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第15話

 ぼくは世の中に必要ない人間だ。  「……………」  泣き腫らした瞼が重い。  気だるいまどろみから浮上し、緩慢に瞬きしてあたりを見回す。  いつのまにかジーパンの膝に顔を埋め眠りこけてしまったようだ。  胎児の姿勢で膝を抱えかすかに身じろぐ。  ここは押入れの下段、襖を閉めきった上ポスターの筒で突っかえ棒をしてある。  あれから何時間たったんだろう。眠気の残滓が沈殿した頭で朦朧と考える。  黒田と別れてから記憶が判然としない。  長い夢を見てるみたいで妙に現実感が乏しい、それもきわめつけの悪夢だ。なんとかアパートに帰り着き靴を脱ぐのもそこそこに押入れに直行した、たぶんぼくの靴は玄関に散らかったままだろう。  もうなにも見たくない、だれにも会いたくない、外に出たくない。  さっきまで小金井がしつこく襖を叩いていた。  「東ちゃんどうしたの」「ご飯食べねーと体に悪いよ」「まだ気分悪ィの?」……うるさい、余計なお世話だ。もうほっといてくれ。この時ほど空気を読まない居候を鬱陶しいと思ったことはない。結局どれくらい叩いていたのか、数分おきにノックしては様子を見るような沈黙が訪れた。押入れの隅、闇で膝を抱えひたすらだんまりをきめこみつつ無神経なノックを聞く。やがてノックの間隔が徐徐に開いていき、「……飯ここにおいとくから腹へったら食べて」の一言と降参の一打を最後に、さしもの小金井も根比べに負け引き下がった。   夢を見た。  むかしむかしの夢、思い出したくもない悪夢。  体育用具倉庫に嘘の手紙で呼び出された翌日から登校拒否を始めた。  正確には、学校に行けない体になった。  親を心配させたくない気持ち、いじめられてる事実を知られたくない見栄と虚勢と義務感とが入り混じって制服に着替え朝食をむりやり詰め込み玄関まで行くのだが、いざ靴に足を通しドアを開けようとたび猛烈な吐き気が襲う。  登校しなきゃと急く気持ちとは裏腹に体が拒絶反応を起こし、玄関から一歩も出れなくなった。  『どうしたんだ東、大丈夫か!?』  吐瀉物で制服を汚し、呆然と座り込むぼくのもとへ真っ先に駆け付けたのも兄さんだった。  玄関にうずくまったぼくの背を兄さんが大きい手で撫で上げれば、人肌のぬくもりでクラスメイトの手を思い出し、吐き気がぶりかえす悪循環。  覚せい剤常習者が体験するというフラッシュバック現象がぼくの身にも起きた。  玄関に立ち、ノブを回し外側へと押す一連の動作のあいだに何回もフラッシュバックが来る。  薄暗く埃っぽい体育用具倉庫、汗臭く固くしけったマットレスの感触、陰湿に渦巻く笑い声、ぼくを取り囲む無数の顔、顔、顔、勝ち誇る黒田の笑みと写メのシャッター音とフラッシュと俯く須藤さん。思い出したくもない忌まわしくおぞましい光景が堰を切ったように一挙に押し寄せ、恐怖の反芻と予期で身が竦む。学校にいったらまた同じ繰り返しだ、今度はどんな目にあうかわからない、もっと酷い目にあうかもしれない……妄想は暴走し、呼吸と動悸がどんどん荒くなり、気付けば過呼吸の発作に陥りかねぬほど狼狽の相を呈していた。  『ひさしぶりだな、東』  『俺だよ俺、中学で一緒だった黒田。覚えてね?』  覚えてる。  忘れるはずがない。  八年間、どんなにか忘れたかったことか。  黒田は電車の中で当たり前に話しかけてきた。  それこそ中学のクラスメイトと偶然再会し、懐かしさのあまり声をかけたといった具合に、なんら屈託ない態度で普通に接してきた。普通すぎて、こっちが面食らった。なんでそんなふうに普通に声をかけられるのか、無神経に鈍感にかつていじめて不登校にまで追い込んだ相手に厚かましくふるまえるのか、信じられなかった。けれどもリアルタイムじゃ憎む余裕すらなくて、ぼくはただひたすら現実に立ち現れた過去の残像に怯え、卑屈なおもねり笑いを浮かべ相槌を打っていた。  押入れの中で考えて考えて、考え抜いて答えが出た。  黒田はきっと、ぼくに悪いことをしたとは思ってないのだ。  自分のせいでぼくが不登校になったなんてかけらも思ってないのだろう。  黒田にとって八王子東はいつのまにかクラスから消えてたやつくらいの認識しかなくて、ぼくが教室から消えたのが自分が中心となって行ったいじめのせいだなんて自覚さえ持ち合わせてない。  いや、仮に持ち合わせてたところでさほど重要な事とはおもってない。  黒田の中じゃぼくはどうでもいい扱いで、ぼくのことなんかどうでもよくて、自身が扇動したいじめも大したことじゃなくって、だからあんなふうに罪の意識もなく声をかけてこれたのだ。たまたま昔のクラスメイトに会って、懐かしくて。小金井に言った事は真実だろう。  八年たてば時効なのか。  ぼくの中じゃ終わってないのに。  こんなにリアルに続いてるのに。  八年前から一歩も進んでないのに。  黒田は今大学生だと言った。須藤さんと付き合ってると言った。  須藤さん、ぼくの初恋の人。同じクラスで唯一優しくしてくれた女子。中学をドロップアウトしたぼくはそのままひきこもり人生まっしぐら、いまどき高卒資格がなきゃ何もできないからと通信制の高校をなんとか卒業した。したけれど、何もできないのは変わりなかった。  ぼくをおきざりにして黒田は大学生になっていた。大学生になって青春を謳歌していた。  こんなのってありかよ、畜生。  「…………っ………」  不公平だとか理不尽だとか。ずるいとか卑怯だとか。  言いたいことは山ほどあって、でもひとつも喉から出てこない。黒田と須藤さんを呪う、かつてぼくをいじめた連中を憎む。知りたくなかった、黒田と須藤さんが付き合ってるなんて。須藤さんがあいつの彼女だなんて。外に出さえしなきゃ知ることもなかった、永遠に知らずにいられた、ならずっとひきこもってればよかった。  かつてのクラスメイトの消息なんて知りたくもない。  「う………」  鼻水を啜り、強く膝を抱え込む。  ぼくは世の中に必要ない人間、死んだほうがましな人間だ。  親にも兄さんにも迷惑かけてばっか、アパートの家賃まで払ってもらってる。  社会の役に立たない、だれにも必要とされない。いっそ死んだほうがいい。死ね死ねと顔を合わせるたびクラスメイトに罵倒された中学時代を思い出す。   死ね死ねと何百回も繰り返されるたび、心の一部、感情を司る部分が壊死していくのがわかった。  何回も何十回も、あるいは何百回も言葉で切り刻まれ殺された。だから逃げた、ぼろぼろの心と体を守るために。負けてもよかった、死ぬのはやだった。  それがそんなに悪いことなのだろうか?  戦え戦えと皆は言う。兄さんは逃げるのがさも悪いことのように決め付ける。でも、あの時は。八年前のぼくは、部屋にひきこもる事でしか生き延びられなかった。漫画アニメラノベゲームが転がった暗い部屋は、ぼくの最後の防波堤だった。  押入れの中は安心だ。だれもぼくを笑わない。あの部屋と似た安心の匂いがする。ここにいる限りは守られている。ひとの視線から、悪意から、世間の干渉から。視線が干渉してくるというのは自意識過剰の被害妄想で、でも自分ではどうしようもなくて、実際そんなはずないと頭じゃ分かっていても生理的にだめなのだ。  「う……」  涙がにじみ視界がゆがむ。  眼鏡は既にずりおちて、腫れた瞼を直接ジーパンの生地にあてがう。  八王子東、お前はなんだ?負け犬か?八年前から自分のしっぽを追っかけてぐるぐるぐるぐる同じところを回ってばかりで一歩も先に進まない。『なにかあったらまたすぐ部屋に逃げ込む』『本当にだめだな、お前は』兄さんの声、説教。わかってるよ、自分がどれだけダメなヤツか。ぼくなんか死んだほうがいい、死んだほうが世の中のためだ『死ーね』『死ーね』のっぺらぼうのクラスメイトが声を合わせ『なに勘違いして学校きてんだよ、きめえんだよお前』廊下の外に出された机をひとり抱え教室にもどす惨めさ恥ずかしさ悔しさ『いい年したアニメキャラのキーホルダーなんか持ってくんなよ』あざ笑い『似合ってるじゃん東』無理矢理穿かされたスカートの妙にすーすーして落ち着かない感じ……だれも、だれ一人、ぼくに生きててほしいなんて望んでない。  『俺たち今付き合ってんだ』   黒田が得意げに見せた携帯、仲の良さそうなカップル。ふたりともイマドキ風に垢抜けてお似合いだった。八年ぶりに会う須藤さんはどぎつくない茶髪とショートヘアがとても似合っていた。ぼくは、ばかだ。大馬鹿野郎だ。今の今までずっとおめでたい勘違いをしていた。ぼくが学校に行かなくなればほかのクラスメイトは笑って済ませても少なくとも須藤さんだけは気に病んで、八年間罪の意識に苦しんで、ずっとぼくを覚えていてくれるんじゃないかと浅ましく期待していた。暴言吐いて電話を叩き切ったくせに、こっちから関係を絶ったくせに、都合よくそう思い込んでいたのだ。  現実には須藤さんは過去の出来事なんかきれいさっぱり水に流して、八年前クラスメイトがいじめが原因で不登校に追い込まれたことなんか忘れ去って、携帯画面で楽しげに笑っていた。自分もいじめに加担したくせに、ぼくを追い詰めたくせに、そんなこと最初からなかったような顔で笑ってるのだ。  「……死んじまえ」  みんなみんな死んじまえ。憎悪の渦の底から呪詛が浮かび上がる。  もうだれにもなにも期待しない、希望なんか持たない。希望を持つから裏切られて傷つく。あの時須藤さんの呼び出しを真に受けのこのこ体育用具倉庫になど行かなければ、普通に中学を卒業して普通に高校に進学して、今頃は大学で友達に囲まれ楽しくやってたかもしれない。ここまで卑屈にならずひとの目に怯えず吃音癖もでずにすんだろう。  膝を強く強く抱きしめる。  八年前は死ぬ勇気さえなかった。八年間、惰性で生きていた。ぼくなど死ねばいい、兄さんや両親に迷惑をかけ他人を不快にさせるぼくの存在理由がどれだけ必死に考えても見つからない。  泣き疲れて黙り込む。頭が熱に浮かされぼうっとする。空腹が身を苛む。ずっと泣き通しで体力を使い果たした。帰宅から何時間経過したか正確なところはわからないがもう夜になってるだろう。あれから水も食事も摂ってない。  涙と鼻水でべとつく顔を袖口で拭い、天井にぶつからぬよう頭を低め襖に這い寄る。  襖に耳を添えるも反応はなく、深呼吸し、ゆっくり慎重に開けていく。  部屋の電気は点けっぱなしだった。  隙間からさした人工の明かりが思わぬ強烈さで目を射り、視界に赤い斑点が乱れ舞う。  腹がうるさく鳴る。シャツの腹部がへこむ。ひもじさが身にしみる。  隙間から出した手で畳をさぐり、小金井が用意してくれたご飯の皿とレンゲを掴み、ばっと押入れの中にひっぱりこむ。  押入れの前にはラップをかけられた料理が並んでいた。小金井の得意料理のひとつ、チャーハン。襖をわずかに開け、隙間からさしこむ明かりを頼りにラップを剥がし、レンゲを手にとる。  口中に生唾が湧く。  「……いただきます」  蚊の鳴くような小声で呟き、のろのろと一口。数時間放置されたチャーハンはすっかり冷えきっていた。惰性で口動かし咀嚼、喉に流し込む。小金井はパスタでもサラダでもなんでもできるが、主婦が昨日の残り物で作る、こういう気取らない家庭料理が一番うまい。  チャーハンにレンゲを突っ込み、こんもり盛り上がった山を突き崩し口に運ぶ。  最初こそ鈍重だった動きに空腹から拍車がかかり、どんどん咀嚼と嚥下のペースが速くなる。  チャーハンをレンゲですくう、口に運ぶ、咀嚼もそこそこに嚥下。そのうち咀嚼をおざなりに省略し、ひたすらすくっては口に流し込む反復運動となる。  冷えたチャーハンを夢中でがっつく。引っぺがしたラップに湯気が結露する。  どんなにみじめで最低でも生きてる限り腹が空く。  生理現象を不思議に思う。  小金井のチャーハンが、やけにしょっぱい。  小金井が塩の分量を間違えるなど初歩的なミスをやらかすはずなくて、チャーハンを食べながら、いつしかぼくは泣いていた。  「うぐ、はぐ」  鼻水を啜り、涙を噛み、塩加減がきついチャーハンをかっこむ。  この八年間、何も作り出さず生み出してこなかった。  ご飯ひとつ自分で作れないくせに不満ばかり一人前。  冷え切ったご飯の味に八年前の記憶がまざまざ蘇る。  部屋の外、廊下に置かれたお盆、ラップをかけられ冷めきったご飯。部屋から一歩も出てこない息子のために母さんが用意してくれたご飯を、つまらない反抗心とあてつけから手をつけず残したことさえあった。  自分が食べるものさえ人まかせなくせに、ひとが作ったごはんで生かしてもらってるのに、なにひとつ恩返しできない。  社会の役に立たない。だれにも必要とされない。  八年前と同じ、ひとに手間と世話をかけるだけかけて、一歩も前に進めぬ自分に嫌気がさす。  「がほっ、ごほっ!!」  泣きながら食べていたらご飯が喉に詰まる。  前のめりに突っ伏し激しく咳き込む。胸を叩き、涙目で苦痛に耐える。ご飯の塊が喉につっかえ、なかなかとれなくて苦しい。  その時だ、襖がノックされたのは。  「だいじょうぶ、東ちゃん?」  小金井。  とっくに寝たとおもってたのに。  不意打ちに心臓がとまる。拍子に喉のつかえがとれ、窒息の危機を脱する。  「…………」  うるさくして起こしてしまったか。  小金井に申し訳なく思う。思うが、素直に口に出せず背を向ける。  「なんでもありません………ほっといてください」  かすれた声でようやくそう返せば小金井が立つ気配。続き、台所で蛇口をひねり引き返してくる。  「ほい」  襖の隙間から水を汲んだコップを差し入れる。  余計な事をするなと怒鳴りたい気持ちを抑え、見えないのを承知で頭をさげ大人しく受け取る。  小金井が背中越しに座り込む気配。沈黙が漂う。チャーハンは全部きれいにたいらげた。  ぼくが食べ終えるのを待ち、小金井が聞く。  「飯、冷えてまずくなかった?」  「だいじょうぶ、です」  「言ってくれたら作り直したのに」  「……冷めても美味しいから」  小金井がひそやかに笑う気配が空気を縫い伝う。  「東ちゃん、それ殺し文句」と小金井が言い、静かにレンゲをおく。  先に口を開いたのはぼくだった。  「小金井さんはドラえもんの道具でひとつだけ使えるならなにがいいですか?」  「いきなりなに?」  襖を背にし座り込んだ小金井が、質問に意表を突かれ振り向く。  小金井と背中合わせに膝を抱え座り込み、壁の一点を見詰め、淡々と続ける。  「ぼくは独裁スイッチがいいです」  「独裁スイッチって、ぽちって押すだけで気に入らないヤツみんな消えちゃうってあれ?」  「そう、あれです」  「東ちゃん独裁者になりたいの?」  素朴な疑問といった感じの能天気な声。  暗闇の中、窮屈げに膝を抱え身を丸める。  ずっと肩身の狭い思いをしてきたから体を折りたたむのは得意だ。  ぎゅっと抱きしめた膝に顔を埋め、言う。  「……ちがいます。そんな大それた野望、滅相もない」  「じゃあなんで」  小金井の口調はあくまで軽く。  だからぼくも、ぽろっと本音をこぼしてしまう。  「だって、世界からだれもいなくなれば怖がらなくてすむじゃないですか。世界からみんな消えてぼくひとりならもう人の目に怯えずにすむ、噛んだらどうしようかなんて先回りしてあせらなくてすむ、のびのび生きられる。外に出たって怖くない。ぼくがどんなみっともない服着てどんなみっともない顔してどんなみっともない髪型でどんなみっともない歩き方だろうが、だれも笑ったりしないんです。臭いとか汚いとか気持ち悪いとか、いやなこと言われなくてすむんです」  もし今ここに独裁スイッチがあるなら、押さずにいられる自信がない。  ぼくは死ぬのが怖い。いまだに怖くて怖くてたまらない。  ならばいっそぼくに死ねと理不尽を言う人間全部を消してしまえばいい。  死んだほうがマシだと自分を嘲りながら、死ぬのが怖いから他人を消したいと望む八王子東は、どこまでも卑怯で最低な人間だ。  「だれもぼくを笑ったりしない、いやなこと言わない。おたくだからって……いい年して、はたちすぎて、漫画アニメゲームが好きだからって肩身狭い思いしなくってすむんです。引け目を感じずにすむんです。世界から人が消えれば、きっと、ぼくだって……堂々と外を歩けるんだ」  語尾が力なく消え入る。膝を抱え弱音を吐き、こんなぼくに小金井はなんて言うだろう、失望しただろうか、がっかりしただろうか、嫌気がさしただろうかと先走り勘繰って背中を強張らせる。  小金井の答えは、そのどれとも違った。  「けどさー、独裁スイッチ使っちゃったらきっとすげーつまんない世の中になるよ?」  「え?」  かぴかぴに糊付けされた膝から顔を上げ、振り返る。  襖の向こう、背中合わせに座り込んだ小金井が明るく言う。  さも当たり前の事を言うみたいに、気取らない口ぶりで、あっさりと。  「東ちゃんが大好きな漫画やアニメやゲーム、コンビニで買うカップラーメン、見えねーけど一生懸命作ってる人いるんだよ?ドラえもんのアニメでもあったじゃん、お母さん消しちゃったから誰も飯作ってくれなくて……レストランの人も全員消えちゃって、しかたなく缶詰食うの。でもさ、のび太は台所のことぜんぶお母さんまかせで、缶切りの場所もわかんないんだ」  「………………」  「そうやってさ……上手く言えないけど、めぐりめぐってるんじゃねーの?」  考えたこともなかった。  八年も、たっぷり時間はあったのに。  ぼくの思考は独裁スイッチを押して、人がいなくなった世界を大手を振って歩く想像で完結して、そこから先に一歩も出ていなかった。   「人と関わらず生きるなんてむり」  小金井が妙に達観した台詞を吐く。  いつもならむかついたはずの台詞に、この時ばかりはすんなり納得できた。  ぼくはこれまでずっと、自分が背を向けた世間に生かされていた。  家族に、目に見えないだれかに。ぼくが大好きな漫画アニメゲームを制作し市場流通に乗せる人々、ぼくが食べるカップラーメンを作る人々、目に見えないけど一生懸命働いてる人たちがいる。ぼくは彼らに生かしてもらっていて、なのにその事実に小金井に諭される今の今まで気付かず、無為に時を過ごしていた。  自分を守るように膝を抱く手からふっと力が抜ける。  小金井の言葉に少しだけ緊張がほぐれ、温かい感情が胸の内を満たしていく。  襖越しに、感じるはずもない体温を感じる。互いの背中を拠り所にして寄り添う。  子供っぽい願いを口にした気恥ずかしさも手伝って、やや強引に話題をかえる。  「小金井さんはドラえもんの道具でなにがいちばんほしいですか」  「タイムマシン」  即答だった。  「定番ですね」  小金井ならもっとひねった回答をするかとおもったのに意外だった。  無意識に変化球を期待し肩透かしをくえば小金井がさらっと言い放つ。  「親の顔見たくて」  言葉を失う。  「覚えてないからさ……面白くなくてごめん」  「………そんな、謝ることじゃないです」  ぼくはどれだけ馬鹿で鈍感で無神経なんだろう。  安直な質問を悔やみ、一瞬でもがっかりした自分を恥じる。  小金井らしいとからしくないとか、そうやって本人の知らないところで勝手に型に嵌めこむのがどれだけ傲慢で愚かしいことかぼくだけはわかってなきゃいけなかったのに。  再び沈黙が落ちる。  襖一枚へだて、小金井と親和性の高い沈黙を共有する。  不思議と心安らかだった。人といてリラックスできたのはひさしぶりだ。   小金井の顔が見えない事が救いだった。こんな泣き腫らした顔、みっともなくて見せられない。  優しい闇と緩慢な時間の経過に身を浸す。襖の向こうで小金井が静かに口を開く。  「電車の中で会ったアイツ、知り合い?クラスメイトとか言ってたけど……」  「………中学の時の」  「あの写メは………」  「ぼくの」  続けようとした言葉をひっこめ、さんざん迷ってから舌にのせる。  「初恋の人です」  小金井がかすかに身じろぐ気配。  半身をひねり、透視を試みるように襖に目をこらす。  きっと小金井は怪訝な顔をしてるだろう、中学のクラスメイトとばったり再会したにしちゃぼくの態度は不自然すぎた。  深呼吸で気持ちを落ち着け、人生最大の汚点と恥じて、これまで誰にも話したことのない身の上話を打ち明ける。  「ぼく、中学中退なんです」     口に出した途端、その重みにうちひしがれる。  努めて平静を装い虚勢を張っても、膝を抱く手の震えはごまかしきれない。  「……中学の時、いじめにあって。不登校になって、それからずっとひきこもりで。高校は……なんとか通信制卒業したけど、トラウマひきずって、対人恐怖症が治らなくて……バイトはおろか、就職なんかとてもむりで。黒田は……アイツは、中学の時のいじめのリーダー格です。携帯に写ってた女の子は須藤さんていって……ぼ、ぼくが、好き、好きだった子で」  「無理して言わなくていいよ」  「言う、言います、言わせてください」  むきになっていたのは認めよう。八年間逃げ続けてばかりいたぼくだけど、小金井の前では逃げたくなかった。  ありったけの勇気を振り絞り、何度も深呼吸して度胸を吸い込み、膝を抱く手に自分を支える力を込める。  ぎゅっと閉じた瞼の裏に須藤さんの懐かしい顔が浮かぶ。  「消しゴム、拾ってくれたんです」  「え?」  「好きになったきっかけ。……ぼくがおっことした消しゴム、いやな顔ひとつせず拾ってくれたんです。ほかのクラスメイトならもっと遠くに蹴っぽるか、『汚え』『菌がついちまった』って騒ぐのに……」  ひとを好きになるきっかけなんて単純だ。思い返せば本当にささいなことだ。  八年前のぼくにはそれだけで十分だった。  思い出す。席替えして最初の日、後ろの席の男子にとがった鉛筆で背中をつつかれ、使っていた消しゴムをおもわず落としてしまった。  しまったと思った時は遅く、とっさに伸ばした手もむなしく、消しゴムはてんてんと床をはね、斜め前の女子の机の下に転がりこんでしまった。  遠くに蹴られるか、とりにいけば手を踏まれるのを覚悟して席を立ったぼくに、須藤さんはさも当たり前のように消しゴムを拾って「はい」とさしだしてくれた。  その瞬間、恋に落ちた。  「……好きだった。ホントに」  「そっか」  「いじめられっこにもプライドがあるってみんな忘れてるんです」  「知ってる。だから痛いんだ」  小金井が相槌を打つ。  好きな子にいちばん見られたくない姿を見られた翌日、どんな顔して須藤さんと会えばいいかわからなかった。  ぼろぼろのプライドを守るために、八年前、ぼくは暗い部屋に逃げ込んだ。  他のクラスメイトなら何をされても我慢できた、諦めが付いた。最初から期待してないんだから失望しようがない。でも、須藤さんは。  「………未練があったんです」  なまじ信じて期待していたからこそ、ショックが大きかった。  顔が引き歪み、自嘲の笑みが浮かぶ。口角を吊り上げ、毒々しく吐き捨てる。  「ひとを信じたぼくが馬鹿だったんです」  「ちがうよ東ちゃん。ひとを信じるのは悪いことじゃない、いいことだよ」  「でも、馬鹿です」  「そりゃ時々は馬鹿を見るかもしれないけどさ」  襖越しに聞く小金井の声はあくまで飄々と穏やかで、一方で強くしなやかな芯を感じさせ、心地よく耳朶をくすぐる。  おそらくは襖に背中を預け、片膝立て座り込み、小金井が断言する。  「ひとを信じない自分カッコいいって思ってるヤツより、よっぽどかっこいいよ」  様々な修羅場を体験し克服してきたからこその重み伴う率直な言葉が胸を打つ。  襖越しに聞く声が耳朶をくすぐり鼓膜にしみて、八年間、体の奥底に凝っていた澱が洗い流されていく。  腕でぐいと顔を擦り涙を拭い、少しだけ明るくなった声で小金井に聞く。  「ぼくが話したんだから小金井さんも初恋の子のこと教えてくださいよ」  「俺?施設の先生」  「先生!?」  「ませガキだったから」  さらっと大胆告白。  問題発言をかました小金井は恥じるどころか得意げに甘酸っぱい初恋の思い出を振り返る。  「若くてキレイで優しくて母親……は年齢的にむりがあるか……年の離れた姉ちゃんみたいで、ガキどもに慕われてた。俺が悪さして叱られてると飛んできてなぐさめてくれた。いたいのいたいのとんでけーって……こないだの女の子見て、妙に懐かしかった」  「実はあの子のお母さんが初恋の人とかってオチだったり」  「まっさか、ぜんぜん別人。ずっと前に結婚してやめちゃったけど」  途中、感傷で声が湿っぽくなる。小金井にこんなしめやかな声を出せるなんて、ちょっと意外だ。まだまだぼくの知らない一面がある。  初恋の人の話を聞き、なぜだか胸が痛む。  「会いたいですか?」  「幸せに暮らしてりゃそれでいいよ」  その答えに、なぜだかほっとする。  休止符のような沈黙。   話の合間合間に訪れる凪に、距離が遠のく不安より気持ちが通じ合う親近感を抱く。  襖一枚隔て背中に他人の存在を感じる心強さに、今まで胸の奥底にしまっていた本音を口に出す。  「………八年も時間があったのに、結局、なにもできなかった」  この八年ぼくがしてきたことといえば、現実から逃げ続けることだけ。  何も生み出さず作り出さず、無為で不毛な生を漫然と消化して。  まるで消化試合のような余生。  「料理も……食べるものさえ家族や誰かに作ってもらって。自分は暗い部屋にこもりきり、ゲーム三昧。自分は世の中に必要ない人間だ、死んだほうがマシだって何度もおもった。けど、どうしても死にきれなくて。死ぬのが怖くて。家族に迷惑かけるだけだってわかってるのに、兄さんのお荷物になるだけだってわかってるのに、へたれでびびりで、死ぬのが怖いから逃げて逃げ続けて、独裁スイッチとか、そんなありもしない空想に縋り付いて」  ぼくなんか死んだほうがいい。  八王子東は、きっと死んだほうがマシな人間だ。  中学時代、須藤さんを除くクラスメイト全員にそう言われた。登校するたび死ね死ねコール大合唱で出迎えられた。  「……気持ち悪いですよね」   はたちすぎた男の愚痴。  「はたちすぎた男がなにかあるたび押入れに逃げ込んで、だんまりで、ストライキで……べそかいて。自分でもわかってるんだけど……なんか、上手くいかなくて……ぜんぜんだめで……二十二にもなって漫画アニメゲームやめられなくて、就職もできなくって、親にアパートのお金出してもらって。こんな情けなくてダメなヤツ、死んだほうが世の中のためになる……」  「俺、東のこと気持ちわるいなんておもってないよ」  突然、名前を呼び捨てにされた。   出会ってからずっと、それこそ初対面の時からなれなれしくちゃん付けしていた小金井が突然呼び方を改め、たじろぐ。  膝から顔を上げたぼくが襖を隔て見えるはずもないのに、その声はひどく強く優しく、譲れぬ意志を秘めて。  「死んでほしいなんて思ってない」    舌の回し方を忘れる。  絶句し、空白の頭で必死に言葉を探す。  襖の向こうから突然かけられた予想外の台詞になんて返せばいいかわからなくて、ひどく混乱して、胸の動悸が速まって、フラッシュバックに翻弄される。  電車の中席を立ち歩み寄る黒田、薄暗い体育用具倉庫、固くしけったマットレスの感触、体を這い回る手とのっぺらぼうの顔、顔、顔……  「でも、ぼくは。みんな、死んだほうがいいって。みんなそう言う、みんな」  朝、教室に入るたび。  死ね。死ね。死んじゃね。死ねよ。うざい、学校くんな、きもい、臭い、寄るな。    「ぼ、ぼくが変、だから。普通の人みたく、ひっ、ちゃんとできない、ひぐ、から」   ほらまた泣く。  だめだ、どうしても。泣いちゃいけない泣くなと自分を叱咤し言い聞かせ涙腺を律するも、感情の堰が決壊し、勝手に嗚咽が迸る。  「普通の人、みたく、ちゃんとしゃべれないし、ひぐ、いつまでたっても、こわ、怖いし。怖くなくならないんだ、人が」  わからない。  人ってどうしたら怖くなくなるんだ?  「人の前にでると緊張して、ちゃんと話そう話そうっておもうほど汗が出て、匂いが気になって、変なふうに舌が縺れて。アニメとか、漫画とか、普通の人は小学校で卒業するのに、ひぐ、できなく、て。でも、好きなこと、やめたぐ、ない」     洟を啜る濁音と押し殺した嗚咽の間から訥々と言葉を絞る。  小金井は黙ってぼくの話を聞いていた。  茶化さず、せかさず、聞き苦しいぼくの話にじっと耳を傾けてくれた。  「でも、ひぐ、好きなこと好きでいるだけで嫌われて、死ねって言われるなら……ぼく、ひ、ほんとに死、んだほうが」    突然、襖が開く。  勢いよく桟を滑り、目一杯開け放たれた襖のむこうからあふれた光が、涙で潤んだ目を灼く。    「俺は東に生きててほしい」     開け放った襖の向こう、逆光を背に立つ影が言う。  「世界中のくだらない百人が死ねって言ったって、目の前のたった一人が生きろって言ったら生きるっしょ」    目の前のたった一人が、押入れの隅でぽかんと膝を抱え込むぼくに向かい、憂鬱を吹き払う最高の笑顔を湛える。   押入れの中に踏み込むやぼくの腕をとり外へと引っ張り出す。  「!いや、だ」  接触と同時にクラスメイトの手の感触が蘇りパニックをきたしかけるも、桟に躓き倒れこみ、背中を抱かれ抵抗を封じられる。  小金井の胸に顔を埋め、規則正しい鼓動の音を聞くにつれ、筋肉の固さがとれて体から力が抜けていく。  小金井の手が顔の前に回り弦を持つ。  「はずしていい?」  「いや、だ、いやです。さわんないでください」  一生懸命頼んだのに聞くだけ聞いて取り合わず、自分勝手に了承して眼鏡をゆっくりはずしていく。  涙の粒が付着したレンズが遠ざかり急激に視界が曇り、微熱と水分で潤んだ双眸が外気に晒される。  よわよわしく首振り抗うもあまりによわよわしくて通じない。  力ない首振りにあわせ前髪がぱらつく。  みっともない素顔を晒す羞恥に頬が燃えたつ。  至近距離から顔を覗き込まれ心臓が蒸発しそうに脈を打つ。  ぼくの睫毛に結ぶ涙の粒をしげしげ見つめ、小金井がいたずらっぽく含み笑う。  「涙飲ませてくんない?」  「!!っあ」  温かく柔らかなものが眼球に触れる。  小金井の舌。  一瞬何がおきたのかわからなかった。  小金井がぎりぎりまで顔を近付け、ぼくの瞼をなめる。  「しょっぺー」  眼球の表面に舌先がふれ唾液がしみ、熱く柔らかい粘膜の慰撫に抗う腕が萎える。  睫毛の先にひっかかった大粒の涙を窄めた舌でつつき唇で吸う。  「いぁ……」  目に透明な膜を張る涙を直接啜られ、小金井の服を掴んだ体勢から腰が砕けてずりおちる。  「やめ、離れ、て……小金井さん、いきなりなに、ねこじゃあるまいし!?」  非力ながら懸命に引き剥がそうと努めるも、小金井は傷をなめて癒す動物のように舌を使い睫毛に結ぶ涙をついばみ、頬に生々しく残る塩のあとを綺麗になめとっていく。  畳に寝転がったぼくに覆いかぶさり、唇で涙を転がし、熱い息を吐いて囁く。  「あれ見て」  部屋の隅、棚の上に計二十体ずらり整列し精鋭軍の威容を誇るガンプラを顎で示し笑顔で説く。  「八年間なんも作り出してねーとか嘘。東ちゃん、ガンプラいっぱい作ったじゃん。一体一体精魂こめてさ」  「………あ」  「なんも作り出してねーとか自分卑下すんのやめなよ、オタクのプライドもつなら。……弟子として哀しい」  小金井の唾液と涙でべとつく顔を拭い、畳に手をつき起き上がる。  棚に居並ぶガンプラを虚ろに見詰め、自虐的に呟く。  「でも、あんなの役に立たないし……いたっ!」  デコピンをくらう。  「怒るよ?」  口元の軽薄な笑みと真剣な眼光の取り合わせでやんわり叱責。  「役に立つとか立たないとかで全部分けんのつまんねーじゃん。そんなこといったら東ちゃんが大好きな漫画アニメゲーム全部世の中の役に立たないっしょ?」  柔軟なバネを駆使しがばり跳ね起きしな大胆に両手を広げ、漫画アニメラノベが散乱し足の踏み場もない部屋をぐるり指し示し高らかに宣言する。  「役に立たねーけどほら、東ちゃんはじめとした世界中たくさんの人に愛されてる。役に立ねーけど面白いもの、かっこいいもの、世の中には別に必要じゃなくてもどこかの誰かには絶対必要なものやことやひと、結構いっぱいあるんだよ」  世の中には必要とされなくても、どこかの誰かが必要としてくれるなら、こんなぼくにも生きる価値と資格があるのだろうか。  世界中のくだらない百人が否定しても、目の前のたった一人が肯定してくれるなら、ぼくはまだ、生きてていいのだろうか。  やり直すきっかけがもらえるのだろうか。  「…………こがねいさ、ぼく、ぼくは……」  言葉が続かない。どうしてこんな大事な時に詰まってしまうんだろう。  何を言えばいいかわからず、何が言いたいのかわからず。  こみ上げるものを抑え切れず、小金井の服の胸を両手で掴み、縋り付く。  熱とくすぐったさに溺れ小金井の胸をかきむしり、熱く震える息を吐く。  「ご飯……ごちそうさまでした……」    「どういたしまして」  「美味しかったです」  「うん」  小金井が作ってくれたチャーハンはやけにしょっぱくて涙と鼻水の味がして、だけど、とても美味しくって。  まず、ご飯を作ってくれた人にありがとうとごちそうさまを言うところから始めよう。  そこから一歩進もう。  ご飯を作ってくれる人に感謝を。  ぼくを生かしてくれる人たちに感謝を。  つっかえていい、噛みまくりでいい、どもっていい、みっともなくたっていい。  小金井の胸元を掴み、顔を埋め、安心の匂いを貪り、おもいっきり鼻をかむ。    「変わりたい、です」  「うん」  「変われるでしょうか」  「手伝うよ。やれるだけやってみよう」  「大丈夫」と安易に請け負わず、「むり」と否定せず、小金井は大きな手で、小さな子供にするみたいにぼくの頭をなでてくれた。  ずっと昔、泣き虫で弱虫なぼくの頭をこんなふうになでてくれた人がいた。  小金井の胸にしがみつき、しょっぱい涙の味を噛み締め思う。  世界や世間なんて漠然としたものに必要とされるより、たった一人に必要とされるほうがずっといい。  たぶんずっとずっと幸せだ。

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