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第2話

 「さっき何書いてたの、レポート」  「言ってもわかんねーよ」  「試しに言ってみ」  「吊り橋効果における男女の親和性についてのフロイト的解釈」  「それジグムントさん?」  「違う。吊り橋効果を提唱したのはカナダの心理学者、ダットンとアロン」  「ダットン・アンド・アロン……愉快なコンビ名。そういう海外ドラマなかったっけ。で、吊り橋効果って?」  太一の番。ブロックをひとつ抜く。  「映画でよくあるだろう、絶体絶命のピンチやパニックを一緒に乗り切った男女が結ばれちまうパターン。すごく簡単に言うとあれだよ。平常時と吊り橋を渡ってる最中とで男女にアンケートをとって、どっちの方がより相手に対し好意を抱いたか調べた結果、後者のがダントツだったんだ」  「なんでなんで?」  「種明かしするとな、吊り橋の揺れが伴う動悸を恋愛の高揚と勘違いしちまったんだよ」  俺の番。ブロックをひとつ抜く。  太一が素直に感心する。  「へえー」  「大抵吊り橋上で生まれた愛は長続きしないんだけどな、限られた状況における一過性のもんで。一時的な緊張状態による興奮が理由の恋愛は、継続的な恋愛には発展してかないってのが結論」  「ドキドキの質が違うんだ」  「そういうこと」  「じゃあ、これもそうかな」  「はあ?」  ブロックをひとつぬく。ふたつぬく。みっつ、よっつ、競い合うようにしてタワーを解体していく。  「ゲーム中に味わうスリルと興奮がきっかけで恋に落ちちゃったり、とか」  「………お前と?」  太一がきっかりと俺を見据え、いやに真剣な表情で白状する。  「俺、今、かなりドキドキしてるんだけどさ」  「………」  「くらっときた?」  「……どん引き」  「やっぱだめかー」  大げさに項垂れる様がおかしみを誘って、二人一緒に示し合わせて吹き出す。   「なんか賭けよっか」  「金?やだよ」  「キスとか」  「は」  タワーの主軸が歪み傾き連鎖崩壊、ばらばらに分解されたブロックがけたたましく床になだれる。  太一が残念そうに嘆く。  「あーあ。負けちった」  二人一緒に後片付けをする。  クーラーの空調の音の他にはプラスチック製のブロックが床と擦れる音と、俺たちの身動きに伴うささやかな衣擦れしか聞こえない。  共同作業で築き上げたタワーの残像はカケラを拾うごとに薄れていき、最初からそれが存在したかどうかも疑わしくなる。  人間の記憶はとても頼りない。  手で触れて確かめる事ができなければ、形を知覚し得ねば、すぐに薄れて消えてしまう。  至近距離でブロックを拾い集める俺をまともに覗きこみ、太一が囁く。  「その眼鏡」  「うん」  「最初びびったあ。病院から帰ってきたら兄貴が眼鏡になってんだもん、超ウケる」  小五の冬から小六の春先まで、太一は入院してた。  家に帰ってきた太一は、留守番してた俺の顔を見るなり、「眼鏡!?うははっ、兄ちゃんが眼鏡になってる!!」とこっちを指差し飛んで跳ねてひとしきり大騒ぎした。   何年か越しに太一のオーバーアクションの理由に思い当たり、胸が少し疼く。  約一ヶ月にも及ぶ入院中、一度も見舞いにいかなかった。  受験と反抗期が重なったせいだが、ソファーのスプリングを壊す勢いではしゃぎ回っていた太一が電池が切れてポツリと一言、「……なんか別人みてー」と零したさまが忘れられない。   兄ちゃんから兄貴に呼称が変わったのは、それからだ。  前に太一が「俺の心臓がとまっちまったら兄貴ドロップキックしてよ。また走り出すからさ」と、朝食の席で牛乳をイッキしながら言った。  心臓マッサージ、もとい心臓キック。  そして太一はまた走り出す。  輝かしい人生が続く。  どこまでが人生で本番でどこまでが余生でおまけなのか、俺にはわからない。  本気で生きた分だけ人生と呼べるならこいつはいつだって人生を生きてるだろうに、俺とふたりっきりの時だけ冗談とも自嘲ともつかぬ口調で余生という。  もう少しで死ぬんだから許してよ、と。  甘えさせてよと、確信犯的につけこむ。  ジェンガを片付けた太一から視線を切り、テーブルの隅っこにおいたスマホに一瞥くれる。  「家に連絡入れたのか」  「うん。兄貴んとこよるって」  「そっか」  「泊まるって」  「泊まらせねえよ。帰れ。母さん心配するだろ」  「ちぇ。ケチ」  「毎日毎日俺んとこ入り浸って……合鍵渡すんじゃなかったよ。こっちだって都合があるんだ、飲み会とかさ」  「いなくても勝手に使っていいっつったじゃん」  太一が不服げに口を尖らす。  プラスチック製の本棚に心理学関係の本や小説がぎっしり詰まった殺風景な部屋を見回し、呟く。  「俺もこっち引っ越そうかな」  「ふざけんな」  自由気ままな一人暮らしを文句の多い居候に邪魔されたくない。  即座に却下すれば、太一は「えー」と声を上げ、非難がましい目つきでこっちを睨む。  もう八時を回ってる。九時になる前に帰さないと。  「ほら、明日も学校だろ。電車なくなったら家まで走って帰らなきゃ」  「いいよ、そうする」  「お前になにかあったら困る」  「『心臓になにかったら困る』だろ」  俺の中では同義だが、太一の中ではちがうらしい。  間違ってないから返答に詰まる。  太一がふてくされ腰を上げ、スポーツバッグをもって大股に玄関へ行く。  背中、ちょっと見ない間に広くなった。骨格も年を追うごとにしっかり完成されてきた。  こいつは健康に成長してて、でも、こいつの心臓は成長に追いついてってなくて。  ごまかしごまかし生きてるけど、いつかは破綻する。  ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。  終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。  腰を上げ、玄関まで太一を送る。  ノブに手をかけ開けようとしてちょっと戸惑い、振り向く。  引き止めてほしがってそうな顔だ。  「ドロップキックしてやろうか」  「……虐待反対」  「とんでもない、スキンシップさ」  太一が占有の特権を誇るかの如く笑い、自分の胸のあたりを拳で殴る。  「俺のハートをジャンピングスタートさせるのが兄貴の役目だもんな」  終わりが来ないようにと祈るほど俺はガキじゃない。  兄ちゃんが兄貴に代わった瞬間から、いずれ終わりが来るのに生まれてしまった感情を自覚した瞬間から、ガキでいられなくなった。  ため息を吐きノブを捻った途端、電気が消えて人工の闇があたりを包む。  「またブレーカー落ちた」  舌打ち。このアパートはよく停電になる。  どうせもう帰るんだ、平気だろう。  ノブががちゃつく音を聞きつつ部屋に取って返そうすれば、後ろからあたたかいものが抱きつく。  心臓がひとつフライング気味の鼓動を打つ。耳朶をくすぐる切羽詰った低い声。  「兄貴」  「こら、ふざけんな」  「好きだ」  耳を疑う。  太一の腕は強くて、背は俺より大きくて、後ろから抱きすくめられて混乱して、そのまま吐息がー……  唇が被さる。  頭が真っ白になる。  完全な思考停止。  俺を抱きしめる腕の皮膚の下に筋肉の躍動と血の脈動を感じる。    太一は生まれつき心臓の畸形だった。  生後九ヶ月の時余命はもって十歳までと診断され、父さんと母さんは悔いないよう残り七十年分愛することにした。  最初の十年に凝縮された七十年分の愛情。息苦しいほどの。  俺はいつも、こいつを羨んでいた。  「音、聞いて。俺の心臓の音。兄貴とおんなじでしょ」  いつ壊れてとまるかわからないくせに、こいつの心臓はちゃんと鼓動を打つ。  俺と接するうちにその鼓動がだんだん速くなって、足並みを乱して、発作の兆候じゃないかと不安を誘う。  抗う気力をなくす。  黙って抱擁される。  日焼けした腕に弛緩した体をゆだね、ぼやく。  「……賭けに負けたくせに」  「そこはほら、サービスですよ」  こういう日がいつかくると予感していた。  太一が俺のアパートに入り浸る理由も、病院から帰ってくるたびうるさく懐く理由も、時たま俺を見る目によぎる物狂おしい影の理由だってわかっていた。  わかっていて、無視をした。  俺はどうしたらいい。どうすればいい。  兄弟だから、家族だから、男同士だから。  拒む理由断る理由はいくらでもあって、でも、こいつの願いを拒否したらその瞬間心臓がとまってしまいそうな恐怖がつきまとって。  「……心音、うるさい」  「ドキドキしてんだよ。発作じゃない」  「区別つかねえよ」  「もっとくっつけばわかる。耳澄ませて」  ずっと疎外感を抱いてきた。  孤独感を内に抱え込んだ子供時代、俺は両親に沢山かまってもらえる太一が羨ましくて、わざと見舞いに行かなかった。  俺が来ると本当にうれしそうな顔をするから、それがかえってたまらなくて。無神経が憎たらしくて。  病気の弟に優しくできない自分は最低なヤツだなあと子供心に哀しく思って、泣いた。    「今、すっげどきどきしてる。キスしたらとまるかな」  「ばか。セックスの時もとまらなかったんなら大丈夫だよ、お前は長生きする。そんな性格だし」  「兄貴が相手なら、ちがうよ」   ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。  終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。  大切な人に先立たれた時から人生は余生になって、あとに残された人間は、もう誰もいない部屋や家や心に散らばった思い出をひとつひとつ拾い集めて生きていく。  俺のうなじに顔を埋めこすりつけ、心臓の鼓動が伝わる距離でつぶやく。  「前の時ヘイキだったのは兄貴が相手じゃなかったからかも」  「試してみるか」  ずっと太一に隠してきたこと。  こいつが好きで、嫌いだ。  俺とは違い愛され上手で手のかかる弟を独り占めできるなら今この瞬間心臓を止めてしまうのもアリなんじゃないかと魔がさすほどには。    余生のような人生にキスで終止符を打つのも悪くないだろうと、太一の心音と体温に包まれ安らぎを覚えながら、思った。

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