11 / 34

第11話

 「東ちゃん髪切ろっか」  「ぼくの髪はあなたに切らせるほど安くありません」  「邪魔じゃね?」  「ジャマじゃないです」  「ホントは邪魔でしょ?」  「小金井さんの存在が邪魔です」  「ゲームやる時とか漫画読む時とか……目に入るし痛いっしょ」  「あなたに眼球の心配をしていただく義理はありません」  「ますます視力低下するよ?」  「すでにさがりようありません」  「いくつよ?」  「むかし測ったときは裸眼で0.03でした」  「低ッ、小数点切ってんの!?」  ひとりで騒がしい男だ。  ガンプラ作りは佳境に入り、ここからが本格的な腕の見せ所。  シェイカーの要領で缶スプレーを振り沈殿した中身を攪拌、新聞紙で試し吹きしはみでぬよう細心の注意を払いパーツを着色していく。  シンナー独特の臭気が換気の悪い部屋にむせかえるようにこもる。  胡坐をかいたままぼくの手元をのぞきこみ、小金井があきれた顔をする。  「またザク?好きだね東ちゃん」  「一口にザクといっても千差万別極めれば奥深い、シャア専用ザクと量産型ザクとじゃビジュアルから性能までそれこそ天と地の差がある。ザクといえば初心者が必ず通る道であるからして楽勝と誤解されがちですが易しいからこそ実技の真価が試される、カスタムしやすい素体だからこそ作る人間の個性が出るんです。ぼくが尊敬する原型師ハクトさんも言ってます、ガンダムはザクに始まりザクに終わる、ガンプラを極めたくばザクを制せ、ザク百体完成させぬうちはガンプラを語るなと……ちなみに今ぼくが作ってるのは終盤に投入され公国に圧倒的有利をもたらした型式番号:MS-0ことジオン軍の量産型モビルスーツその名もザクⅡ」  「ガンプラ作るのにもジャマじゃね?髪」  聞いてないし。  小金井が右から左からうるさくぼくの手元をのぞきこみ自分の前髪をつつく。  よっぽどぼくの髪型が気に入らないらしい。  ザクへの愛情迸る熱い解説を遮られた腹立たしさで構う態度も自然邪険になる。  「ほっといてください、ぼくは今の髪型でいいんです」  「だってそれじゃ何も見えねーし不衛生じゃん」  「見えますよ目をこらせば」  「こらさなきゃ見えないんだろ。ずっと観察してたらさー、東ちゃん眼鏡かけてんのに近眼の人がもの見る時みてえに目ぇぎゅっと細めてんだもん。自分に忍耐強いて楽しい?東ちゃんマゾ?」  揚げ足とりやがってこのヒモが。  「今『揚げ足とりやがってこのヒモが』って思った?」  「思わ……思いましたよ」  小金井が手を叩く。  「そだ、切ったるよ」  「は?」  突拍子もない提案に面食らう。  力の抜けた手からぽとりとザクの頭部が落ちてんてんと跳ねてテーブルの下に転がり込む。  小金井は自分の提案に大乗り気、そうと決まれば善は急げと洗面所へ駆け込み口笛吹いて取って返す。  手には鋏。  テーブルの下に頭を突っ込み行方不明のザクの頭部をさがすぼくの後ろに座り込み、小金井が道化た大仰さで腕を広げる。  「さっぱりしよーぜ」  「絶対いやです」  奇妙な同居生活が始まって三週間が経つ。  小金井はすっかりぼくの部屋に居着いてしまった。  日中はドラクエ経験値上げの日課をシコシコこなしつつ、たまにはぼくも付き合いで参戦し格ゲーやオチモノゲーで汗を流す。窓の桟を指で拭いて埃を吟味する小姑の如し指導が実を結び、ガンプラ製作の腕も少しずつ上達してきた。  じきぼくが教える必要もなくなるかなと考えるとちょっと寂しい。  ……あくまでちょっとだが。弟子は師の屍をこえ外宇宙にはばたくものなのだ、欲を言えばはばたいて永遠に帰ってこないでほしいが。  ほかに変化といえば、小金井が料理担当になった。  家事料理はヒモの必須技能と自認するだけあって小金井はナンパな見た目から想像つかぬほど料理が上手かった。  パスタやサラダなど小洒落た料理はもちろんのこと肉じゃがやロールキャベツなどの堅実な家庭料理までなんでもござれで、ここ一週間ぼくの食生活は劇的に改善され栄養状態が向上した。  以前はカップラーメンや冷凍食品、コンビニで買い込んだ惣菜パンに頼りきって偏食の極みな食生活をおくっていたのだが、小金井が料理の腕を振るいだしてからというもの作ってくれた人に悪いしという義務感から渋々ゲームやパソコンを中断しご飯を食べるようになり、測ってないから正確なところは不明だが心なし体重も増えた。  実家を出てから趣味にかまけ放題、食事の時間をフィギュア製作やゲーム攻略にあてポテトチップやらカップヌードルやら片手間に食べれるものばかり摂取していたせいでもとから貧弱な体躯が子供と接触事故をおこしあっけなく弾かれるほど薄っぺらくなっていたのだが、「アニメ漫画ゲームパソコンもいいけど飯も」とおさんどん係のヒモに口うるさく言われ、この頃はふたりテーブルを囲みいただきますの合掌をし正式に食べ始めるのが習慣になった。  非日常も慣れてしまえば日常でしかない。  いつしか小金井はその持ち前の図々しさでぼくの内側にずかずか上がりこみ、漫画アニメラノベゲームが乱雑に散らかって足の踏み場もない部屋にちゃっかり溶け込んでしまった。  いまだに免許証は返してくれないが、ぼくはぼくで小金井の奔放な言動や楽天的な笑みや料理に毒気をぬかれ、一つ屋根の下素性のよくわからぬ自称ヒモと格ゲーオチゲー対戦をし、ガンプラ作りを教え、夜になれば押入れに引き上げる生活にささやかな楽しみを見出していた。  まあそれはそれこれはこれなわけで。  「髪切ろうぜ」  「絶対いやです」  鋏を構え準備万端やる気満々の小金井の申し出を却下する。  すげなく断られた小金井が鋏をおろし「なんでさ」とふくれる。  「絶対切ったほうがいいって、あんま長いと前見えなくてこけっし危ねーよ?東ちゃんただでさえドジっ子属性あンだからさ」  「ドジっ子属性とか気持ち悪いからやめてください、属名ドジっ子が許されるのは五歳から二十二歳までの女の子だけです。二次元限定で」  「具体的な範囲指定」  「前髪切ったら人と目が合っちゃうじゃないですか」  「何がまずいの?」  ダメだこの男、人の話聞いてない。  理解の鈍い小金井に苛立ち両手を忙しく振るい説明する。  「まずいですよ、気まずいです。前髪切ったら人と目が合い放題間が保たない、たとえばレジでお弁当あたためてもらうときとか店員と目が合っちゃったらどうすんですか、相手が気を遣って世間話とか吹っかけてきても困るし、だからってこっちがだんまりでも沈黙が重いし、当たり障りなく天候や気候の話題振られたって一日中アパートの部屋にこもりっきり夜が更けてから徒歩五分圏内のコンビニ出かけるだけでそんなのわかんないし、なら最初っからお互い知らんぷりしてたほうがいいじゃないですか。このもっさりした前髪は人間関係の希薄な現代社会を生き抜くための自己防衛の一環なんです」  力説するぼくを小金井は異次元の住人でも眺めるみたいな目で見る。  根っから社交的で人に好かれるたちの小金井には到底わからない悩みだろう。  「第一小金井さん、切るって……」  「安心して、プロ並だから。前に美容師の彼女と同棲してたんだ」  「それ自分の技能になんら関係ないですよね?」  むしろ美容師の彼女と付き合ってたんなら甘えっぱなしでだめだめになりそうだ……依存心の強いぼくの偏見だろうか?  疑惑の目を向けるぼくに警戒心を霧散させる弛緩した笑みを返し、小金井がしぶとく粘る。  「東ちゃん見てると理容師心が疼くっていうか……もっさい前髪じゃっきり切りたくなるっていうか……部屋におかしてもらってんのに料理くらいしかお礼できねーのもなんだし、いっちょ任せてみない?散発代浮くよ」  甘言を弄し篭絡をはかる。その手はくうか。  「もし何もお礼ができなくて悪いとおもってんなら速攻出」  出てってください、と続けようとして  小金井が前触れなく顔を近付けてくる。  「!?っ、」  「んー……」  眉間に思案の皺を刻む。  細めた目で検分し、ぼくの前髪に無断で指を通す。  「おもいきってイメチェンしてみね?」  「……だからそういうのはいいって……」  「少しでいいから」  小金井の手が前髪を摘む。  渋るぼくをふやけた笑顔で宥めすかし着々と準備を進めていく。  畳を埋め尽くす漫画ラノベゲームソフトを払いのけ、缶スプレーの試し吹きに使った古新聞をちょうどいいやと持ってきて下に敷く。  「ちょっとちょっと!」  慌てて立ち上がるも、遅い。  「くっ……固有結界とは卑怯な!」  周囲に一分の隙なく新聞紙を敷き詰められた。  ガンプラ製作には古新聞が不可欠。  缶スプレーの試し吹きはもちろんのこと着色作業の際は塗料が飛び散るのでまわりに新聞を敷いておくのだが、それが仇になった。  新聞紙を蹴散らし移動しようかともおもったが、考えを読んだ小金井が迅速に先回りし、押入れから引っ張り出した等身大美少女アニメキャラのポスターをぼくが足を踏み出そうとしたまさにその場所に広げる。  「踏み絵もとい踏みポスター」  「馬鹿じゃないですか?」  小金井が行く手に広げたポスターを丁寧に巻き戻す。  可哀相に、今巻き巻きしてあげるからねキュアレモネード。  「空気にふれると酸化で褪色が早まるんでおいそれと広げないでくださいよ、手垢と指紋も付くし」  ポスターを丸めて回収し注意すれば、小金井が鋏を回すのをやめふくれっ面でほざく。  「東ちゃんノリ悪ィ」  「塗りの乗りが悪いよりずっとマシです」  「鎖国とこうよ」   「小金井さんこそなんでそんなぼくの前髪に執着するんですか、何があなたをそうまでして散髪に駆り立てるんですか、ほっといてくださいよ」  平行線の一途を辿る不毛な論争に徒労感が襲う。  ポスターを押入れに戻しにいけば、小金井の声が追っかけてくる。  「身嗜みは社会人の規範ってお兄さん言ってた」  唐突に兄の名を出され、襖にかけた手が止まる。   襖の取っ手を掴みぎくしゃく振り向けば、小金井が含みありげにほくそえむ。  あくどい策士顔。  「………地獄耳ですね」  そういえば兄との口論は一部始終聞かれてたんだった。  階段の半ばに隠れ口論に耳を澄ます小金井の姿を想像すると間抜けで笑える……じゃなくて。  「容姿向上計画その一。まずその伸ばしっぱなしの前髪切るとこから始めよ」  静かに襖を開け奥にポスターを安置し、襖を閉め、振り返る。ぎろりと三白眼。  「ほっといてくださいよ」  「見返したくねーの?」  素朴な疑問、といった感じの衒いなさで小金井が口を尖らし問う。  率直な質問にたじろぐ。  たしかに、兄を見返したくないと言ったら嘘になる。ぼくにもプライドはある。生活費を廊下にばら撒かれ四つんばいで拾わされた上、ダメだのオタクだのネクラだの気持ち悪いだのとことん罵倒されご近所さんの前で恥をかかされた。あれから以前にも増して隣人および大家さんと顔を合わせ辛くなった。  ここ一週間というもの気分転換をかね近所の公園まで散歩にでかけたりスーパーに食材の買出しにでかけたり、元気のありあまった小金井に背中を押され渋々足を靴に通す機会が増えた。  徒歩五分圏内限定で外出する頻度こそ増えたが、兄さんの来訪以来アパートのご近所さんとの齟齬が顕在化し、階下に住む大家など今じゃぼくを完全に「親の仕送りで暮らすひきこもりおたくニート社会不適合者の犯罪者予備軍」という怪しさ爆発の偏見の目で見ている……いや、まあ偏見じゃなく正しく事実ではあるんだけど、うっかりイヤホンはずしてエロゲでもやろうものなら女の子を誘拐監禁してフラチなまねをしてると誤解され即通報されかねぬ綱渡りの日々だ。  生まれつきの顔はどうにもならないけど、見た目がさっぱりしたらご近所さんの風当たりを弱められるだろうか。  『もっとも親のすねかじりのお前には関係ないがな』  兄さんの皮肉な声が耳に甦る。  身嗜みは社会人の規範だ。しかしひきこもりニートのぼくには関係ない。  ちょっと前までそう開き直っていたが、兄さんを見返せと発破をかける小金井の説得と誘惑に心が揺れる。  ひきこもりおたくニートでも清潔感は大事だ。  清潔感があるのとないのとじゃご近所さんの接し方がちがう、見る目がちがう。  兄さんだって、ぼくの見た目がもうちょっとすっきりしたら見解を改めるかもしれない。   いや、でも、やっぱり。  「むりです」  前髪を庇いつつ頑なに首を振る。  堂々巡りする議論に小金井が「なんでー」と非難の声を上げるもこればっかりは譲れない。  「前髪にポリシーでもあんの?」  「だって……前髪切ったらひとと目があうし……その、怖いじゃないですか……この前の秋葉原みたいに、ヘンな人に絡まれたたらやだし」  蚊の鳴くような声で反論し、力なく目を伏せる。  前髪をのばしできるだけ視線を避けていても不良に絡まれ恐喝されるのだ、前髪を切って顔をさらしたら10メートル歩くごと袋叩きだ。  現に小金井の凝視が痛い。  前髪を伸ばしできるだけ視線を遮っていてもひしひし重圧を感じる。  前髪を庇い断固として拒むぼくに小金井は肩を竦める。降参と妥協の合図。  「しかたねえなあ。今日は引くか」  持て余した鋏をくるくる回す。  危機を回避できた安堵に肩の力を抜く。  諦めてくれてよかった。正直、小金井が持ち出した鋏を見て不整脈を生じそうなほど気が動転していたのだ。  前髪を切りみっともない顔を人前に晒す抵抗はもちろんのこと、何より自称ヒモ自称プロなみと自称で埋め尽くされた小金井の腕が信用できない。  「わかってくれてよかったです。小金井さんもぼくの前髪なんかどうでもいいから作りかけのガンプラを早く」  完成させてくださいよ、と言いかけ  不注意で手が滑る。  「ぶ!?」  話しながら缶スプレーを使っていたのが災いした。  パーツの表面に吹いたスプレーの塗料が勢い余って顔に飛び散る。  ガンプラ職人にあるまじき初歩的なミス。手加減を誤って強くスプレーを押しすぎた。  缶スプレーを机におき、塗りかけのパーツを新聞紙の上におき、顔に跳ねた飛沫をティッシュで拭う。  「あーもー小金井さんが横からうるさく話しかけるから気が散って失敗しちゃったじゃないですか、責任とってくださいよ!?」  「うん、とる」  え?  「前髪、塗料付いてる。落ちにくいんだよね、プラスチック用塗料って」  企み顔の小金井の手には、鋏。  「切るよ」  ヒモは、とても強引だった。  「いやだって言ったのに……」  「往生際悪いよ東ちゃん。男なら素直に敗けを認める」  「敗けてませんよ。一体なんの勝負ですか」  抵抗むなしく小金井に肩を押され新聞紙の上に正座する。   プラスチック塗料は洗ってもなかなか落ちない。  小金井の言う通り、というか、小金井にそれを教えたのはほかならぬぼくだ。  小金井が手に持つ鋏に視線が行く。  小金井はぼくに顔を近付け、片手を前髪にくぐらせ指を通し、重量を確かめる。  「どんくらい切る?ばっさりいく?」  「ちょっとだけ……」  「3センチくらい?」  「0.3ミリくらい」  「逆にむずかしいよ」  どうしてこんなことに。  不本意ながらガンプラ製作を中断し、小金井と向き合い途方に暮れる。  小金井は是が非でも前髪を切ると駄々をこねて聞かず、ぼくはぼくで塗料が付着した前髪の不快さに辟易するも、いざ鋏をもったヒモを前にすると凄まじい不安が込み上げ胃が痛くなる。  片腹を押さえ、露骨な不信の目で小金井を見る。  「あの……お手柔らかに……」  「大丈夫大丈夫任せといて、俺上手いから。美容師の元カノ仕込みの超絶テクで東ちゃんを爽やか系イケメンに改造する」  ……だめだ、壮絶に不安だ。爽やか系なんて言われても、はじけるレモンの香りとか間違ったイメージしか浮かばない。  微妙に死語が入り混じった自賛と抱負が猛烈な不安を呼ぶ。  玄関を一瞥し、目測で距離を割り出す。全速力で走ったら逃げ切れるか?  窓、トイレ、押入れ。逃げ道を模索する。  重たく陰鬱な前髪に隠れ、血走った目で部屋中見回すぼくに小金井が苦笑する。  「力抜いて。リラックス」  「無茶言わないでください、そもそも人にさわられてる時点でリラックスなんてできないです」  前髪に触れる手に心臓が浅く鼓動を打つ。  小金井の顔が目の前にくる。  「いくよ」  鋏が剣呑にぎらつく。  固く目を瞑る。  膝の上においた手をきつくにぎりこむ。  前髪にひやりと鋏があてがわれる。  ジャキン、涼やかな音。  鋭利な刃が噛み合い、ぬばたまの黒髪が一房新聞紙の上に散らばる。  「あ………」  最前まで体の一部だったものが、今や完全に生気が抜け、ただの無機物……ゴミとなりはて新聞紙の上に散る。  新聞紙の上に散らばった髪を呆然と見詰め、無意識に手を伸ばす。  「動かないで」  真剣な声で制され、感電したように指を引っ込め姿勢を正す。   正面に片膝立てた小金井が軽く身を引き、ぼくの顔全体を視界におさめ、プロフェッショナルぽく刃をあて長さを測ってから散髪を再開する。  ジャキン、ジャキン。  金属音を伴いなめらかに動く鋏が前髪を容赦なく断ち切っていく。  小金井は一分の躊躇なく、手際よく、勘の赴くまま切り進めていく。  片手でぼくの前髪を梳き、適当にばらけさせ、一房摘む。  「―っ………」  人との接触に慣れないせいか、ちょっと髪にさわられただけで含羞から来る居心地悪さを覚える。  顔が極端に近付けばどうしても小金井を意識してしまう。  髪には神経が通ってないはずなのに、感覚もないはずなのに、前髪に触れているのが小金井の手だと思えば思うほど平常心を保つのがむずかしくなり頬に赤みがさしていく。  喉をなでられる猫ってこんな感じなのかな。  シャキン、シャキン。  鋏が小気味よく鳴る。  最初こそ抵抗があったが、眠気を誘う単調なリズムにいつしか緊張がほぐれていく。  頭皮に触れる手のくすぐったさに耐え膝をもぞつかせつつ、真剣な顔つきで鋏を使う小金井をうかがう。  透徹した刃鳴りに合わせ髪がぱらつき、寸断された毛先が舞う。  「上手いですね、小金井さん」  「んー?まあね、元カノ仕込み。実技は覚えるの早いんだ」  「モデラーナイフの使い方もすぐ飲み込みましたもんね」  「東ちゃんの教え方が上手いから」  「小金井さんが上手いんですよ」  なんだこの褒めあい合戦。お互いのろけあってどうする。  さすがに恥ずかしくなる。  散髪の合間、前髪を切る手は止めず、小金井が軽口を叩く。  「知ってた?東ちゃん。髪って性感帯なんだって」  「はあ?嘘だ」  「嘘じゃないよ。耳朶さわられるとくすぐってーし寒いと真っ先に赤くなるのは鼻の頭、カラダの先端は敏感にできてるんだ。髪もまたしかり」  鋏を持たない方の手が、猫の喉をなでるような感じで前髪をやさしく梳く。  「どんな感じ?」  「どんなって……」   「頭皮。感じる?」  小金井の手が髪にもぐる。  髪に指が通り、触れるか触れないかの微妙にして絶妙な力加減で指圧する。  「………あんまりさわらないでください。髪、洗ってないから汚いし。あぶらっぽいし」  小金井の手。  シャツの裾からもぐりこんだ手の感触と巧みな愛撫をまざまざ反芻し、前髪に隠れた顔が発火しそうに熱を帯びる。  ぼくは、どうしたんだ。小金井の戯言を真に受けるなんてどうかしてる、髪が性感帯なんてでまかせだ、髪には神経も痛覚も通ってない。  そう自分に言い聞かせ努めて平静を装うも、意味深な台詞が耳の奥で殷々反響し、鼓膜に甘く染みて、小金井の手が触れるたび過剰反応を示す。  塗料の斑点が散ったシャツの下で体が火照り、小心に伏せた目が酩酊に潤む。  長さと関節のバランスが絶妙な指が髪の根元にくぐる。  「んっ………」  円を描くようにゆったり髪をかきまぜられ、性感とも快感ともつかぬ官能に肌が粟立つ。  反応に味をしめた指が悪戯めかし頭皮を這っていく。這い回る。  「……ッ……だからさわんなって……」  「動かない」  髪に性感帯なんてあるわけない。つくづく暗示にかかりやすい自分の体質を呪う。  でもそうとでも考えないと、小金井になでられる気持ちよさが説明つかない。  快感のツボを心得た手つきでぼくの頭をマッサージしつつ小金井が性悪に笑う。  「感じる?」  「感じません」  「気持ちいい?」  髪の根元から手を抜き差し、にんまり含み笑い反応を見る。完璧遊んでる。  意地悪い手に高められ、シャツと擦れ合う体が微熱を帯びて遣る瀬なく火照る。  処女をたぶらかすような優しく淫靡な愛撫が官能を燻し、刺激に弱い肌が上気し、膝を掴んだ手がじっとり汗ばむ。  体の変調に心が追いつかずおいてけぼりをくらう。  生唾を嚥下し、上擦る息をひた隠しつつ、赤く潤んだ目で小金井を睨みつける。  「気持ち……悪いです、すっごく」  「顔赤い。目もちょっと潤んでるし」  「シンナーが染みたんです」  小金井の手に導かれ頭が前傾、こつんと額があたる。  吐息の湿り気が顔をなで、接触の嫌悪や密着の度合いが増す当惑全部ひっくるめて羞恥心が燃え盛る。  心臓が浅く脈を打ち、極端な顔の近さに男同士の気安さ以上に空気が閉じて、まるで口説かれてるような錯覚を来たす。  隠微に倒錯した空気が漂う中、鋏を斜めに傾け前髪を断ち落とし、目を細めて小金井が囁く。  「俺の指技に酔いな」  「まだまだだね……って、こないだ見せたアニメの影響受けてるし」  茶化す小金井をつんけんあしらいつつ、暗示によって性感帯と化した頭皮を執拗にまさぐる手を払う。  人に髪を切ってもらうの何年ぶりだろう。  「東ちゃん、最後に美容院に行ったのいつ?」  小金井も同様の疑問を抱いたらしく、さりげなく聞く。   「………覚えてません。数年前かな」  「伸びてきたらどうしてたの」  「自分で適当に切ってました」  「どうりでぼさぼさ。毛先がふぞろい」  うるさい。  「後ろとかやりにくくね?」  「……それも自分で。鏡見て。勘で」  「美容院行けばいいのに」  「美容院行くお金があるなら秋葉原に行きます」  「東ちゃんらしいや。眼鏡とっていい?」  「いやです」  「切るのにジャマだから。毛が付くし」  「あとで拭きます」  無造作に手を伸ばす小金井から反射的に身を引く。  眼鏡の弦を掴んで拒否するぼくと相対し、小金井が怪訝な顔をする。  前髪を切らせても、こればっかりは譲れない。  就寝中と入浴中を除き人前で眼鏡をとるのは抵抗を感じる。  眼鏡を外す行為はぼくにとって服を脱ぐのも同然の露出を意味する。  他人に前髪をさわらせるのだって対人恐怖症のぼくからすれば精一杯の譲歩だ。  「なんでとるの嫌なの?」  大人しく手を引っ込め、小金井が純粋にふしぎそうに聞く。  率直な問いに胸を衝かれ、眼鏡の弦に手をかけどもりがちに口を開く。  「………だって………みっともないですし」  八王子東がどれだけみっともない人間か、自分が一番よくわかっている。  人前に出るのが恥ずかしい、人の目が怖い。  「コンタクトにしねーの?」  「目に異物を入れるなんて正気の沙汰じゃありません」  「ま、慣れないうちは痛いっていうけどさ」  深追いはせず、再び鋏を使い出す。さばけた気性に感謝。  ジャキン、ジャキン、大胆に鋏を噛ませ目を遮る前髪を切断する。  いつしか小金井に身を委ねている自分に気付く。  ぼくの髪を一房すくいとりしげしげ見つめ、小金井が言う。  「すげえ綺麗な黒。染めたことねーの?」  「はい」  男に褒められても嬉しくない。照れるけど。  「いいなあ。俺なんか染めては染め直しってくりかえしてっからドブっぽい色に」  羨望のため息を吐き、ぼくの髪をさわる傍ら自分の髪をひょいと摘む。  「似合ってるとおもいますよ、その色」  「軽薄で?」  「はい。……あ、いや、明るいかんじで」  あわてて訂正する。  下手なフォローに小金井が吹き出し、つられてぼくも苦笑し、雰囲気が和む。  カーテンを閉めきったシンナー臭い部屋。  まわりには漫画アニメラノベが散らかってしけった布団が敷きっぱなし、テーブルの上には塗装途中のザクが放置されている。  なのにぼくは新聞紙を敷いた畳の上で小金井と向き合い、巧みに鋏を操る小金井にすっかり身をゆだねきって、愛撫にも似た手付きで髪を梳られるくすぐったさに気を抜けば崩れそうな顔を必死に引き締めている。  「小金井さんはいつ髪染めたんですか」   一方的に質問されてばかりなのも癪なので、仕返しに聞く。  一週間前、大人げなくどちらがブランコを高くこげるか競争して以来、小金井に対し興味が湧いた。  施設出身という小金井の過去が気にならないといえば嘘になるが、それよりもっと核心的部分で、ぼくの日常にずかずか上がりこんできたこの無礼な男の事を知りたくなった。  小金井が今の掴みどころない性格を形成するに至った経緯、環境、人間関係。  小金井のことを、もっとよく知りたい。  「んー?中1」  「-って、早いですね!?」  「ませガキだったからね。今は小学生でもフツーに染めてるけど、当時は怒られた」  施設で毎日ぶん殴られてたから。  ブランコで隣に座った小金井の言葉を思い出す。  余計なことを聞いたかと消沈するぼくをよそに、束ねた前髪に鋏を入れ、悪ガキの面影を残す快活な笑顔で小金井が話す。  「ダチがコンビニから染髪スプレーぱくってきて、それでふたりして見よう見まねで」  「友達って……施設の、ですか」  「腐れ縁の悪友。ガキの頃からふたりで色々悪さした。叱られンのも一緒」  友達との思い出を楽しげに披露する小金井に、どうしてだか胸が痛む。   表情を翳らせたぼくをよそに、悪友との思い出の数々を回想しつつ、鋏をもつ手を鈍らせ小金井が言う。  「それがさ、笑えるんだよ。そのダチ染めんの初めてだからまず最初に他のでためそうって、目を付けたのがなんとうさぎ。あ、俺の施設じゃうさぎ飼ってたの。で、夜中そのウサギ小屋にこっそり忍び込んでさ……翌朝掃除に来た係が腰抜けるほど仰天した、ウサギが一匹残らず茶色く染まってんの。めちゃくちゃだっつうの、アイツ」  「ウサギは一匹じゃなく一羽ですし、動物虐待です」  羨望、嫉妬、疎外感。  手を留守にし底抜けに明るく友達とのエピソードを語る小金井に、不自然にそっけない態度でつまらない突っ込みを入れてしまう。  ぼくにはひとに語れるような友達との思い出なんかひとつもない。  小学校中学校通し学校にいい思い出なんかひとつもない。  引け目を感じるとともに、小金井が親しげにアイツと呼ぶ人物に対し苦々しい感情を抱く。  「よし、終了」  小金井が鋏をおく。  目にかかるほど伸びた前髪が切られ、眼鏡越しの視界が晴れる。  小金井がそばに置いた鏡を掲げ、ぼくの方へ向ける。  「………………」  絶句。  最初は違和感の方が強かった。徐徐にそれが既視感に変わっていく。  ああ、そういえばこんな顔してたな。  ここ何年も鏡を見てなかった。秋葉原に出かけた際も店のショーウィンドーは徹底して避けてきた。  間抜けな話、自分の顔さえも忘れかけていたのだ。  「世界が明るくなった?」  「………顔が寒いです」  軽くなった前髪を神経質に梳く。  鬱陶しく目を覆い隠していた前髪は鋏が入り、眼鏡にかからない程度にさっぱり切られていた。  鏡に映る若者を他人行儀に見詰める。  分厚い眼鏡の奥の卑屈な目、陰気な表情。乳性石鹸のように白い肌にさした赤みが一際目立つ。  高校生どころか中学生で通りそうな童顔のくせに可愛げがない。  兄さんの目鼻立ちをずっと女々しくしたような、覇気もなければ魅力もない地味で冴えない顔。  前髪を執拗にいじくりつつ、もう片方の手で服にまとわりつく細かい毛髪を払うぼくを、小金井がじっと見詰めているのに気付く。  「東ちゃんて割に可愛い顔してるんだ」  「はあ?」  耳を疑った。  次に小金井の目を疑った。  「視力だいじょうぶですか?」  「いや、マジで。おもったより悪くない。もっさり前髪伸ばしてたのがもったいない。そこそこイケてるってか、地味に可愛い」  「ふざけないでください」  小金井が片付けないので代わりにぼくが後始末を担当する。  髪の毛の散らばった新聞をもってゴミ箱に行き、髪の毛ごと包んで突っ込み、鋏を洗面台に返し、憮然として居間に戻り、机と向き合いガンプラ作りに再着手。  にやつく小金井は無視し、缶スプレーを勢い良く振ってフックを押し込むー  「うわっ!?」  まただ。ぼくともあろうものが、過ちを二度くりかえす。  勢い良く噴射された塗料が顔にとび、眼鏡のレンズに散ってうろたえる。  あせった手付きで眼鏡を外し、ティッシュでレンズを拭うぼくの背後に忍び寄った小金井が、なれなれしく肩を抱いて囁きかける。  「動揺してる?」  「してません」  「顔真っ赤」  「ぼくはむしろ小金井さんを真っ赤に染めたい心境です、缶スプレーで。エナメル塗料とプラスチック塗料、どっちにしますか」  ひっつく小金井を邪険にどかし作業にもどるも、顔に注ぐ視線を過剰に意識してしまい、動揺と照れを反映しザクの頭部をもつ手が再三すべる。  テーブルに自堕落に頬杖つき、たびたびザクの頭部を落っことすぼくを面白そうに眺めつつ小金井がだしぬけに言う。  「ねー東ちゃん」  「なんですか」  「キスしていい?」  だらけきって寝そべる小金井の顔面めがけ猛烈な勢いで缶の中身を噴射する。  「目が、目がぁああああああああぁああああああああああっ!?ひでー東ちゃん冗談なのに人の顔面めがけスプレー噴射で目潰し攻撃って!?」  「小金井さんがさっきからヘンな発言かますからです、男にむかって可愛いとかキスしたいとか無節操にも程があるし第一ぼく三次元アレルギーだし冗談でもそういうこと言わないでくださいよ、次ガンプラ製作ジャマしたらザク責めにしますからね!!」  「ザク責め!?ザク責めってなに!?」  「ザク責めはザク責めです、小金井さんをザクで包囲して一斉攻撃しかけます、小金井さんは一度量産型の底力を思い知るべきです!!」  スプレーでむせた小金井が情けない顔で抗議するのに応酬し、缶スプレーをしゃかしゃか振って牽制すれば小金井もむきになり、テーブル上にもう一個おいてあった缶スプレーをひったくってあろうことかぼくの方にむける。  この展開はまさか  「ぶはっ!?ちょ、あんたなに考えて、」  「ハンムラビ法典、やられたらやりかえすのが喧嘩の鉄則!くらえスプレー噴射!!」  「ちょ、やめ、眼鏡かけてる人間にスプレー噴射とか正気ですかレンズ覆われて見えなくなるって視界が……」  いい子はまねしないでくださいと番組の最後に注釈を付けたくなるような見苦しい諍いを繰り広げる。  小金井は「ははっ」と無邪気に笑い新聞紙の上を転げまわってスプレーを噴射しまくり、ぼくもスプレーを手にとり応戦し、泥沼の戦争に突入する。  服を塗料まみれにしとっくみあいの物音も騒々しくスプレー合戦を繰り広げるさなか、爆発と紛う勢いでドアが開け放たれ大喝がとぶ。  「いい年した男がどったんばったんうるさいよ、喧嘩ならよそでやんなさい!!」  憤怒の形相の大家が廊下に立っていた。  それから二時間、ふたりして正座で説教された。  小金井のせいだ。

ともだちにシェアしよう!