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第11話

 飯は大勢で食うほうが断然うまい。  「あちっ!」  やきそばカレーチャーハンは男の料理の代表格でだれにでも簡単にできるとおもわれがちだが断じてそんなことはない、なめてかかっちゃ火傷する。  用意するのはスーパーで売ってる三食一袋の麺、にんじん、キャベツ、もやし、たまねぎ。  まずまないたで野菜をざく切り、フライパンにサラダ油をひく。  フライパンを右へ左へ手首をひねって回し、てろりと光沢ある油を一面にのばす。  とろみのある油を弱火で熱し、芯の固いものから順番に炒める。にんじん、キャベツ、たまねぎ……もやしは安く滋養があるので大量にぶちこむ。胃袋底なし育ち盛りの高校生が三人そろってるんだ、具沢山の方がいいよな食いでがあって。  油の弾ける音とともに食欲をそそる香ばしい匂いが漂い出す。  「先輩、手伝いましょうか」  暖簾をかきわけ首を突っ込む聡史に菜箸をふりあげ叫び返す。  「後輩厨房に入らず!客は黙って座ってろ、そのへんに漫画あっから」  今の俺は料理の鉄人、菜箸の二刀流も華麗にフライパンをふるう手際はなかなか堂に入ってる。  狭苦しい台所に香ばしい匂いと油の蒸発する音と熱気が充満、菜箸で麺をかきまぜ口内に湧く唾を嚥下。軽快に手首を返し、じゃっじゃっと火にかけたフライパンを振り、菜箸で手早く麺をほぐし具を絡ませる。  料理は小学校からやってきた。  同年代の男の中じゃかなりできる方だと自負する。今じゃ味でも速さでもすっかり妹に抜かされたが、妹が小学校低学年の頃まで、パートで不在のお袋の代わりに俺が夕飯を作ってたのだ。  調味料は目分量、まにまに味見しながら調節する。  円を描くようにフライパンを操作し野菜を炒め、菜箸の先端でちょっと麺を摘んで啜りこむ。  「美味い。さすが俺、いい旦那さんになる」  摘みをひねって鎮火、フライパンをどかす。  あらかじめ用意しといた皿に菜箸を使って等分にそばを盛っていく。  盛り付けもセンスが試される。  皿からはみ出た麺を菜箸でおしこみ中央よりにこんもり整える。  「よし、見た目は完璧。やきそば以外のなにものでもない……って、そりゃそうか。やきそば作ってるつもりでナポリタンができたらおかしいな」  皿を盆にのせて居間に運ぶ。暖簾に顔突っ込んで居間を覗けば奇妙な光景があった。  物が散らかった八畳の和室に麻生と聡史がいた。  互いによそよそしく距離をとっている。  仮にも同じミステリ同好会の部員、同志なのに、二人の間には殺伐と緊張感が漂っている。  いや、麻生を一方的に対抗視する聡史から生じる殺気が空気を刺々しくしてるのか。  愚妹が放置プレイ中の漫画に鼻息荒くかぶりつく聡史へと声をかける。  「できたぞー聡史」  「せせせせせんぱぱぱぱぱいここここれこれ」  泡くって顔を上げる。耳朶まで真っ赤。  赤面した聡史が酸欠の金魚さながら口を開閉、手にした漫画をしきりと示すのでそちらを見れば、表紙にやんごとならぬ雰囲気の美少年ふたりが描かれていた。  何故か俺がうしろから覗き込むと「最ッ低!」と罵られる真理の漫画だ。  挙動不審に陥った聡史が、表紙がはずれそうな勢いで漫画を振り上げ、もう片方の手で盆を抱えた俺と本を交互にさす。  「先輩これ真理ちゃん持ってたって、え、だって発禁ポルノ………!?」  「まさか、うちのが持ってる本でいちばんいかがわしいの保健の教科書だって」  「だって屋上で……タイトルからして純情エロチカ……ちがーう携帯のバイブはそんなふうに使うんじゃなーい!!」  なに取り乱してんだ後輩。  真理の漫画を振り回し七転八倒絶叫する後輩はほうっておき、フキンでさっと拭いたテーブルに皿をならべていく。  人数分座布団を配る。  頭から湯気ふく聡史の方へ足で蹴りやり、向かいの麻生へと机の下を滑らせ届ける。  麻生は黙って本を読んでいた。そばで聡史が「これモロっ……モザイク入れりゃいいって話じゃねっすよ、あの可愛く明るい真理ちゃんがこんな過激なの読んでるなんて、ひょっとしてうちのユキも……!?」と頭を抱え悶々とするのを冷ややかに流し、自堕落に片膝立てページをめくる。相変わらず退屈そうなご様子。眼鏡の奥の白けた目はせっかくの休日に茶番に付き合わされてうんざりという本音をありあり語る。  でも俺は嬉しい。  麻生を引っ張ってきてくれた聡史の頑張りに感謝。二人待ち合わせてやってきたのを迎えた時はちょっと感動した。  「じゃ、食うか」  「うまそうっすね」  聡史が生唾を飲む。麻生が本を閉じる。  テーブルを隔て二人と向き合い、座布団に胡坐をかく。  聡史は正座し、麻生は無造作に膝を崩す。  聡史と目で示し合わせ、同時に箸を親指にはさみ手をそろえる。  「「いただきまー」」  って、もう食ってるし。  「勝手に食うなよ!?」  「いただきます」と唱和するより先に麻生が箸をとって食べ始めていた。  顔からはうまいともまずいとも判断しにくい。  「どうだ?」  テーブルに身を乗り出し、麻生の食べる姿を見守りながら期待と不安半々に聞く。  「普通」  眼鏡の奥の目は平淡で感情が読めない。気合入れて作った割にあっさり流され脱力。  だがめげない。これしきでへこたれる俺じゃない。  自分も箸をとってやきそばをつっつきながら苦しく笑う。  「………そか。普通か。だよなー、お前外食ばっかで舌こえてるもんな、はは」  「肉の入ってないやきそばなんてただの焼いたそばじゃないか」  沸々と込み上げる呟きにそちらを一瞥すれば、座布団にきちんと正座した聡史が、憤懣やるかたない顔つきでやきそばをにらみつけていた。  「悪ぃ聡史、海鮮やきそばにしようかとおもったんだけど材料なくてさ……やきそばはどんなにがんばっても焼いたそば」  「先輩のせいじゃありません先輩が気に病む必要はまったくありません、やきそばがただの焼いたそばになりさがった元凶は麻生先輩の偏食のわがままっすから」  膝の上で握り込んだこぶしを震わせ、一人マイペースに食事を続ける麻生を親の仇のように睨み続ける。  本来和やかなはずの食卓に嫁姑頂上決戦的な険悪な空気が濃厚に漂う。  そばを食らわば皿までと気持ちよくかっこむ聡史と対照的に、麻生は可も不可もないペースで箸を運ぶ。  話題に困る。  和気藹々と団欒したいのは山々だが、何故か麻生を敵視する聡史と無関心を貫く麻生に挟まれて、うっかり口を滑らせたら火花散る修羅場に突入しそうな予感がひしひしする。  「……だれかさんの要望で肉が入ってないのは不満だけど、先輩の料理、やっぱ最高っス」  あらかたやきそばをたいらげ、口のまわりを汚した聡史が満足げに呟く。  「そうか?」  「家庭の味がします」  「貧乏くさいってこと?モヤシ増量で嵩上げしたのは否定しねーけど」  「そのモヤシが食感しゃきしゃきでいいんスよ!麺もべっちゃりしてなくてパスタにたとえるとアルデンテな歯ごたえ生きてるし、弱火で引き出されたキャベツの甘みが下ごしらえのおたふくソースと絡んで食欲そそる絶妙なハーモニーを」  「決め手はたまねぎ。炒めると甘みとうまみがでる。こげやすいから注意。ま、ちょっとこげたくらいが美味いんだけどさ」  「実践します」  「男子高校生の会話とは思えない」  料理談義に花を咲かせる俺と聡史に麻生が箸を使いがてら苦言を呈す。  水をさされた聡史が再びいきりたつのを片手で制し、食事を済ませた麻生へと向き直る。  「せっかくきたんだから今日はゆっくりしてけよ。貸したい本たくさんあるし……あ、バックかなんか持ってきた?なかったら貸そっか」  「なんで俺、お前んちに本借りにきたことになってんの?」  「せっかく来たのに手ぶらで帰すわけにいかねーだろ。それに麻生は聡史以来二人目のミス研部員、晴れて存続叶った同好会期待の星。これからみっちりミステリの基礎知識しこんでかねーと……待て、もう帰るの!?」  玄関へと向かいかけた麻生の行く手に立ちふさがり、肩を押さえて座布団に戻す。   「せめてお茶を出すまでいてくれ」  譲歩案を提示。俺の熱意にまけたか、麻生が小さくため息を吐き伏せた本を手にとる。茶を頂くまで滞在を延期するらしい。  からっぽの皿を盆に回収、台所へもっていき流しへ放り込む。蛇口を捻り水を出す。  「手伝いますよ、先輩」  「おまえも客なんだからゆっくりしてろよ」  「かえって気をつかっちゃうんで」  暖簾をかきわけ聡史が隣に立つ。   二人手分けしてスポンジを掴み洗剤を泡立て食器を洗う。  食器がぶつかりあう音を聞きつつ、泡立つスポンジで油がこびりつく皿を磨く。  「先輩。前も聞いたけど、どうしてよりにもよって麻生先輩なんすか?」  不機嫌な声で聡史が聞く。  「こだわるなーお前も。いいじゃんか別に」   「またそうやってごまかす。ちゃんと説明してください、今日からよろしくっていきなりミス研に引っ張ってきて……ポスター学校中に貼っても閑古鳥で先輩が強引な勧誘に出る気持ちもわかりますけど、別に麻生先輩である必要はこれっぽっちもないじゃないっすか。もうちょっと人当たりいいっていうか、しゃべりやすいっていうか……ミス研向きの人いるでしょうに」  「麻生がいいんだよ」  麻生で手を打ったんじゃない、麻生だから選んだんだ。  言外に真意をこめ呟けば、聡史が悔しげに顔を歪め皿も割れそうな力をこめる。  「……麻生先輩、めちゃくちゃ頭がいいけど無口無表情でなに考えてるかわからなくてトモダチ一人もいなくて先生にも煙たがれてるって一年の間でも評判です。実際そうすっよ、すっごいとっつきにくくて一緒にいると息つまるっていうか……尻のあたりがむずむずして……居心地悪いっス。眼鏡の奥のあの人を小馬鹿にした目つきがいけすかな」  「聡史」  洗い終えた皿をたてかけ水を切る。  泡の残る手の甲で顎を拭い、聡史に向き直る。  「俺、そういうの嫌いだって知ってるよな」  皿洗いを終え、シャツの袖を戻しつつ無言で聡史をうかがう。  聡史はしばらく憂鬱そうに俯いていたが、おもいきって頭をさげる。  「すいません」  両手に皿を抱えでかい図体をすくめる様子が微笑ましい。本気の反省が伝わる謙虚な眉八の字顔に中学の頃の面影が重なり、純朴な中身が変わってなくて一安心。  気まずそうな聡史の頭を平手で軽く叩く。  聡史が驚いたように顔を上げる。  「ごめんなさいできてエライエライ」  相手の背がむだに伸びると、これがしにくくて困る。  比例して俺の背が伸びりゃ問題解決だが、残念ながら成長期は終わってしまったようだ。  タワシに似た剛毛の短髪の手触りがやけに懐かしい。  そういえば聡史の頭をなでるのは久しぶりだ。身長を追い越された時から気軽にじゃれにくくなった。中学の時はなんかあると頻繁にこれをしてやっていた。聡史がくすぐったげにはにかむのにつられ、手をおろして笑う。ちなみに反抗期真っ只中生意気ざかりの妹は俺がこれすると物凄く怒る。兄は哀しい。  急須に熱湯をいれ、十分に蒸らしてから人数分の湯のみに等分に注ぐ。  蒸気に溶けてたちのぼる馥郁たる香りが鼻腔をくすぐる。  丁寧に淹れた茶を注いだ湯飲みを盆に移し、居間に運ぶ。  「お客用の高めの茶だから味わって飲め」  麻生は食事中と同じ姿勢で持参した文庫本を読んでいた。顔を上げもしない。心底どうでもよさそうな態度。客人にしても無礼で不敵すぎる。  あとから聡史がついてくる。  畳に片膝つき、湯のみを配る。  同時にもってきた茶菓子を皆の手が平等に届くテーブル中央に置く。  真っ先に湯のみに手を伸ばすのは聡史。  両手に包んだ湯飲みに息を吹きかけさまし一口、幸せそうに笑み崩れる。  「真心の味がします」  「別に普通だよ。丁寧に淹れれば味が出る。遠慮せず召し上がれ、茶菓子もあんぞ」  さっきから会話に加わらず読書にはげむ麻生の方へ茶菓子を盛った器を押しやる。  麻生は俺の心配りを意に介さず、洗練された手つきで文庫のページをくる。  世界を斜めに見るような目つきに倦怠感が漂う。こいつは実につまらなそうに本を読む。作者もさぞ心外だろう。  「もうちょっと楽しそうに読めよどうせなら。作者と本に失礼だろ」  「本読んでるときに表情筋使ったら疲れる」  「じゃあいつ使うんだよ?いっつもぶすっとしてるくせして……本読んでる時くらい感情顔に出せっつの。しまいにゃほっぺが退化してたれてくるぞ」  「先輩はすぐ顔にでますもんね。面白いか面白くないか興奮してるかしてないか、感想まるわかりですもん」  「るせ」  テーブルにだらしなく肘をついた聡史がにやつく。  目の端でちらちら麻生を意識しつつ、優越感に酔って続ける。  「館シリーズすすめた時、夢中で読んでたでしょ。部室で話しかけても上の空でぶっとおしで……先輩のあんな真剣な顔初めて見ましたもん」  「集中力マックスで軽くトランクス状態だったからな」  「トランス状態?」  「トランクスもサイヤ人化できるし間違いじゃねー」  「綾辻面白いっすもんね」  「本格の心だよなー館シリーズは。十角館のトリックにゃまんまと一杯食わされたね、やられた!ってかんじ。語りの陥穽にすっかりはまっちまって……」  「先輩ならそうくると思いました、綾辻行人は日本における本格ミステリの第一人者っすよ!すべては綾辻から始まったんス。でも不満もあるんすよ、なんだってサイコホラーやスプラッタ、メタミスに手を」  「え、そっちも好き」  聡史が愕然とする。  裏切り者を糾弾するかの如き非難の目で俺を見るや瓦割りの破壊力で机を叩き、猛然と食ってかかる。  「正気っすかその発言。綾辻は本格ミステリ第一人者という常識に対する真っ向からの挑戦っすか」  「だって面白れーじゃん?フリークスなんて手に汗にぎってのめりこんじゃったし、到叙的な仕掛けも充実してたし」  「じゃあ先輩はどんどん橋おちたが許せるんすか!?」  「伊園家の崩壊入ってるのだろ?好き好き、ああいう毒が効いた笑い全然イケる。タラオが樽夫でサザエさんが笹絵さんって変名うまいよな~、うなっちまった。国民的人気アニメを堂々パロってお茶の間に喧嘩を売るアグレッシブな短編じゃん、作者の気概を買うね俺は。芸域の広さにゃ毎度感心するよ。ちなみに伊園家の崩壊はポーの名作アッシャー家の崩壊をもじったもんで」  「殺人鬼も支持?綾辻作品の中じゃどんどん橋に次いで異端と称される異色のスプラッターホラーを」  「嵐の山荘ものの亜流な見方もできる」  「嵐の山荘が舞台の推理劇は情緒あるけど嵐の山荘が舞台の殺戮劇は情緒もへったくれもないっす。グロいし」  「消火器とか?」  「消火器とか。どっちかというと十三日の金曜日とかケッチャムのオフ・シーズンのくくりじゃないっすか」  「さすが後輩、ホラーにも詳しい。けどただのスプラッターと侮るなかれ、綾辻らしい本格の仕掛けが用意されてる。見かけの臓物や血しぶきに騙されると落とし穴にー……」  麻生が物言わず席を立つ。  「トイレ?」  「帰る」  まずい、つい議論にのめりこんじまった。  趣味の分野に話がおよぶとまわりが見えなくなるのが俺の悪い癖だ。  反射的に壁時計を見やれば短針が一周、聡史との論争に没頭して一時間が経過していた。  興奮の手振りまじえ唾とばし、聡史と夢中で議論を戦わせるあいだに本を読みきり、いよいよ手持ちぶさたで長居の口実もなくなった麻生が板張りの廊下を歩いて玄関へ向かうのを小走りに追う。  「待てよ麻生悪かったって謝る、ミステリの話になると我を忘れちまうのが俺のお茶目で悪い癖だ。初心者にもわかりやすい話から始めるんだった、まずはホームズ最初の事件から順を追って年表を整理するから」  「時間の無駄だった。ミス研やめる。ああいうぬるい空気っていうか……気色悪い馴れ合い、好きじゃないんだ」  突き放すようにそっけない声と、隙を見せた後悔の苦味を帯びる横顔が胸を衝く。  靴を履く麻生に追いつき、肘を掴んで引き止め、玄関で揉み合う。  「ぬるい空気って……馴れ合いって。それ、さっきの見た感想?あの場にいた感想がそれなわけ」  「籍なら貸してやる、けど参加を強制するな。俺にも放課後予定がある」   「誰かと遊ぶのか?」  「そんなとこ」  「なにして遊ぶんだ」  「色々」  「楽しいか」  「まあな」  胸の奥が不穏にざわつく。  裸足で玄関におり、今しも引き戸を開け帰ろうとする麻生を切迫した声で制す。  「嘘つけ。放課後に楽しい予定控えてるやつが、そんなつまんない顔するわけない。お前だって、別にどうでもいい予定だから、俺の強引な誘いを断んなかったんだろ。メールで取り消せるくらいどうでもいい用事だから俺にひっぱられて毎日ミス研にくるんだろ、ミス研のぬるい空気と馴れ合いになんだかんだでひたってるんだろ?」  矢継ぎ早に言葉の弾丸を放つ。  引き戸に手をかけ、細く隙間を開け麻生が振り向く。眼鏡の奥の目が探るように細まる。  詮索を拒む顔つき。鬱陶しげな様子。ボーダーラインの内側に踏み込むのをためらわせる冷え冷えした排他の空気が外気と一緒に吹き付ける。  本当に大事な用があるならとめなかった。でも、そうは見えなかった。俺が強引に誘っても、麻生は拒まない。拒むふりをするだけだ。麻生自身、放課後に控えた予定は気が乗らないと態度で白状してる。だからこそだらだらとくだらない話をしつつ時間が許す限り埃っぽい部室に入り浸る、最終下校のチャイムが鳴るまで議論する俺と聡史のそばで本を読む。  同じクラスになって以来、麻生がだれかと帰るのを見たことがない。  他人と等分に疎遠な距離を保ち、異端にして孤高の雰囲気を纏う麻生が歯痒い。  ここであっさり帰したら今度こそ手の届かないむこうへ、ボーダーラインの彼方へ遠ざかってしまう焦燥に駆られ、背を向けかけた麻生に必死に迫る。  「今日くらいいいじゃんか、もう少し一緒にいろよ。おまえと話したいんだ」  「さっきは無視したくせに?」  麻生が冷笑する。  その鋭さで剃刀みたいに人を傷付ける笑み。  「~あれは謝るって!だってお前、ずっとだんまりだし……やきそばの感想聞いても普通とか、せっかく気合入れて作ったのにつれねーし……だってさ、せっかく……」  動揺に舌が縺れ、言語中枢の麻痺した頭が空転。  不審の色を塗りこめた眼差しに挑み立ち、憤りと苛立ちと懇願とが混ざった思い詰めた表情でくいさがる。  「家に呼んだ時くらい、本じゃなくて、俺を見ろよ」  麻生の表情が一瞬空白になる。妙な雰囲気。なんだこれ、めちゃくちゃ気まずい。顔に血がのぼって熱くなる。まるで告白したみたいな……  引き戸を背に、体ごと向き直った麻生と及び腰で対峙。  閉じた文庫本から俺へと一瞥くれ、麻生が口を開く。  「本に嫉妬してるのか」  悪徳や退廃の翳りが似合う危険な笑み。斜に構えた姿態から崩れた色気が匂い立つ。  誘惑とも悪戯ともつかぬ光を孕む切れ長の目を細め、薄い唇をつりあげ、挑発的に笑う。  侮蔑を含む辛辣な揶揄に、一瞬、返す言葉を失う。  こいつは今、楽しんでる。  麻生は口元だけで器用に笑う。目は笑ってない。硬質なレンズの奥、冴え冴えと酷薄な光を帯びた目は、瞼になかば隠れて感情を読ませない。  深呼吸で動悸を鎮め、お調子者を装って駆け引きの磁力が均衡する場を茶化す。  「そうだよ、麻生をひとりじめする本にやきもちやいてるんだ。度量せまいね」  おどけて手を広げ、肩をすくめる。麻生の笑みが薄まり、消える。この切り返しは予想外だったらしく、表情から毒気がぬけていく。虚勢を張る気力も同時に萎えていくようだった。  「茶、飲んでけよ」  麻生の方は見ず顎をしゃくって促す。先にたって引き返す俺の背後で迷う気配がし、床板が軋み、麻生が続く。  居間に引き返したらひとり残された聡史が机に顎をのせて熱心に妹の漫画を読んでいた。  「聡史」  「見てません見てません見てません!!?」  漫画を放り出し、力強く否定に走る。まだ顔の赤い聡史を不審に思うも、客人が元どおり座るのを待ち、麻生の分の湯のみを奪う。  「さめちまったな。いれかえてくる」  顔を逆さにし、一気にさめた茶を飲み干す。    「………」  「いれかえてくるんですよね?」  麻生と聡史が顔に疑問符を浮かべてこっちを見る。  からっぽの湯のみを手に持ち、今度こそ腰を上げる。  「そうだよ。捨てたらもったいねーじゃん」  何か言いたげな麻生に背を向け台所へ、手早く湯のみをゆすぎ茶を淹れ直す。湯のみをもって引き返し、テーブルにおく。  「さあ、ぐいっと」  お手前拝見といきますかと正座の姿勢から前屈みに気迫をこめる。  麻生がためらいがちに湯のみに触れ、熱さに驚いたように指を引っ込める。指をさまよわせ、慎重に掴み、俯き加減に口に運ぶ。  聡史と固唾を呑んで見守る。ただ茶を飲むだけなのに異様な緊張感が張り詰める。  俺たちの視線を避けるように俯き、落ち着かない様子で一口啜りー  「あちっ」  慌てて顔から放す。  口を押さえ俯く麻生の反応で、ある可能性に思い至る。  「ひょっとして、麻生って猫舌?」  「あ、そっか。だからさめるまで待ってたんですね」  自制を強いた顔筋が不自然に痙攣してるのがわかる。  「………笑いたきゃ笑え」  許可を貰った。これで心置きなく笑える。  冷静沈着な優等生らしからぬ可愛い反応に顔が歪み、聡史と同時に吹き出す。  麻生は俺たちの笑い声にさらされながら沈黙を守っていたが、湯のみを持ったまま、不機嫌げに呟く。  「……熱くて味がわからねー」   それで俺は、麻生は人にもてなされるのに慣れてないだけだと気付いたのだ。

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