14 / 14

二章六話「互解」

綺麗な人だと思った。月のように静かで寂しそうに見えた。不思議と、彼の周りは空気が澄んで、息がしやすいような思いがした。だから、ただ、友人になりたかっただけなのに。 「ままならないなぁ」 その一言に耳ざとい(とおる)は直ぐに反応した。ニヤニヤとした口元を扇で隠しながら「恋煩い?」と聞かれ、面倒くさくなった業在(なりあり)はそんなもんだよ、と返事をした。 「私語は慎みなさい」 教員である艮有平(ごんありひら)は二人を睨んで注意をした。業在がはぁい、と間延びした返事をすると、一番前に座っていた和明(かずあきら)が業在を一瞥した。あの朝とも夜ともつかない時間に、和解出来たような気がしていたのは業在だけのようで、高く分厚い壁に隔てられているのが分かる。夢だったのかもと諦めて放っておけばよいと分かっていても、言いようのない寂しさが業在の中にあった。多分、美しいその青年に憧れる気持ちが少なからずあったのだろう、と上手くまとまらなかった髪が目の端に揺れる度に思っていた。 「座学で学ぶ事は天司官という職につくなら基本中の基本です。予習で知っている者が殆どでしょうが、しかと理解するために丁寧に進めていきます。それでは書の一項からはじめましょう。」 艮の指示を受けて候補生達は手元の書を開いた。導入部分を読み上げた教員は立ち止まり生徒を見渡した。そしてわざとらしく言った。 「次は結界についてですね。読むのは…和明君お願いします。」 辻家は結界術に長けていますからね、とクスクス意地悪く笑うのがみえて、業在はギュッと眉間に皺を寄せた。すると周りも控えめにクスクスと笑い、そんな中で和明は変わらない出で立ちですくっと立ち上がり、凛とした声で読み上げた。 「結界術とは」 結界術とはその名のとおり結界を張る術である。結界とは指定した空間に境界を作り外界と隔絶した空間を作る。悪霊との戦闘の際、周りに被害を拡大させないようにするためのものであり、天司官ならば最低でも会得しなければならない術の一つである。展開された結界はその術者がいる側が強固な造りになっており、戦闘は結界が壊れないようにするため術者含め二人以上を原則としている。 スラスラと流れるように読み上げた和明を手で制した教員は「さすが二度目ですね」と嫌味を言った。業在は自身の巻物をガンッと机に叩きつけて「すみません」とあからさまに不機嫌な態度で言った。「君は」と彼が口を開いた時、そばにいた融が明るい口調で遮った。 「いやぁ、流石霊司院の授業、緊張感も相俟って素晴らしい授業ですね!狭き門から入った甲斐がありました!僕は毎日兄に手紙を書いているので、今日の授業についてもしたためようと思います」 教員はゴホン、と不自然な咳払いをして書に目を落とし授業を進めた。それからその日に和明と目が合うことは一度もなかった。 「融、聞きたいんだけど」 なぁに?と愛想良く返した少年に業在は「君のお兄さんって」と切り出すと、貴麻呂(たかまろ)が「毎日手紙書いてるって正気か?」とズレた質問を飛ばした。しょーきしょーき、と意味を理解しているのかわからない返事をしながら、「お兄ちゃんの話でしょ?」とニコニコしていた。 「お兄ちゃん、はねぇ」 「平暁(たいらさとる)様ですよ」 渡り廊下で足を放り投げべらべらと談笑していたため、後ろから声がした。聞き覚えのある声に振り返ると朗らかな笑みを浮かべた常明(つねあきら)が立っていた。 「こんにちは」 その言葉にハッとして、並んでいた四人で急いで立ち上がり礼をすると、頭をあげなさい、と声をかけられた。 「平、暁様とは?」 「まさかお前知らないのか!?」 業在が常明に尋ねると、貴麻呂から驚きの声が上がった。武制官副長ですよ、と言った常明の言葉を復唱しながら頭の中で情報を検索していた。 この国の官吏には三種類ある。政治を執り行う治世官、軍事を司る制武官、そして精霊との平安を保ち神事なども担う天司官に分けられている。その中でも官長ともなると帝と謁見も可能であり、国を動かしていると言っても過言ではない。(きよら)御籠(みかご)が身近にいたため実感がわかなかったが、融の言う「兄」という存在の力が段々理解できてきた業在は目を瞬かせた。 「凄い人?」 「ええ、私よりも」 周りの反応から、常明がいかに凄いかを肌で感じていた業在は驚いた表情のまま融をみた。融はご機嫌で「兄の七光りってやつ」と語り、貴麻呂は恥ずかしいと思わないのか、と呆れていた。 「恥ずかしくないよ、兄さんは僕の誇りだから」 その言葉と太陽のように笑う少年に思わず頬が綻んだ。融は「でも常明様のお姉様の方が凄い人」と指を指すと、彼は少し困ったように笑った。 「あ」 その時業在は思い出したように教員である艮有平について常明に尋ねた。常明は少し考え込むような素振りをみせた。 「彼は、何かをしたのかな」 正直、和明と常明の関係性もよく分からない今、伝えることがどう作用するか分かりかねて、「あまり感じが良くなくて」と濁した。常明はそうですか、とこたえ何かを案じるような表情を浮かべた。 「彼をあまり責めないであげてください」 強い方ではないのです、という彼とその教員に何か関係があることは明らかだったが、業在にはそれを聞くことが出来なかった。 そこへ通りかかったのは和明だった。彼は常明に頭を下げ、「兄様、ご機嫌いかがでしょうか」と挨拶をした。うん、と返し、彼へは顔を上げるよう言わず、そのまま「授業は如何だったかな」と尋ねた。 「大変良い学びがありました」 「ならば良し、下がりなさい」 業在は思わず、「おい」と和明を呼び止めた。あんなに理不尽な扱いを受けておきながらそれを伝えることもしないそれをおかしい、と感じたからだ。去っていこうとしていた和明は業在を見、「頼んでいない」と一言吐き捨てた。 「はぁ?」 ふざけるなよ、と口をついて出そうだったが、常明を見て言葉を飲み込んだ。常明は困ったように笑っていた。 「私はそろそろ東山道に帰ります」 皆様もお元気で、という言葉に頭を下げた。廊下の先にはもう和明の姿も見えなかった。部屋に帰りグルグルと考えていたが、「ふざけるな」と憤ったのは確かに彼に対してではあるが、その振る舞い、というわけでもなかった。理不尽を受けているのに、それをただ受けて、無視にもやがて限界が訪れる。それに業在にはあの凛々しい青年が一方的に痛めつけられているのを見るのが不快でたまらなかった。人をせせら笑うような人間が嗤っていい人間ではない、と喚き散らしたいような気分だった。モヤモヤとした気持ちを抱えながら、炊事場からもらった桃を齧る。あの日彼と切り分けたものよりずっと酸っぱかった。 一方、常明は帰り支度を整えていた。従兄弟の部屋に顔を出しても、彼は「変わりありません」の一点張りだった。何も言われなければ介入することも出来ない、と寂しい気持ちを抱えたまま外の砂利の上で転送術を展開した。一方的に向けられる視線を感じながらもそれを無視し、霊司院を後にした。 それを物陰から眺めていた艮有平は彼の去った場所を眺めながら「はぁ」と息を吐いた。美しい常明の姿をなぞるように思い出していると、背後から「艮教諭」と呼び掛けられた。 「宗方(むなかた)筆頭……」 そこに居たのは山陰道筆頭の宗方惣助(むなかたそうすけ)その人で、彼は高い背を少し傾けて有平に目線を合わせた。 「良かったのですか?声をかけなくて」 その言葉に有平は無言で首を振った。時は今ではない、まだ彼に話しかけるときでは無い、と思いを巡らせていた。 「あの方が僕を教員にしてくださったんだ、成すべきことを成すまでは」 そう頬を両手で、抑えながら有平は恍惚の表情を浮かべていた。惣助は全てを面白がりながら見つめていた。

ともだちにシェアしよう!