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第5話

 「初対面で読んでる本のネタバレするか、普通」  二段飛ばしで階段を駆け上がりながら抗議する。  鉄筋コンクリート勢の校舎は夏は蒸し暑く冬は凍て付く。通気性が低く密閉度が高い二重苦。  玄関に鍵がかかってなかった。  ちょっと力を込めて引いたらあっけなく開いた。  施錠されてないとは不用心だ、泥棒に入ってくだいと言ってるようなもんだ。冬休み真っ只中の玄関に鍵かかってないはずがない、おそらく麻生があけたんだろう。頭の回転が素晴らしく速く手先が器用なあいつなら造作もない。  優等生のくせに手癖が悪いなと皮肉な感想を抱く。  下駄箱はからっぽだった。  冬休みで上履きを持ち帰っていたことを忘れていた。  舌打ちひとつ、心ん中で警備員さんに謝って土足であがる。  まるっきり不法侵入者じゃんと情けなくなるも背に腹はかえられない。  泥まみれの靴跡が来た道に刻印される。   警備員さんほんとごめん。  小心で善良な庶民は良心の痛みに苛まれつつ三階をめざす。  階段の上方は濃密な闇に沈んでいた。  夜の学校に来るのは初めてだ。生まれて初めて体験する冬の夜の学校は異界への入り口がぽっかり開いてるようで不気味だった。  階段を踏み外せばそのまま奈落に墜落してしまいそうな錯覚に背筋が寒くなる。  階段をとばしながら手の中の携帯をにらみつけ応答を待つ。  大晦日の晩、俺を学校に呼び出した張本人がこの向こうにいる。  今、俺たちは携帯一本で繋がっている。  不可視の電波の繋がりに今は縋るしかない。  第一の宣戦布告。  麻生から一方的に家電にかかってきた。  第二の挑発。  学校に到着してから、見計らったように二回目の着信。  手玉にとられてるようで癪だった。あいつはこっちの行動を読んでいる。  玄関にとびこむなり、だめもとでかけてみた。  手の火照りが移って携帯がぬくもっていた。  出ろ、繋がれと一心に念じ応答を待った。電波が届くのを祈った。  願いは通じた。  『悪い。もう読み終わったと思ったんだ』  あっさり携帯に出た。  拍子抜けした。  胸の内を溶かす安堵をひた隠し、怒鳴る。  「昨日出たばっかの新刊次の日に読み終わるか!」  『俺は読み終わってたから』  「速すぎだよ、速読かよ!?」  『一日ありゃ読めね?』  「天才の基準で物事考えんなよ、あの本結構厚さあったろ、一日で読めっか!!」  『お前が遅いんじゃね』  「理不尽な言いがかりつけてるみてーに言うなよ、お前が怪物なみに速いんだって!これでもミステリは数こなしてんだぜ国産国外問わず、松本清張もモーリス・ルブランもどんとこいだ!てか話題すりかえんな、今はお前がしでかしたミステリ読み最大のタブーとっちめてんだよ、論争の焦点ずらすんじゃねえ!」  『くだらない本読み通して時間むだにせずにすんでよかったじゃん。感謝してほしいくらいだ』  「くだねーかくだらなくねーかは俺が決める!」  しれっとのたまう麻生に対し頭の血管がふくらむ。深呼吸で憤りを鎮めたそばから空気を読まないマイペースな天才が白々しくため息を吐く。   『根に持つなよ。何ヶ月前の話だ』  「今年五月、クラス替えからぼちぼち一ヶ月たった頃。忘れたとは言わせねーぞあの日の事、名付けて二階から人間失格ショック。ボルゾイの顔面に牽制球クリーンヒットで痛快だったけどさ」  口早に指摘すれば携帯の向こうから含み笑う気配が伝う。  相変わらず嫌な笑い方、俺以外にダチいねーのも道理。  今頃眼鏡の奥の目を細めて、片頬を酷薄に歪めて、人の神経さかなですることにかけちゃ右に出る者がないと評判の笑みを作ってるんだろう。  断っとくが、伊集院イコールボルゾイで通じるのは麻生だけだ。  携帯を通して聞く笑い声は麻生のようで麻生じゃない。微妙にノイズが混じり、不快にざらつく。携帯から漏れる麻生の笑い声に腹を立てながら今を遡ること七ヶ月前、五月上旬の出会いを回想する。  初登場時のインパクトは絶大だった。  あんな登場の仕方されちゃ忘れたくても忘れられない。  人が二階から降ってくるなんてそうそうない。  俺としてもなかなか衝撃的な体験だった。  思えばあの時あの瞬間、俺たちは初めて互いを認識した。  それまでは空気だった。  いてもいなくても同じ存在だった。  一ヶ月同じ教室で授業を受けてたのに、口をきいたのはあれが初めてだった。  開口一番、盛大にネタバレされたけど。  「………な、ん」  絶句。  突如頭上から降ってきた男の暴露に、完全に混乱を来たす。  「助手が犯人で凶器は高枝切りバサミってマジで!?嘘だろ、嘘って言ってくれ、なんだってそんな支離滅裂意味不明な展開になるんだおかしい絶対、ミステリーの定石無視も程あるって、主人公のやさぐれ探偵をご主人様と慕うけなげで可憐な美少女助手が終盤高枝切りバサミぶんまわして殺人鬼に豹変なんて認めねー!!」  「でも事実だし」  一気に脱力、指を押さえてへたりこむ。  「高枝切りバサミ?助手が殺人鬼?読めるかそんなトンデモ展開。何考えてんだ作者。てか、俺が読んで期待に胸ふくらませた雑誌の絶賛書評はなに?一ヶ月前も前から発売楽しみにして昨日学校終わって真っ先に書店にとびこんでゲットしたのに、三分の一まで期待に違わぬ出来で「ご主人様あ、紅茶こぼしちゃいましたあ」が口癖のメイド助手は萌えるし、ヘビースモーカーのやさぐれ探偵は渋くてかっこいいし、脇役に至るまで造形が巧みでいい味だしてて、愛憎と痴情渦巻く複雑な人間関係にたちまち引き込まれたってのに……え、じゃあ第一の殺人がおきた直後にクルーザーで島にやってきた謎の美女の正体は?シャワー中もサングラスはずさなくって、怪しさ爆発だったのに」  「サングラスとらなかった理由は整形手術に失敗したから。二重まぶたが三重まぶたになって、シャワーん時、溝に溶け流れたマスカラがたまるんだとさ」  「怖ッ、三重まぶた怖ッ!てかサングラスでマスカラ防止って、そんな用途思い付かねーよ!!」  論理破綻した解説にテンションはもり下がる一方、期待に陪乗した絶望が根こそぎ読書欲を削ぐ。  力尽き膝を折った俺は、地面に落下した鞄の中から愛読してるミステリ雑誌が覗いてるのを見るや、ただちに取り上げページをめくる。  書評には確かに詩情と痴情が交錯するメタミステリの新境地ってあった、絶賛されていた。作者の大胆な発想に脱帽とか驚愕の展開に腰をぬかすこと請け合いとか十年に一度の傑作扱いで、あった、たしかこのページに……  急いた手で雑誌をめくり該当ページに行き当たるや、鼻を埋めるようにして熟読。  戦慄の稲妻が虚空を切り裂き脳髄を貫く。  「……メタミスじゃなくてバカミスじゃねーか!!」  憤激の発作に駆られ足元に雑誌を叩き付ける。  「勘違い?」  眼鏡が首を傾げる。   俺は悪くない。断じて悪くない。書評の書き方がおかしい。  不本意な誤解を晴らさんと掴んだ雑誌を眼鏡の顔面に突き出し、片手をぶん回して釈明する。  「ちがうってよく見ろ、メタミステリーじゃなくメタメタなミステリーだったんだよ!卑怯だろこの書き方、メタのあとのメタのサイズちっちゃくなってるし、いかにも早とちりで買わせようって出版社の作戦が丸見え!あったまきたアンケートはがきで抗議してやる、読者の予想裏切るのは大歓迎だけど期待まで裏切ってどうすんの、出版業界の金儲け主義に異議申し立てる!」  「あー。確かにフォントちっちゃくなってる」   「だろ!?だろ!!」  シャープなフレームの眼鏡の弦を摘み上げ、書評に目を通し同意する相手に、抱擁せんばかりの連帯感が湧く。一緒に出版社に殴りこみたい心境だ。  騙された読者の恨みは深い。  味方を見つけた感激で号泣寸前、雑誌をひっさげて憤る俺の耳に、砂利を踏む耳障りな音が届く。  「勝手にもりあがってんじゃねーよ」  ボルゾイ復活。  「人間失格」を顔面にくらって鼻血ふいて沈没したかに見えたが、存外しぶとい。  取り巻き連中を配し、無視された怒りも露に歯軋りするや、尖りきった視線で俺と眼鏡とを見比べる。  「なに余計な事してくれちゃってんだ?いいとこなのに、じゃますんなよ」  垂れた鼻血をハンカチでお上品に拭くあたり、不良ぶってるが育ちが良い。  取り巻き連中に「大丈夫か」「鼻血出た時は首のうしろに手刀いれるといいんだぜ」とちやほやされながら、忌々しげに片頬をひくつかせ詰め寄る。  眼鏡は平然と受けて立つ。  敵意と悪意を一身に浴びても退屈そうな表情は変わらず、図書館裏に群れ集まった同級生を余裕で見回し、正論をぶつ。  「高校生にもなっていじめなんて幼稚な真似するなよ。学費出してくれてる親に申し訳ないだろ」  説教くさい、ってわけでもなかった。当たり前のことを当たり前に言っていた。  俺たちくらいの年になると、こういうことを表立っていうのは抵抗がある。  しかし眼鏡はちがった。  校舎から死角の図書館裏、ボルゾイ含む同級生六人に包囲され逃げ場を断たれた状況でも、まったく怯えを感じさせない。  眼鏡の奥の切れ長の双眸に倦んだ退廃さえ漂わせ、一対六でもひけをとらず、どころか存在感ではるかに圧倒してボルゾイ一同を見据える。  「………すかしてんじゃねえよ。秋山の味方すんなら、学校一の優等生だって、明日から生きにくくなるぜ」  ボルゾイが凄む。迫力が足りない。どうしても眼鏡と比較してしまう。  ボルゾイ劣勢とみた取り巻きが加勢、「偽善ぶってんじゃねえよ」「気色わる」「いじめとめて先公受けよくする気か」「内申のことしか考えてねーだろ優等生は」「はぐれもの同士傷のなめあいかよ」と嘲笑まじりのブーイングをとばす。  俺が手にとらず、自分が持ったままの単行本を見下ろし、眼鏡が首を振る。  「おまえら、うるさいんだよ」  一言で場が凍り付く。  ブーイングがやむ。仲間の前で恥をかかされ、ボルゾイの顔が紅潮する。  取り巻き連中に獰猛な殺気が漲る。  手に持った新刊を顔の横にかざし、淡々と促す。  「落ち着いて本も読めない。読書の邪魔だ。集中力が切れて迷惑。どっかほか行け。図書館の裏で騒ぐな、二階まで聞こえてきたぜ下品な声が」  感情の薄い顔に僅かに辟易した色をぬり、開いた雑誌をひっさげて、所在なく立ち竦む俺に一瞥くれる。  「不純同性交友は他の場所で」  「「待て!?」」  この瞬間、眼鏡を除く全員の心は一致した。いわく、「こいつの思考回路どうなってやがる?」  「なんでそうなる、この状況見て言えよ、不純同性交友って……」  「よく見て言ってるんだけど」  眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ひややかに目を細める。  指摘され、自分が置かれた誤解を招く状況を再認識。人目の届かない図書館裏の暗がり、俺はふたりがかりで押さえ込まれ激しく抵抗したせいで、学ランが乱れてる。シャーペン責めの激痛のせいで目は潤み頬は赤らみ息は荒く、さっきまで腰がぬけてへたりこんでいた。まわりには下劣な笑顔の同級生たち。  「ちがうの?色っぽい喘ぎ声聞こえたけど」   「喘いでねーよ呻いてたんだよ!?」   「暴れる物音がしたし。ずいぶん激しかったな」  「シャーペン指はさまれて暴れてたんだよ!」  「固いもん突っ込まれて気分だしてよがってるくせにサービス悪いとか読者アンケート一位とれないとか、おもわせぶりな会話が」  「でかい声だしすぎだって!!」  泣きたい。すでに半泣きだけど。  眼鏡から誤解の元凶となった地声のでかいボルゾイの手下に抗議の矛先を転じる。  つまりだ。  この眼鏡は理不尽にいじめられてる可哀相な少年を助けようとした善意の人じゃなく、読書を邪魔されキレた自己中男だったのだ。  どうりで二階から飛び降りなんて無茶やらかすはずだ。  乱れた学ランからはみ出たシャツをたくしいれ、唾とばし眼鏡に詰め寄る。   「お前が考えてることぜんぶ妄想だから。俺はただ図書館の帰りに捕まって、ボルゾイに連行されて……」  「ボルゾイって?」  あ、しまった。また口が滑った。慌てて口を閉じようとして間違えて舌を噛む。  「……ぐちゃぐちゃ屁理屈こねやがって。なんでおれらがいちいちお前のご機嫌気にして、ストレス解消のお楽しみを我慢しなきゃいけないんだ。ふざけたことぬかすと、殺すぞ」  さんざん馬鹿にされ沸騰したボルゾイが、爛々とぎらつく目で眼鏡をにらむ。  以心伝心、ボルゾイの取り巻きが眼鏡と俺を包囲する。  包囲網の中心に背中合わせに追い込まれ唾を飲む。  取り巻きの応援を受け、心理的優位を回復したボルゾイが、威勢よく砂利を蹴って拳を振り上げたー  瞬間。  「なにしてるんだ、そこで」  図書館の角を曲がり、くたびれた背広に眠たげな顔、地味なフレームの眼鏡の男が現れる。  「やべっ、敷島だ!」  「逃げるぞ!」  俺たちを袋叩きにしようと肉薄しつつあった同級生が、教師の登場に慌てて逃げ出す。  ボルゾイが舌を打ち、拳をひっこめる。  「!痛って、」  「調子のんなよ、秋山。絶対追い出してやるからな」  わざと肩をぶつけすれちがい際、耳元で憎悪のこもった呪詛を吐く。  捨て台詞にしちゃ芸がないね。  ボルゾイが駆けていく後ろ姿を見送る。  角を曲がりのろくさこっちにやってくる教師は無視し、素早く逃げていく。  呑気な足取りでやってきたのは俺とも面識のある、授業が退屈と評判の古典教師。  敷島。  「騒がしかったからきてみれば……何があったんだ?大丈夫かい、君」  野暮ったい黒縁眼鏡の奥、糸のように細く人のよさそうな目が心配にくもる。  「なんでもないです、大丈夫なんで……ちょっと転んじゃって。はは、ドジっすね、俺」  苦しい言い訳だ。ちょっと転んじゃったで切り抜けるには、鞄の中身をぶちまかれた蹂躙の現場は悲惨すぎる。  這い蹲って鞄の中身をかき集め戻す俺を、傍らにしゃがみこみ敷島が手伝う。  授業は退屈だが、親切ないい先生だ。  内心、敷島に感謝する。おかげでボルゾイを追っ払えた。  安堵が顔にでぬよう取り繕って回収作業を続けるうち、なにげなく筆箱を持ち上げ、指が攣れる。  「ーッ、」  「本当に大丈夫かい?保健室行ったほうがいいんじゃないか」  「いや、はは、マジ大丈夫っすから!こんなのかすり傷ですって、それに消毒液の匂い苦手なんすよ、美人の女医さんがいりゃ別だけど」  冗談でごまかそうと空元気を演じれば、脇から伸びた手が、突然指にふれる。  振り向いて、息を呑む。  眼鏡がすぐ隣にいた。  俺の隣に突っ立ち、掴んだ指の第二間接から第一関節が曲がるか調べ、独白じみて呟く。  「骨に異常はないみたいだな」  ふいの接触に狼狽する。同性なのに、緊張が走る。  男にしとくのがもったいないようななめらかできめこまかい手、全部の指の爪が清潔に切られてるのが印象に残った。  処理された爪に漠然と違和感を覚える。  同年代の男で不精せず、ちゃんと爪を切ってるヤツを初めて見た。  手癖の悪い猫のように念入りに去勢された―……  俺の手をいじって気がすんだのか、握った時と同じ唐突さで興味が失せたように解放し、ふっとその場を離れる。  「もう騒ぐなよ」  「待てよ」  『人間失格』を回収し去りゆく背中に、思わず声をかけていた。  眼鏡が迷惑げに振り向く。  早く読書に戻りたいといった本音を隠しもしない不興顔に意志が萎えるも、勇気を振り絞って口を開く。  「……ボルゾイの意味、知りたくね?」  レンズごしに見返す目に怪訝な色が濃くなる。  「どっちかというと、メタミスとバカミスの正確な定義が知りたいね」  「まかせとけ、得意分野だ」  本音とも冗談ともつかぬ返しを、自信をもって請け負う。  驚くなかれ諸君、その時点で俺たちはまだ互いの本名さえ知らなかったのだ。   名前の知らない相手にも人は好感を抱くという良い例だ。  『ボルゾイはないよな』  携帯の向こうから楽しげな笑い声。  当時を思い出し、麻生が笑ってる。噛み合わないファーストコンタクトを回想し、つられて俺も笑う。  「しかたないだろ。あれしか思い付かなかったんだよ、口実が」  『なんの?』  「お前に近付く口実」  翌日、図書館を訪れた。  麻生は二階の窓際にいた。そこが指定席だった。  閑散とした机の一番端にひとり腰掛けて、端正な横顔を見せて本を読んでいた。定規でもさしたような姿勢のよさに見とれた。  「……ファーストコンタクトで興味を持ったのは否定しねー。インパクト大だったし。だってさ、空から降ってきたんだぜ。ありえねーし。よく骨折しなかったな。足痛くなかった?」  『別に。大した高さじゃないし。衝撃の殺し方と運動の法則がわかってればだれでもできる』  「そういうのどこで学ぶんだ?少なくとも、保健体育じゃ習わねーよな」  『医学書で自力で学んだ。結構役に立つ』  愉快な事でも思い出したか、携帯の向こうで笑いが一段と高まる。  『覚えてるか?次の日図書館に来て、こっちが読書中だってのにおかまいなしにバカミスとメタミスの定義について熱弁してくれたよな』  「お前が教えてくれって頼んだんじゃねーか」  『社交辞令だって。俺、ミステリあんま読まないし。もともと興味ないし』  どうりで一年間図書館に通い詰めても出会わなかったはずだ。すれちがったことくらいはあるかもしれないが、記憶に残らなかった。  麻生がいるのは二階、純文学を集めた本棚の近く。  俺がいるのは一階、新刊図書とミステリ中心エンタメコーナー。  一階と二階に分かれてたんじゃ、互いを知らなくてもむりはない。  五月上旬のあの日、ボルゾイに図書館裏に呼び出されなきゃ、卒業するまで口をきかなかった可能性もある。  最悪、下の名前も知らないままだった予感がする。  俺と麻生は延々と平行線を辿ったまま、永遠に線は交差することなく、見果てぬ彼方に突き抜けていたかもしれない。  携帯を口元から遠ざけ、空気中に仄白く溶けていく息を目で追い、呟く。  「………ちょっとだけ、ボルゾイに感謝」

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