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第41話

 絶叫。  フェンスに乗り出し滑りゆく腕を掴む。   腕が抜けそうな衝撃、激痛。  捻った手首でフェンスを掴み、なかばフェンスに乗り上げた前傾姿勢で不安定な均衡をとり、完全に外に出た腕で麻生をキャッチ。   腕一本に俺と麻生と二人分の体重がかかる。  下方から吹く風が前髪を煽り、覗き込んだ闇の深さ、地上までの距離に息を呑む。   「………ッ、でぇ……麻生、早く、あがってこい……この体勢キッツぃ……腕抜けそ……」  「遺書を渡すんだ」  後ろに気配、耳朶に触れる低い脅し。  頬にひやりナイフが擬される。  さっきと同じパターン。しかし今度は本気の度合いがちがう。  「圭の遺書はどこだ。まさか持ってきてないなんて言わないでくれよ、君の脅しを真に受けてはるばるやってきた私がばかみたいじゃないか」  「この状況見てそんな……あんたほんとにいかれちまったのか、教え子が腕一本でぶらさがってんだぞ引き上げんの手伝えよ、御手洗高一お人よしな教師の評判は紛いもんか!」  「俺が死んでくれたほうが都合がいいんじゃないか、あんたは」  麻生が皮肉る。  腕一本で宙吊りで、足元にはぽっかり虚空が口を開けて待ち構えてるのに、どうしてこんな冷静でいられる?  敷島も麻生も理解できない。  こめかみにぷつぷつ脂汗が浮かぶ。  腕が抜ける激痛に奥歯を食いしめ抗い、麻生の腕を掴む。  「遺書を渡したまえ。宙吊りでも腕は動くだろう」  「自分が刺したんじゃないか」  「動くはずだ。試してみたまえ」  麻生の痛みには頓着しない口調で、ゆったり促す。  「この野郎…………」  激痛と憤激と憎悪と激情が荒れ狂う。  生理的な涙にしめり、血走った目で余裕ぶった敷島を睨みつける。  俺の頬に押し当てたナイフをすっと引く。皮膚が裂け、顎先へと血が滴る。  それでも麻生が言うことを聞かないとみるや話題をかえる。  「……どうやって圭の遺書を手に入れたんだ。死体はしらべたのに」  「葬式の夜。圭ちゃんの机の引き出しから」  「隠匿したのか?」  敷島が軽く驚く。  そんな敷島を鼻先で笑い捨て、言う。  「警察はあてにならない。俺の手で殺してやるつもりだった」  手首が痛い。腕が痛い。気を抜くとふっと意識が遠ざかる。  「君は圭のなんなんだ」  「さあな。そういうあんたは?」  「………………」  慙愧の面持ちで押し黙る敷島を挑発する。  「理解者?保護者?恩師?恋人?愛人?」  「黙れ」  「答えられないってことは生徒と教師の一線こえた負い目があるんだ」  腱が焼き切れそうな痛みに顔がゆがみ、大量の脂汗が滴り、床に染みを作る。  「殺す、とか……簡単にいうなよ……」  苦痛に濁った声をようやっと絞れば、それで這い蹲る俺に初めて気付いたとばかりにふたりの視線が向く。  「本気だ。梶、敷島。少なくともあんたと梶のふたりは、俺の手で……俺が作った爆弾で始末する気だった。実際こいつが余計な事さえしなけりゃそうなってた」  「余計な事じゃねえ」  「もう一歩だったのに。……ここに呼んだのは失敗だったかもな」  腕を掴む俺を見上げ、麻生が笑う。夜に墜ちていきそうな儚く不安定な笑み。  「大した名探偵だよ、お前は」  「俺は証人か。俺の前で敷島の本性を暴き立てたくて御手洗高に呼び出したのか」  「……まあ、それもあった」  屋上は法廷だった。  麻生は俺を検察側の証人に仕立て上げようとした。  証人に指名された俺は、その働きを十分に果たせただろうか。  自信はこれっぽっちもない。  付け焼刃の推理で真犯人をあてたところで、達成感とも爽快感ともさっぱり無縁だった。  ただ、胸が痛い。  幻滅、失望。  敷島に裏切られた事が、麻生にだまされたことが、こんなにも。  「遺書を渡せ」  「俺の死体から回収したらどうだ?圭の死体も検めたんだろ。梶も変態だけどあんたも負けず劣らず変態だな、屍姦でもするつもりだったか」   「馬鹿っ挑発すんな、状況わかって物言って」  喉の奥から裂かれた絶叫叫をしぼりだす。    敷島がナイフを振り下ろし俺の手を刺す。  「秋山!!」  仰向く麻生の顔に血がとびちる。  痛い痛いなんてもんじゃねえフェンスの根元に掴み縋る手の甲にナイフで切り付けられ深々と、指の間に血が滴る、脳裏が真っ赤に染まる、絶叫、悲鳴、全身の毛穴が収縮しドッと脂汗がふきだす。  「……乳首に安全ピン刺されるのと比べ物になんねー痛さ……はは……」  「次はどこを刺そうか」  敷島がナイフをもてあそぶ。  俺の新鮮な血と梶の乾いた血がこびりつくナイフを間近に見て、恐怖と嫌悪に胃が縮む。  「腕か、足か、背中か」  「………先生……」   「まだ私を先生と呼んでくれるのかね?ありがたいね、だが期待には応えられない。……もっとも麻生くんの心がけ次第だが」  優しげな笑みでナイフを扱う。   「秋山から離れろ」  「遺書が先だ」  「……………」  「死んだ人間と生きてる友人、どちらをとる?」  「俺の中では死んでない」  「ならば言い方をかえよう。君と私の中で生きてる彼と、これから死のうとしている彼と、どちらをとる?」  敷島が狂気と紙一重の聖者の笑みをたたえつつ、ジャージの上から俺の背筋にそってナイフをおろす。  「………は………っく、ぁ」  刃がふれ、ジャージが裂ける。  寝かせた刃が裾を払い、内側へともぐりこむ。  背中にもぐりこむナイフの冷たさにびくりと身がすくむ。  必死にフェンスを掴み、もう一方の手で懸命に麻生を引き上げる。  肌を這うナイフの冷たさが絶望を伝える。  「秋山に手をだしてみろ。殺してやる」   「宙吊りでなにができる?せいぜいそこで友達が切り刻まれるのを見てればいい」  「圭ちゃんだけじゃなくて秋山も殺すのか」  「いまさら怖くはない。躊躇もない。私はもう人殺しだ。……圭を死に追いこんだ時からね。ああそうだ、梶先生は『人』の勘定に入らないから彼だけなら人殺しとは呼べないね。鬼畜殺しかな」  諦観を帯びた憫笑。  現実と乖離し、妄想の世界をさまよう敷島と視線を絡め、ゆっくりとコートの内に手を入れる。  三通目の四角い封筒。   「偽物じゃないだろうね」  「中身は本物だ。あんたが来る前に入れ替えた。……確かめてみろ」  封筒が手渡される。  受け取った封筒を感慨深げに見詰める敷島。目に沈痛な光が閃く。  「開けないのか」  「……………」  「勇気がないか。ぼろくそ叩かれてるかもって?卑怯者、腰抜け、裏切り者、偽善者。好きなのを選べ」  不安定な体勢でせせら笑う麻生を一瞥、再びナイフを振るう。  「ーあっ、ぐ!!」  「秋山!!」  今度は上腕。  ジャージが破け朱線が斜めに走った素肌が覗く。  熱と痛みと悪寒で意識が朦朧とする。踏みしめた地面からひしひし冷気が染み骨が凍て付く。  汗でぐっしょりぬれた前髪が額にへばりつく。  「……………………殺してやる」  麻生の低い声。  「梶は爆弾で済ませた。あんたにはそんなずるしない、直接殺してやる。あんた、本気で逃げ切れるとおもってるのか?六年前はなるほど自殺で処理された、だけど今度はれっきとした他殺だ、警察があんたを見付けだすのは時間の問題。刑務所に入れば安全?俺の手が届かない?まさか、なめてもらっちゃ困る。絶対にあんたを殺す。どんな手を使っても殺す。圭の味わった苦しみ、秋山が受けた痛み、あんたにたっぷり味あわせて殺してやる」   馬渕の手。  全部の爪が剥がれた指。  「……馬渕になにしたんだ……」  熱っぽく荒い息を吐きつつ、ずっと気になっていたことを問う。  ずっとひっかかっていた、馬渕の異常な怯えようが。俺をいじめてた連中の豹変ぶりが。  「……ある快楽殺人者がいた。そいつは真性のマゾヒストで、自分の肉体を傷つけ痛め付けることで快楽をえていた。ペニスに釘を打って絶頂に達する手合いだ。けどその真性マゾも、指の生爪を剥ぐのだけは断念したんだそうだ。指の先端には神経の束がある。爪を剥がれると死ぬほど痛い」  「………お前………」  「世の中にはたちが悪い連中が大勢いる。他人の痛みを想像できても、自分の痛みじゃないならどうでもいいと割り切って、かえってそれを楽しむ連中だ。金さえ渡せばなんでもやる手合いだ。夏休み中、金で雇った奴らにボルゾイの仲間を襲わせた。……馬渕の爪を剥いだのは俺だけど」  「どうしてそこまで」  「さわったろ」  「は?」  俺を背後から組み伏せたのは馬渕。  「去勢だよ」  そう言って俗悪に醜悪に笑う。良心が死に絶えた笑み。  麻生の腕を掴む手から力が抜けていく。  絶句した俺の背に密着しナイフを首筋に擬す敷島に対し、宙吊りの麻生がおぞましい脅迫を続ける。  「あんたは剥ぐだけじゃすまない。まず爪の肉に熱した針を深くさす。何本でも、刺せるだけ刺す」  「やめろ麻生、」  「手足の指を針だらけにしてやる。ライターオイルをぶっかけて、あんたの貧相なアレを燃やしてやる。もう二度と悪さできないように去勢してやるよ」  「やめてくれ」  「ガラスの欠片を口に詰めてガムテープで塞ぐ。殴る。口の中は切れて血だらけ、ガラスを呑んで喉は」  「やめてくれ、それ以上言うな!!」  聞きたくない聞きたくない聞いていたら頭がおかしくなる引きずり込まれる  邪悪で異端な。  狂気と憎悪を飼い馴らし飼い殺し。    六年前麻生の胸の内に播種された殺意は今や飽食を知らぬ怪物の如く育ち、宿主そのものをのみこんでしまうほど深淵を広げていた。  眼鏡の奥の目に底冷えする光をたたえ、淡白な表情には不釣合いな歪さで口元をねじる。  「殺してやる」   「どうやって?」  「俺が生きてる限りいくらでも方法はある、安心なんかくれてやらない、俺の大事なものを傷つけた。警察?逮捕?くだらない、殺人罪は最高で懲役十五年。無期懲役は無期じゃないんだ、上限があるんだ。人一人殺したら平均八年か、あんたはたった八年で出てくる。仮に死ぬまで刑務所にいたところで、それが?あんたが刑務所にいれば死人が戻るのか、あんたがめちゃくちゃにしたものがもとに戻るのか。戻らない、戻るわけがない、俺はそれを知ってる。戻らないんだよ時間は、どんだけあがいて暴れたって絶対戻ってこないものがあるんだよ」  「……知ってるよ、私も」  敷島が微笑む。目は笑っていない。  俺の首をナイフでなめながら、深沈と冷えた光を湛えている。  「俺の大事な人間を殺した人間を殺したところで、心は痛まない」  「麻生、」  「痛むような心は持ち合わせない」  「麻生、」  「俺の大事な人間以外はどうなったっていい、償えとは言わない、詫びろとも言わない。ただ、死ね。苦しみぬいて死ね。贖罪も謝罪もいらない、俺はただ殺したい、俺の大事なものを、ひとを、めちゃくちゃに壊して最悪の死に追い込んだ人間を殺したい。捕まろうが裁判になろうが刑務所に入れられようが……」  「人殺しちゃいけねえ理由なんてわかんねえよ、でもお前が人殺しちゃいけねえ理由ならわかる!!!」  麻生の目が動く。  衝動に駆られ知らず喉も裂けよと叫んでいた。  ずりおちる腕をにぎりなおし、ぎりっと容赦なく指を食い込ませ、フェンスに乗り上げ転落寸前の勢いで叫ぶ。  「……お説教か?人を殺しちゃいけない理由を即答できなかったくせに、いまさら」  息を吸い、嗤う。  「世の中には死んで当然の人間がいる」  梶のように  ボルゾイのように  敷島のように  「あのビデオを見たならいやでも納得するはずだ。泣くとうるさいからと赤ん坊の口にガムテープを貼る強盗、レイプした女の数を自慢する男、遊び半分のリンチで同級生を殺した奴、陰湿ないじめの主犯。梶のようにボルゾイのように敷島のように沢山の人間を不幸にしておきながらのうのうと生き続ける悪党、人の痛みを想像できても興味がない人間」   嗚咽する久保田  お母さんと呼ぶ女子中学生   埃っぽい闇に沈む廃工場を狩り立てられ逃げ惑う大勢の被害者たち  「殺されて当然なんだ、連中は」  思い出したくない。  何も言い返せない。  視聴覚室で見た悪夢の映像は悪夢じゃなくて現実で梶が趣味と実益をかね撮りためた犯罪の証拠、思い返せば猛烈な吐き気が襲う、久保田の泣き顔が少女の泣き顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの他の被害者の顔が網膜に焼き付いてはなれない。  一生忘れられない  「お人よしが人殺しを擁護するか?生きてる価値のない人間なんて世の中にはひとりもいない、生まれてきた意味のない人間なんてひとりもいないって性善説の理想論を唱えるか?」  「……お前の言う通り……世の中には、生きる価値と資格のない人間もいるかもしれない」    世の中には生きてる価値のない人間が絶対的にいる。  罪を犯せど裁かれず  人を殺せど殺されず  自分が人殺しだという事実さえ忘れおもしろおかしく暮らすもの  ボーダーラインをあっさりこえておきながら代償も払わずこっち側にとどまろうとするものたち。  「赤ん坊の口にガムテはった強盗も……誘拐犯も……梶も、ボルゾイも、殺されたって文句は言えねえ。自業自得」  「殺していいだろ」  「駄目だ」  「殺したい」  「駄目だ」  「殺させてくれ」  「絶対駄目だ!!」  「なんで」  「俺が哀しいからだ!!」  眼鏡の奥、麻生が目を見開く。  俺は続ける。  体の底にたまったもの、腹の底に渦巻くもの、全部全部吐き出す勢いで沸騰する感情を一挙にぶちまける。  「裁判でさらしものになんのが哀しい、刑務所いれられて離れ離れになんのが哀しい、遺族に憎まれんのが哀しい、でも一番哀しくて悔しいのは麻生譲ってちゃんとした名前があんのにお前をよく知らねえヤツらがその他大勢の人殺しの一人としてしかお前を見なくなることだ、呼び名が人殺しになっちまうことだ!!」  「たいしていい名前じゃない」  「俺が呼ぶ、譲を呼ぶ!!」  麻生が大きく目を見開く。  まるで、再びその名前で呼ばれることがあるとは考えもしなかったみたいに。  俺は叫ぶ、哀しみも苦しみも全部絞りだす勢いで叫ぶ、六年前こいつを譲と呼んだ誰かに代わって、そいつの面影を蹴散らす勢いで  「俺は譲を譲らない、頼まれたって譲ってやるもんか、大事な大好きな一番のダチを警察に売り渡すもんか、お前の名前を呼ぶ、しつこいくらい呼ぶ!!」  呼ばれるから意味ができる  「麻生譲!!」  譲れない意志をこめ  譲れない一線を引き  ボーダーラインの内側へ、麻生を力づくでひっぱりこむ。  「……俺が可哀相か?」  麻生の顔が、変なふうに歪む。  笑い方を忘れちまった人間が笑ってるような、できそこないの笑い。  目の錯覚だろうか。脂汗が目に流れ込んだせいで、幻覚を見てるのか。  産んですぐ譲ろうとおもったから譲、たしかに哀しい名前だ、酷い由来だ。  でも俺は、同情しねえ。  だって、  「ふざけんなっ、なんでお前が可哀相なんだよ!!」  麻生がひっぱたかれたように顔を上げる。  「もう一度言う、何度でも言う、お前にっ、俺がいてっ、なんで可哀相なんだよ!?可哀相なわけあるか、俺がいるんだぞ、聡史もいるんだぞ、ヤクザな担任も後藤さんも心配してんだぞ、こんな大勢に世話焼かれてるくせに孤高ぶってかっこつけんな!!」  腕が重く痺れ感覚がなくなってきた  それでも俺は、手を放さない  こいつの手だけは放さない  「譲らない、譲れない、これは俺の我侭だ、エゴだ独善だ、だからなんだ、お前が人殺しになったら哀しいんだよ俺は、お前を人殺しにしたくないんだよ、相手がどんな人でなしなクズだろうが殺してほしくねえ、俺が泣くからだ、いやだからだ、お前が好きだから、俺の好きなお前が憎まれんのがいやだ!!」    考えて考えて考え抜いて  出した結論がそれだ。    人を殺しちゃいけねえ理由なんてむずかしすぎてわからない。  そんなもの、ほんとはないのかもしれない。  敷島の言う通り人を殺すと不都合があるだけで、人を殺しちゃいけない理由なんてのは所詮こじつけで、本当の所は誰にもわからないのかもしれない。  だけど麻生、お前が人を殺しちゃいけない理由なら、あるんだ。    「好きな奴を人殺し呼ばわりさせてたまるか、お前には譲ってちゃんとした名前がある、これから何度だってくさるほど呼んでやる、名前の下に容疑者も被告もいらねえんだよ!!」  自分を貶める気か。  人殺しを殺した人殺しに成り下がる気か。  どんな理由があったって、復讐だって、相手が人殺しだって、どんな理屈を捏ねたって    早く腕を掴めと一心に念じる、祈るように切実に念じる、腕から伝わってくる温度に縋る。  無気力に弛緩した腕を必死に掴む。  「譲」  恥ずかしがってる余裕なんかないから、俺は俺にできる精一杯で、大好きな友達の名前を呼ぶ。  無気力に垂れた腕が持ち上がり、ぐっと俺の手を掴む。  固く繋がり合った手に気圧されたように敷島が身を引く。  かすかな動揺が伝わり、首筋からナイフが離れる。  その一瞬を逃さず全力で引き上げる、腕が抜けそうな引力に勝手に悲鳴が迸る、フェンスに乗り上げた麻生を抱きかかえ引き戻す。  ふたり縺れ合って転がる。転倒のはずみに肩と肘そこかしこを打つ。  胸が破裂しそうに鼓動が高鳴り跳ね回り、汗みずくで抱き合い、感触を確かめ互いの体に手を回す。    生きてる。  ああ、よかった。  「このばか」  背中に手が回る。  上背のある麻生が俺の背に手を回し、ガキみたいに抱きしめる。麻生の胸に顔を埋め、浅い鼓動を聞く。  「おかげで殺し損ねたじゃないか」  「死に損ねたの間違いだろ」  減らず口を交わす。どちらともなく不敵な笑みを浮かべる。  背後に忍び寄る気配。  麻生と抱き合って振り返れば敷島がいた、ナイフをだらり垂れ下げ熱に浮かされた覚束ない足取りでやってくる。  殺すつもりだ。  「…………私の時は間に合わなかった」  穏やかな笑みが歪み、崩れ、泣き笑いに似て哀切な表情へと変わる。  白い息を吐きながらやってくる敷島。  足取りに合わせたくたびれた背広が揺らめき、ナイフの切っ先からぽたぽた血が垂れる。  俺の血。  「終わりにしましょう先生」  俺を庇う麻生を目で制し、静かに言う。  敷島は歩みを止めずむかってくる。狂気を感じさせる危険な足取り、絶望に憑かれた目。  だめだ。  殺されかけたってのに、やっぱりこの人を恨めない。  「……おしまいなんです」  敬語が抜けない。  麻生の胸から身を起こし、ナイフを抜こうとする友達の手を宥め、そっと目を閉じる。  「ほら」  刹那、闇を切り裂いて屋上まで赤いランプの光が届く。  「!!」  慄然と立ち尽くす敷島。屋上に居合わせた全員同時にフェンスのむこう、だだっ広い校庭を見る。  煌々と点り旋回する赤色灯。校庭に乗り込んだパトカーが五台、救急車が一台、それぞれから慌しく人がおりてくる。  パトカーから降車した刑事と警官のうち何名かがランプの照り返しを受け屋上に人影を発見、大声で叫び交わし校舎にかけこむ。  じき屋上に辿り着くだろう。  「何故」  目にした光景の不可解さに敷島が呆然と呟く。  ごそりとジャージの懐をさぐり、突っ込んだケータイをとりだす。  「警察につなぎっぱなしでした。会話ぜんぶ丸聞こえ」    カラン。  ナイフを落とすと同時に糸が切れたように膝を付く敷島、完全に戦意喪失した真犯人。  靴音の大群が一挙に階段を駆け上り屋上に殺到、鉄扉が開け放たれ警察がなだれこんでくるまで、俺は黙って麻生に抱かれてやっていた。

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