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第19話

 「あ」  ドアを閉めると同時にしまったと悔やむ。  「まーたふたりでおでかけ?仲良しねえ」  隣の主婦と階下の大家は懇意の仲でしょっちゅう井戸端会議を開いている。近所の何さんがおめでただのだれそれが浮気しただのどこのスーパーの豚肉が安いかだのかまびすしく情報を交換し合い、地域社会の人間関係とエンゲル係数が円滑に回るよう油をさすのに余念がない。  「ちわっす、大家さん相変わらず美人っすね。木戸さん髪型変えたんだ?似合ってるよ、若返ったみたい。女子高生かと思っちゃった」  「嘘ッ、リュウくんてば!いくらなんでも女子高生はないって、からかわないでよー」  女性を喜ばせるセールストークでは小金井の右に出るものがない、なんたって経験値がちがう。  世辞と挨拶をかねご機嫌をとる小金井を囲み、主婦と大家がドッと盛り上がる。  実を言うと廊下で立ち話中のふたりに出くわすのは決して珍しい事じゃない、外出のうち五回に二回は遭遇する仕様になっている。新婚ほやほやで満たされてる隣の若奥さんはともかく、欲求不満気味な大家さんは小金井めあてで待ち構えてる疑いが濃い。  小金井と同居を始めて一ヶ月と二週間目、二人で買出しにいくのがささやかな日課になった。  ゲームに小休止をいれ表に出る。先に立ち上がるのは小金井。ぼくはといえば小金井に促され、不承不承コントローラーをおき、セーブを忘れずゲームを中断する。小金井は一日一度必ず外の空気を吸う、窓を目一杯開け放って濁った空気を入れ替える。そうして「行こうよ、東ちゃん」と笑ってぼくを誘う。  その一歩は小さくても、ひきこもりにとって大いなる一歩だ。積極性の塊のような笑顔と言葉にほだされ、脱ひきこもりの目標に尻を叩かれ、深呼吸してドアを開ける。通算十回目ともなれば少しくらい慣れるか度胸がついてよさそうなもんだけど、いまだにすごく緊張してしまう。  こんなふうにばったりご近所さんと遭遇した日はとくに。  「今日はどこにお出かけ?」  「そこのスーパーに。全品10パーセント値引きってチラシ入ってたから」  「リュウちゃんすっかり主夫が板についちゃって」  「料理できる若いコって感心ねえ。うちの息子なんかもー全然……ちょっとは母親にらくさせてほしいわあ」  「あう、あの、その」   小金井の背中に隠れ、どもる。挨拶は舌を噛み断念。  小金井が世間話担当ならぼくはひとりかくれんぼ担当、後ろでこそこそする日陰役担当だ。早く話が終わってほしいと一心に念じる。さいわい大家さんと隣の奥さんは小金井との話に夢中でぼくの存在に気付いてない、このまま無事やりすごして……  「東ちゃん、ほら、挨拶」  くそ小金井余計なことを。  「!ひっ、あの、その、」  「こんにちはあ」  「……こんにちは……」  語尾が消え入りそうに萎む。奥さんの顔がまともに見れない。隣家の奥さんは若くて可愛いくてすごく感じの良い人だ。廊下ですれちがうたび気付かぬフリで無視し、歩調を速めてやり過ごそうとするぼくにちゃんと挨拶してくれる。小金井の背に隠れ、会釈する。必要以上に深く頭をさげたはずみにずりおちた眼鏡を、両手であたふた直す。たぶんぼくの頬は真っ赤になってると思う。いい加減赤面症を治したい、みっともないったらありゃしない。  生身の女の人とちゃんと話す自信がぼくにはない。ブラウン管やパソコン画面を隔ててなら「可愛いよ」「君は最高だ」「世界で一番輝いてる」「モリガンになら踏まれてもいい」ってな弾切れ知らずのマシンガンの勢いでこっぱずかしい台詞吐けるのに、現実は羞恥心に勝てない。  回らない呂律でなんとか挨拶を返し俯けば、人見知りで引っ込み思案、おどおどうじうじ女が腐ったような態度のぼくに苛立ち、大家がごほんと咳払い。  「大家に挨拶は?」  「こ、こんにちは」  「はいよろしい。……まあた猫背になってる、ちょっとは見られるようになったんだからシャキッとなさい」  ぼくは大家さんが苦手だ。おっかない。正座で二時間説教されたトラウマをひきずってる。  自然腰が引け、小金井の背に隠れがちとなる。渋面を作る大家さんとにこやかな奥さんをびくびく見比べる。  こういう時、ゲームだったらいいのになとよく思う。ドラクエみたいに村人に話しかけるか話しかけないか選択できたらいいのに……  「東ちゃん、隠れてないでほら」  鬱々と消極的思考に逃げるぼくの手を強引に引き、前へと押し出す小金井。  足が縺れたたらを踏み、小金井に無理矢理手を引かれ隣に並ぶ。  それでも強情に俯くぼくに大家がため息を吐く。  頭の上を会話が流れていく。小金井は一人で二人分の饒舌を発揮し、嘘臭くない程度の世辞をまじえ、大家と主婦とを喜ばせる。ささっと買出しに行って帰ってくるはずが、予定が狂った。服の下を汗が流れていくのを感じる。頬にさした赤みを悟られないよう、顔を伏せる。  小金井がきてだいぶマシになったとはいえ八年間のブランクは大きい。  ちゃんと話そうと自分にプレッシャーをかければかけるほどボロが出て舌が粘る。  変わりたい変わりたいと口先では言いつつ一向に前に進まないグズな自分がもどかしい。こんな調子じゃいつか小金井に愛想を尽かされるんじゃと不安の芽が育つ。  ひとり思い煩うぼくの気も知らず大家が言う。  「そうだ、スーパーいくんだったらついでにいちごが売り切れてないか見てきて」  「出回り始める季節ですもんね」  「練乳かけて食べると美味しいわよね~。私あれ好きで」  「子供の頃はたっぷり砂糖かけて潰してミルクかけるのが大好きで」  「あ、俺も俺も。ガキっぽいってダチにばかにされたけどアレ大好きで、前の彼女にねだってよく作ってもらいました」  ダチ。彼女。  小金井がさりげに発した言葉に胸が痛む。  会話に混ざれず孤立感が募り、疎外感を味わう。賑わう廊下の隅で場違いな自分を痛感し、いたたまれなさを噛み締める。  下調べもせず部屋を出たのは失敗だった、もう少しあとにでるべきだった、いっそ外出をとりやめてこのまま……どうしよう、ずっとだんまりじゃ不審に思われる、現に大家さんがしらけた顔でこっちを見てる。できるだけ自然に話に加わって、でもなんて言えばいいんだ、どういうふうに流れに乗ればいいんだ、ぼくもいちごの練乳がけ好きなんですっていきなり言い出したらかえって何こいつって思われないか?そもそも男のくせにいちごの練乳がけ好きとかどうなんだ嗜好が女々しくないか……  余計な事ばかり先回りして考えて煮詰まっていく。  「小金井さん、あの」  帰っていいですか?  そう言おうとした。  言わせてもらえてなかった。  「!?っ、」   咄嗟にもぎはなそうとするも、そうはさせるかとますます握力が強まる。大家と主婦の顔色をうかがう。さいわいばれてない。小金井が体に隠して手を握ってるせいで悟られてない。もしばれたら?絶対おかしい、はたちすぎた男ふたりが手を繋いでるなんて非常識で絶対あやしまれる。  手を振り解こうと抗うも小金井は笑いながら話す傍ら、痛みを与えない程度に加減し、意地悪く力をこめてくる。  「ケーキもいいっすよね。俺ケーキのいちごは一番最初に食べる派なんです」「ああ、リュウちゃんは見るからにそんなかんじねえ」「そんなかんじってどんなっすか、意地汚いってこと?ひどいなあ、おれそんな育ち悪く見えます?」「甘酸っぱくて美味しいよね」「デパ地下のケーキ屋さんが美味しいの、うちいつもそこで買うわ」……他愛ないやりとりがいつ終わるとも知れず続く中、手の戒めから抜け出そうと悪戦苦闘試行錯誤する。  小金井が横顔だけでほくそえむ。  「ーっ、ぁ」  つっと指がすべる。  人さし指で手のひらをなであげられ、口から漏れかけた声を慌てて噛み殺す。  ぼくの反応に味をしめた小金井が細めた目に笑みを含み、手のひらをこねくり回す。  指の股をくすぐり、手のひらの窪みで遊ぶ。  「………ふざけないでください……」  頬を真っ赤にし、かすかな、本当にかすかな声で囁く。  精一杯の抗議をあっさり聞き流し手のひらを包み、絡めた指を入念に愛撫する。  小金井の指を感じる。  悪戯な指の動きがもどかしくじれったく生々しく伝わり、手のひらが汗ばみ、火照る。  汗で湿った手のひらは過敏になり、小金井の指が緩慢に円を描くたび、窪みをこちょこちょくすぐるたび、ぞくとっと快感が駆け抜ける。  「あ、っく」   我慢、するしかない。  平気なふりをするんだ。  上ずりかけた息を噛み殺し、恍惚の吐息を呷る。  対人恐怖症のはずが、だれかさんのせいですっかり接触過敏症になってしまった。   赤面症をかねてるからなおさらたちが悪く始末におえない。  自分の体が先の先までこんなに感じやすく出来てるなんて知りたくなかった。  大家さんと隣の奥さんは話に夢中でぼくの異変に気付かない、どうかそのままずっと気付かないでほしい、ばれませんように。  体の内側で徐徐に快感の水位が高まっていく。  そのうち溢れ出し飲み込まれ押し流されそうだ。  ふれあい絡みあう手から規則正しい脈と人肌の体温が流れ込む。  手のひらの皮膚がひたり吸い付き密着し、柔らかに指をねじ伏せる。  隠れてこそこそ手をいじくり回される落ち着かなさに視姦の恥辱が加わり、唇を噛む。  「………………………」  一緒にいるだけで恥をかかされてる気がする。  からかわれてるとわかっても振りほどく勇気がない、いやだと声を上げる度胸がない。  猫の喉をなでるような手付きで弄ばれ、煽られ高められた熱のやり場に困る。  「どうしたの?熱でもあんの?顔真っ赤」  「平熱高いんです……!ッ、ふあ」  手をぎゅっと握られる。  「きつい?」  「じゃなくて……人が見てるからやめてください」  「見てなきゃいいの?」  執拗に手のひらをまさぐられ、指の逆剥けをゆっくり剥がされるのに似てひりつく痛みとむず痒さを伴う性感が芽生える。  耳元で囁かれ耳朶まで赤く染まる。  大家さんが相好をくずし口を手で覆う。  「新婚さんね~」  「そ。仲良しさんです」  予想とは裏腹に、はたちすぎの男ふたりが手を繋いでる現場を見てもたいして面食らわなかった。本気とも冗談ともつかぬ小金井のキャラのおかげだろう。  見せつけるように大きく手を振ってみせる小金井に引きずられつんのめる。  「そういえばリュウくん、知ってる?最近変なひとたち見かけるのよ」  「変なひとたち?」  大家が胡散くさげに声をひそめる。  隣の主婦も既知の情報なのか、首肯で同意を示す。    怪訝な顔で聞き返すリュウにあたり憚る目を配り、大家が話し始める。  「ご近所で噂になってるんだけど……駅の辺りからこのへんにかけて、人相と目つきの悪い男たちがうろついてるの。ヤクザよ、絶対。どっか行くとき気を付けてね」  「こないだ近くにベンツがとまってたし。買い物にいく途中で見たんだけど、昼間っから黒いフィルムで窓覆って……いかにも怪しかったわ。防弾仕様じゃないかしら」   「警察に連絡する?」  「今のところ実害ないしほっときましょうよ……気味悪いけど」  大家と主婦が顔を見合わせ相談する間、小金井は虚空の一点を見詰め、なにごとか物思いに耽っていた。  「小金井さん?」  強張った横顔が不安をかきたて、おもいきって声をかける。  普段見慣れたおちゃらけた小金井らしくない鋭利な表情、目に浮かぶ警戒と思索の色。隠れ家を嗅ぎ当てられた犯罪者さながらやましい雰囲気。  豹変した小金井の心はここじゃないどこかを漂ってるみたいで、最前までぼくの手のひらをくすぐり悪戯を仕掛けてた時とは別人みたいで、違和感を抱く。  「どうかしたんですか?」  「……なんでもない」  微妙な間。取り繕うのが遅れた。  小金井の手がすっとすり抜けていく。  「用事できた。ちょっと出かけてくる」  「え?」  「夕方までには戻るから」  用事?  唐突な発言にあっけにとられ、反応が遅れる。  ともに暮らし始めて一ヶ月と二週間、小金井が単独行動をとった回数は少ない。殆どないといってもいい。小金井はどこへ行くにも何をするにもぼくと一緒だった感がある、ちょっとそこのコンビニに行くにしても必ず断りをいれてくれた。  「どこ行くんですか?」  「内緒。どのみちすぐ帰ってくるから部屋で待ってて。鍵かけて、絶対出ないで」  やっぱり変だ、おかしい。違和感がどんどん強くなる。目的地を告げないなんて変だ、わざわざぼかすようなことなのか?  鍵をかけて、絶対出るな。そう言い置いた表情は真剣で、油断を許さぬ眼光を孕む。  いつもまとう軽薄な雰囲気が払拭され、だらしなく弛緩した横顔が引き締まり、プレッシャーが漲る。  豹変した小金井の態度に動揺を隠せず、大家と主婦が閉口する。  「じゃあね、東ちゃん」  最後に笑い、軽く片手を挙げる小金井。  呼び止める暇もなく、カンカンカンと鉄板を叩く靴音も甲高く軽快に階段を駆け下りて、沿線の通りを駅の方向へ走っていく。  「待っ、」  手すりに縋り階段を駆け下りて通りに立つも、小金井は決して振り返らず、その背中はどんどん小さくなっていく。  あっさりすり抜けた手の感触が残っている。  余熱をもてあまし火照る手のひらを握りこむ。  「なんだよ、いきなり……」  アパート近辺を徘徊する不審な男たち、相次ぐ目撃談。  なんで急に買い物をとりやめた、小金井はどこへ行くんだ。  一ヶ月と二週間小金井が遠出した事は皆無、近所のコンビニに出かける時も忘れず行き先を告げてくれたのに……  『じゃあね』  もし帰ってこなかったら?  ふらっとどこかへ消えてしまったら?  「……………」  まさかそんな。否定しようにも、否定しきるには根拠が足りない。ぼくは小金井のことを何も知らない、小金井も肝心なことはなにひとつ教えてくれない。  小金井が消えた理由は男たちと関係あるのか?  近所を徘徊する男たちの正体が本職のヤクザと仮定して、それにどう関わってるんだ?  思い返せばそうだ、最初から不自然だった。  いくら常識知らずだって初対面も同然の男のアパートにいきなり転がりこんで押しかけ同居なんておかしい、小金井ほど人好きのする性格なら泊めてくれるあてたくさんあるだろうに何故ぼくを選んだ?  小金井は逃げていた?だれから?なにから?なにをして?どうして追われる羽目になったんだ?  「八王子くん!?」  気付けば駆け出していた、がむしゃらに小金井を追っていた。鍵をかけてこもってろという言いつけは理性と一緒に蒸発し、感情に任せアスファルトを蹴る。  焦燥と不安で胸が高鳴る。  電車と競争して沿線の道を走り、繁華街の雑踏をかいくぐり、駅へと駆け込む。  小金井は……いた。雑踏の中でも目立つ、一発で見つける自信がある。  列に並び券売機に硬貨を投入、点灯したボタンを押す。  眼鏡をずりあげ手元に目を凝らす。  小金井駅。  里帰り?  切符を購入し改札へ向かう。  ちょうど前の人が空き、震える手で硬貨を落としこみボタンを押す。  吐き出された切符をひったくり改札へ、どうにかひっかからず無事に抜け、ホームを行きかう人ごみに混ざりつかず離れず慎重な距離で尾行する。  電車がホームに滑り込む。小金井が乗るのを遠目に確認、競って乗り込むサラリーマンと学生に押され弾かれ懸命に抗い何とか乗り込む。  アナウンスが入り電車が出発する。  人いきれ、人声、雑踏、喧騒……断続的な揺れが襲い足元がぐらつく。  小金井は……いた。吊り革に掴まり、思わしげな風情で車窓を眺めている。  あやしまれぬよう十分距離をとり、ドアと座席に挟まれた僅かな隙間に身を縮こめる。  小金井からは座席の背もたれが邪魔してちょうど死角になるはずだ。  ひとりで電車に乗るのはハードルが高い。  だけどそんなこと言ってられない、気にしちゃられない。  追跡は発作的な行動、尾行は自発的な意志だ。  対人恐怖症は今も克服できない。  今も、人が怖い。  電車が揺れ隣のサラリーマンと肘がぶつかりそうになるたび、前に立つ女子高生の髪にさわりそうになるたび、ドッと汗を噴いてドーパミンが拡散し心臓が脈を乱す。  けれども、今ここで小金井を見失うわけにはいかない。  人前で恥をかくより、小金井がこれきりいなくなってしまうほうがずっと怖い。  靴裏から断続的な振動が伝わる。  電車の中で交わされる会話は奇妙に現実感が褪せて、耳を素通りしていく。  『武蔵小金井ー武蔵小金井ーお降りの方はお忘れ物なく足元に気を付けて……』  再びアナウンス。電車が失速し、やがて完全に停止。  ドアが開くのを待ちなだれ出す人波に便乗し降りる小金井を追いホームを踏む。  改札を出る、追う。  武蔵小金井駅で降りるのは初めてだがあたりをじっくり見回す余裕もない、呑気に見物してる場合じゃない。小金井が生まれ育った場所、小金井の地元。駅の施設に限っていえば、八王子よりだいぶこじんまりして寂れた趣がある……小金井市の皆さんごめんなさい、ぼくは八王子贔屓なのだ。  勝手知ったる地元といわんばかりの足取りで歩き出す小金井。  十分距離を空けて尾行再開、郵便ポストや電柱や路駐の車にところどころ隠れて慎重を期す。  「へえ、こんなところなんだ……」  そもそもぼくは気合入ったひきこもりで、月一の八王子・秋葉原の往復を除き、近隣の市に下車した経験がない。  何の変哲もない平凡な光景がやけに新鮮に映るのは、心境の変化もあるのだろうか。小金井は駅からどんどん離れていく、もう三十分は歩き続けている。駅前こそ少し拓けていたけど、このへんまでくると本当に普通の街だ。電柱に通学路の表示が貼られている。犬を散歩中の老人がいる。女子高生が楽しげにじゃれあってしゃべっている。  この街で、この空気を吸って小金井は育ったんだなあと考えるとなんだか感慨深い。  悪ガキだったと称する小金井の子供時代を空想の中で疑似体験しつつ、前方十五メートル離れた背中を追う。  風に乗って無邪気な歓声が聞こえてくる。元気に遊び子供たちの声。小金井が歩調をおとし、足を止める。門を押して中へと入る。  「え?」  ここは。  小金井が中へ入ったのを見届け、同じく歩調をおとし、横手の門柱に掲げられた表示を見やる。  『俺が育った施設?ひまわりホームっての。だっせえ名前』    「小金井さんがいた施設……?」  そこは養護施設だった。  門の中には遊具を備えた庭があり、幅広い年齢の子供たちが遊んでいる。ボール投げをする子、縄跳びをする子、くりかえし滑り台をすべる子……お転婆な子腕白な子引っ込み思案な子、あちこちに散らばったそれぞれを職員が指導している。  平和でのどかな光景。親がいなかったり色んな事情があったりで施設に居る身なのに、一見した限り、子供たちの表情は明るい。  庭のむこうには幼稚園に似た造りの建物があり、コンクリ固めの犬走りに面し、直接出入り可能な大きな窓が並んでいる。  「いたっ」  なにかが頭に当たる。  「おにいちゃんボールとって!」  足元を見下ろせば、ぼくの頭を直撃したとおぼしきゴムボールが転がっていた。  とりそこね大きく軌道がそれたボールを拾いにやってきた子供に前に、「え?え?」と狼狽するも、無視するのも忍びなく中腰に屈んでボールを渡す。  「はい」  「ありがとー」  元気に礼を言い友達のところへ駆け戻る男の子に笑みを誘われ、視線を戻しー……  硬直。  「リュウ!!」  窓のひとつがガラリと開け放たれ、エプロンを掛けた若い女性がとびだしてくる。  「どこ行ってたの、ケータイに連絡もくれないで……心配したんだからほんとに!」  「ごめん、元気してたララちゃん?」  「元気してたじゃないわよもうっ、ばか!!」  小金井がいた。施設の敷地内にいた。  今しも窓を開け放ち、サンダルを突っかけ駆け出した女性に抱き付かれ、激しく頬擦りされている。  小金井は笑いながら女性の背中に腕を回し、大事そうに支える。  「だいじょうぶ?ちゃんと食べてた?どこもけがしてない?家とかどうしてたの、また他の人に泊めてもらってたの?」  「ちゃんと食ってたしけがも病気もしてないって、安心して。それよかララちゃんこそ大丈夫、俺がいないあいだなんもなかった?」  「ばか……心配ならもっと早く様子見にきてよ」  続きは嗚咽が詰まって声にならず、小金井の胸に顔を埋め縋りつき、見知らぬ女性が詰る。   しゃくりあげる女性の肩をさすってなだめる小金井は、とても優しい顔をしていた。  愛情が滲んだ目、嘘偽りのない笑顔。  小金井の腕の中で嗚咽する女性のおなかは大きく膨らんでいて、明らかに妊娠し出産を控えている。  「ララちゃんが無事でよかった」  もう一回、強く、女性を抱きしめる。  ララと呼ばれた女の子はおそらくぼくと同年代で、ふっくら童顔で可愛い顔立ちは家庭的な優しさを感じさせた。  ナンパで軽薄な小金井とは対照的な雰囲気だけど、ふたりはすごくお似合いに見えた。  後ろ向きで卑屈なぼくとは何もかも正反対な。  微笑むだけでまわりがぱっと明るくなるような、善良で前向きな性格が伝わってくるような、好感のもてる女の子だった。  いい加減な小金井にぴったりな、しっかり者の彼女。  「いい加減ふらふらほっつき歩くのやめて戻ってきてよ、リュウ。子供だってもうすぐ産まれるのに……」  「ごめん。まだ帰れない」  「なんで?行かないで」  「余計な心配しないでララちゃんは元気な赤ちゃん産むことだけ考えて。俺は大丈夫だから」  「大丈夫とか……またそうやってひとりで抱え込んで、なんにも話してくれなくって。だってリュウに何かあったらあたし」  「大丈夫。絶対帰ってくるから」  「ほんと?」  「ララちゃんひとりぼっちにしてどっかいったりしない。約束する」  あの女の子は小金井にとって、きっと、特別な存在なんだ。  口にはしなくても。愛情深く見守る目から、優しく触れる手から、柔和で誠実な雰囲気から、痛いほどその事実が伝わってくる。  ぼくをからかう不実な手とは対照的な慎み深さと控えめな愛情をもって、小金井はララに触れる。  その髪をかきあげて、小さい女の子にでもするように人さし指で甲斐甲斐しく涙を拭ってやって、大きなおなかに手をあてる。  「蹴ってるのわかる?リュウに怒ってるんだよ、行っちゃやだって」  「女の子だったらお転婆になりそう」  小金井が微笑めばつられてララも笑う。温かく家庭的な空気がふたりを包む。  ぼくの居場所はどこにもない。  家族の絆で結ばれた幸福な二人の間に、入っていけるはずがない。  小金井とララは特別な関係で。  あの子は小金井の彼女で、おなかに子供がいて、その子はきっと小金井の子供で、小金井はこれから父親になって、新しい家族を作って『東ちゃん』アパートを出て行く?『東ちゃんそれ卑怯、必殺コマンドなしの方向で!』ぼくの隣からいなくなる『世界が明るくなったっしょ』目の前が暗く『東ちゃんから離れろ』どうして、なんで『世界中のくだらない百人が死ねって言ったって』『手伝うよ、やるだけやってみよう』小金井の大切な人は別にいて小金井の大切な家族は別にいて、ぼくはただ一緒に暮らしてるだけ家を提供しただけ友達でも何でもないただの居候先で何も話す必要ないから何も教えてくれなくって  「リュウ、大好きだよ。ちゃんと帰ってきてね」  「俺もララちゃん大好き」    頭を屈め、ララの唇の端っこに軽くじゃれるようなキスをする。  『涙飲ませてくんない?』      ララの頬を伝い、唇の端をぬらした涙のしずくをなめとる。  「全部終わったら必ず帰ってくるから、待ってて」  小金井にはちゃんと帰る場所があって  待っててくれる人がいて。  八王子のアパートは、小金井の居場所じゃなかった。

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