎ澄まされた聴覚は逐一息の喘ぎや衣擦れを拾い上げ、視界の外の興奮を伝えてくる。 「ッく、ッぅ」 豊饒な旋律と絡み合い加速する息遣い、脚を開き膝を立てた遥がオナニーをする、下唇を血がでるほど噛んで快楽を貪るのに集中する、遥の出す音が演奏と二重の音楽になる。 摩擦の間隔は演奏の盛り上がりに比例する。 遥の性感帯は鼓膜だ。聴覚だ。俺は熱を入れて遥を追い立てる、鍵盤に手を叩き付けて狂った旋律を紡ぐ、息遣いが呼応して荒くなりしめやかな衣擦れが響く。 マスターベーションの経験が少ない遥は気持ちよくなる近道がわからず、先走りでぬめる手を惨めに滑らせ、延々回り道をする。 「あぁッ」 床にぱたぱた白濁が散る。遥がびくびく痙攣、ぐったり突っ伏す。俺は演奏をやめない。射精の余韻で動けない遥を無視し、演奏は最高潮に達する。 「もうよせ……ッあぁ」 俺はやめない。たるんだ目隠しで目元を半端に隠したまま、すっかりバテた遥が床を掻き、弱々しく呻く。一度は果てたペニスが微痙攣して汁をたらす。鼓膜は無防備だ。粘膜は鍛えられない。一度達してもなお演奏が終わるまで苛まれ続け、可哀想な遥が息も絶え絶えに身もがく。 漸く最後の一音を弾き終えて蓋を閉めると、遥はこうべを深くたれて喘いでいる。 「一回聞きたかったんだが、それってイッたあとも玩具で嬲られる感覚に近いのか?」 目隠しをもぎとった遥が、殺したそうな眼光で睨んでくるのにぞくぞくした。 まともじゃない。どうかしている。歪んでいた。 どこでどう間違えたのかわからない。 遥にはどこか悪魔的なところがあった。 いやならいや、好きじゃないなら好きじゃないと断れば済む話なのに、相手に求められたからとただその一点を建前に交際してはすぐ別れる。 自分の性癖を後ろめたく思う必要などないのに、単なる保身からひた隠し、世間を欺きたいが為に相手を利用する。 貶め弄びたぶらかす。 アセクシャルかどうかは関係ない。斑鳩遥自身が生来ひどく希薄な男なだけだ。 本人は断じて認めないが、傾向が人間を作るのではなく人間が傾向を作るのだ。 露悪的な振る舞いこそめったにしないが、本性を擬態するほうがずっとたちが悪い。 本当はだれより強欲で貪欲なくせに、本性を偽り世間を欺く事なかれの小市民。 言い訳にすぎないかもしれない。 そんな斑鳩遥だからこそ、俺はどうしようもなく惹かれてしまったのだ。 大学を卒業してからも歪な関係は続いた。 遥は俺の呼び出しに応じざるえなかった。アイツは堅実な就職をし、俺はコンサートで海外中心に飛び回った。 「お前はピアノ一本でやってくんだろ」 「そうだな。他にできることもないし」 「謙遜だか卑下だか。ああ嫌味か、気付かなくてすまない」 「毒舌だな。遥は心療クリニックのカウンセラーか」 「ちょうど空きがでてな、拾ってもらえてよかった」 「たまにはコンサート聴きに来い、チケットは友人割引でくれてやる」 「殆ど海外だろ、費用が馬鹿にならないよ」 傍目にはただの不似合いな友人同士に映ったろうが、俺の部屋を訪れる都度遥は好きにもてあそばれ、他の誰にも見せない素顔をさらけだした。 『久しぶりに帰れそうなんだ。会えないか』 「すまない、都合が悪くて」 『またか。半年ぶりだろ』 「スケジュールが詰まってるんだ、人手が足りないからシフト交代も頼めないし」 『うまい店があるんだ、おごるぞ』 「悪いな、埋め合わせはまたいずれ」 かけた電話が一方的に切れる。 メールの返信頻度は次第に遅くなった。 ブエノスアイレスのホテルのスイートルーム、現地で知り合った褐色の男が、全裸にバスローブを纏い窓辺にたたずむ俺に抱き付いてくる。 「誰にかけてたんだカナタ」 「日本の友達だよ」 「ピアニストかい?」 「いや……クリニックで働いてる」 「医者かい?どこで知り合ったんだ」 「大学が一緒だったんだ」 「なんだ、カナタのカウンセラーかと思ったよ」 窓の向こうでネオンが瞬く。 ガラスに映り込んだ顔は大学時代より老けていた。 「ただの腐れ縁さ」 俺と遥はどんどん疎遠になっていった。否、遥が一方的に距離をとっていったというのが正しい。 久しぶりに帰国した俺がスマホで再三連絡をしても、遥はそっけない。 「部屋に寄ってくか」 「仕事があるんだ」 「ツレないじゃないか、明日にはアメリカ行きの飛行機に乗るのに」 「お互い十代の頃みたいにいかないだろ、ちょっとは落ち着けよ」 窘める口調は随分落ち着いていた。迷惑がる気配を隠しもしない。 俺への遥の感情は嫌悪感と煩わしさと憎しみでできあがっていた。 三か月、半年、一年。遥に会えない日々が募り行く。大学では毎日会えたアイツが遠くなる。 俺の知らない職場で俺の知らない人間に囲まれ俺の知らない顔で笑う遥。 世界中を飛び回りステージで脚光を浴びながら、俺の目は一人しか見ていない。どんな拍手喝采やトロフィーよりもアイツの皮肉が恋しい。 満員の会場に目を配って遥をさがす。背格好が似た観客がいると胸が騒いだ。 クラシックしか弾いてこなかった俺が、オリジナルの作曲に着手したのは22の時だ。 タイトルは決まっていた。これだけは譲れない。 初挑戦の作曲は難航した。何か月も何年もスランプに苦しんだ。コンサートで世界中を巡る傍ら、旅先のホテルに常に楽譜を持参して、ああでもないこうでもないと手を加えた。たまに帰国した時は、自宅マンションの練習室で実際にピアノを弾いて推敲を重ねた。 この曲を捧げる相手は決まっていた。最初から一人しかいない。 俺が生まれて初めて手がけた曲を気に入ってくれるかどうか。 アイツは気に入らないかもいれない。クラシックの名曲には劣ると酷評するかもしれない。かまわない、それでいい、アイツの鼓膜と心に刻み付けることが叶えばそれでいい。 この曲を聴いたアイツの反応を想像する。幻滅するだろうか。感動するだろうか。今度はどんな顔を見せてくれるだろうか。早く聴かせたいと気ばかり急いて捗らない。 俺の全てを賭して書き上げた曲。 時任彼方の集大成。 離れていた時間を執念で埋め合わせ、情熱で呼び戻すために、書いては消し書いては消し五線譜をひたすら埋めていく。 遂に曲の完成が目前に迫った。 遥の立ち会いのもと終止符を打ちたくて、最後の一音だけ空白にしておいた。 連絡をとろうとした矢先に珍しく本人から電話がきた。会いたいと乞われ、即座に店を予約した。 大学を出てから遥が誘いを断る回数は次第に増えていき、会っても飲んで別れるだけが暗黙の了解となった。 密なスケジュールからどうにか時間を捻出して連絡をとっても、遥は煮え切らない返事をするばかり。 遥とするセックスのまねごとは気持ちいい。 至福のひとときだった。 以前は自分のためにピアノを弾いていたのに、遥に出会ってからはアイツの為にだけ弾いていた。 遥はどんどん遠くへいく。 堅実な地盤を築き、平凡な日々に埋没したい一般人と、こんな出口のない関係を続けていいはずないとわかっていても手放せない。 だからこそ、久しぶりに会えて嬉しかった。 「いい店だな」 「だろ?日本に来たら絶対寄るんだ」 二人で食事を終えたあと、連れて行ったバーで飲み直す。 遥はなんだか思い詰めていた。二人で食事をするのは2年ぶりか、見た目はさほど変わっていない。 間接照明を取り込んだ眼鏡のレンズがが冷たく光る。 またこうして飲めるのが嬉しくて、もったいぶってグラスを手に取る。 「乾杯するか」 「何にだよ」 「悪友との再会に」 「大袈裟なヤツだな」 「まともに応じてくれるの何年ぶりだよ」 「色々忙しかったんだよ」 カクテルを一口飲み、遥が質問する。 「しばらくこっちにいるのか」 「まあな。働き過ぎたから休みたい」 「その方がいいかもな、最近露出が多すぎだ。無理してるんじゃないか」 「とんでもない、俺が目立ちたがりなの知ってるだろ。遥は?先生って呼ばれるのいい加減慣れたか、白衣着てるとこ見たいな、内緒で借りてこいよ」 「規則違反だよ。バレたらクビだ」 遥が苦笑いする。凪いだ目に学生時代の面影が過る。なんだか昔に戻った気分で、背広を着た肩をなれなれしく叩く。 「お互い三十路前か。時の流れは残酷だね」 「お前は変わらないな」 「お世辞は嬉しくないぞ、学生時代に比べたらくたびれたさ」 芝居がかった動作で両手を広げておどけてみせる。 とるにたらない世間話を終えたあと、遥が甘いカクテルで唇を湿して俺へと向き直る。 「報告したいことがある」 「なんだよ改まって。クリニックに有名人がきたか」 「結婚するんだ」 カクテルを口に運びかけた手が宙で止まる。 冗談かと思った。 極め付けにたちが悪い、遥には似合わない類の。 真面目くさった遥をのぞきこんで即座に茶化す。 「突然だな。相手は?俺が知ってるヤツか」 「職場の同僚だよ、年は二歳上だ。式は来年の二月を予定してる。お互いの親族にも紹介済みだ」 淡々と予定だけを述べる事務的な口調。遥はこっちを見もせず、グラスの水面に固い視線を投じている。思い詰めた横顔に一抹の後ろめたさが透けていた。 「本気なのか?だってお前……」 「本気だよ。彼女は真面目でいい人だ、結婚後も仕事は辞めずに続ける方針で一致してる。話してて価値観もあうし、変に気負わずにいられるから居心地がいい」 何を言ってるんだ。 「そうじゃないだろ」 低い声色で否定、グラスの底をカウンターに叩き付ける。勢い余って琥珀の飛沫が散り、遥の眉根が咎め立てる。 「相手はお前のこと知ってるのか」 「アセクシャルかどうかって?もちろん」 さらに問い詰めれば開き直り、グラスの残りを一気に干す。 「誤解してるよお前、俺たちは何も好き合って結婚するんじゃないんだ。人として好感もてるし同僚として尊敬もしてるけど、結婚するのは別の理由だ。しいて言えば利害の一致、共犯関係だ」 「わかる言葉で言え」 じれて迫る俺に対し、遥はゆっくりと大きく深呼吸する。 配偶者として実に理想的な、良き夫、良き父親となる将来が見込まれる誠実な表情で。 「彼女もアセクシャルなんだ」 ピアノ線が切れた。 「俺と同じだよ。誰も好きにならない、性欲を感じない人間なんだ」 極限まで張り詰めて、あっさり切れた。 カクテルグラスの脚を神経質にひねくり回し、落ち着き払って話しだす遥。 俺が見たことない安らいだ表情で。 初めて世界に居場所を見出した、自分に軸を通した眼差しで。 「お互いそうだと気付くまで少しかかった。気付いてからは早かった。初めて会った時からひっかかってはいたんだ、自分と似たものを感じたっていうか……うまく言えないけど」 「ゲイの偽装結婚みたいなものか」 咽喉に張り付いた舌を剥がして茶化す。 俺と並んでカウンターに座り、パートナーに言及する遥の口調には、素朴な安堵と尊敬が滲んでいた。 初めて仲間を見付けた喜び。 「交際を始めて確信した。初めて泊まった夜、おもいきって告白したよ。俺は勃たないんだって……誰も好きじゃない、好きになれない人間だって。彼女は一言も責めず、自分もそうだって言ってくれた」 こんな腑抜けた顔で笑う遥、俺は知らない。 俺は気持ちよくすることでしかお前を繋ぎ止められないのに、お前が人生のパートナーに選んだのは、身体の繋がりを否定しなお受け入れる同類なのか。 その現実に一番うちのめされた。 お前の身体と心が欲しくて音楽で奉仕してきたのに、報われなかった。 遥は俺を裏切った。 勝手に共犯関係を解消した。 俺たちは音楽で分かち難く結ばれていたのに、拗れに拗れっきった十年来の関係をさっさと清算して、憧れる価値もない普通の仲間入りをはたすのか。 この俺を捨てて。 時任彼方を置き去って。 「なんで好きでもないのに付き合った、破綻してる」 「わからないのか?生まれて初めて『同じ』だと思ったから、本当の所を確かめたかったんだよ」 お前にはわからない。 俺がどんなに孤独だったか、たった一人で苦しみ続けてきたか。 誰とでも寝れる男が誰とも寝れない男に惚れても不毛なだけだ。 遥は自分を好きになるような男を決して好きにならない。 恋しても無駄なのに。 「誰も好きになれないくせにひとりぼっちは嫌だなんてわがままだろ」 「好きに言えよ。俺はお前みたいに強くない」 「傷をなめあって満足か?その為に結婚するのか?」 「彼女は俺を許してくれた。自分もアセクシャルだって告白して、できない俺を受け入れてくれた。恋愛感情はないけれど、一生一緒に暮らしていきたいと思える程には尊敬してる」 「日和ったな。幻滅したよ。そうやってパートナーを不幸にするのか」 「彼女も納得してる、合意の上の結婚だ。どっちが犠牲者かなんて短絡な話じゃない。出世や世間体を考えたのは否定しない、もうすぐ三十歳だ、ここで決めてしまえば結婚はどうした相手はいるのか余計なお世話な面倒くさいこと聞かれずにすむんだよ、さんざん回り道した挙句やっと普通への近道を手に入れたんだ。俺は彼女を幸せにできるように努力するし、これからは誰にも何にも恥じず普通にやってくんだ」 くだらない。 くだらないよ遥。 お前が欲しがるもの全部くだらない、そんなの何の価値もない。 頭の中であらん限りの憎悪と怒りが渦巻く。グラスを握る手が軋み、心臓が締め付けられる。 「俺との関係は、回り道か」 「……そうだよ」 遥が空のグラスを握り締め、かすれた声で小さく肯定する。 「お前が好きだったんじゃない、お前のピアノが好きだったんだ。それだけだ」 俺はどうでもいいと、ただ俺のピアノが好きだったんだと、さんざん俺に尽くされてきた男が語る。 頭の中で遥と過ごした日々が回る。二階の窓から見下ろした暗がり、カラスの翼を携えたメフィストフェレス。階段教室の真ん中でノートをとる横顔、図書室でレポートを書く姿、中庭のベンチに掛けた背中、ピアノの横に立ち尽くす姿…… 気持ち良さそうに目を閉じた表情までハッキリ思い出せるのに 「おめでとう遥」 「……怒っていいぞ」 殊更快活な口調で偽りの祝福を投げかければ、遥がいたたまれずに呟く。 律義に結婚報告をしてくれた腐れ縁の友人にカクテルを追加注文、せいぜいおどけてみせる。 「なんで怒るんだよ?ちょっと裏切られた気はしたけど、もともと遊びみたいなもんだろ。年齢を考えたら身を固めたくなるよな、わかるよ気持ち」 飴色に輝くカウンターを滑るカクテルグラス、その片方を確保する。遥はまだ申し訳なさそうに俯いてる。俺の背広のポケットには睡眠薬、素早くカプセルを解体して粉末を注ぐ。琥珀の液体に溶けて混ざる粉。 背広の胸ポケットに入ってたのはたまたまだ。ブエノスアイレスに行った時、現地で買った残り。 スランプで不眠気味だと嘆いたら、肌を重ねた男が安く売ってくれた。 「お前もせっ付かれるのか」 「結婚は?お相手は?取材じゃ毎回聞かれる」 さりげなく遥にグラスを渡す。 何も知らない馬鹿な男が、グラスに口を付けて無神経な質問をする。 「本命はいないのか」 お前だよ、遥。 お前しかいない。 十年来の報われない片想いだ。 最期の夜に起きた事は、全部鮮明に覚えている。 遥の肩を抱いてマンションに到着する「ほら、着いたぞ」上下に傾ぐ視界。玄関に入った「服は脱げるか」「ああ……」寝室のベッドに無造作に投げ出す。泥酔した遥は朦朧としてろくに抵抗もできない「首元を寛げた方が楽になる」「手間をかけるな」「気にするな、腐れ縁だろ」器用にネクタイを解いてシャツの襟元を開く。 漸く異変に気付くが遅きに失す「待てよ時任」ベッドに飛び乗って服のボタンをむしる、首筋に噛み付くようなキスをする「はなせ、人を呼ぶぞ」「防音設備は完璧だ。第一助けがきたところでどう説明する、俺とお前の関係を全部暴露するのか、痴話喧嘩で片付けられるな」胸板をなめて唾液の筋を描く。 わけもわからず抵抗する遥の背広を手早く脱がす。 恐怖と嫌悪に慄く顔の横にスマホを投げ、嘲笑と共に挑発。 「婚約者にSOSを送るか?代わりに通報してくれるかもしれないぞ」 「頭冷やせよ、たちが悪いぞ」 「どうして?傷付けたくない?汚点を知られるのが怖いか」 泥酔した身体は言うことをきかず、体格と腕力で上回る俺に、いともたやすく押し倒される。 「俺とやったこと、相手にばらされたくないだろ」 耳元に吹きこんだ脅迫が気力を削ぐ。 「学生時代からずっと時任彼方のおもちゃにされてたなんて、相手が知ったらどう思うだろうな」 「俺は悪くない、そっちが勝手に」 「合意の上だ。共犯だ。一人だけ逃げるな」 独りだけ逃げるのは許さない。 「一回でいい、これっきりにする」 どうしてだ時任彼方、俺はこんな惨めで脆くて滑稽で情けない人間じゃなかったはずだ、傲慢なほど自信にあふれてお前や皆を見下してたはずだ、なのになんで取るに足らないお前なんかに縋り付く、抱かせてくれと懇願までする。 「頼む遥」 そんなの好きだからに決まってる。当たり前じゃないか。 世界中のだれよりお前に惚れてるから以外に答えがあるか。 シーツに投げ出された右手のひらの古傷を唇でなぞる。 酒瓶で裂かれた傷痕が仄かな熱を帯びて色付く。 遥がこれから受ける苦しみを少しでも紛らわせるためにCDをかける。去年収録した俺のアルバムだ。遥は全然リラックスしてない。ただただ嫌悪と恐怖に顔と全身をこわばらせ、往生際悪くベッドから逃げ出そうとする。足を掴んで引き戻し、シーツに磔にする。アルコールが回って弛緩しきった身体はろくに抵抗できず、俺の指と舌でどこもかしこも蹂躙される。 「痛ッぐ、ぁぐ」 挿入の経験のないアナルに指を突き立て、中を掘り進めていく。 「やめてくれ、吐きそうだ……気持ち悪い……」 遥が泣く。 弱々しく啜り泣く。 「痛ッぐ、やめ、ときとっ、あぁッぅ」 力ずくで脚をこじ開ける。ろくにほぐしもせず容赦なく突き入れる。大きく逞しい手で遥の目を塞ぎ、慈悲深い暗闇をおろす。 俺が一番好きなベートーヴェンの『熱情』、第三楽章が大音量で響き渡る中遥を犯す。シーツを掻き毟って悶える身体を引き立て、後ろから挿入する。手加減はできない、十年間我慢した、もう限界だ。 誰にも渡したくない一心で、強引に身体を繋げる。 遥が死に物狂いで嫌がり痛がるのを無視して、奥の奥まで抉って前立腺を叩きまくる。 遥はいやでも俺の手と音楽に欲情する、そういうふうに時間をかけて躾けたのだ。 「なんっ、で、汚いいやだ時任。気に障ったなら謝る、俺が悪かった頼む許してくれ」 欲しいのはそれじゃない 俺にはこれしかないのに できた曲をまだ聴かせてないのに逃げるのかお前ひとりだけ幸せになるのかどこの誰とも知らない女と余生に入るのか 眼鏡が弾け飛んで床ではねる、身体を引き裂く激痛に遥が泣き叫んでシーツを掴む。 「時任、ッあっぐ、すまない、俺ッが、全部俺のせい、ぁッァ」 遥は勘違いしてるがアセクシャルだってできないことはない、俺が懇切丁寧に刺激してやれば勃ったようにやる気になればできるのだ。とても根気はいるし、コイツにとっては屈辱的かもしれないが、最初から行為が成立しないと見切りを付けるのは早すぎる。 俺のピアノを流しながら女を抱くのか。どんな顔で。どんな姿で。 想像もしたくない。 「ぁッ、あッ、うっぁっ、あぁッあ時任、やっぬけッ痛ッぁ」 俺は気持ちよくすることでしかお前を繋ぎ止められないのに、お前が人生のパートナーに選んだのは、身体の繋がりを否定しなお受け入れる同類だった。 最悪だ。 これ以上の裏切りがあるか。 俺が俺じゃなけりゃよかった、お前がお前じゃなけりゃよかった、俺はお前になれないのにお前なんか好きにならなけりゃよかった わけもわからず泣いて謝る遥、何度も強制的に絶頂させられ果てた顔を手挟んで訴える。 「気持ちいいって言えよ」 助けてくれ。 許してくれ。 どうか、 遥の額に額を合わせ、心の底から懇願する。 「言ってくれよ、頼むから」 嘘でもいいから、どうか。 凌辱は夜明けまで続いた。 精魂尽き果てた遥は裸のまま隣で寝ている。 先に起き出した俺は服も着ずに未完成の楽譜を引っ張り出し、震える手に持った鉛筆で、最後の音符を書き込む。 十年越しの曲が完成した。 タイトルは決まっている。 早く遥に聞かせたい。 コイツがどんな顔をするか、早く見たい。 寝室の窓にはブラインドがおりている。ブラインドの隙間から細く斜めに注ぐ陽射しが、乾いた白濁にまみれた遥の肌を縞模様に染める。 「遥」 名前を呼ぶ。 ベッドに起き上がり、意識の途切れた遥に寄り添って寝顔をのぞきこむ。 学生時代、何度もコイツに目隠しをさせた。 視界を奪われた遥は不安そうだったが、結局俺の命令に従って、マスターベーションをしろと言えばしたしフェラチオにもけなげに耐え続けた。 もし今、抱かせてくれと頼めば抱かせてくれたのか。 俺の知らない女と結婚を決めたお前が。 答えはすぐにでた。ありえない。斑鳩遥は時任彼方を決して好きにならないし、正面切って抱かせてくれと頼んだら幻滅したに決まってる。 コイツは俺の中にメフィストフェレスの幻を見ている。 本当の俺は悪魔でもなんでもない、ただの矮小な俗物だ。ちっぽけな男だ。 疲れ果てた遥の寝顔を見守り、短い前髪をかきあげる。 お前に目隠しをさせた理由は単純だ。 目隠しをしていれば、唇を寸前まで近付けてもわからない。 「……馬鹿だな。どのみち手が離せないのに、本当に馬鹿だ」 両手が鍵盤で塞がってるのに、何を企んだのか。 もしあの時コイツにキスする度胸があれば、何か変わっていたのか。 鍵盤に触れているよりコイツに触れてる方が心が安らぐなんて、時任彼方失格だ。29年間付き合ってきた自分に愛想が尽きる。 遥の瞼が微痙攣し、うっすらと目が開く。 「起きたか。身体は……」 焦点が合わない眼差しが宙をさまよい、俺を見上げて凍り付く。 ベッドを下りた遥が覚束ない足取りでトイレへ直行する。全裸のまま服も着ず、トイレになだれこんで便器に吐く。 俺が一晩かけて出した物、入れた物を全部掻きだして吐きだそうとする。 「大丈夫か」 「くるな」 ジーンズだけ穿いて追い縋る俺を制し、便器に取りすがって嘔吐。青を通り越して白くなった顔色。 「遥……」 弱々しく名前を呼ぶ。 「気持ちが悪い。痛いだけだ」 こんな事がしたかったのか? その程度の俗物か? 遥の目が、俺にそう言っていた。 学生時代に部屋に連れ込みピアノの上で犯した連中みたいに、俺の事もそういう目で見てたのかと無言でなじる。 便器に顔を突っ込んで死ぬほど苦しげに吐き続ける遥。たまらず駆け寄って背中をさすろうとすれば、乱暴に振りほどかれる。 「力ずくで気が済んだか。目を背けるな。お前がしたことをちゃんと見ろ」 髪の毛はぐちゃぐちゃに乱れ、全身乾いた白濁に塗れ、唇で食まれた鬱血のあと。 一晩中抱き潰した足腰は立たず消耗しきり、目の下にはべったりと憔悴の隈が浮く。 遥の目には極大の嫌悪と軽蔑。 「お前がブチ壊したんだよ、時任彼方」 全身で俺を拒絶し、吐き捨てる。 何も言い返せない。 遥は被害者で俺は加害者、カクテルに一服盛って部屋に連れ込み犯した卑劣な強姦魔だ。俺たちは共犯なんかじゃない。遥は被害者で、俺は加害者だ。 俺はコイツの友達じゃない。 斑鳩遥の人生を無茶苦茶にブチ壊した、底なしのクズだ。 遥はもう何も言わず、俺を無視してバスルームへ消えていく。重たい脚をひきずり、壁に寄りかかって辛うじて歩く姿から、無茶なセックスの代償が読み取れた。 セックスじゃない。 レイプだ。 人のことを考えない、独りよがりな、自慰のような。 俺はアイツの身体を使って自慰をした。 今までずっとそうだった。 俺がセックスだと思っていたのは、ただの独りよがりなオナニーだった。 「遥」 謝っても許されない。俺なら許さない。どうしたらよかった、誰も好きにならないできないお前にほかにどうしたら伝えられた、ピアノが弾けるのにお前は弾けないお前だけは弾けない、どんなに心をこめたって感情を叩き付けたってすれ違いで届かないじゃないか。 「すまない。俺がわるかった、許してくれ」 か細い謝罪はシャワーの音にかき消された。遥を追ってバスルームに行こうとして躓き、倒れ、床を這いずってリビングへ行く。そうだ、俺にもまだできることがある。 震える両手を励まして蓋を開け、完成したての楽譜をセットする。 アイツの為に弾こう、心をこめて弾こう、後悔なんてしても遅いがただ弾こう。 聞いてくれ遥。 お前の為に作った、お前に捧げる曲だ。 「あっ、が」 途中で腕が滑って蓋が落ちる。ピアニストの命の手が鍵盤と蓋に挟まれ激痛が走る。蓋にプレスされた手に遥の右手がだぶる。 『どうして庇ったんだ』 『うるさいな、勝手に身体が動いたんだよ』 『俺のこと嫌いじゃなかったのか、嫌いなヤツを咄嗟に庇うなんておかしな話だな』 『…………』 『素直になったほうが可愛げあるぞ』 『……お前のピアノが聴けなくなるのはもったいないだろ』 遥。 元恋人に襲われてから数日後、冗談ぽく尋ねた俺に根負けし、遥は言った。はにかむような笑顔で。 ほんの少しだけ心を許した、友人を茶化す眼差しで。 なんで忘れていたんだ。 なんであんなひどいことができたんだ。 再び上げる気力が尽きて蓋に突っ伏す。シャワーの音が間遠に響く。遥が出てくる前にしなくちゃいけないことがある。蓋に噛まれて腫れた手で鉛筆を掴み、メモの切れ端に走り書き、寝室に戻る。遥の背広のポケットに折り畳んだ紙片を入れ、脱衣籠へ戻す。 リビングへ取って返し、再びピアノの前に座る。蓋へと上体を倒れ込ませ、硬質な板と同化する。シャワーの雨音が止み、スライドドアが開き、きちんと背広に着替えた遥がでてくる。 言わなければ。 伝えなければ。 手遅れになる前に、もう手遅れかもしれない、それでもこれだけは伝えなければ。 「遥」 罪悪感にうちひしがれ、ありったけの勇気をふりしぼり口を開く。 リビングをまっすぐ突っ切った遥が眼前で立ち止まり、断固として要求する。 「アドレス消してくれ」 喉元までせりあがった言葉が消滅、のろのろとスマホを出して目の前でアドレスを削除する。俺の作業を黙って見守ったあと、今度は自分がスマホを出し、俺のアドレスと今まで交わしたメールを全消去する。 遥の中から俺の痕跡が消えていく。忘れられていく。 「酷い顔色だな」 「無茶苦茶されたからな」 「すまなかった」 「これ以上惨めにするなよ」 俺を見る遥の目。被害者が加害者を非難する目。友情は腐り果て、腐れ縁すら断ち切って、残ったのは冷ややかな軽蔑だけ。 ずっとお前が欲しかった。 だれより、なにより、好きだった。ピアノすらかなわない。 遥を繋ぎ止めるよすがを必死にさがす、からっぽの部屋にさがす。ここにあるのは打ち捨てられたピアノと過去の残滓だけ、なら答えはおのずと決まってる。 俺にできるのは、ピアノを弾くことだけだ。 「一曲聴いてかないか」 お前のために、お前のためだけに、最高傑作を。 「もうあきた」 たちどころに拒絶され、椅子から崩れ落ちる。手が痛い。どんどん腫れてきている。ピアニストの命はどうでもいい。ただ一曲弾き終えるまでもってくれと、お前に聞かせ終えるまで動いてくれと一縷に念じる。 「行かないでくれ」 ああ、本当に。 「なんでも好きなのを弾いてやる、お前が好きだったベートーヴェンの熱情はどうだ、きっと気に入る。新しい解釈に挑戦したんだ、批評家筋の評判もいい、今度の公演で披露する予定だったが特別に」 なんてかっこ悪いんだ、俺は。 夢中で手をのばして縋り付く、捨てないでくれと全身で懇願する。そんな事言える資格ないのに、最低に卑劣なやり方で傷付けたのに、全て手遅れになってから待ってくれと引き止める。 行かないでくれ。 捨てないでくれ。 「俺はお前が」 「幻滅させないでくれ」 メフィストフェレスが翼を広げる。 怒りが膨張すると同時、ピアノの上に立てかけられた楽譜が乱雑に舞い散る。遥が薙ぎ払ったのだ。 視界を遮るばらばらの楽譜、俺が遥を思い浮かべて書き上げた曲。これから弾こうと思っていた、俺に残された唯一の希望。 「それでも時任彼方か?」 タイトルは 「最後まで独りよがりだよ、お前」 遥か、彼方。 お前と俺の曲。 遥はもうこない。二度と部屋に訪れない。 閉め切った暗い部屋、バスルームの浴槽にシャワーで湯をためる。 公式な遺書は書かないことに決めた。加害者の言い訳なんて聞きたくないはずだ。両親に恥をかかせるのは本意じゃないし、遥を必要以上には苦しめたくない。死ねばどのみち迷惑をかけてしまうだろうが、それはしかたない。腐れ縁のよしみで諦めてくれ。 意識が朦朧とする。既に睡眠薬を大量に飲んだ。早く効くように願い、カプセルを割って粉末を溶かした水は苦かった。途中で吐きそうになったが我慢した。遥はもっと苦しい思いをしたろうから。 償いなんて知るか。 贖いなんてできるわけない。 だから死ぬしかない。 遥が去ったあの日から、俺はピアノが弾けなくなった。 時任彼方は遂にピアノにも見放された。 斑鳩遥が一番になった俺に、ピアノが愛想を尽かしたのだ。 あの日を境に音楽が消えた。遥がリビングを出て玄関の扉を閉めた瞬間、頭の中の音楽が消えてしまった。静寂が苦しい。もう弾けない。 ピアノが弾けない俺に、価値なんて何もない。 追加で睡眠薬を何錠か噛み砕く。吐き戻したい苦味を必死に耐えて嚥下する。 バスルームに濛々とこもる湯気とうるさいシャワーの音が、虚無の水位を上げる静寂を埋め合わせてくれるのだけが唯一の救いだ。 遥にはもう会えない。 泣き言は言わない。 全部俺の身勝手が招いたことだ。 「……時よ止まれ、汝は美しいとでも書けばよかったな」 猛烈な睡魔が押し寄せて意識が混濁する。瞼がどんどん重くなる。浴槽に上半身をもたせ、霞む視界に虚ろな手をのばす。 時間は止まらない。 何も美しくはない。 でも、それでいい。それでいいんだ。 お前は俺の熱情を呼び覚ましてくれた。 なのにお前の熱情を見付けてやれなかった。 そんなもの最初からなかったのかもしれない。 お前に俺のピアノを遺す。最期にして最大のいやがらせだ、せいぜい憎んでほしい。 途中で力尽きた手がタイルに裏返る。浴槽のふちに頬を寝かせて、次第に目を閉じていく。 俺の生涯最初にして最後の曲の楽譜は、いずれお前のもとに届く。 既に信頼できる筋に手配済みだ。俺が死んでから一か月か二か月後、あるいはもっと後、世間が俺の自殺を忘れてほとぼりが冷めた頃、お前の住所に大判の郵便物が届く。その中に入っている。 『遥か、彼方』 俺の遺書だ。 有り難く受け取ってくれ。 視界がだんだん細くなる。眠くて瞼を開けていられない。二度と浮上できないまどろみの渕に沈みながら、楽譜の裏面に震える字で走り書きした、相変わらず独りよがりなメッセージを追憶する。 『ゆるさないでくれ。』 お前に許された俺を、俺はきっと許せない。 すぐさま許されて忘れられる位なら死ぬまで憎まれるほうがずっとマシだ。 すまない遥。 愛してる。 自分もだれも愛せないお前のぶんも、だれよりお前を愛するから。 だからどうか、ゆるさないでくれ。

ともだちにシェアしよう!