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第3話

 「ちくしょーなんでうちのガッコ坂の上にあるんだよ、坂の上にあっていいのは雲だけなんだよ!!」  耳が痛いくらいの静寂をかき乱すのは自転車の車輪が回転する音、前後上下運動するペダルの軋み、俺自身の浅く弾む息遣い。  ずずっと洟を啜る。  さっきまで民家やマンションの明かりが漏れ日常の延長にあった世界が、すっぽり袋を被せたような闇に覆われる。  俺の通う高校は辺鄙な場所に建ってる。  だらだら続く坂のてっぺん、丘の上の孤立した立地。  実家から片道二十分、往復四十分の距離は結構な運動になる。  志望動機は単純明快、俺の成績で行ける中で一番学費が安く近い高校を選んだのだ。  母子家庭で贅沢いっちゃばちがあたる。  お袋は一生懸命働いて俺と妹を育ててくれた。とにかく学費の事でお袋に迷惑かけたくなった。お袋は「子供が気色悪い遠慮すんな」と怒るだろうけど、俺にだってゆずれないもんがある。ああ、孝行息子だよな、なんて自画自賛してみたり。  猛勉強の末受かった時は「勉強嫌いのあんたにしちゃ上出来だ」とお袋も喜んだ。その後「で、カンニングした子にはお礼言ったの?」とこっそり耳打ちしてきた時はがっくりきた。息子のカンニング疑うって親としてどうなの、それ。俺がいくら「実力だって!この目見ろよ!」とむきになって釈明しても「はいはい。あ、夕飯肉じゃがなんだけど、お醤油切れてるから買ってきてくれる?あんたのツケで」と目を逸らし気味に流された……ついでにちゃっかり買い物も頼まれた。  信用ねーし、俺。  長男なのに、少しでも家計の足しになればとバイト代まめにいれてるのに、俺ってばどうにも我が家における弱肉強食ピラミッドの底辺に位置する気がしてならない。  生意気ざかりの妹はうざいを連呼して俺を蹴っ飛ばしていく。  俺が入ったあとの風呂とトイレは断固拒否する徹底ぶりで、思春期の女子特有の潔癖症と割り切ろうにも兄は哀しい。  我が家じゃ女の方が強いのだ。男は理不尽に虐げられるさだめだ。親父も案外それがいやで逃げ出したのかもしれない。  お袋と妹にカンニング前提不正入学を疑われはなはだ不本意だが、俺なりに楽しい学校生活を送ってきた。   麻生譲、あいつがいたからだ。  八分目、ラストスパート。  ぐっとペダルを踏み込み、心臓の耐久に挑む。  急回転するタイヤがアスファルトを削る。  余力を振り絞り、体ごと前に押し出すようにして坂を上る。  顔が赤い。体が火照る。  ちんたら歩けば片道二十分の距離を十分に短縮したのだ、よくやったほうだ、俺は。  吐く息が白く溶ける。  ジャージが包む全身にびっしょり汗をかく。  茹で上げられたように体が熱い。  学校の行き帰りに見慣れた景色が、夜になると一転、寂寞とした不気味さを帯びる。墨汁を垂れ流したような漆黒の闇がプレッシャーをかける。人がいる景色に慣れていると、閑散とした通学路は、それだけで異常に映る。  学校が見えてくる。  ペダルを踏むごと距離が近付き、影がでかくなる。  胸が苦しい。肺が苦しい。汗を吸ったジャージが手足に重く纏わり付いて邪魔っけだ。  だぶつくジャージの中で腕が泳ぐ。自転車が今にもばらばらに分解されそうな盛大な軋み音をあげる。頼む、学校までもってくれと切に祈る。目を瞑り、ペダルを踏む。車輪が回る。鋭利な風と一体化して夜道を疾駆する。高速で回る車輪の音、握り締めたペダルの硬く無機質な感触、流れ過ぎていく景色ー……五感がひどく冴え渡る。  ゴールが近い。もうすぐそこだ。頑張れ、俺。自分に負けるな。  「金輪際インドアオタクなんて言わせるか!」  ゲームと読書が趣味のネクラオタクとなめたら大間違いだ、俺はヤる時はヤる男なのだ。  敬え妹よ、惚れろ女ども。  終盤の傾斜を啖呵とともに乗り切り、頂上に出る。  ハンドルを切り、急ブレーキをかける。  体重をかけペダルを踏めばタイヤが砂利を噛んですべり、慣性の法則で振りおとされそうなのをハンドルを掴み堪える。  重力に蹂躙され髪が乱れる。  ジャージの裾がはためく。  ハンドルを握り締め、歯を食いしばる。  タイヤが地面を噛み、摩擦であとを刻んでようやく止まる。  「………危機一髪、門に激突死するとこだった」  すぐそこに迫った鉄門を横目で一瞥、肝を冷やす。  自転車を下り、しっかり錠のおりた門に歩み寄る。  冬休みまっただなかとあり当然門は施錠されてる。……仮に開けっ放しにといたところで、辺鄙な丘の上の男子校に好き好んで盗みに入る泥棒もいないだろうが……待て、盲点を突くって案もありか。  「……たんま。まーた推理小説読みの悪い病気がはじまってるって。今それどころじゃねーし、あとあと」  ちょいと気を抜くと勝手に妄想が始まっちまうのが俺の悪い癖だ。推理小説読みの呪われたさがともいうが。  自分に突っ込みをいれ、門周辺を慎重に見回る。  ざっと見たところ、侵入者の形跡はない。天才と名高い麻生のことだ、俺程度に勘付かれるようなヘマはしないだろう。背伸びして門の向こうを覗き見る。冬休み中、閉鎖された学校は闇が濃い。警備員の姿も見当たらない。  「………陸の孤島か」  口に出し、その響きにちょっとときめく。  「~だーかーら、ときめいちゃだめだっての!学校に爆弾仕掛けられて爆発するかもしれねえ大変な状況わかってんのか俺、陸の孤島とかクローズドサークルとか嵐の山荘とか思い浮かべて胸高鳴らせてる場合かよッ、殺人事件がおきるわけじゃあるまいし、ああでもクローズドサークル物の名作ってアガサ・クリスティのそしてだれもいなくなるだよな、一人ずつ追い詰められていくスリルがたまんねーし最後の仕掛けに仰天、国産ミステリだったら横溝は古典で最近の掘り出し物は月光ゲーム……」  まただ。  言ったそばから妄想が暴走し、饒舌に語り始めていた。  猛烈な自己嫌悪に襲われ、頭を抱えしゃがみこむ。  駄目だ。だめだめだよ俺。ここまで駄目なヤツとは思わなかった。ほんのちょっとだけ、自分に愛想尽かしたくなった。  麻生はこんな俺のどこを信用したんだ?   「ーよし」  深呼吸で気を取り直し、立ち上がる。   警備員がいないなら好都合だ、見咎められる心配もない。不審者扱いで追放されたらプライドの危機だ。  頬を叩いて喝をいれ鉄門に接近、ジャージの長袖をまくる。  「っと」  地面を蹴り、反動をつける。  鉄門に手と足をかけよじのぼる。高さ3メートルほど、落下しても死にゃしない……が、怖い。俺ってばちょっと高所恐怖症の気あるのか?  「冷てっ」  鉄棒を握った瞬間、手がぴりっとした。  できるだけ下は見ぬよう注意をそらしつつ、運動音痴なりに苦労してよじのぼり、てっぺんから半身を乗り出す。  意を決し、飛び下りる。  「でっ!?」  かっこよく飛び越したつもりがぐらつき着地失敗、もんどりうって地面に転がる。  運動音痴がむりするとろくなことがない。思い出した、俺はねっからミステリ小説とゲームを愛するインドア派でした。妹に「兄貴ってオタク?きもっ」と白い目で見られてるんでした。  夜の学校で人目を意識するのは愚の骨頂。  「……バカじゃねーの。門のてっぺんから飛び下り自殺未遂って、空気の視線でも意識したのかよ……」  転がった拍子に含んだ砂利をぺっと吐き出す。  ジャージが汚れた。ジャージでよかった。咄嗟に背中からおちたせいで、さいわい怪我はない。  とりあえず、誰もいなくて安心。こんな恥ずかしいところを見られたら本気で退学を考えねば。  ジャージに付いた泥を無造作に払い、立ち上がり、あたりを見回す。  電話が鳴った。  「!」  咄嗟にジャージのポケットをさぐり、出がけに突っ込んできた携帯をとりだす。  携帯が奏でる荘厳なメロディ、こないだ設定した古畑任三郎のテーマ。  夜中、校庭にひとりぼっちで聞く古畑任三郎には、若者の健康な心臓を一瞬止める効果があると初めて知った。  「もしもし」  『秋山、今転んだ?もしくは飛ぼうとして墜落した?』  ばれてやがる。  笑いを噛み殺した麻生の指摘に、カッと顔が火照る。  「おまっ……え、なんで知ってんの!?」  『飛べない秋山はただの秋山だ』  「見てやがんのか!?どこで!?畜生卑怯者でてこい!!」  『すっげうける。一人でかっこつけるからだよ。普通にぶらさがって着地すりゃいいのにてっぺんからダイブ、しかもスライディングって、体張って笑いとりにきて……空気の視線でも意識してんの?ばかなの?』  「ダイブしたらH2Оが無色透明のやさしさで受け止めてくれるとおもったんだよ!!」  やけになって叫べば携帯の向こうで堪えきれず笑いが炸裂、顔がますます赤くなり、携帯を持つ手がわななく。  「……本当に性格悪いな。人の失敗、隠れてこっそり見てやがんのか」  『どこにいるかあててみろよ。得意なんだろ、推理ゲーム』  携帯を耳にあてつつ、ゆっくりと門から離れ、校舎に足を向ける。  夜の校庭は静まり返り、闇に沈む校舎はおそろしく巨大に見える。  立地こそ辺鄙だが、この学校はなかなか設備が充実している。  夜間ライト付きの野球場、競技場はおろか屋内運動場までも併設され、昨年改装工事を終えたばかりの新校舎が闇の中に豆腐のように鎮座している。   お袋と妹がカンニングを疑うのもむりない、俺も合格を知った時は一生分の運を使い果たしたと思った。  今だから告白するが、だめもとで受けてみたのだ。  この学校には成績上位者に奨学金制度がある。  入学試験で上位十位以内に入った者のうち、年収が一定未満の貧乏家庭の生徒は、学費を免除される。  それめあてで受けて、まぐれで受かった。  俺は入学した時点でばったり力尽きた。以降坂道を転げ落ちるようにおちこぼれ街道一直線だ。  ………自分語りはいい。  くだらない感傷に浸ってる暇があるなら、麻生をさがせ。  携帯を持たぬ方の手で苛立たしげにジッパーをさげ、ジャージの前を開ける。  ジャージの下にはТシャツを羽織ってる。こもった熱が逃げ、寒くなったらまたジッパーをあげればいい。便利。ジャージって実は防寒に優れた万能服かも。  携帯を右手に持ち、きょろきょろあたりを見回しながら校舎へと通じる道を歩く。  植え込みの影にひそんでるのか。教室の窓から見下ろしてるのか。  目に映るもの、なにもかもが疑心暗鬼に彩られる。  一歩踏み出すごとに緊張が強まり、焦慮が募る。  スニーカーが地面を叩く。  靴音が空虚に響く。  「外じゃないな。風の音、葉擦れの音がしない。お前はいま、正門が見下ろせる場所にいる」  必死に頭を働かせる。正門が見渡せる場所となると限られてくる。  正面に聳える校舎を仰ぐ。  健康的な昼の光の中ならともかく、冴え冴え冷え切った闇の中に聳えるその姿にゃ、愛校心にとぼしい俺さえ圧倒する不気味な威容がある。  ちぎれがちな息を吐きながら聞く。  「正面校舎の三階?」  答えはない。  なにより雄弁な肯定の証。  「…………あたりだ」  確信をこめ、呟く。自然、俺は微笑んでいた。    この距離まで近付けば、闇に溶け合った校舎の輪郭がはっきり浮き上がって見える。  麻生。  間髪いれず駆け出していた。

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