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第2話

 終わりのはじまりは一本の電話。  『爆弾仕掛けた』  「え?」  『学校に』  「ちょ、待」  落ち着け、俺。  台所で物音がする。妹が家事をやってる。  反抗期真っ盛りで生意気な口答えばっかの妹は中二、パートで留守がちなお袋の主婦業を一人前に代行してる。  廊下は冷え込んで裸足の足裏からみしみしと冷気が染みてくる。  ああ、氷点下きると骨って鳴るんだ、ほんとに。  一瞬の思考停止。  受話器を握ったまま呆然と立ち尽くす。  ありていにいって、我が家は古い。事実に即しボロいと言うべきか。おかげで音がよく響く。板張りの床はみしみし軋み、地震がきたら一発で崩壊しそうな不安を抱かせる。そしてなんとなく薄暗い。  『秋山、聞いてる?』  機械を通した声はいやに他人行儀に聞こえた。  確認され、現実に戻る。どれくらい放心してたのか、たぶん時間にして五秒くらいだが随分長く感じた。台所から音痴な鼻歌がもれる。  『妹?』  背景の鼻歌を聞きつけ電話向こうの相手が質問する。  「珍獣」  『お袋さんは?』  「パート。まだ帰ってない」  『大晦日もか。大変だな』  「親父いねーし、しかたねーよ」  落ち着け、俺。頭を冷やせ。たちの悪い冗談まともに受けるな。  深呼吸し、壁に凭れる。背中を預けた壁の固さに平常心を取り戻す。お袋はスーパーの惣菜売り場で働いてる。親父は俺がガキの頃に女作って蒸発した。よくある話、ありふれた不幸話。典型的な貧乏母子家庭だが、お袋の口やかましい躾がよかったのか、環境の割には俺も妹も結構まともに育った気がする。自己申告だからあてになんないけど。  『今なにしてる?』  「妹?そば茹でてる」  『いや、お前』  「電話してる」  『その前』  「ラスボス戦突入したとこ」  思い出すと怒りが滾る。  受話器を握りなおし、噛み付くような勢いで怒鳴る。  「なんだよ、一体。いきなり電話かけてきて爆弾仕掛けたとかくだらない冗談ぬかしやがって、こっちはそれどころじゃねーよ、大事なラスボス戦かかってたのに!!俺より成績いいくせに悪ふざけしやがって、切るぞ!ドラクエに戻る!!」  『ほんとだよ』  電話を叩ききろうとして、耳からはなす寸前、冷静に被せる声に思いとどまる。  機械を通した声は酷くよそよそしく冷淡にさえ感じた。  同級生に混じっても低い声は、酷薄な響きを持っていた。  まんじりともせず受話器を掴み、置こうかどうしようか逡巡する。  台所から物音がする。そばを茹でるいい匂いが漂ってくる。妹がなにかうるさく叫んでる、「兄貴も手伝ってよ」とかそんなところだろう。  生まれてこのかた十七回目の大晦日の夜、我が家はいつものように平和だった。  俺の心の中だけが冷えていた。  電話から漏れる声は現実感を希薄にする。  ゲームを中断され不機嫌に階段を駆け下りて、うるさいと妹に注意され、そこまでは普段どおりだった。受話器をとった瞬間、カチリと現実から非現実に切り替わった。スイッチの切り替わる音がたしかに聞こえた。現実と地続きの平凡な日常が、受話器をとった瞬間、非日常に接続されてしまった。  口の中が乾く。  「………だからさ、大晦日までくだらない事でかけてくんなって。らしくねーよ、優等生のお前が。受験勉強でもしてろよ。どういう風の吹き回しだよ一体、俺を気分転換に利用すんなって。大体さ、そういう冗談、不謹慎だろ。言っていいことと悪いことの区別付くヤツだと思ってたんだけど、買いかぶりか」  『冗談なら不謹慎だけど、マジだから』  「マジって。はは。爆弾仕掛けたって?」  『ああ』  声には冗談の成分が含まれてなかった。  冗談と笑い飛ばすには軽薄さが欠落していた。  階段を降り、受話器をとった時に背に走った悪寒がどんどん強くなる。  俗にいう胸騒ぎ、嫌な予感、前ぶれ。  自慢じゃないが俺にはこれっぽっちも霊感がない。にも関わらず、うるさくがなりたてる電話を見た途端、ああ、これは出ちゃいけないとためらった。出たらきっとめんどくさいことに巻き込まれると直感した。しかし鳴り続けるベルを無視するにはちょっと度胸が足りなかった。  緊急の用事だったら大変だ。  お袋がパート先で倒れたのかもしれない。  「うっさい早く出ろグズ兄貴」と妹に蹴られ、しぶしぶ受話器をとりあげ……案の定、厄介ごとに巻き込まれた。  口をパクパク開閉、途切れた会話を繋ぐ言葉をさがす。  「あー………物理と化学成績よかったもんな」  『まあな』  謙遜するでもなくさらりと言う。事実だからまあ肯定するっきゃないだろうけど、イヤミなやつめ。  ちょっと待て、会話の方向性はこれでいいのか、他に突き詰めなきゃいけないことあるんじゃないか。  「爆弾、どうやって作ったの?」  俺は馬鹿だ。  好奇心からついついそんなことを聞いてしまう。  『ネットや本で情報しいれて。結構身近にあるもんで作れるんだぜ』  「威力はどれくらい?」  『まあ、校舎は吹っ飛ぶかな』  「すっげ!」  そういえば、こいつは優等生だった。学年一どころか、学校一の称号付けても文句なしの天才だった。鼻歌まじりで爆弾だって作れるだろう。  「……いや、すごいはすごいけど。ちょっと尊敬しちまったけど、やばいだろ、それ?爆弾だろ、爆弾。ボンッ!て爆発炎上だろ。お前が頭いいのは知ってるけど、そんなの家で簡単に作れるワケ?ネットで情報集めたって……」  『今はなんでもネットにあるから、検索すればすぐ。ちょっと改良加えたけど。威力が数十倍はねあがった自信作』  「……勉強のしすぎで頭がいかれちまったんだな」  『ひょっとして同情してる?まだ嘘だとか思ってる?』   「大晦日って病院あいてたっけ、頭の。それか心療内科?とにかくさ、病院開き次第一番に行ったほうがいいって。普通じゃねーよお前。そういう冗談、キャラじゃねーし。一回診てもらったほうがいいって、頭。嘘吐きで愉快な小人さんが住んでるよ。時々頭の中から声が聞こえない?絶対小人さんだよ、岩盤工事でガリガリ頭蓋骨に穴あけてんだって」  受話器のコードを指に絡め遊びながら、すっかり脱力して壁によりかかる。  一瞬でも真に受けそうになった自分を恥じる。  俺の友達は来年に控えた受験のストレスで言動がおかしくなってる。自分が爆弾を手がけたと思い込み、目下たった一人のダチの俺に、傍迷惑な悪戯電話をかけてきやがった。  とっとと部屋に戻ろう。廊下は寒い。ラスボス戦も中断したままだ。  『………信用ないな、俺』  失望のため息を吐く。  「そういえばさ、麻生。なんで携帯じゃなく家電にかけてきたの?」  『切られて繋がらなかったらやだし。アドレス削除されたんじゃないかって思って、確実に繋がるほうを選んだ』  「なんで消すんだよ」  『わかってるだろ』  突き放すような、声。  「え」  心臓がひやりとする。  『見たんだろ?』  嘲笑を含んだ挑発。脳裏に切れ長の目が浮かぶ。  電波に乗じて届く声が鼓膜をざらりとなめ、受話器を掴む手が汗ばむ。電話ごしの相手が今どんな顔をしてるか、想像してしまう。  『とぼけるな』  脅迫するような声。  見て見ぬふりした俺の卑劣さを指摘し糾弾する、容赦ない声。  自分は知ってるぞと全能の優越感をふりかぶり追い詰めていく。  『理由、わかってるだろ』  「麻生」  初めて名前を呼ぶ。困惑した声が出た。みっともないほどだ。  壁から背中をおこし受話器をのぞきこむ。  重苦しい沈黙が漂う。  台所から妹の鼻歌と立ち働く物音が響く。  付けっぱなしのテレビの音声が漏れてくる。  手の中の受話器がとてつもなく邪悪で禍々しい物に思える。  見慣れた廊下の光景が現実味をなくし奇妙に褪せて映る。  ここは俺の家だ。  俺が十七年生まれ育った安全な場所、なのに吹きさらしで無防備な気がする。  『前に聞いてたからさ。母子家庭で、母親が勤めに出てるって。夜中に突然電話かかってきたら、出ないわけにいかないだろ。妹の手前もあるし、不安にさせちゃ可哀相だし』  「麻生、お前」  『秋山』  ひそやかに呼び返される。  『忘れたふりするな』  抑制した調子で畳み掛けられ、返答に詰まる。手の中の受話器が火傷しそうな熱をもつ。  侮蔑に満ちた指摘に、意識して思い出さぬようしていた出来事のフラッシュバックが襲う。  西日さす放課後の図書室。  片隅の書架にもたれ、学ランをはだけ肌をさらした麻生に被さる背中。  窓から射す夕日で図書室は赤く燃えていた。   埃の匂いが鼻先をつく。  かぶりを振っておぞましい残像を払い、平静を繕った声を受話器の穴に注ぎこむ。  「ふざけんな。わけわかんねーよ。もう切るぞ、悪ふざけにゃうんざりだ」  『秋山透』  麻生が俺の本名を呼ぶ。  下の名前を含めて呼ばれるのは初めてで、受話器を置こうとした手がおもわずとまる。  見下ろした受話器から零れたのは、予想外の問い。  『なんで人を殺しちゃいけないんだ?』  「は?」  『教えてくれよ。なんで人を殺しちゃいけないんだ。ずっと疑問だったんだ、それが』  うんざりだ。受話器を置こうとした。電話を切ろうとした。できなかった。  答えのない問いに込められた静かな絶望が、受話器を伝って、俺の手までもしびれさせる。  『お前、推理小説好きでよく読むだろ。どっかに書いてないか答え。人を殺しちゃいけない理由。いろんな小説でいろんな名探偵が演説ぶってるだろ。だったら、わからないか』  「人を殺したら自分が殺されても文句言えないから、とか」  『適当言ってる?』  「この答えじゃ、だめか」  『俺は納得しない』  そばを茹でるいい匂いが漂ってくるが、食欲はどっかに消えていた。  『人を殺しちゃだめだっていうやつは、だれかを殺したいほど憎んだことがないのか』   意味わかんね、と鼻であしらうこともできた。  早く会話を終わらせたいなら、受話器をおけばいい。  できなかった。  硬直していた。  受話器を媒介するのは、感染する憎悪そのものだった。  『前あったろ。いじめられた復讐に爆弾仕掛けて教室ごと吹っ飛ばした事件』  「……ああ」  口の中を舐め、唾液を湧かせ、ようやくそれだけ言う。  『たしかに感心しない事件だけど、側面では理にかなってると思うんだよね、俺は』  麻生の言いたいことがわからない。  怪物と話してるようで眩暈を覚える。  受話器が異物に見える。  日常に警報を鳴らす不吉な異物が、手にずっしり食い込む。  固唾を呑み、受話器から流れる声に耳を傾ける。  『だってそうだろ。大昔いじめられた仕返しに無関係な女子高生や主婦や子供襲って憂さ晴らす傍迷惑な通り魔より、いじめた張本人にリアルタイムで復讐するほうが、はるかに効率的で理にかなってるじゃないか。クラスぐるみでいじめてたんなら教室ごと吹っ飛ばされても文句は言えない。いじめっこは責任が分散すると高くくってるかもしれないけど、いじめられっこにしてみれば、同罪だろ。許されると思ってるぶんたちが悪い』   「……そりゃ、同感だけど。だからって、殺していいって事になんないし。大体お前、いじめられてないじゃん」  一呼吸の沈黙。  「いじめられてたのか?」  怒りが胸に沸騰する。  もしそうだったら、許せねえ。  『………道連れで人を殺したいとは思ってる』  キレた。  「なんなんだよ、さっきからおもわせぶりな発言ばっかしやがって!!」  衝撃が壁に炸裂、廊下が振動する。  「ちょっ兄貴、なにしてんの!?壁に穴開くしやめてよ!!」  台所から顔を出した妹が驚いて叫ぶ。  怒りに任せ壁を蹴り、肩で息をしながら受話器にむかって怒鳴り散らす。  「大晦日に変な電話かけて寒い廊下に人立たせっぱなしにしたあげく人殺しちゃいけない理由教えろとか道連れにしたいとか意味不明な事ぐだぐだ言いやがって、お前のせいでラスボス戦に集中できねーだろ、言いたことあんならはっきり言えって俺バカだからわかんね-よ!!」  「暴れないで兄貴、家沈む!!」  『俺を止めにこいよ』   「寒いからやだよ!!」   間髪いれず言い返す。  受話器がちょっと黙る。  「仕掛けられてもない爆弾解除しに冬休み中の学校にのこのこ出かけてく間抜けに見えっか俺が、たしかにバカだけどお前の手の上で転がされるほどバカじゃねーっての!てか、今何時だと思ってる?もうすぐ七時だぜ、七時!死ぬよ!間違いない今外でたら凍え死ぬね、行き倒れだね、ガンガン行くより命を大事にしたいゆとり世代の俺としちゃ断固拒否!!」  『あー……うん、やっぱ信じないか。言葉だけじゃ駄目か。電話で説得できると思ったんだけど、信用ないな、俺。ええとさ、じゃあテレビ点けてみて。待て、ネットのがはやいか』  「あ、メール。ユキからだ」  「そばゆでてるときくらい携帯おいとけよ、鍋におっことしたらどうする」  「だいじょうぶだよ防水加工してるし……え?」  妹の顔が凍る。  「兄貴、ユキの兄ちゃんと同じガッコだよね?」  「沢田か。知ってるけど、急にどうした」  沢田聡史、クラスは違うが同じ学校の一年生で部活の後輩でもある。妹同士が親友でうちとは家族ぐるみの付き合いだ。  「沢田になんかあったのか?」  「違う、ユキの兄ちゃんがさっきから兄貴の携帯にかけてるけど繋がらなくって…てんぱってるみたいでさ。今ユキの携帯借りて、あ、来た!」  唐突に携帯が鳴り出す。  電子合成のメロディを奏で、妹の手の中ではねる携帯をひったくる。  「もしもし?透だけど、今取り込み中だからあとに」  『マンションが爆発したんです!』  「え?」  全身から血の気が引く。  電話から聞こえてきたのは、たしかに後輩、聡史の切羽詰った声。  『数学の梶、先輩も知ってるでしょ?マンションの部屋に宅配で時限爆弾届いて、それが爆発したとかで、大騒ぎですよ!今すごい勢いでメール出回って……噂流れてるんですけど、聞いてません?三十分前かな、消防車と救急車がきて、すごい騒ぎで。俺、今、現場にいるんだけど』  「待て待て」  梶。数学教師。二十代後半とまだ若く、ルックスもそれなりに良いが、贔屓が激しくて嫌われ者だった。  俺も嫌いだった。あの日からは、特に。  麻生譲は梶のお気に入りの生徒だった。  『そりゃ俺も梶センセはあんま好きくなかったけど、誰が爆弾なんて……聞いた話じゃ重傷で、病院に運ばれたとかで。今、マンション前にいるんだけど、たまたま妹と出かけて。うちの母ちゃんドジで明日雑煮にする餅買い忘れて、至急スーパーまで買い物頼まれて……帰りすごい勢いで救急車とパトカー走ってくの見て、野次馬で……来てみてびっくりして。先輩に知らせなきゃって。今、友達がどんどん現場に合流してるんです』  聡史は興奮しきってる。声がうわっついてる。現場を肌で感じる高揚感が伝わってくる。  まわりがざわついてる。野次馬の喋り声に混じって聡史の同級生だろう甲高い声がひっきりなしに響く。被害者と顔見知りだって自慢してるんだろうか?……吐き気がする。猥雑に混じりあう人いきれ人声を切り裂くけたたましいパトカーのサイレンから殺気だつ臨場感が伝わってくる。  爆弾。  爆発。  学校関係者。  偶然で片付けるには、共通点が多すぎる。  『先輩、俺』  「悪い聡史、あとでな」  妹に携帯を突っ返し、受話器にとびつく。   『………な?』  笑いを噛み殺すような声がした。  沸々と込み上げる愉悦をひた隠しにするような、おぞましい、声。  直接聞かなくてよかった。受話器が濾過し、毒が薄れていたからまだ耐えられた。  心臓の鼓動が高鳴って、体温が上昇して、受話器を掴む手が小刻みに震える。  「お前か。梶んちに、爆弾送り付けて」  『あいつ、死んだ?』  「-っ!!」  こめかみの血管が切れそうになる。  俺の友達は、人の命をこんな、軽く扱うようなヤツだったのか。   その事にショックを受け、目の前が暗くなる。よろけた俺から妹が小さく叫んでのがれる……妹甲斐がねえ、せめて支えてくれ。  妹に見捨てられた俺は、そのままバランスを崩し、背中から壁に衝突する。  「……マジなのか。学校に爆弾仕掛けたって」  もう一度、問いただす。  心臓の音がうるさい。耳裏で鼓動が響く。壁によりかかってなんとか体勢を保ち、受話器を睨みつける。  『タイムリミット0時。新年の幕開けと同時にドカン』  「今、どこにいる」  『学校』  自殺の予告にほかならない。  受話器から響く声は、良心の呵責などという不純物を一切含まず、あくまで軽い。  顔の見えない友達は饒舌に上機嫌に自分の手柄を語る。  『学校に仕掛けた爆弾は梶んちに送り付けたヤツの数倍の威力、よって被害も数倍。校庭にクレーターできる』  「場所は」  『甘いよ秋山、それ教えたら楽しみがなくなる。推理小説をずるして後ろから読むような反則行為。ミステリ好きな秋山ならそれがどんなに邪道かわかるだろ』  「小説と現実をごっちゃにすんな!!」   『とりえず学校内。学校のどっかに仕掛けられてる。爆発を防ぎたかったらタイムリミットまでに見付けだして解除するしか……』   力一杯受話器を叩ききる。  「出てくる!!」   「こんな時間にどこいくの兄貴。そばのびるよ」  「コンビニ!ジャンプ立ち読み!すぐ戻っから戸締りしとけ、貧乳襲う物好きだっていんだから!」  顔を赤くしてぎゃあぎゃあ喚く妹に背を向け転げるように階段を駆け上がり部屋にとびこみ、ベッドの上に投げ出した携帯をひったくる。回れ右したはずみに床でのたくるコードに躓き腹立ち紛れにコントローラーを蹴り飛ばす。  転げるような勢いで階段を駆け下り玄関に直行、踵の潰れたスニーカーに足突っ込み、騒々しく戸を開け放つ。  「バカ兄貴寒いって、はやく閉めて!」  「うっせ貧乳、文句は搾乳できるくらい乳張ってから言え!!」  「ちょっ、妹に搾乳とか最低なんですけどセクハラなんですけどスケベ兄貴、もう帰ってくんな!?」  罵声を背に外に出、庭にとめといたママチャリに飛び乗る。  「大晦日まで搾乳とか貧乳とか兄貴の頭ン中はエロ一色で妹として大変哀しい」と大げさに嘆く声にせかされ、自転車のサドルに跨り、ハンドルを握る。  渾身の力でペダルをこぎ、弾丸の勢いで寒風すさぶ道路に飛び出す。  ナイフのような風が髪をなぶり顔を切り、そこで初めてコートもひっかけず、学校指定のださいジャージ姿で外に出たのに気付く。  時すでに遅し。    秋山透は、これから友人、麻生譲をぶん殴りにいく。

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