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第28話
翌週、麻生が学校を休んだ。
「誰か麻生んち知ってるかー」
長い一日も終わり、ホームルームを迎えた教室に弛緩しきった空気が蔓延する。
放課後どこへ寄るか部活に出るか机に突っ伏し椅子に寝そべりだらけきってだべりあう生徒のうち担任の話に耳を傾ける物好きは少数派、その少数派もまともに聞いてるわけじゃない証拠に前後左右の友達とつつきあって笑ってる。
「麻生んちなんて知らねーよ、人嫌いで秘密主義な優等生だもん」
「地元じゃねえよな、ふらついてるの見ねえし」
「ひきこもりじゃねーの?学校帰ったら家から一歩も出ねえでゲームと本漬け」
「ありうる!」
「ネクラ眼鏡はオタクって決まってるもんな!」
同級生がウケる。爆笑が巻き起こる。たえまない私語に偏見から捏造された噂が混入、なかば公認の事実として流布する。
決して集団に染まらぬ麻生に対し、その容姿と成績の良さも手伝って反感を持ってるヤツは多い。
普段は表にこそ出ないが、本人が欠席するなり謎に包まれたプライベートをネタにした様々な憶測が飛び交う仕様だ。
「塾とか行ってんじゃねーの。じゃなきゃ成績維持できねーべ」
実力だよ。
「ばかにした目つきで人のこと見下して、前から気に入らなかったんだよな」
自意識過剰、被害妄想。
「せっかくこっちから話しかけてやっても本読んで無視しやがって……ずっとこなけりゃいいのに」
逆恨み。
クラスに馴染まぬ異分子に根強い反発を抱く連中が本人の不在を理由にここぞとばかり不満を吐き出し中傷をおっぱじめる。
俺は席に座ったまま、机の上で拳を握り締め、クラスの連中が麻生を悪く言うのを自制心を振り絞って聞いていた。
「うるさいぞお前ら。で、麻生んちにプリント届けてほしいんだが……」
「むりっすよセンセー、あいつトモダチいねーし」
お調子者が椅子をがたつかせ机を蹴り教室がどっと沸く。
「言えてる、誰もあいつんちなんか知らねーよ!」
「どこに住んでるか聞いたこともねーし」
「ホームレス高校生だったら笑えるよな。河原でダンボール生活」
「地元じゃねえならむりっすよー。俺、このあと予定あるし」
「北高の佐奈ちゃんとデート?てめっ、俺が紹介したのに横取りしやがって!!」
ホームルームの体をなさぬ喧騒の混沌の中、担任は困惑気味に眉根をかき、片手のプリントを持て余す。
「あー……いないんなら仕方ないな……」
「行きます!」
ガタンと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がれば、ざわめきが途切れ注目が集まる。
まさか有志が立候補するとは思いもしなかったのか、麻生を笑っていた同級生が呆気に取られる。
椅子に反り返り笑っていた中の一人が大股開きでひっくり返る。ざまあみろ。
「俺が行きます。家、知ってるんで」
まっすぐ担任を睨みつけ、一言一言切りつけるように言う。
「物好きだな、秋山」
野次をとばした隣の席の生徒を文句あるかと尖った眼光で一瞥、閉口させる。
乱暴に椅子を引き、物珍しげな視線を独占しつつ憤然たる大股で突っ切り、教壇を隔て担任と向かい合う。
「プリントください」
傲然と顎を引き、立場逆転したかのように強い語調とともに右手を突き出す。
俺の手に三日分溜まったプリントの束をのせながら担任が歯切れ悪く聞く。
「秋山……お前、麻生の友達なのか」
同級生が興味津々俺の返事に耳をすませている気配が伝わる。
「友達です」
高校で初めて出来た、を付け加えてもいい。
教壇に向かい立ち、挑むように担任を見据え宣言すれば、背後で爆笑と野次と口笛とが巻き起こる。
高校生にもなって臆面なく友達なんて口にするやつはさぞかし新鮮で滑稽だろう。クラスを敵に回し麻生を擁護した俺の言動はそれだけ奇矯で目立つ。
「熱いね、お二人さん!」「いつからそんな関係になったんだ」「あやしいと思ってたんだよな」「ほら、俺の言ったとおり、できてただろうあいつら」……言いたいだけ言わせとけ。
「やかましい腐ったみかんども、皮剥くぞ!!」
唾しぶく距離で豪快に大喝がとぶ。
爛々と光る三白眼をカッと見開き、教壇を平手で殴打すると同時に一喝すれば、極道まがいの強面の迫力に教室中が静まり返る。
椅子からずりおちたかけた姿勢で硬直する生徒を剣呑な眼光で黙らせ、威儀を正して俺の手にプリントを渡す。
そして。
咳払いがてら、照れくさげに口を開く。
「頼む」
「はい!」
とびっきりの笑顔で元気よく首肯する。
俺の担任は悪い人じゃない。ちょっと鈍感だけど。
電車に揺られ五駅、麻生が住む町を二ヶ月ぶりに踏む。
「麻生先輩が欠席なんて珍しいですね。風邪っすかね、最近急に寒くなりましたし」
「別にお前まで来なくてもよかったんだぞ。友達と遊ぶ予定とかねーのか」
「先輩を一人で行かせるわけにはいきませんし」
謎の使命感に燃えて拳を握る聡史の背後にめらめらと気炎を幻視、執念にちょっと引く。
駅を降りて夏休み歩いたルートで目的地に向かう。
景色の記憶を頼りに五分も行けば白亜の壁が清潔で瀟洒なマンションが見えてくる。
「駅から近くていいな、ここ」
駅前は地価が高い、家賃が気になるところだ……前も言ったなこの台詞。つくづく俺はせこい。
自動ドアを抜けいざ広壮な吹き抜けのホールへ。管理人は常駐してないようだ。その分セキュリティがしっかりしてる。監視カメラに見張られながら奥のエレベーターに乗り込み、ボタンを押そうとして聡史を仰ぐ。
「……何階だっけ」
「八階です」
心強い後輩。一緒に来てよかったと心の中で感謝する現金な俺。
エレベーターはすぐ八階に着く。
勝手知ったる他人のマンション、聡史も俺も遠慮はしない。
夏休みに外泊してからもう二ヶ月経過してるが当時と内装は変わってない。
麻生が突然学校に来なくなった。
まめに携帯をチェックしてるが、メールは一通も入ってない。
同じクラスになって以来こんな事は初めてだ。
ただの風邪だと自分に言い聞かせささくれる気持ちを宥めても、欠席が三日も続けば想像は不可抗力で悪い方へと傾く。
麻生の身に何かあったのか?
マンションに外泊した日に偶然目撃した裸身がくりかえし浮かび上がる。
情事の痣と束縛の痕と煙草の火傷、陵辱と虐待の痕跡明らかな裸。
臆病で腰抜けな俺は、あの痣と痕の理由をとうとう聞けずじまいだった。どうしても聞けなかった。口に出した途端俺と麻生の間を繋ぐ細い糸があっけなく断ち切れてしまいそうで、月日を積み重ね危機を乗り越え漸く縮まり始めた距離が開いてしまいそうで聞くのに抵抗があった。
麻生の欠席が傷痕と関係あるというのは思い過ごしか。
思い過ごしであってほしいと願う。
俺がぐずぐずタイミングを逃したせいで手遅れになっちまったら……
「あ」
「ぶっ」
お約束の接触。
前を行く聡史がいきなり立ち止まったせいで背中に顔面から激突。
鼻の頭を赤くし、先輩をさしおいてやたら上背があり体格の頑丈な後輩を恨む。
「なんだよ聡史、急に立ち止まって……」
「先輩、あれ」
聡史が目で促す方向に向き直り、眉根が寄る。
今しも麻生の部屋のドアが開き、見慣れぬ黒背広の男が出てきたところだ。
「お客………?」
年齢は三十代半ばから後半、苦みばしったいい男。
整髪料で几帳面に撫で付けた髪をオールバックに纏めている。
知的な双眸、彫り深い顔立ち、紳士的な振る舞い。物腰は礼儀正しく洗練されている。
写真を見せられ職業を問われれば「秘書」と即答しただろう。
糊のきいたスーツを端正に着こなす男に続き、ドアから出てきたのは麻生。
三日ぶりに顔を見てほっとするも、本人の顔色はいまひとつ冴えない。
表情は険しいというほどじゃないが、かすかに眉をひそめ迷惑そうにしている。
「私はこれで。今月分の生活費は口座に振り込んでおきましたので」
「電話で済む連絡、わざわざ伝えに来なくていいから。あんただって暇じゃないだろ」
「仕事のうちですので」
「生存確認して来いとでも言われたか?」
言いよどむ男を皮肉る。砕けた口ぶりから年月を経た知己と推察した。
「残念だけどまだ生きてるよ」
「譲さん、その言い方は……唯さんだって心配してるんですから」
「あの人が?三年は顔見てないけど」
「譲さん、仮にも親にむかって」
親?
「他に必要な物、欲しい物は?」
「何も要らない。帰ってくれ」
気遣う男を煩わしげにあしらう。
スーツで決めた年嵩の男を十七か八のガキがそうして顎で使うさまはめちゃくちゃ傲慢で不遜だった。推理小説にはたびたび登場するが現実ではついぞお目にかかったことない後見人の呼称が断片的な会話から浮かぶ。
何か言おうとして飲み込み、男が恭しく頭をさげる。
敬意を払い一礼する男を見下ろす麻生の目は、眼鏡の奥で無関心な低温を保つ。
男が踵を返し、こっちに歩いてくる。
すれ違い際、肩が軽く触れる。
「失礼しました」
「あ、いえ、こっちこそ」
ぼけっと突っ立ってた俺らが悪いのに謝罪をかねて会釈されかえって恐縮。
男が乗り込んむやエレベーター円滑に降下を始める。
聡史と一緒に廊下に立ち尽くし、稼動再開したエレベーターを呆けて見送る。
非友好的な態度で男を送り出した……事実に沿って言えば追い払った麻生は、腕組みをほどき、何事もなかったように玄関に入りかけ
倒れる。
「麻生!?」
「大丈夫っすか、先輩!!」
スローモーションのような一瞬。
ドアに隠れかけた体が不安定に傾ぎ、膝から一気に力が抜け、前髪が風圧で浮く。
ドアに凭れるようにしてへたりこんだ麻生に、聡史とふたり血相かえて駆け寄る。
鞄の金具をカチャカチャ言わせ駆け寄るや聡史と手分けして肩を貸し玄関にひきずりこむ。
塞がった手の代わりに行儀悪く足でドアを閉め、突如昏倒した麻生を上がり框に転がす。
「おま、いきなり倒れんなよ、心臓が保たないって……隣のマンションからゴルゴ13に狙撃されたかと思ったろ」
「すごい熱っす」
仰向けに寝転がった麻生の額に手をあて、聡史が深刻そうに呟く。
即座に手を引っ込めるや、熱く荒い息を吐く麻生にごくごく正論な説教かます。
「こんな熱出してんのに呑気にお客さん迎えて何やってんすか、病院は、保険証どこっすか!?」
「病院は……イヤだ……」
「子供っすかあんた!!」
キレた。
怒りに任せて二人称があんたになってるが、一応先輩だということは忘れてないのか、砕けた敬語混じりの支離滅裂な口調で難詰する。
「聞き分けないこと言ってないで保険証出してください、先輩が自分で動かないから俺がとってくるからせめて場所だけ教えてください!」
「知らない」
「知らないって、知らないで今までどうやって暮らしてたんすか!」
「風邪ひいたらどうしてたんだ?」
「……寝てた……」
「「免疫力に頼りすぎ!!」」
朦朧と寝言をほざく麻生に呆れるやら仰天するやら。
聡史は立腹極まって頭から湯気ふきそうな勢いだ。
気持ちはよくわかる、俺だって今非常に対処に困ってる。
様子見がてらプリント届けにきてみたら同級生が高熱発して玄関先で倒れる現場に出くわして後輩ともどもパニック状態、しかも今上がり框で死にかけてる病人は自分の保険証のありかも知らねえととんちきで非常識な申告をしやがる。
「~下々が羨むマンションで一人暮らししてるくせに生活能力おそろしく低いな、保険証と印鑑と通帳の場所だけは覚えてろよ!」
薄々思っていたが、今確信した。頭はいいんだろうが社会性が致命的に欠落してる。
俺と聡史がタイミングよく現れなかったら玄関先で死んでたんじゃねーかコイツ、死体の第一発見者にならずにすんでよかった。警察での事情聴取は一度体験してみたかったけど。
「聡史、お前はそっち持て。靴脱がしてベッドに運ぶ。えーと、寝室は……どっちだ?ソファーでいいか」
よくできた後輩が指示に従い手際よく靴を脱がす。
麻生を間に挟んで三人六脚の要領でえっちらおっちら危なっかしく廊下を進み、横手の扉を開け放ち、リビングへなだれこむ。
こんな事態を想定して同伴したわけじゃないが聡史がいて助かった。
俺も一応男だがこの通り貧弱な痩せっぽち、生白い坊やで腕力はからっきし。肉体労働には向かない。もし俺一人でのこのこ訪ねていたら、麻生は玄関からリビングに引きずられる過程の段差で体の至る所を殴打し痣だらけ傷だらけコブだらけで眼鏡も割れていた。最悪俺が麻生を死体にしていた可能性もある……笑えねえ。
聡史と手分けして麻生を担ぎ、なんとかソファーの片方に寝かせる。
「先輩、どう、どうしましょう?」
「どうどう、落ち着け聡史。ひっひっふー、ひっひっふー」
「ラマーズ法っすよそれ、なに産ませるつもりっすか!!」
「よし、ツッコミ顕在。まずやることは……麻生、薬はどこだ?」
「全部飲んだ」
病人役に立たねえ。
「ドラッグストアで買ってきます!」
「頼む!」
リビングをとびだし床踏み抜かんばかりに猛然と玄関へ直行、靴を履くのもそこそこに転げ出る。
聡史が外出したのをドアの閉まる音で確認、閑散と殺風景なリビングを見回し舌打ち、ソファーに横たわる麻生に背を向けキッチンへ。
テーブルを迂回し台所に行き、冷蔵庫の扉を開ける。
案の定からっぽに近い状態で失望。
「……卵と生姜の調達も頼めばよかったな……」
後悔すれども遅し。
扉を閉じ、今度は冷凍庫の引き出しを開ける。大量の氷が自動的に精製されていた。
アイスボックスの氷をスコップですくってビニール袋に入れ、蛇口を捻り、水で満たせば即席の氷嚢のできあがり。
氷水でたぷつく氷嚢を持ってリビングに行き、苦しげに胸を波打たせる麻生に聞く。
「タオルどこ?」
「…………………部屋……」
喘鳴に紛れ、掠れて弱々しい声で教える。
リビングを出た足で廊下を歩き、ちょうど向かいのドアを開ける。
電気が消えてるせいで中は薄暗い。
麻生はここで寝起きしてるらしく、だだっ広く空疎なリビングと比較しいくらか生活感があった。それさえ誤差の範囲内だが。
電気を点ける手間も惜しみ中に入り、奥のベッドを手探りしてタオルをさがす。
「エロ本ねーな……シーツの下にでも隠してやがんのか」
リビングと同じく、寝室もよそよそしいほどに片付いていた。
極端に物が少ない。私物はパイプベッドとクローゼット、机とデスクトップパソコン、文庫やハードカバーが幾層にも分かれぎっしり詰まった立派な本棚くらいか。「腐海」と妹が鼻をつまむ俺の部屋とは雲泥の差。
「ーって、よそ見してる場合じゃねえ」
自分にツッコミを入れる。
ずれた枕、寝汗を吸って人型に変色したシーツ、だらしなく捲れた毛布が目に入る。
床にタオルがおっこちていた。
拾い上げ、握り締め、秀才と評判の友達の馬鹿さ加減に心底あきれ憤りを覚える。
麻生は嘘は言ってなかった。
風邪をひいてから三日間、本当にただ寝ていただけだ。
台所で飲み食いした形跡はない、ベッドから出た形跡は殆どない。おそらくさっきの男が訪ねてきて慌てて起きたのだろう、床に落ちたタオルはすっかりぬるくなっていた。
タオルを掴み、一陣の風の如くリビングにとって返す。
階下の住民から苦情が出るかもしれないが謝罪は家人に任せる。
ソファーの傍らに跪き、氷水を入れたボウルでタオルを冷やしながら低く聞く。
「ずっと一人だったのか?」
「…………ああ」
「なんでメールくんなかったんだよ」
タオルを絞りながら吐き捨てる。
「風邪ひいたって連絡くれれば寄ったのに……全然知らなくて……こっちから打っても返信こねえし」
「チェックしてなかった」
そりゃそうだ、身体が辛い時にメールのチェックなんてやってらんねー。
責めるのは理不尽だとわかっていても、一度堰を切って迸り出た不満はとまらない。
「こんなになるまでほっといて……寝っぱなしで……『風邪ひいた』の一言でいいから連絡くれりゃ、もっと早く見にきたのに」
「関係ないだろ」
タオルを絞る手が止まる。
ソファーに身を横たえた麻生が、眼鏡の奥、熱っぽく潤んだ目で俺を見る。
「関係なくねえよ!」
病人相手に、おもわず声を荒げていた。
麻生が心外そうに眉をひそめる。こっちが心外だ。
行動を自制する理性が蒸発、手を振りかぶって顔面めがけ濡れタオルを投げる。
べちゃりといい音がし病人の顔面をタオルが覆う。
「………眼鏡の上からぶつけるな………」
タオルをきつく絞り、今度はきちんと畳んで額にのせてやる。
「体温計は?」
「どっかそのへんに転がってる……はず」
語尾が頼りなく萎む。
本当に具合が悪そうだ。一時的な感情に流され病人にした仕打ちを悔やむ。
聡史はまだ帰ってこない。
リビングの床を這って体温計を捜すも見当たらず、諦め、甲斐甲斐しく看病にあたる。
寝室から毛布を持ってきて掛けてやる。まめにタオルを取り替える。ぬるくなってきたら氷水に漬け、絞り、額にのせる。
台所とリビングを何往復もし冷蔵庫の扉を開閉、蛇口を捻り忙しく立ち働く。
アイスボックスに補充された氷をボウルと氷嚢にぶちこみタオルを冷やし、絞る。
「大丈夫か、麻生」
「………………」
「寝たのか」
返事はない。
試しに口元に手を翳せば、よわよわしいながら呼吸をしていたので一安心。
ソファーに凭れ後ろ手付く。
熱が感染した不規則な呼吸が聞こえてくる。体をずらし、覗き込む。
額を覆う濡れタオルの下、病的に生白い肌が鮮やかに上気している。
憔悴した寝顔を見詰め、切々と込み上げる無力感に唇を噛む。
「………そんなに頼りねーかな、俺」
風邪で辛い時くらい遠慮なく頼ってくれたらいいのに、水くせえ。
四月からこっち友達やってきたのに、麻生はまだ距離をおいてる。
滅入りがちな気分を首振りで払拭、顔を上げた拍子にふと眼鏡が目にとまる。
寝返り打ったはずみに壊しちまったら大変だ。
体ごと向き直り、前髪をのけるようにして、繊細な手つきで弦に指を這わせる。
慎重に弦を摘み、手前に引き、レンズを浮かせる。
意識が混濁してるのか、抵抗らしい抵抗もせず、無気力に四肢を投げ出している。
弛緩した四肢、弾む息、熱を帯びてだるそうな様子を眺め雑感を抱く。
今なら簡単に絞め殺せる。
唇も
「………え……」
突飛な連想にたじろぐ。
なに考えてんだ、俺。相手は病人で、しかも男で友達だ。
首の動きに合わせ雑念を払い、心奪われ中断した作業を緩慢に再開する。
熱に潤み朦朧とした目が、茫洋と不透明な眼差しを虚空に投げかける。
黒く澄んだ虹彩が眼前に現れた手を反射で追い、ゆっくり離れていく眼鏡を見送る。
剥離手術の完了した患者を見下ろし、安堵の息を吐くと同時に他愛ない悪戯を思い付く。
麻生の顔から取り外した眼鏡を出来心でかけてみる。刹那、世界が歪曲した。
「……度が強ぇ……こんなのかけて暮らしてるのか、尊敬」
視軸が歪み眩暈が襲い、慌てて遠ざける。
弦を畳み、ガラステーブルの端に置く。
眼鏡を外した寝顔は存外無防備であどけなかった。
人を寄せ付けないシャープな冷淡さが薄れ年相応に多感で繊細な表情を見せる。
タオルをかえるついでに、妹が風邪をひいて寝込んだ時そうしたように、俺が寝込んだ時お袋がそうしてくれたように前髪を梳いてやる。
氷水で冷やした手から額に直接冷気が染みていく。
見てるこっちの胸が痛くなる寝顔だった。
普段の言動がアレでアレなだけに、大量の発汗を促す熱に苛まれ消耗してく様子が痛々しい。
憔悴の翳り隈取る顔を仰向け、意外と睫毛が長い目を物憂く閉ざし、唇を薄く開く。
「圭ちゃん………」
人の名前だった。
「…………ちゃん付け似合わねー……」
熱にうなされて、俺を誰かと間違えてるのか?
彼女?
詮索の欲求をぐっと堪え、慰撫する手つきで前髪を梳く。
目はずりおちたタオルに隠れ、表情が読めない。
眉間に苦痛と苦悩の皺を刻み、びっしょり汗をかいて煩悶する麻生。
毛布がはだけ、ずりおち、シャツの裾が捲れて呼吸に合わせ収縮する腹筋が覗く。
喉仏の尖りが精悍な首筋に沸々と汗が浮く。
濡れそぼり漆黒の光沢を増した前髪がしどけなく額に纏わる。
しかめた眉が色っぽい。紅潮した目尻としっとり汗ばむ首筋、シャツが吸い付き悩ましく肌が透ける姿態が倒錯した劣情を誘う。
生唾を呑む。
「…………秋山…………?」
「いるよ」
一握りの正気を取り戻し薄目を開ける。
さんざん泣き腫らしたみたいに白目が充血し涙液のぬめりを帯びていた。
「なんか話せよ」
視界を塞ぐタオルを手探りで額にもどしねだる麻生に、少し考え、人さし指を立てる。
「推理クイズ初歩編、消えた凶器の謎」
目だけで促す麻生へと乗り出し、タオルの上から氷嚢を押し当てる。
「ある別荘で殺人事件が起きた。殺されたのは別荘の主人。死因は鈍器による脳挫傷。窓ガラスが割れ、破片が床一面に飛び散っていた事からも犯人が外部から侵入した形跡は明白。しかし肝心の凶器が見たらない。被害者は固い物で頭をガツンとやられたにもかかわらず、花瓶にも文鎮にも血は一滴も付着してない。場所も変わってもない。されど凶器は現場にある。さて、犯行に使われたのは?」
「…………………」
「ヒント。被害者の後頭部はなぜか濡れていた」
考える素振りを見せる。
正面の虚空に顔を向け、空気中に拡散する蹉跌の一粒を捉えようとするかの如く目を細める。
「ヒント。木を隠すなら森の中。凶器は現場にあった、だけど気付かれなかった」
「氷」
正解。
「………理由を述べよ」
「犯人が用いた凶器は氷塊だ。氷の塊で被害者の頭を殴ったんだ。被害者を殺し、用済みとなった凶器をわざわざ持ち去る必要はない。床に落として砕いちまえばガラスの破片と混じって見分けがつかなくなる」
意識が回復してきたのか、苦しげな息のはざまから存外しっかりした声で筋道だった推理を紡ぐ。
ボウルを満たす氷水と、自らの額に押し当てられた氷嚢とを見比べる。
「木を隠すなら森の中、氷を隠すならガラスの中。常識だって言ったの、お前だろ」
一本とられた。
俺の仏頂面に溜飲をさげたか、氷嚢を自ら掴んでどけ、起き上がりながら解説を付け足す。
「一見関係ないものの中に真実を隠すのは推理小説の常套手段だ。……俺もちょっとは勉強したんだよ」
麻生の視線を辿り振り返れば、テーブルに文庫本が何冊か重ね置かれていた。
どれも有名どころの推理小説だった。
「スリーピングマーダー、Yの悲劇、火刑法廷……」
「結構面白かった」
最高の賛辞。不覚にも目頭が熱くなる。布教活動は無駄じゃなかった、今ならフランシスコ・ザビエルともわかりあえる……どうせなら修道士カドフェルのがいいけど。
血管を砂が流れてるかのように鈍重な動作で手足を引きずりソファーに起き直るや、背凭れにぐったり凭れかかる麻生に、取り上げた文庫本をめくりながらそれとなく探りを入れる。
「さっきの人、知り合い?」
「………親の」
関係ないとは言わなかった。
テーブルに手を伸ばし、目を極力細め、眼鏡を掴もうとして目測が狂う。
レンズと指先がかちあうのを見てられず、ひったくって投げてやる。
膝で跳ねた眼鏡を手にとり、顔にかけ、ようやく人心地つく。
「風邪で寝込んでるの、親は知ってんのか」
「さあな」
「ごまかすなよ」
「知らない」
「………いいのか?あの人、お前の事心配してた」
「あいつが様子見にくるのは義務だよ。死んでたら死んでたでマンション引き払う手続きとか面倒くさいから」
すれ違い際、何かに耐えるように目を伏せた苦渋の面持ちを思い出す。
『生活費、口座に振り込んでおきましたから』
麻生はマンションでひとり暮らしてる。
生活費は自動的に口座に振り込まれ引き落とされる。
風邪をひいても一人、看病してくれる人間さえいない。
三者面談にも来ない親。
口座に生活費を振り込んで使いを生存確認に来させ、自分は電話一本かけてこない放任主義が徹底した親。
冷え冷えしたものを感じ、口を噤む。
麻生の親子関係が冷え切ってる事は、極端に物が少ないだだっ広い部屋と、実の親を「あの人」と他人行儀に呼び捨てる態度からもわかる。
正直、麻生の家庭環境に興味がないといえば嘘になる。
四月からずっと付き合ってきて、麻生の家族についてなにも知らない。
産んですぐ人に譲ろうと思ったから譲。自分の子供にそんな薄情な名前をつける親が実在するなんて信じたくない。
けれども麻生が嘘を吐く理由がない。
あの時の殺伐と乾ききった目が、空虚に乾ききった声が、演技だとは思えない。
「もう帰れ」
「帰れるか」
「明日か明後日か……大人しくしてりゃ熱さがる」
「こじらせて肺炎になっちまったらどうする」
言い争いを遮り扉が開け放たれ、使い走りに出した斥候が雄雄しく帰還する。
「買ってきました!!」
「待ってたぞ!」
息切れも激しく両手に持った袋を突き出し、片方をあさって市販薬の箱をとりだす。
俺は台所に水を汲みに立ち、蛇口を捻りコップ一杯水を注ぐ。
引き返せば、聡史が箱を破き錠剤を麻生に渡していた。
「ぐいっと一杯」
俺たちに手拍子で煽られ、逆らう気力もなくしたのか大人しく水で流し込む。
「あとこれも。……喉渇いてるんじゃねーかって」
「おー、気がきくな聡史」
「べ、別に麻生先輩のためじゃないっすから!人として当然の事っすから!」
ポカリスエットのペットボトルを取り出しながら、顔を真っ赤にして主張する聡史の肩を抱いてねぎらう。
憮然とそっぽを向く聡史からポカリスエットを受け取り、蓋を捻る。
飢えたように喉を鳴らし三分の一ほど一気に干す。
脱水症状で干上がった五臓六腑に染み渡る呑みっぷり。
蓋を閉め、ボトルをおき、こういう時なんていえばいいんだっけという微妙な思考の空白をはさみ、滅多に使わないがとりあえず備蓄してある語彙を呟く。
「……ありがとう」
一瞬、聡史が固まる。
素直な麻生と感謝の言葉に驚くも、足裏くすぐられるむずがゆさを我慢するように口をへの字に曲げ、しゃきんと背筋を正す。
「どういたしまして」
二人して正座で向き合い頭を下げる。麻生は力尽きてうなだれてるだけ。
「あと……どうせろくなもん食べてないんじゃねーかって思って」
もうひとつの袋からレトルトのおかゆがでてくる。
「さすがにこれだけじゃさびしいんで薬味の長ネギも」
「台所借りるぜ」
家で主夫を代行する俺の出番だ。
学ランを脱ぎ威勢よく腕まくり、本領発揮とばかり袋を携え台所へのりこむ。
コンロの摘みを捻り点火、湯を汲んだ鍋を火にかけレトルトのおかゆを袋ごと入れる。
まな板を出して長ネギを刻もうとして、包丁もまな板も見当たらず困惑。
「包丁もないのかよ……」
脱力。自炊しないヤツにこんな立派な台所宝の持ち腐れだ、うちに移植したい。
鍋の沸騰を見計らい袋の端を摘み、深皿にお粥を注ぎ、かくなる上はとハサミで輪切りにしたネギを投入する。
引き出しをさぐってみたら匙はあった。盆に深皿と匙をならべリビングに戻る。
「食え」
ガラステーブルに盆を載せる。麻生が胡乱げに俺と盆とを見比べる。
「食欲ねえ」
「ちょっとでいいから。どうせ三日間ろくなもん食ってねーだろ?体力つけねーと負けちまうぞ」
「……………」
「第一発見者の言うこと聞け」
先客は勘定に入れない。
「あ。猫舌だっけ、お前。冷ましたほうがいいか」
「…………」
「レトルトだけど……味は悪くないぜ。聡史、あーん」
「ちょうどいい塩加減っス」
「うん、男同士であーんなシチュも含めていい感じにしょっぱい」
毒見兼味見役を買って出た聡史がはふはふと粥を頬張り、幸せそうに相好を崩す。
つられてちょっと味見したが、なかなかイケる。特にネギの歯ごたえがいい。
代わる代わる粥の食べっこをする俺と聡史を隈が出来ていつもに増して悪い目つきでじっとり睨み、手の甲見せて追い払い、毛布を羽織って寝転がる。
「………あとで食うからおいてけ」
「これ、担任から預かったプリント。元気になったら学校こいよ。部活にも顔出してさ」
鞄の留め金を外し、プリントの束を出し、そっとテーブルに置く。
麻生は振り向きもしない。
陽気を装って話しかける俺の声だけが、広大なフローリングの空間に白々しく流れていく。
「しんどくなったらメールくれ。とんでくるから」
鞄を持ち、腰を上げる。
「じゃあな」と告げる俺の横、聡史が体育会系の躾のよさで「お邪魔しました」と頭を下げる。
口ではぼやいているが、聡史もまた麻生の体調を案じてるのが伝わってきてやるせなくなった。
聡史を伴い廊下に出、玄関で靴を履く。
「あ」
「どうしたんすか先輩」
「悪ィ、先行ってて」
不審顔の聡史を閉め出し、靴を脱いで引き返し、リビングに駆け込む。
俺が作った粥に見向きもせず、麻生はソファーに突っ伏していた。
粥も喉を通らないほど体調が悪いのか…余計な事、したかもしれない。
俺のやることはいつも裏目に出る。
薄暗くだだっ広いリビングの片隅、ソファーに横たわって絶え間なく襲い来る熱と寒気と発汗に耐える背中を見詰める。
幼稚園の頃、俺が風邪をひいて寝込むとお袋がしてくれたおまじないを思い出す。
小さい妹が風邪をひいて寝込んだ時、パートで留守がちなお袋の代わりにしてやったおまじないを思い出す。
高校生にもなってやるとは思わなかったけど、まあいい、かまうもんか。
開き直り、鞄の留め金をはずし、中をさぐってノートを取り出す。
ノートの端を破りとり、その切れ端にシャーペンで願い事を三行書きつける。
「………なにしてんだ?」
「内緒」
治りますように。
治りますように。
治りますように。
「病は気からっていうだろ」
数年ぶりに手順をなぞり、切れ端を丁寧に畳み、はたと失態に気付く。
枕がない。迂闊だった。願掛けした紙を枕の下に入れて初めて完了するのに……気付いたところで遅い、いまさら枕をもってきたら怪しまれる。仕方ない、妥協案を採用。テーブルの端の文庫本を一冊手にとり、適当なページを開き、切れ端を挟む。
「よし」
俺の代わりに麻生をよろしく頼む。
願掛けした文庫を細心の注意を払って傍らにおき、本人が意識を取り戻す前に、抜き足差し足忍び足、廊下に出た途端に脱兎の如く逃げ出す。
背後でドアが閉じる。
外廊下に出、ドアに凭れて長々と息を吐く。日はもう暮れかけ、空は赤く染まっていた。
子供だましのまじないも案外ばかにしたもんじゃない。
事実お袋がこれをすると俺の風邪はたちまちよくなった。妹の場合もそうだ。
自己満足。知ってる。俺はただ、この寒々しいマンションに麻生をひとりぼっちで残していきたくなかっただけだ。
だからせめてもの気休めに、ノートを破りとって願掛けをした。
こればっかりはメールじゃ代用できない。
携帯に表示される文字じゃ祈り不足で治癒に至らないのだ、きっと。
エレベーターの方へ歩きながら、こないだ麻生の影響で読んでみた人間失格の一節を口ずさむ。
「咲クヨウニ、咲クヨウニ、咲クヨウニ……」
あるところに貧しい花売りの少女がいた。
少女は混血の孤児だった。
みすぼらしい身なりで、みすぼらしい造花の蕾を売って生計を立てていた。
ある時、そんな少女に一人の男が声をかけた。
『この花は綺麗に咲きますか?』
全部売りさばかないと親方に折檻される。
けれども造花の蕾を買っていく物好きはいない。
造花を本物と勘違いした愚かな男の質問に、少女は売りたい一心で『咲ク』と答えた。
男は了承し、言い値にさらに上乗せした金を払って、嬉々として土産に一本買っていった。
少女は後悔した。
そして街の片隅で、誰の目も届かない路地裏で、あかぎれだらけの小さな手を組んで一生懸命祈るのだ。
『咲クヨウニ
咲クヨウニ
咲クヨウニ』
三回祈ればきっと叶うよと、あの女の子に言ってやりたい。
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