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リバーズエッジ 中
「うっ……」
ゆっくりとベッドに押し倒す。
電気を消したからお互いの顔は見えない。
ただ、感触と熱と息遣いだけが空気を震わせて伝わる。
「馬鹿だな」
「なん、だよ」
「馬鹿が風邪ひかねーなんて迷信信じるな。いくら馬鹿だって雨の中突っ走ってくるような無茶したらひくに決まってんだろ」
「ばかばかいうなよ……せっかくヤる気になったのに台無しじゃん。興ざめ」
馬鹿と口癖のように連呼して、熱い体を服の上からまさぐる。
湯上がりのせいなのか、風邪のひき始めのせいか、やっぱり体温が高い。
肌はしっとり汗ばんで手のひらに吸い付く。
顔が見えないのが惜しい。今どんな顔してるんだろうと妄想が働く。
服の上から触れただけで身が竦む、びくつく。まずは硬さをとるのが先だ。
服の上からの愛撫をやめ、騎乗の位置をずらし、闇の中秋山の顔を手挟む。
手探りで秋山の顔を抱き、真ん中に固定する。
「こないだの、怒ったか」
「………ああ」
「まだ怒ってるか」
「……舌、火傷しちまったし。突然すぎるんだよ、お前。ドッキリかと思った。前触れなく……制服汚れちまったし、あれ、とるの苦労したんだぞ。薄く染み残っちまったし。黒で目立たねーのが救い」
「染み抜きは主婦の知恵」
「いい嫁さんになるって?嬉しくねえよ、男が男に言われても」
「そうだな」
秋山が吹き出す。つられて俺も笑う。声には出さず、顔を緩めただけだけど。
笑い方なんてもう忘れちまった。
俺は子供の頃からほとんど笑った覚えがない。
圭ちゃんがそばにいた時はどうだったろう、笑っていたのだろうか。
長く時が経ちすぎて、それさえ忘れてしまった。
たった六年。
人が骨から灰になって、俺の記憶が燃え尽きて灰になるのに、十分な時間。
俺は記憶の残骸でできている。時々そんな気がする。
何を見ても何も感じず、何を食べても味けない。
からっぽの残骸でできているから、ちっとも上手く笑えない。
「………今度はちゃんとやるよ。真面目に」
「やっぱふざけてたのかよ、あの時」
「真面目だったさ。……半分くらいは」
「てめっ!」
「閉じろ。舌噛む」
秋山がぎゅっと目を瞑り、かすかに頷く。
手に取るように怯えが伝わる。
接触を嫌悪する気持ちはよくわかる。
俺だって昔はそうだった。
圭ちゃんと会って、少しだけマシになった。圭ちゃんが死んでからは、どうでもよくなった。
秋山の顔を手で包み、唇の先端をついばむ。
唇の真ん中は少し膨らんでいて、一番感度がいい。
「う………」
秋山がシーツを握り締め、掻き毟る。膝がずり上がり、シーツを蹴る。
上唇を舌で舐め、下唇をなぞり唾で湿し、熱く柔らかな感触を味わう。
「初めては……女がよかった」
しめやかに涙の張った目で、怒りを滾らせた強気な表情で俺を睨みつける。
こいつらしい台詞。
間違ってもキスひとつで可愛く喘ぐようなキャラじゃないだろう秋山をなだめつつ、窄めた舌先で唇をつつく。
「キスは受け身のほうが気持ちいい」
「お前の唇……やっぱ苦い」
「さっきコーヒー飲んだからだろ」
「うがいしてこい」
「逃げを打つ気か。もう黙れ、深くできない」
羞恥に目を潤ませ頬を染め、弱々しく抗う秋山を押さえつけ、舌で口をこじ開ける。
口は入り口。最初に開く場所。
「ふぐ、ふぁ、ふ」
強弱つけて唇を吸う。
俺が舌を絡めようとしてるのに気付き、最初は拒む。
嫌悪感から、というよりは恐怖心から舌をひっこめるも、秋山が逃げるのはわかっていたから、さらに押す。
とろみのついた口の中を舌でねちっこくかきまわす。
口腔の粘膜をほぐす感覚で舌を使えば、秋山の声が微妙に変化し、息切れが激しくなる。
顔が次第に赤くなっていくのを確かめ、物足りない唇を放す。
「ちゃんと息吸え」
「できね……よそんなこと、無茶言うな。初めてなんだぞ、その、舌絡めるヤツは!呼吸のタイミングわかるか!」
「酸欠手前で凄んだって迫力ねえ」
俺の貸したシャツのへばりつく薄い胸が、細切れの呼吸にあわせ浅く上下する。
手の焼けるやつだ。
暗闇に慣れつつある目で秋山を見下ろす。
汗ばむ額にまとわりつく前髪の奥、恍惚と潤んだ目に悔し涙を湛える。
唇をごしごし擦って感触を消したいのを我慢する歪んだ表情で、秋山が呟く。
「お前……上手いな。紐解くってかんじ」
「紐解くの使用法間違ってるぞ」
「たとえだよ。舌だけでなんか、上手く言えねーけど、体中の細胞がほどけてく感じがする」
「口は敏感だからな」
「口内炎とかできると痛えもんな」
「色気ねえよ」
「悪ィ」
あまり反省してない様子で謝る。
砕けきった雰囲気を仕切り直し、再び押し倒す。二人分の体重を受けてベッドが弾む。
ふたりじゃれあうように縺れ合い、互いの目をまともに見る。
シャツの裾に手をかければ、秋山がなにか言いたげに下半身をもぞつかせる。
「待てよ、心の準備が」
「待たねえ」
抗議を無視しシャツを毟れば、筋肉なんて殆どついてない、薄くなめらかな腹が露出する。
剥き出しの貧相な腹筋に手を這わす。
秋山が息を呑み、嚥下の動きに合わせ腹筋が収縮する。
「待て、麻生待て、待て待て」
起き上がり、位置をずらす。
秋山のあせった声は聞こえないふりをし、直接へそに口づける。
「―っ!!」
もどかしげにシーツを蹴りたてるつま先が突っ張り、背中が撓る。
へそを中心に円を描くように唇を移動させ、余った手で腋腹をくすぐってやれば、頭上の吐息が淫蕩な湿り気をはらんで浅く弾む。
「やめ、麻生、へそ……そこ、っ、なんか、変で……痒い、くすぐってえ……」
しゃっくりじみてヒステリックな笑い声が降ってくる。
へその窪みを出発点に、反応を見ながら徐徐に高度を上げていく。
へその上へ上へと唇をずらして移せば、秋山の反応はそのたび大きくなり、胸板に到達した時点で頂点を迎える。
「!っあ、やめ、あそう……」
「シーツじゃなくて俺を掴んどけ」
強張った指を苦労してこじ開け、俺のシャツに移し換える。
親離れできない子供みたいに必死な力で、皺が寄るほどシャツの端を掴む秋山の胸板を、ざっと観察する。
「傷、のこんなくてよかったな」
何を言われてるか思い当たり、赤面する。
ボルゾイの仲間に廃工場に拉致られた時、安全ピンで刺し貫かれた乳首の傷は、見た限り完全に塞がっているようだ。
あの時、廃工場に踏み込んだ時。秋山は手遅れになりかけていた。
俺の到着があと少し遅れていればボルゾイたちに輪姦されていた、一生消えない傷をおっていた。
ボルゾイと仲間に取り囲まれ服を毟られ乳首に悪趣味な針を通された秋山の泣き声と、黒い目隠しに遮られていても苦痛に歪んでいるのがはっきり判る悲痛な顔を思い出し、感情が昂ぶる。
「!っひあ、」
喉が仰け反り、悲鳴が迸る。
秋山の華奢で色白の胸板に存在する突起を片方、舌で舐め、口に含む。
上唇と下唇で挟んで転がせば、秋山が面白いくらい跳ね上がって、抗議とも懇願ともつかぬ頑是無さでシャツを強く握り締める。
「そこ……舌やめろ、頼む……」
「やめていいのか?芯を苛む熱は持て余すほうがずっと辛い」
「うあ、あっ、うあっ」
「右より左のほうが感じるんだ、お前」
ちりちりと理性が燻り、本能が目覚める。欲望に火が付く。
二度と思い出したくないボルゾイのゲスな顔が秋山の泣き顔に被さって、あいつに組み敷かれ泣く秋山を思い出し、腹の底が煮立つ。
痕はもう残ってない。あれから数ヶ月たって、ボルゾイにつけられた痣や傷は綺麗に消えた。
だけど。
廃工場に響く悲痛な嗚咽と絶叫と、ボルゾイに嬲られ喘ぐ秋山の姿が、網膜に焼き付いて離れない。
「麻生………?」
訝しげな声で我に返る。秋山の乳首を責めつつ物思いに耽っていたらしいと気付き、自嘲する。
シャツの圧力がぱっと消失、行く先をいぶかしむ暇もなく、秋山の手が俺の頬を包む。
「………気にすんなよ。お前のせいじゃねえよ」
いつもいやになるほど鈍いくせに、なんでこんな時ばっかり鋭いんだ。
時々気遣いが嫌になる、洞察力にいらだつ。
急に黙りこくった俺の様子を見て、秋山はきっと、勘付いたのだ。
俺が自分を責めていると。
もっと早く到着していれば、救い出せていれば、秋山がボルゾイに嬲られる事はなかった。
廃工場の時だけじゃない、美術室の時だって。
「お前、ちゃんと間に合ったじゃん。感謝してる。初めてがボルゾイじゃさすがに報われねーもんな」
本当に間に合ったのだろうか。
もっと早くこれなかったのか、助けられなかったのかと、疑問が尽きない。
俺がもう少し急いでいれば、早く梶を説得し後藤と連絡をとって現地にむかっていれば、秋山は無事ですんだかもしれない。無傷で奪還できたかもしれない。
秋山がこの先ずっとトラウマを抱えて悪夢に苦しむ事も怯える事もなかったのに、こいつは一言も責めない。
俺に気を遣ってるんじゃない。
本当に、心底俺を恩人だと思っているのだ。
「………秋山………」
何か言おうとして、言葉が途切れる。
頬を包む手のぬくもりが声を封じる。
「俺さ、お前にずっと言わなきゃって思ってたことがあって。今、いい?」
こんな状況じゃなきゃきっと永遠に言えねーしと、照れ隠しと後ろめたさが綯い交ぜの軽口を叩く。俺も無愛想に軽口を返す。
「改まってなんだよ、気色わりィ」
「その。ごめん、な」
「は?」
「あの時……お前の誕生日、一緒に帰った時、梶の車から庇ってくれたのに……一緒に土手転げ落ちて……お前の痣見てテンパってさ。酷いこと、言った。した」
俺の頬を包む手は、どこまでも優しい。
まだるっこしい前戯を中断し、目を細めて秋山を見詰める。
「……梶がつけた痣見て、カッとして、気付いたら手が出てた。おもいっきりぶん殴ってた。寒空の下、草むらん中に押し倒して」
「今と逆だな」
軽口で冗談にするつもりだったのに、秋山は首を振る。
「……ちゃんと謝ってなかったから、言っとこうと思って。ずっと謝ろうと思ってたんだけど、怖くて。お前、全然触れねーし。今さら蒸し返されんのいやかもって、だけどそんなの逃げで、本当は俺のせいで……あんな酷いこと言ったんだから、絶交されたってしょうがねえのにさ」
「絶交しようと思ったらだれかさんがしつこく追いかけてきたんだ」
「そうだっけ」
「そうだよ。夜の学校に乗り込んで、息切らして駆けずりまわって、ボーガンで殺されかけても懲りずに、屋上まで」
「諦め悪いんだよ、俺」
「知ってる」
「………悪かったな。痛かったろ」
「別に。大して力ねえし、お前」
「そうじゃなくて……」
俺の頬を包んでいた手を軽く拳にし、コツンと胸をぶつ。
「ここ」
どういう顔したらいいか分からず、だまりこむ。
秋山は悪戯っぽく歯を見せ笑っている。ころころと表情が変わって、見ていて飽きない。
秋山を押し倒し、シャツを胸まで捲り上げ、裸身をむさぼる。
胸に腹にせわしく口をつけ、淫らにぬめる唾液の筋をひく。
「あっ、あっ、あっ」
下腹部を重点的に舐めるうちに秋山が切ない声を漏らし、俺の肩を掴んで沈めるまねをする。
秋山のズボンに手をかけ、下着ごと引き摺り下ろす。
下肢が冷ややかな外気に触れ、秋山がびくりと身を竦める。
体に絡みつく服が鬱陶しい。
秋山に跨り、シャツを脱ぐ。
無造作に床に捨てる。
秋山が一瞬目を見開き、恐怖と怯えが入り混じった顔に猜疑の色を浮かべ、俺の裸の背にそろそろと手を持ってくる。
ぎこちない抱擁。ただの真似事。童貞にテクニックなんか期待しちゃいない。
ぎこちなく俺の背をさぐる手は無視し、膝を立てて開かせれば、秋山が哀しげに呟く。
「……火傷のあと、消えねーな」
秋山がちょうど手をおいた肩甲骨の下あたりに、丸く煙草の火傷のあとが残る。
以前、梶にふざけ半分で煙草をおしつけられたことがある。
お前はあまり声を上げない、表情を変えないからつまらないと、大勢が見ている前でうつぶせに組み敷かれ煙草で焼かれた。
丸く死んだ皮膚をさすりつつ、自分の物でもない痛みを反芻し、悲哀の翳りを目にちらつかせる。
同情はいらない。
背の火傷をさする秋山の手はとても優しくて、俺の痛みを自分の中に取り入れて癒そうとしてるのがわかったから、咄嗟にはねのけることができなかった。
「いいよ、別に。誰にも見えねーし、服着ちまえばわからねえ」
「だけど、痛いだろ」
「心がか」
「……夏休み、泊まった日。俺、ホントはおきてて。お前の裸見て、びっくりした。傷だらけ、痣だらけで」
「引いたか」
「怖かった。そこまで痛めつける悪意が」
衣擦れにかき消されそうな声で本音を漏らし、不器用に俺を抱きしめる。
「びびって逃げて……しらんぷりで。あの時、火傷の原因ちゃんと聞いとけば、追い詰めずにすんだのかなって」
「考えすぎ。余計な事に気を回すな。聞かれたってとぼけたよ」
「ちがう、そうじゃなくて、お前が……あんな怪我してたのに、知らんぷりで、そんでダチとか親友とか偉そうなこと言ってたのが恥ずかしくて、自分に腹たって。だってずるいじゃんか。明らかに人に付けられた傷なのに、酷いけがなのに、俺、自分可愛くて、お前とこのままでいたいとか関係壊したくないからとかこじつけて逃げて、最悪だろ……そんなの」
背の火傷を何度もさする。慰撫する。俺の痛みを自分の中に取り込んでろ過し浄化しようとする。
もう痛くないのに。
痛いって感覚を、上手く思い出せないのに。
「いいから。もう黙れ。わかったから」
「わか、わかってねえよ、全然……俺のなにがわかるんだよ!?」
「逆ギレかよ。興ざめ」
「―っ、じゃあとっととどけよ、萎えたんだろ、俺に……ど、童貞だし、さっきから寝転がってるだけだし、されてばっかでお前のこと全然気持ちよくしねえしできねえし、幻滅してんだろ、どうせ。悪かったなミステリーオタクで、そっち方面の知識だけ鉄板で、どーせ俺はディープキスの呼吸のタイミングもわかんねえ童貞だよ!」
うるさく吠え立てる秋山の口を手のひらで塞ぎ、もう片方の手を裸の股間にもぐらせる。
「!―んっ、」
前をいじってやれば、手で塞いだ口から甘い喘ぎがもれる。
「………興奮してるじゃねーか」
毛の薄い股間をのぞきこみ、男も女も知らない淡く上品な色合いのペニスを軽くしごく。
他人の手でされるのは初めてらしい秋山が顔を横に倒し、今にもこぼれそうな涙目で、必死に声を堪えている。
「お前、の、せいだよ……あんなキス、反則だ……」
「キスだけで勃ったのか」
「言うなよ……」
陰茎に指を絡め、緩急つけてしごく。
指使いを激しくするにつれ反応も良くなり、秋山の腰がもっともっととねだるように揺れだす。
理性では抑えられない腰の揺れと羞恥とに引き裂かれ、秋山が片腕で顔を遮る。
男も女も知らない性器は殆ど子供みたいなものだ。グラデーションも淡く皮が剥けた先端を指でさんざんじらしてやれば、鈴口に透明な雫がにじむ。
「麻生、や、さわんな、もう出……」
「口でしてやろうか」
試しに聞けば、ちぎれんばかりに首を振る。男にフェラチオされるのはプライドが許さないのだろう。
ため息ひとつ、先走りの汁をすくってこね回し、潤滑剤にして一層強くやすりがける。
「ふあっ、あっ、あふ」
快楽に溺れる喘ぎ声。シーツを掻き毟り蹴立て身をよじるごと前髪が散らばって上気した顔を隠す、赤く染まった流し目の媚態に自制をなくす。
麻生、麻生と、呼ぶ声がする。
縋るように拒むようにシャツを握る手に力がこもり、俺の技巧に身を委ねきる。
ボルゾイやその仲間に無理矢理導かれた経験こそあれど、合意の上で行為に及ぶのは初めてなのだろう秋山は、自分ではどうしようもない体の反応に混乱しきって、俺の腕を目一杯掴む。
熱く湿った息遣いが混じり合う。
赤く腫れたペニスを、糸引く先走りを絡めた指で執拗にいじくりまわす。
「―ああっ!」
射精の瞬間、勢い良く仰け反る。
俺の手の中に白濁を吐き出し、ぐったり脱力し、ベッドに横たわる。
「………寝るなよ、秋山。自分だけよくなっておしまいか」
弛緩した体を仰向けに投げ出し、呼吸を整えるに必死な秋山を、体重かけて押し倒す。
「………痛くしないでくれ」
片腕で顔を覆ったまま、願う。
「わかってる」
もう一度キスをする。秋山は不器用に応じる。
力の抜けた足を従順に開かせ、肉に埋もれた排泄の窄まりを探り当てるー……
「………秋山?」
上体を起こす。名前を呼ぶ。返事はない。
濡れた手をシーツで拭き、サイドーブルの眼鏡をとり、顔に掛ける。
軸がぶれていた視界が徐徐にクリアになっていく。
ひそやかな息遣いと衣擦れの音が耳につく。闇に包まれた部屋の中、すぐ近くから、くぐもった声がながれてくる。
「泣いてるのか?」
軋む喉からこみ上げる嗚咽。
片腕でしっかり顔を覆い、意固地に首を振る。
片腕を掴みむりやり暴こうとすれば、思いがけぬ強さで払われる。
「……いいから、早く……してくれ」
いつもの秋山らしくない弱りきった声。
片腕に遮られた表情がどんなものかは想像するほかないが、少なくとも笑っちゃいないだろう。
秋山は拒まない。今なら抱ける。
下半身丸裸で仰向けに寝転がった秋山。びっしょり汗をかき、濡れそぼった髪とシャツとが健康的な肌にしどけなくはりつく。
シャツが吸いつく胸が浅く上下し、嗚咽の塊が通りゆく喉が、いびつに震える。
「何があったんだ」
怯えさせないよう音に注意してのしかかり、額にへばりつく髪を人さし指で梳く。
「早く、抱け……っ、してくれ……頼む、麻生、もう忘れたい……やなこと忘れてえ……俺に何があったとか、どうでもいいから、早く、たのむ」
相変わらず片腕で顔を隠したまま、もう片方の手で耐え切れず、俺の腕を揺する。
感情の堰が決壊したように身を乗り出し叫ぶ秋山、痛々しくも壮絶な剣幕に、静かに言葉を返す。
「しらんぷりして流すのが優しさだとか、かっこつけんのやめたんだ」
後悔は、六年前にたっぷりした。
「麻生、」
「話せ、秋山。どうしたんだ?」
今の秋山を抱いても嬉しくない。
秋山は俺に抱かれたがってるんじゃない、一番安易で短絡な方法で慰めてもらいたがってるだけだ。
一番安易で最低な方法で、俺に依存してるだけだ。
抱くのも甘やかすのも簡単だ。
だけどそれは慰めじゃない。
快楽に溺れて逃げても哀しみは癒されないし、苦しみは酷くなるだけだ。
「自暴自棄になるな。悩みがあるならちゃんと言え。お前、さっき言ったろ。もうごまかしたくないって、逃げるのはいやだって。俺だってそうだよ、そうじゃないとでもおもったか?」
「麻生……」
「お前が本気で抱かれたがってるかそうじゃないかぐらい判る。今のお前は抱きたくない、これはただの自傷で自虐だ。自分を痛め付けてやなこと忘れようとしてるだけだろ、記憶喪失になりたいだけだろ?そんな事に俺を利用するな。そんな事のために……」
一回口を閉ざし、当惑しきった秋山を、まっすぐ見据える。
「俺を逃げ道にするな」
理由を聞かず黙って抱いてやるのが優しさだとか愛情だとか、そんなのはただのこじつけだ。
そんなふうに抱いた所で対症療法でしかなくて、効果が消えればもっともっと強い薬が欲しくなって、きりがない。
そんなふうに抱いたところで、こいつを想う飢え渇きは満たされない。
自分に嘘をつき、こいつに嘘をつき。
体だけ手に入れたところで、やがてその欺瞞に嫌気がさす。
「………麻生……」
「話せよ、秋山。最後まで聞くから」
片腕で顔を覆う秋山を起こし、その頭ごとぽすんと手で包んで抱き寄せる。
逃げるのは簡単だ。
自暴自棄になるのも簡単だ。
俺は妥協を望まない。
夜の校舎を走り回って、屋上にぶらさがった俺を現実の側に引きずり戻した秋山に、自分の価値を貶めるようなプライドのない真似を許さない。
秋山は俺の友達だから。
こいつとはいつでも対等でありたいから。
「麻生……俺、おれ、悪い、お前のこと……好きだけど、正直まだ怖くて、びびって、いざ本番てなると勝手に震えて、決心つかなくて。嫌いじゃない、ホント、信じてくれ。畜生、なんか全然想像してたのとちがう、はは、もっとかっこよく決めるつもりだったのに……笑って、余裕で……あれ、もうイッちまったのって、いっつもすかしたお前を逆にやりこめてやるつもりだったのに……い、一方的にやられっぱなしで、かっこ悪いよなー……はは。ボルゾイとか……ごめん、あいつらのこと……正直、まだ吹っ切れてなくて……お前は違う、あいつらとは違う、麻生は麻生だってちゃんとわかってんのにさ」
違う違うと、自分に言い聞かせるように思い詰めて繰り返す。
秋山の後頭部を片手で包み、ちょうど顎の下に抱き寄せて、しばらくふたり凭れ合う。
「ちが……じゃなくて、ごめん……行くとこなくて……お前の顔、真っ先に思い出して……頼りっぱなしで、何もできないのが悔しくて、俺ができることってなんだろうって考えて、抱かせてやることぐらいしかできなくて。お前ならいいやって、シャワー浴びながら……想ったんだ、一度は」
今はそれで十分だ。
その言葉を聞けただけで、十分だ。
「不十分だよ、それじゃ」
秋山が物問いたげに俺を見る。
「『お前じゃなきゃだめ』なんだよ、俺は」
欲しいのは妥協じゃなくて、意志だ。
俺は秋山と一緒に歩きたい。逃げ道になりたいんじゃない。誰かの逃げ道になるのもされるのも、もうごめんだ。
黙って見て見ぬふりするのは優しさじゃない、ずるさだ。
暗い部屋の中、黙って秋山と抱き合う。互いの体に手を回し、直接肌を合わせ、ぬくもりを貪る。
「………麻生、ごめん。ちょっと、泣いていい?」
「いちいち断るなよ」
こいつのためにできることはなんだろう。
俺を助けてくれたこいつに返せるものは何だろう。
こいつが今暗闇の中にいるなら、泣き終わるまで、せめて寄り添ってやろう。
何時間でも、何日でも。
熱い涙が胸板に染みていく。俺の胸に顔を埋め、身を丸め、秋山は啜り泣く。
お世辞にもキレイな泣き方とは言えない。
鼻をうるさくぐずつかせ、みっともなくしゃくりあげ、やり場をなくした拳を俺の胸に当て、泣く。
「……っ、俺、さ……俺なりに頑張ったんだ、よろしくされたから、勝手に出ていっちまったヤツのぶんまで……なのに、今さら……ありかよ、畜生」
秋山の頭を不器用になでる。
人の頭をなでた経験なんてないから、やりかたはこれでいいのか自信がない。
「泣けよ。泣いちまえ」
「ひぐっ、めちゃくちゃだよ……ひっ、高校生、なのに、もう十七なのに、鼻水、恥ずかし……だけど、俺、帰りたくないよ、あんな家、お袋も妹も捨てて金もって女と逃げたヤツの情けに頼って大学なんか……」
「父親が帰ってきたのか?」
秋山は激しく首を振り、俺の胸にしがみついて、洟を啜りつつつっかえつっかえたどたどしく話す。
「………今日、手紙が届いた。学校から帰ったら、ちょうど配達がきて、郵便受けにカコンて落ちた音がしたから……覗いてみたら、差出人不明で。あてさきは、家族全員になってて。直感っていうのかな。妙な胸騒ぎがして、靴脱ぎながら破いてみたら……中、万札がぎっしり詰まってて。数えたら、全部で三百万あって。あとから手紙が出てきて……お袋と一緒に開いてみたら、なんか、見慣れた筆跡で、字、覚えてて。親父からで、」
「うん」
「……俺と真理の進学費用にしろって。笑っちゃうよな、今までずっと音信不通だったくせに。金だけ送りつけて、今さら罪滅ぼしかよ?」
秋山が家出した原因が判明した。沢田から聞いたとおりだ。
「……俺、それ読んだ瞬間カッときて。クソ親父の作った金で大学なんて行きたくねえ、冗談じゃねえって、お袋と真理の説得も聞かずに飛び出して……気付いたら、お前んとこ来てた」
数年ぶりに父親から届いた手紙には、学費にあてろと、札束が詰められていた。
秋山がやり切れなさげに俺の胸を叩き、深々とうなだれる。
「……帰りたくねえよ。もうとっくに割り切ったつもりだったのに、今さら……後先考えず飛び出してきちまって、お袋や真理にどのつら合わせたらいいかわかんねえ」
「大学、行きたいのか」
「行きたくねえよ」
「父親の金じゃなかったらどうだ」
虚を衝かれ、顔を上げる。間抜け顔をじっと見返し、冷静に問う。
「お前、ほんとはずっと大学行きたかったろ」
「な、に?」
「半笑いでごまかすな。本音くらいお見通しだよ」
「行けるわけねえじゃん、俺の頭じゃ絶対むり」
「ばかなふりしてるだけで実際はそう悪くない。真性のばかだったら、あんな冴えた推理できない」
秋山は鈍感だけど、けっしてばかじゃない。むしろ利口な方だ。
「わかってるんだよ、秋山。お前、そうやってわざと諦めようとしてたろ」
「うちが貧乏だから行きたくても行けない」と家族に負い目を抱かせるのをよしとせず、勉強を放棄し、学業不振を口実に進学を断念する道を選んだ。
秋山は優しいから。お人よしだから。どこまでも家族思いだから。
時として、間違った優しさを発揮する。
「……テストに珍回答書き込んだのも、勉強さぼりまくってんのも、親や担任に変な気遣わせないためだ。だいたい入試で上位だったのにたった二年で劇的に頭悪くなるかよ。半端に成績よかったら担任は進学を勧める、だけどそれは無理だ、家に金がない。だからわざと低空飛行……」
秋山が突如立ち上がる。
ベッドから飛び降りるや慌てて服を身に付け、ドアを開け放ってから、遠目にもはっきりわかる真っ赤な顔で怒鳴る。
「やっぱソファーで寝る!」
乱暴にドアを閉じ、近所迷惑な足音をたてリビングへ駆け去る。
秋山を見送ったあと、上半身裸でベッドに寝転がり、ジーパンの尻ポケットに突っ込んだ煙草をとりだし、くわえてみる。
暗闇に沈む天井に紫煙が一筋昇っていくのをけだるく目で追い、無気力に手足を投げて呟く。
「………ばーか」
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