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第10話

 近所のこぢんまりした公園に語らいの場を移す。  いまどきの子供は家にこもってゲームが主流で公園遊びは不人気だという印象があったが、ここは周囲にマンションやアパートが多いせいかそこそこ活況を呈している。  砂場で山を作る子と手分けしてトンネルを掘る子、アニメキャラを印刷したプラスチックのバケツを持って水道へ向かう子、シーソーが上下する度はしゃいで歓声を上げる子。  「あ、転んだ」  隣で小金井が呟く。  視線の先、友達と駆けっこしていた男の子が地面に倒れる。  砂にまみれた顔が歪む。泣くかな、と緊張したが、友達が引き返し「だいじょうぶ?」と声をかけるや涙を見せたくない虚勢か意地か強く頷いて立ち上がる。  膝に付いた砂を払い、友達を追って再び駆け出す男の子に小金井が音のない拍手を送る。  「えらい。男の子はそうこなくっちゃ」  ぼくたちは公園の片隅のブランコに座っていた。  ブランコといえば公園の目玉、子供たちにもっとも人気を博す遊具の代表格。  そのブランコを真昼間っから大の大人が占拠しては当の子供たちはおろかお母さん連からも顰蹙を買う。しかし不思議と文句は出ず、微妙な空気を察してか子供たちも寄ってこない。就学年齢に達してない子供と主婦を除き真っ当な人間は本来学校か会社へいく時間、児童公園の隅でブランコを占領し暇を潰す男ふたりは、良識あふれる奥様がたに忌避される。  小金井は人目を気にせず堂々とふるまう。  ぼくはといえばベンチのまわりで井戸端会議を開く主婦の視線を避け俯く。  おしゃべりに興じる主婦が時折ちらちら詮索の目を向けてくるのがなんとも居心地悪い。  青いペンキで塗ったブランコに座った小金井は、食材で張ったビニール袋を地べたにおろし、おもむろに口を開く。  「さっきのお兄さん?」  小金井を振り向く。手の中でうるさく鎖が擦れ合う。  「ごめん、聞いちゃった。階段の下で。なんか深刻な雰囲気ただよってきたから割り込んでいいものか悩んで、結果盗み聞き。東ちゃんはともかくお兄さんの地声でかいんだもん、聞く気がなくても聞こえちまうって……言い訳になんねーか、はは」  「とっくに追い付いてたんですね」  「足速いもん、俺」  というか、ぼくが遅いのだ。体育のランニングは必ず最後尾だった。わざとぼかした言い方をする小金井の優しさが、逆に辛い。  どうりで絶妙のタイミングで仲裁に入ったはずだ。小金井はぼくと兄さんの口論を一部始終聞いてしまった。ならぼくたちの微妙な関係もわかるだろう。案の定、いつになく遠慮がちな横目でさぐるようにぼくをうかがい、第一印象を率直に述べる。  「おっかなそうな人だね。東ちゃんとは正反対に堅苦しい感じの」  「……はい」  「あんまり似てない」  「……子供の頃からよく言われました」  ぼくは何をやらせてもダメなヤツだ。兄さんは何をやらせても優秀だ。そんな二人が似ているはずない。  「だいぶ興奮してたね、お兄さん。怒ってた。すぐ手が出るタイプ?」  「………悪い人じゃないんです。ただちょっとカッとしやすくて、手が出るのが早くて」  無意識に兄を庇う。  歯切れ悪く兄を弁護すれば、小金井は「ふーん」と深く追及せず頷く。  兄さんは自分にも他人にも厳しい。特にぼくに厳しく接する。  優秀な兄さんからすればはたち過ぎて親のすねをかじって漫画アニメゲームを卒業できずアパートの一室にひきこもるぼくの生活態度は甘えにしか映らない。実際、兄さんの言い分は正しい。  ぼくだって頭じゃなんとかしなきゃってわかっている、現状に焦燥を抱いている。けれども抜け出す努力をするには今の生活はあまりに居心地いい。  停滞した日常、将来の決断を延々先送りにするモラトリアムの日々。  金のかかる趣味にかまけ自堕落に暮らすぼくを、常識人な兄さんは常々苦々しく疎ましく思い、時に手を上げ更正を図らせようとする。  兄さんの気持ちはそれこそ痛いほどわかる。  他人の気持ちを理解できなくても想像はできる。職場でぼくの存在が公けになれば恥をかくのは兄さん父さんだ、はたち過ぎてアパートにひきこもった次男の存在はふたりにとって恥でしかない。  社会不適合者を蔑む実兄のひややかな目を思い出し、鎖を握る手に力がこもる。  「お兄さん、医者なんだ」  小金井がなにげなく聞いてくる。  惰性で頷き、聞き取りにくい小声で付け足す。  「……勤務医です。今日もぼくのところよってから病院もどるって……忙しい人なんです、兄は。優秀で。頼りになって。患者さんや患者さんの家族からも信頼されてる。本当はぼくのところに来る暇なんてないのに」  「お医者さんか。すげー、かっこいい。まだ若いのに。あ、でも背広も似合ってたね。白衣バージョンも見たいかも」  小金井の単純さを羨ましく思う。  「ぼくの父、院長なんです。兄は父の病院で働いてるんです」  だれかに話したい、聞いてもらいたい。だれにも言えなかった、話す相手がいなかった。  今なら身近に小金井がいる、話を聞いてくれる人が隣にいる。  信頼感とか安心感とか言葉にしてしまえば陳腐なものを、小金井のテキトーな人柄に対し漠然と抱いてるのは否定できない。  『まったくダメなヤツだな、お前は』『情けない』『いい年して漫画アニメゲームばかり』『現実逃避も大概にしろ』  怒りと失望の入り混じった兄さんの顔、険悪な形相、耳に障る怒鳴り声。  口論を聞かれた上、廊下に這い蹲って生活費をかき集める光景を見られた。  もうですでに恥ずかしい姿を見られてる、この上恥をさらすくらいなんだ。  「……前に聞きましたよね、小金井さん。ぼくの親が金持ちかって。たぶん……家は裕福な方です。普通よりちょっと。父が病院を経営してて、そこそこ余裕があるんです。兄は長男で、子供の頃から出来がよくて、跡継ぎとして両親に期待されてました。学校の成績もすごくよくて、性格もさばさば明るくて、友達も大勢いて……ぼくとはほんと正反対なんです。父は次男にも医者になってもらいたかったみたいだけど……」  『まったくダメなヤツだな』  『お兄ちゃん見習ってしっかりしてよ』  もう随分会ってない父と母の顔が瞼の裏をよぎる。  「……正直、ぼく、出来が悪くて。運動はもちろん、勉強もぜんぜんだめで。これでも一応努力したんだけど、さっぱりで。その……こんな性格だから友達もひとりもできなくて、ずっといじめられてばっかで。それでも少し前までは、父さ……父も母も、口うるさく叱ってたんです。今日の兄さんみたいに、お前そんなことでいいのかって、いい年して漫画アニメゲームにかまけて情けない、しっかりしろ、ちゃんと就活しろって。だけど……」  語尾が萎む。  鎖を握る手からふっと力が抜けていく。  「一年前、兄が結婚したんです」  小金井が無言で続きを促す。  小金井の視線を避けるように俯き、スニーカーの靴底で地面を軽く蹴る。  「綾さん……兄の奥さんになる人はすごくいい人で、ぼくにも優しくしてくれた。もともと看護婦で、兄とは職場結婚だったんです。両親も彼女の事は気に入ってて……実の息子より贔屓してたくらいで。それは全然いいんです、さすがにやきもちやくような年じゃないし。ぼくも彼女の事は……綾さんは、すごく感じのいいひとだなって思った」  言葉を続けるのが苦しく、空振る舌と萎えそうな意志を励まし、口を開く。  「兄さんは結婚して、実家で親と同居することになった。だけど……なんか、ばかみたいな話なんだけど。両親も兄さんもぼくの趣味の事、お嫁さんに話してなかったんです。恥ずかしくて。ぼくだって勿論言えなかった。それで、いざ夫婦になって、綾さんがこっちに移るってなった時に問題が発生したんです。はたちすぎた次男が就職もせず、漫画アニメゲームに囲まれてひきこもり同然の生活してるのがお嫁さんにばれちゃまずいって。うちの親、人一倍体裁気にする人たちだから……」  一年前、実家を出ることが決まった時。  荷物をダンボールに詰めるぼくを戸口で監視し、両親が囁いた言葉が忘れられない。  『悪いけど東、今度からあんまりこっちに顔出さないでね。連絡は電話でお願いね』  『綾さんは知らないからな、お前がこんな……』  父が渋面で言いかけやめた台詞は、おそらく。  「『こんなダメなヤツだなんて』『こんな恥ずかしい趣味もってるなんて』」  兄の結婚と同居を口実に家を追い出された。  ぼくの存在と趣味は兄の奥さんから隠蔽された。ぼくは、家の恥だから。  「……兄夫婦と両親の同居がきっかけで、一年前、家を出ました。アパートの敷金も親に払ってもらったんだから、甘えてるって言われたらそれまでなんだけど。それから一年間、実家に帰ってません。親とは口座に生活費を振り込んで引き出すだけの関係で……兄さんとも今日ひさしぶりに会って。久しぶりの再会がアレなんて、ほんとアレですけど」  実家とは疎遠になった。  両親はぼくをいないものとして扱っているし、兄さんだって。  力ない笑いでごまかそうとしてごまかしきれず、笑みを作ろうとした顔筋がへこたれ、何度目かわからぬため息が口を突く。  今は疎遠な両親も、むかしはぼくを可愛がってくれた。  長男と比べはるかに出来の悪い次男を精一杯庇い励ましてくれた。  むかしはぼくもここまで卑屈じゃなかった。  ここまで吃音と噛み癖が酷くなかった。  日常生活に支障が出るほどどもりが悪化したのは一人暮らしを始めてからのここ一年の事だ。  「……何度も何度も失望して、期待するのに疲れちゃったんです」  両親も。兄も。  家族の期待を裏切り続けたのはほからぬぼく自身だ。ぼくに両親を責める資格はない。  両親も兄も別段薄情なわけじゃなく、ただただ当たり前に普通の人なだけだ。  立ち直るきっかけは何度もあったのに。  真面目に勉強すれば大検だってとれたかもしれないのに。  この数年ぼくがしたことといえば逃げることだけ、逃げ続けることだけ。  カーテン閉めきった実家の部屋にこもってパソコンに夢中で漫画ゲームアニメフィギュアに現をぬかして、実家から追い出されたらアパートの一室に逃げ込んで漫画ゲームフィギュアに耽って相も変わらず現実逃避のモラトリアムを脱却できず停滞した日常にひたりきって社会復帰の気力さえ失いつつある。  「……なんか……ありがちな話ですよね。ありがちすぎてつまんないや。笑っていいですよ」  身の上話が一段落し、意識の外に遠のいていた子供たちの歓声が帰ってくる。  自分の足元に視線を投げたまま、自嘲と自虐と一抹の照れ隠しの混じった口ぶりでそっけなく突き放せば、小金井が大真面目に考えこむ。  「……質問いい?」  「なんですか」  「タッチなの?」  「はい?」  「南ちゃんはどこさ?」  この男馬鹿だ。  本音が顔に出たぼくの方へ身を乗り出し、激しい手振りで訴える。  「出来のいい兄と悪い弟ってまんまタッチじゃん、タッチなら南ちゃん不可欠だよね、んで肝心の南ちゃんはどこいったのさ。あ、ひょっとしてお母さんの名前が」  「……三人目が女の子だったら南になったかもしれませんけど、二人で力尽きたみたいです」  「そうなんだー」  ……真面目に話して損した。  身の上話とも人生相談ともつかぬシビアな話を、それにふさわしい深刻な顔と雰囲気で明かしたにもかかわらず、小金井は相変わらず小金井だった。  同情も軽蔑もせず、なにも考えてないように朗らかに笑いつつ軽く地を蹴ってブランコをこぐ。  小金井の奔放さに毒気をぬかれ、その動きを目で追いつつひとりごつ。  「ブランコなんて乗るの小学校ぶりだ」  「俺は中学ぶりかな。施設にあったから」  「施設?」  「言ってなかったっけ?施設育ちなの、親いねーし」  言葉を失う。  ついさっきまで自分こそが世界で一番不幸なような顔をしていたぼくに、小金井はそんな過去など吹き飛ばすように笑いながら言う。  「悪ガキだったからさ、毎日ぶん殴られてた。東ちゃんの兄貴は平手だからまだ優しい方じゃん」  慰めとも励ましともつかぬ台詞。逆にフォローされたじろぐ。  たった今まで世界で一番自分が不幸だと思っていた、家族に愛想を尽かされ追い出された可哀相な自分に酔いしれていた。  小金井に身の上を語りながら、心のどこかで自分を哀れんでいた。  正直、小金井がそんな過去をもっていたなんて想像さえしなかった。  ぼくは今の小金井しか知らなくて、小金井の過去なんか知ろうともしなくて、ヒモと自称するくらいなんだから女の人のところを渡り歩いて気楽に気ままに何の悩みもなく暮らしてたのだろうと勝手に決め付けていた。  小金井にこんな形でフォローさせた自分の鈍感さが嫌になる。  ぼくが退屈でありふれた身の上話をさも深刻げに語ったせいで小金井も生い立ちの一端を明かすはめになった。ぼくのせいだ、ぼくが余計なことを言ったから……小金井に気を遣わせて……スーパーでも勝手にキレて怒鳴り散らして小銭を投げ付けて、そうだ小銭、あのあと小金井はひとりでどうしたんだろ、ぼくがぶちまけた小銭をいちから這い蹲って拾い集めたのか?  どんだけ迷惑かければ気がすむんだ、ぼくは。  「……………っ………」  不甲斐なさに胸が詰まる。  小金井の過去と比べたらぼくの悩みなんてすごくちっぽけで、陳腐で、ぼくは身の上を小金井に語りながら優越感さえ抱いていて、可哀相な自分というフィクションに溺れて、相手の事なんか理解しようともしなくて  こんな時、どうすればいい?  謝ればいいのか、そしたらかえって気を遣わせちゃうか、流したほうが……  「ひでぶ!?」  むぎゅっと頬を掴まれる。  「東ちゃーん、スマイルスマイル」  小金井がブランコから身を乗り出し、ぼくの頬を両側から広げ伸ばしだらけて笑う。  「いきなり何すんですか、ひとがしんみりしてんのに!?」  「しょげた顔してるとツキが逃げてくよ」  赤くなった頬をさすりつつ涙目で抗議すれば、小金井は手をひらつかせしゃあしゃあ嘯く。  触られた頬が熱いのは痛みのせいばかりじゃない。  胸高鳴らせそっぽを向けば、空気を読まずあっけらかんとこんなことを言い出す。  「競争しようよ、どっちが高くこげるか」  「え?いやですよ、二十二にもなって」  大の大人がブランコ占領してるだけで目立つのに、この上漕ぎ出したりなんかしたらいい笑い者だ。  しかし小金井は毎度のことながらぼくの意見など聞かず、力強く地を蹴った反動でブランコを浮上させ、猛然とスタートを切る。  「アイキャンフラーイ」  付き合いきれない。  ため息を吐きそっぽを向く。先にアパートに帰ろうかとちらりと思い、腰を浮かせかけ固まる。  「あのおにいちゃんすげー」  「たけー」  「だいじょぶ?落ちちゃわない?」  いつのまにかブランコのまわりに人だかりができていた。  プラスチックのバケツとシャベルをもった子供、サッカーボールを脇に抱えた子供、シーソーから飛び下りた子供たちがわらわら寄り集まって、高々ブランコをこぐ小金井を賛嘆のまなざしで仰ぐ。  興奮に上気した子供たちが喝采浴びせる中、小金井はまんざらでもなさげな顔をし、地上のぼくに挑発的な一瞥をくれる。  「こっちのおにいちゃんは?」  「こがないの?」  「てきぜんとーぼーだ」  「やる前からあきらめるんだ、かっこわりー」  「戦わずに逃げるんだ、なさけねー」  「戦う前に敗けを認めるのは腰抜けの証拠だってゴレンジャーが言ってた」  一方ブランコを取り囲む子供たちは上空の小金井と地上にぽつねんと取り残されたぼくとを見比べ騒ぎ出す。  「なっ……」  羞恥と怒りで赤くなる。   「負け犬だー」  「負け犬だー」  「へタレめがねかっこわるー」  躾の悪いお子様たちが一斉にこっちを指さしはやしたてる。  たしかにぼくは臆病で腰抜けな負け犬かもしれないが、スーパーファミコンも知らない世代に好き放題言わせておけない。  恥と大人げをかなぐり捨て、両手でしっかり鎖を握りこみ、深呼吸で覚悟を決め―  いざ。  呼気を吐くと同時に力一杯地を蹴り、浮力の反動に乗じブランコを駆る。  「おおっ」  子供たちのどよめきに煽られ猛然とブランコをこぐ。  乗るのは小学校以来なので当時の感覚を思い出すのにしばらくかかったが、一度要領を掴んでしまえば前後に繰り出す足が風を切る躍動感もブランコが空を駆け上る爽快感もどこか懐かしく、世間のしがらみを脱ぎ童心に返る。  ブランコを駆って空を翔る。  快晴の青空が視界一面を埋める。  身を切る風がたまらなく気持ちいい。  子供たちの賛嘆のまなざしに送られ、ひきこもり生活で鈍った体と錆びた筋肉を酷使し、こんなに必死になったのは何年ぶりだろうという捨て身の勢いで高度を競い上昇するうち、身の内に溜まった不純物が汗と一緒に流れ出ていく。   「その程度なの?」  「くそ、もっと!」  挑発にむきになり、口汚く悪態を吐き、必死な形相で足を蹴り出す。  もっと高く、もっと高く。  無重力の浮揚感が反復運動の加速に乗じ身を包み、体の中を一陣清涼な風が吹き抜けていく。  近付いては遠のいて、近付いてはまた遠のいて、ブランコが空を翔るごと自由の意味を知る。  最初こそ小金井と競っていたがそのうちどうでもよくなり、全身で風を切る爽快感に心が浮き立ち気分が高揚し、もっと高く高くと一心に念じ、顔を真っ赤にしている自分に気付く。  「ウィーキャンフラーイ」  小金井は芝居じゃなく心の底から楽しげに笑っていた。  笑いながら、子供だましのお遊戯に真剣勝負を挑んでいた。  笑う余裕なんかこっちはない。  スーパーでお釣りを受け取りそこね恥をかいたこと、アパートの廊下で兄さんと口論したこと、頭をかきむしりたくなような記憶ごと空に放り上げるように何度も何度もがむしゃらに足をけり出し、体を上空に運ぶ。   鎖が軋り鳴く。  前髪が風圧に泳ぐ。  足が大胆に弧を描く。  空に墜落しそうな浮遊感。  限界が来た。  足の蹴りだし方が次第に緩慢になり高度がおちていき、スニーカーの靴底が砂利を掻いて制動をかける。  「はっ、はあ、は………はは、ぼくの勝ち……」  小金井が先に止まったのを目の端で確認後、靴底で地を削り、ブランコを止める。  汗びっしょり消耗しきり、鎖に縋るようにして言えば、小金井が悪戯っぽく微笑む。  「大の大人が大人げなくブランコこぐの、めちゃくちゃ気持ちいいっしょ」   はかられた。  そう思ったが、実際気持ちよかったし、なにより疲れ果て反論できない。  ブランコをこぐだけで体力が底をつくなんて我ながら情けない体たらく。  小金井は身軽にブランコから立ち上がるや、ズボンのポケットに手を突っ込んで歩いてくる。  おもむろに正面に屈みこむや、人慣れぬ動物を手懐けるように視線の高さを合わせ、噛み含めるように語りかける。  「東ちゃんはさっき自分なんかずっと部屋にこもってりゃいいって言ったけどさ、今日外にでなきゃ大の大人が人目を気にせず本気出してブランコこぐのがこんなに気持ちいいなんて、きっと永遠にわからずじまいだった」  胸の底の澱みをかきまわし、波紋の中心から宝石を拾い上げる誠実な言葉。  軽薄な笑顔に似合わぬまっすぐさで覗き込む真摯な目に、心臓がひとつ強く鼓動を打つ。  「腹ごなしも終わったし帰ろっか。美味いパスタ作るから」  小金井が腰を上げる。  腹の底で渦巻く鬱屈した想念が汗と一緒に体外に流れ出て、何かが少し吹っ切れた。  ブランコをこぐうちにスーパーでさらした醜態や兄との口論の事なんかどうでもよくなって、久しぶりに、本当に久しぶりに、人の目をまっすぐ見ることができた。  汗でへばり付いた黒髪の奥、汗で曇りずれた眼鏡越しに、小金井の目をまっすぐ見詰める。  「あの………」  ありがとうか、ごめんなさいか。  自分でもそのどちらを言えばいいかわからず口を開くも、小金井の手が顔にのびるのが早い。  「ずれてる」  向き合った小金井が弦を掴み、眼鏡を鼻梁の上にちゃんとかけ直す。  「………ありがとうございます」  「よくできました」  頭を下げるぼくに小金井が苦笑する。  顔を上げると同時に、ブランコを囲む人だかりの中に見覚えある顔を見付ける。  「!」  さっき、スーパーで出会った女の子がいた。ぼくの怒鳴り声に驚いて泣き出した女の子だ。  「あ、さっきの。お母さんはどうしたの?」  「お買い物もうしばらくかかるからいい子で遊んでなさいって」  「そうなんだ。偉いね」  小金井が褒めれば、人懐こく駆け寄ってきた女の子が嬉しげにはにかむ。  「あの………」  「おにいちゃん痛いの治った?」  「え」  「スーパーの床で転んだんじゃないの」  小金井からぼくへと向き直った女の子が心配げな顔をする。  這い蹲ってお釣りを拾い集める姿が、事情を知らぬ女の子には転んだと映ったらしい。  勘違いを修正しようにも無垢な目に口を噤めば、女の子が先に動く。  「いたいのいたいのとんでけー」  小さくふっくらした手が、寝癖だらけの頭をよしよしとなでまわす。  避ける暇も拒む暇もなかった。  自分を泣かせた人間を純粋に心配し、大真面目におまじないをかける女の子を見詰める。  「………………」  対人恐怖症のくせに。  接触恐怖症のくせに。  今頭にふれる子供特有の体温の高い手は、何故だかちっとも不快じゃない。  「なおった?痛くない?」  「…………うん」   「よかったあ」  傍らに立つ小金井が笑いを噛み殺す。  ブランコを囲む子供たちが幼い顔に溌剌と好奇心を湛えこっちを覗きこむ。  安堵の笑みを浮かべる女の子にちゃんと向かい合い、精一杯の勇気を振り絞り、言う。  「………さっき、スーパーで。いきなり大声出してごめん、脅かしちゃったね」  なんとか噛まずに言えた。  ラスボス戦を控えたデータセーブと同じ位、いや、それよりもっと緊張したけど。  突然の謝罪に女の子は目を丸くするも、公園の外から母親に呼ばれ弾かれたように駆け出す。  母親と手を繋いだ女の子がなにかを報告する。母親がこっちを見る。  不審人物と誤解されたかと腋の下を冷や汗が流れるも、ぼくの予想を裏切り、母親は丁寧に頭を下げ娘を連れて去っていく。  娘と遊んでくれたおにいちゃん、位に思ってくれたらしい。  「ばいばいおにいちゃん」  女の子が力一杯手を振る。  小金井がそれに応じ元気よく振り返し、ぼくは小金井よりいささか控えめに、遠慮がちに振り返す。  親子連れが見えなくなったあと、さっきまで振っていた手をおろし、ぼくの方へと差し出す。  「アパートに帰ろ。久しぶりにブランコこいで腹へった」  「……食べる前に手、洗ってくださいね。シンナーくさいです」  文句をたれつつ小金井の手に手を添え立ち上がり、買い物袋を片方もつ。  小金井とふたつに分けてビニール袋を持ち公園を出る際、自称ヒモが問題発言をかます。  「こうしてるとさー、俺たちって新婚さんみたいじゃね?子供ができたら南って名付けよっか」  小金井リュウは本当に馬鹿だ。  真面目に怒る気も失せ、おもわず笑っちゃうほどに。

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