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第43話

 「……………あ…………、」  敷島がよろめき、ころび、縺れる足取りで絵に歩み寄る。  今度は刑事も止めに入らなかった。  麻生も、他の人間も口出ししない。こける敷島に手さえ貸さない。  敷島が絵に接近する。  両手に絵を抱え敷島を待つ。  ようやく正面に辿り着くや、手錠で括られた手を絵の前にかざし、そっと触れあう。  座間圭の絵の下に描かれていたのは、敷島の絵だった。  見ているだけで胸が一杯になるような、好きだって気持ちが伝わってくるような、そんな絵だった。  「……座間圭は先生のことが本当に好きだったんですね」  敷島が地に膝を付く。  へたりこんだ敷島の目の高さにあわせ、後ろから絵を支え、ゆっくり地に置く。   ときとして優しさや善意、愛情がひとを追い詰めることもある。  敷島は優しくずるく臆病な人間だった。  六年前、母親の手術費を工面するため梶の犯罪に加担した。  圭もまた敷島への想いから売春に関与した。  ふたりは互いに想い合っていた。  教師と生徒の一線をこえ想い合い、慈しみあっていた。  だからこそ圭は耐えられなかった。  自分が敷島の枷になってる現実に、敷島を苦しめる人質である現実に耐えられなかったのだ。  「………圭を愛していた」  手錠で括られた掲げ、絵の中の微笑みに触れ、か細く震える声で呟く。  「……教師と生徒で……男同士で……年も親子ほどに離れていた。だが圭は、私を一途に慕ってくれた。けなげに懐いてくれた。家族にも明かせない悩みを、放課後の美術室で、こっそり話してくれた。圭の描く絵がすきだった。色使いが優しくて、見ていると自分が遠い昔に失ったものを思い出せた。……いつのまにか、親子ほど年が離れた圭を好きになっていた」  絵の中の敷島ははにかむように笑っていた。  たぶん生前の圭の前では、こんなふうに笑っていたんだろう。  俺はどこか哀しげに諦めた敷島の笑みしか知らない。  圭に死なれて笑えなくなったのは、麻生だけじゃない。  「初めて名前で呼んだ時……一線をこえてしまったとおもった。後悔もした。だがそれ以上に嬉しかった。漸く名前を呼べて……あとから貰った名字じゃなく、本当の名前で圭を呼べて、嬉しかったんだ」  「あとから貰った名字?」  「座間圭は養子なんだ」  不可解な発言にとまどう俺の後を継ぎ、麻生が目を閉じる。  困惑し、振り向く。  「………聞かせてくれ。お前と圭ちゃんはどんな関係なんだ」  質問を口にするのは勇気がいった。  禁忌にふれるような後ろめたさがあった。    コートのポケットに手を入れ、弛緩した姿勢で夜空を仰ぐ。  校庭を染め抜く赤色ランプの光が、研ぎ澄まされた横顔に映え、レンズに反射する。    「彼は屋上の張り出し窓に腰掛け    おのれに及ぶ者を知らぬ    これほど高く来るつもりはなかった   しかも達したのだ」    詩の暗誦。  まるでかりそめの言葉に託し、埋葬した真実を語り直すような。   「彼は蝶々としてさえも再生を信じない   彼が登り始めてから彼の家にはもう扉がない   教会の彼方に燃える遅い夕焼けを彼は愛する   彼は生と死を愛し   その二つをわかつものを愛する   窓は次から次へと彼に風景を示す   そしてそれらの風景を額縁にはめる   彼はその前に腰掛け おだやかに微笑む   そして悲しむことを好まぬ」  額縁の前でおだやかに微笑む圭。  もうここにはいない人。  麻生と敷島の心の中でだけ生き続ける少年。  遅い夕焼けのような赤色ランプが煌々とあたりを照らし、地に長く影をひく。  「彼はほほえむ なぜなら君たちが幸福だから   ただときどき彼はささやく   ああ この時の流れが どこか大海にそそがぬものか?   運命は彼を忘れたのに   彼はとっくに運命を赦している   彼を羨め   彼を軽蔑しろ   それは彼を測る物差しではない   エーリヒ・ケストナー『従兄の隅窓』…………圭ちゃんは俺の従兄だった」     『母方の伯母が不妊症なんだ』  『子供をほしがってたから譲ろうとしたんだけど、養子を貰っていらなくなったんだとさ』  『圭は家庭環境が複雑で、たびたび相談に乗っていた』  「圭ちゃんは子供のころ伯母夫婦の養子に入った。俺は六年前、一時期伯母の家に預けられて……圭ちゃんと出会った」  ポケットの内側で握りこむ手が震える。  「圭ちゃんは俺のすべてだった」  「圭が死んだ時、私の一部も死んだ」  被害者の遺族と加害者と。   麻生も敷島も形はちがえど、圭の死により大事なものを喪失した。  感情の一部であったり痛みを感じる心であったり涙であったり失ったものは多すぎて、とても一口じゃ言えない。  だから敷島も麻生も泣かない。  泣いていいのに泣けない。  泣きたくて泣きたくて、切実な感情が込み上げて胸が苦しくて熱くて吐き気がして、でも、泣けない。  ふたりにとって圭がどれほど大切な存在だったのか。  どれほど支えだったのか。  「十二月は終わる月だ。圭ちゃんがそう言ってた。……師走の由来を教えてくれたのも圭ちゃんだ」  敷島が弾かれたように顔を上げる。  麻生は敷島を見ず、俯きがちに続ける。  「年果つ、四極、為果つ」  年果てる月。  四季の終わる月。  何かをなし終えるための月。    「だから圭ちゃんは、十二月の最後の日に、すべてを終わらせようとしたんだ」  十二月が終わる月なら、十二月の最後の日は、一年の清算をする最後のチャンス。   「今日は圭ちゃんの命日だ」  敷島が梶を殺したのも麻生が遺書で釣って敷島を呼び出したのと、日付が重なったのは偶然じゃない。  十二月三十一日はふたりにとって特別な意味をもつ日だった。  この日に復讐を行う意味だけは譲れなかった。  他の日じゃ意味がなかった、今日じゃなければ意味がなかった。  十二月は終わる月。  圭が命を絶った日。  「私が圭に教えたんだ」  「え?」  麻生が意外げな顔をする。  眼鏡の奥の目に疑問の色をやどし、へたりこむ敷島を見おろす。   「私が圭に教えたんだ。師走の由来、十二月は終わる月だと。だから圭は……六年前の今日、十二月最後の日を……自分の終わりに選んだ。私のなにげない一言が、圭の死の引き金になった」  大事な人から大切な人へ、受け継がれた言葉。  敷島が教えた師走の由来は、圭の口から幼い麻生へと受け継がれ、麻生から俺へと伝わった。  人が消えても、想いは循環する。  「圭………」  括られた手を掲げ、絵の額に額を擦り合わせ、嗚咽する。  胸が浅く上下し、肩が浅く浮沈し、しかし涙は出ない。  自分には泣く資格がないと戒めてるかのように、嗚咽をまねても声は枯れ、涙は一滴たりとも絞れない。  絵のてっぺんに手をおき、俺は思ったまま感じたままを述べる。  「絵の先生、笑ってますね。優しい顔してる。……圭ちゃんにはこう見えたんでしょうね。背広、ひょっとして六年前から買い換えてないんですか」  「え?」  「おんなじの着てる。ずっと喪に服してたんだ」    俺の言葉がひとを救うなんて思いあがりだ。  言葉で救えるほど人間は安くできてない。  でも、それでも。  前を向くきっかけくらいにはなるかもしれないと、信じたい。  「座間圭は先生のことをよく見てた。背広の皺ひとつとっても、細かく、正確に……」  俺の言葉に促され、指先でぎこちなく、正確に描きこまれた背広の皺を辿りゆく。   「右下を見てください。なんて書いてあります?上の絵がはがれて、イニシャルも変わったでしょ」  上の絵は、右端にZ.K……座間圭の略称がしるされていた。  「敷島先生の下の名前……たしか、治でしたっけ。人間失格の作者とおなじ。イニシャルだとS.О」  片膝付き、力が抜け、絵から滑り落ちかけた指を隅っこのイニシャルへと導く。  絵の右下には、ふたつのイニシャルがならんでいた。    Z.KからS.Оへ。  「敷島先生の絵の上に自分を描いて、敷島先生のイニシャルの隣に自分のをならべて。一緒にいたかったんだ」  Z.KからS.Оへ。  括られた手じゃ抱きしめられない。  敷島は手錠ごと手を胸の前に掲げ、褪せた絵にできるだけ近付き、託されたぬくもりを感じようとする。  「………梶が憎かった。六年間、ずっとずっと、殺す日を夢見ていた。圭を失ってから一日だって満足に寝れた試しはない。あの男は、圭を……私の目の前で犯したんだ」  麻生の顔が蒼ざめていくのが暗闇の中はっきりわかる。  絵を支えるのと反対側の手で、すっかり冷え切った麻生の手を握ってやる。  さっき麻生がそうしてくれたように、ぎゅっと握り締める。  「………あれから圭の様子が変になった。圭の変調に気付いていたのに、あの時、屋上でとめられなかった。フェンスのむこうに立つ圭は……最後に泣きそうな顔で笑って……」  『私の時は間に合わなかった』  「殺してやりたかった。六年間、ずっとずっと決心がつかなかった。六年たって、七回忌まで一年を残す今になって、やっと決心できた」  敷島は圭を愛していた。  純粋さが狂気に達し、妄執に迫るほどに。  梶を殺したのも手紙を奪いに来たのも保身のためだと俺はおもっていた。  梶の犯罪に加担した証拠がバレるのをおそれ梶に脅迫されていた事実が明るみに出るのをおそれ、麻生の呼び出しに応じたのだとおもっていた。  事実それもあったのだろう。だが、それだけじゃない。  敷島は圭の手紙をもつ麻生に嫉妬していた。なにがなんでも圭の遺書を取り返したいという独占欲が高じ、ナイフで刃向かってきたのだ。  「梶を殺した動機も脅迫に端を欲する私怨じゃなくて、本当は……」  続けようとした俺を制し、静かに立ち上がる。  自分には麻生とおなじ次元で語られる資格がないとばかり首を振り、救いがたい悲哀にぬれた目で絵をみおろし、別れを告げる。  「さようなら、圭。秋山くん。麻生くんも……怪我させて悪かった」  手錠に括られた手で、慈しむように絵をひとなでし、踵を返す。  タクシーへと歩く古背広の後ろ姿にむかい、やりきれない感情に駆られて叫ぶ。  「先生!!」  「おちこぼれだとおもってないのは本当だ。……君はやればできる子だ」  パトカーに乗り込むついで、ちょっと振り返って言った台詞に笑っちまう。  「ひと切り刻んどいて説得力ねっすよ」  「ジャージは弁償する。警察に請求書をまわしてくれたまえ」  本当はわかってる。  梶を殺せても俺を殺せるはずがない、教え子を殺せるはずがないのだ。  腕や背中や致命傷を避けてあちこち切り刻んだのは苛むのが目的じゃなく、殺すのをためらったから。  敷島は梶のようなサディストじゃなかった。  ただ臆病でずるくて、優しいだけの人間だった。  事件の主犯格ならいざ知らず、もともと事件に関係ない俺を梶を刺し殺したナイフで始末するようなまねが、この人にできるはずない。  敷島はどこまでも優しくてずるくて臆病な男で、  座間圭はきっと、この男の優しさずるさ弱さを全部ひっくるめて愛していた。  最後に刑事が乗り込みパトカーの扉を閉じる。  窓に敷島の横顔が映り、すぐ刑事の肩に阻まれ見えなくなる。  パトカーが出発する。  砂を蹴散らし、開け放たれた校門から出て行くパトカーをその場に立ち尽くし見送る。  長い夜だった。  一生分の体験をしたような密度の濃い夜だった。    遠ざかっていくサイレンと赤色ランプの光を目で追い、隣に立つ男へ問う。  「……ひとつ質問」  「なんだ」  「俺と初めてしゃべった日、窓から人間失格なげたろ。本好きなくせに本粗末にするなんてけしからんってぶっちゃけ腹立ったけど、あれひょっとして、作者が敷島とおなじ名前だったから?」  「……はあ?」  「はずれ?」  眼鏡の奥からあきれ果てた眼差しを注ぐ。  「お前ばかか、いちいちそんな小せえこと気にしねーよ」  「ばかって言うな」  「人間失格好きじゃねーのはホントだけど。……手元の本でいちばん気に食わないの咄嗟に選んだってのはあるかも」   「理由は?」  「根暗で卑屈」  教科書に絶対のってる文豪の傑作をばっさり切り捨て、続ける。  「自意識過剰で対人恐怖症気味な作家の愚痴垂れ流しなんて興味ない。俺が好きなのは同じ太宰でも併録の『葉』の断章」  「葉の断章?」  なんだそりゃってかんじで首を傾げる俺をちらり流し見、ぶっきらぼうに言う。  「咲クヨウニ。咲クヨウニ」  「え」  「……そういう台詞が出てくるんだよ。貧しいロシア人の花売りが造花の蕾を売って……何にやけてるんだ?」  「え?別ににやけてねーよ、どうぞ続けて」  「………やめた」  「なんで!?」  「お前のにやけ顔見ると腹立つ」  がらじゃねー台詞を言った自覚はあるらしく、足元の砂を蹴散らし不愉快げにそっぽをむく。  数多い太宰の作品の中で、俺と麻生は偶然にも、おなじ話のおなじ台詞を気に入っていた。  悪童日記の見解の違い。  太宰の好みの一致。  悪童日記の双子の気持ちがわかると言った麻生が、造花の蕾が咲くよう祈る花売りの台詞を好きだと言った。   前者は理解できなくても後者は共感できる。  すれ違っては近付いて、近付いてはすれ違って、俺たちはこれからも境界線上を歩いていく。  「咲クヨウニ、咲クヨウニ、か。意外と可愛いとこあるんだな」  「うるせえ」  「ついでに聞くけど、覚えてるか?二階からド派手な登場したとき、ミステリに興味ねーって言ったくせに俺とおなじの読んでたじゃん。さらっとネタバレしてさ。興味ねーくせになんで読んだんだ、前に言いかけてやめてずっと気になってたんだ」  「どうでもいいだろ」  「あーそういうこと言う、言うか!?一体だれのせいで学校中かけずりまわって手首ひねって切り刻まれてあげく爆弾解除までやらされたと」  「ーーっ、作家のファンだったんだよ」  「……はあ?はあ!?え、マジそんな理由!?」  「……純文の頃から買ってたんだ。ミステリーに転身して……読まず嫌いも何だし、試しに一冊……」  「ははっ、だからマイナーって言われて怒ったんだ」  「駄作だった。買って損した」  舌打ちしてそっぽを向く。   まだまだ話したりない、一晩中でもしゃべっていたい俺の方へコロンボが手をあげ近付いてくる。  「おしゃべり中申し訳ないがそろそろ行こうか、署へ」  「……やっぱ行くんすか?」  「親御さんにも連絡せんとならんしね」  「あ」  忘れてた。  刑事との攻防もむなしく、ぼろっと疲れきった教師聡史ユキちゃんがやってくる。  「せ、先輩たちふたりっきりになんかしませんから……行くなら俺も一緒に……間にはさんで……久保田の顔も見たいし」  「ど、どんぶり返さなきゃな……もったまま来ちまったぜ……」  「あんたたちねえ。パトカーはタクシーじゃないんだけどね……ま、いっか」  パトカーの扉にしがみ付く聡史をふたりがかりでひっぺがしにかかる部下、どんぶりもって猛々しく吠える担任とを苦笑で眺め回し、コロンボが悪戯っぽく口添えする。   「ま、思い詰めなさんな。ビデオ見た限りじゃ被害者だしね、きみ。……仮に、だ。これからは私の妄想だから、話半分に聞いてほしいが」  使い込み古びたトレンチコートの裾をひるがえし、なれなれしく寄り添ったコロンボが、両腕をまわして俺と麻生の肩を抱く。  俺たちの間に顔を突っ込み、頬ぺたくっつけるようにして小声で囁く。  「……爆弾作って送り付けたとしても、直接の死因が刺殺ならせいぜい器物損害程度の罪だ。未成年なら動機次第で酌量の余地もある。梶は札つきのワルだったようだし……殺されて当然とは言わないがね」  俺たちの肩を抱く手に有無を言わせぬ握力と重圧がこもる。  「手あらなまねはしたくない。自分の意志で署にきてくれるね」  眼光鋭く聞くコロンボ。  断固として真実を追う職人気質の横顔と、妥協を許さぬ眼差しに気圧され唾を呑む。  「いい」  「いいの!?」  「時間はたっぷりある」   肩をすくめ、コロンボをはさんで隣の俺に挑発的な一瞥をくれる。  「殺し損ねて死に損ねた。……生きてるんだから、生き続けるさ」   笑う。  「……気が合うな、俺も」  「決まり。さあ、乗ってもらおう」  コロンボに背中を叩かれパトカーに誘導される。  コロンボとその部下に背を固められ、手錠こそないが監視つき、逃げ場のない状況で歩調をあわせ歩けばジャージの切れ目に外気が染みる。  「―ッ、て!」  反射的に切り刻まれた腕を庇う。  歩みが一瞬遅れた俺を憚り、振り向く。  「……だいじょうぶか」  「気にすんな、かすり傷。俺をだれだと思ってる、部長だぞ」  「迷惑かけたな」  「かけたのは迷惑じゃなくて心配」  扉を開いて待つパトカーの方に顎をしゃくれば、聡史と担任とユキちゃんが手をふってはしゃいでいる。  パトカーのまわりにたむろう顔見知りと、隣を歩く俺とを見比べ、小さく呟く。  「……そうか」  「そうだよ」   麻生が軽く頷く。俺も頷く。ふたり歩調を合わせ、赤色ランプが点る夜の校庭を歩く。  パトカーに辿り着くまでの間がやけに長く感じる。  距離にしてたった十五メートル、されど十五メートル。  緊張に乾いた唇をちょっとなめて湿らし、ずっと気になっていたことを聞く。  「麻生さ、聞いていい」  「またか。今度はなんだよ」  「なんで爆弾しかけたんだ?……ほんとに死ぬつもりだったのか」   後ろの刑事に聞かれぬよう声を低め、深刻ぶって囁く。  敷島と心中するつもりだったのか、自殺するつもりだったのか。  「………それもいいかとおもってた」  ブリッジを神経質に押し上げ、自らの内面を覗きこむように深い目をし、俯く。  「部室にケータイかけてきた時……試合に勝って勝負に負けるか、試合に負けて勝負に勝つかって謎かけしたろ。あれ、どういう意味だ」  「ああ」  そして麻生は実にさらりと、なんでもないように言いやがったのだ。  白い息吐き、茫洋とした眼差しを虚空に投じ。  夜目にも白く血の気の引いた横顔をさらし。  「時間に間に合ったらお前の勝ち。間に合わず、俺が爆弾と一緒に吹っ飛んだら敗け。敷島を釣る餌でも建前上ゲームと銘打ったんだ、そんくらいしないとフェアじゃない」  「うん」  「で、二択。謎を解いて屋上にきたら試合は勝ち、でも爆弾ともども吹っ飛ぶ可能性あり。俺も爆弾も放り出して逃げたら試合は負け、けど結果的に生き残りゃ勝ちともいえる」  ……まさか。  「えーと、たんま。今の爆弾発言?」  「ダジャレ?」  「しゃれじゃなくて真剣に聞いてんの。な、いいか、もう一度聞くぞ。お前、ひょっとして、自殺とか心中とか深いこと一切考えず、大晦日の晩に俺を巻き込んだ手前自分も命くらいかけねーとフェアじゃねーとか、そんなねじくれた発想で爆弾しかけやがりましたか?」  動揺と混乱のあまり日本語が破綻する。  俺の指摘で初めて自分の矛盾した行動が腑に落ちた様子で、レンズの奥の目に紛れもない賛嘆の光をやどし、こっちを向く。  「お前実は頭いい」  「馬鹿野郎!!!!!」  ぶん殴るのだけは一握りの理性で抑えた。  というのは嘘で、俺が渾身の力でこのバカぶん殴ろうとこぶし振り上げたらすぐ後ろの刑事が組み付いて、よってたかって阻みやがるもんだからますます頭に血がのぼって、激しくかぶりを振り地団駄ふみ手足をふりまわし、躍起になって暴れ狂う。  「よく考えたらそれどっちにしたってお前死ぬじゃん、命危険じゃん、俺が間に合っても解除できるかわかんねーしもし違う線切ったらドカンじゃん、しかも俺のこと抜きにしても敷島呼び出しただけで十分危険だし、おまっ、ほんとなに考えたんだよ!!?」  「落ち着いて、けがしてるんだから!」  「はなせっ、コイツは泣くまでぶん殴る!!」  「勝ったんだし、間に合ったんだからいいだろ?」  「お前が死んだらどっちみち俺の敗けなんだよ!!」  懐から場違いな古畑任三郎のテーマが流れる。何回目だこのパターン。  足をむちゃくちゃ蹴り上げ暴れながら片手を懐に突っ込み携帯をとりだしメールをチェック、凍り付く。  『兄貴って絶対受けだよね?』  マリからメールだった。  「受け……?」  わけわからん。  怒りもどこかへ吹っ飛びしばし黙考、妹がよこした謎の暗号に頭を働かせ、刑事に肘固めくらったままメールを打ち返す。  『受けってなんだ?』  返信終了。  大人しくなった俺を力尽くでパトカーまでひきずる刑事一同、ユキちゃんと聡史と担任が心配げな顔で見守る中、また携帯にかかってくる。   即座に通話ボタンを押す。  「あのなマリ」  『イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、なんでユキにかけたつもりが兄貴にとどいてんの嘘ウソ信じらんない新年一発目のドッキリって言ってよ!!?』  年明け早々ハイテンション高音粋な絶叫が右耳から左耳を貫き、まわりの刑事たちも耳を塞ぐ。  もちろんマリの悲痛な絶叫はタクシーのそばに突っ立ってた担任と聡史とユキちゃんにも聞こえたわけで。  「マリちゃん、また間違えて透ちゃんにメールしちゃったんだ……」  ユキちゃんがぬる~い笑みを浮かべる。  『え、ウソ、そこユキいんの?なんでユキがうちのバカ兄貴と一緒にいんの、警察にいたんじゃないの、兄貴ユキんちにお邪魔してんの?てか攻め、じゃなくて友達はどうしたの、メガネクール攻め、じゃなくてメガネで優等生の麻生って人と一緒だって言ってなかった?』  『透?ちょ、貸しなさい!』  『ひどっ、私のケータイなのにお母さん横暴!』  電話のむこうで揉み合う気配がし携帯がひったくられる。  『あんたさっき電話くれたから待ってんのにちっとも帰ってこないじゃない、お母さんそばにラップして待ってたのにすっかり伸びきっちゃったわよ、どうしてくれんのよこのそば、食べちゃうわよ!?』  「食うなよ息子の年越しそば!?」  『もーあんたって子は、さっき突然ヘンな事言い出すもんだから釣られてしんみりしちゃってお母さん恥ずかしいわ。わかった、あれも作戦のうちね!帰りが遅くなるから情に付け込んで説教軽くしようって作戦ね、ケータイのむこうで計画通りな笑みを浮かべてたのね!?」  「お袋酷っ、しかも計画通りとかマリの漫画読みすぎだって!!ちがうって、話すと長くなるけどホント大変だったんだって色々!走り回ってくたくたであちこちけがだらけだしさー、今生きてるのが奇跡ってかんじ?」  『コンビニで立ち読みしてるんじゃないの?』  「おれ何時間コンビニで立ち読みしてんの!?」  『まさか家出?そうか反抗期なのね、さっきの電話は東京駅からで早速ホームシックなのね!?悪いこと言わないから帰ってきなさい透、入試のカンニングなら母さんもう気にしてないから!!』  「カンニング決定事項なのか!?」  『気にしないの?なーんだ。お母さん、私もこないだの期末で実は……』  『はあ!?あんたねーカンニングなんてクズよクズ、だから母さん裸の男の子が抱き合ってる漫画ばっか読まず真面目に勉強しなさいって言ってるでしょ!』  ……お袋、酷い。子供の人格全否定かよ。さっきのちょっといい話はなんだったんだ。  携帯ごしに壮絶な親子喧嘩をくりひろげる俺のそば、「透ちゃんは受けというよりむしろ総受けだとおもう」とユキちゃんが妙にもじもじし、「おばさんの説得ならまかしてください、むしろ菓子折りもって正式にご挨拶に!!」と聡史が気勢をあげ、担任が「お母さん心配させちゃだめだぞー秋山」と人さし指の上でコマの如くどんぶりを回転させる。  パトカーに乗り込もうにも乗り込めない状況でがなりたてれば、ふいに鼻がむずがゆくなりくしゃみを放つ。  「へぶしっ!!」  後ろから首にふわりとあたたかいものが巻かれる。  鼻の頭を赤くし隣をむけば、自分の首からむしりとったマフラーを俺に巻き、麻生がしかたなさそうに笑っていた。  俺の見た事ない顔で。  「ヘンな顔」   冷笑でも嘲笑でも蔑笑でもない。  六年前、圭ちゃんといた頃の麻生ならこう笑っていただろうという顔で、まだ多少ぎこちなさが残るけど楽しげに笑っていた。  鼻を人さし指でこすりむくれる俺をからかい、自分の首元を指さす。  「巻いとけ」  赤色ランプが点滅する。  「俺がやったんだぞ?」  「貸すだけ。やらないよ」  「……注文多いヤツ」  「友達にもらったんだ」  くしゃみをしかけ、びっくしりしてやめ、鼻に皺を寄せたへんな顔でまじまじ見詰める。  今の言葉を咀嚼し、反芻し、胸の内が幸せな感情に満たされていく。  担任が聡史がユキちゃんが口々に勝手を喚く中、とっととパトカーに乗り込んだ麻生を追って乞う。  「圭ちゃんのこと、聞かせてくれ」   「………いつかな」    時間はまだ沢山ある。  俺たちはまだ十七で、たった十七で、これからたっぷり未来へ助走する時間が残されてる。    死んでしまった人のこと、生きてる人のこと、一緒にいる人たちのこと。  俺たちがこれからどうなるかわからない。  このまま一生ずっと友達でいるのかいつかは境界線をこえてしまうのか、それはまだわからない。     圭の事。敷島の事。梶の事。  麻生が十七年間抱え続けたもの、六年間秘め続けたもの、その全部を知ろうとしたらこれからいくら時間があっても足りないし、その全部を知ったら、もしかしたら俺の手じゃ抱えきれないかもしれない。  それがどうした?  ひとりで持ちきれないならふたりで分け合えばいい。  「寒い。早く乗れ。外にいたんじゃドア閉められないだろ」  薄く目を開き、眠たげな顔で俺に手を貸す。  麻生が億劫げによこした手をしっかりとり、冷えきってはいても生きてる実感を与える体温と感触を確かめ、若干緊張ぎみに呟く。  「譲」  「なに」   「……別に。呼んでみただけ」  だらしなく笑って言えば、俺の手をにぎったまま、麻生がぐったりシートにもたれる。  「……おれを人殺しにしないようちゃんと見張っててくれよ」  ぬくもりをもとめむさぼるように、五本の指が強く絡んでくる。  「重いな、それ」  「お前が余計な事したおかげで生き残っちまったんだから、意地でも生きてやるさ」  「俺、圭ちゃんに似てる?」  「……ぜんぜん似てねー。圭ちゃんはもっと頭よさそうな顔してた」  「そっか」  「安心したか」  「ああ」  瞼を半眼にし、まどろみをたゆたいつつ、眠るのが怖いガキみたいに俺の手にすがる。  「……圭ちゃんの代わりなんかじゃないよ、おまえは」  「目障りとかどうでもいいとかさんざん言ってたじゃんか」  「目障りだよ。しずかに本読みたいのに、視界にちらつくと気になって集中できない。うるせーしすげー邪魔」  「どうでもいいは撤回する?」  一本とった。  ふてくされだまりこむ。  そっぽを向いた麻生のコートから赤い栞がたれてるのに気が付き、こっそり手を伸ばし、抜き取る。  「あ」  コートのポケットから抜き取った拍子に一枚メモがおちる。  麻生がコートのポケットに忍ばせていたのは、俺が誕生日に贈った古本だった。  ページの間から滑り落ちた紙片をかがんで拾い上げ、何の気なしに開く。    治リマスヨウニ  治リマスヨウニ  治リマスヨウニ  見慣れたへたくそな字で三行、同じ文がくりかえされていた。  「返せ」  俺の手から凄まじい勢いでひったくり、また本にはさんでコートのポケットに突っ込む。  「持ってきたのか」  「……処方箋」  ぶっきらぼうに呟く麻生の頬が薄赤く上気してるのを察し、得した気分になる。  くすぐったいようなこそばゆいような、浮遊するようなこの気分に名前を付けると、幸せとかになるんだろうか。   そっぽを向く麻生の手をしっかり握って、パトカーに乗り込みがてらひそかに気に病む。  男友達の横顔に無性にキスしたいっていうのは、やっぱりへんなんだろうか。   「……答えを出すのは先でいいか」    目を閉じると何度でも浮かぶ光景がある。  図書室二階の窓枠を蹴り、軽々ととびおりる麻生の姿。  ボーダーラインを越える事を一切躊躇しないいさぎよさ。     「なあ麻生」  「なんだよ」  眠たげな声で答える。  腕の怪我は浅いといってもほかにも傷だらけで、敷島と揉みあって体力は底を尽きて、今にも眠りにおちてしまいそうに瞼が危うい。  睡魔と戦いながら面倒くさげに聞く麻生の隣に腰掛け、じっと横顔を見つめる。  「四月、図書室の二階からとびおりてきたろ。かっこつけて」  「………ああ」  「あの時とおなじこと、今、できるか」  「できるけど、しない」  「なんで?」  「お前がいるから」  俺の手をまさぐり、寝言と境界線が曖昧な独白をもらす。  麻生の手と俺の手が繋がり、平行線が円に結ばれ、距離がゼロになる。  「………おまえがいるなら、ここがいい」    ここでいい、ここがいい。  前者と後者は全然ちがう。  前者は妥協だが、後者は意志だ。  麻生譲はボーダーラインのこちら側にとどまることを自分の意志で選んだ。  頭をあずけて規則正しい寝息をたてはじめた麻生を気遣い、凭れあうようにしてまどろむうちに、今度こそ完全な寝言を聞く。  「………秋山」  「…………いいよ。名字で譲歩する」  麻生に肩を貸し、自分が笑ってることに気付きながら目を閉じれば、バタンとドアを閉じ最後に乗り込んだコロンボが微笑む気配が伝う。  「………寝顔はガキだな」  俺たちは境界線上を歩いていく。

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