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第27話
十月中旬、運命の三者面談。
「あんたって子はもー母さんに恥かかせて!」
俺はお袋にしばかれていた。
「いてっ、ちょ、やめっ、叩くなお袋ひとが見てる!?」
「だったら叩かれるようなことするんじゃないわよこのバカ息子、バカだバカだ思ってたけどここまでバカだと思わなかった、母さん先生の話聞いて顔から火が出ちゃったわよ!」
「ははは秋山ーパワフルな上にアグレッシブなお母さんで先生羨ましいぞー」
「先生笑って見てねーで助けて、痛てっ、頭はやめて、もっとバカになる!」
「もう手遅れだからいいのよ!バカだバカだと思ってたけど先生から成績聞いてびっくりしたわよ、なにあれ酷いじゃない、国語数学社会化学軒並み赤点補習の勢いで今にも墜落しそうな低空飛行!しかも一学期の世界史のテストでアメリカ31代大統領はだれかの問いにベルトコンベアって……ウケ狙いなの、ねえウケ狙いなの?」
「ははははベルトしかあってないぞー正解はルーズベルトだー」
二年もなかばが過ぎて本格的に秋に突入すると気の早い奴は将来の進路についてそろそろ真剣に検討しだす。
俺の通う高校は進学と就職が半々ずつの割合だが前者はここらで志望校をはっきりさせて受験の助走に入る。
そういうわけで三者面談が持たれた。
十月中旬という半端な時期にずれこんだのはこける時でも前のめり死ぬ時は前屈みと喧伝して憚らぬ、三十七になるこの年まで童貞を死守したともっぱらの評判な、早漏と書いてせっかちと読む担任の都合および他クラスとのスケジュール調整の結果らしい。
俺の担任は悪い人じゃないんだけど、なんというか、あれだ。とてもあれだ。
空気が読めないというか、平気で生徒の人権を無視して踏みにじり時として出席簿で脳天はたく体罰上等な学年主任という名のヤクザな暴君である。
危惧は現実のものとなった。
案の定ふたりは初対面から意気投合で暴走し、俺がいかに授業中爆睡してるか家でゲーム漬けか時間が余ったらテスト用紙の裏に落書きしてるかに始まり、過去テストで職員室の笑いをさらった珍回答(問 過酸化水素水に二酸化マンガンをいれると何ができる 答え・泡 正解・酸素)を披露し椅子から転げ落ちんばかりに爆笑、したとおもったらこれだ。
面談終わって一歩教室の外に出た途端、俺は面談待ちの親子の注目と失笑に晒されつつ般若に豹変したお袋に説教と折檻をくらってる。
とても理不尽。
待遇改善を要求する。
「本当にもーこの子は……せっかく受かった高校で授業中大半寝て過ごしてるってどういうこと?母さん哀しい」
「まあまあお母さん、秋山にもよくよく捜せばいいとこありますから」
「よくよく捜さないとないんすかいいところ」
「テストの珍回答には毎度笑わせてもらってるぞ。お前の採点の番になると職員室中から待ってましたと先生方が寄ってくる」
「ひとのテスト見世物にすんな!プライバシー侵害!」
「五十点の大台突破した時は自然と拍手が湧いた。校長なんて感極まって泣き出す始末」
「校長まで!?だめだこの学校、しかも五十点台で大台認定ってどんだけバカ扱いなのさ俺!?」
「透、あんたって子は先生にむかってなんて暴言を……」
「イタイイタイ、耳引っ張んな!?いやだってお袋今の聞いたっしょ、聞いたよな、息子のテスト職員室中で見世物にされてんだけど心痛まないの、腹を痛めて産んだ息子笑いものにされて怒んねーの!?」
「あんたがまともな答え書けばいいだけでしょ」
正論。お袋に耳をつねられがっくりうなだれる。
意気消沈する俺をよそに担任とお袋の会話は続く。
「いや、今日はお忙しい中とんだご足労を。お仕事の方は?」
「気になさらないでください、私も貴重なご意見が聞けてよかったです。うちじゃ学校のこと全然話してくれなくって……」
「高校生なんてどこもそんなもんですよ。ま、秋山はクラスの連中ともうまくやってるんで心配しないでください」
二学期からだけど。
頬に手を添え憂鬱なため息吐くお袋に担任はフォローをいれる。
「授業態度がふぬけで成績が悪い以外は特に問題も見当たりません。お調子者で人懐こいし、クラスの連中にも好かれてますよ」
二学期からだけど。
今度は担任がため息吐き、含みありげな目つきで俺を見る。
「これでもうちょっとやる気出してくれたらなあ……仮にも入試じゃ上位十番以内に入ったんだ。まぐれ合格って言われたら悔しいだろ」
「いや別に。プライドないんで」
「やればできる子なんですけどねえ」
「やらないんだよなあ」
お袋が深く頷き同意を示す。息子の事がよくわかってらっしゃる。
基本人の話を聞かない人たちの会話に混ざるのはむずかしい。諦めてそっぽを向く。
「あ」
教室の外、いくつか並んだパイプ椅子のひとつに見覚えある生徒が座っている。
姿勢正しく、一番手前のパイプ椅子に腰掛け文庫本を読んでいるのは麻生だ。
三者面談は出席簿順で行われる。
だから俺の次は必然並びが後ろの麻生となる。
それ自体は何の不思議もないが、一方で違和感を覚える。
原因はすぐ判明した。麻生の隣、本来保護者で埋まってるはずの椅子が空だった。
麻生の後に控える生徒はいずれも保護者と並んで和気藹々雑談してる。
保護者を伴わずさも当たり前な様子で一人腰掛ける麻生は奇異に映った。
お袋と担任はまだ話し込んでる。
声をかけようとしてやめ、少し離れて観察する。
「ほんと親から見てもいいかげんな子で……家じゃ妹の面倒よく見てくれるんですけど、自分の事となると全然」
「進路はまだ決まってないそうですが」
「そうなんですよ、あんたなんかしたいことあるのって聞いても生返事ばっかで……頼りないったら……」
麻生は本から顔を上げもしない。
俺の視線と周囲の雑音も意に介さず、食い入るようにというほど熱心でもなく、かといってつまらなそうというほど投げやりでもない速度と態度でページをめくる。
麻生とひとつ隔てた席では順番待ちの生徒が母親と冗談言い合って笑ってる。
「じゃ先生、これからもよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそお願いします」
お袋がハンドバッグを両手に持ち丁寧に頭をさげる。
最後だけ教師の本分に立ち返った担任が鷹揚に笑って会釈、室内履き用サンダルの扁平な靴音も間抜けに教室にとって返す。
お袋につられ頭をさげながらも目は自然と横に流れていた。
「帰るわよ、透」
お袋が気忙しく踵を返す。これからパートにでかけるのだ。
しかし俺はその場から動けない。
「ああ」とも「うん」ともつかぬ生返事をしつつ、階段の前で立ち去りがたく立ち竦み、椅子のひとつを注視する。
「なに見てんのよ……あら」
お袋が怪訝な顔をする。
眼鏡越しの知的な双眸を伏せ文庫本を読む麻生に惚れ惚れ見入るさまに邪推が働く。年甲斐もなくミーハーなお袋のことだ、息子の同級生にフラチな関心を示すのは十分ありえる。
お袋はしばらく頬に手をあてしげしげと麻生を眺めていたが、思案げに口を開く。
「あれ、ひょっとして、あんたが言ってた友達の……麻生くん?」
「話したっけ?」
「話したわよ。いつも本を読んでる、勉強がよくできる、優等生の……あんたがミステリ同好会とかわけわかんない部活にむりやり引き込んだ」
「訂正しろ。いくらお袋でも今の発言は許せない、ミステリ同好会はわけわかんねー部活なんかじゃねー古今東西の推理小説を読み漁って優劣を議論する高尚な目的をもった」
「寂しそうね」
「え?」
気遣わしげな面持ちで意外な台詞を吐くお袋。
振り返り、麻生を見る。
母親と生徒が二人一組で席を埋め、呼ばれるまでの時間潰しに友人関係を詮索したり担任の人となりを事情聴取したりと他愛ないおしゃべりに興じる廊下にあって、そこだけ時間の流れ方がちがっていた。
階段の前で立ち止まり、一人椅子に座る麻生に視線を注ぐ。
「お袋、俺」
「一緒にいてあげなさい」
皆まで言わせず力強く頷く。
厳しさと優しさが入り混じった表情が柔和にほどけ、目尻と口元に皺が浮かぶ。
「………サンキュ」
無言で叱咤し促すお袋に片手を挙げる。
お袋が背中に手を振ってるのが見なくてもわかった。
さすが俺のお袋、話がわかる。
階段前でお袋と別れる。
一旦教室に引っ込んだ担任が引き戸を開け、太い濁声で「麻生!」と呼ぶ。
麻生が本を閉じ腰を浮かし、教室へ消える。
再び引き戸が閉まり、廊下に静寂が戻る。
座っちまおうか一瞬迷ったが、生徒と保護者のために用意された椅子を面談済みの俺が不法占拠するのは気が引け、薄っぺらい鞄を小脇に抱え引き戸の横の壁に寄りかかる。
時間潰しに鞄の中をさぐり、読みかけの文庫をとりだし、栞をはさんだページを開く。
「麻生、おまえ……親御さんは?」
「来ません」
「来ませんてな……都合が悪かったのか?面談、今日だって話したろ?連絡行ってないのか」
「さあ」
「さあってな……三者面談で保護者がこなくてどうする、これじゃ二者面談だろ」
盗み聞きはよくない。
担任の地声がでかいのを失念していた。これじゃそのつもりがなくてもでばがめだ。
壁沿いに移動しようとして、麻生の乾ききった声が偶然耳に入った瞬間、足が止まる。
背中を付けた壁から困惑の気配が伝わる。
やや間をおいて、対処に困りかね担任が口を開く。
「あー……成績についてだが、特に言うことはない」
「そうですか」
「進路は考えてるか?お前なら地元じゃなく東京の大学も狙えるぞ。早稲田とか慶応とか……」
「どうでもいいです」
「どうでもいい?」
「興味ありません」
「自分の進路だろう」
担任が途方にくれる。
盗み聞きの後ろめたさと先を聞きたい欲求とがせめぎあい、手がページの前後を行き来する。
「お前の成績なら進学を勧める。体育は……なんだ、今まで一度もまともに出てないのか。全部見学。どっか悪いのか?」
「別に。……高校生にもなって跳んだり跳ねたり校庭十周したりするのばかみたいじゃないですか」
服の下にちりばめられた情事の烙印、無数の痣と傷とロープのあと。
「……体育はおいといて、それ以外は殆どパーフェクトの出来。自信をもって推薦できる。正直、地元に埋もれさせるのが惜しい」
おお、担任が担任みたいなこと言ってる。ちょっと感動。
「お前はどうだ。興味ないと言ったって、当然進学を考えてるんだろ。希望はどこの……」
「先生」
担任を呼ぶ。
「俺、一年後の自分がどこでなにしてようが興味ないんですよ」
刹那的で厭世的、他人行儀な言い方。
現在と将来を完全に別物として切り離し考える、一年後の自分を価値観の断絶した他人と割り切る人間の言い分だった。
超然とした態度に鼻白むも、一瞬言葉に詰まった担任が語気を強め説き伏せにかかる。
「……だがな麻生、そろそろ二年も終わりだ。進学考えてるなら本腰入れて準備したほうがいいし、親とも相談したほうが」
「帰っていいですか」
「駄目だ」
「そうですか」
「本を開くな。担任を無視して読書とはいい度胸だな」
「時間を有意義に使いたいんで」
忍耐力が一分一秒と削ぎ落とされてくのが怒気と威圧膨らむ声から伝わりこっちがはらはらする。
形だけ本は開いてるが、内容がちっとも頭に入ってこない。
視線と意識は活字を上滑りし、耳は引き戸の内の会話を捉えようと鋭敏に研ぎ澄まされていく。
緊張に突っ張る指先でページをめくる。
読書で鍛えた想像力が悶々と膨らむ。
引き戸を閉めた教室の中の光景を想像する。
机を隔て向き合う麻生と担任。
担任は腕組み苛立ち貧乏ゆすりを始めるも麻生は退屈そうに机の一点に視線を投じる。
麻生の隣に用意された椅子は空。
時折担任が空席をいましましげに睨み、腕時計を一瞥しては舌を打つ。
秒針が時を刻むごとにフラストレーションの重圧と緊迫感が高まっていく。
喉が渇く。
ページをめくる指から感覚が失せる。
弾まぬ会話。
適当な相槌。
担任が時間稼ぎに投げかける質問に、麻生は熱の入らぬ、愛想のない、それでいて要点を的確に掴んだ非の打ち所ない答えを返す。
全く付け入る隙を見せない優等生。息詰まる時間。
「…………来ないな」
二十分も辛抱強く待っていただろうか、貧乏ゆすりに飽きた担任が痺れを切らす。
「どういうことだ、麻生」
「多分、興味がないんですよ」
「三者面談にか」
「俺に」
卑下でも自虐でもなく客観的に事実を語っていた。
心底どうでもよさげな言い方に、冷たい手で心臓を掴まれた気がした。
担任が絶句する。
ガタンと椅子が鳴る。麻生が椅子を引く。
「帰ります」
引き戸の隙間から覗けば、麻生が鞄を取り上げ、担任に軽く会釈してこっちにやってくるところだった。
「待て麻生、話はまだ終わってないぞ!」
勝手に面談を切り上げ麻生が近付いてくるや、退出寸前に引き戸の前からとびのき、背中を壁に密着させる。
引き戸の横手の壁に張り付いた俺を横目で一瞥、麻生の横顔にかすかな驚きの波紋が広がり、次いで不審げに眉をひそめる。
「いたのか?一番最初に終わったろ」
「……一緒に帰ろうとおもって」
「物好きだな」
自分を待ってる人間がいるなんて思いもよらなかったみたいな反応に、なぜか胸が痛む。
物好きを珍しがるように呟き、担任の怒号にあっさり背を向け、麻生は階段を降りていく。
頭に血が上った担任が追っかけてこないうちにと急いで続く。
下駄箱でふたりそろって靴を履きかえるあいだも学校を出る間も無言だった。
お袋の姿はもうなかった。
秋の夕暮れは早い。
見渡せば通学路の左右の荒地に生い茂る雑草も勢いを失い、背丈の高いススキが混じっていた。
使い古しの箒さながら不揃いに毛羽立ち夕空を掃くススキから、隣を歩く麻生に目を転じ、盗み聞きの後ろめたさを払うようにして快活に笑う。
「あーやだやだ、参っちまった!三者面談とかほんと最悪。テストの珍回答まで暴露されちゃってさ、便器に頭突っ込んで尻隠さずな心境」
「ホントに突っ込めば。エコー返るから寂しくねーだろ」
「抜けなくなるっての。お袋もさー、いい年こして厚化粧で若作りしちゃって、ちょっとは息子の気持ち考えてほしいよ」
「廊下で話してたの、母親?」
「そ。普通のおばさんだろ」
「普通だな。どこにでもいる感じ。顔似てた」
「え、マジで?そうかな?お袋と妹は似てるけど、俺が言われたの初めてかも」
「目元のあたりが」
「うち両方ともお袋似なのかな」
どうでもいいことをだらだら話しながら麻生とふたり帰途をたどる。
片側には廃工場の長く殺風景なコンクリ塀、片側には廃車が放置された野原の斜面が続く。
茜色の空と枯れた情景の対比が哀愁と感傷を誘うも、普段どおりお調子者で明るい道化を演じて喋り続ける。
一方で頭を働かせ、少しでも麻生を楽しませよう笑わせようと試行錯誤しては空回りする俺がいた。
なんで親、来なかったの?
それとなく聞けば案外軽く答えてくれるのかもしれない。
だが聞けない。
いくら空気を読まない俺でも、こいつが守る線の内側に踏み込むのは勇気がいる。
だからなるべくどうでもいい、境界線に接触せずにすむ、関係ない話題を採用する。
核心を迂回して迂回して、こいつがちらりとでも笑ってくれるなら、ばかだなあと苦笑いしてくれるならそれで俺は救われる。盗み聞きの罪が帳消しになるような錯覚にとらわれる。
「俺の妹さ、真理っていうの」
「ああ」
「透と真理」
「だから?」
「わかんね?」
タイヤが小石をのりこえ反動がハンドルを通し手に伝わる。
「かまいたちの夜。主人公、ヒロインと一緒。初プレイで運命感じた」
麻生は理解不能という顔をする。
なんだ、その顔。ウケ狙いで滑ったか。
後悔するも、宙ぶらりんの沈黙をおそれて独りよがりな饒舌を糊塗する。
「今度貸そっか?我孫子武丸監修だけあってばかにしたもんじゃないぜ、トリックも本格だし……ウケ狙いの選択肢えらぶと死亡フラグ立つけど。釜井たちの夜は爆笑もの。いちおしはスパイ編。通算三十回プレイしてもピンクのしおりにならなくて聡史に泣きついた苦い思い出が……」
「……………」
「………何か話せよ」
虚しさに閉口する。
西空が夕焼けに燃える。
五線譜のような電線が撓って、管楽器の弦を弾くような甲高く哀切な音をたてる。
風が出てきた。寒さに身を竦める。そろそろコートを出す季節だ。
空から吹きおりた乾いた風が電線をかき鳴らし髪をかきまぜ、斜面一面に生い茂るススキを薙ぐ。
風が吹くや斜面を覆うススキが一斉に平伏、ざわめきに乗じて波紋が広がりゆく。
乾燥した空気をおもいっきり吸い込めば、不燃焼のおが屑を敷き詰めたみたいに胸と喉がとげとげしくかさつく。
正面から吹く風に晒され急き立てられるように次の糸口をさがし、思い定まらず口を開く。
「お前さ、なんでゆずるっていうの」
麻生を下の名前で呼ぶのは初めてだ。
口に出す時、若干緊張した。
本人は気にした素振りもなく歩き続ける。
無視されむきになり、小走りに追いついて図々しく顔をのぞきこむ。
「似合わねー謙虚な名前。譲ってかんじじゃねーよ、絶対」
笑い話のつもりだった。
あんな答えが返ってくるなんて予想もしなかった。
「母方の伯母が不妊症なんだ」
自転車を引く手がかじかむ。
離れかけた靴裏が再び地面を踏む。
強い風が吹く中、顔を伏せがちに歩きながら乾いた声で続ける。
「産んですぐ譲ろうと思ったから譲」
電線が撓む。
「……………………え?」
聞き違いかと思った。
風があんまり強く吹いていて。だから、聞き違いかと本気で訝しみ疑った。
多分願望だった。聞き違いであってほしいという祈りだった。
乾いた草と土の匂いを含んだ風が枯れ草を無体に蹂躙し、何かの兆しのように野原がさざなみだち、空を横切る電線が引き絞られた弦の如く軋み撓む。
固い唾を飲みくだし、背中を向けた麻生に追い縋り、口角を釣る不誠実な笑いで茶化す。
「は、はは。冗談キッツイ。なんだよ、それ」
「信じなくていいけど」
「………本当なのか」
「子供をほしがってたから譲ろうとしたんだけど、養子を貰っていらなくなったんだとさ」
いらなくなったとかいうな。
咄嗟に言い返そうとして、込み上げた言葉が詰まる。
自己憐憫でも自己嫌悪でも自虐的な開き直りでも、口調に一片の感情ないし感傷が含まれてるならまだしも救われた。
麻生の言葉はただただ乾いていた。
十月の風みたいにそれ自体は殺伐と乾ききっていても、聞く者の胸に熾き火を燻す。
自分の一部ごと痛みを切り離し忘却する、風葬の、声。
「…………………」
色々な事をひとつひとつ思い返し腑に落ちた。
家族の気配のないだだっ広くからっぽなマンション、毎日コンビニ弁当か外食、面談にとうとう現れなかった親、理由を問われ「興味がない」と卑下でも自嘲でもなく客観的主観的事実として回答する麻生、親子が二人一組で控える廊下でたったひとり椅子に腰掛け本を読む姿……
『寂しそうね』
麻生を見て、お袋は言った。
「なんでお前が泣きそうなんだよ」
弾かれたように顔を上げ、前を向く。
五歩先で体ごと向き直った麻生が、白けた顔でこっちを見ていた。
自分が今どんな顔してるかなんてわからない。
ハンドルを握る手に力がこもって、俯いた顔が紙みたいに歪んで、瞼が熱を帯びて、胸から喉にかけて塞ぐ鬱屈を吐き出したい衝動が燃え広がる。
突如身の内に湧いた感情を持て余し、どこに捌け口を求めていいのかわからず硬直する俺と対峙し、地面に長く影を従えた麻生がそっけなく呟く。
「同情されたくない」
夕映えの逆光に塗り潰され、世の中の善意を軒並み塵芥同然に掃いて捨てるような表情だった。
冷たい秋風を受けてひとり立ち、ここから先は来るなと線を引くように毅然と突き放す麻生に対し、理不尽な怒りと切なさに駆られ吐き捨てる。
「同情じゃねえ」
「じゃあなんだ」
「時間差トリック」
瞼が熱い。
涙腺がゆるむ。
うっかり気を抜くと洟汁が垂れそうになる。
何も知らない俺が泣くのは卑怯だ。
名前の哀しい由来を聞かされて、それだけで事情もよく知らず泣き出すのは卑怯だ。
わかってる、理屈じゃそうだ。
なのになんで瞼が熱く震える、なんで目がよく見えない、視界が不透明に曇る。
俺は麻生の事を何も知らない。
どういう環境で育ったのか、なんでマンションで一人暮らししてるのか、なんで三者面談に親が来なかったのか背景の家庭を知らない。
少年期を悼む喪服じみて黒く潔癖な制服の下、全身の痣と傷痕の理由さえ知らない。
何も知らないから、麻生の親を安易に非難も批判もできない。
来たくてもこれなかったのかもしれない、急に用事ができたのかもしれない、たまたま連絡がとれなかっただけかもしれない。
そうであってほしいと願う、心から。
でも
「子供の頃のお前の分も泣いてんだ」
産んですぐ譲ろうとおもったから譲。
今までの人生で、誰か、麻生の名前を愛情こめて呼んでやった人はいるんだろうか。
下の名前があると、気付いてる人間がどれ位いるんだろうか。
俺だって今の今まで、話題に窮して由来を聞くまで、麻生の本当の名前を忘れかけていた。
自分に失望した。
酷く薄情な人間になった気がした。
それ以上に、哀しい名前の由来をつまらない本の話でもするように言ってしまう麻生がやりきれなかった。
風が凪ぎ、野原に広がる漣がかすかな囁きだけを残し静まっていく。
茜の上澄みに薄墨が混じり始めた寂寥とした夕空の下、坂のど真ん中でハンドルに突っ伏し嗚咽を堪える俺の方へ舌打ちひとつ影が歩いてくる。
「顔あげろ」
言う通りにするや、何枚かまとめたティッシュで強引に洟をかまれる。
「!もがっ」
「垂らすな」
優しさのかけらもない、ひたすら煩わしげな手つきでやすりでもかけるみたいに鼻を擦られ、むずがゆさに勢いくしゃみをする。
「っくしゅ、」
「変な顔」
ティッシュを裏返し、できるだけ綺麗な余白でついでとばかり鼻まわりをごしごし拭く。
使用済みティッシュをさも嫌そうに見下ろすや始末に困り苦渋の決断、慎重に厳重に丸めて学ランのポケットに突っ込む。さすがにポイ捨ては抵抗あるらしい。
ティッシュをつまむようにしてポケットにしまい、麻生は辟易と言う。
「高校生にもなってくだらねーことで泣くな」
「くだらくなんかねえ」
即座に言い返せば、眼鏡の硬質レンズの奥からどうしようもない馬鹿を哀れむ眼差しが返る。
「救いようないお人よしだな」
まわりに人がいなくてよかったと安堵する。道のど真ん中で体格も大して変わらねえ同級生に鼻をかまれてるところを見られちゃさすがに気恥ずかしいしばつが悪い。
聡史に目撃された日にゃ二度と先輩といばれなくなる。
「待てよ、あ………」
名前を呼びかけ、地面を蹴って軽快に走り出そうとして、ふと迷う。
「何?」
まだ何かあるのかと露骨に迷惑そうに振り向く麻生に対し、「強くかみすぎだよ。赤ん坊の尻拭くようにソフトリーフレンドリーに頼む」と冗談めかせば「次はない」と断言される。
赤く染まった鼻の頭をこすりながら麻生の背中を追いかけ、いざとなると恥ずかしさが勝り、「譲」と呼べない臆病な自分を呪う。
俺が付いてこようがきまいがかまいやしないとそっけない背中を見詰め、心の中で漠然と思う。
麻生を下の名前で呼ぶ最初の人間になりたい。
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