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第24話

 朝起きて、目を開けたことを後悔する。  9月1日。  今日なんて来なけりゃいいのに。  「おかーさん醤油とって」  「はいはい醤油ね……ぷっ」  「はやく醤油ちょうだい、私朝食べる目玉焼きには醤油派なんだから」  「いやね、今面白いこと思いついちゃって……聞く?聞きたい?」  「聞きません」  「ほら、この醤油濃い口でしょ?濃い口醤油、こいくちしょうゆ、こんちくしょうゆ……ぷぷっ」  我が家の朝はお袋の脱力ギャグで始まる。  「………朝から超~テンションさがるんですけど……」  現在中二、反抗期真っ盛りで可愛げない妹が箸を持ってげんなりする。  透明人間に相槌でも打ってんのか「濃い口醤油がこんちくしょうゆ、あはははっ面白い~天才じゃないのお母さん、笑いの才能に列島震撼だわ」と左手をはたはた振りながら笑い転げるお袋の震えが伝わり、右手に持った瓶が鹿おどしの如く傾ぐ。  「お母さん醤油、座布団に染みついちゃうから!あーもう一人でバカ受けしてないでさっさと貸してっ!」  金切り声で喚く妹は地元の公立中学に通う。  白地に紺リボンの正統派セーラー服のスカート丈は膝小僧が見えそで見えない絶妙にして微妙な長さ、校則にぎりぎり違反しない際どい線を見極める狡猾な知能犯。ミスマッチなことにいまどき都会じゃ廃れたんじゃねーのって感じのルーズソックスをはいてる。  余談だが俺は地元の女子中高生がルーズソックスで闊歩する姿を見るにつけ心の中で「象足」と呼んでる。ルーズソックスよりよっぽどぴったりな名称だと思う。ばれたら張り倒されそうだけど。  それはおくとして、兄の贔屓目をぬきにしてもまあ可愛い顔をしてる。  濃い睫毛が跳ねるアーモンド形の目。勝気そうな顔だちに憎めぬ愛嬌を足すちんまり低く丸い鼻も、本人はコンプレックスだそうだがこれはこれで童顔好みの男心をくすぐると思う。とびぬけた美人じゃないがファニーフェイス寄りのベビーフェイスは雑種の子犬のように人懐こく好感もてる。  嫁にはやらんが。  もとから色素が薄く茶がかった髪をお転婆そうなポニーテールにし、座布団の横に鞄をおいた妹は、自分の発言に大受けして朗らかに笑い転げるお袋の手から醤油の瓶をひったくるなり「もーお母さんてば、いい年して笑いの沸点低すぎ」と目玉焼きに注ぐ。  「兄貴、醤油は?」  「え?ああ、やる」  「もうかけたし。じゃなくて、目玉焼きにかけるんじゃないの?」  「ああ、うん。目玉焼きにはやっぱ醤油だよな」  訝しげな妹に上の空で受け答えする。  綺麗なアーモンド形の目を意味深に細め、探るように俺を眺める。  「兄貴、なんか変。寝ぼけてんの?」  「ちょっとな……」  「透、あんたまたゲームで徹夜したでしょ?だめよ、もう夏休み終わりなのに~」  天然マイペース早合点の三拍子そろった愉快で陽気で時々うざいお袋が、おきあがりこぼしのように座布団に跳ね起きる。   蒸発した親父に代わり、親父の分まで朝早くから夜遅くまで働き詰めで家計を支えるお袋だが、無限のバイタリティからするとまだ当分過労死しそうにない。息子としちゃ安心するやら疲労するやらだ。  夕飯は俺と妹が一日おきに交替で当番するが、朝は大抵こうして家族三人顔を合わせ朝食をとる。  親父が蒸発してからこっち苦労し通しで皺が増えたお袋。  これでも昔は美人だったのよと冗談とも自慢ともつかず屈託なく笑う。  親父の蒸発を機に経済的に追い込まれ、一軒家から築二十八年の借家に越して、デカブツで場所ばかりとるダイニングテーブルが消えた。  今は俺と妹とお袋の三人、畳の上で飯を食ってる。  前の台所に陣取っていた貫禄あるテーブルは三人で使うには広すぎる。  四人ならちょうどよくても、どうしても空席が目立ってしまう。  俺は今のちゃぶ台が一回り成長したようなこじんまりしたテーブルが好きだ。醤油の受け渡しがスムーズに行えるし、なにより話し手との距離が近い。  借家に引っ越してからこっち本当に色々あった。  この家に越してから辛いこと楽しいことを沢山経験した。  板張りの床にも階段にもラップ音が絶えぬ天井にも思い出が染みついてる。  安普請の借家には両手で持ちきれない思い出が詰まってる。  「あんた、寝ぼけてんの?お椀もったままぼーっとしちゃって」  お袋の声が感傷的な物思いを破り、俺を騒々しい現実へと引き戻す。  「おかわりは?」  俺は毎日ごはんを二杯食べる。  座布団横に準備した炊飯器の蓋を開け、すでによそる気まんまんでしゃもじを構えるお袋に、喉元まで込み上げた台詞をぐっと飲み込む。  「多めにしてくれよ、今日からガッコだから体力つけねーと」  「はいはい。……ったく、ひょろひょろしてんのによく食べるんだからこの子は。もうちょっと鍛えないと女の子にモテないわよ?母さんの子だけあって素材は悪くないのにもったいない」  「そーそー。兄貴ってよーく見れば顔はそんなに悪くないんだから。中身はオタクだけど」  お袋は実に嬉々として飯をよそる。  しゃもじで押し付けるようにして大盛り一杯ご飯をよそる節くれだった手に目がいく。主婦業とパートを掛け持ちする肌荒れした働き者の手。しゃもじを握る右手の反対、お椀を支える左手の薬指にくすんだ指輪がはまってる。  それを見るたび、たまらない気持ちになる。  お袋から椀を受け取り、箸を持ち直し、むりやりかっこむ。  味噌汁を行儀悪く音たて啜り、目玉焼きを切って放り込み、気持ちいい食いっぷりを演じる。  隣で妹が「よく噛まないと喉詰まらすよ」と上品ぶって眉をひそめる。  「じゃ、母さんパートだから。昼ごはんと夕ごはん、ちゃんと食べなさいよ」  からっぽの食器を重ねて持ってお袋が立ち上がる。  暖簾をくぐり、台所へ行き、蛇口をひねって流しに汚れ物を浸す。  出かける前に鏡に向かい髪をひっ詰め化粧むらがないか点検、「口紅のりが悪いわねえ」と頬に手を添え嘆く。  今年で四十三か四か。  鏡と向き合って丸まった背中は所帯じみて人生の辛酸が滲む。  妹が「ごちそうさま」と台所へ消える。  箸をがむしゃらに動かし飯をかっこみ、口の中のものを味噌汁で流しこみ、「ごっそさん」と後に続く。  台所から廊下に出れば、お袋はすでに玄関に移動していた。  「いってきまーす」  俺の横を疾風の如く妹が素通り、板張りの床が軋む。  玄関に揃えた靴に足をすべりこませ、はや出て行こうとしたその手を、お袋がむんずと掴む。  「いってきますじゃないわよ。あんた鞄になに入れてんの、また漫画?」  「え、なんでわかったの?」  「今日は授業ないでしょ。なんでカタカタ音すんのよその鞄。いいから見せない」  「ちょ、プライバシー侵害反対!返して!」  妹の手から鞄をひったくるや中を点検、お袋の目尻が吊り上がり神経質に小皺波打ち般若の形相に変じる。  「あんたって子は……学校に漫画雑誌なんか持ってって没収されても知らないわよ!?」  「漫画じゃないもんファンロードだもんユキに貸すって約束しちゃったんだもん!!」  「漫画みたいなもんでしょ!おにいちゃんの悪い影響ばっか受けて……」  「酷い兄貴と一緒にしないで、私はファッションとオタク趣味の両立めざしてんだから家じゃいつもジャージな兄貴と一緒くたにされたくない!」  「とにかくこれは没収ね」  「酷い!お母さんのケチ!今月号のシュミ特私の投稿のったのに、ユキに見せるって約束しちゃったのにー!」  玄関先で喧嘩する二人を盗み見、廊下を真っ直ぐ行った突き当りのトイレに駆け込む。  力一杯ドアを閉じる。  安普請の壁に振動が走る。  ドアを隔てた背後で口論の声が響く。  軽くあしらうお袋の声、地団駄踏んで抗う妹の声、毎朝おなじみのやりとり、毎朝おなじみの……  「がはっ!!」  便器を抱え込んで激しく嘔吐。  喉が一本の管になったように今食べたばかりの朝飯が逆流する。  トイレに顔ごと突っ込み、胃の中身を洗いざらいぶちまける。  苦い胃液が口に満ち、口の端から黄色く粘った糸引く。  ドアの向こう側で他愛ない日常が続く。  お袋と妹がやりあってる、言い争ってる、玄関先で早く出かけねえと遅刻するのにこりずにあんたはスカートが短すぎる校則違反してないんだからいいじゃん母さんこそ化粧濃いよ仕方ないのよ曲がり角だからもうとっくに曲がってるじゃん、あー女って怖え、駄目だ、また来た、便器に縋って嘔吐、塊が喉を押し塞ぐ苦しみで生理的な涙が浮かぶ。  「げほごほっ……」  トイレまでなんとか保ってよかった。  二人とも気付いてない、セーフ。  便器に凭れ、肩で息をし、手の甲で顎を拭う。  口の中にねっとり苦味が満ちる。  余力を振り絞ってレバーをおろし、水を流す。  勢いよく吐瀉物を押し流す飛沫が頬にはねる。  レバーから力尽きたように手がおちる。  トイレの床にしゃがみこみ、便器に顔を突っ込んだまま扉を隔てた口論を聞く。  9月1日。  二学期の始業式。  夏休み明け、最初の登校日。  「………ループ………しねーかな……夏休み」  日常にバグが発生して。  最終日に来るとまた振り出しにもどって、夏休みが永遠に続くんだ。  たしかそんなゲームがあった。  ずっと夏休みならよかった。夏休みが明けなけりゃよかった。  学校、行きたくねえ。  「………なんて……はは、言えるわけねーし………」  俺自身もいっそ流してしまいたい。  弱音と一緒に、惰弱な心と一緒に、トイレに流しちまいたい。  不要物なんだから。いないほうがいいんだから。  このまま居残ったって迷惑かけるだけなんだから。  結局家出の決心はつかなかった。  麻生のマンションに外泊以降、胸の内でひそかに温めていた家出の計画は実行に至らぬまま、煮え切らずに日々がすぎた。  麻生や聡史とだらだら過ごす毎日が居心地良くて、その居心地よさにどっぷり浸って、甘えの依存が出て、一日一日と家出を延期した。  お袋と妹の顔を見るたび、気丈ぶって軽口を叩くたび、決心が鈍った。  早く出なければいけないと頭じゃ分かっていても未練を断ち切れなかった。  俺が消えりゃすべてまるくおさまるのに。  分かってる、分かってるよそんなこと。  俺が単身地元を離れればまさかボルゾイだって追ってこないだろう。  ボルゾイが掴んだ証拠、俺の痴態を撮った写メは本人がいてこそ効力を発揮するもんだ。  ネットに流すぞと脅したところで本人が消えちまえば使い道はない。人一倍臆病で保身に敏感なボルゾイが、へたしたら警察沙汰になりかねぬリスクを犯してまでネットに写メを流す利益はない。  夏休みの間がチャンスだった、執行猶予期間だった。  夏休みが明けるまでに家を出れば、地元を離れて誰も知らない町に逃げれば、ボルゾイの手が届かないところへ逃げちまえば自由になれた。  俺が地元から姿をくらませばボルゾイが持ってる証拠、俺の弱み、あの写メは、宝の持ち腐れになりさがる。  逃げるんだ、今のうちに。  手の届かないところに。  家族や友達、地元と縁を断ち切って、完全に自由になるんだ。  本気で家出を考えた。毎日毎日考えた。考えない日はなかった、一日も。  必死に考え考え抜いてそれでも決断できなかった、どうしても。  土壇場で臆病風が吹いた。  今日じゃなくてもいいだろうと優柔不断につけこんでだれかが囁く。  まだ日は残ってる、まだいいだろう、まだ……  知らない町に行くのは不安だ。地元を離れるのは不安だ。お袋と妹を残して家を出るのは不安だ。  俺はもうすぐ十八だ。  裏っ返せば、まだ十七だ。  まともなとこじゃ雇ってもらえない。新聞配達とバイトで貯めた金もアパート借りれば殆ど消える。ガスは?水道代、電気代は?一人で生活してくには金がかかる。高校生活にも未練がある。俺はもっと勉強したい、勉強して色んなことを知りたい、友達とバカ話して青春を満喫したい。せっかく麻生と友達になれた、もっと遊びたい、色んな話をしたい、アイツのことを知りたい。  こんな形で別れたくねえ。  「…………っ………、」  嗚咽が熱い塊となって喉をせりあがる。  今からでも遅くない、家を出るんだ。学校行くふりをして、さりげなく家を出て、ふらっと……「いってきます」って嘘吐いて。あの日親父が何食わぬ顔でそうしたように。  準備は万端だ。  部屋のベッドの下に身のまわりのもの一式を詰め込んだスポーツバッグが隠してある。給料袋に入った現金は当面の生活費、アパート借りるにも謄本や敷金が必要、保証人後見人がいなきゃ借りられない、だから適度に猥雑な街のカプセルホテルに泊まって今後の身の処し方を検討する。  今からでも遅くない、学校行くふりで駅に向かって、そのままー……  きつく目を瞑る。  額にふつふつと脂汗が滲む。  目を瞑るたび、嗜虐の愉悦に歪むボルゾイの底意地悪い笑みが闇に浮かぶ。  よってたかって俺を嬲りものにした同級生の下劣なツラと哄笑が渦巻く。  体重はまだ回復してない。回復する兆しもない。  下腹を覆っていた濃淡のまだらは消えたが、学校が再開すれば、また新しい痣ができる。  『夏休み明けが楽しみだ』  ボルゾイの勝ち誇った声が耳に響く。  『二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ。登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中……ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる。引越し先でも地獄が待ってる。諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ。俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』  「うるせえ変態野郎、寝言ほざいてろ」  『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する』  「知るかよ」  『二学期、ちゃんと学校来い』  「知るか」  ボルゾイなら、アイツなら、きっと実行する。  今度こそ耐えられない。  現に体が拒絶反応を示している。  登校を目前に控え、猛烈な吐き気に襲われ、トイレに逃げ込んだ。  どうする?  どうするんだ?  どうすればいい?  どうすれば逃げ切れる?  だれか教えてくれ  「兄貴?」  外からドアが叩かれる。  便器から顔を上げ、背後のドアを注視する。  「まだ入ってんの?いいかげんにしてよもー、兄貴だけのトイレじゃないんだから」  「早くしないと遅刻しちゃうわよ、透」  何も知らない妹が間延びした声で非難を浴びせ、和解に至ったお袋も加勢する。  便器に片腕を置いたまま、凝然とドアを見詰め、さっきまで朦朧と考えていた事を反芻する。  逃げる?  ふたりを置いて、俺一人安全圏に逃げ出すのか?  萎えた膝を叱咤し立ち上がり、レバーをおろし、水を流す。  鍵を開錠してドアを開ければ、妹がふくれっ面で拳を掲げていた。  「るっせーな、ぎゃあぎゃあ。クソくらいゆっくりさせろっての」  「なっ……妹の前でクソとか最低!?」  「トイレに漫画持ち込んでお楽しみなヤツにそんなお上品な非難されたかないね」  「ちょ、なんで知って……あれはだってトイレなら邪魔入んないし集中して読めるから!」  顔を赤くして弁解する妹に背を向け、足早に装い廊下を歩き、玄関へ向かう。  玄関の脇に立ったお袋の物言いたげな視線を感じつつ靴を履く。  「透、あんたそろそろ靴買い換えたら?ぼろぼろじゃない」  「いいよ、別に。まだ履けるし」  そっけなく返せば、お袋は言おうか言うまいか上唇をなめ迷っていたが、肩にかけた鞄を抱えなおし切り出す。  「自分が働いて稼いだお金なんだから、自分のことに使っていいのよ」  集中した時、迷った時、舌先で上唇をなめる癖。俺にも遺伝した癖。  鞄の紐を握る左手薬指で控えめに存在を主張する、輝きの鈍った結婚指輪。  トイレを速攻で終えた妹が慌しく靴を履き今度こそ「いってきます!」を言い表に飛び出す。  頭の後ろで元気に跳ねるポニーテールと快活な走り、翻るスカートから覗く足と、玄関の中、困ったように微笑むお袋を見比べる。    『透 母さんと真理をよろしく頼む』  なあ親父。  俺は、誰によろしくしたらいいんだ?  生活苦の皺を刻む柔和な笑顔と、清廉な朝の光の中、活発に駆けていく妹の後ろ姿を見比べる。  王手がかかった気がした。  「いってきます」  「いってらっしゃい」  履き潰したスニーカーに足をもぐらせ、玄関を出る。  「おはようございます、先輩!」  家の前に聡史がいた。  「あらおはよう聡史くん。うちの迎えにきてくれたの、ご苦労さんね」  「いえ、後輩として当然の勤めっすから!」  前の通りで待っていた聡史と別れ、お袋は駅の方へ歩いていく。  「よ、聡史。今日から新学期だな」  「新学期っすね。二学期もよろしくおねがいします、先輩!」  「……だよな。やっぱそうなるよな」  「え?」  「いやさ。やっぱ俺しかいねーよな、よろしくされるの」  上手く笑えた自信は毛頭ないが、勘ぐられない程度の演技はできた。  庭から自転車をとってきて聡史と合流する。ちんたら歩く俺たちを自転車の学生が追い越してく。  「……サボりてえなあ」  「新学期早々ローテンションですね」  「このままサボっちまうか」  「え?それって二人でってことですか?」  「誰も知らない町に行きたい」  「駆け落ち……!?そんな大胆な」  「飛躍しすぎ」  会話は上の空で上滑り、聡史が隣で何かしきりにしゃべってるがまったく耳に入っちゃない。  地に足が付いてる気がしない。  スニーカーの底で踏むアスファルトの地面が現実と剥離し、やけに遠く感じる。  逃避の願望に鈍る足を惰性で動かす。  胃のあたりにしこりができる。  駅は反対方向だ。駆け戻るなら今だ。今なら家にだれもいない、飛んで帰ってスポーツバッグを持って、電車に飛び乗って知らない町へ……  家族を捨てるのか?  見慣れた通学路がよそよそしい顔を見せる。  等間隔に並ぶ電柱、塀、郵便ポスト、公園……学校に行くまでに存在するさまざまなものが、配置はそのままに、真昼の月のような他人の顔で俺を拒絶してるように思えてならない。  「あ」  顔を上げ、正面を見る。  麻生がいた。  学校へと続く長い長い坂の始点に立ち、文庫本を開いていた。  声をかけるより先に顔を上げ、こっちを見る。  器用そうな長い指でしおりを挟み、本を閉じる。  「遅い」  「ーって、お前、なんで?」  「待ってたんすか?」  眼鏡の向こうで軽蔑的に目が細まる。新学期から不機嫌そうだ。  まともに口をきくようになって四ヶ月が経過するが行きが重なったことは一度もなかった。  「別に」  そっけなく答え、先に立って歩き出すのを慌てて追う。  聡史と麻生と俺と三人で、精白のシャツの群れに紛れ、長い長い坂をのぼる。  俺たちを颯爽と追い抜き自転車の車輪が回る。  見慣れた通学路を気安い人間に挟まれて歩くうちに、萎縮した舌がいつもの調子を取り戻し、また軽口が叩けるようになる。  「江戸川乱歩の初期の名作といえばやーっぱ二銭銅貨だよな。とぼけたオチがまた憎い」  「俺は小林少年シリーズが好きっすけどね」  「乱歩は短編もいいんだよ。二銭銅貨は書生ふたりが下宿でしゃべってるだけの話なんだけど、ああでもないこうでもないと推理するうちにどんどん枝葉が広がってくのが面白いんだ」  「安楽椅子探偵ならぬお座敷探偵っすね」  「お、うまいこというな」  俺たちの会話を聞き流し麻生は本を読む。  ミステリ談義に混ざらず読書に没頭する優等生の横顔へ話をふっかける。  「麻生は乱歩読んだ?」   「ああ」  「何?」  「人間椅子はおもしろかった」  「だろ!?だろ!?名作だよな!!俺小学校ん時にあれ読んでしばらく椅子に座れなくなっちゃったんだよな~しばらく座布団ひっくりかえして裏側じっと見る癖がなおんなくて、お袋に早く食べちゃいなさいって叱られて」  「座布団は関係ないだろ」  「気分の問題」  「人でなしの恋とか。ロマンス作家だよな」  「わかる!?わかってくれる!?江戸川乱歩は猟奇推理小説で名を上げたけどその深層には純愛がひそんでるって常々思ってんだよね俺は、芋虫も見方を変えりゃ究極の夫婦愛小説だし」  「マジっすか先輩、芋虫ってあれっすよ、井戸っすよ、ドボンっすよ!?」  「最後の一行がトラウマなんだよな~」  坂が終わる。  学校が見えてくる。  門の前で足が止まる。  「先輩?」  聡史が振り返る。麻生が振り向く。  学生が門の内へ駆け込んでいく。  正面に威圧的な校舎が聳える。  深呼吸し一歩を踏み出す。  汗ばむ手で鞄の吊り紐を掴み、校内へ入る。  一年と二年は使う玄関が違う。  校舎の前で聡史と別れ、麻生と一緒に下駄箱で靴を脱ぐ。  三階、見慣れた廊下。  2-Aの表札が出た教室の引き戸の前で立ち尽くす。  引き戸一枚隔てざわめきが伝わり、足が凍り付く。  引き戸を開けた瞬間、紛れ込んだ異物を見る白けた空気と視線の集中砲火を予期する。  ボルゾイはもういるか、きてるのか、机に座ってるのか。ボルゾイの机のまわりにたむろった同級生のにやにや笑い、駄目だ意識するな全身の毛穴が膨らみ汗が噴き出す、膨張した恐怖が心臓を蝕み血中にドーパミンが拡散し妄想が暴走、イヤだ、思い出すな、引き戸に手をかけ硬直『夏休み明けが楽しみだ』ボルゾイの勝ち誇った声が耳に響く『二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ』なりたくねえ『登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる』逃げてえ『引越し先でも地獄が待ってる』いやだ『諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ』放っといてくれ『俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』  『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する』  『二学期、ちゃんと学校来い』  目を瞑る。  戸が勢いよく桟を滑る。  「!?っ、」  「突っ立ってられると邪魔。入れない」  葛藤が霧散する。  麻生が引き戸をガラリ乱暴に開け放ち、俺の尻を蹴り上げて教室の中へと放りこむ。  二学期早々、優等生の暴挙を目撃したクラスメイトが話をぴたりやめ呆気にとられ入り口を凝視する。  「麻生おまっ、ひとが真剣に悩んでる時にケツ蹴っぽって、ちょっとは空気読め……!」  重苦しく不自然な沈黙に包まれた教室へたたらを踏み転がりこむや、目を点にしたクラスメイトの顔をざっと見回し、疑問を抱く。   ボルゾイがいない。  「………え………?」  「お前ら席に着けー朝礼始めるぞー」  背後でガラリと戸が滑り、出席簿を抱えた担任が大股に入ってくる。  蜘蛛の子散らす素早さで席に戻った同級生にもみくちゃにされ、何がなんだかわからぬまま、ボルゾイの不在に安堵とも拍子抜けともつかぬ気持ちを抱き、着席。  教壇に立った担任が顎を引き教室を見回す。  「遅刻は伊集院と……六人か?なんだ、夏休みボケが抜けきらないのか?」   終業式の日、俺を襲った面々が全員いない。  「よそ見するな秋山!」  「はい!」  教室に六ヶ所点在する不自然な空席を確かめていたら叱責がとぶ。  反射的に姿勢を正し前を向く。  ボルゾイがいない。あの日俺を襲った同級生もいない、全員消えてる。  その日は点呼と始業式、簡単な連絡だけで、午前中にお開きになった。  俺の心配は杞憂ですんだ。  ボルゾイたちはとうとう最後まで現れなかった。  二学期最初の日に、まるで示し合わせたかのように、全員が学校を休んだのだ。  偶然にしちゃできすぎてる。奇跡がおこった。そうとしか考えられない。  その日は部室に寄る気になれず、真っ直ぐ帰ることにした。  俺は俺の身におきた奇跡が信じられず、醒めない夢を見ているような高揚した浮遊感の中を漂っていた。  一学期終了日と同じルートで自転車をとりにいき、秋空の下、野球部が練習にはげむ校庭を迂回する。  緑のネットのむこうではあの日と同じ光景が繰り広げられている。  バッドが鋭角に空を切る。  甲高い打撃音。  高く爽快な青空に白球が弧を描き、どよめくような歓声が湧く。  砂を蹴ってボールを追う野球部員たちを眺めながら、自転車のハンドルを握り、腑に落ちず呟く。  「ボルゾイ、どうしたんだろ」  その時の事は忘れ難い。  麻生は隣を歩いていた。  一学期最後の日と同じ距離で、自転車をちんたら引く俺の隣を歩きながら、笑った。  笑ったのだ。  「保健所送りになったんじゃないか?ボルゾイだけに」  マンションに泊まった日、俺が目撃したのと同じ顔で。  片頬歪め、吐き捨てるように。  「躾のなってねえ犬は調教しなきゃな」

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