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第4話
一冊の本がとりもつ出会いもある。
俺の場合は人間失格だった。
「募金めあてで学校くんな垢風呂浸けの貧民のクズが」
「……わー心抉る暴言」
………これだからブルジョワジーは。
暇をもてあますと金持ちはろくなことをしない。よわいものいじめとかよわいものいじめとかナンパとかよわいものいじめとか。
そして俺ピンチ。
時は放課後、場所は日のあたらぬ図書館裏。
敷地の北側に位置し、壁が日光を遮るせいで昼なお薄暗く黴がはえた図書館裏にたむろうすさみきった学生が数人。
ふやけきったのから紫煙を燻す新しいのまで吸殻がまだらに地面にへばりつき、老人斑の浮かぶ壁には根性焼きのあとが点々と咲く。
共学だったら確実に使用済みコンドーム捨て場になってるにちがいない。足元には俺の想像を裏付けるように湿気を吸って膨張しきったエロ本がおっこちてる。
なんとまあ退廃し心すさむ不良のたまり場。
俺をこのホットスポットに案内してくれた張本人は、目の前にいる。
図書館の壁を背に辟易した俺と向き合い軽薄に白い歯を見せ笑ってる。
にやにやと角度をかえ、右へ左へ首傾げ、しつこく顔をのぞきこむ。
「また図書館でひとり寂しく本読んでたのか?ネクラだな」
「ほっとけよ。本読んでるとお前になにか不都合あんのか?別に迷惑かけてねーよな」
挑発的に切り返す。
「待ち伏せしてたの?ひょっとして俺、人気者?告白するなら時と場所えらんでほしいよな。お前さ、女から演出下手って言われね?情緒もへったくれもねーセックスするんだろうな、ろくにキスもせず突っ込むような」
「なっ………!」
「あ、ごめん、童貞だった?」
相手が凍りつく。
取り巻き連中が気色ばむ。
……地雷を踏んじまったらしい。冗談で場を和まそうとしたのが裏目に出た。
一気に空気が硬化する。
鞄を盾に後退しつつあっちへこっちへ油断なく視線をわりふり敵状視察、戦力差を計測。
敵は六人、俺は一人。
多勢に無勢、まともにやって勝てるわけない。
新旧の吸殻とアンプルがとっちらかった地面を踏んでじりじりさがりつつ幼稚な挑発にのせられいきりたつリーダー格をまじまじ観察、脳内で名前を検索するも顔と合致しない。
二年に進級してそろそろ一ヶ月が経過する。
同級生の顔と名前を把握してもいい頃合だが、生憎と関心の薄い相手の顔は覚えられないたちなのだ。
何事もそうだが、本人にやる気がないと一向に上達しないものだ。
俺の記憶力が低迷気味なのは同級生にさらさら興味がないからだ。
だがお互い様だ、クラスメイトも俺を無視してる。
無視だけなら害はない。めんどくさいのはこういう手合い、徒党を組んでちょっかいかけてくる物好きな暇人どもだ。やれやれ、せっかくの青春くだらないことで浪費すんなよ。俺があと二十歳年食ってたら車座で説教タイムだよ?しかもこういう連中に限って群れなきゃなにもできない腰抜けときた。
心の中で舌打ちひとつ、つまさきで地面をさぐりつつ間合いをとる。
「………調子にのるなよ、お情けでいれてもらった貧乏人のくせに」
ほらきた。
名前も知らないそいつー呼びにくいな、よし、面長だからボルゾイと呼ぼうーが勝ち誇ってあげつらう。
「知ってるんだぜ。お前んち、母子家庭なんだろ。父親が女作って蒸発して、母親と妹とぼろい借家で三人暮らしなんだろ。同情するぜ」
俺はため息を吐く。
「……前からふしぎだったんだけど、そういう噂、どっから出回るわけ?」
「同じ学校のやつから聞いたんだよ」
「さいですか」
納得。噂好きなおしゃべりはどこにでもいるもんだ。
弱みを掴んで得意満面、ボルゾイが人を踏み台にした安い優越感に酔って笑う。
「しけてるよな。母親、スーパーの惣菜売り場に勤めてるんだっけ?お前んちの夕飯、毎回スーパーの売れ残りってほんとか?育ちざかりなのに可哀相に、だからそんなひょろひょろなんだな。栄養失調なんじゃねえの」
「太らない体質でね。羨ましいだろ?」
あまりこたえてないと見るや不満げに馬鹿笑いをひっこめる。
憮然とした相手を白けた目で見返す。
この場を無傷で切り抜ける対処法を考える。
一、倒す。
二、逃げる。
三、ごまかす。
よし決めた、三。博愛主義者の俺としちゃ話し合いで平和的解決といきたい。
「俺が気に入らないのは知ってる。だったらお互い無視しようぜ、そっちのが無駄なエネルギー使わずにすむだろ。教室でも見ないふり、いないふりだ。実際そうしてんだろ?放課後になった途端ぞろぞろお仲間引き連れて積極的にデートの誘いなんてツンデレすぎ。男のツンデレ需要ねーよ。可愛い女の子なら萌えっけどさ、ボルゾイじゃ……」
「は?」
「なんでもね。忘れて」
うっかり口が滑った。ごめんボルゾイ、それ俺の心の中だけのお前のあだ名。
饒舌に説得を試みる俺に対し、空気が次第に険悪になっていく。
ひょっとして、墓穴掘った?
失言を悔やむも、遅い。
ボルゾイ一同が噛みつきそうな顔で俺を睨む。だから苦手なんだよこいつ。
包囲網が狭まる。
不興が顔に出る。
「……いじめかっこ悪い」
「なんでいじめがなくならないか知ってるか?楽しいからだよ」
堂々開き直る。ちょっとひく。このボルゾイ、性根が曲がってらっしゃる。
よわいものいじめ大好きと公言してはばからないボルゾイに付き従う同級生も同類か、口々に相槌をうつ。
ボルゾイが大股に踏み出す。
鞄を立て守りに入り、目だけ忙しく動かし布陣の綻びをうかがう。
図書館裏はリンチに最適の場所、校舎からは死角。教師も生徒も滅多に来ず、邪魔が入らない。図書館に用事目的のある人間以外、通りかかることもない。校内にいくつか在る負の磁場のひとつ。旧校舎トイレの一番奥や屋上に通じる踊り場も該当する。こういうとこには怨念がこもりやすい。恐喝被害にあった生徒の無念がどんより染み付いて空気を重くしてるような気がしてならない。
壁に背中をもたせ、ボルゾイの肩越しに誰か通りかからないかと一縷の希望をもつ。
私立御手洗高の図書館は敷地の北側に建つ。
昭和から現役で生き続ける建物は愛想のかけらもない鉄筋コンクリート製、時代を経た外壁は黒ずんであばたの染みができている。
皮膚病患った壁の一面に煙草をもみ消したあとが残る。
無秩序で不健全な荒廃。
ここじゃ過去何度も同じことが行われ涙を呑んだ生徒がいるのだろうと想像を逞しくする。
俺を取り囲み壁際に追い詰め、ボルゾイが唸る。
「場違いな貧民がいると学校のランクが落ちる。わかったら、とっとと出てけ」
「やだね」
即答する。
ボルゾイの顔が引き攣る。
取り巻き連中が詰め寄る。
鞄を小脇に抱え、用心深く腰をおとし、逃げる準備を整える。
若干、緊張する。
小学校時代から何度も修羅場はくぐりぬけてきた。ガキの頃はよくいじめられて泣き帰ったもんだ。今はもう泣かない。泣く暇あったら突破口さがす。いつまでも甘ったれのガキじゃいられない、自分のケツは自分で拭くのが信条。
冷静に、冷静に。
小さく息を吸い、心を落ち着ける。
動揺を悟られるな。調子づかせるのは癪だ。弱みにつけこませるな。
背中に図書館の壁があたる。
追い詰められたと実感、腋の下を冷や汗が流れる。
「ほっとけよ。お互い不干渉でいこうぜ」
「そのなめた口が気に入らないんだよ」
「悪いな、生まれつきなんだ。そういうお前こそ俺みたいなネクラに構ってるひまあんなら中間にそなえて勉強したら?それとも何、俺にちょっかい出すのは、お勉強のストレス解消なわけ。なるほどね、見るからに余裕なさそうな顔してるもんな」
「-んだと」
ばか、怒らせてどうする。
難癖つけてくんのを勝手に回る口先で適当にあしらえば、ボルゾイの目に濁った油膜が張る。
「一人で気楽にやってる俺が羨ましいとか?小学生の女の子みたいにぞろぞろ連れ立って便所にいく目立ちたがり屋じゃ、自由行動もむずかしいよな」
そこで一呼吸おき、ボルゾイの後ろに控えた取り巻き連中を哀れむように見回す。
「なあお前ら、お互い監視して楽しい?お互いの行動縛って楽しいか?この暇人はともかく、今日ほかに予定あったんじゃないの?待ち伏せして俺にヤキ入れるよか大事な用事がさ。楽しみにしてたゲームの発売日とか楽しみにしてたアイドル写真集の発売日とか楽しみにしてたミステリ新刊の発売日とか……最後のはねーか」
口の中だけで取り消す。
ボルゾイの顔が怒りに充血、眇めた目がぎらつく光を放つ。
図星をつかれ取り巻き連中の鼻の穴もふくらむ。
「友達ひとりいねーくせに、強がってんじゃねーよ」
陳腐な切り返しと貧困な語彙を嗤う。
「保護色は弱虫の性質。お前ら、一人が怖いから群れるんだろ。文句あるなら一人で来い」
俺の言葉じゃない、最近読んだ本のパクリ……引用だ。
だが、こいつらにはきいたらしい。集団でいじめなんてする連中は大概そうだ、裏っ返せば劣等感にこりかたまってる。そこを突かれると脆い。
ボルゾイが無造作に手を伸ばし、俺の胸ぐらを掴む。
乱暴に掴まれ、喉が絞まり息が詰まる。
首を圧迫され喘ぐ俺の至近に顔をよせ、ボルゾイがにやりと笑う。
「自分の立場がわかってねーみたいだな。思い出せてやろうか」
目が残忍な悦びに濡れ光る。
俺の胸ぐらを掴み、壁に押しつけ、ボルゾイが顎をしゃくる。
取り巻きの一人が蓋を開けた鞄を掲げる。
ボルゾイが鞄に手を突っ込み、中身をあさる。
「なにする気だ?」
まだ質問する余裕があった。
制服の背中にしこる壁のざらつきが不安をかきたてる。
ボルゾイが鞄から手を抜く。
その手が握るものを見て怪訝に目を細める。
シャープペンシル。
「こないだドラマで見て、刑事がやってたの、試してみたかったんだよな」
ボルゾイの舌なめずり。興奮の面持ち。嫌な予感が苦い唾と一緒にこみあげる。
さすがに戸惑う。殴る蹴るの単純な暴行じゃない。一発二発殴られるくらいなら我慢しようと腹をきめたが、どうも様子がおかしい。
ボルゾイはにたつきながら指にはさんだシャーペンを回す。
シャーペンの芯先に目が吸い寄せられる。
「ー!くっ、」
逃げようとした。
胸ぐら掴む手をふりきり、嫌な予感に背を向け、その場から一目散に逃げ出そうとした。
駄目だった。六対一じゃ不可能だ。逃げようと身をよじったそばから、ボルゾイのお友達によって肩ごと壁に押さえ込まれる。
「やっとむかつく笑いが消えたな」
耳元でねちっこく囁き、俺の手をとり、むりやりこじ開けた人さし指と中指の間にシャーペンをあてがう。
取り巻き連中のにたにた笑い、ボルゾイの嘲笑、図書館裏の黴臭く湿った暗闇ー……
シャーペンを挟んだ指ごと絞り上げる。
「!!痛っあ、ぅぐ」
骨が軋み擦れる激痛に仰け反る。
知らなかった。こうされると痛いマジ痛い。
指にシャーペン挟んでぎりぎり締め上げるだけなのに凄く痛い碾き臼のように骨が擦れてめちゃくちゃ痛い痛いって!?
体をふたつに折り曲げ超音波じみた悲鳴を発し身悶える俺に、ボルゾイと取り巻きがここぞとばかり罵倒と嘲笑を浴びせる。
悪乗りした連中が携帯をとりだしカシャカシャやり始める。記念撮影か、と皮肉な思いを抱くもすぐ霧散、シャーペン卍固めの刑に身も世もなく暴れる。
「痛、ちょ、たんま、これ洒落になんねっ……」
「身のまわりのもんでできる手軽な拷問のお味はどうだ?」
嗜虐的に唇なめるボルゾイの顔に唾吐きたいがその余裕もない。
指の股に挟んだシャーペンと骨が擦れひび入りそうな激痛にたまらず呻く。
スニーカーの靴裏で壁を蹴り激しくばたつく。
「大げさだな」
「ちょっと泣いてねこいつ。目尻がぬれてる」
「かっこわり」
「笑える」
「写メっとこうぜ」
「あとでクラスに回そ」
「はいポーズ……んだよ、にっこり笑えよ。固いもん突っ込まれて気分出してよがってるくせにサービス悪ィな。そんなんじゃ読者アンケート一位とれねーぞ」
「どこに投稿するつもりだよ?」
くっちゃべりがてら携帯かざしカシャカシャ連続でシャッター切る。くそ、人の痛がるさまがそんなに面白いのか?なら代わってやるよ喜んで。きそって携帯を突き出し写メを撮る……悪趣味な奴ら。
目に涙が浮かび視界がくもる。
壁が遮る日陰に嘲笑と野次が渦巻き、三半規管が酔う。
「マジ痛そう。こんなちゃちなもんでそこまで痛がれるのか」
退屈げに人の指を軋ませながらボルゾイが呑気に感想を呟く。
「ドラマの犯人がこれされてすっげー痛がってたから、やってみたかったんだけど」
「――お、まえさ、番組の最後に出るよいこのみんなはまねしないでねってメッセージ見てねーの!?」
「このドラマはフィクションであり実在の人物団体名とは関係ありませんってテロップなら見飽きてっけど」
おもいっきり顔を近付け、ぬるい吐息を絡めるようにして言う。
「痛みはフィクションじゃないから楽しいよな?」
こいつ、ちょっといかれてる。サドっ気全開だ。
畜生、厄介なやつに目えつけられたな俺も。つくづく自分の不運が呪わしい。
「痛っ……い、いかげんにしとけよ、指折れる……」
「へし折ってみるか」
指がみしみし軋み充血、毛穴から脂汗が噴き出す。
しょっぱい涙を噛み仰け反るように悶絶、降参を表明しざらつく壁を背中で打つ。
「そんくらいにしとけよ伊集院、マスかけなくなったら可哀相だろ」
右のニキビ面が野次をとばし、取り巻きがどっとうける。どうでもいいがボルゾイの本名は伊集院らしい。いかにも金持ちっぽい名前。てか、生まれてこのかた十七年、初めて漫画のキャラ以外に伊集院なんて苗字に出会ったよ実在したんだと妙に感動する。
「~伊集院といや、大介だよな」
「は?」
唇を噛みながらの俺の言葉にボルゾイこと伊集院くんが不審な顔をする。言った俺がばかでした。こんな状況でさえなけりゃ好きな探偵と同じレア苗字と出会った事を素直に喜んだのに。
くそ、痛すぎて涙が出る。
俺の泣きっ面をゆびさし取り巻きが盛大に野次る。
知らなかったこれすごい痛い、今度妹に教えてやろう。シャーペンってこんな危険物だったんだ。だめじゃん。凶器じゃん。人に使用しないようにって注意書きしねーと。
「――――――っあ!」
徐徐に握力増し指をひしぐ。
第二間接に挟みこまれたシャーペンが摩擦圧搾で指の骨を削る。
溺れるものがもがくように靴裏で壁を蹴りつけ、激しくかぶりを振って抗う。
あがけばあがくほど哄笑が大きくなる。
足元に鞄が落下、蓋が開いて中身がぶちまかれる。
昨日買ったばっかでカバーも外してない文庫本が地面に滑り出る。
やべ。
反射的に手をのばし拾おうと前に泳げば、ボルゾイがまってましたと足を払う。
「目障りなんだよお前」
指が攣る痛みに絶叫を絞る。
激痛に真っ赤に蝕まれゆく意識の片隅で地面に放り出された文庫本を気にかける。
畜生、まだ三分の一も読んでねえのに!
悔し涙で視界がますます歪む。
かくなるうえはと覚悟を決め、深呼吸する。
「俺はどうなってもいい、だから新刊は助けてくれ!」
「はあ?」
ばっと顔を上げ、しがみつかんばかりの勢いで懇願すれば、ボルゾイが眉根をよせる。
「まだ三分の一しか読んでないんだ、ちょうどいいとこなんだ、すっげ続き気になるんだ!ようやく第一の殺人がおきて密室で被害者の義兄と恋人が言い争い始めて、探偵役がそのとばっちり食ってピアノ線で首しめられて、助手が探偵救おうと高枝切りバサミ持ち出して、最ッ高に燃える展開なんだよ!詩情と痴情が交錯するメタ・ミステリーの新境地って前評判高くて発売楽しみにしてて昨日手に入れたばっかなんだ、頼む本だけは見逃してくれ、没収されたら探偵と助手の恋の行方と真犯人の正体が気になって悶々として夜も眠れね」
二階から太宰治がおちてきた。
「ぶっ!!?」
ボルゾイの顔面にぶちあたった本のタイトルはー
『人間失格』。
「なっ」
ボルゾイが顔面に本の直撃を受け沈没、取り巻き連中が驚愕。
足元でシャーペンが跳ねる。
見上げた光景は網膜に焼き付き、後々まで鮮烈に記憶に残った。
図書館二階の窓から宙へと身を躍らせた学生。
人間よりは猫科の動物に近いおもいきった跳躍、綺麗な放物線。
放物線に伴い等身大の影が地面を移動する。
下から仰ぐも、眼鏡と日陰が邪魔して表情が見えない。
そいつは軽々とボーダーラインを飛び越した。
高所恐怖症がちびってあとじさりそうな高さから躊躇なく飛び下りた。
数メートル下に地面があるとわかっててもなかなかできることじゃない。
潜在的な恐怖心とか自衛本能とか理性の監視下じゃ乗り越えられない一線がある。
墜落の危険性だってあった。必ず成功するとも限らなかった。
打ち所が悪けりゃ死んだかもしれない。
死ななくても、骨の一・二本を折ったかもしれない。
図書館の窓から飛び出した人物は俺と同じ学ランを着ていた。
背は俺よりちょっと高く、しなやかな中肉の体つき。
手足のバランスとすっきり伸びた姿勢がとてもよく、僅かに斜に構えた立ち姿がひどくさまになる。
特別な雰囲気があった。
登場と同時にギャラリーの心をかっさらっちまうような、そこにいるだけで透明な空気の色まで変わるような、選ばれたものだけがもつ特別な雰囲気。
目をはなせない危なっかしさと人を食う豪胆さとがあいつの中で静謐に均衡をとっていた。
赤くなった指を押さえ、苦痛に呻く俺の前に立ち、ボルゾイをリーダーと仰ぐ同級生と対峙する。
「てっめえ、いきなり何しやがる!!?」
鼻っ柱を赤くし跳ね起きたボルゾイが憤激し怒鳴りちらす。
図書館の裏側、昼なお薄暗くじめじめした場所に颯爽と降り立った学生は、しごく落ち着き払って答える。
退屈そうな声音で。
「『或る阿呆の一生』か『白痴』の方がよかった?」
俺に背中を向け。
「お前………」
突如恐喝の現場に舞い降りた闖入者に絶句。
手の痛みがひくのを待ち誰何の声を上げれば、ゆっくりと振り向く。
一回も染めたことない清潔な黒髪が揺れる。
細身のフレームの眼鏡のむこう、剃刀の如く怜悧で無感動な双瞳がこっちを見下ろす。
目が合った。
聡明な切れ長の双眸が地面に移動、カバーのはずれかけた文庫本にとまる。
カバー下にちらつくタイトルを一瞥、意外な場所で意外なものに出会ったように目を細める。
優雅な中腰の姿勢から手をのばし、文庫本を拾い上げるや、さっと泥を払ってこっちによこす。
「読んだよ、これ」
緊張走る現場の空気とは裏腹に、声は無関心に冷めていた。
気色ばみ包囲するボルゾイ一同は完全無視、不敵な態度で呟く相手にむかい、一回生唾を嚥下し聞き返す。
「どうだった?」
「いまいち」
言葉を選ぶように一呼吸おき、幻滅とも脱帽ともつかぬため息をつく。
「まさか犯人が助手で、凶器が高枝切りバサミとはな」
それが同じクラスになって初めて麻生譲と交わした会話だった。
そうだ。
思い出した。
初めてまともに交わした会話で相手が読んでる推理小説のネタバレするような外道だったのだ、麻生は。
第一印象サイアク。
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