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第14話
『東くんへ
放課後体育用具倉庫で待ってます
須藤』
可憐な丸文字の手紙。
昼休みから数えて最低十回は読み返した。
トイレで弁当を食べ終え昼休みを潰し、席に戻ったらこの手紙が置いてあった。
封筒の表にデフォルメされたねこのキャラクターで直感、封を破って便箋を開き差出人を確信。
いじめっ子に取り上げられないうちにと慌ててポケットにしまうと同時に前方の戸が開き、五時限担当の先生がやってくる。
先生が背を向け板書する間、ノートをとりつつ斜め前に座る女生徒の横顔を追う。
心臓が強く鼓動を打って今にも喉からとびだしそうで数式を解く先生の声が全然頭に入らない。
女生徒が使うノートの隅に封筒に印刷されてあったのとおなじねこがちらつく。
斜め前に座る女の子の頭がノートに数式を書き写すのに合わせ揺れるごと胸が高鳴り、筆圧が必要以上に強くなってシャーペンの芯がぽきぽき折れた。たぶんぼくの顔は赤くなってたと思う。横を通り過ぎた先生に「よそ見するな八王子」と教科書で頭をはたかれ笑われても、胸の内は不思議と温かかった。
放課後、指定どおり体育館を訪れた。
掃除が終わった体育館は静まり返っていた。今日は職員会議で部活がない……帰宅部のぼくには関係ないんだけど。
だだっ広い体育館を注意深く見回す。
『八王子くんて呼びにくいから東くんでいい?』
二学期の席替えを終え、斜め前の席になった女子の第一声がそれだった。
ぼくの前後左右の席になったクラスメイトは口を揃え「マジかよ」「最低ー」「イースト菌の隣なんて臭くてやってらんねえ、おれ明日から登校拒否するわ」とぼやいていたが、斜め前の須藤さんだけは気さくに笑いかけてくれた。
須藤さんはクラスの女子の中でも可愛い方だと思う。ぼくの中じゃダントツ一位だ。笑うと覗く八重歯はけっしてマイナスポイントじゃない。
睫毛は長いというより濃くて、ぱっちりした二重瞼で、色素の薄い虹彩が日を透かしてガラスみたいに光るのがとても綺麗だ。
あんまり目立つほうじゃないけれど気立てがいいから男子にもそこそこ人気がある。
ぼくは、ぼくも須藤さんが好きだった。須藤さんに恋していた。授業中気付けば須藤さんを目で追っていた、ノートをとる手を留守にして須藤さんの横顔ばかり見ていた。
窓から射した陽射しが須藤さんの髪を淡い色合いに透かすのがすごく綺麗で、乳白色にぼやけた頬の輪郭がとても綺麗で、綿毛みたいなおくれ毛がすごく綺麗で、ぼくはぽかんと口を開け、しばしば間抜け顔で見とれていた。
用具倉庫の扉が徐徐に近付く。
体育館の入り口から倉庫までの距離がやけに長く感じる。
一歩、また一歩……距離が縮むごと耳の中の鼓動が膨らむ。
いつしか扉が目の前に迫る。
緊張が頂点に達する。
まだ扉を開けてもないのに……引き返すなら今だとだれかが耳元で囁く。
取っ手を掴みかけた手を引っ込め、唇を噛む。
ズボンのポケットの中、手紙の存在感を意識し、頬に血が上る。
須藤さんもうきてるかな。
中で待ってるかな。
ひょっとして担がれたんじゃ……まさか、須藤さんがそんなことするはずない。
須藤さんはほかのクラスメイトとは違う。
「キモイ」「かっこ悪い」と罵倒する他の女子と違い、こんなぼくに普通に接してくれる。
除け者のぼくにただ一人親切にしてくれる須藤さんにはずっと感謝していた。
でもぼくはまともにお礼も言えず、まともに目を合わすことさえできなくて。
ここで逃げ帰ったら今までと同じだ、なにも変わらない。
臆病で卑屈な自分を変えたい。
須藤さんの前に出ても恥ずかしくない八王子東になりたい。
『よし』
ひとつ頷き、慎重に取っ手を引く。
『うわっ、こいつマジきたよ!引く!』
『あの手紙マジで須藤からのラブレターとか勘違いしちゃったとか?ウケるんだけどー』
暗がりに慣れた目に映る光景と突如自分の身に降りかかった事態が理解できず、桟を跨ぎ、中に入りかけ硬直。
跳び箱に腰掛け足ぶらつかせる男子、奥の壁にもたれ立つ男子、平均台に座る男子、隅っこで固まる女子数人、くすくす湧き立つ忍び笑い。
見慣れた顔。クラスメイト。なんでここに?
『………っ、須藤さんは……』
『ばーか』
跳び箱から身軽に飛び下りたリーダー格の男子が、大股にこっちにやってくる。
黒田。いじめグループの主犯格。
こないだキーホルダーを奪われた記憶が甦り、反射的にあとじさり逃げる体勢に入るも、黒田が尊大に顎をしゃくり仲間をけしかける。
ぼくは足が遅い。運動音痴で、とにかくどんくさい。昔から何もないところでよく転んだ。
クラスメイト男子がよってたかってぼくの腕や肩を掴み後ろから中にひきずりこむ、上履きが桟にひっかかる、溝を噛む、でも踏みとどまれない。引き戸が勢いよく桟を滑り乱暴に叩き閉められ、固いマットレスに引きずり倒される。
『だまされてやンの。ばっかでー』
『東くんお手紙真に受けてきたのー?かわいそ』
『イースト菌の分際でめでたい勘違いしてんじゃねえよ、気色わりい』
イースト菌。クラスで定着したぼくのあだ名。今では名字より呼ばれる回数が多い。八王子東だからイースト菌、安直なネーミング。
『なん、で……手紙、須藤さんは……』
『須藤ならあそこだよ』
いた。
黒田が親指の腹でさす方向を見やれば須藤さんがいた。俯き、けっして目を合わせようとしない。
期待と不安が綯い交ぜとなった高揚が萎み、裏切られた絶望と失望に食い潰されていく。
はめられた。
『こんなとこ呼び出してなに』
『遊び足りないんだよ、まだ』
疑問を遮り、黒田が後ろ手に隠し持ったものを得意げに鼻先に突き出す。
セーラー服。
『な………』
白地に赤いリボンを結んだセーラー服はうちの中学指定のものだけど意味がわからない。
困惑の半笑いで黒田を仰ぎ、次いでまわりのクラスメイトを眺める。その含み笑いで、ようやく意図を悟る。
『なあネクラオタク、お前ってコスプレしたことあんの?』
『秋葉原とかでやるんでしょ。アニメキャラのかっこして表歩くとかよく恥ずかしくないね、信じらんない』
『女装とか経験済み?お前がこないだ鞄にさげてたキーホルダーも某アニメの美少女だよな、あーいうのに憧れてふりふりスカートはいちゃったりするわけ?きもっ、まじきもっ、想像しただけでおえっ』
『だからさー……』
一呼吸おき、黒田が提案。
『実演してくンね?』
逃げ出そうとした。
咄嗟に身を翻し勢い余って蹴っ結躓き、すぐ跳ね起きて一目散に戸をめざすも足を払われすっ転ぶ。
倒れた場所がちょうどマットの上だったのを幸いと男子がのしかかり、学ランを毟り取りにかかる。
『やめっ、さわんな!』
『さわんな?イースト菌の分際でおれらにタメ口かよ、いつのまに偉くなったんだ』
『ナマいうと眼鏡壊すぞ』
『黒田がせっかく姉ちゃんのお古のセーラー持ってきてくれたんだ、念願のコスプレできて嬉しいだろ?』
汗臭く固くしけったマットレスが背中に当たる、体に絡みつく手を必死に払う、払っても払っても何度でも伸びてきてきりがなくパニックで頭が真っ白になる。外野の女子が甲高く笑う、薄暗く埃っぽい体育用具倉庫に笑いの渦が満ちる。無意識に須藤さんをさがす、須藤さんは爆笑する女子の輪に加わらずひとり離れ申し訳なさそうに俯いてる。
『がんばれー東くん』
『初女装期待してる!』
『東くん色白だしーよく見ると割に可愛い顔してるからけっこ似合うかもよ?期待してる』
無責任な歓声と野次が飛び交う。女子が互いにじゃれつきあってさも愉快げに笑う。
男子が学ランの裾を掴み大胆に捲り上げる、荒っぽく胸ぐら掴まれ一番上のボタンがはじけ飛ぶ、抵抗と格闘の激しさを物語り眼鏡がずれ視界が歪む。誰かの手がボタンを外し上着を引っぺがす、誰かの手がボタンの外れ目からもぐりこみ素肌をまさぐる気色悪さに喉が引き攣る。
『やめ、やめて……先生、だれか!』
『こねーよ、先公なんか』
『そうやってまたすーぐチクる。だからうざがられんだよ、お前』
汗で湿る手の感触、黒田がのしかかり笑いつつシャツを毟る。
クラスメイトの手を直接肌に感じ極限の恥辱と屈辱で理性が蒸発、めちゃくちゃに手足を振り回しなんとか遠ざけようと図れば、偶然その拳が黒田のこめかみを掠める。
『あ、』
わざとじゃない。
自分の身を守りたい一心に恐慌が陪乗した精一杯の抵抗はしかし、激烈な怒りを買う。
こめかみを掠ったパンチに黒田が激怒、表情が豹変。
一瞬で憤怒の形相と化し、ギンと剥いた目が殺気を放ち凶暴にぎらつく。
『ふざけんなよ、イースト菌の分際でっ!!』
高い音、衝撃。頬を張り飛ばされ眼鏡がずれる。
両手で頭を庇い身を丸める、黒田の一撃を皮切りに男子たちが笑いながら殴る蹴るの暴行を加えだす。多勢に無勢、圧倒的人数差の前にひれ伏すしかない。マットの上で身を丸めるぼくに降り注ぐ殴打と蹴りの嵐、全身がひりついて意識が朦朧と霞んでいく……
『やめなよ』
蚊の鳴くような声。
薄目を開け腕の隙間からうかがう。
ぴたり一斉に動きを止めた男子と女子の注目を浴び、所在なげに立ち尽くす須藤さん。
水をさされた黒田が唇をねじって笑う。
『いまさら味方ぶんなよ、須藤。イースト菌の友達だって勘違いされて、ハブられンのがいやで偽の手紙書いたくせに』
『共犯だよ、お前も』
『偽善者ぶんなっつの』
『そうだよ須藤ちゃん、いまさら裏切んの?酷くない?』
『イースト菌が好きなの?』
『マジで?趣味わるー』
『こんなキモオタにさあ』
『ちが』
男子女子総出でひとりを責める。
非難と罵倒の矢面に立たされた須藤さんが首振り否定し、何かを堪えるように顔を歪める。
『私はただ、ここまですることないって……』
『ならチクりにいけよ。そんかし明日からお前もイースト菌の仲間だからな』
裏切り者。
共犯者。
須藤さんは見て見ぬふり。
仲間はずれにされたくないから、同じ底辺におちたくないから、手紙で呼び出した生贄を見殺しにする。
須藤さんはたぶん友達にけしかけられて手紙を書いて、ぼくのこと好きでもなんでもなくて、勝手に告白とか勘違いして
『そっち足持ってズボン脱がせ』
『大人しくしろよ、可愛くしてやっから』
『私ゴム持ってるよー。これで髪結お』
体をべたべた這いまわる無数の手、手、手。
のっぺりのっぺらぼう下半分の口で嗤う笑うクラスメイト、体に触れる手の気色悪さに全身鳥肌立つ、奇声を発し暴れるぼくの細腕を押さえ付け無理矢理シャツを引っぺがしズボンを脱がしていく。視界が突如暗転、頭からセーラー服を突っ込まれる。
せめてズボンだけはと裾を掴み抵抗するもだめで、よってたかって下げ下ろされ、ついに足首からすっぽ抜ける。
『うあ、やめ、おねがいだか、ら』
助けて、だれか。
先生でも生徒でもいい、だれかとおりかかってくれ!
恥も体裁もプライドもかなぐり捨て一心に切実に願い祈る、この地獄から抜け出そうと必死にあがく。
初めて好きになった女の子の前で学生服を強引に脱がされみっともないかっこをさらす。
髪は激しい抵抗の痕跡をとどめ乱れ、殴られ蹴られた体はあちこち痛くて、耳の中でクラスメイトの邪悪な笑いが渦巻いて
外気に晒された下肢が寒々しい。
ズボンの代わりにスカートを穿かせ、仲間に指示してセーラーの裾を引き摺り下ろし、黒田が宣言。
『完成!!』
ドッと場が沸く。
爆笑、嘲笑、拍手喝采。
内股でへたりこみ、スカートの真ん中を押さえ小刻みに震える。
足が寒い、股が寒い。自分が今どんなかっこしてるかわからない、知りたくもない。
『やだー似合うじゃん、今度から東ちゃんて呼ぼっか』
『東ちゃん色白いしー、痩せてるしー、違和感ないよね?お肌すべすべだし』
『援交すれば稼げるって絶対』
『中二のくせに声変わりもまだだし余裕っしょ』
『記念に写メっちゃえ。あとで友達にまわそ』
女子が競って携帯を掲げシャッターを切り女装を強制されたぼくの痴態を写メる。
須藤さんは全てが終わるまでひたすら顔を背けていた。
女子の一人がボンボン付きのゴムでぼくの髪を縛る。
今すぐ死んでしまいたい、消えてしまいたい。
須藤さんが見ている。同情のまなざし。ぼくは、一体こんなところで何やってるんだ?
嘘の手紙を真に受けて、嘘の呼び出しを真に受けて、ひょっとしたら告白かもしれないとひとり浮かれて、来てみたら案の定これだ。
信じるんじゃなかった。
体の表面と芯が視姦の恥辱に燃える。
女の子座りで股を隠すぼくに付け込み、黒田が言う。
『せっかく女装したんだからカンペキにしなきゃな』
黒田の手が、スカートの下から覗くトランクスの裾へと伸びる。
『!やめっ、』
『聞いたか今の、レイプされる女みてーな声あげて』
『東ちゃ~ん、怖くないよ~。脱ぎ脱ぎしまちょーねー』
黒田がスカートを捲り、一斉にながれこんだ外気に下肢の毛穴が縮む。
足を蹴り上げ暴れるも、男子ふたりがかりで押さえ込まれマットに固定され、黒田が陰湿に笑いゆっくり恥辱を煽るようにしてトランクスをおろしていくー……
須藤さんと目が合う。
暗い部屋。
うっすら埃が積もった床に足跡が浮く。
埃っぽくよどんだ部屋の至る所に漫画雑誌単行本ラノベが散らばりゲーム機のコードが這い回り、未完成のガンプラや無機質なフィギュアが戯画化された死体の如く累々と転がる。
時間の感覚はとうに失せて今が夜か昼かさえ区別がつかない。
何日も風呂に入ってないせいで自分が発する垢じみた体臭が鼻腔を突く。
暗く不健康な部屋の中、唯一の光源はテレビ画面の青白く不健全な光。
誰かが狂ったようにドアを叩く。
『いつまでそうやってひきこもってれば気がすむ、母さんに心配かけるんじゃない』
ドンドンドンドン
『学校でなにがあったかちゃんと話せ、今日も先生がプリントを届けにきてくれたぞ』
ドンドンドンドン
『学校で何された?体の傷はなんだ?いじめられてたのか?』
ドンドンドンドンうるさいうるさい乱打音が途切れなく重圧を与え続ける。
ドアの向こうにいるのは兄さん、高校から帰ったばかり。そろそろ両親も見限り始めたぼくの部屋に制服も脱がず直行して聞き飽きた説教、代わり映えせぬ怒号をとばす。
そんなに殴ったら手が痛くなるのに。修理費だって高くつく。
麻痺した心の片隅で固い扉を殴り続ける手の心配をする。あの人なら本気で骨が折れるまで殴り続けそうだ。
兄さんはこの頃学校から帰ってすぐ愚弟の部屋に寄って頼まれもしない説教をたれるのが習慣になっている。
ドアの向こうで兄さんが何か言う、必死に叫ぶ。
開けろ?出てこい?……何回目だろその台詞。外なんか出たってなにもいいことないのに。
一生ベッドから出たくない。学校には二度と行きたくない。
学校に行くくらいなら、死んだほうがマシだ。
『………………』
ぼくは負け犬だ。痛いのは嫌い、死ぬのが怖くて自殺もできない。首吊りは汚いからいやだ、飛び下りは掃除する人に迷惑をかけるし第一高所恐怖症だ。何度か試したけどモデラーナイフじゃ手首も切れない。カッターは……刃を軽く手首に当てるだけで震えが来た。究極のびびりだ。
廊下で電話が鳴る。
ノックがやむ。
漸く諦めてくれたかと安堵して体の力を抜く。
電話に受け答えする声がかすかに届くけど、ぼくには関係ない。
床踏み鳴らし兄さんが引き返してくる。
今度は幾分遠慮がちにノックをし、低く言う。
『東、お前に電話だ。同じクラスの須藤さんからだ』
須藤さん。
名前を聞いただけで心臓が止まる。
不整脈を生じそうなほど動悸が激しくなり、全身の汗腺が開いて濁流の如く汗が噴き出す。
肩に毛布を羽織ったまま、あたり一面に散乱した漫画や雑誌およびガンプラをかき分け、床を這うようにしてドアへ向かう。
鍵を開錠する。ドアの隙間が薄く開き、兄さんがそこから電話の子機をさしいれてくる。
『心配してかけてきてくれたんだ。逃げずに出ろ』
両手で子機を受け取り、生唾を呑む。心臓の音がうるさくて、兄さんの声がよく聞こえない。
手の中の子機をもてあまし見下ろす。
逡巡と葛藤の末、慎重に耳を付ける。
『………もしもし』
久しぶりに出した声は、自分の声じゃないみたいで。
みっともなく掠れ、聞き取り辛くって。
一拍おき、押し殺した息遣いに紛れ消えそうにかすかな女の子の声が届く。
『…………東くん?』
学校に行かなくなって、数週間ぶりに聞く須藤さんの声。
子機に受話器を密着させる。子機を握る手がじっとり汗ばみ、沸いた血が頭にのぼり、冷却されまた爪先までおりてくる。
どうしてだろう。
あんなに好きだった須藤さんが名指しで電話をかけてきてくれたのに、全然嬉しくない。
嬉しいとか哀しいとか正常に感じる器官がすっかり壊れてしまって、須藤さんの声が現実と同じ位薄っぺらく耳から耳へ通り抜けていく。
『東くん、あのね、私……ごめんね』
『…………』
『東くんが学校こなくなったの、こないだのことが原因だよね。体育用具倉庫の。私……わたしが嘘吐いて呼び出したから、あんなことに』
『…………』
『あれから東くん来なくなって。先生に聞いたらずっと部屋から出てこないって、だから……謝らなきゃっておもって』
子機のむこうから嗚咽が漏れる。
しゃくりあげる須藤さんの謝罪を聞き、この状況にもっともふさわしい言葉を放つ。
『死ねよ、ブス』
鋭く風切る唸りを上げ平手が頬に炸裂する。
『甘えるのもいい加減にしろ!!』
こんなに怒った兄さんを見るのは何年ぶりだろう。
感情が麻痺した心の片隅で漠然と考える。
電話にむかって吐いた暴言を兄さんに聞かれてしまった。
あせった兄さんが咄嗟にドアを開け放ち子機を奪い取るも、その時には既に、ぼくのほうから通話を叩ききっていた。
須藤さんがどれだけショックを受けたか考えると楽しくて楽しくて笑いがとまらない。
兄さんの慌てた顔ときたら傑作だ。
『はははははははっ』
『なにへらへらしてるんだ東、お前……あの子はお前のこと心配してわざわざうちにかけてきてくれたんだぞ、それがどれだけ勇気がいることかわかってるのか、なのにお前は……ッ、ろくに話も聞かずあんな……』
『兄さんが電話に出ろって言ったんじゃないか、気がすんだろ、ゲーム中なんだから出てけよ!』
『ちょっとやめなさいふたりとも、ご近所さんに聞こえるじゃないの!!』
騒音に血相かえた母さんが数週間ぶりにぼくの部屋に駆け込み、いきりたつ長男と抗う次男のあいだに割り込んで引き離そうと努めるも、下手な仲裁は火に油で、兄さんの怒りはおさまるどころかますます燃え立って、ぼくの胸ぐらを掴み足裏が浮くほど吊りあげる。
『学校にも行かず一日中部屋にこもりっきり、勉強もしない、先生にも会わない、友達から電話がかかってきたら叩き切る!』
『友達じゃない、友達なんかいない!!』
『甘えるんじゃない、世の中で不幸なのはお前だけか、自分が一番可哀相か!?』
『ぼくの不幸はぼくだけのものだ!!』
世界のほかのだれが不幸だって知るものか、ぼくはぼくの不幸しか知らない、ぼくの不幸しかわからない。
沸騰した激情に駆られ叫び返す剣幕に一瞬たじろぐも、反省の色皆無な態度に逆上し兄さんが怒鳴り散らす。
『ならちゃんと理由を話せ、俺や父さん母さんが納得できるようきちんと説明しろ!お前がどうしてもいやだというなら無理に学校に行かせはしない、守ってやる、でもワケを話さずだんまりで一日中部屋にこもってんじゃどうしようもない、お前の生き方はただの怠慢だ!!』
理由を話せ?簡単に言う。
どうやったら話せるんだ、学校でいじめられたこと。学校につけていったアニメキャラのキーホルダーを無傷で返してもらいたい一心で土下座までしてでも報われなくて、好きな子に手紙で呼び出され告白と勘違いして用具倉庫にいったらいじめっ子が待ち受けていて、力尽くで服を脱がされセーラー服を着せられボンボンで髪を縛られ証拠の写メまで撮られた。
大好きだった初恋の女の子に、毛も生えてない、剥けてもない下半身を見られた。
『いい年して漫画アニメゲームに埋もれて、何かあったらすぐ部屋にとじこもって戦わず逃げ出して……現実と虚構どっちが大事なんだ、お前は!!』
その台詞で、
今まで堪えに堪え抑圧してきた何かが決壊した。
『現実なんて辛いだけだ、一生ずっとひきこもりでいい』
一際甲高く乾いた音が響き痛みが爆ぜ、力一杯ベッドに突き飛ばされる。
『なら一生ひきこもってろ、みっともないから外に出るな!!』
背中がベッドで弾む。
殴られた頬がひどく疼く。
口の中に鉄錆びた血の味が広がる。
学ランを乱した兄さんが憤然と身を翻し部屋を出て行く。
最後に見た兄さんの顔は悲哀と憤怒が綯い交ぜとなった苦渋の面持ちで、ああ、完全に愛想を尽かされたと
みっともないから外に出るな
至近距離から唾と一緒に浴びせられた鼓膜が破れんばかりの怒声。
みっともない。
それはもう、生きているのが恥なほどにみっともない生き物で。
『……う………』
瞼が熱を帯び、殴られ腫れた顔が火照り、最後の意地と見栄でせめて嗚咽はもらすまいと唇を噛む。
漫画アニメゲームソフトゲーム機が散らばって足の踏み場もない部屋の片隅のベッドの上、ベッドに転がった処女作のザクを胸に庇うようにして抱きしめる。
こんな目にあうなら一生ひきこもりでいい。
ぼくになにもしてくれなかった現実なんかどうでもいい。
みんなみんな死んじまえ。
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