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第13話
「東?」
条件反射で身が竦む。
対面の席から立ち、イマドキ風の青年が片手を挙げ無防備に歩いてくる。
「あ………」
『キメエんだよネクラオタク、死ねよ』
『さわんな、病原菌が伝染る』
『こんな安物にマジんなってばっかじゃねーの、くだんねえ。壊れたらママンに泣きついて新しいの買ってもらえよ』
脳裏でストロボが焚かれる。教室に渦巻く嘲笑が耳の奥に響く。
二度と思い出したくなかったでも一生忘れられない毎日が地獄みたいだった中学時代が克明な白昼夢さながら鮮烈に像を結ぶ。
二重写しのフィルムのように目の前の顔と記憶の中の顔の輪郭がぶれてだぶって目鼻立ちがぶれてだぶって現実が焦げつき焼き切れていく。
目に映るものが信じられない。嘘であってほしい、悪夢であってほしい。
ぼくはきっとシートの固さが気持ちよくて電車の揺れが心地よくて今日はいい陽気でうたた寝してるんだ、きっとそうだ。
自分が見ているもの触れているものに疑いをもつ、五感が信じられなくなる。
目は現実の受容器、眼球から飛び込んだ情報は神経を介し脳で分析される前にブレーカーが落ち遮断される。
パソコンの強制終了に似た暗転、完全な空白、思考停止状態。
眼前の光景から現実感が剥ぎ取られ欠け落ちて虚構とリアルが反転したような錯覚を来たす。
こっちを見詰める乗客の顔は妙にのっぺりのっぺらぼうで反応が鈍く天井からぶらさがり振動に合わせ揺れる吊り革も吊り広告もよく出来た芝居のセットみたいで自分以外の人間は皆エキストラで脇役で生きて呼吸してる人間はぼく一人のような妄想が強迫観念を助長する。
イマドキ風の茶髪に染めた同年代の青年の顔には言われてみれば確かに見覚えあって、名乗った名前にも確かに覚えがあって、だけどそれはもう二度と思い出したくない何年も脳に負荷をかけ圧殺しようと努力し続けてきたものでだからこんなふうにして現実に遭遇するはずない再来も再会もするはずがない。
座席から半端に腰を浮かせ黒田と対峙する。口パクで発声を試みるも動転のあまり声がでない。
硬直するぼくをよそに黒田は楽しげに笑う、あたかも同窓会の予行演習といった感じで屈託なく。
「ひさしぶりだなーおい、何年ぶりだ?」
なんでそんなふうに笑えるんだ?
ぼくにあんなことをしておいて
電車内で偶然再会した元同級生、中学時代のクラスメイト、陰湿を極めたいじめの主犯格。
ぼくが大切にしていたアニメキャラのキーホルダーを奪い窓から投げ捨てた張本人は、当時の面影を宿す笑顔を浮かべ、頭のてっぺんから爪先まで変わり映えしたぼくをざっと眺める。
「どうしたんだよ、何か言えよ。ひょっとして俺のこと覚えてない?ひでえな、同じクラスだった」
「おぼえてる……よ」
ようやく、それだけ言う。
忘れたくても忘れられない顔と名前、もう八年も前の出来事なのに今だに夢でうなされ汗みずくで飛び起きる。
思い出す夢、慢性的な悪夢。
夜毎ぼくを苛む夢の中に現れるクラスメイトはのっぺらぼうで空白の顔下半分に嘲笑の切り込み、ぼくを取り囲み罵声を浴びせ殴る蹴るの暴行を働く。床に這い蹲り両手で頭を抱え身を丸め、嵐が過ぎ去るまでひたすら耐えに耐え抜く。
無力感、屈辱感、敗北感。
プライドはぎたぎたに切り刻まれて
しっかりしろ、理性を保て。
平常心を保って、平静を装って、なんでもないふうに対応するんだ。
横目で窺えば小金井が不思議そうな顔をしている。
頬杖をくずし、愕然と立ち尽くすぼくと見知らぬ男を見比べる。
小金井の胡乱な視線が横顔に突き刺さる。
プラスチックのお面じみて目鼻立ちが精巧な割に無個性で無表情で乗客の顔、顔、顔、コンパクトを覗き化粧を直すOLの無関心な顔主婦の迷惑そうな顔ブルゾン姿の中年男の居眠りする顔そのどれも全く違うのに個性と人格を欠いた量産品に見えるのはなんで?
驚愕、混乱、動揺……その他の感情で塗り隠せぬ恐怖。
「えーと、八年ぶり?偶然だな、ホント。まさかこんなとこで会うたあおもわなかった。俺?今からガッコ、大学行くの。二限目から。一限は教授の事情で休講で……」
黒田は嬉々として自分を指さし、聞いてもないことを勝手にしゃべりだす。
八年ぶりに再会した喜びか奇遇の気安さからか、ぼくが知りたくもない聞きたくもない自分の現在事情を饒舌にしゃべる黒田に曖昧な笑みを返す。
顔面神経痛の発作じみた歪んだ笑み。
「けどさあ、ふしぎだよなあ。これまで何回も京王線使ってんのにお前と会うの初めて。今おまえ何やってんの?大学?どこ?」
出ない言葉の代わりに首を振る。
「大学行ってないんだ。じゃバイト?」と詮索する黒田に、これも弱弱しく首を振って否定。
巨大な車輪が枕木を噛む断続的な振動が靴裏に伝わりガタンゴトン催眠術じみた単調で鈍重な音が轟く。
逃げたい。
今すぐ電車から飛び下りたい。
今から全速力で先頭の運転室に走って車掌に頼み込めば止めてくれるだろうかガタンゴトン開いた扉から線路にとびおりてもと来た道を駆け戻るアパートまでガタンゴトン仮病を使って盲腸でガタンゴトンいやだめだそんなことできるわけないガタンゴトン一度走り出した電車は次の駅に着くまで停まらないガタンゴトンなら窓でもいいから早く!
ガタンゴトン重低音と一定間隔の振動を伴い電車はスローモーションを体感する速度で進む。
脂汗を垂れ流し、腰を浮かせ半端な姿勢で立ち尽くすぼくを、乗客が不審な目で眺める。
どうか頼むから見ないでくれ、こんなみっともないぼくを見ないでくれ、後生だから無視してくれ。
狂気を発さんばかりに一心に祈り念じる。
方々から浴びせられる乗客の視線、車内でうるさくしゃべる黒田を迷惑そうに見るついでに非難がましくぼくを一瞥する。
こいつの友達だとおもわれてる?
勘違いもいい所だ、黒田はー……
『ちゃんとおさえとけよ、動かないように』
耳に忍び込む粘つく声。
『暴れんなよ東、可愛くしてやるから』
悪意滴る声、嗜虐の笑み。
体育館用具倉庫の暗がり、生徒の汗と体臭が染みついた固くしけったマットレス。
両側の座席を埋めぼくを取り囲む数多の顔がぐにゃり歪んで溶解したプラスチックの仮面の向こうから中学のクラスメイトの顔が暴かれる。
ここは電車の中じゃない、あの日の放課後の体育用具倉庫。
固いマットに倒れこんだぼくを取り囲む翳った顔、顔、顔、何人もの同級生。
隅に金網製のカゴがあってバスケットボールが詰め込まれていた、跳び箱があった、平均台がしまわれていた。
叫んでも暴れても多勢に無勢でむだ、先生は気付かない。引き戸は閉めきられた。だれも助けにきてくれない。
もがいてあがいて必死に抗い暴れ狂うぼくをあの時にやつき押さえ込んだのは
「なんか雰囲気変わった?色気づいちゃって」
イメチェンしたぼくの身なりを不躾に眺め回し、黒田が意味深にほくそえむ。
からかうような笑みを浮かべ接近しおもむろに手を伸ばす。
「!!」
殴られる。
直感し、中学時代と全く同じ動作をなぞり腕を交差させ掲げるも予想を裏切り衝撃は来ない。
髪を引かれる違和感。
黒田が作為を感じさせぬ自然さでぼくの前髪を一房摘みしげしげ見詰め冗談めかし呟く。
「髪も、前は脂でぺったりしてたのに。彼女でもできたか?」
ぼくにさわるな。
そう叫び突き飛ばしたい衝動を自制の限り抑圧する。
心を許せぬ相手に無許可で体の一部をさわられる生理的嫌悪が燃え広がって殺意が湧く。
小金井に触られたときは嫌悪も抵抗もそんなになかったのに、黒田にちょっとつままれただけで怖気をふるう。
黒田の指が髪に吸いつくのを感じてしまう。
感覚も神経も通ってない髪をしつこくいじくられ、シャツに隠れた肌が粟立つ。
黒田が髪をいじくり回せば背筋をなで上げられるような悪寒が走って背中が鳥肌立ち、アレルギー性皮膚炎でも患ったように頭皮が痒くなる。
「ぱさぱさしてるな、髪。石鹸で洗ってんの?」
『大人しく脱げよ、手間かけさせんな』
調子に乗った高笑い、貧弱で薄っぺらい肩を押さえ込み力尽くで学ランを剥いでいく。
距離が近い、互いに息がかかるほど近いのに親密さより威圧を感じるのは被害妄想か。
黒田の手を振り払い突き飛ばしたい、勇気が出ない、黒田の手が髪と接触したとたん堰を切ったように忌まわしい思い出がよみがえって恐怖がぶりかえして調教済みの体が先に屈服する。
頼むからお願いだから放してくれもう放っておいてくれガタンゴトンぼくをひとりにしてくれガタンゴトンかさぶたを無理矢理はがされ傷に塩をすりこまれる激痛に心が悲鳴をあげるガタンゴトンいや、かさぶたなんか張ってなかった、ぼくの傷口はぐちゅぐちゅに膿んで腐臭を発して、その耐え難い匂いがすれ違う人にいやな顔させてガタンゴトン『臭いんだよ、お前』『責任とって死ね』ガタンゴトンそうだぼくは臭い髪も体もどこもかしこも全部余すところなく臭い、臭くて臭くてたまらないだから誰も寄ってこない誰も彼も先生も生徒も遠巻きにする教室でも世間でも疎外され迫害され孤立してガタンゴトン
「そうだ彼女で思い出した」
黒田は勝手に話を進める。
相槌が得られなくても返事が返らなくてもそんなことお構いなしにマイペースに、この男はもとからそうだった中学時代からちっとも変わってないぼくの意見なんかさっぱり無視して自分の中だけで話を進める癖があった。
黒田がジーパンの尻ポケットをまさぐり、携帯のフラップを開いてぼくの肩を抱き寄せる。
強引に肩を抱かれ足が縺れよろめく、接触の嫌悪と不快さに筋肉が強張る。
黒田がぼくの方へ小さい画面を向ける。
「中学ん時、同じクラスに須藤っていたろ」
須藤さん。
その名前だけは、忘れるはずがない。
黒田のねちっこい吐息を耳朶に感じる。
「俺たち今付き合ってんだよ。高校が同じでさ、それでなんとなく」
液晶の待ち受け画面に、黒田と、見覚えある少女が映っていた。
当時の面影を色濃く残す可憐な顔立ち。
それは確かに、成長した須藤さんで。
髪を茶色く染め短くしてたけど、見間違えるはずがなくて。
画面の中ふたりは仲良く寄り添い黒田はだらしなくにやけまくり須藤さんははにかみ、どこか遊園地で撮ったらしく須藤さんは紙コップを手に持ち、黒田は須藤さんがよそ見した隙にストローからジュースを飲んでいた。
「変わったろ須藤。中学ン時よりずっと可愛くなった」
黒田の声が遠く聞こえる。
鼓膜が真空に閉じ込められ、酸素の濃度が急に薄くなって、ひどく呼吸がし辛い。
液晶から目を放せないそらせない放したいのにどうして鈍感に無神経に蒸し返す傷をえぐる、こんな最悪の形で。
知りたくなかった、こんな事。
会いたくなかった、こんな奴。
放物線を描き窓の外へ消えるキーホルダー、クラスメイトの笑い声、閉じ込められた体育用具倉庫。
「あれ、そういえばおまえ須藤のこと」
「さわんな」
強く腕を引かれ、逆らえず倒れこむ。
小金井の膝に倒れこんだ事を自覚し、虚脱した動作で顔を上げれば、本人はぼくの肩に両手を置き、座ってろと促し立ち上がる。
「なんだよ、お前」
「東ちゃんのダチ」
「へえ、ダチなんていたんだ」
あからさまに馬鹿にした笑い方。本質は中学時代から変わってない。
鼻白む黒田に詰め寄り、小金井が一転鷹揚に言う。
「電車の中で騒いじゃだめってお袋さんに教わらなかった?」
「俺はただひさしぶりに中学のクラスメイトと会って、懐かしくて……そっちこそ、関係ないヤツは引っ込んでろよ」
「言ったろ、ダチだって。関係大あり」
小金井の眼光が底冷えする凄みを帯びる。
顔は相変わらず軽薄に笑っているが、その笑みが注意して観察せねばそうとわからぬ程度に薄まり殺気を放つ。
「消えてくんないかな」
「な………」
「目障りなんだ」
淡々と言う小金井に対し、黒田の顔が怒りで赤く染まる。
しかし小金井は動じず、指の先から寸刻みで生まれてきたことを後悔させる酷薄な目と淡白な笑みの取り合わせで命じる。
一触即発の緊張感に居合わせた乗客が息を呑む。
隙だらけ弛緩した立ち姿から滲み出る抑えた殺気と眼光の牽制に気圧され黒田が舌打ち、携帯をポケットに突っ込み、最後に「くそっ」と毒吐き車内を突っ切っていく。
追いたてられるようにして隣の車両に移った黒田を見送り、座席に片腕かけへたりこむぼくへと向き直り、中腰の姿勢で語りかける。
「だいじょうぶ、東ちゃん。ひでえ顔色……」
限界だ。
『次の駅でお降りのお客様は足元に十分お気をつけください』
極限まで膨れ上がった吐き気が胃袋を圧迫する。
駅到着を告げるアナウンスが響き渡り、網棚からケースを下ろし子供の手をひき三々五々降りる準備をし始めた客をよそ目に、排気音を伴い扉が開くと同時に猛然と駆け出す。
「東ちゃん!?」
背後で小金井が呼ぶも決して振り返らず口元を押さえ、ホームを行き交う人のあいだを走りぬける。
肩や肘や腕がすれちがった人にぶつかりスーツの会社員が「なにすんだよ!?」とヒステリックな罵声をあげ「何あれー超必死なんだけど」「トイレ?」と女子大生が黄色い声で指さすも振り向かず階段を駆け上がる。
運動不足の体に全力疾走は辛く肺活量はすぐ限界を迎え酸欠で視界が明滅、老若男女で賑わうホームの雑踏をかいくぐりお馴染みの標示をさがす。
駅なんだからどこかに絶対……
「!」
床を蹴り加速。
頭を低めた前傾姿勢で雑踏を突っ切ってホームの片隅に設けられたトイレに飛び込む。
ハンカチで手を拭きながら出てきた男性が目を見開くも今はどうでもよくて、入れ違いにとびこんで、個室にも小用の便器にも行かず手洗い場に突っ伏し
「!!げぼっ、」
込み上げたものを一気に吐き出す。
洗面台に顔を突っ込み嘔吐、小金井が作ってくれた朝食を全部吐き出す。
口の端から胃液が粘り糸を引く。
縁を掴み吐き気に耐える背後に人の気配、上目で見上げた鏡に小金井が映る。
「東ちゃん、どうしたの。電車酔い?気分悪ィの?」
鏡の中で小金井が動く。背後に立ち、気遣わしげな面持ちで背中をさする。
吐寫物の飛沫が跳ねた顔で凝然と鏡を見詰める。
小金井の手『ちゃんとおさえこんでろよ』『可愛くしてやるから』黒田の手、体を押さえつけるいくつもの
「さわるな!!」
小金井の優しさを、全身で拒絶する。
ようやく戻った声で絶叫し、背中をさする小金井を乱暴に振り払う。
予期せぬ仕打ちに避けるのも忘れたか、壮絶な形相と剣幕に気圧されたか、突き飛ばされた勢いを殺せずトイレの床に尻餅を付く小金井。
らしくもなく呆然と床にへたりこんだ小金井に背を向け、蛇口を捻り、吐寫物を流す。
排水溝に渦巻き飲み込まれていく水を虚ろな目で眺め、乱れた呼吸を整え、口の端を手の甲で拭うもまた吐き気が込み上げる。
「うぐぁ、」
胃が痙攣、喉が収縮、背中が撓り再び嘔吐。
吐き気がやまない。食べたもの全部吐き出して、胃は空っぽで、もう胃液しか出なくて、それでも吐いて吐いて吐き続ける。胃を痛めつけるような無茶な吐き方。
吐いては蛇口を捻り流す反復作業を繰り返す。
手の甲でくりかえし口を拭い、漸く少し気分がマシになって洗面台に凭れ顔を上げ、鏡に映った自分の顔に絶句。
酷い顔色。小金井の言う通り。
冷え切った脂汗でべとつく顔を力なく拭う。
黒田が摘んだ前髪が額にへばりつく不快さに顔が歪む。
背負ったリュックの重さを支えきれず足が縺れ、洗面台に寄りかかるようにしてその場に膝を突く。
「げほがほげほっ」
激しく咳き込む。
黒田が触れた髪が肩が気持ち悪い。消毒したい。
涙腺が開いて目に涙が滲む。
トイレの不衛生な床に前屈みに突っ伏し苦痛を伴う咳の発作に耐えるあいだも瞼の裏に黒田の笑い顔と写メがよぎり、理性が一片残らず蒸発しどす黒い憎悪が荒れ狂い頭がどうかしそうになる。秋葉原どころじゃない、いやだ、もういやだ、うちに帰りたい、頼む帰らせてくれ。なんでもするから……やっぱりぼくは外に出ちゃいけなかった、ずっと部屋にこもってるべきだった、部屋にいる限りは守られてる、安全だ。
なんで扉を開けた?
なんで階段を降りた?
なんで券を買った?
なんで改札を抜けた?
なんで電車に乗った?
「改札が、閉まれば」
どうして今日に限って閉まらなかった、勝ったって何の意味もないのに。
意志なき改札を呪い、ふと気付く。
小金井が余計なことさえしなければ、
お節介で前髪を切ったりしなきゃ気付かれなかったんじゃないか?
場違いだったんだ、身の程も弁えず外に出てくるからこんな事になった、知りたくもない真実を思い知らされる羽目になった。
顔を濡らす液体が汗なのか鼻水なのか涙なのかそれさえ判別つかない。
震える手で洗面台の縁を掴み、言う事を聞かない膝を叱咤し立ち上がるも、一歩踏み出すと同時に足から力が抜ける。
こんな目にあうなら、一生ひきこもりでいい。
「ほっといて……ください」
無意識に手を差し伸べ支えようとした小金井を制し、壁を伝い歩き、なんとか自力でトイレを出る。
背に負ったリュックがずっしり重い。絶望的な重さに挫け、その場にへたりこみそうになる。
小金井と暮らし始めて、毎日が楽しくて忘れていた。自分が本当はどんな人間か忘れかけていた。
今日、電車の中で偶然出会った男が思い出させてくれた。
八王子東がどれだけみっともない人間か、臭くて汚くて恥ずかしい人間か、ひきこもっていたほうがどれだけマシか知れない人間か、ただそこにいるだけで人を不快にさせる病原体か。
八王子東は、死んだほうがマシな人間だ。
膝が笑う。歩行に忍耐が伴う。
胃は軽いのに背中は重くて、バランスが取れなくて、一歩前に踏み出すだけで意志の力を総動員する現状のぼくを眺め、トイレの床に無造作に足を投げ出した小金井がぽかんと呟く。
「…………意味わかんね」
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