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第1話
12月31日大晦日、19時05分。
学校爆発まで残り五時間。
「はっ、はあっ、はっ、はっ」
全速力で自転車をこぐ。
吐いたそばから息が白く蒸発していく。
今夜は一段と冷え込みが厳しい。
暮れも押し迫った十二月末、大晦日の夜に出歩く酔狂な通行人はまばらだ。
今頃賢い連中は炬燵でぬくぬく猫のように丸まってみかんの皮剥きながらテレビ見るか年越しそば啜ってる。それこそ冬の醍醐味、炬燵でぐうたらごろ寝してるみなさんに呪いあれ。とくに妹。身内の恨みはげに深い。
アスファルトを打った道のど真ん中を猛然と風切り突っ走る。
等間隔に並ぶ街灯が橙の光曳く彗星の残像となって流れ去る。
体重をかけ踏むごとペダルが不吉に軋む。
凍てつくハンドルが手にへばりつく。
閑散とした夜道をママチャリで爆走する高校生はさぞ不審で目立つだろう。
職質かけられたらめんどくさいが不思議とおまわりにも出会わない。
公僕も大晦日まで働き詰めは馬鹿らしいんだろうと勝手に想像、交番で寂しくそば啜る幻影に同情。
税金自腹で切ってない平凡怠惰な高校生の俺としちゃ見回りさぼる彼らを責める気はさらさらない、あと五時間で学校が爆発するにしてもだ。
実際どうにもできないだろ?
警察の手は借りれない。相手は俺一人が来ることを望んでる。
宣戦布告。
俺に対する挑戦だ。
ハンドルを握りながら腕時計を見る。
蛍光塗料を塗られ闇の中おぼろに浮かぶ文字盤が19時10分をさす。
あまり時間はない。余裕ぶっこいてたらドカン、だ。
ペースを上げる。水面下の白鳥のようにがむしゃらにこぐ。
前のめり、振り落とされぬようハンドルにしがみつく。
顔が痛い。
鼻が痛い。
服から出た場所ぜんぶ痛い。
身を切るような寒さって比喩じゃなく実感だったんだ、と昔の人の表現力に感心。
俺は走る。
師匠じゃねーのに。
『なんで十二月を師走っていうか知ってるか?』
冬の風より温度が低い、淡々とした声が耳に甦る。
『知んね。なんで?』
『師匠が走るからだよ』
『まんまじゃん。意味わかんね。師匠って何、K1?なんで冬になると師匠が走んの?大晦日の頂上決戦に備えて走りこみの特訓?』
『師走はあて字。ほんとは師馳すって書く』
宙にすらすらと字を書く。せっかくだけど、わかりません。自慢じゃないが俺は全科目低迷中で、とくに古典はひどい。
白い息を吐きながら宙に字を書く指先を辿る。
寒気で眼鏡のレンズが曇り、表情を地味に隠す。
俺たちは一緒に歩いていた。十二月初旬、木枯らしすさぶ帰り道。
あいつは唐突に言い出したのだ。
『師匠は坊主のこと。坊主が走り回るほど忙しくなるから師馳すだって』
『え?なんで走んの?年末葬式たてこんでるの?さみいから心臓麻痺とかでぽっくり逝っちゃうお年寄り多いってことか。あ、俺のじいちゃんが死んだのも十二月だ』
『短絡だな』
苦笑する。
むっとする。
『じいちゃんばかにすんな。死人に鞭打つなんて最低だぞ』
『いや、お前の短絡思考を馬鹿にしてるんであって、故人には敬意を表する』
『ならいい……待て、よくない。それ結局、俺ばかにしてんだろ』
『ばれたか』
性格が悪い。
『とにかく、僧侶が袈裟からげてあたふた走り回るくらい忙しいから師走なんだってさ』
『へえ。へえ。へえ』
『古くね、それ?』
あいつは無駄に物知りだった。俺が知らないことをたくさん知っていて、それとなく知識をひけらかす悪癖があった。俺はただ馬鹿みたいに口開けて、あいつが時折ふと思いついたように垂れ流す雑駁で広範な知識に感心した。俺は相槌をうつ係、あいつは尊敬の眼差しを受ける係といつからか役割分担が決まっていた。
その事に不満を覚えもしなかった。そういうもんだと納得していた。あいつもそうとばかり思っていた。
違ったのか?
俺の勝手な思いあがりだったのか?
あいつは目を細めてものを見る癖がある。
ただでさえ視力が悪く細身のフレームの眼鏡をかけてるのに。
あの時も、あいつは見えないものを見ようとするように目を細め、道の向こうを眺めていた。
俺はあいつの横顔を見ていた。
眼鏡の似合う知的な顔だち、怜悧な切れ長の目。
色は白く、体温の変化がすぐ肌に出る。
頬があざやかに紅潮していた。単純に寒さのためだ。
俺はあいつが恥ずかしがるのを見たことがない。
取り乱したりうろたえたり声を大にして叫んだり、感情的になるところを、一回も見た記憶がない。出会ってそろそろ一年が経つというのに、あいつは今でもどこか距離をおいてる。どんだけ砕けた口をきいても、ふざけたふりをしていても、見えない境界線を感じる。
ボーダーライン。
『年が果てる意味の年果つから変化した説、四季の果てる意味の四極から変化した説、一年の最後になし終える意味の為果つから変化した説もある』
『さすがオールAの優等生はおっしゃることがちがう』
コートに手を突っ込みさぶさぶと身を縮かめる。
隣を歩くあいつは皮肉っぽく鼻で笑う。常識だといわんばかりの態度が癪だ。
『お前こそ。古典の授業中なに聞いてたんだ?』
『寝てた。六限の古典は睡眠タイム。部活にそなえて英気養っとかなきゃ』
『引退したんじゃないのか』
『休止中なだけ。春になったら再開する。将棋でいうと穴熊だな、今は穴ごもりなの。だってさー部室暖房入ってないから寒ぃじゃん。今は積みゲー崩し期間なの、徹夜で。ドラクエが俺を待ってる。あれ、ドラゴンほとんど関係ないのに、なんでドラクエっていうんだろ。ファイナルファンタジーも謎。十本以上出てるくせしてなにがファイナル?』
『購買者の気力がファイナルなんだろ』
『……お前頭いいな』
年果つ、四極、為果つと口の中でくりかえす。
古典教師の口から聞けば眠気を誘うだけの退屈な話が、あいつの口から聞くと言霊の通った特別な知識に思えた。
年果てる月。
四季の終わる月。
何かをなし終えるための月。
一年の、最後のチャンス。
よっぽどの事がない限り俺たちは一緒に帰った。なんとなくそういうことになっていた。示し合わせたわけじゃなく、本当になんとなく漠然と、あいつが腰を上げれば俺もと鞄をとった。優等生は寡黙、劣等生は多弁。沈黙は金の諺を引き合いに出すまでもなく賢者は口数が少ないものだ。
大抵くだらない話をした。俺が一方的にまくしたてる本やバイトの話、広くて浅い趣味の話を、あいつは適当に頷きながら聞いた。無関心に聞き流してるわけじゃない証左に、時々鋭い警句を吐いた。
俺たちが最後に一緒に帰ったあの日。
あいつは妙に真面目くさった顔をして、こう言った。
『十二月は、終わる月だ』
今思えば、予告だった。
サインだった。
なんで聞き流した?
手遅れになるまで放っといた?
「年果つ、四極、為果つ」
俺にミステリ読みの才能はない。
好きな事が必ずしも得意分野と限らないとは世知辛い。
名探偵は関係者がぽろっと零したなにげない言葉の端を掴まえて謎をとくのに、間抜けな俺ときたら、本人が宣戦布告してくるまでぜんぜん気付かなかったのだ。
自分の間抜けさを振り切るようにペダルを踏みこむ。
酷寒の風が容赦なく吹きつける。
十二月は終わる月だという言葉が頭の中を堂々巡り、不吉な予告と一緒にあいつの顔が脳裏に浮かぶ。
眼鏡の似合う知的な顔だちにつきまとう孤独な影、ボーダーラインの彼方を見ているような透徹した眼差し。
俺の親友は、学校と心中するつもりだ。
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