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エピローグ 今は此方
時任の墓に墓碑銘《エピタフ》はない。
ただ生没年と氏名だけが彫られている。生前の華やかな経歴に比べ、ややそっけない印象は否めない。
もっとも、死後まで仰々しく飾り立てられるのを時任自身は望まないかもしれないが。
……いや。アイツはひねくれ者だから、俗物のオモチャにされる自分の墓を見て嗤っているだろうか。
馬鹿げた考えに自嘲を禁じ得ない。俺は無神論者だ、霊魂はおろか死後の世界も信じない。
人間は死ねば無になる、それだけだ。
底なしの虚無が自我を溶かし、不可知の永遠が訪れる。
感傷的になっているのを意識し、我知らず唇が皮肉な弧を描く。
ここは時任が埋葬された神戸の山手の霊園。
時季外れなせいか、俺以外に来訪者は見当たらない。なだらかな丘の向こうには遊歩道が敷かれ、綺麗に芝生が刈りこまれている。
ドイツ人の祖父由来かカトリックの伝統か、時任が葬られたのは西洋式の個人墓だった。
横長の墓石には英語で故人の名前が書かれている。
海外の霊園では専属の造園家を雇い、広大な敷地を英国庭園風にデザインしていると聞く。ここも例に漏れず糸杉を植え、プロムナードと四阿を配す公園を模し、美しく景観が整えられていた。
キリスト教では自殺がタブー視されているはずだが、この霊園は寛大らしい。俺の価値観が時代錯誤なのだろうか。
死者を悼む場所に透明な静謐が舞い降りる。
花は持ってこなかった。
俺に花束なんて贈られてもアイツは嬉しくないだろうと思った。
わざわざ仕事を休んで神戸まで来た目的は、勝手に死んだ男の墓参りなどでは断じてない。
「先週式を挙げた。報告が遅くなったな」
今日は結婚の報告に来たのだ。左手薬指にはシンプルな銀の指輪が嵌まっている。まるで枷のように、重い。
目を瞑る。
思い出す。
時任の死後、報道の熱が冷めた頃に一通の封書が届いた。中にはアイツの処女作にして遺作となる楽譜が入っていた。
タイトルは『遥か、彼方』。
俺の、俺たちの名前が入っていた。
時任が書いた曲だとすぐにわかった。最後の方の筆跡はひどく乱れていた。書いては消し書いては消しを繰り返し、譜面は所々薄汚れていた。
遥か、彼方。
句読点で此岸と彼岸に区切られた関係。けっして相容れない懸隔と断絶。
左手薬指の指輪が重い。
自然と俯いて無感動に呟く。
「忘れ形見なんて押し付けられても迷惑だ」
あんなの、まるで俺たちの子どもじゃないか。
馬鹿げた考えだ。俺たちは男同士で、アイツは誰でもよくて、俺は誰でもだめだった。
万一別の道があり、まかり間違って俺たちが結ばれたとしても、子どもを生すのは絶対に不可能だった。
だからなのか?
時任が人伝に送り付けた楽譜は捨てるに捨てられずとってある。
俺の部屋の机の引き出しに、鍵をかけて。消印は海外になっていた。
コンサートツアー中に懇意になった知人に頼んだのだろうか、相変わらず回りくどいまねをする。
公表したらせっかく落ち着いた世間がまた騒ぎ出す、言いたくないことまで根掘り葉掘り詮索される、下衆なマスコミに付き纏われるのはごめんだ。
遺族に返そうか少し悩んだものの、俺を受取人に指名した私的な遺書を両親に見られるのは時任の本意ではあるまい。
ただでさえ息子の自殺で失意に沈んでいるのだ。
「……景色がいいな」
対話の体を成さない虚しい独り語り。
それでも呟かずにいられない、語りかけていないと気が変になる。
時任の望みは何だ。
お前は今幸せか。
あの楽譜を押し付けて、それで満足なのか?
俺じゃ弾けもしないのに。
「ピアノの練習なんてしないからな、絶対に。お前と違ってセンスがないんだよ」
俺には時任のピアノだけで十分だった。
他の音は全部一緒くたの雑音にしか聞こえない。
あの曲は時任が弾いて初めて完成する、他の誰が弾いても未完成の模倣品に堕す宿命だ。
時任が世を去った今、あの譜面を弾きこなせるピアニストは存在しない。
先週正式に籍を入れた妻はピアノを習っていたと言った。ピアニストになるのが子供の頃の夢だったらしい。
話の流れで時任と友人だと話したら驚愕し、「結婚式には呼んでね」とねだられたのが遠い昔の事に思える。
結論から言って、彼女の夢は叶わなかった。
俺が叶わなくした。
本当はあの夜、招待していいか聞くはずだったのに。それが実現したら、アイツは俺の友人席に座る予定だった。
「最低だな」
十年来時任としていた事を考えれば、厚顔無恥な開き直りに吐き気を催す。
俺はそういう人間だ。
誠意より世間体を、信頼より保身を優先する男だ。
妻を裏切り、時任も裏切り、誰も彼もを裏切ってアイツを友人席に座らせようとしていた自己中ぶりに反吐がでる。
またしてもひどく自暴自棄で露悪的な気分がぶり返し、墓石に向かって開き直る。
「知ってるか時任、人殺しは現場と墓に戻るんだそうだ。葬儀が終わった後に被害者の墓を訪れて、懺悔だか満足感だかに酔うんだそうだ。俺はもうどっちも済ませたぞ」
時任が死んだ時、俺の心も死んだ。
今は何も感じない。ただ冷え冷えとした虚無だけがある。
この先一生、喜びも哀しみも感じないのか。
この先一生、お前の残響に支配され続けるのか。
ならばきっと、メフィストフェレスの心中は成功したのだ。
復讐する権利すら与えられない。
呪詛する資格さえ与えられない。
嘗て俺の中に確かにあったはずの憎悪も怒りも、時任彼方が死んだ瞬間に全部麻痺し、斑鳩遥の形骸だけが取り残された。
お前がいない人生が余生みたいだなんて、はじまりも終わりもない、終止符すら打たれてない白紙の譜面みたいだなんて認めたくない。
ゆるさないでくれと時任は乞うた。
望み通りにしてやる。
喪服のスーツの肩に黒点が滲む。雨粒だ。空が陰鬱にかき曇り、お誂え向きの雨が降りだす。生憎傘は持ってないし、あったところで差す気もない。
メフィストフェレスの亡霊はいない。
俺が見ているのはただの幻覚、聞いているのはただの幻聴で、時任彼方はもはや地上のどこにも存在しないのが現実だ。
立て続けに地上に点じ、線を引く雨粒が真新しい墓石を濡らす。
外界の雨音と内なる残響が幾重にも重なり合って響く。
ゆるさないでくれがあいしてるに聞こえた理由が、それが何故まだ聞こえ続けるのか、ずっとわからない。
冷たい小雨に打たれながら小さく呟く。
睦言めいて限りなく優しい声音で。
「ゆるさないでやるよ、時任」
薬指の指輪が重い。
重すぎてどこまでも沈んでしまいそうだ。
どうやら通り雨だったようだ。
落ちる間隔が間遠になって雨が止むや雲は晴れ、芝生が浄められた霊園に一条の光が差す。
雨上がりの澄んだ空気の中、耳の奥に流れ続ける『熱情』が一瞬凪ぎ、安堵したように微笑む友人の残像が瞼裏を過ぎる。
その全て俺の罪悪感が見せる幻覚にすぎなくても
「お前を許さないでいてやる」
鼓膜の裏側で鳴るピアノの幻聴が呪いにあらず、愚にも付かない慰めだと悟った時、初めて喪失感を憶えた。
遥か彼方なんかじゃない。
今ここにいる俺が、もういないお前のそばに居続けることしかできなくなった俺が、死ぬまでずっとゆるさないでやる。
お前が欲しがった形ではないけれど、お前に執着する感情の中には確かに愛憎もあったのだから。
すべらかな墓石に手を翳し、表面に彫られたメフィストフェレスのなりそこないの名前をなぞると、最後の雨粒が指輪に当たって弾けた。
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