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第13話
さかりの太陽ぎらつく夏空に白球が長大な弧を描く。
「校長の話なげー!!」
全校生徒総なだれの下校時、校庭の中心からやや外れで不満を叫べば良識ぶった連中が一斉に非難めく。
今日で一学期は終わり夏休みに突入する。
浮き足立つ学生の波にまじり、ボロい自転車を引きつつぼやく。
「蒸しすぎだよ体育館、サウナだよあれじゃ。脱水乾燥で死人がでなかったのが奇跡。校長の話が終わるまでずっと立ちっぱなしなんて拷問だ、途中何人かぶっ倒れて保健室送りになったし……麻生、気付いた?校長の額がてかってるの、列の真ん中の俺からばっちり見えたぜ。天窓からの陽射しを鏡みてーに反射すっからまともに見ると目が潰れそうで……あ、今思いついたけどトリックに使えね?タイトル、体育館の死角」
「却下」
隣を歩く麻生がばっさり斬り捨てる。気にせず続ける。
「ぶっちゃけ俺も危なかった。途中から意識とんでたし、校長の話とびとびしか覚えてねー。夏休みの諸注意やら思い出話やらだらだら垂れ流してた気がするけど、ほとんど記憶に残ってねーし」
「蓮根のような脳みそだな」
「俺の記憶力が穴だらけみてーにいうなよ、暑さのせいだよ!我が物顔ででしゃばるあの太陽が頭をゆだらせ眩暈を誘いおれに包丁をとらせるんだ」
「太陽が眩しかったから人殺したなんて言ったら精神鑑定だ」
「蓮根の肉詰めって美味しいよな、ジューシーで。肉汁がじゅっと詰まって、旨み成分がぎゅっと凝縮されてんの。蓮根の歯ごたえもしゃきしゃきして最高だし、得意料理のひとつ。かけるのは断然醤油よかポン酢」
「包丁と殺人を直結した俺が短絡だった。謝る」
どうだこのフリーダムな会話。俺が一方的にボケてしゃべって麻生がクールに突っ込みを入れる。
俺たちの会話は大体こんな調子で進む。
噛み合わないのは相変わらずだがボールを投げ返してくれるようになっただけ大進歩。
それだけじゃない。俺の腐心実りようやくミス研部員の自覚と矜持が芽生え始めたか、貸した推理小説を翌日にはきっちり読破し、どうだったと鼻息荒く聞けば、要点をまとめた感想に斬新大胆な批評を加え返してくれるまでに部活動に臨む姿勢が積極的になった。洞察力読解力に優れた麻生の解釈は俺としても大変参考になり、どうかすると読んだ本の見方がまるっきりひっくり返る。
本の話をする麻生は楽しそうだ。
顔には出ないが雰囲気で漠然とわかる。
眼鏡の奥の双眸を聡明に光らせ、怜悧に研ぎ澄ました横顔を見せ、論理肌の毒舌をふるって議論を展開する麻生を見ていると俺の意欲も向上する。新規参入した部員の膨大な知識量は馴れ合いのぬるまゆに浸っていた聡史にも良い刺激になり、「負けませんよ!」と麻生に対抗して濫読に励んでくれる。
陽射しが炙り出す陽炎の中、灼熱したアスファルトを噛むタイヤが鳴る。
不景気に塗装の剥げた自転車を引き、麻生の横顔を盗み見る。
麻生は自転車をとりにいく俺に付き合ってわざわざ校舎を迂回してくれた。
この頃は俺が強引に誘わずとも帰りを合わせてくれる。
並んで歩く俺たちのまわりをハイテンションな歓声あげ学生が駆けていく。
見渡せばどの学年の生徒もみなカッターシャツにズボンの薄着で、日光を吸収する黒い学ランを羽織ってるようなばかはいない。
かさばる上着を脱ぎ捨て身軽に歩くさまは、純白のシャツに映える陽射しが手伝ってか、着たきりカラスの羽が生え変わったように溌剌と目に眩しい。
部活がある連中は居残り。網を張った運動場からは野球部の喚声と怒号、夏の風物詩ともいえる硬球かっとばす快音が響く。
「惜しい、もうちょい左、もう二歩……やった!その調子」
運動場沿いを歩きながら緑の網のむこうを眺め、先輩にしごかれボール拾いに精出す一年に声援をおくる。
麻生にくるりと向き直り、聞く。
「ところで校長、なんの話してたの?」
おちこぼれの俺と違い、優等生の麻生なら一部始終ちゃんと聞いてたはずと期待して話題をふる。
壇上に立った校長は禿げた額の汗をハンカチでふきふき夜ふかし夜遊び自重の諸注意、学生の本分を忘れず予習復習に励むこと、夏休みだからと羽目をはずさず規則正しい生活を送ることなどなどありがちな訓戒を垂れていたが、途中から学生時代の回顧に脱線し、『学生時代私は大学一のマンモスサークルと名高いワンダーフォーゲル部に所属し、毎年キャンプに行っていた』『キャンプにはサークルのほぼ全員が参加し、見慣れない毛深い先輩ともお近付きになれた』『飯盒で炊くご飯は格別の味』『寝袋のごわごわした寝心地は忘れがたい』『先輩とはハグして別れた』と、郷愁たっぷりに青春を振り返り始めた……
ような気がするが、暑さでぼーっとしてはっきり覚えてない。
麻生は一定のペースで歩きながらしれっと答える。
「キャンプ先の八ヶ岳でだれかが飯盒盗み食いして、疑心暗鬼に陥った連中が犯人さがしを始めたんだそうだ」
「なにその俺好みの展開!?脱水症状で朦朧としてるあいだに事件が!?」
がぜん食い付きがよくなる。自転車のハンドルを握ったまま、好奇心に目を輝かせがばっと乗り出す。麻生は淡々と説明を続ける。
「『お前が食ったんだろ』『ちがう』『人の女を寝取るような野郎の言い分が信用できるか』『寝とられるお前が悪い』と醜く争ったらしい」
「泥沼。で、犯人だれ。まさか校長……」
眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「クマ」
「人外なの!?見慣れない毛深い先輩ってクマだったの!?」
「飯盒の中身が食われたならともかく飯盒ごと食うのはクマぐらいだ」
「飯盒食われた時点で気付けよ人外だって、犯人さがしにかこつけて彼女とられた恨み晴らしただけじゃん!つか飯盒盗み食いってそのまんまの意味!?」
「飯盒が豪快に齧られていたから、合理的な少数派は言い争う前に犯人は人外だと特定したそうだ」
「人間の歯茎と歯は飯盒噛み砕けるほど丈夫じゃねーよ、流血の惨事だよ!議論の余地なく気付くべきだしそもそもクマの歯型つき飯盒という猛獣やっちゃいました的な証拠前にして気付いたの少数派って、ワンダーフォーゲル部の人たち俺以上のバカだ!!」
「失礼だろ、それは」
「お前が失礼だ!」
ちょっと待て、ハグして別れたとか言ってなかったか?……校長の生還は奇跡。
痴情の縺れに端を発するサークル内の泥沼人間関係が暴露され、夏休みに突入し高揚していた気分が萎む。
まあ、猿が犯人の推理小説が実在するなら山に生息するクマが盗み食いの犯人でもおかしくはない……のか?そもそもクマに犯人って呼称は正しいのかと疑問は尽きないが不条理を気にしても不毛なので追及は控える。
八ヶ岳の奥地にお帰りなさった毛深い先輩(推定・クマ)の行方に遠い目で想いを馳せ、とりあえず、校長を食的な意味でハグしないでくれてありがとうと感謝を捧げてみる。
麻生は九死に一生を得た校長にもクマにもさして興味ないらしく、炎天下の陽射しをはねかえす冷ややかで端正な横顔を見せている。
どうでもいいがこいつ、一滴も汗をかいてるように見えない。
自分で体温調節できるなんて羨ましいかぎり、暑がりの俺は汗だくだ。
塩吹くシャツの胸元をちょっとつまみ、片手で扇いで涼をとる。
「麻生は夏休み出かける予定あんの?」
「別に」
だと思った。どうでもいいが麻生は俺の質問のほぼすべてに「別に」「関係ない」「死ね」の三択で返してる気がする……どうでもよくない。
ミス研入部から一ヶ月、だいぶ角がとれたと思ったが、単に俺の感覚が麻痺してきてるのではと哀しい事実に気付く。
……まずい、この思考は危険だ。深く考え出すとおちこむ。
暑苦しいくらい前向きで鬱陶しいくらい楽観的なのが数少ない俺のとりえじゃないかと暗示で笑顔を回復、接触事故発生時はパーツ分解しそうな自転車をひきながら、聞かれてもない夏休みの予定を陽気にひけらかす。
「俺はバイト。夏休みは長いからたっぷり稼がねーと……今日も午後から面接いれてんだ。駅前のコンビニ知ってる?あそこ。ほかにも二・三件増やそうか考え中。欲しいもん沢山あるし、待ち望んでたミステリの新刊出るし、ゲームも買いてーし……」
お袋にも、ちょっとはらくをさせてやりたい。
言わなくていいことは伏せ、頭をかく。
「バイト決まったら顔だせよ。からあげくんおごるから」
「不正じゃないか?」
「何言ってんだ、廃棄処分になったヤツだよ。弁当は勘弁な、俺がもらってくから」
「いらない」
「夏休み中俺の体は賞味期限切れの弁当でもってるといっても過言じゃない。からあげくんは何が好き?まって、当ててみせる。レッドだろ?眼鏡かけてるヤツは辛いもの好きな法則が」
「食ったことない」
「食ったことねーのからあげくん?マジで?お前ぜったい人生損してるって!!今度コンビニこいよ食わしてやるから。色々摘んで試したけどおすすめはやっぱレギュラー、普通が一番。廃棄処分になったのだとちょっと肉固いけど十分食える……歩くの速いって!」
得々とからあげくんの魅力について語るあいだに足早に俺を引き離す麻生を追う。
マイペースぶりに脱帽。
息を切らし麻生の顔をのぞきこむ。
「でもさ、一番割いいのは海の家だよな。家で鍛えた腕の見せ所。鉄板で焼いたやきそばって五割増し美味いよなー、鉄板マジック。見よこの華麗なるフライ返しの技、菜箸二刀流!絶対流行るとおもうんだけどな、俺がいたら。どっかで雇ってくんねーかな」
「地元海ねーし」
そっけないお言葉。無論そんなことはわかっている、だめもとで言ってみただけ。
期間限定で美味しいバイトだが、地元に海がないんじゃ諦めるしかない。電車を乗り継いで浜に通ったら往復の交通費だけで痛手だ。
世の中うまくいかない。
俺はまだ十七で募集先も限られてる。
十八になりゃ選択肢がもう少し増えるのだが、今はコンビニやファミレスのかけもちで地道に稼ぐっきゃない。
「奈良ならよかったのに」
「有栖川有栖か」
さりげなく放った言葉が、心臓を直撃。
「今、なんて?」
ハンドルを握りこみ、立ち止まる。
突如硬直した俺の方を、麻生が不審げに振り返る。
気を抜けば笑み崩れそうな頬を自制し、にやける口元を我慢して引き締め、訝しげな麻生に爆弾を投下する。
「有栖川有栖って、よくわかったな」
麻生の顔が強張る。
顔にありありと失態を悔やむ本音が出ていた。
「海と奈良で有栖川連想するなんて立派なミス研部員になったな、部長としてダチとして嬉しいよ俺、感動しちゃった。あれだ、読んだんだろ?貸した本読んだんだろ?もうすっかり助教授と先輩の魅力に夢中だろ?」
「たまたまだ」
「助教授と江神さんどっち派?まって、あててみせる、火村だろ?俺はどっちかっつーと江神さんだけど火村もかっこよくて捨てがたいし、なんたって言うことふるってるよな。無神論者だけどスピノザの神なら信じてもいいとか初対面で開口一番アブソルートリーとかインパクト抜群でアリスと読者の心がしっと鷲掴み、皮肉屋で影あるのにも惹かれるし女性ファン多いのも道理」
「読め読めうるさいからしかたなく読んだんだよ」
「どうだった?」
「………そこそこ楽しめた」
「よっしゃ!」
勝利のガッツポーズとともに天高く快哉をあげれば、下校中の生徒が何事かと注目する。
俺の有頂天な饒舌と反比例し麻生の機嫌は急激に傾斜していく。
心外そうな渋面を作り、振り切ろうと歩調を速める麻生に猛烈な気合と勢いでくいさがり、同類から同志に昇格した興奮の熱に浮かされ誘う。
「よし、本屋行こう。面接まで時間あるし穴場に案内する。駅裏から歩いて3分、国産国外ともにミステリの品揃え充実してて……」
「お前とは金輪際本屋に行かない」
「すげない!?なんで!?」
神経質にフレームに触れ、どうしようもない愚か者を蔑む目でこっちを睨む。
「純文の棚の前にいたら自薦ミステリの新刊押し付けてきたのはどこの誰だ」
「あー……そんなこともあったっけ……?」
「都合の悪いことだけ忘れるんだな」
とぼける俺にため息ひとつ、学年首席の記憶力を発揮しくどくど反芻する。
「『読め読め絶対面白いからラストに仰天確実』『泣けるんだぞ、これ。犯人の動機がそうくるかって号泣必至、安い感動で売ってる最近のベストセラーなんか目じゃないね』……お前が一緒だとゆっくり本も選べない。客の目が痛いし」
「神経質だよな、おまえって。一番上じゃなく、必ず上から二番目をレジにもってくの。潔癖症?」
「話をそらすな」
どうやら本気で機嫌を損ねてしまったらしい。しつこくしすぎたかと反省。
鈍感な俺は今だに境界線を読み間違える。
ここから先は入ってくるなと麻生が示す境界線を間違って踏み越えて、気付いたらもう遅い。
麻生と帰りを共にするようになって一ヶ月が経過し、教室でも部室でも帰り道でも身近にいるのが当たり前になるうちに、不可視の境界線の存在を忘れかけていた。
境界線は消えてない。
目には見えないが、ちゃんと存在する。
今も麻生と俺の間にぴんと張り詰め、はしゃいで悪乗りした俺を外側の世界に隔てている。
一抹の罪悪感と後ろめたさに苛まれ、軽く頭をさげる。
「…………わり」
「……………ふん」
麻生が鼻を鳴らす。
自転車をのろくさ押して校内をぬけ、隣を歩く優等生へ精一杯の謝罪と誠意をこめて申し出る。
「次はエロ本にすっから」
「死ねばいいのに」
「なんで!?なんで!?推理小説だめならエロ本だろ、そういう意味じゃねーの!?」
判断を誤ったか?
健全な男子高校生ならよだれをたらして喜ぶ贈り物なのに、麻生はゾウリムシでも見るような氷点下の眼差しをレンズの奥から向けてくる。
自分が微生物に退化した気がする。
吹雪く勢いで軽蔑の視線を叩きつける麻生に名誉挽回の一念でしどろもどろ弁解する。
「お前、彼女いないんだろ?だったら……」
白球を打ち込まれネットが揺れる。
歩調をおとした麻生が忌々しげに青空を睨み、太陽に唾吐くように呟く。
「暑いな」
汗一滴かきそうにない見た目の涼しさとは裏腹に、内心、太陽光線の苛烈さにいらだっていたらしい。
ボタンをひとつはずした襟元を人さし指で引っ張り、風を送る。
生唾を飲む。
真後ろにいたせいで偶然目に入ってしまった。
指で寛げた麻生の襟元、日光に晒された生白い首筋に、淫靡な痣が浮く。
「あ………」
心臓が跳ねる。ハンドルを握る手がじっとり汗ばむ。
目をそらせと理性が命じるも、露になった首の不健全な白さと痣の対比は悩ましくあざやかで、俺を惹き付けてはなさない。
……待て、相手は男だ。どきどきすることはない、冷静になれ。
ハンドルを握り直し、慌てて顔を背ける。
麻生は「彼女がいない」とは断言してない、「関係ない」と言っただけだ。なんだ、俺の早とちりか。そっか。
俺はまたてっきり
「急に静かになったな」
「うらやましくねーから。断じてうらやましくなんかねーから」
「はあ?」
襟の内から指を抜き、眉をひそめる。
顔に出ないから目立たないだけで麻生もちゃんと汗をかくんだと、しっとり汗ばんだ首筋を見て安心した。
シャツの下にはまだ俺の知らない痣があるんだろうか、昨日も彼女とあれしたりこれしたりで寝不足なんだろうかと妄想がふくらむ。
優等生に見えてやることやってんだ、コイツ。
裏切られた気分。
一抹の寂しさが胸を吹き抜ける。
無防備に襟を広げた麻生の横顔、露出した肌の白さ、偶然目撃した首筋の痣がむらむらと劣等感をかきたてる。
「………待て、むらむらの表現はなにか激しく間違ってないか」
そこでかきたてられるのは本来別のものだろう。……暑さで頭がだいぶやられてるらしい。
しかし彼女か。想像しにくい。第一、麻生とまともに付き合える女が思い浮かばない。
無口無表情で冷淡で偏屈で掴み所がなくてたまに口開けば毒舌で、こんな難しいヤツと付き合える女がそうそういるとは思えない……童貞のひがみじゃねーぞ、断じて。
悶々と自分と麻生を比較する。
容姿は負けてる、それは認めよう。頭も完敗。ほか、ほか……俺が麻生に勝ってるものってなんだ、推理小説への愛と情熱、料理の腕、後輩の面倒見よさ?秀でた所がほかに思いつかない。しかもオタクだし童貞だし妹には「兄貴ウザイ」と簀巻きもとい毛布巻きにして蹴り転がされるしお袋には入試でカンニング疑われるし身内からの信頼ゼロー……
「男は顔じゃないよな?」
一縷の望みをかけ念を押せば、携帯をいじりながらそっけなく言われる。
「用ができた。先帰ってくれ」
長い指が器用にボタンからボタンに動いてメールを打ち返す。
女だ。
「……否、野暮は言うまい。部長として友達として、青春を謳歌するきみを応援したいと思フ」
デートかデートなのかこの裏切り者と胸ぐら掴んで詰責したい衝動を懸命に自制、ひくつく頬に笑みを刻み他人の幸せを妬む、もとい羨む、ちがう祝福し送り出す寛大な部長を装う。
校門の前で立ち止まり、別れを告げる。
「じゃあな」
「じゃあな。また二学期……は遠いか。夏休み中メールするよ、ミス研のメンツで集まろうぜ」
「…………」
「嘘でも嬉しそうな顔しろよ。なんだその凄まじく嫌そうな顔は。いいかげん諦めろ。俺のアドレス削除してないよな」
携帯をとりだし、俺の番号を呼び出すや削除ボタンに指這わす麻生に抗議。
「本人の目の前でアドレス削除って、いやがらせにしてもショックでかすぎるからやめて」
「お前がむりやりいれさせたんじゃねーか」
「聡史も入ってる?」
「ああ」
「消すなよ?絶対消すなよ?」
何度念押ししても不安だ。
麻生がしぶしぶ携帯をしまい、強い陽射しが照りつける坂道を歩き出す。
白いシャツが陽射しを反射して眩しい。アスファルトの地面から陽炎が立つ。
坂道をおりる学生にまじっても、すっきり背筋の伸びたたたずまいは集団から浮く。
どこにいても異端で異質、孤立してしまうのが宿命だ。
『昔の人々は地球は巨大な平面で世界のはては滝となって虚無におちてると考えていた』
不意に地学の授業で聞いた知識が浮かぶ。
麻生の背中に天動説を連想する。
平面をひたすら歩き続ければ、世界のはては滝となって虚無に堕ちている。
円だと科学的に証明された地球の自転軌道に従わず、虚無へと墜ちゆく平面の線上を歩く後ろ姿。
陽炎に包まれ曖昧に輪郭が歪む後ろ姿を見送るうちに、境界線のむこうに行ったきり永遠に帰ってこなくなりそうな不安を抱き、宙に向かって無力な手をのばす。
ふと閃き、ポケットの中の携帯をとりだす。
陽炎の向こうを雑踏に紛れて歩く背中を見詰め、唇をなめ思案し、打ち込んだメールを送信。
視線の先で麻生がふと歩をゆるめ、ポケットをさぐって携帯をとりだし、フラップを開く。
液晶を一瞥、眼鏡をかけた顔にげんなりした色が浮かぶ。
悪ふざけに辟易した表情は、優等生らしからぬまぬけさ。
『夏休み 遊ぼうぜ( ゜∀゜)人(゜∀゜ )』
見守る俺の視線の先で速攻メールを打ち込む。
ボタンを押すと同時にメールが着信、うきうき覗きこんだ画面が極めて簡潔な一文を表示。
『顔文字ウザイやめろ』
「ちぇ。せっかく真理に教えてもらったのに」
ノリが悪いヤツ。
顔文字が不評で少ししょげるが、文面を二度読み返し誘いを断られたわけじゃないと再確認、だらしなくにやけてしまう。
麻生の背中は雑踏に紛れもう見えない。
液晶のメールを読み返してはにやにやする俺に、校門を抜ける生徒が気味悪そうな顔をする。
初めて使った顔文字の意味は、トモダチ。
「兄貴いないから使い道ないか」と鼻で笑った妹よ思い知ったか、家に帰ったら自慢してやる。麻生のメールを大事に保存し、フラップを閉じた携帯を名残惜しげにポケットに戻す。
ほぼ同時に自転車が乱暴に蹴り倒され、上を向いた車輪が空転する。
「何にやにやしてんだよ、秋山。こんなとこにぼーっと突っ立って通行の邪魔だろ、ただでさえ目障りなのにさ」
間抜けな話、携帯に見入ってて接近に気付かなかった。
地面に黒く塗り潰した影がさす。
顔を上げたら既に取り囲まれていた。
険悪な雰囲気に、関わり合いを恐れた生徒が伏し目がちに俺たちを避けていく。
地面に倒れた自転車を起こす暇もない。
同級生が五・六人、五月初めに俺を図書館裏に呼び出したのと同じ顔ぶれが勢ぞろいだ。
麻生と別れ一人になるのを待っていたのか、絶妙のタイミングでわらわら沸いてでやがった。
「尾けてたのか」
先頭のボルゾイが肩を竦める。
「夏休みいっぱい離れ離れになるのが寂しいから、最後に挨拶にきたんだよ」
麻生と一緒で手が出せなかったと白状してるようなもんだ。
六人がかりで囲まれ追い詰められる。
体当たりで突破を試み、胸板にぶち当たりあっけなく跳ね返される。
下劣な爆笑が轟く。
脳裏でうるさく警報が鳴る。
心臓の鼓動が高鳴る。
六対一じゃ勝ち目がない、全力で挑んでも返り討ちだ。
自転車の車輪が空気を刻んで回る音が耳に響き、とりまきを従え一歩踏み出したボルゾイが野卑に口角をめくる。
「場所かえようぜ」
ボルゾイが横柄に顎をしゃくった方角には、人けのない旧校舎が不吉に聳える。
太陽が天頂に上がった時刻。
野球部が汗を流す運動場を唯一の例外として、あらかた生徒が帰り終えた校内は静寂に掃き清められている。
ポケットに指をひっかけ自堕落に歩み寄り、俺にもたれかかるようにして耳元で囁く。
「夏休みどころか一生忘れられない思い出をくれてやる」
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